第一章 真の父母とは (天聖経 縮約版 - 第二冊 真の父母)

訓讀王 | 20191215102433

真の父母 True Parents

 

一、真の父母とは

 

一)真の父母という言葉の意味

 

真の父母という言葉は、人類始祖から歴史的にすべての人間が過った血統の中に生きることを清算してしまい、神様を中心として、新しい本然的な根を中心とした、愛と生命と血統がつながるという意味を中心として言う言葉です。

 

二)真の起源

 

この天地間に真なる方がいるならその方は神様だということです。 

神様は、地上の良い人も好きで、悪い人も好きです。これは、神様が真であるためにそう言うのです。 

真なる方は好きな者だけ好むのではなく、自分を殺せと言う怨讐までも好まなければなりません。

真なる人とは、悪い人もいちばん好み、良い人もいちばん好む人です。

 

真の起源

 

真は、必ず神様が中心となるべきです。

真の起源は、神様であられます。

それゆえ、真だ、善だという名詞は、人間を主にして立てられたのではなく、神様を主にして立てられたのです。

このような観点から真を立てて、そこに順応すべきです。

 

真として連結しうる起源は、人間たちが歩んできた歴史の背景にあるのではなく、これを超越した位置にあるのです。

 

真は、必ず絶対的基準です。それゆえ、真の動機は、神様でなければなりません。

 

真が止まりうる場所は我々の生活の周辺です。真なる国の天国は、心の中にあるのです。

真がとどまりうる所は、自分の心の深い位置です。

 

三)真の原器

 

真なる心は、変わりません。 

愛には革命もなく、変化もないのです。

 

この宇宙で測定しうるすべての存在がその等差位置を決定したいその本来のもの、神様もそこに従うことができ、全体がそこに従わざるをえない一つの基準が何か?それが愛というものです。 

 

真理が何ですか? 真です。真が何か? それ以上基準として数えられないという、その位置に立ったものを真理と言います。 

 

真理の中には、必ず東西四方があるのです。真理があるときは、必ず環境があるのです。 

真なる人間は「縦に見ても合う。横に見ても合う」と言える、その基準にならなければならないのです。 

 

四)真と真の愛

 

真ということは、一定の場所を超越することを言います 

 

それはすべての物を比較できる主体性を持つべきです。

真なるということは時空に従って変わりません。

我々人間において、千年、万年、億万年変わりえない色を持った、そのような真なる男、真なる女を探しているのです。

 

五)真の父母は何か

 

  二つの石板と真の父母

 

イスラエル民族を荒野で導くとき、火の柱と雲の柱があったのです。  

また、モーセをシナイ山に呼び上げて、四〇日断食をさせて二つの石板を与えました。それはアダム・エバ、真の父母を象徴したというのです。

 

我々の願いが何か? 神様は縦的な父母であり、アダム・エバは横的な父母ですが、縦横の父母が一つになって喜びうる場で、愛されうる息子娘になるのです。

人類の初めての始祖が堕落したために偽りの父母になりました。それで、真の父母が出て来なければならなりません。

 

これが救世主という存在であり、メシアという存在です。

救ってあげるには、理想的な愛の願いを成してくれるのです。

その救いを成してあげるには、メシアは、真の父母として来なければなりません。

 

真の父母の定義

 

真の父母は何か? 

神様は、内的な場で内的な父母になり、アダム・エバは、外的な場で外的な父母になります。神様と人間との愛の結託により、真の父母、完成した人間が成就されるのです。 

 

真の父母という方は原理結果主管圏と直接主管圏、すなわち間接主管圏と直接主管圏を皆経て、責任分担を完成した位置で、神様の愛を中心として一体の理想を成した父母です。

 

真なる父母の前には、真なる子女がいなければなりません。

真の父母を知らなければ、真の子女ということは分からないのです。

 

すべての問題の起源が、偽りの父母から始まったために、真なる父母の因縁を中心としてのみ、復帰されうるのです。

真の父母を中心としてこそ、初めて神様の心情と一致しうるのです。 

それゆえ、その心情、その人格、その生活観、その国家観、その世界観を全部引き継がなくては、中心となる位置に立てないのです。

 

心も重要で、体も重要です。もっと重要なことは、私の体と心の統一圏です。

体のようなものがアダム・エバなら、縦的な心のような父の位置にいるのが神様です。

心のような神様と、体のようなこの方が一つになるには、何で一つになるか?愛です。

 

六)我々が知るべき「真の父母」の語義

 

  真の父母という言葉は貴い

 

真の父母という観念の中には悪なるサタン世界を救う、救いの観念がこもっているという事実を知るべきです。

 

・真の父母という言葉は誇るべきでありとてつもない

 

真の父母というその言葉は、皆さんの立場は悲惨であっても、数限りない先祖たちとともに、あるいは万民解放圏を持った栄光の位置で褒めたたえる以上の価値を持った、誇るべき言葉であるという事実を皆さんは知るべきです。

 

神様に侍ることのできる位置だと言うときは、それ以上の栄光の位置はないというのです。 

 

真の父母だけが堕落圏サタン世界を貫いて、上がっていくことができる一つの基地です。 

 

・真の父母という言葉は驚くべき言葉

 

我々は人類始祖の堕落によって、我々の故郷を失ってしまったということです。また、国を失ってしまい、世界を失ってしまったのです。もっと進んでは、神様まで失ってしまい。神様の愛までも失ってしまったのです。このような膨大でとてつもないすべてを、再び探しうる起源が真の父母というのです。

真の父母という言葉は天地の何よりも貴い言葉です。

 

真の父母という言葉は恐ろしい言葉

 

「真の父母」という言葉は、神様もサタンも恐がる言葉です。

この真の父母という言葉一言のために、歴史が左右されます。今まで数多くの先烈たちが血の闘争を経て、身悶えし、絶叫しながら希望を抱いて探し出した名前が、真の父母という聖なる名前です。 

 

 

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真の父母 True Parents

 

一、真の父母とは

 

一)真の父母という言葉の意味

 

我々統一教会員たちが平素使う言葉のうち、「真の父母」という言葉があります。その言葉は簡単な言葉ですが、その内容は実に驚くべきことです。歴史以来、どんな図書館にもありません。真の父母という言葉は、も易しい言葉ですが、その言葉は我々だけが持っている言葉であり、我々だけが使う言葉です。

 

皆さん、考えてみなさい。キリスト教が二千年の歴史を経てきながら、人類の先祖が堕落したとしたら堕落した父母は偽りの父母、悪い父母で、堕落しない父母は善の父母であり、真の父母ということがいっぺんに分かるのに、それを今まで発表できなかったのです。それは、発表できる、この時を待ってきたのです。

 

過去の歴史時代に、真の父母ということを考えた人がいるかもしれませんが、その背後がどうだということまでは解く道理がなかったのです。統一教会の膨大な原理の全体の内容を備えずしては、それを確実に解けないので、誰も簡単に真の父母という言葉を言うことができませんでした。原理のみ言、あるいは、我々が知っている統一教会の歴史観、また、人類の本然的な根源に対する事実を明らかにしたということは、驚くべき事実です。

 

真の父母という言葉を確実に知ることによって、何が分かるでしょうか? 我々人類の始祖の堕落が不倫な関係によってなされ、神様と関係ない、創造理想を立てようとした真なる父母と関係ない、血統的な因縁を残したということです。すなわち、過った血筋を受け継ぐようになったということです。

 

 それゆえ、真の父母という言葉は、人類始祖から歴史的にすべての人間が過った血統の中に生きることを清算してしまい、神様を中心として、新しい本然的な根を中心とした、愛と生命と血統がつながるという意味を中心として言う言葉です。これは本当に驚くべき言葉です。(二〇一・六〇)

 

二)真の起源

 

「真」とこの天地間に真なる方がいるならその方は誰でしょうか? 絶対者です。この絶対者を、今日我々の韓国語で言うと「お一人しかいないご主人様」ということです。一人(韓国語でハナ)しかいないご主人様をもっと縮めて言うと、神様(ハナニム)になります。お一人しかいないご主人様が、神様だということです。 

 

では、神様はどんな方か? 神様は、地上の良い人も好きで、悪い人も好きです。罪を犯して死刑場に出て死ぬようになる死刑囚も「神様! 私をかわいそうに思って下さいませ。私はあなたが好きです」と言って死ぬでしょう? そうですか、違いますか?(そうです)。「神様、私は死ぬ!あなたが私をこうなるようにした!」(笑い) そう言いますか?(言いません!)  では、どうして神様の前では、悪いことをして死んでいく立場にある人も、良い心で犠牲になって再出発に希望を誓いながら、その神様の前に 高に寄与し、また頼り、彼とともにいたがり、内心では父母を離れ、兄弟を離れ、誰よりも切に近くで事情を通じたがるかというのです。これは、神様が偽りだからそうですか、真だからそうですか?(真だからです)。真であるためにそう言うのです。 

 

真なる方は好きな者だけ好むのではなく、自分を殺せと言う怨讐までも好まなければなりません。彼の前には、すべてを任せることができ、すべてを相談したくもあり、すべてを願うこともできる立場にある人であってこそ、真なる人です。分かりますか?もう真なる人が分かったでしょう?(はい!)

 

では、お嬢さんたち、今まで育ってきた過程で、憎い人がいましたか、いませんでしたか?(いました)。では、憎い人がいる人は、真なる人ですか、偽りの人ですか?(偽りの人です)。ここの男たちも憎い人がいる人は、真なる人ですか、偽りの人ですか?(偽りの人です)。間違いなく偽りの人です。では、この世界には偽りの人が多いですか、真なる人が多いですか?(いつわりの人が多いです)。偽りの人が多いでしょう?(はい)。これをはっきりと知らなければなりません。

 

真なる人になろうとする人なら、両面を備えているべきです。統一教会の輩たちが、私を好きな人はとても好きで、私を憎む人は積極的に憎んだら、良い輩ですか、悪い輩ですか?(悪い輩です)。

 

百六

 

それで、私を憎む人も好もうというのです。私を憎む人を私が好めば、その人が嫌がりますか?(好みます)。好むのです。私を憎む人に私が三回以上良く接てあげたら、彼が頭を下げるようになるのです。三回だけ良くしてやれば、頭を下げます。そうか、そうでないか、一度やってみなさい。人には良心があって、自分が過ったのかよくやったのか分かるのです。(三九・三〇二)  

 

皆さん、我が国には良い人が多いでしょう?世の中には立派な人がたくさんいます。偉人もいます。それなら、大韓民国の偉人は誰ですか?大韓民国の「偉人」と言えば、大概誰を言いますか?(李舜臣将軍です)。そうですか。李舜臣将軍! 李舜臣将軍も偉人です。皆さん、李舜臣将軍が好きですか、嫌いですか?(好きです)。全部好きですか?(はい)。

 

では、李舜臣将軍が真なる人ですか、そうではないですか?(分かりません)。分からないでしょう。分からないのに好きだというのです。ですが、先生はそのように好きではありません。私がこう言うから「おかしい。あの方はなぜああ言うか?我が国の忠臣を嫌うとは。では、あの人は共産党か、民族反逆者か?」と言うかもしれませんが、私は李舜臣将軍が嫌いです。なぜ嫌いか知りたいでしょう? 答えてあげましょう。(笑い)

 

「李舜臣将軍」と言えば、韓国人すべてが、忠臣として知っています。しかし、日本人はどう思っていますか?怨讐ではありませんか、怨讐? 日本人は、李舜臣将軍を怨讐と思うのです。これは、日本の歴史の本にも明らかにされています。李舜臣将軍は、日本人の前には怨讐であり、韓国人の前には忠臣だということです。それで、先生は彼が好きでないのです。

 

「真」ということは、英国に行っても真であり、ドイツに行っても真であり、アメリカに行っても真であり、韓国に来ても真であり、アフリカに行っても?(真です!)日本に行っても?(真です)。真になるべきなのです。

 

ですから、真は怨讐がないのです。真は好きでない人がいないのです。一方では好きで、他の一方では嫌うのは、完全な真になれないのです。そうでしょう?

 

李舜臣将軍が、完全な「真なる人」であるなら、日本人も韓国人とともに偉人として、真の人であれば真の人として崇拝すべきです。しかし、真なる人の基準で見ると、李舜臣将軍は完全な真ではないということです。少しは真になれますがね。大韓民国を中心として見ると真ですが、日本を中心としてはそうではないのです。ここに異議がありますか?異議がありますか、ありませんか?(ありません)。私は真なる人を願うので、李舜臣将軍のように真になりきれない人は好きではないのです。

 

では、この世の中で真なる人はどんな人か?前で言ったのと同様に、悪い人も好み、良い人も好む人です。良い人がいちばん好きな人を、悪い人はいちばん憎むべきですか?悪い人もいちばん好きな人でなければなりません。ここには良い人と悪い人が混ざっていますが、願って希望することは、すべて最高

 

百七

 

ものです。 高を皆好むのです。皆好むということは、良い人も好むのであり、悪い人も好むということです。そうでしょう?(はい)。

 

それゆえ、悪い人だといって嫌ったら真ではありません。悪い人も 高に好み、良い人も高に好むべきなのです。これが真なる人の定義です。真なる人とは、悪い人もいちばん好み、良い人もいちばん好む人です。そのような者がいれば、その方が真なる方です。ここに異議がありますか?ないでしょう?(はい)。(三九・三〇一)

 

真の起源

 

 真ということは、個人に限ってあるのではありません。全体を越えに越えて、適用され、全体を越えに越えて価値的な因縁を結ぼうとするのが真なのです。真は誰もが好み、誰もが探すものであるために、どこにでもなければならないということです。(六三・八九)

 

我々は個人の目的のために集まったのではなく、全体の目的のために集まりました。それゆえ、自分個人より家庭のために、家庭より民族、民族より国家、国家よりまず世界のためであるべきです。また、自分個人が真になる前に、家庭が真になるべきであり、さらには国家、世界が真になるべきです。

 

人間は、自分個体としては、すべての福が動機になりえない復帰路程に立っています。では、その動機は何か?真です。人間が真なる姿を成すには、すべて生死禍福の根源であられる神様と関係を結ぶべきです。その関係を結ばなければ、人間個体内では真なる姿を成しえません。

 

真は、必ず神様が中心となるべきです。それで、人間は、全体的に収拾して主管しうる決定的な基盤を持つようになるとき、真が成されるのです。その基盤を持てなければ「真」という名詞は成立しえないということを知るべきです。

 

真の起源は、神様であられます。神様がおられることによって、真が成されます。神様が離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。

 

真があってこそ、真なる結果をもたらすことができます。言い換えれば、神様がおられることによって、神様の願いが成されうるということです。それゆえ、真だ、善だという名詞は、人間を主にして立てられたのではなく、神様を主にして立てられたのです。 

 

このような観点から見ても、真は人間が勝手に考えることができるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が我々を主管しているということを知るべきです。それゆえ、我々は、いつも真の前に屈服すべきです。真を立てて、そこに順応すべきです。皆さんの現実的な生活や、あるいは良心生活を推し量っても、真は完全に天に属しているという事実を否定する道理がないでしょう。

 

百八

 

我々は、祈るとき、「真なる神様、天におられる聖なる神様」という言葉を漠然と習慣によって言う場合がたくさんあります。しかし、本当の意味での真は、今までありませんでした。それがなかったので、真として連結しうる起源は、人間たちが歩んできた歴史の背景にあるのではなく、これを超越した位置にあるのです。そこから出発するのです。すなわち、その起源は、環境を超越した位置から追求しなければいけないので、宗教は人を中心として信じていくのではありません。

 

もちろん、教祖を中心として信仰の標準を立てておいていく人たちもいます。しかし、それを超越した立場から、神様を介在させ、真を追求してくる人たちもいるのです。これを見るとき、歴史過程を経てきた数多くの人間の生活路程においてや、現実社会においても、真の起源を持てなかったということです。

 

人間自体に連結された位置からは、真の起源を備えることはできません。真は、必ず絶対的基準です。それゆえ、神様、あるいは絶対者、神という問題がここに登場せざるをえません。それはなぜそうなのか?今まで地上に真の愛がなかったためです。それゆえ、真を指向しながら生きる人自体としては、真の動機になりえません。その動機は、神様でなければなりません。必ず宗教や、人類歴史上において、後の重要な分岐点に行っては、神が登場します。絶対者が必ず必要になるのです。

 

哲学が追求する目標、すなわち、真理を通じて 後の目標について追求していったり、あるいは、存在の起源を掘り下げていっても、必ずここには神という問題、超越者、絶対者という名詞が介在するのです。それはなぜそうなのか?絶対者と関係を結ばなくては、すべての学問や、すべての存在価値の起源が解決できないからです。それで、人間たちが、深刻な場では必ず真を通じて解決しようとしたのです。

 

このような事実を、我々は否定することができません。それゆえ、真の起源は、人間だけでなるのではなく、必ず絶対者、神様が介在すべきなのです。真を主張する宗教は、神様を離れては考えることができません。真を主張する人倫道徳も、神を否定できません。

 

ですから、孔子も「順天者は興り、逆天者は滅ぶ」と言ったのです。天を中心として言った言葉です。必ず天を介在させなければなりません。その興亡盛衰の起源が、人間自体にあるのではなく、天から左右されるのです。このような事実について見るとき、天が動機になりうる起源が備えられなくては真になりえないので、この地に生きている人類の中で、真なる人がいるかということが問題になります。

 

では、真が止まりうる場所はどこか? 勿論、天が起源になって真の位置を地上に立てようとされるでしょう。これは、神様の願いです。

 

それで、人間のどこにとどまるかということが問題になります。我々の生活の周辺にとどまるのです。それでイエス様も「天国は汝の中にある」と言われたのです。真なる国の天国は、心の中にあるのです。何らの邪心がない、深々とした谷に位置しているのです。

 

百九

 

我々の心の基礎を分析してみると、知情意になっています。その中でも、どこにとどまるか? 知情意のうち、何が根本であるかというとき、意でもなく、知でもない、情です。

 

皆さんは、自分にいちばん貴いものがあったら、それをどこに置きたいですか? 自分だけが知っている所に置きたいでしょう。そこは誰も触れられず、関与できない、すなわち自分だけが絶対的に管理しうる所です。そこがどこでしょうか?心の深い所です。心の深い所に埋めておくのです。ここであれば安心だと言える所に置くのです。すなわち、人々がよく貴重品を入れておくタンスのような所に置くようになるのです。このような点から見るとき、真がとどまりうる所は、自分の心の深い位置です。(二四・三一七)

 

三)真の原器


真なる心は、変わりません。それゆえ、それがなくては、皆さんが基準を立てられません。こうだああだと評価できないのです。宇宙の核ととともに、絶対的な基準に公証されうる内容の根を持てないのです。そうであると、そこに及びえないために、その及びえない基準から評価されたその存在は、流れていってしまうのです。

 

メーターのようなものも、その原器があります。それを中心として違っているのではないかということを判定することができるのです。全部問題が起きるなら、ここに合わせてみるようになるとき、ピッタリ合えば、それは万世に不平を言っていた人も一時に皆離れていくのです。(一八六・六六)

 

愛には革命もなく、変化もないのです。変わるものには貴いものがありません。ダイアモンドは、堅さにおいて変わらないためにそれが宝物扱いを受けるのであり、黄金は黄色い色が変わらない特異な権威を持ったために、その色が変わらないところにおいて貴いのです。真珠は、調和した色、優雅な色を持っていますが、それが変わらないために貴いのです。貴いという宝物を、なぜ変わらない特性を中心として策定したか? それが宇宙の万物の存在価値を比較できる基準であるからです。

 

では、この宇宙の測定で、全体を測定しうる価値基準、いちばん 初の基準が何になるか?それが問題です。金でしょうか、ダイアモンドでしょうか? それは変わらない愛、壊れない愛です。壊れるようですが、壊れません。勝手にできるようですが、勝手にできないのです。そこに自分が含まれるのです。そこに策定されるのであって、自分が策定できないのです。

 

この宇宙において、そのような原因中の原因になりうる度量衡や原器が何かという問に対して考えるとき、それはある測定器の原器ではなく、変わらない本来の物ではありませんでした。

 

神様もその標準を変更させることができず、人間も変更させることができません。永遠不変的でありながら、内外のその宝の価値を持ち、地の果てや、地獄や、天上世界や、どこでも昼夜を克服し、地域を克服し、距離を克服し、時空を克服して、その絶対的測定の基準になりうる、比較の基準になりうるものが何だろうか?

 

百十

 

地球にも緯度、経度において零点基準があります。それが英国のグリニッジ天文台を中心として、零点になっています。いくら変わらせても、変わらないのです。零点に照準を合わせたその基準、緯度・経度が会うことができるサの基準が、九〇度で交差していくというときに、その基準があるべではありませんか?それがなければ、秩序の世界が形成されないのです。

 

この宇宙で測定しうる永遠不変のすべての存在が比重を合わせて、その等差位置を決定したいその本来のもの、神様もそこに従うことができ、全体がそこに従わざるをえない一つの基準が何かという問題について見るときに、お金黄金の固まり? ダイアモンド?それは神様が創ることができます。神様が一人で勝手にできるものです。

 

愛も勿論神様が創ることができると見ますが、その愛を所有するということは、一人ではできません。二人、二人、二人が所有すべきです。愛は神様も一人では見出せないのです。

 

それゆえ、その基準、測定原器が何か? 宇宙万象の存在世界、永遠の世界で測定しうる絶対的に一つしかないその原器が何だろうか?根本問題です。それが愛というものです。それで、愛は春夏秋冬、季節の変化に影響を受けません。(一三七・二三五)

 

皆さんは、距離を測る尺度があるのを知っているでしょう。もし、一センチメートル単位なら、そのモデルというものは絶対的です。それは一つしかありません。そこに比較して、同じならそれは皆正しいというのです。しかし、いくら自分がいちばんだと言っても、そのオリジナル・フォーム(original form;原型)ときっちりと比較してみるとき、合わなければ不合格者なのです。

 

また、一センチメートルは一〇ミリメートルです。そこから一ミリメートルというものも絶対的です。それが一〇であれば一センチメートルになり、百であれば一〇センチメートルになり、このように上がっていくのです。それでこそ、それが連結して、どこへでもそれは共通的であり、統一的な内容を持ちます。

 

では、人の世界には、そのようなものがないか? 人の世界が統一されるには、原則的な基準から体と心が闘わず、一つになったそのようなフォーム(form;形態、形)が、「こうであるべき」というフォームがあるでしょう。(一二八・七八)

 

皆さん、メートルがあれば、そのメートルが一メートル、一〇〇メートル、いくら大きくてもそれが問題ではありません。そのメートルの基本単位が何か?一ミリメートルです。一ミリメートルはあまりにも小さいから、大概一センチメートルで言います。

 

いくら億万でも、その単位は一ミリメートルから全部合わなければなりません。これが合って、億万の数が全部きっちりと合って、一つも残らないですべてが一ミリメートルだったと言うようになるとき、それを今日我々は世界のものとして使用するのです。それは、アメリカの一ミリメートル、韓国の一ミリメートル、あるいは英国の一ミリメートル、すべてが同様です。変わりがありません。それが真理です。

 

皆さん、真理が何ですか? 真です。真が何か? それ以上基準として数えられないという、その位置に立ったものを真理と言います。ここに物理学博士も来ていますがね。物理学を勉強するには、自然世界のすべての動きを知らなければなりません。その動くものが、漠然と動きません。

 

皆さん、考えてみなさい。この地球がどれほど大きいですか? この膨大な地球が、一年に一回ずつ太陽系を巡回するのに、それが一分も差異がありません。一秒も差異がないのです。ピッタリ合うのです。それが差異があれば、大変なことになります。差異があれば、どんどん小さくなるか、どんどん大きくなるかという問題が起こるのです。そうなれば、陸地と海が全部分かれるのです。

 

地球の年齢は四五億年として決めるではないですか? 四五億年の間を動くのにおいて、異常なく公式的基準で、単位を中心とした公式基準の上に連結された運動と作動をしてきたのです。そこには何かの原理というもの、公式というもの、公理というものを中心として、測定する単位を必要とするのです。同様に、真というものが何か?真というものは、一つにも合いますが、千万を合わせてもきっちりと合うのです。

 

百十一

 

金の中で純金を言うときは、二四金です。二四金は、真の金です。そうでしょう? 二五金はありませんか?二六金はありませんか? それも問題です。このように見るとき、中央に立てて、均衡になりうるそのような位置を 小単位に、我々が視覚的なところにおいて 小単位として帰るとき、それに垂直的な平衡線上に合いうる…。これが垂直なら、これが平衡になるのに、このようになってはいけません。このようなものは、真ではありません。

 

それでも、二四金までは、これを入れればこれが直線になるのです。そのような基準圏内に立っているために、二四金が真だと言うのです。そこは垂直を持って合わせても、縦的基準の前に持って合わせても全部合うのです。宇宙的な縦の前に平行線として立ち、宇宙的な横の前にも平行線を成すのです。

 

宇宙の大運動、大運勢、それが漠然と動くのではありません。みな法度を中心として、主体と対象関係の循環法度運動をするところは、必ず垂直です。

 

その垂直が、二四時間変更されるものは、飛んでいってしまいます。流れていってしまうのです。壊れてしまうのです。垂直がピッタリと位置をつかんでこそ、そこで空間世界に自分の位置をつかんで存続の基盤を持つのが常なのです。このような言葉は、少し難しいでしょう。

 

同様に、我々人のはかりが何か? 人もはかりがなければならないでしょう。そうではないですか? 数学を解くには、世界的に共通の数理的基準を設定しておいたその基盤で「一つ」と言えば世界も「一つ正しい」と言い、「二つ」と言うとき「二つ」、「三つ」と言うとき「三つ」と言いながら正しいと言うでしょう。ある基準に合格した共通的な決議基盤が世界的舞台に立つようになるとき、そのようなものを真理と言うのです。

 

真理の中には、何があるか? 真理の中には、必ず東西四方があるのです。真理があるときは、必ず環境があるのです。では、環境が先か、真理が先か?これが問題となるのです。環境が先なのです。

 

我々人間を見るようになるときどうですか?そのような存在的な人間を中心として見るとき、真なる人間()がどのような人間かというのです。縦横の標準、「縦に見ても合う。ペチャンコにならなかった。横に見ても合う」と言える、その基準にならなければならないのです。 

 

縦横が一致してこそ、公式的法度上において、前後・左右・上下が差異がありません。同じです。この同じものを、どこに持っていって合わせてもきっちりと合うというのです。東でも合い、西でも合い、北でも合い、南でも合い、地上世界でも合い、霊界でも合う、というとき「真である!」というのです。

 

ところで、いくら大きくても、ミリメートルで測定してみたら、残ったものが半ミリメートルにもならなかったとしても、その全部は否定するようになります。不完全なのです。それはごみ箱に入るべきです。そのような何かがなければならないのではないですか?測定する基準がなければならないのです。(一八〇・一四)

 

百十二

 

四)真と真の愛

 

皆さん、真、トゥルー(true)という言葉は何の言葉ですか? それが丸いものか、角張ったものか、平たいものか?それの定義が何か? そして、真に対する定義を下すのに、何を中心としてその定義を下すのだろうか?

それが問題なのです。

 

皆さんが「真の人」と言うとき、その真の人はどのような人ですか? 真の人も目が二つあって、鼻があって、簡単なのです。目、鼻、口、体が皆ある人です。

 

では、トゥルー(true)ということは、真ということは、ある一定の場所の制限を受けることを言いますか、一定の場所を超越することを言いますか?(超越することを言います)。それがどのように?何を持って?

 

どうしてその制限線を超えなければならないか? それは何を言うのか? すべてを代表して測りうる内容を持たなければならないことを、我々は分かります。

 

皆さん、数学なら数学では公式を言い、物理なら物理では公理を言い、定義を言うのに、その定義がどのようなものか?公式というものは、それが小さなものですか? 公式の単位というものは、簡単なものですが、その公式的というものは、すべての物を比較できる主体性を持つべきです。それでこそ公式や単位の基準が設定されます。これを知るべきなのです。それが違えば、全体、小さい論理を策定して計算したのが、膨大な宇宙にピッタリ合わないのです。

 

我々が、このすべてのメジャー(measure;尺度)のようなものを見ても、一二進法とか一〇進法のようなものなどがあります。それが小さいですが、形態は皆ピッタリ合うのです。そうでなくては、これが回っていかないのです。全体が回っていかないのです。ある部分では合いますが、全体が合わないようになるときには、これが成立しないのです。全体存在の成立が喪失されるということを知るべきです。

 

それは、人間世界も同様です。真なる人が何か? 人間が生きていくのにおいては、スケール(scale)とメジャー(measure)のようなものがあって、力を連結させて、世界に拡大していくのです。それが全部均衡に合うように拡大するということです。

 

人間の人生は、人間が生きていく道にも、そのような公式的な道がなければならないという言葉が出てくるようになるのです。(一三三・九)

 

皆さん、今人間世界には、五〇億の人類が暮らしますが、この世界の地球村に暮らす人たちの先祖たちは、どれほど多く地上で生きては死んだナしょうか?それを考えてみましたか? 少なくとも現在に暮らしている人の何百倍、何千倍生きて死んだでしょう。では、その人たちの中で、人類が願う真なる人が何人いただろうか? 真なるということは、千年前も、今も、いつでも真です。

 

百十三

 

「純金」と言うようになれば二四金でしょう? それは地形的距離や、時空に従って変わりません。どんな立場に処しても、変わらないというのです。その姿は、王の手に行っても、どんな不良の手に行っても、どんな変化無双の環境に行っても、変わりえないのです。そのようなときに、黄金色を真なる色だと言うのです。分かりますか?(はい)。

 

黄金色好きでしょう? 色というものが何に似ているか? 黄金色に似たのです。そうではないですか?明るい色は、黄金色に近い色です。太陽の光も白い光ですか、黄金色が多いですか?(黄金色です)。夕焼けは、もっとそうです。

 

それゆえ、我々人間において、千年、万年、億万年変わりえない色を持った、そのような真なる男がいるか?これが問題です。真なる女がいるか? どう思いますか?

 

宗教界では、人間は堕落したと見ています。もちろん、背景が異なる宗教もありますが、全部救いを受けるために、価値のある新しい人間を探していっています。その言葉は、どういう意味か?真なる本然の人間、真なる本然の人間像に及ばなかったために、それをいつも追求するのです。それは、千年前も、何億年前も、今も、今以後の人類が存続するどんな環境でも、どんな時代も問わず、それを追求するようになっています。それを知るべきです。

 

皆さんたちも、その真なる人を探しているのです。真なる男、真なる女を探しているのです。歴史時代に生命を持って生まれた男女たちは、自他を問わずそこに首をかけて考えるようになっています。それゆえ、部落で暮らすようになれば、その部落でいちばん進んだ真なる人になろうというのです。(一七七・一〇〇)

 

五)真の父母は何か


  二つの石板と真の父母

 

イスラエル民族を荒野で導くとき、火の柱と雲の柱があったでしょう? 昼に導くのが雲の柱で、夜に導くのが火の柱でした。それは何を意味するか?男女を代表して終わりの日に父母が来て、イスラエル民族から侍られるのを象徴的に見せてくれたのです。この火の柱と雲の柱の導きに従わない人は、皆滅亡するのです  

 

また、イスラエル民族が荒野に出て四〇年さすらい、方向をつかめないので滅亡するのを心配して、モーセをシナイ山に呼び上げて、四〇日断食をさせて与えた二つの石板が何かというと、アダム・エバ、真の父母を象徴したという事実を知るべきなのです。

 

契約の箱の中にどうして二つの石板を入れたかというと、二つの石板は、神様のみ旨を終結することができる中心本部としてアダム・エバを象徴したのです。それで、契約の箱の中に入れたのです。(一三四・一七四)

 

我々の願いが何か? 神様は縦的な父母であり、アダム・エバは横的な父母ですが、縦横の父母が一つになって喜びうる場で、愛されうる息子娘になるのです。ところで、そのようにできなかったのが恨です。そうでしょう?そのような愛を一度受けてみたらという熱望を皆持っているというのです。宗教も全部そのようなものです。

 

縦的な神様と横的な面で一つになって、愛することのできる父母がこの地上にいたか?

 

百十四

 

いませんでした。堕落したために偽りの父母になりました。偽りの父母になったために、そのような父母がいませんでした。それで、真の父母が出て来なければならなりません。真の父母が歴史上に出て来なければなりません。

 

そのような歴史的指名を代行する一つの名詞を被せて呼ぶその存在が誰か? これが救世主という存在であり、メシアという存在です。

 

救ってあげるには、何を救ってあげるか?体を救ってあげるのではなく、理想的な愛の願いを成してくれるのです。

 

そうするには、どのようにしなければならないか? その救いを成してあげるには、メシアはどんな存在として来なければならないか?間違いなく、真の父母として来なければなりません。メシアは、真の父母として来なければなりません。イエスという方を、キリスト教ではメシアと信ずるのです。救世主として信じます。

 

真の父母として来るには、どのように来なければならないか? 一人ではだめなのです。真なる父に代わりうる一人の男として出てこなッればならないのです。今まで、数多くの宗教は、一人の男を探してきたのです。男の中でも、生活をよくする男を探してきたのが、儒教の教えと見ることができ、霊界を主にした男を探してきたのが、仏教の教えと見ることができるのです。

 

では、キリスト教は何か? 神様の息子になって、愛する家庭を作ろうというのです。もっと具体的な内容を持って来たのがキリスト教です。それゆえ、神様の前において「私はひとり子」だとイエス様が言われたのです。

 

ひとり子が出てきたのに、ひとり子が一人で暮らしたら大変なことです。ひとり女がいなければなりません。それで、ひとり女を探して、神様を中心として、ひとり子とひとり女が互いに好む場で結婚しなければならないのです。結婚して、神様が縦的な父母として喜び、横的な父母として喜びうる新郎新婦になり、地上で息子娘を産まなければなりません。そうしてこそ初めて、一族が広がり始めるのです。そういうことではないですか?

 

それゆえ、イエス様においてイスラエルの国に背いてでも、ユダヤ教に背いてでもいちばん必要としたのがありますが、それが何か?再び探しうる主体的動機が何か?まさに女です。男の前に女がなくてはいけません。

 

イエス様は、そのみ旨を成せなかったために死んでいきながら「私は新郎であり、あなたがたは新婦だ」と言ったのです。こうして、キリスト教では二千年間新郎であられるイエス様を待ち、キリスト教信者たちが新婦になろうと、もがいてきているのです。

 

その標準が何か? それがメシアですが、真なる父母の位置を持って合わせるのです。それが子羊の婚宴です、子羊の婚宴。(五八・二一八)

 

百十五

 

真の父母の定義

 

統一教会で言う真の父母は何か? これが問題です。堕落しなかったらどのようになるか? 堕落しなかったら、神様が縦的な愛となり、アダム・エバは何かといえば、神様の体になるのです。神様の体と同じなのです。神様は骨のようであり、アダム・エバは体のようなものだというのです。神様も心があり、体があります。分かりますか?(はい)。

 

そう、皆さんは、誰に似ましたか?(神様に似ました)。神様と?(真の父母に似ました)。真の人。神様とトゥルーマン(true man;真の人)に似ました。そうだといって、アメリカ大統領のトゥルーマンではありませんよ。(笑い)

 

神様は、内的な場で内的な父母になり、アダム・エバは、外的な場で外的な父母になります。内的外的父母が一つになったその場が愛で綴られて、内的父母に侍るようになり、外的父母を持つようになります。神様と人間との愛の結託により、真の父母、完成した人間が成就されるのであったというのです。愛と結託されないなら、完成人間がいないのです。 

 

それが何かというと、本然の我々の先祖であるのです。神様が創造された本然の人間です。そのような人から我々が生まれるのです。そのような神性を持った人により、我々が生まれなければならないのです。それゆえ、我々は神性を帯びた神様の性稟も持ち、人性を帯びた、神様の前の縦的な父母の性稟も持つのです。

 

ですから、アダム・エバの完成は、神様の愛に結ばれてこそ完成が出てくるのであって、これが結ばれなければだめのです。神様の縦的な愛と横的な肉的愛が、一点で結ばれたのが、まさに我々の先祖の血統の根です。分かりますか?(はい)。そこが、我々先祖の血統です。そこから全人類が生じるのです。

 

堕落のために、男の愛、女の愛、神様の愛が皆分かれました。堕落によって、男の愛、女の愛、神様の愛が結ばれませんでした。

 

堕落しなかったら、自動的に結ばれます。男女は愛で結ばれます、自動的に。なぜ、男女が一つになろうとしますか? 愛のためにそうです。愛で一つになった後に、何をしようと言いますか? 神様の祝福を受けようというのです。それが目的です。(一八四・七一)

 

摂理の時代を見れば、復帰摂理は終わりの日を通じて成されるのです。始まりから終わりに近づけば近づくほど、宗教の目的が成される時代が来るのです。その宗教の目的が成されうる後の時が、父母様が現れる時だというのです。

 

その父母は、真の父母ですが、真の父母という方はどんな方か? これが問題です。真の父母という方は、我々の原理で教えてくれているように、原理結果主管圏と直接主管圏、すなわち間接主管圏と直接主管圏を皆経て、責任分担を完成した位置で、神様の愛を中心として一体の理想を成した父母です。歴史上初めて、神様と人間が愛を中心として一体の理想を成して、神様の愛の理想が、初めて地上に真の父母の家庭を中心として着陸し始めたのです。

 

百十六

 

堕落することによって、この真の父母の理想が壊れてしまったのです。アダム・エバが責任分担という使命を前にして原理結果主管圏、すなわち間接主管圏から直接主管圏に橋を置いて、これを皆完結しなければならなかったのに、そうできなかったのです。それによって、サタンがこの間接主管圏内を侵害し始めたのです。これを知らなければなりません。これを知らなければ、あの世へ行って登録できないのです。(一四三・七六)

 

真なる父母が一体何ですか?(愛の中心です)。何ですか? この宇宙が生じて以来初めて、真なる愛が、理想的愛がスパーク(spark;誘発する)しうる出発点というのです。これを知るべきです。それで真なる父母というのです。

 

では、真なる父母の前には、何の息子娘がいなければならないか?(真なる子女です)。では、真なる子女は、何のために真なる子女ですか?その真なる父母の 初の愛を受けるのに十分な内外の美を持った息子娘というのです。(一二五・一六六)

 

トゥルー・ペアレンツ(true parents;真の父母)、トゥルーマン(true man;真の男)、トゥルーウーマン(true woman;真の女)は何で、トゥルーチルドレン(true children;真の息子娘)が何か? 全部「トゥルー」を出して入ってこなければならないのです。根を神様を中心として連結しなければなりません。

 

愛を持って、上にいる神様が下に行くとき、愛は直短距離に行くために、その道は一つしかありません。バーチカルライン(vertical line;垂直線)は、一つしかないという結論が出てくるのです。(一八九・一九八)

 

統一教会で言う「真の父母」という言葉は何ですか? トゥルー・ペアレンツ(true parents;真の父母)が何ですか?(神様が真の父母を指名されたのです)。神様が真の父母を指名した、それはどういう意味ですか?それが何かというと、神様の愛が初めて人間世界に着陸したということです。真の父母が起点だということです。それを知るべきです。  

 

では、着陸した真の父母がレバレンド・ムーンなら、レバレンド・ムーンがアメリカに来て、真の父母になりましたか?どこで真の父母になりましたか? どこで、どこで?(韓国です)。何が?(韓国です!)韓国を誰が知ってくれますか? ですが、知ってくれても、知らなくても、砂漠でも木の枝でも、岩の塊でも、神様の初愛が着陸した所は、貴い所になるのです。(一三〇・一一一)

 

真の父母が何か? 神様の愛を核としたその愛を中心として、アダム・エバが完全に絶対的に一つになって、出発しうる初の我々人間先祖だったのです。それをはっきりと知るべきです。真の父母を知らなければ、真の子女ということは分からないという結論が出てくるのです。(一三五・一六一)

 

百十七

 

歴史的な核心になり、時代的な核心になり、未来の核心になる人は何か? 言い換えれば、歴史について見るときは、歴史的な実であり、時代について見るときは、時代的中心であり、未来について見るときは、未来的な起源になりうる、世界主義思想の中心は何であろうか?それは、真なる男と、真なる女です。  では、その真なる男と真なる女の生活観は何であろうか? 世界のために甲斐を持って生きるのです。二人が愛するのは、世界のために愛するのであり、息子娘を産むのも世界をもっと愛しうる動機を作るため産むのです。

 

このような思想が、我々が今主張している思想です。このような内容を皆さんが細密に知っているかわかりませんが、私が知っている立場で見るとき、横的なすべての立体的な世界を中心として見ても、縦的な世界歴史全般を中心として見ても、必ず歴史はその基準で解明されなければいけないのです。それは、自動的な結論として出てくるのです。(二五・一四七)

 

堕落の起源がどこですか? アダム・エバ、すなわち一つの父母から始まりました。アダム・エバが堕落して、偽りの父母になったことによって、すべて問題が起きるようになったのです。このために、心情問題、血統問題、人格問題、言語問題、生活問題、国家問題、世界問題が生じたのです。

 

では、これを一度に蓄積させることができ、このすべてを総合することができる真なる基準は、どこから始まるのか?これは、ある宗族圏内で成されるのではなく、社会圏内とか、国家圏内で成されるのでもありません。世界圏内でも絶対不可能なものです。すべての問題の起源が、偽りの父母から始まったために、真なる父母の因縁を中心としてのみ、復帰されうるのです。

 

真の父母という名詞を中心としてこそ、初めて神様の心情と一致しうるのです。真の父母を中心として、本然の血統が始まり、真の父母を中心として、本然の人格が始まり、真の父母を中心として言語が本来の位置に帰り、真の父母を中心として生活が本然の形態に帰り。真の父母を中心として本然の国家形成が起こり、真の父母を中心として本然の世界が成されるのです。

 

では、この全体を総集約した核心的な母体が何か? 真の父母です。真の父母ひと方によって、すべてが決定されるのです。それゆえ、その方のすべての思想を自分が全部引き継がなければいけません。その心情、その人格、その生活観、その国家観、その世界観を全部引き継がなくては、中心となる位置に立てないのです。(二八・二四八)

 

真の父母を抜いては、教育もあってはならず、生活の基盤もあってはなりません。分かりますか? 真の父母と完全に一つにならなければならないのです。

 

一つになることは、何かというと、「真の父母の生活が私の生活であり、真の父母の理念が私の理念であり、真の父母の仕事が私の仕事であり、真の父母の愛の圏が私の愛の圏である」このようにならなければならないのです。皆さんはそうですか?(四四・一四五)

 

百十八

 

真の父母は人格の実体


歴史上の聖賢たちの中で「私は人類歴史において、人間たちを代表して、体と心が闘わず完全に統一を成したので、私を見習え」と言う人がいましたか?学校の教育で見れば、倫理生活について責任を受け持たれた教授たちも多いのに、何が重要かというのです。  体が重要か、心が重要か? 心も重要で、体も重要です。もっと重要なことは、私の体と心の統一圏です。それが重要なことです。それがだめな人は、いくら世界が統一されたとしても間違った人です。(一四二・三二五)  

 

今皆さんは、体が違い、心が違います。では、これがいつ一つになるだろうか? 今、人類歴史路程において、体と心が闘うのを自分が統一させると、体と心が闘うこれを統一させると言える人は出てこなかったのです。

 

パウロのような人も嘆息したでしょう。「心の法と体の法、二つの法があって闘うので、私はなんとみじめな人か。この死の法から誰が私を解放するだろうか?そこにはただイエス・キリスト、神の愛で…」まさにそう思ったのです。主イエス・キリストの中にいる神様の愛によって解放されるのです。(一六四・四一)

 

心と体が一つになれない原因がどこにあるか? 神様はどんな方かといえば、この宇宙の根本となる縦的な愛の主体です。その重りが地に降りてくるようになるときに、神様一人ではだめです。いくら神様といっても、愛を下すには水平線でこの基準を引き出すことができる力が必要です。

 

電気が強いと、マイナス電気が地上に近くに来るようになると、近い所で雷が落ちるのです。そうではないですか?降りてこなければなりません。高い所にあっても、降りてこなければなりません。同様に、高い愛が降りてくるには、地上にマイナスの愛が、まず生じなければなりません。マイナスの愛がまず生じれば、プラスの愛は自動的に生じるようになっています。それがペア(pair;双)になっています。  

 

作用するこの世界には、必ず対応と反作用があるのです。互いに対応し、互いに作用する反面に、反作用があるのです。一般の人たちは、この反作用が対応する力の作用に反対すると見ますが、そうではありません。反作用というのは、対応した存在を保護するために作用します。こうしてこそ、理論的に善悪のすべてが解決するのです。善を中心として悪というものに対して保護すべきであるという論理を見出さずには、歴史時代の善悪対決の歴史を処理する方法がないのです。

 

神様はどこを通じて往来するか? 縦的な愛が設定されなければなりません。その縦的な愛が縦的価値を持つためには、横的な基盤が築かれて入ってこなければなりません。

 

男女もそうではないですか? 皆さんが分別のないときは、何も分かりませんが、大きくなると女も世界を持とうとし、男も世界を持とうとします。ですから、そのような世界を持とうとするときは、どのようになるか?このように行ってはいけません。どこへ行って会わなければならないか?すっかり大きくなって、成熟して、会わなければならないのです。そうするには、世界が自分のものであると言える位置まで出なければなりません。

 

百十九

 

「これを占領しなければならないな」と言いますが、占領するには、自分の力をもってしてはできません。愛でなければだめなのです。その愛の力があるために、男にも女にも世界征服のための理想と夢があるのです。皆さん、世界全部を自分のものとしたいでしょう?天があれば、見えない世界があれば、その見えない無限の世界までも自分のものとしたいでしょう?なぜそうですか? 縦的な欲望、横的な欲望があるためです。

 

横的な欲望は、横的な世界である地球星全体を自分のものにしようとし、縦的な欲望は、この宇宙を自分のものにしようとします。分かりますか?体は制限されています。地球星の限界線を脱することができません。しかし、縦的な世界は、いくらでも大きくなります。  

 

そのようなことを見るとき、心の位置を代表しうる父が神様であり、体の位置を代表しうる父が、堕落しなかった真の愛を中心とした人類の始祖であったということです。体の位置を代表する父が人類の始祖になるべきなのだ! 分かりますか?(はい)。

 

統一教会では、歴史時代に分からなかった事実を探って、このような自体を対置して対応しうる名詞として聞いて使う言葉が真の父母というのだ!(アーメン!)ですから、横的な真の父母の位置が本来創造した理想観として見る神様の息子娘の位置であったというのです。アダム・エバの位置であったということです。ですから、神様は何ですか?体のようなものがアダム・エバなら、縦的な心のような父の位置にいるのが神様です。

 

心のような神様と、体のようなこの方が一つになるには、何で一つになるか? 力ではなく、知識でもなく、権力でもありません。何ですか?(愛です)。愛です。  我々の心的な人格、体的な人格が本来一つになりうる原則的モデルに似たのが私個人であるために、原則的根本を訪ねてみるときに、体のような父がいなければならず、心のような父がいなければならないのです。そこで、心的父の位置が神様の位置であり、体的父の位置が人類の始祖になるのです。

 

では、人類の始祖と心的父である神様が、どこで一つになるのか? どこで一つになりますか? 真の愛を中心として、愛の球形の中で核の位置で一つになるべきなのです。縦的なものを中心として男女は訪ねていくのです。(一七七・三三七)

 

六)我々が知るべき「真の父母」の語義


  真の父母という言葉は貴い

 

 皆さんは、真の父母という言葉がどれほど重要な言葉であり、どれほど貴い言葉であるかということを知るべきです。皆さんの国と大統領、先生、父母、兄弟は信じられなくても、真の父母だけは信ずべき義務があるのです。分かりますか、何のことか?(はい)。真の父母という観念の中には、地獄とか、悪なるサタン世界を救う、救いの観念がこもっているという事実を知るべきです。

 

百二十

 

これを考えなさい。皆さんが、サタン世界で死ぬしかない立場にいるのに、父母がいて皆さんの死の前に盾となりうる力となってあげることで、天地が公認し、歴史が公認しうるとしたら、それはどれほど誇るべきことですか?神様が保障し、歴史が保障する真の父母! みなさん、そうですか? 真の父母という言葉がどのように出たきたか、それを知るべきなのです。

 

レバレンド・ムーンが真の父母になるんだと、このことを始めたのではないのです。レバレンド・ムーンを持たずしては仕事ができないから、仕方なくこの仕事をしているのです。分かりますか?(はい)。(一一六・一一三)

 

・真の父母という言葉は誇るべきでありとてつもない

 

 今まで我々継代の立場は、我々千万代の先祖たちが皆復活して、その復活した栄光を褒めたたえるとしても、それは堕落圏を脱しえない栄光であり、褒めたたえでした。

 

しかし、今日統一教会で言う真の父母というその言葉は、皆さんの立場は悲惨であっても、数限りない先祖たちとともに、あるいはこの地に勝利をもたらして万民解放圏を持った栄光の位置で褒めたたえる以上の価値を持った、誇るべき言葉であるという事実を皆さんは知るべきです。父母様に会った中で、神様に会うことができる道が連結するのであり、統一教会に出会ったこの位置は、遠くない将来に、神の国と父母様の願う祖国を探しうる道が連結しているという事実を知るべきです。

 

今まで人類は、生まれた国が違い、文化背景が違い、国境を異にして自分たちの祖国だと言いながら、歴史的な先祖たちが暮らしてきて、今の我々も暮らし、後孫たちも暮らすでしょうが、それは全部が堕落圏であることに間違いないのです。  皆さんは、その堕落圏を蹴って出て、今日の勝利を先祖たちとともに、自分の一族とともに、未来の後孫の前に誇り高く褒めたたえうる、勝利の栄光を褒めたたえうる、愛の祖国を探すべきです。その愛の祖国の中で、愛の父母を持つことができ、それだけでなく、祖国の中心である神様がおられるなら、神様に侍ることのできる位置だと言うときは、それ以上の栄光の位置はないというのです。皆さんはそれを知るべきです。(一三八・一〇六)

 

メシアは何か? 神様の愛を完成したアダム格であるために、本然の父の資格として来るのです。

 

 それゆえ、その父を中心として、母がセンターとして、神様の本然の愛を中心としたその基盤を中心として、個人、家庭、氏族、民族、国家基準までの所有権が、真の愛を中心としてメシアのものとなった後に、国家のものであり、国民のものであり、家庭のものであり、個人のものであるという所有権版図が広がらなければならないのです。

 

ですから、メシア本然の愛が、初めて個人から国家まで形成されて、ローマと世界までその波紋が伝播されていたら、今日の再臨思想はありえなかったのです。

 

百二十一

 

このように見るとき、アメリカが神様の愛の圏に属した国か? どうですか?(違います)。ご覧なさい。この地球上に、そのような過程を通過した国があるか?(ありません)。そうなのです。キリスト教を中心とした数多くの教会が、このような神様の愛の原則に一致した所有権に属しているかというとき、どうですか?(いいえ)。絶対的にありません。天国が地上にはないのです。

 

このように考えるとき、歴史を通じて真の愛、真の父母という言葉がどれほど偉大で、どれほどとてつもないかを知るべきです。

 

これだけが堕落圏内を貫いて、サタン世界を貫いて、上がっていくことができる一つの基地です。ですから、その真の父母という言葉をありがたく思うべきものであり、それ自体はさておいて、言葉だけ千回聞いて、万回聞いて感謝して余りうる内容だということを知るべきなのです。(一二九・一九四)

 

・真の父母という言葉は驚くべき言葉

 

 皆さんが知るべきことは、我々は堕落たことによって、我々の故郷を失ってしまったということです。また、国を失ってしまい、世界を失ってしまったのです。もっと進んでは、神様まで失ってしまい。神様の愛までも失ってしまったのです。このような膨大でとてつもないすべてを、再び探しうる一つの起源が何かというと、真の父母という驚くべき名詞なのです。

 

神様から見れば、今まで歴史的に願ってこられた摂理の目的が何か? この(真の父母)基準です。人類が堕落した以後、今まで蕩減歴史をしてきたのは、何をするためか?これ(真の父母)を探すためです。数多くのキリスト教徒たちが、今まで一日の願いを持って再臨の日を待つのもこのためであり、数多くの宗教が、全部この一日を願っているのもこのためです。このような事実を考えるとき、真の父母が生まれたのは、恐ろしくも驚くべき事件であることを知るべきです。

 

皆さんが故郷に行こうとするのは、そこに父母がいて、兄弟がいるためです。父母を中心として連結した人がいる所であるために、故郷をしのぶのです。そのような故郷を抱いている国、そのような故郷の人が連結しうるその国を、人々は自分の祖国だと言っています。一般的に祖国というのはそのようなものです。

 

そのような面で、本然の人を中心として見るとき、我々には故郷もなく、祖国もないのです。過去にもなく、現在もないのです。あるといっても、それは悪であって、我々とは何らの関係もないものです。真とは関係ないのです。(六七・二二七)

 

統一教会の真の父母という言葉は驚くべき言葉です。偽りの父母は、サタンの愛を中心として、落ちた愛でしたが、真の父母は神様の愛を中心として上がるので、愛の世界に前進していくのです。分かりますか、分かりませんか?(分かります!)

 

では、なぜ我々がその愛を探そうとするのか? 愛というものは、偉大なです。永遠に平等なものです。愛という名前だけ聞けば、いくら高い位置にでも一度に同参することができる資格をもつのです。女が字を一字も知らず、男が世界の大学者でも…。(一四四・二四一)

 

百二十二

 

統一教会では、真の父母という言葉を言っています。これは驚くべき言葉です。真の父母が何ですか?偽りの父母が生まれたので、真の父母が出てこなければなりません。真の父母は何をすべきか? サタン世界の根となる過った血統を正すべきであり、過った生命を取り返すべきであり、過った愛の道をまさに開かなければなりません。  

 

聖書に「死なんとする者は生き、生かんとする者は死ぬ」とありますが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないかというのです。サタン世界では死ななければなりません。(一六九・三九)

 

先生がハンサムではありませんがね、変わらない希望があるなら、神様のみ旨を追求しようとすることです。その理想的な目的の基準、その定着点が何かといえば、真の父母です、真の父母。分かりますか?真の父母です。

 

では、神様のみ旨の完成が何か? 創造理想完成が何か? アダム・エバが愛の理想を成して、直接主管圏内で父母の位置に立ちうることが、理想的基準ではないかというのです。み旨の完成の位置ではないかというのです。

 

皆さんは、先生がこの地上に真の父母という名前を持って来たことが、どれほど驚くべきことかを知るべきです。分かりますか?真の父母という言葉。世の中の言葉の中でいちばん福となる言葉が、堕落した人間においてはその国を失って捜すことよりも、世界を失って捜すことよりも、真の父母という言葉です。それは天地の何よりも貴いということを知るべきです。(一二七・二二一)

 

真の父母という言葉は恐ろしい言葉

 

統一教会での恐ろしい一つの教えが何か?それは「真の父母」という言葉です。この言葉は神様も恐がる言葉であり、サタンも恐がる言葉です。我々人間は、サタン圏内にいる人間であるために、真の父母を中心として見るときに、彼に従っている人たちは、彼のみ言によって審判を受けるのです。

 

このような方が出てこなかったらいいのに、出てきたために審判しなければいけない立場に立つので、神様がその方の言葉を聞いてあげるのです。また、サタンがなぜ真の父母という言葉を恐れるか?この言葉を信じて従おうものなら、自分のすべてが破壊されてしまい、破綻してしまうためです。それで、彼には極めて恐ろしい言葉になるのです。

 

サタンは、いつも真の父母の行く道を妨げ、倒れるのを願い、悪くなるのを願う立場にいます。ですから、皆さんがこの道に従って行くのに、どれほど信じて従うかというのが問題になるのです。皆さんが、そのような先端に立ったなら、一歩一歩、行動一つを千年以上の精誠を尽くして、感激しながら行こうとしないといけないのです、それが今日皆さんの行くべき道であることを知るべきです。(六五・二七七)

 

私は、真の父母の名前がどれほど恐ろしいかということをよく知っています。私は平穏な位置を探すために生きる道を取ったのではなく、このみ旨の使命を完結させるために、今まで闘ってきました。

 

百二十三

 

過去を回想すれば、事情も多く、無念なこともたくさんありましたが、あなたの事情、あなたの無念さに比べられないことが分かったので、ひざまづいて涙をあなたの前に見せられない、恥ずかしい姿であることが分かるのでございます。そのようなことを感じる私の心をお分かりになり、この日を期して天上世界と地上世界の門を開いてくださいませ。(一三四・一一六)

 

問題は何か? 真ということ、すなわち真の父母ということです。真の父母が何か? 真の父母という言葉がそんなに簡単な言葉ではありません。いちばん恐ろしい言葉です。その言葉がどれほど恐ろしい言葉か分かりません。

 

この真の父母という言葉一言のために、歴史が左右されます。この言葉を見つけ出すために、今まで数多くの先烈たちが犠牲の道を行きました。連続的な血の闘争を経て、身悶えし、絶叫しながら希望を抱いて探し出した名前が、真の父母という聖なる名前です。 

 

真の父母の前には、真の子女がいなければなりません。それで、皆さんが真の子女になりましたか? 考えてみて下さい。皆さんが真の子女ですか?真とは、過去にも現在にも未来にも変わらないものです。(三三・一〇九)