天聖経 縮約版 - 第一冊 真の神様
第四章 真のお父様の見た神様
一 歴史的な恨、苦痛の神様
一) 人間の堕落により父母の立場を失う
最後の心情の世界を連結させることのできる宗教があるとすれば、それは神様が最もかわいそうだということを詳しく教えてくれる宗教であると言うことができます。悔しい神様、憤りと恨に満ちた神様を教えてくれる宗教が現れなければなりません。そうしてこそ孝子となることができるのです。
神様がどれほど悔しいかというと、王の座を怨讐に奪われたのです。神様が極光の神様となることができず、悲しみの歴史をもっていらっしゃるという事実を知らなければなりません。宇宙の王としていらっしゃるにもかかわらず、王は死んだとさげすまれているのです。御自身の理想、御自身の愛する息子、娘を奪われ、完全に怨讐の籠絡の場としての地球となってしまいました。
愛する息子をそのように死なせるしかなかった神様の痛ましい事情を誰が知るでしょうか。すべての選民の味方になるべき神様なのにこれを知っているのか知らないのか……。行く所々で血を流し、首が落ち、煮えたぎる油に入れられて死に……。このような運命にぶつかるのを見て、「神様がこれを防ぐことができるのではないか」と言うかもしれませんが、全知全能であられながらその忍び難きを忍ばねばならない神様は、どれほど恨がしこりとなっていることでしょうか。
二) 復帰の恨、子女を訪ねて六千年
堕落した人類の始祖は悪魔が父となりました。人間が罪を犯したがゆえに、神様は解放してやることができません。
悪魔は四代を蹂躙しました。まず皇后、その上は何ですか、皇太后、その次は王の祖母、次には娘、このように四代がみな生きているのを、王の目前で真昼に裸にさせて蹂躙してしまうのです。どれほどの怨讐でしょうか。これを処断することのできない神様の悲痛な事情を知らなければなりません。
二 息子を失った衝撃、悲しみの神様
一) 永遠のひとり子を失った神様
神様の前に、理想的対象として描いていたアダムとエバが堕落して落ちたとき、神様の心はどれほど悲しかったことでしょうか。そのような父なる神様が失った子を再び探し出すために復帰の道をたどっていかれたのです。
今日、私たち人間は神様の息子、娘ではありません。神様がいくら泣いても、いくら悲しんでも見て見ないふりをします。それは人間がサタンの血肉を受け継いで生まれたからです。
二) 神様の歴史的に悲惨な姿
神様の心の中に苦痛があるとは誰も知らないのです。イエス様もそれを知らなかったし、知っていたとしても心の中にあることを語ることができなかったのです。
また、宗教指導者の中で誰一人としてそのような隠された宇宙の秘密を知る人はいませんでした。歴史上初めて先生が現れ、宇宙の秘密が明らかにされたのです。
三 拘束された神様、囹圄(れいご)の神様
一) 神様が立つ瀬を失った
神様を解放しなければなりません。神様は今愛を中心として拘束されています。神様が人間ゆえに愛を中心として築こうとされた理想世界をサタンに奪われたので、神様も心情的に解放されないのです。愛する子供が死んだのに父母が安らかでいられるでしょうか。いられないのです。
人間が堕落することによって神様が拘束の神様となりました。その次には天使世界まで拘束されてしまったのです。それだけではなく、歴史的に多くの宗教人が拘束圏内であがいています。人類もやはり同じです。
二) 神様が神様の本分を果たせずにいる
「人類のゆえに、私ゆえに神様が拘束されているのだ。私という一個体のために神様がサタンの讒訴を受けているのだ。私のゆえにイエス様も死んだのだ。私ゆえに聖霊が血のにじむ闘争の歴史を抱いて身もだえしてきたのだ。神様、私に力をお与えください。お父様を安息させ、解放の座に移してさしあげます」と言うことのできる、信仰に飢える者、希望に飢える者、愛に燃える者を神様が六千年間求めてこられたのです。
四 サタンを処断できない理由
一) サタンが讒訴する理由
サタンはどこから生じたのか?神様に反対し、本然の人類始祖を堕落させたサタンがもともといてこのような結果を招いたとするならば、サタンがいる限り、私たち人間が救われるのを願うことはできません。
ところで、全知全能で絶対的な神様は、なぜ今まで人類がサタンに侵犯され、サタンの足の下で犠牲になりながらも、神様がいるのかいないのか分からないほどに、何も行使できずにいる神様となったのでしょうか。それは神様が治めることのできる国がなく、神様が治めることのできる民がなく、氏族がなく、家庭がなく、神様が絶対的に公認することのできる個人がいなかったからです。
本来サタンは天使長でした。ところがその天使長が「私は堕落してサタンになったが、神様は全知全能の絶対者であるから、あなたの立てた法度を中心として解決しなければならないのではないか。私は法に背いてサタンになったとしても神様は全知全能な絶対者であられるのだから、あなたの設定した法を中心として実践すべきではないのか」と言うのです。
神様はどうして悪魔の願いを聞き入れるのでしょうか。「ため」に生きる愛をもった本体であるので、悪魔に対しても悪魔の行動をもって対することはできないのです。ですから真だというのです。
二) 神様は法度を守られる
神様は宇宙の心のようなお方です。この宇宙は体のようなものなのですが、空中の権勢をつかんだサタンがこの宇宙を支配しているのです。神様は力ずくで打ってしまうことはできないのです。宇宙の創造の本質は愛であり、宇宙の歴史的伝統が愛を通じたものであったので、誤った者がいたとしても、神様はその原則の立場に立たざるを得ないのです。それゆえ神様が堕落したこの宇宙を回復するためには、今まで本質的愛を中心として創造された真の愛の理念を実現するために投入した本然的基準を永遠に続けなければ、絶体者である神様の権威を取り戻すことができないのです。
悪魔サタンは私たち人間が一つでも罪を犯そうものなら神様の前に讒訴します。神様の前に人間の罪を讒訴するこのサタンは、罪を犯したことに違いないのですが、この悪魔サタンの罪を神様の前に告訴した人はいまだにいません。「絶対的な神様、あなたの権限を中心として考えると、悪魔サタンは、私たち人類の前に許されざる悪なる罪を犯し、神様の前に許されざる悪なる罪を犯したので罰してください」と言うことのできる人さえ現れたならば、罪を犯したサタンを除去する道があるのです。
五 神様を解放してさしあげよう
一) 神様は囹圄(れいご)の立場
救世主の使命は神様を解放することであり、サタンを処断することです。
私たちの願う統一教会とは何でしょうか。父母の宗教を求めていこうということです。真の父母を中心として真の愛の道理の道を求めていこうというのです。そうして神様を解放しようというのです。
私が救われようとするのではなく、神様を解放しなければなりません。これが救いの摂理の総決算です。
神様と真の父母を解放し、世界を救うために進み、地獄の底を貫くのです。
世界を統一するにはサタン圏を統一することのできる神様のような能力をもった人が現れれば、霊界と肉界に分かれたものが一つになるのです。サタンを主管することのできる人さえいれば、霊界も解放され、肉界も解放されます。神様に解放が必要だというのは、人間を解放するために必要だということです。人間を解放するにあたって神様が解放条件に引っ掛かっているだけであって、神様御自身は解放されないお方ではないのです。
二) 神様の解放は人間がしなければならい
世界を解放するには、まず神様を解放しなければなりません。神様が解放されてこそ世界を解放できるのではないでしょうか。
完成は父母の解放、子女の解放、万物の解放、神様の解放です。それが一度になされなければなりません。
全知全能の神様の全権全能を行使する時代が来るので、そこは泰平王国とならざるを得ないということを知らなければなりません。そうしてこそ「アーメン」です。
六 神様の解怨と孝子の道
一) 真のお父様が歩み来られた復帰の道
血が吹き出しても解放の道を行かざるを得ない怨恨の神様だということを知る者はいません。私は拷問を受け、倒れそうな立場にあっても私を助けてくださいと、神様の前に私の行く手を守ってくださいと、祈祷するような人ではありません。
それでは先生自身は、この地に来るときにどんな立場に立つのでしょうか。神様の怨恨の心情をもって、残った息子として完成した愛で愛することができなかったこと、兄弟として完成した愛で愛することができなかったこと、夫婦として完成した愛で愛することができなかったこと、父母として完成した愛で愛することができなかったことを、愛することによってその恨の峠を蕩減して解いてあげる立場に立っているのです。
神様に「先生はどんなお方ですか」と聞いてみてください。先生は痛哭するしかない痛みを感じながら、心臓をえぐり出すような痛みをもって身もだえするような悲痛さを体恤しています。誰も先生の苦労を知りません。お母様も知りません。
いくら世界の迫害が押し寄せても、孤独単身で迫害を受ける立場、苦痛の立場にあっても私は神様に一度も不平を言ったことがありません。これがレバレンド・ムーンの誇りです。
絶対的に神様を信じなさい。絶対的に信じれば絶対的な位置、神様がいらっしゃるところを求めていくのです。そこからすべてが解かれるのです。
二) 神様の解放のための生涯
私が悔しいとすればどれほど悔しいでしょうか。歴史上で私以上に悔しい人はいないでしょう。痛哭せよというとき、私以上に痛哭する人はいません。この地上で千年歴史を抱き、失った悲しみを抱いて痛哭する痛哭、文総裁が心から流れ出る神様の心情を感じながら痛哭するその痛哭には及びません。
憤りをどれほど堪えてきたことか知れません。人類の主権者たちを屈服させるためです。愛の血統を通して彼らを感化して自然屈服させなければ、天地に神様の願う平和の園ができません。平和の王国建設は不可能です。
救世主は堕落によってもたらされた神様の恨を解いてさしあげるために生涯を捧げて犠牲の道を開拓してきた方です。常に神様の心情と共に痛哭し、サタンを屈服させるために心を痛め気をもむお方です。
自分の欲心を中心として統一教会を利用しようという人、ありとあらゆることをした人を見かけても、知っていてもだまされたふりをしてやりました。なぜだまされてやるのでしょうか。神様が今までそのようにしてだまされてきました。彼らが帰ってくることを願っている天の心があることを思うと、そうはできないのです。かわいそうな神様にすがって許そうという心をもってきたところ、そのたびに節ができます。分かりますか。
ある時には、死刑宣告を受けたという連絡を受けたこともありました。そのようなときに統一教会の教主であるこの私が、彼らを助けてあげることができない心情を皆さんは分かりますか。悪魔の前に受難を受け、苦痛を受けて捕虜となっている彼らを哀れに思う天の心情を知りながらも、昼夜を分かたず前進しなければならないと追い立てたのです。
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第四章 真のお父様の見た神様
一 歴史的な恨、苦痛の神様
一) 人間の堕落により父母の立場を失う
私たちの本当の父親は神様なのですが、サタンが父親に成り済ましています。それでヨハネによる福音書第十八章四十四節でイエス様は「その父の欲望どおりを行おうと思っている」ととがめられたのです。サタンの血を受けたという悔しい事実を知ったならば、憤りの思いがほとばしり、自分の体を刃物で刺し、汚れた偽りの血を出してしまいたいという義侠心が生じるべきです。そのように感じたことがありますか。「この肉の塊め」と体を打ちながら憤りを覚える人は天の忠臣です。
最後の心情の世界を連結させることのできる宗教があるとすれば、それは神様が最もかわいそうだということを詳しく教えてくれる宗教であると言うことができます。神様は善くて、素晴らしいというだけではありません。悔しい神様、憤りと恨に満ちた神様です。これを詳しく教えてくれる宗教が現れなければなりません。そうしてこそ孝子となることができるのです。
神様がどれほど悔しいかというと、王の座を怨讐に奪われたのです。神様が極光の神様となることができず、悲しみの歴史をもっていらっしゃるという事実を知らなければなりません。御自身の国の王として、宇宙の王としていらっしゃるにもかかわらず、王が生きているのに王は死んだとさげすまれているのです。御自身の理想を奪い取られ、御自身の愛する息子、娘を奪われ、完全に怨讐の籠絡の場としての地球となってしまいました。
今まで神様が主管することのできる統一された民族や主権国家がなかったがゆえに、全知全能の神様はその威信ゆえに来られなかったのです。その神様の怨恨を解いてさしあげるのが統一家の息子、娘の道理であり、統一家の孝子の道理であり、統一家の忠臣の道理であり、烈女の道理であることをはっきりと知らなければなりません。真理を知っているので、真理があなた方を自由にしてくれるでしょう。知る人は解放されるのです。これをはっきりと教えてあげるのです。
七十三
皆さんは神様のためにどれほど涙を流したでしょうか。神様の御苦労の前に、神様に代わって苦労するために、四肢が裂けるような道でも行こうともがいたことがあるでしょうか。ないのです。皆さんが「子女」というその立場を追求するためには、公的な涙を流さなければなりません。そうして父なる神様にまみえ、「父よ、あなたの息子である私を、そして私たちの先祖を失ったとき、あなたの心はどれほど悲しみに痛んだことでしょうか。その子孫を通じて今まで歴史過程において受けた屈辱と苦痛と苦難が、どれほど大きかったことでしょうか」と慰労してさしあげながら、限りなく涙を流すことができなければなりません。
全知全能の権限で全世界とサタンまでも審判してしまうことのできる神様でありながら、能力をもっていながらも、今までひどく苦労する立場に立ち、手をつけようにもつけられず、神様御自身がもつべき環境をもてないまま孤独単身でサタンの前に讒訴され、サタン世界で足場をすべて奪われて呻吟する神様の立場を考えると、言葉も出ません。このような神様の立場に同情しながらどれだけ涙を流し
たでしょうか。問題はここに帰結するのです。
この世の親も自分の息子、娘が罪を犯して絞首刑に処されることになったとき、その子が死ぬことを願う親はいません。自分の思いどおりに子を助けることができるとすれば、百回でも千回でも助けてやりたいのが父母の心です。母親の気持ちはなおさらのことでしょう。堕落した世界の女性の心もそうであるのに、全知全能なる神様がいったい何ゆえに終わりの日になって審判をしなければならないのでしょうか。どうして神様が許してくださることができないのでしょうか。これです。神様はどれほど愛しておられるでしょうか。イエス様が七十回ずつ七回許すとすれば、神様は七十回ずつ七千回以上許すはずです。神様の心はそうなのです。
神様の救いの摂理は復帰摂理ですが、復帰摂理の出発はアダムとエバからでした。アダムとエバは堕落したのです。先生が現れるまでアダム復帰はできないのです。これを復帰するために、全知全能であられ、この宇宙を創造された神様が、一人の男性を探すために数千万年間、今まで被造世界に顔を現すことができなかった神様の事情と恨を皆さんは知らなければなりません。
神様のみ旨が何かというと、創造理想の完成なのですが、創造理想とは、私たち人間世界に三対象圏理想を実現することです。その愛を中心として理想が実現するとき、神様は「ああ幸せだ」とおっしゃることでしょう。神様が何をもって幸せだと言えるでしょうか。今日のキリスト教信者はみ座にいらっしゃる万軍の主は全知全能であられるので、「おい」と言えば「ははあっ」と万事が通じると考えていますが、いつも惨めで一人の神様はどれほど悲惨でしょうか。
七十四
愛する息子をそのように死なせるしかなかった神様の痛ましい事情を誰が知るでしょうか。それは聖書にはありませんが、息子を死なせるほどの事情があったのではないでしょうか。キリスト教のイエス様を信じると言ってあのように集まるのも悲惨だし、すべての選民の味方になるべき神様なのにこれを知っているのか知らないのか……。行く所々で血を流し、首が落ち、煮えたぎる油に入れられて死に……。このような運命にぶつかるのを見て、「神様がこれを防ぐことができるのではないか」と言うかもしれませんが、全知全能であられながらその忍び難きを忍ばねばならない神様は、どれほど恨がしこりとなっていることでしょうか。そのように考えたことがありますか。それなのにどうして神様がも高いところにいらっしゃることができるでしょうか。いつかきれいに清算できたらいいと思います。
自分の愛する人は命を投入してでも保護したいものです。本来創造理想がそうなっています。神様御自身も、息子、娘を愛するがゆえに、自分の命までも投入しなければならない悲しみの神様となったのです。
堕落しなかったならば、神様は創造主として永遠な主人になるはずであったのに、堕落することによってサタンが主人になりました。そうなるしかありませんでした。いくら官吏の屋敷の中の箱入り娘だとしても、その町のやくざ者に強姦され愛の関係を結んだとすれば、その娘は誰のものになるでしょうか。やくざ者のものとなります。全く同じ道理です。天国の王となることのできるアダムであり、天国の王妃となることのできるエバでした。 これを復帰するには、創造の原理原則を中心としてなさなければなりません。本来アダムとエバを中心として永遠な愛の法度を立てたので、その法度に従わなければならないのです。その法度を否定するならば、天理を破壊することになるのです。それゆえ人間はもちろん、神様自体まで否定される立場になるので、仕方なく再創造過程を通して収拾してきたのです。そのように恨多き歴史路程を誰が知るでしょうか。 今日、既成教会では「神様が栄光の中にある審判主として、地獄へ送り、天国に送る」と言います。この世でもかわいそうなお方が神様です。 も悲痛で身もだえしながらも光明の天地が暗黒の地獄へと落ちるかもしれないのを克服して、そこで身を持ち直し、目を開けて意識を確かにもって、死にはしたが、この子らを生き返らせようという心をもった方が神様です。創造主の能力、絶体者の力があったのでそれが可能だと考えるのであり、そうでなければおしまいなのです。
それでは神様はどのようなお方なのでしょうか。神様は本然的真の父母の立場にあるお方です。ところが真の父母となるべき神様が父母の立場を奪われてしまったので、創造理想の本然的基準にはなかったことが生じたのです。この創造的世界にはあり得ないことが生じたのに対し、創造主であられる神様は干渉することもできず、それに責任を負って消化することのできる立場にも立てないのです。
二) 復帰の恨、子女を訪ねて六千年
七十五
私たち統一教会では原罪とは何だと言っていますか。誤って愛したことです。神様の愛と神様の生命と神様の血統が連結されなければならないのに、悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血統が連結されてしまったのです。アダムとエバが悪魔の生命体になって悪魔の血筋を残したので、今まで恨めしい歴史となったのです。それでは神様のように全知全能で天地を根本から創造し、すべての自主的な権限を所有しておられる方がどうして悪魔の前に、歴史を通して人間をこんな姿、このようにしたのでしょうか。ですから神はいないという結論は当然なものです。
過ぎし日にはいろいろなことがありました。悔しく、無念な内容が多くありました。私の性格では我慢できないようなことが多くありましたが、舌をかみ、カインの世界を占領しなければならなかったのです。カインの個人ではなく、カインの家庭ではありません。カインの世界を消化しなければなりませんでした。苦い、どれほど苦いことでしょうか。氷山くらいの苦いものを口に入れて、解かさなければなりません。神様を滅ぼし、人類を駄目にした億千万世怨恨の大怨讐の悪魔、この悪魔を黙って屈服させなければなりません。
堕落した人類の始祖は悪魔が父となりました。サタンの愛、サタンの生命を受けたがゆえに、救いの歴史は困難です。キリスト教では全知全能だと言う神様が、なぜ無力な神様のようになり、人類が滅びていくのに手をつけられずにいるのでしょうか。死んだ神様の立場にあるのです。人間が罪を犯したがゆえに、人間がそれを解決することのできる解放圏を備えなければ、神様は解放してやることができません。解放してやれるものならば、初めからエデンの園からアダムとエバを追放しなかったはずです。神様が思いどおりにできるのならば、エデンの園からアダムとエバを追い出しませんでした。しかし追い出さざるを得なかったのです。
神様の求める真の心をもたなければなりません。神様は真の愛を訪ねてこられます。救援摂理歴史、復帰摂理歴史の前線から探し求めてきた真の息子として、今まであかまみれになり、傷つき、悲痛な傷跡のある神様の心を大きく開いても余りある余裕満々の純潔な愛が滝の水のように流れ出て、神様が彼を抱き万事を忘れ、むしろ堕落があったことでより幸福だったと言うことのできる場はないのでしょうか。男ならば誰でもそうでなければなりません。分かりますか。
悪魔が神様に対して、「あなたの創造理想を中心として愛の絶対圏理想である真の単一氏族圏をつくるための愛の血統圏がこのように滅び、破壊状態になったにもかかわらず、今も創造理想的論理が適用されるというのですか」とあざ笑うのです。そういうとき神様は何と答えられるでしょうか。どれほど息の詰まるようなことでしょうか。本来、主人の息子となるべきであるにもかかわらず、怨讐の息子となり、抜け出そうにも抜け出すことのできない塗炭の苦しみの中に陥った人類を見つめられる神様がどれほど悲嘆にくれておられるかを、はっきりと知る既成教会の人々はいるのでしょうか。
七十六
人類の父母としてこられたのに、父母として侍ることができずに、自分のために血を流して死ぬために来たという父母がいったいいるでしょうか。愛の祝宴を催して「私の息子よ、私の娘よ、家庭よ、国よ」と、天下がすべて和合するときに一つの平和と栄光の一日をたたえるべき立場に立っている父母が、失った子に出会うべきであるのに、会ってみると、子女の手によって刃物で刺され、死んでいったとは……。考えてみてください、イエス様がどれほど悲痛か。無知な人類に向かって教えてやることのできない事情の中に埋もれた神様の心情はいかばかりであったでしょうか。
悔しい歴史的恨が先生にはあります。しかし、私の恨は何でもありません。神様が神様の本分を果たせずにいます。このような多くの事情を残した歴史過程に、神様の骨髄が溶けるような悲痛な涙と流された血の跡がこの地から喚声をあげているという事実を知らなければなりません。神様を解怨成就しなければならない使命が残っているということを知っているがゆえに、私は今までこのようなことをしているのです。
堕落した世界に責任を負って復帰してこられた神様は、高く、貴く、聖なるきれいなところにだけおられる神様ではありません。人間には想像もできない、形容することもできない悲惨で悲痛で残酷な背後をもっているのです。
皆さんは自分よりも悔しい立場にいる人に慰労されれば慰められます。しかしながら神様は誰よりも悲痛さを感じておられるがゆえに、神様を慰労することのできる立場にいる人は一人としていないのです。始まりも神様御自身であり、終わりも神様御自身なので、その心の中にしこりとなった怨恨をいかにして解くかということが、今までの神様の内情的な事情なのです。
神様はこのような事情を抱いて、今まで復帰摂理をしてこられたのです。
神様に会いたくて泣いたことがありますか。涙、鼻水を流しながら口蓋垂が垂れ下がるほど泣いたことがありますか。それほど涙の出るような悔しく、悲痛な立場に立ったことがありますか。これはすべて心情世界を越えるにおいての一つの峠となるのです。
人間と永遠に共にいるべき神様が、人間と引き裂かれるときのその悲痛さと悔しさと憤りと悲しさは、どれほどのものであったでしょうか。人間は全宇宙を渡しても替えることのできない愛の基地を目指して、成熟し、平衡線上で縦横が結合する一つの軸をつくらなければなりませんでした。そうなったならば、それが基準となり天地のあらゆる存在、あらゆる万物の測定基準になれたのではないでしょうか。その愛と因縁を結んだすべての物はどこにでも合うようになっています。どこにでも。
悪魔は四代を蹂躙しました。まず皇后、その上は何ですか、皇太后、その次は王の祖母、次には娘、このように四代がみな生きているのを、王の目前で真昼に裸にさせて蹂躙してしまうのです。娘まで蹂躙してしまうのです。次にはみな殴り殺します。どれほどの怨讐でしょうか。これを処断することのできない神様の悲痛な事情を知らなければなりません。
七十七
では、神様にとって悔しいことは何でしょうか。偽りの血筋を受け継ぐことです。偽りの血統を皆さんは受け継ぎました。起源はサタンです。サタンという存在は被造物をすべて滅ぼすことを願っています。そのような宇宙、そのような所有権、そのような血筋が皆さんにつながっているのです。見て、考えて、においをかいで、話し、触る、五感のすべての根がサタン側にあります。皆さんの先祖はとても悪い父母の実です。そのようなものを神様が救おうというのですから、神様は本当にかわいそうです。(堕落した)アダムとエバを片づけてしまって、アダムとエバを再び造ることができないのはなぜでしょうか。造ることはできても、本来、永遠の真の愛を中心として永遠の因縁で造ったがゆえに、そうできないのです。 神様の悲惨さ、悔しい立場に立っておられるということを皆さんは知らなければなりません。「私が造らなかったならば、あのようにはならなかったものを。愛を求めて栄光の天国を願ったことがこのようになるとは」と言われるのです。なぜでしょうか。悪魔の血肉を受けたからです。悪魔の愛が注がれ、悪魔の生命、悪魔の血統がそこにあるので、これを取り除かなければ神様が所有することができないのですが、それを取り除けば死んでしまいます。ですからそこに徐々に新しい血管と生命と愛を注入して第二の創造物、救援物として神様のような代身者を探して立てなければならないのです。その怨讐を愛してやらなければなりません。その怨讐を我慢して愛さなければならないのです。とんでもないことです、全く。
神様が、日が昇ったと言っては休み、気候が良く、季節が良いといっては休むことがあるでしょうか。皆さんも同じです。怨讐を愛さなければなりません。この世の天地の背後にいたサタンを愛していかなければなりません。神様の息子の聖なることを私がたたえ、驚くべき価値をもっていることを知っているとするならば、その価値の前に悲惨でつらく、恨めしくとも行かねばならない道があり、それが大怨讐を愛するということなのです。
二 息子を失った衝撃、悲しみの神様
一) 永遠のひとり子を失った神様
純粋な本質的愛をもった神様の前に、理想的対象として描いていたアダムとエバが堕落して落ちたとき、神様の心はどれほど悲しかったことでしょうか。どんな人間よりも極めて悲しかったことでしょう。極めて、極めて悲痛だったことでしょう。その内容が深く価値的な内容であればあるほど、悲惨中の悲惨だというのです。そのような父なる神様が失った子を再び探し出すために復帰の道をたどっていかれたのです。
父母が愛する子をそれほどまでに信じているのに、子が裏切ったならば、信じていたのに比例して父母の受ける衝撃と苦衷、そして悲惨さは、言葉ではとても表現できません。また、命を懸けて互いに愛し合っていた人が裏切り、排斥し、不信するならば、やはり言葉にはできないほど悲惨です。そのような立場で身もだえしながら受ける苦痛は、経験した人でなければ分かりません。言葉だけでは理解できません。このことは世の中のことを見れば分かります。それでは神様はどうして悲惨になったのでしょうか。神様は漠然とした神様ではなく、具体的な神様です。私たち人間とは高の関係をもった神様です。神様が喜ぶことがあったとすれば、それは人間と共に喜びで出発し、終わりのない永遠に向かって進み続けることのできる出発の起点をもつことです。ところがその出発の起点を人間ゆえに失いました。それがアダムとエバの堕落です。
七十八
この世でも、父母が還暦を過ぎてから生まれた七代続きの一人息子が死ぬことを考えれば、絶望中の絶望だといえます。若ければまた生むこともできますが、年を取ってから生まれた七代続きの一人息子が死んだとすれば、七代圏を継承しようとしていた先祖たちの心はいかばかりでしょうか。先祖たちは自分の子孫、自分の血統を通して世界にまたとない万福を受けたいのです。ですから子が死んだとすれば父母は後を追って死にたいのです。アダムは七代続きの一人息子どころか、永遠の一人息子です。一人しかいないアダムをして家庭を築かせ、創造の大業を果たした立場に立たせようとしたのに、そのアダムが死んだのですから神様の心はいかばかりであったでしょうか。このように、よじれたのですからどうしたらいいのでしょうか。神様はアダムとエバの堕落によって六千年間、衝撃から抜け出せずにいらっしゃいます。
元来、創造原則から見ると、愛の一体理想圏内に入れば、永遠な所有主が、愛を中心とした主体者が中心となるのです。ところが神様がそのような中心となるべきであったのに、サタンが中心となったのです。天地が地天となり、すべてが反対になったのです。神様御自身が真の理想として願った愛の理想、真の愛を中心として一体となり、一つの体となったものは分かれてはならないものです。その血統も神様の直系子女となるべきであるのに、それが妨げられて反対となったのです。
人間の悲惨な姿を毎日毎日、時々に見つめられる神様のその心情はいかばかりでしょうか。自分の息子が不具者となり、王子、王女の栄光をたたえるべき存在が、肥だめのようになり地獄に逆さまに落ちたとするならば、全知全能だという神様の威信はどうなるでしょうか。絶対的な神様の威信はどうなりますか。顔を上げることができるでしょうか。
息子が犠牲になったとすれば、その父親は息子が死ぬようにほっておくでしょうか。このような観点から考えると、愛の神様は愛の対象である私たちを死の場に立たせることができないのです。全知全能の神様であるならば、理想的な世界を造って復活させなければならないのです。父母の愛というものを考えれば、それは十二分に可能です。神様がおられるとすれば、神様は必ずそうすることのできる立場におられるでしょうから、私たちをそのような理想的な復活圏へと移してくださらなければならないという結論になるのです。神様は、私たち人間に住まわせようとして、死ぬようなところ、悲惨なところに置いたのではなく、私たち人間を高次元的な世界に連れていくための一つの関門として、そのようなところに置いたとするならば、それは素晴らしいことではないかというのです。
創造主の威信までも、全知全能であられる神様の威信までも、あまねく臨在される神様の実存性までも忘れるような心情で、アダムとエバを愛したかったのです。そのような立場で堕落したアダムとエバを見つめられる神様の心はいかばかりであったか、これを知らなければなりません。
今日、私たち人間は神様の息子、娘ではありません。神様がいくら泣いても見て見ないふりをします。いくら悲しんでも見て見ないふりをします。それは人間がサタンの血肉を受け継いで生まれたからです。むしろ神様が悲しむのを見て賛美しています。滅びるのを見れば、喜んで笑うのです。神様がこのような人間を指導し、開拓の方向を教えてやろうというのですから、どれほど御苦労なことでしょうか。神様に、
「ため」に生きようという心、憐れみの心がなかったならば、今まで摂理歴史を支えてくることができたでしょうか。
七十九
二) 神様の歴史的に悲惨な姿
神様が天から見下ろしているとするならば、どれほど憤慨されるでしょうか。この万民は御自身の血統的子孫であるべきなのに、悪魔が悲惨な境地に追い込んで「あなたの子孫はこのように凄惨な立場に処している」と、神様に向かって嘲笑しています。サタンがまた「全知全能の神様なのだから、この環境をどのように収拾するのですか」と言えば、神様は沈黙を続けるしかないのです。聞いても聞こえないふりをし、においをかいでもかがないふりをし、感じながらも感じないふりをしなければならない神様の歴史的に悲惨な姿を皆さんは考えたことがありますか。
今日の既成教会で信じているように、全知全能で栄光のみ座におられる神様であるとすれば、御自身の息子、娘が死んでいくのに、み座から「ここに上がってこい。私が座を離れることはできない」と言うでしょうか。み座でも何でも投げ出して下りていくでしょうか。どちらでしょうか。そのままでおられるでしょうか、下りていかれるでしょうか。王冠を脱いで急いで下りていくでしょうか。どうされるか考えてみてください。それではキリスト教の信仰は正しいでしょうか、間違っているでしょうか。
神様が泣き叫びながら「私の息子よ、私の娘よ」と何万年、何十万年、何百万年も呼び続けてこられたという事実を知らなければなりません。そのような神様の前で「父よー」と声がかすれるほど呼んだことがありますか。舌が乾き、息が詰まり、目がつぶれて開けられないほどに、切に父を呼んだことがありますか。生命の主体であるその価値を抱くために、どれほど身もだえしたでしょうか。身もだえした基準に比例して皆さんの人格の基準が測られるのです。
私たちは全知全能であられるそのお方に対することのできる何らの内容も持ち合わせていません。しかも堕落した人間として生まれた私たち、私たちの目は俗なるものです。私たちの五感の感情はすべて俗なるものです。神様に対することのできるものは一つとしてありません。一つもなく、公義の法をもっては相対することのできる内容が絶対にないのですが、愛の法をもってのみ対することができるという唯一の道があるのです。したがって皆さんが信仰生活において年を経るほどに愛の哲学をもって暮らし、愛の哲学をもってすべてのことを分別しながら生活する信仰者にならなければならないのです。そのような人は十年が過ぎ、二十年、三十年の生を経れば、自動的に神様の必要とする人になっていくのです。
80 * 八十
神様が数千年の間復帰摂理をされながら受難の道を経てきたのは、神様が善なる心をもっていたので耐えてきたのでしょうか。神様が今まで人類歴史の数万年の間救いの摂理をしてきながらも、いまだに疲れ果てることなく続けてきた原因はどこにあるのでしょうか。全知全能であられるからですか。そうではありません。愛の道を求めてきたがゆえ、愛の息子、娘を探し求めているからです。それゆえ千年を一日のごとく受難の道を越えに越えることのできた偉大な力は愛であった。そうでしょうか。そのとおりなのです。 神様がかわいそうです。かわいそうではありませんか。全知全能の神様がどうしてかわいそうなのかと言うかもしれませんが、いくら全知全能だとしても愛する息子、娘を失った衝撃から抜け出すことができないのです。その衝撃から抜け出すための道が神様御自身にあるならば、神様は今まで六千年の歴史路
程を経ながら苦労される必要はないのです。
人間が罪を犯したからといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、六千年という歳月を訪ねてこられたのです。
統一教会とは何でしょうか。神様の心情を論じています。神様を解放しようとしています。既成教会は、私たちがそのようなことを言うと言っては私たちを異端だと言います。皆さん、立派な大統領でも自分の子が今死んだとすれば、その死んだ子の前で大統領の権威をもって「子供は死んだけれども、大統領は涙を流すことはできない」と言うでしょうか。陰で鼻を打ちつけ、痛哭し、人前では顔を拭って、そうだとすれば通じますが、そうでないとすれば死んだ息子の霊が「これが父親だなんて……。父親ではなかったのだ」と言うことでしょう。死んだ霊が活動するとすれば、その父親に協助するでしょうか、反対するでしょうか。世界の大統領でも誰でも、自分の愛する子供が死んだならば涙を流さなければなりません。
人間の創造本然の特権的な価値を喪失し、堕落のうじとなってあえぐ無価値な人生を見つめる神様の内情的心情は、どれほど悲惨なことでしょうか。あの者たちは本来、私の愛と私の生命と私の血統を通して直系の子となり、天国の栄光を占めたであろうに、敗者の仮面をつけ、呻吟と苦痛と絶望の中であえぎながら命を絶つ場にいるのです。ですから、それを見つめる神様の心はどれほど悲痛でしょうか。そのように神様が悲しみの神様であることを知らずにいました。それゆえ文総裁は神様を知ってから何日も何週間も痛哭しました。統一教会の出発には、そのような深いものがあるということを知らなければなりません。
八十一
神様の心の中に苦痛があるとは誰も知らないのです。歴史上に現れ、今ここに先生を通して現れて、その深い使命を明らかにしたので知ることができるのであり、そうでなければ分からないのです。どれほど驚くべき事実でしょうか。イエス様もそれを知らなかったし、知っていたとしても心の中にあることを語ることができなかったのです。
また、宗教指導者の中で誰一人としてそのような隠された宇宙の秘密を知る人はいませんでした。歴史上初めて世界の前に先生が現れ、宇宙の秘密が明らかにされたのです。
三 拘束された神様、囹圄(れいご)の神様
一) 神様が立つ瀬を失った
私の恨は何でもありません。神様が神様の本分を果たせずいます。このような多くの事情を残した歴史過程で、神様の骨髄が溶けるような悲痛な涙と流した血の跡がこの地で喚声を上げているという事実を知らなければなりません。このような神様の恨を解怨成就する使命があるということを知っているがゆえ、私が今までこうしているのです。
神様を解放しなければなりません。神様は今愛を中心として拘束されています。監獄に閉じ込められているのと同じです。解放されていないのです。全知全能の神様、宇宙を創造された神様が人間ゆえに愛を中心として築こうとされた理想世界をサタンに奪われたので、神様も心情的に解放されないのです。神様の心情的解放基盤がこの宇宙にできないのです。神様も拘束されました。愛する子供が死んだのに父母が安らかでいられるでしょうか。いられないのです。
神様を私の手で解放しようというのです。神様は解放された神様ではありません。拘束された神様です。息子、娘を失った父母、なおのこと孝行息子が死んだのちの父母の心を解くためには、その孝行息子以上にすべての面を備え、十倍以上功を尽くして孝行しても、その本来の心を解放することはできません。レバレンド・ムーンがそのような神様を解放しようというのです。 悔しい神様、神様がなぜ悔しいのでしょうか。人間世界では青春時代に苦労すれば必ず未来に希望が保証されるのですが、神様は歴史始まって以来今まで苦労しているのに、いつ希望があるのでしょうか。いつ神様の希望が成し遂げられるのでしょうか。神様は若い神様でしょうか。今は年老いた神様なのでしょうか。神様は何歳だと思いますか。神様は宇宙の外にいるので年齢もありません。神様は地球のように太陽系を一年に一度ずつ回るでしょうか。その外側にいるので数えられません。計算する必要がありますか。
神様がどれほど悔しいかといえば、王座を奪われました。王座を怨讐に奪われたのです。神様が神様となれず、悲しみの歴史をもっていらっしゃるという事実を知らなければなりません。自国の王、宇宙の王であるのに、王が生きているのにもかかわらず、王は死んだとさげすまれているのです。御自身の理想を奪われ、御自身の愛する息子、娘をすべて奪われ、完全に怨讐のもてあそぶ地球となってしまいました。
八十二
万民が嘆息圏を抜け出さない限り、父母の立場に立った神様は嘆息圏内から抜け出すことができないのです。愛する子供が悩んでいるのに父母が安らかな立場に立つことはできないのです。このような立場に神様がおられるがゆえに、神様を解放してさしあげなければなりません。何によって神様を解放してさしあげなければならないのでしょうか。神様は万民を愛することのできない拘束圏内にあるので、万民を自由に愛することのできる解放圏を神様の前に取り戻してさしあげるべき責任があるのです。堕落した人へと落ちぶれたので、堕落線を越えて勝利した息子、娘となって解放してさしあげなければなりません。
人間が堕落することによって何がどうなりましたか。神様が自由な神様になれませんでした。拘束の神様となりました。次に人類始祖が拘束されてしまいました。その次には天使世界まで拘束されてしまったのです。それだけではなく、歴史的に多くの宗教人が拘束圏内であがいています。人類もやはり同じです。
親不孝者をもった親は、その親不孝者によって拘束されるということを知らなければなりません。その親を解放するためには、親不孝をした以上の孝行を尽くさなければなりません。それだけでなく、大衆の前で公認されなければなりません。そうして初めて過去の罪を洗い流すことができるのです。これが天理です。同じ道理です。「先生だけのために……」というのは必要ありません。
隣人とこの国、この民族はかわいそうな群れです。五千年間「わらぶきの三間の家を建て、両親に侍って、千年万年……」(韓国の童謡の歌詞)。両親に侍るという言葉は有り難いのですが、千年万年わらぶきの三間の家に住むのですか。かわいそうな民族です。このかわいそうな民族を正しく指導しなければなりません。お金も何もないこの民族が、神様の恵みまで受けられなければ、どこに行って暮らしますか。
二) 神様が神様の本分を果たせずにいる
統一教会はいつまで残るのでしょうか。地球を解放し、霊界を解放し、のちに神様を愛の心情で解放するときまで統一教会は行かなければなりません。 後には人類を解放し、霊界を解放し、神様を解放しなければなりません。このような話を聞くのは初めてのことでしょう。神様が私たちを解放してくれるものと思っていたのに、私たちが神様を解放しなければならないのです。心情的には神様が拘束されているということを知らなければなりません。
愛する父母の前に親不孝者がいるとすれば、その親不孝者が父母の願う基準、解放される位置まで上がってくるのを見なければ、その父母の心情の解放圏はできないのです。同じように神様においても高の愛の相対として造ったアダムとエバは、神様の愛の相対であると同時に縦的な面では父子の関係であり、横的な面では夫婦的な縁となるようになっていたので、彼らを中心として天地のあらゆる愛の理想を実践しようとしたのです。ところが堕落によってそのすべてを失ったのです。神様までも拘束の神様となってしまったのです。
天国を築いて生きる人でなければ天国へ行くことはできません。私が監獄に入って手錠をかけられて暮らす立場に立ったとしても、「私」を拘束することのできない愛があるのです。私が腰を曲げ、眠ることのできない立場にあるときに、夜に起きると手が光を放っていたのです。なぜ光るのでしょうか。神様が抱いてくださっているからです。それが分かったのです。ですから暗い部屋でも光を放ったのです。
八十三
私がうめき声と泣き声を聞きながら監房の隅で粛然としていると、次の日の朝には、皆はったい粉の包みを私に持ってきてくれたものです。通りを越えて「どこどこの監房の何号のところに、お前がこれを持っていかなければ、この監房全体が安らかではなく、お前の家が安らかではないので持っていってやれ」と言うのです。私の神様は愛の神様なので、このような神様を冷遇する恩知らずの統一教会の群れとなってはなりません。
「人類のゆえに神様が拘束を受けているのだ。私ゆえに神様が拘束されているのだ。私という一個体のために神様がサタンの讒訴を受けているのだ。私のゆえにイエス様も死んだのだ。私ゆえに聖霊が血のにじむ闘争の歴史を抱いて身もだえしてきたのだ。神様、私に力をお与えください。お父様を安息させ、解放の座に移してさしあげます」と言うことのできる、信仰に飢える者、希望に飢える者、愛に燃える者を神様が六千年間求めてこられたのです。このような事実を私たちは知らなければなりません。
神様とサタンが闘ったとすれば、止めることのできる者はいるでしょうか。そのままで闘いが終わるでしょうか。神様の前に孝子はなく、神様の前に忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理、聖者の道理、天国を守ることのできる主流の愛の体制がなくなったので、神様の立つ瀬がないのです。今まで囹圄の身で軟禁状態にある神様となったのです。天国は完全に廃虚となり空になっています。そのような痛みをもっているのが神様です。
では、神様の探し求めるおじいさん、おばあさんに会ったことがありますか。堕落したがゆえに、会うことができませんでした。神様の探している母、父に会ったことがありますか。神様の探している妻、夫に会ったことがありますか。神様の探している息子、娘に会ったことがありますか。この恨みをどのように解くのでしょうか。この心情の拘束の鉄条網を誰が切るのでしょうか。それは神様の愛以外にはありません。神様の本質的愛以外にはありません。
神様はあらゆる面において自由自在にできるお方であるのに、非法的な愛という条件ゆえに手をつけることができないという恨めしく悲しい神様の心、気が遠くなるほど嫌気がさすのを誰が知るでしょうか。
既成教会では「聖なる、聖なる神よ、栄光の神よ、私に恵みを下さい」と言うのですが、神様はそんな神様ではありません。悲惨な神様です。拘束された中にある神様です。良い息子を生んで解放されるべき神様であられるので、神様の運命は哀れな運命です。ですから皆さんは神様を解放してさしあげなければなりません。そうせずしては天道が正しく定められないので、この地上に理想世界は現れることができないのです。これを正すための歴史が統一教会の歴史であり、使命です。
八十四
統一教会のみ言、統一教会の内容、耳で聞く内容の中には何があるのでしょうか。心情的に拘束されている神様を解放することのできる内容をもっているのです。人間が堕落することによって神様は嘆息されたと言われています。嘆息の歴史は出発から世界的なものとなったのであり、世界的になったがゆえにパウロは「人類が嘆息し、私たちの先祖も嘆息し、全人類までもが嘆息している」と言いました。そうして神様の多くの息子、娘が現れることを願っていると言ったのです。それは嘆息圏から逃れることを、より分けていくことを願ったからです。
四 サタンを処断できない理由
一) サタンが讒訴する理由
今日、神学的な立場でも、もともと悪魔サタンがいたのか、いなかったのかということが問題となります。もし、もともとサタンがいたとするならば問題は大きいのです。全知全能の神様の摂理に対し、六千年間反抗してはそれを遮ってきた巧妙なサタンが初めからいたとするならば、このサタンを退治し、取り除くことのできる人があり得るでしょうか。
問題となります。
サタンはどこから生じたのかと考えるときに、もともといたという人がいます。全知全能の神様に反対し、本然の人類始祖を堕落させたサタンがもともといてこのような結果を招いたとするならば、サタンがいる限り、私たち人間が救われるのを願うことはできません。そうなれば結局、世界は二元論となり、二つの目的をもって世界は永遠に続くという結論が出てくるのです。
本来、神様のみ旨として立てられた創造理想世界は、堕落することによって築くことができませんでした。しかし神様は絶対的な権限をもった方であるがゆえに、外的な世の中がすべて変化したとしても、御自身は絶対的に変わることができないのです。悪魔にアダムとエバを奪われ、万物をすべて譲り渡しましたが、神様は絶対的なお方なので本来、天使長である悪魔サタンまでも自然屈服させなければならないのです。神様はいてもいないと同様の立場に立って、絶対的な神様の権威を立てなければならないのです。神様は先に打つことができません。神様が悪なるサタンを打つことはできません。善なる神様が悪なるサタンを打つことはできないのです。
全知全能の神様がどうしてサタンを一息に片づけてしまうことができないのでしょうか。それを片づけようとするならば、アダムとエバ、創造したものまですべて片づけなければならないという、愛の理想圏を爆破しなければならないという結論になるので、そうすることができないのです。絶対的な主人には、一度しようとしたことは絶対的に完成させるべき責任があるのです。それゆえ、よこしまな悪魔がいくら攻撃し、いくら迫害したとしても、立てられた道理を回復するために、歴史を抱いていかれる主人が神様であるということを誰も知らなかったのです。
八十五
ところで、全知全能で絶対的な神様は、なぜ今まで人類がサタンに侵犯され、サタンの足の下で犠牲になりながらも、神様がいるのかいないのか分からないほどに、何も行使できずにいる神様となったのでしょうか。これは深刻な問題です。それは神様が治めることのできる国がなく、神様が治めることのできる民がなく、神様が治めることのできる氏族がなく、神様が治めることのできる家庭がなく、神様が絶対的に公認することのできる個人がいなかったからです。その個人が成立し、その家庭が成立し、その氏族が成立し、その民族が成立し、その国家主権が成立すれば、一時に悪なる国、悪なる国民、悪なる氏族、悪なる家庭、悪なる個人を処理することができるのです。そうしてこそ善となるのです。
そうしてこそ神様の権威が立つのです。
皆さん、サタンに勝つことができますか。知恵の王であられる神様もサタンの讒訴にかかればどうすることもできません。一国の大統領もそうです。ある条件に引っ掛かって国民がわあわあとデモをすればどうなりますか。首を切られるかもしれません。条件に引っ掛かれば全知全能の神様もどうすることもできません。大臣も条件に引っ掛かろうものなら、夕方には首が飛びます。ですから条件防御をしなければなりません。いかにして条件防御をするかという問題が信仰生活における極めて難しい問題です。ここに生死の問題がかかっています。
私たち人間はサタンの愛を中心としてサタンの生命、サタンの血統につながってきました。これが問題です。このような位置には神様がいることができません。神様が干渉することができません。今まで歴史において全知全能な神様がなぜ無能な神様となってきたのでしょうか。怨讐となる立場にサタンが立ち、その怨讐は何を奪っていったでしょうか。神様の愛を奪っていきました。神様の愛の圏、神様の生命圏、神様の血統圏を蹂躙したのです。この概念を常にもたなければなりません。
本来サタンは天使長でした。ところがその天使長が「私は堕落してサタンになったが、神様は全知全能の絶対者であるから、あなたの立てた法度を中心として解決しなければならないのではないか。私は法に背いてサタンになったとしても神様は全知全能な絶対者であられるのだから、あなたの設定した法を中心として実践すべきではないのか」と言うのです。
なぜ怨讐を愛さなければ私たちの道を越えていくことができないのか説明します。これは原理の本にはありませんが、とても重要なことなので知っておかなければなりません。堕落した天使長が神様を讒訴しても、神様であられるがゆえに、たとえ天使長は堕落したとしても神様が立てられた法度を遵守せざるを得ないのです。神様は絶対者であられます。それゆえ天使長が堕落したとしても、神様は被造物を御自身の立てられた法則、規則に従って主管せざるを得ません。これは、神様が堕落以前の天使長になさろうとされたことが何であろうと、堕落したのちもそうせざるを得ないということを意味します。それゆえ天使長は神様に「神様、あなたは私を完成期まで、完成期ののちまでも愛されることになっています」というのです。
八十六
アダムになろうとすれば、三人の天使長を治めなければなりません。天使長は絶対服従しなければなりません。絶対服従して絶対に愛さなければならないのです。神様に絶対順従せず、絶対服従できないサタンは、絶対服従すべき天理原則が残っている限り、原理原則が残っている限り、その原理原則をサタンの勝手にすることはできません。その原理原則に順応するしかないということをサタン自身が知っています。神様が全知全能であっても原理原則に反すれば除去されるのです。大統領でも憲法を通してこそ行使できるのと同じです。憲法になければ大統領も勝手にできないようになっています。 統一教会の文先生という人は深刻な人です。深刻でした。神様がいるのか、いないのか。神様は全知全能であられるのに、なぜ悪魔をほっておくのでしょうか。一日で清算してしまわずにいるのです。ヨブ記を見てください。あれほど無力な神様はどこにいるでしょうか。そのようなことが理解できなければなりません。ですからどれほど深刻でしょうか。死ぬか生きるかで身を投げ捨てて、一身を絞首台に差し出し、闘ってより分けて取り戻したのです。自分の本然の生命を取り戻さなければなりません。
ヨブ記を見ても、神様はどうして悪魔の願いを聞き入れるのでしょうか。「ため」に生きる愛をもった本体であるので、悪魔までも、悪魔に対しても悪魔の行動をもって対することはできないのです。ですから真だというのです。
神様は神様の神秘的な創造力を活用して、サタンを屈服させるのではありません。自然屈服です。
現在、悪魔は世の中が神様のところに戻ることができないようにめちゃくちゃにしました。フリーセックスやら何やら……。アメリカでは近親相姦がどれほど多いか知れません。父親が三人娘であれば三姉妹と連れ合って暮らします。そのようなのがぞろぞろとしています。フリーセックスなので叔父が母親とも一つになり、息子が自分の母親とも一つになり、そういった具合です。獣と変わりありません。ですからサタンが神様に「こんなところで神様の創造理想である愛の理想を立てることができるのか、神様。ハハハ」と笑っているのです。
二) 神様は法度を守られる
神様はどんなお方ですか。宇宙の心のようなお方です。この宇宙は体のようなものなのですが、その体の真ん中には誰が入っているかというと、悪魔が入っているのです。空中の権勢をつかんだサタンがこの宇宙を支配しているのです。これを消化するために神様はどうしなければならないでしょうか。力ずくで打ってしまうことはできないのです。宇宙の創造の本質は愛であり、宇宙の歴史的伝統が愛を通じたものであったので、誤った者がいたとしても、神様はその原則の立場に立たざるを得ないのです。それゆえ神様が堕落したこの宇宙を回復するためには、今まで本質的愛を中心として創造された真の愛の理念を実現するために投入した本然的基準を永遠に続けなければ、絶体者である神様の権威を取り戻すことができないのです。ですから神様はいかばかり大変なことでしょうか。
堕落とは何でしょうか。サタンを中心とした愛の因縁を父母の立場で結んだことです。堕落論だの、善悪の実の話は必要もないのです。否定することはできません。ですからサタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を受け継いだ血族が今まで残ってつながってきたのです。サタンは愛の怨讐です。神様が創造理想として万年夢見てきた事実を破綻させたのです。官吏の家門の一人娘を僕が蹂躙したとすれば、その家の主人の娘だと言うことができるでしょうか。追い出されるしかありません。天地の大道の軌道を離れたということは、愛において過ちを犯したということです。
八十七
これは否定することができません。 悪魔の子を自分の愛する息子、娘以上に愛さなければ、神様の本然の創造理想を実現することができないのです。悪魔は「私は堕落してこうなったのであり、私の血族が神様を裏切ったとしても、神様だけは、天理の道理を守ってこそ神様といえるのではないか」と提唱するのです。ここで引っ掛かっているのです。
サタンが神様に向かって、「あなたは永遠不滅の主体であられる神様であり、天地創造の大主宰であられることを私は知っています。真理の本体であり、愛の本体であり、原則の本体であるがゆえ、あなたはその法則、原則どおり、変わることはできません。ゆえに私は堕落したとしても、あなたはあなたの立てた原則を実行すべきではないですか。そのためにはあなたは原則的な存在として、堕落した天使を愛さずしては本然の世界に息子、娘を連れていくことはできません。あなたが私を愛し、あなたの息子までが私を愛さなければ天国へ行くことができないというのが、堕落前の天使長に対してあなたが立てた計画ですから、私が堕落したとしても、あなたはその原則を守らなければなりません。ですから私を愛さなければなりません。そうでなければ真の神様になることができず、真の息子、娘になることができません」と讒訴し、食い下がるのです。
悪魔が言うには「神様、私は変わる悪魔の親玉として変わり得る先祖になっているが、あなたは天地の大主宰であり、真理の本体であり、不変の主人公ではないか。生命の不変の原則を備えた愛をもったお方ではないか。私は堕落してならず者となってしまったが、あなたはあなたの立てた本来の理想基準というものを実践すべき責任があります。だから私を、このあなたのみ旨を成し遂げてしていく理想の門まで……。その世界に入っても、そこに住むことができなかったとしても、入っても自分で出てこれます。そこでは生きられないので出てこなければなりません」と言うのです。これがサタンの主張です。すると神様は「お前の言うことはもっともだ」というのです。
悪魔サタンは私たち人間が一つでも罪を犯そうものなら神様の前に讒訴します。「この者は罪を犯したので地獄に行かなければなりません」と即座に讒訴します。神様の前に人間の罪を讒訴するこのサタンは、罪を犯したことに違いないのですが、この悪魔サタンの罪を神様の前に告訴した人はいまだにいません。「絶対的な神様、あなたの権限を中心として考えると、悪魔サタンは、私たち人類の前に許されざる悪なる罪を犯し、神様の前に許されざる悪なる罪を犯したので罰してください」と言うことのできる人さえ現れたならば、罪を犯したサタンを除去する道があるのです。そのようにしてもサタンを除去できないとすれば、神様は全知全能の神様ではないと言うしかありません。神様は人間の側の神様ではなく、サタン側の神様だということになります。
八十八
サタンは天使長なので、アダムとエバが完成して天国に入るときには天使長もアダムとエバについて天国に入るのです。天使長が神様の愛を受け、アダムとエバの愛を受けたのちに、共に天国に行くことができるというのが原理であり、創造の原則です。サタンは途中で失敗しましたが、サタンが「私は僕として裏切り者となったのですが、主人であるあなたは、天理の道理を定めた上で本質的伝統を立てました。あなたの立てた原則の上で、完成したアダムと天使長を愛してこそ天国に入ることができるというのが原則なのだから、あなたはその原則を捨てることができないのではないですか」と言うならば、引っ掛かるのです。「お前の言うことは正しい」と言うのです。「私はこのようになったとしても神様は私と同じというわけにはいかないのではないですか」と、サタンはこのように引っ掛けてくるのです。
悪魔は天使長なので「本来、天国に入ることのできる息子、娘は私を愛さなければならないのではないか。神様も、アダム自身も私を愛してから天国に入るのが本来の創造原理ではないか」と言います。悪魔はまた「そのようにならない限り私の讒訴条件を逃れることはできません。あなたは私を愛し、あなたの息子であるアダムも私を愛したという条件を立てなければなりません」と言うのです。このような問題を中心として怨讐を愛せよという言葉が宗教人の中から出てきたのです。
神様と父子の関係になれば、息子が痛哭する立場において父なる神様も痛哭するようになっています。そうなればサタンはびっくり仰天して逃げていくのです。その場にいられないのです。
人間として自分の本然の権威を取り戻すことのできる人、すなわち悪魔サタンよりも上になる人が現れなければ、この世の中を天側に取り戻すことができないのです。言い換えれば全知全能の神様の前に、サタンを引っ張っていって「神様、悪魔サタンがこのような罪を犯したのになぜ審判してしまわれないのですか」と告訴することのできる人が現れなければならないのです。
今まで私たちはサタンに主管されて引きずられてきたので、反対に私たちがサタンを捕らえて、神様の前にサタンを引っ張っていって讒訴しなければならないのです。ところが今日この世では、サタンがいるということは知っていても、サタンがどんな罪を犯したのかは知りません。いまだに全知全能な神様の前で「神様、この罪を犯したサタンをあなたの全知全能の権限でもって処断してください」と讒訴した人は誰一人としていないのです。
それでは神様は全知全能であられるのに、なぜ天使長を打ち捕らえることができないのでしょうか。なぜサタン悪魔をやっつけることができないのかというのです。サタンを打ち捕らえられないのは、神様もサタンを愛さなければならないからです。絶対者であられる神様が立てた天使長が悪魔になったとしても、神様は、天使長を本来の堕落していない立場で考えてやることのできる基準をいつももって歩まなければならないのです。ですから天使長を愛さなければなりません。神様の前に造られたアダムとエバは、神様の体です。ですから神様のみならず、アダムとエバもサタンを愛さなければなりません。
神様が六千年間、愛する息子、娘の首を数千万回も切り落としてきたサタンを追及できないのは、天使長の立場において彼を完全に愛してやれなかった責任があるからです。で
八十九
すから今まで誰かが過ちを犯せば、「神様、あの者がこのようなことをしようとしています」と讒訴するサタンの仕業が背後にあったのです。このような内容は今日統一教会が現れたので分かるのであって、誰も知らなかった内容です。
もし悪魔サタンを引っ張っていって神様の前に訴えるならば、神様が「お前、そうするものではない」とおっしゃられるでしょうか、喜ばれるでしょうか。神様は間違いなく「おお、私の息子よ、たった一人の我が息子よ」と万世の前に立てて祝福してやりたいことでしょう。そうしたい神様の内情がどれほど懇切で、それをどれほど願っておられるかということを私たちは推し量ることができます。神様は絶対的な神様であり、全知全能の神様であり、公義の審判主であられるがゆえに、もし悪魔サタンを告訴し、讒訴する人が現れたならば、神様はサタンを審判することができるのです。
アダムとエバは罪を犯したので、神様が思いのままにできないのです。自分の息子、娘が殺人をしたからといって、母親が変わりに責任を負うことができ、兄弟が代わりに責任を負うということができるでしょうか。できません。それが天の法です。アダムとエバが罪を犯したがゆえに、神様も思いのままにすることができません。そしてまた誰と罪を犯したでしょうか。サタンと罪を犯しました。アダムが罪を犯したのですが、サタンがどうで、アダムとエバがどうだということについて神様はいまだに審判していません。追い出しはしましたが、神様が今でも救いの摂理をしているので、サタンに讒訴されながらも審判することができなかったのです。このような問題は神学的に見て大きな問題です。なぜ処理できなかったのでしょうか。全知全能の神様がなぜ悪魔を処理できないのかというのです。
神様は闘いには関心がありません。神様の創造理想圏、その理想圏内には戦争、闘争という概念はありません。闘争の概念があるとするならば二元論に陥るのです。根本的にこれが一つの理想世界、絶対的な平和の世界とは関係ないところに落ちることになるので、神様の創造世界圏内には闘争という概念はないということを知らなければなりません。
サタンがどのようにして落ちたのでしょうか。それをはっきりと知らなければなりません。サタンは大きいもの、下がっていったものをすべて裂きましたが、天は小さいもの、下がっていったものをすべて合わせて大きくするのです。反対の道です。宇宙の原則、宇宙の生成の原則からすればどのようになっているかというと、真の愛を求めようとする宇宙の根本に立脚してみて、この根本に順応することにおいてサタンは根本的に反対したので落ちていくのです。全知全能で唯一無二であり、永遠であられる神様の本性はすべて一〇〇パーセント「ため」に生きるということです。
90 * 九十
全知全能の神様も歴史を通じて愛の怨讐に報いるにおいて、力と権能であだを討つのではなく、愛の法度を通して屈服させるのです。怨讐が自ら神様の前に完全に屈服して、僕の立場で世界人類の審判を受けても感謝することのできる立場、怨讐をそのような立場にまで引っ張っていこうとされるのです。そうでなければその罪を蕩減することができません。
五 神様を解放してさしあげよう
一) 神様は囹圄(れいご)の立場
誰が悪霊と善霊の闘いを終わらせることができるのでしょうか。それは神様でもなく、サタンでもありません。それでは誰でしょうか。真の愛から出発して真の愛をもっていく、世界万民がついていくことのできる愛の主人公が現れなければ、神様の闘いとサタンの闘いを終わらせることはできないのです。この闘いから解放されない限り、人間歴史世界において平和という言葉は妄想的なものです。理想という言葉は抽象的で感傷的な言葉にすぎません。
それで神様はこの代表者を遣わすのですが、その主流思想をメシヤ思想というのです。救世主思想、救世主は人間だけではなく、神様までも解放する人のことを言います。悪を処断することを意味します。神様解放と悪を決算するための総責任者が救世主です。
救世主の使命は神様を解放することであり、サタンを処断することです。あれほど人間に食いついては讒訴した怨恨のこの元凶を誰が清算するのでしょうか。神様にはできません。唯一メシヤが、救世主だけができるのです。
私たちの願う統一教会とは何でしょうか。父母の宗教を求めていこうということです。甘い生活を求めるのではありません。道義的な関係ではありません。真の父母を中心として真の愛の道理の道を求めていこうというのです。そうして神様を解放しようというのです。愛の原則条件が結びついていなければ解放されないのです。
お父様が愛され、そのお父様が求めようとされる国を考えてみたことがありますか。監獄の道をもいとわずに行けば何らかの道があります。その生死の岐路を開拓してきたのが、民族が進むことのできる道であり、暗黒の淵を越えて希望ある道であるということを知る人はいません。世界万民を解放するためのトンネルを貫通するために、そのような事情を抱いて苦労したということを知る人はいないのです。神様に忠誠を尽くし私がこの道を行くということは、中心をお迎えした中で細心の注意を払って暮らしながら、愛を貴く抱いて侍るべきお方だということをわきまえていくということです。この道は時が移り、歳月が変わっても万世に変わることのない、たった一つの道であると考えて生きていくことです。
神様を解放しなければなりません。私が神様を救わなければならないのです。私が救われようとするのではなく、神様を解放しなければなりません。これが救いの摂理の総決算です。
九十一
統一教会は神様解放のための解放軍です。世界解放ではありません。世界解放は容易です。人間が団結すれば世界解放はできますが、神様の解放は心情圏を団結させなければなりません。愛の圏を団結させることのできる原理と思想体系を備えなければなりません。そうして霊界を解放し、地上に心情圏の橋を架けなければなりません。どんな革命よりも恐ろしい革命です。困難な革命です。ですから人類の解放は容易でも、神様の解放は困難なのです。世界にまたとない困難なその仕事をレバレンド・ムーンが旗手となり、今日摂理史の総決算という表題を掲げて進み出たということは驚くべき事実です。
今日の宗教指導者はひれ伏して祈祷をして恵みを受けようとしますが、私は恵みを与えてくださいと祈祷したことはありません。
「私一人が祭物となって神様を解放しよう」と祈祷したのです。旧約時代は万物を立てて神様の人を探し求めるための時代であり、新約時代は息子、娘を犠牲にして父母を探し求めるための時代であり、成約時代は今まで父母様の家庭を犠牲にして神様を解放するための時代です。本然の父母をこの地上にお迎えし、共に千年万年暮らし……。韓国の童謡の中に「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んでいた月よ……」というのがあります。月桂の木が植えられているのでどうこう、両親をお迎えして千年万年生きたいものだと、これはみな韓民族の啓示的なものです。天の父母をお迎えして千年万年生きたいものだ、私はこの歌を思うたびに胸に熱く込み上げるものがあります。
神様がアメリカに二百年間世界的な祝福をすべて与えたのですが、これをすべて自分たちのための福だと思い、自分たちキリスト教の福だと思い、アメリカだけの祝福だと思っているのです。アメリカとキリスト教を犠牲にして、世界万民を解放し、万民の福祉を建設すべき責任を忘れて、アメリカ第一主義、アメリカ単一主義、個国主義に陥ってしまったのです。世界主義的アメリカのために、自分の一国を犠牲にし、一キリスト教を犠牲にしてでも世界的基盤版図を築くのが神様のみ旨であるにもかかわらず、それに背き反対の立場に立ったのでアメリカ自体もまっさかさまに落ちるのです。家庭が崩れ、教会が崩れ、国が崩れ、すべてがめちゃめちゃです。すべてが病んでいます。
神様と真の父母を解放し、世界を救うために進み、地獄を貫かなければなりません。地獄の底を貫いていけば天国です。これを知らなければなりません。それが近いのです。地獄の底を貫くのです。ですから犠牲になり、奉仕せよというのです。「私が救われるために統一教会を信じる。この道を行く」というのでは零点です。それでは絶対に世界舞台には立てません。「神様を解放し、真の父母を解放し、世界を救うために私はこの道を行く」と言わなければなりません。分かりましたか。内容が違うのです。
死んでも生きてもこの道を正さずしては行けません。これを知っているがゆえに先生は、一生の間このようなことをするのです。はっきりと知らなければなりません。迫害を受け、あちこちの監獄に入りながらもこの荷を背負っていくのです。監獄に入るのが良くて入るのでしょうか。神様のため、神様の解放のために行くのです。人類の解放のため、サタン世界を解放するために行くのです。蕩減復帰の道を行かずしては解放圏ができないのです。安逸な中ではサタンを分立することができないので蕩減復帰の道を行くのです。
九十二
責任分担解放圏というのは心情の解放圏のことを意味します。神様が解放されなければならず、父母様が解放されなければなりません。悪なる父母が現れたので、それに対さざるを得ない立場に立った神様はどれほど苦痛なことでしょうか。ですから父母の解放、神様の解放をしなければなりません。そのような孝子とならなければならないのです。父母様がいまだに苦労をしており……。天の父母に苦痛を受けさせておいて、自分は楽に暮らそうというのですか。自分の息子、娘には良いものを食べさせ楽に暮らそうというのですか。そのようにしたり、そのように考えることができるのでしょうか。
神様を解放してさしあげるべき私たちの生活路程において、摂理のみ旨に対する神様を呼ぶときには、胸が締めつけられ痛哭する心情をもたずしては呼ぶことのできない神様であることを知らなければなりません。ですから洗礼ヨハネも荒野で「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫んだのです。イエス様も「悔い改めなさい。天国が近くまで来ている」と言ったのです。悔い改めなければならないのです。皆さんが摂理のみ旨に向かう立場でどれほど無礼であり、どれほど厚かましかったかというのです。世界において解放できなかったとしても、自分だけでも神様を苦痛から解放してあげなければならないのです。
世界を統一するにはどうすべきであり、解放はどのようにするのでしょうか。サタン圏を統一することのできる神様のような能力をもった人が現れれば、霊界と肉界に分かれたものが一つになるのです。解放されるのです。サタンを主管することのできる人さえいれば、霊界も解放され、肉界も解放されます。神様に解放が必要でしょうか。神様は既に解放されています。神様に解放が必要だというのは、人間を解放するために必要だということです。神様御自身は解放されているのです。人間が解放されていないので、人間を解放するにあたって神様が解放条件に引っ掛かっているだけであって、神様御自身は解放されないお方ではないのです。人間にかかっているのです。
キリスト教思想は再臨思想です。イエス様が再臨して何をなさるのでしょうか。今日のキリスト教信者の中にはとんでもないことを言う人が多くいます。雲に乗って空中に上って千年の祝宴をするのですか。よく知ってみると、それは全く根拠のないことを信じているのです。イエス様が来て何をするのでしょうか。イエス様が来て誇れることは何でしょうか。神様の前に不義を立ててくれと抗拒するサタン、そのサタンを切ってしまわなければ神様はその永遠な抗拒を避けられないのです。
この地に再臨主が来てすることは何でしょうか。キリスト教信者、その数億人にすぎない人々に良い暮らしをさせるための再臨主ではありません。神様を解放しなければなりません。公義の道理の前に立って神様を解放するという責任を果たす主役として来られる方が、再臨主でなければならないのです。
二) 神様の解放は人間がしなければならい
九十三
世界を解放するには、まず神様を解放しなければなりません。神様が解放されてこそ世界を解放できるのではないでしょうか。神様を解放してから世界を解放しようというのです。ですから統一教会を地の果てまで伝播して心情的絆を結んでくいを打ち、世の中すべてを愛でもって溶かそうというのです。その闘いをするのです。分かりましたか。
神様を解放することのできるその位置まで行くべきことを知り、父母様の行く後の終着点を目指して同調する群れが雲集するようにしなければなりません。そうすることによって個人から家庭がつながり、家庭から氏族がつながっていくことでしょう。氏族と民族、国家が犠牲となった祭物的価値を相対的世界、第二次の父母様を迎えた世界に再現させることによって、歴史的に犠牲となったすべての聖人たちを、復活圏の実体として代わりに蕩減復帰しなければなりません。そうせずしてはこの地を離れることができないのが人間の運命であるがゆえに、死んでもこれをなさなければならず、この溝を埋めなければならないのです。これは宿命なので誰もが行かざるを得ません。早く行かなければならないのです。
神様を解放しなければなりません。この地の隅々まで神様が訪ねてこられて「私の創造理想が夜も昼も、歴史を通して成し遂げられたのだ。感謝であり、驚くべきことだ」とたたえることができると同時に、どこへ行っても神様が愛さざるを得ないこの世界の舞台となり、宇宙となり、霊界や肉界も同じようにならなければならないのに、そのようにはなっていないのです。いまだに天のみ座の下までサタンの闇の権勢が占領しているのです。ですから神様を解放するためには霊界を解放しなければなりません。闇の世界から。
「私」という人は解放というのを本当に好む人です。また、統一ということを好みます。どれほど好きでしょうか。生きられないほど、死ぬほどに好きです。統一の門、解放の門はこの文という人にあるのではありません。よく知ってみると、万有の大主宰であられる神様にあるということが分かりました。ですから「神様が好まれるものと言ってもたくさんあるでしょうが、も好まれるものは何でしょうか」と言うと、「私が一番好きなのは解放である」と言うのです。答えは簡単です。「私が一番好きなのは解放だ」と言うのです。
それで「では、なぜ解放ができないのですか」と言ったところ、「一人ではできない」と言うのです。それが病気なのです。神様一人ではできないというのです。
国を愛しましたか。息子、娘を愛しましたか。息子、娘の道を開いてから民族を愛しましたか。世界が行く道を開いておいて、世界を愛しましたか。天に行くことのできる道を開いておいて……。そのようにできるところにだけ完全な解放の夜明けが訪れるのです。夜が明けるとき、その陽光は谷間にまでさし込み、死の中に閉ざされ拘束されていたすべての人間を完全に解放するのです。平和を謳歌し、解放とともに統一の世界が私たちの前に来たと言い、千年の歴史をすべて無視して解放の王子となり、統一の旗手となり、神様の前に褒められるのみならず、神様の愛の懐に抱かれて、永遠無窮の幸福を享受すべし、ということになるのです。そのようにする自信がありますか。
九十四
人類の解放も必要ですが、人類の解放よりも先に、神様を解放しなければなりません。そうしてこそ人類の解放につながるという事実を考えている人はいません。既成教会の牧師も、神様は栄光の中にいる審判の神様だと考えているのです。誤った考えをもっているのです。私の知っている神様はそうではありません。神様を死亡圏から解放しなければなりません。
旧約時代、新約時代、成約時代、その次は完成時代です。完成というのは愛を中心とした完成です。完成は父母の解放、子女の解放、万物の解放、神様の解放です。それが一度になされなければなりません。堕落した父母によって一遍に地獄に行ったものが、天と地をかけて一度に成し遂げられるのです。
民族的背景と民族を代表した人、または団体が現れるとするならば、それはどんな人であり、どんな団体でしょうか。民族の歴史的伝統をもち、時代相を代表して世界へと進んでいくことのできる時代的な使命を、未来的な使命につなげることのできる、そのような団体と個人でなければなりません。それがレバレンド・ムーンと統一教会だということを皆さんは知らなければなりません。それゆえ統一教会の真理には侵略性がないのです。反対に救ってあげようというのです。解放しなければならないのです。万民をすべて解放しなければなりません。解放をもって進むのです。霊界と肉界が合わさって神様を解放しようというのです。
私が称賛され歓迎されるということは夢にも思っていません。祈祷してみてください。統一教会の思想は、統一教会を犠牲にして人類を救い、世界の人類を救って天と地を解放し、その次には神様を解放するのです。神様は御自身が回収したものすべてを再び投入して、完全に堕落のない次元の高い別の世界、天国大移動の局面を願われることでしょう。そのようなことをしているということを知ってほしいと思います。
先生は何でもありません。人類歴史は百五十万年だと言われていますが、永い歴史過程において自分の威信と権威とすべてを忘れて、失った子を探し求めて身もだえするかわいそうな父母の身の上を誰に訴えるのでしょうか。子が現れてそれを解いてさしあげるまでは、その胸の内にしこりとなった恨を解くこともできないし、打ち込まれた釘を取り除くこともできません。釘を取り除いて愛の涙で、血肉で、それが肉となるように解いてさしあげなければならない神様の怨恨の心情を、誰が解放してさしあげるのでしょうか。私の解放よりも先に、神様が解放されるべきであるということを知らなければなりません。これが宗教人の追求する究極的な解放の道だということを知らなければなりません。
幸福の種がどこにあるのか知らなければなりません。堕落して失ったのでそれを取り戻さなければなりません。ですから統一教会を中心として真の神様を求めていこうというのです。今までの神様は復帰の神様です。本来の神様ではありません。怨恨の神様、かわいそうな神様です。喜びの神様ではありません。落胆の神様です。それゆえ元どおりにするためには、復帰の神様を解放してあげなければなりません。お金でするのではありません。権力でするのでもありません。ある人によってするのでもありません。真の愛でしなければなりません。
九十五
苦労によって出発したので、苦労によって終着点を目指していこうと思います。「レバレンド・ムーンの名は悲惨であった」という結論を出そうと決心した人物です。私にはお金が必要ありません。名誉も必要ありません。唯一神様を解放し、人類を解放し、サタンまでも解放して永遠なる愛の基地をつくるのが、新しい祖国を訪ねいく希望峰なのです。皆さんはそれを知って、行く手を険しい山々がはばんでも、朝食を忘れ、昼食を忘れ、夕食を忘れ、昼と夜を忘れながらもその道を行こうと身もだえしなければなりません。そのような生涯が長ければ長いほど天の怨恨を越えた神様の理想的愛が、皆さんと共に、皆さんの家庭と共に、皆さんの一族と共に、皆さんの国と共にあるというのが天理の原則であるということを知って、そのように生きてくれることを願うのです。
偉大だというのは顔が偉大なのではなく、体が偉大なのではなく、思想が偉大なのです。神様までも動かざるを得ず、神様までも私についてこざるを得ないという精神、それが偉大なのです。愛の目的を達成できていない神様を、私が愛をもって解放することを主張するのです。愛の目的を成就できなかったという恨をもっている神様が、今日レバレンド・ムーンに出会って解放されたというのは理論によるものです。妄想ではありません。体系的な理論、科学的なデータによる実証的結果によってこれを主張するのです。
神様を解放するのです。そうすれば終わりです。神様が思いどおりにすることができるのですから全知全能の神様の全権全能を行使する時代が来るので、そこは泰平王国とならざるを得ないということを知らなければなりません。そうしてこそ「アーメン」です。言ってみてください。「アーメン」。
六 神様の解怨と孝子の道
一) 真のお父様が歩み来られた復帰の道
神様のみ旨を成し遂げてさしあげようと決意したことを私はよく知っています。神様の愛がこのようなものであるということを知り、ひざまずいて感謝し、許しの道を行かなければならないということをよく知っている人物です。血が吹き出しても解放の道を行かざるを得ない怨恨の神様だということを知る者はいません。私は拷問を受け、倒れそうな立場にあっても神様の前に祈祷をしませんでした。
私は追い回されましたが、私を助けてくださいと、神様の前に私の行く手を守ってくださいと、私を救ってくださいと祈祷するような人ではありません。私は男としての自分の余力をもっており、自分の気概をもっており、闘うことのできる自体力をもっている人間です。私の力が足りなくて意識を失い倒れたならば助けてくれるであろうから、それまでは自分の力で……。私が行く前に神様が先に準備して待っているということを知っているのです。
九十六
統一教会に神様がおられます。神様がおられるのです。もし私が「あいつ!」と憤りをこらえられずに口を閉じて「今に見ていろ。何カ月かたったときには」と考えようものなら、めちゃめちゃになるのです。それを見ると不思議です。ですから私は舌をかんで我慢するのです。私の口で呪うことはできません。真の父母の名をもった私が自分の口で呪うことができずに唇をかんでいると、天がその怨恨をすべて解いてくれるのです。それを見ると、神様が愛しているということが分かるでしょうか。
主人としての国権をもって、アジアの五千年文化を誇ることのできる、白衣の単一民族の権威をもって主権国家の大統領となり、国会議員となった人は一人としていないのではないでしょうか。解放後に。私はそのような国会議員を立て、そのような大統領を立てようと考えています。これは私一人の願いにとどまるのではなく、神様がそれを願っているということを知らなければなりません。そうなったときアジアは私たちの手中に収まるのです。世界は私の指示どおりに、神様の目指されるところに向かわなければならないということは間違いないということを信じてください。
怨恨の種を抱いている私に安息ということがどこにあるでしょうか。行く道は急がれているのです。千年史をすべて解いていかなければならない道は忙しいのです。私は四十年の生涯、涙の道を逃れられない歩みをしてきた人物です。今も同じです。北の地が神様の新しい愛の園を迎えて、そこに神様をたたえることのできる若者たちの芽が出なければならないのに……。神様に背いた芽として染まっているのを御覧になって神様は顔をそむけられたのですが、その顔を振り向かせることができるようにしなければなりません。私が神様に侍ってそれを再び正常に回復しようという思想をもっているので、そのようなことを共産世界も有り難く思うのであり、民主世界はなおのこと有り難く思うことでしょう。
そこを目指して前進すべし!
西大門刑務所で……。統一教会に死を覚悟して通っていたのに、私がひいきしてあげないので出ていった女性伝道師がいたのですが、その婦人が「ざまあみろ。神様の息子があのざまだ」と言いました。私は「監獄で消えるような男ではない。私は解放の世界に向けて跳躍するであろう」と言いました。その人の顔が忘れられません。以前悲惨に死んだというのを聞いてかわいそうに思いました。私はそのように生きている人なのです。この心に染み込んだ怨恨… …。五大主権者が私にどのように対したか、みな知っています。しかしながら知らないふりをします。復讐しようとはしません。知らないからです。私が一度会って教えてやらなければならないのです。すべて話してから清算しなければならないのです。
それでは先生自身は、この地に来るときにどんな立場に立つのでしょうか。神様の怨恨の心情をもって、残った息子として完成した愛で愛することができなかったこと、兄弟として完成した愛で愛することができなかったこと、夫婦として完成した愛で愛することができなかったこと、父母として完成した愛で愛することができなかったことを、愛することによってその恨の峠を蕩減して解いてあげる立場に立っているのです。
九十七
利他的なものでなければなりません。神様が利他的な創造理想を中心として投入、投入、投入して真の愛を繁殖するようになっているのです。こうすることによって天下をカバーして本郷の地へと帰らなければならないのです。帰る時には怨讐だからといって足でけ飛ばすのではありません。これを愛することによって自然屈服させなければならないのです。自然屈服しなければ神様が定着することができません。それゆえ文総裁が……。私が手段、方法を使えば誰にも負けません。しかしそれを知っているがゆえに耐えてきたのです。火のような性格で今まで四十年我慢するのはどれほど大変だったでしょうか。神様は私以上
であろうに、いかばかりのことでしょうか。
私が後ろを振り返ってみると、神様が私を抱き締めながら涙を流されたことがあります。
「あなたは私の愛の中心です。私はあなたに服従します。あなたに絶対に従っていきます」と祈りつつ、振り返ると、そのように私を抱き締められるのです。その立場はどれほど偉大な立場でしょうか。神様が私にそのような神様の立場を与えてくださるように、今、私もそれと同じ神様の立場を皆さんに与えるのです。何のことか分かりますか。
考えてみてください。歴史を振り返ってみるとき、四十年前、先生は国に追われ、既成教会に追われ、すべてに追われて、荒野に追い出された孤児のような立場にありました。このような立場から歴史的な基準を再び取り戻し、世界的な版図をつくらなければならないみ旨を前にして、このみ旨を成し遂げなければならない先生の立場はどんなに悲惨であったことでしょうか。第二次世界大戦以後に、神側として確定しておいた勝利的キリスト教文化圏と、自由世界を統治するアメリカの基盤をすべて失ってしまった立場だったのです。主人となった立場からこれを失ってしまった悲痛さと、再び四十年蕩減復帰しなければならないことを考えざるを得ませんでした。神様が有史以来、何十万、何百万年をかけても成し遂げることができなかった、人類歴史を終結させることができるという事実をはっきりと知っていた立場から見るとき、どれほど悲痛だったでしょうか。
私は雨が降り雪が降るのも知らずに、夜を朝のように早朝のように感じながら、食事をするのも忘れてこのようなことをしてきた人です。安楽に考えることができません。神様を知っているからです。神様を知った罪、誰よりも悲痛な神様であることを知ったがゆえに、私という一身がばらばらに裂かれることがあったとしても、粉になって吹き飛ばされることがあったとしても、この飛んでいく細胞は神様の一点の細胞であると泣き叫ぶことができるならば、男として生まれて価値のある死だと言いながら、死の道を訪ねてもがいているのです。もがいて滅びると思ったら、なくなると思ったらこのようになりました。
天と地に染み込んだ怨恨がどれほど大きいかを知っているがゆえに、血を吐く立場にあっても神様を慰めなければならないのです。
九十八
「私は死にそうです、神様、助けてください」という祈祷をすることのできない真の父母の立場に立たねばならない悲痛な事情を、誰が知っているでしょうか。知る人は誰一人いません。唯一神様だけが、神様だけが……。いくら統一教会に従う人が多かったとしても、レバレンド・ムーンの思想に一つとなっていません。このようなことを皆さんは知らなければなりません。統一家というものは、今日、解放圏に立った統一家というものは安っぽいものではありません。祝福を受けたという者たちが動くその挙動が今日、悪魔のいとこの立場に立っているということを私は知っています。
「私の闘いがまだ足らなくて、私が涙を流す資格が足らないと感じ、私が悲しめばお父様が涙されることを案じながら、私が打たれて耐え難い悲痛な立場に立てば、天が悲惨な立場に立つのではないかと案じる私の悲痛さは何でもありません。私の悲しみは何でもなく、私の悲しみは何でもありません」と歯を食いしばって私が涙をこぼせば、天が涙をこぼすのではないかと案じ、泣き叫んで怨讐に報いる途上に立ち、先鋒将として勝利の旗を掲げて勇み立つ勇士がいるとするならば、その勇士の前に神様は百倍謝礼するのです。
「お前の名を忠臣としようか、お前の名を孝子としようか、お前の名を烈女としようか。地上の歴史上にたとえ貴い者がいたとしても、お前ほど貴い者はいないであろう」と神様御自身が頭を下げて謝礼するのです。
私文総裁は今まで個人的に孤独な道を歩んできた人です。孤独でも誰よりも神様をよく知っている人です。歴史時代に孤独な立場で悲痛な神様の心情を中心としてそれを呪いつつ自分に恵みを与えてくれという人は多くいますが、私はそのようには考えません。「神様、心配しないでください」と言いました。そこが違うのです。私は個人的な試練ゆえに後退するような男ではありません。世界の試練を越え、神様を解放して死のうという男が、個人的な過程で降伏することはできません。卑怯者にはなれません。自分の妻が反対しても切ってしまったのです。子が反対しても切り、父母が反対しても切り、国が反対し、四
千万、六千万が反対する道を歩んだ人です。
時間が余りにも短いのです。一生においてこれを直し、満たすためには時間がないのです。先生の生涯がそうなのです。ですから世俗的に見れば先生の生涯はかわいそうなものです。神様に「先生はどんなお方ですか」と聞いてみてください。先生は痛哭するしかない痛みを感じながら、心臓をえぐり出すような痛みをもって身もだえするような悲痛さを体恤しています。先生は地上では悲惨な男です。そのような苦労を誰も知りません。皆、自分が立派な人だと偉そうに威張っているだけで、先生の苦労を知りません。お母様も知りません。
神様が六千年間苦労して残された功績をすべて失い、興南収容所へ行った先生の悲痛な事情を皆さんは知りません。故郷を離れることが問題ではありません。妻子が問題ではありません。天と地の未来の希望として解放の民族が、私を歓迎しようとしていたその群れが、雲の中の地獄へと消えていく、暗黒世界に去っていくのを見て、痛哭しながら再び会おうと叫んだのがきのうのようです。「お前たちは消えていったが、私は再び私の行くべき道を歩み、光明の朝日を抱いてお前たちを再び探し出して解放しよう」と宣言したのがきのうのようです。手錠をかけられ叫んだその声を忘れることはありませんでした。困難なとき、いつも祈祷したその姿を忘れることができません。
「神様、あなたはこのようなお方ですね。私の知っている神様はこのようなお方です」
九十九
と言うと、神様は手を握って痛哭し「お前にはそれが分かったのか。我が息子よ」と言うことになります。その言葉を聞けば、神様は痛哭するのです。大声で痛哭するその声はどれほど大きいでしょうか。その因縁は千年歴史に延長させることができないということを神様は知っているので、涙を拭き痛哭をやめて「我が息子よ」と言うのです。それができる息子が必要であり、娘が必要な神様の立場を知らなければなりません。
「私は神様の真の勇士となろう。神様のための戦場がどんなに悲惨であろうとも私はその前線に参与しよう」というのが先生の精神です。いくら世界の迫害が押し寄せても、孤独単身で迫害を受ける立場、苦痛の立場にあっても私は神様に一度も不平を言ったことがありません。これがレバレンド・ムーンの誇りです。
絶対的に神様を信じなさい。左にも信じることができず、右にも信じることができず、東西南北、前後左右、全部信じることができません。絶対的に信じれば中央線に行くのです。絶対的に信じれば一つの位置を求めていくのです。絶対的な位置、神様がいらっしゃるところを求めていくのです。そこからすべてが解かれるのです。それゆえに信仰には独裁性が多いのです。話し合うことができません。ねじれているので強制的にでも角度を合わせなければなりません。ですから神様がどれほど苦痛で、私たち人類がどれほど苦痛なことでしょうか。
二) 神様の解放のための生涯
私が悔しいとすればどれほど悔しいでしょうか。歴史上で私以上に悔しい人はいないでしょう。痛哭せよというとき、私以上に痛哭する人はいません。この地上で千年歴史を抱き、失った悲しみを抱いて痛哭する痛哭、文総裁が心から流れ出る神様の心情を感じながら痛哭するその痛哭には及びません。そのような根の上に意地を張って座り、そこで自分がよく食べ、楽に暮らすのですか。そんな者がくたばって死んだ死体は犬も食いません。
はっきりと知らなければなりません。
いつも気分のいい男の姿をして困難な蕩減の峠を平気で越え、神様に侍り続け、神様を慰労しながら峠を越えなければ平和の地上天国はできません。その代表者、公的な人は孤独な人です。ある一人の人が立ち上がって「文先生はこのようなことをされ……」と一言言えば、先生は痛哭する心情をもっています。年を取って涙が渇れる七十のおじいさんなのに、誰もその悲しみの涙が流れるのを止められない寂しさをもっています。そのような父母がいるということを忘れてはなりません。
100 * 百
皆さん、考えてみてください。私は監獄生活をたくさんしました。五年以上監獄生活をしましたが、雨が降って軒先から落ちる水滴が岩に穴を開けるということを思い、「私の愛の涙の粒が神様の胸の中にしこりとなった恨の岩を貫通することができるならば、そうできれば……」と思いながら、その水滴を見て痛哭した事情が皆さんには分からないことでしょう。流れていく水を見て、この水の流れが神様をお迎えして神様が来られて沐浴することのできる澄んだ水の流れとなったらどれほど良いでしょうか。そのような愛の巣、安息所を、人間として神様に準備してさしあげることのできる子となったらどれほど良いでしょうか。そのような心情の深い世界を皆さんが体験できないとすれば、神様と関係がないのです。
憤りをどれほど堪えてきたことか知れません。息が詰まり、この五感すべてが一度に詰まって痛哭したことがどれほどたくさんあったことでしょうか。皆さんに会うためではありません。人類の主権者たちを屈服させるためです。どういうことか分かりますか。こん棒や銃剣によってではありません。愛の血統を通して彼らを感化して自然屈服させなければ、天地に神様の願う平和の園ができません。平和の王国建設は不可能です。
この世で生きるのにどれほど困難なことが多いでしょうか。今日歩いていてどうなるか分かりません。その恐怖の環境から抜け出すことができないかわいそうな人生です。この恐怖の環境と混乱の中に立っている私に教えてくれる師は誰でしょうか。師がいません。ここに立っている私はそのような問題のゆえに痛哭し、身もだえしました。神様がいるならば、なぜ師の役目を果たせないのでしょうか。知ってみれば神様は愛を原則とした師だったのです。これを知らずに神様を恨みました。愛を中心とした師なのです。
近は朝起きて顔を洗い、髭を剃りますが、夕方疲れて帰ってきて一時間ほど寝たことがありました。少し横になったのです。それから出ていって顔を洗い、髭を剃っていると、それを見て「どうしたのですか」と、朝ではないと言って笑うのです。そのように暮らす
百一
のです。心は一つです。精誠も一つです。先生がどんな方かと、神様に祈祷してみてください。痛哭されます。舌が出て戻らないほど痛哭されるのです。そのような事情をもって暮らす先生だということを知らなければなりません。
堕落した人間の側では救世主ですが、神様の側から見れば初めに失った真の愛の創造理想を完成する真の息子であり、真の父母です。救世主は堕落によってもたらされた神様の恨を解いてさしあげるために生涯を捧げて犠牲の道を開拓してきた方です。栄光としてだけいらっしゃるお方ではありません。常に神様の心情と共に痛哭し、サタンを屈服させるために心を痛め気をもむお方です。
誰の神様にするのですか。アメリカの神様にするのですか、大韓民国の神様にするのですか。私の神様にするのですか。どれですか。欲張りですね。そうするには民族以上に神様のために努力すべきです。神様が文総裁が好きだとしても、文総裁以上のことをすれば神様は間違いなく文総裁以上に皆さんを好きになることでしょう。それは間違いない公式ではないですか。そこには異議がありません。私は、私以上に神様を慰め、神様のみ旨のためにより奉仕し、功労を立てることのできる人を求めるのです。もし自分より劣る人を望むとすればそれは独裁者です。
マラソンの選手がスタートラインから八〇パーセントのところまで来た所で、百メートル、千メートル前に出ているとすればどうしますか。そこで転べばおしまいです。マラソンのチャンピオンが走るときに観衆は「ゆっくり走れ」と言うでしょうか。「速く走れ、速く」と倒れるまでそう言うことでしょう。同じです。記録を作らなければなりません。レバレンド・ムーンが高記録をもっていてこそ、神様は 高の賞を下さるときに堂々と下さることができるのです。その時まで、その時まで押すのです。
出発において誤ったのです。あきれて言葉が出ません。出生において過ちがあったとは、大きくなって分かったのですが、養子といっても乞食の中から、孤児院から乞食を連れてきて育てたというのです。これは乞食よりもっとひどいのです。幼いときは自分の両親だと思っていたのに、大きくなってから自分が乞食の息子だったということが分かったのです。乞食の出だということが分かればその家はどうなるでしょうか。ひっくり返るのです。
痛哭してひっくり返るのです。育ててくれた両親を自分の本当の両親だと思っていたのに孤児院で育った息子だという事実を知ったならば、どれほど驚くでしょうか。私たち人間世界でもこれほど大変なことなのに、天はそれ以上なのです。神様の王権、天国の王宮の皇太子が野良犬と関係をもってこのようになるとは。地獄の王になるとは。
文総裁と統一教会の夫婦の理念は、神様の血統を受け継いで生まれた息子、娘として千年万年、永遠な父母に侍り、永遠に我が息子、我が娘とたたえることのできる息子の資格、娘の資格をもつことです。その立場を通過してこそ神様の心の中に残っている堕落の傷を解くことができるのです。そのように神様にすがって「お父様、どれほど苦労されましたか」と言えば、その一言に神様が痛哭をする
百二
のです。胸が張り裂けるほど痛哭せざるを得ないのです。「ありがとう、私が数千年の歴史をこのようにしてきた」と言うのです。人類創造歴史が何千万年です。六千年ではありません。それを聖書では文化史を中心として言っているのであり、救いの摂理に着手するためのみ旨を中心としていえば、事実何千万年にもなるのです。
自分の欲心を中心として統一教会を利用しようという人、ありとあらゆることをした人を歴史上見かけても、知っていてもだまされたふりをしてやりました。なぜだまされてやるのでしょうか。神様が今までそのようにしてだまされてきました。裏切り、背を向ける姿を見るたびにあきれ驚いて「あいつ、雷を落として首を、日本刀があったら一気に首を落としてやりたい」という憤慨と悔しい思いが爆発するのですが、彼らが帰ってくることを願っている天の心があることを思うと、そうはできないのです。かわいそうな神様にすがって許そうという心をもってきたところ、そのたびに節ができます。分かりますか。統一教会の一つの節ができるのです。竹に節があるように、節ができるのです。そうして家庭的節目、氏族的節目、民族的節目を刻んでいくのです。
歴史的師が生きた苦痛、神様の歴史的苦痛を流し去ってしまってはならないのです。私の心の深い愛を大切にしまい、あの世に行って出会ったら首を抱いて「あなたが悲しかった事情をみな知り、その度数に合わせて生きようとしましたが、及びませんでした。これを許してください」と言いながら涙をのんで痛哭する心が先立つときは、神様にすがって痛哭するとしても神様も共に泣きながらかき抱いてくださるのです。そのような日をもてずしては解放できないと考えている人です。妻の愛がどんなに大きいとしてもその立場に及ばず、父母の愛がどんなに大きいとしてもその立場に及ばないのです。それを知っているので、解放のためによそ見も寄り道もできずに歩んできたのです。
また会うときまで昼夜を分かたず、御飯が食べたければ先生のことを思い、御飯を食べないでみ旨のために先生がしていることをしなければならず、眠たくなったら眠らない先生を思ってみ旨のために闘っていかなければなりません。非難を受けながらも弁解せずに忍耐してきた師を考えなければなりません。それ以上の心をもち、あすの勝利に対する欲望をもって、自然屈服する怨讐の群れを見るために自らの実績をもって行こうという心をもたなければなりません。そうした努力をしてこそ、皆さんが生きる道があり、この民族が生きることができるのです。
ある時には、死刑宣告を受けたという連絡を受けたこともありました。そのようなときに統一教会の教主であるこの私が、どうして涙なしに夜を明かすことができるでしょうか。
百三
哀れにも私という人を知らなかったならば、そんなことにはならなかったのに。国境を越えに越え、一度も会ったこともない師に従って歩み、後に東方の韓国に向かって「私は行きます」と両手を合わせて祈り、 後の道を行く彼らを、かき抱いてあげることもできず、助けてあげることができない心情を皆さんは分かりますか。悪魔の前に受難を受け、苦痛を受けて捕虜となっている彼らを哀れに思う天の心情を知りながらも、昼夜を分かたず前進しなければならないと追い立てたのです。
私は統一教会の教主になろうとは夢にも思いませんでした。今もそうです。私は教主という観念をもっていません。平民なのです。きょうも洋服を着ないでネクタイも結びませんでした。一つでも不足な装いをしてこそ気持ちが楽なのです。なぜでしょうか。統一教会の食口たちは全世界に広まって、この時間にも雨降る軒下でぬれた服を着て先生を慕いながら、「先生が御安泰であられるように」と敬拝していることを知っているからです。福を祈っている立場を蹂躙してはなりません。それで目さえ開けば眠れずに、このような罪人のような教主の生活をしているのです。それゆえに統一教会の教会員たちが文総裁を無視できないのです。