第一章 神様の本体 (天聖経 縮約本 - 第一冊 真の神様)

訓讀王 | 20190721112922

天聖経 縮約本 - 第一冊 真の神様


第一章  神様の本体 


神様は無形の主体であられる

 

  ) 無形でおられる神様

 

神様はどんな形態ももっていらっしゃいません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。

 

人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心はどこにあるのでしょうか。頭にあるのでしょうか、心臓の中にあるのでしょうか。心は、私の体の中のどこにでもあります。私の体の中にないところはありません。同じように神様がいらっしゃるならば、神様もこの世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでもいらっしゃいます。

 

神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であるので、霊界に行っても見ることができません。

 

 ) 本来は自然に分かるようになっていた

 

人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいないのかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中でお乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが堕落することにより全部忘れ去ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です。

 

神様に似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じていつも神様がいらっしゃることを歴史を通して認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば神様に対して疑うようなことはできなくなるのです。堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼べばすぐ現れるようになっていたのです。そのような基準になったならば、誰が神様は存在しないと否認するでしょうか。否認することができないのです。

 

私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。

 

その境地が問題なのです。言い換えれば、体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。

 

無形の神様は体が必要

 

) 体をもつためにアダムとエバを創造

 

神様はなぜアダムとエバを造られたのでしょうか。神様は無形でいらっしゃる方なので、実体の形状をもった父母になれなければ形状の子女を愛することができないので、体を着るためなのです。アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。三つ目は、神様は中心軸をもった垂直の父で面積がないので、面をもとうということです。

 

  ) アダムは宗の祖先、有形の神様

 

神様は第一に、体を持つためにアダムとエバを創造され、第二に、愛を完成するために創造されたのです。このようなアダム、エバが完成し二人が一つとなれる愛の実体になれば神様が臨在し、人類の前に愛の父母となるのです。そうして、神様の形状的実体の父母になったアダムとエバが実体の子女を繁殖することによって理想世界ができるのです。そのようになれば、人間を通じて霊界と地上世界が連結されるのです。その目的もあって人間を造られたのです。

 

それで神様が愛を中心としてアダムとエバに臨在されることによって人類の真の父母、実体の父母としていらっしゃってから、アダムとエバがあの世へ行けば、霊界でもアダムとエバの形状で体をもって父母の位置に顕現することができるのです。

 

実体をかぶった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆえアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。

 

神様は人格的な神

 

) 神様は知情意をもった人格神

 

神様は、どんな神なのでしょうか。人格的な神です。知情意を合わせた内容をもった人格的な神です。そのような人格的な神が最高に願うのが愛なので、その愛の対象として私たち人間を造ったというのです。これは驚くべき事実です。

 

神様は父であられる

 

) 神様と人間は父子の関係

 

 神様と人間は父子の関係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。神秘の境地に入ってこの宇宙の中心が何であるかと尋ねると、父子の関係だという答えを得るのです。宇宙の中心とは何でしょうか。一言で、父子の関係です。

 

神様も発展して来られた

 

本来、絶対者なる神様はどのように始まったのでしょうか。一度にさっと出てきて生まれたのでしょうか。それが気になりませんか。

 

統一教会員も仕方なく「自然にいらっしゃる?」と言うでしょうが、違うのです。神様も発展していかなければならないのです。

 

  法度の中での全知全能である  

 

) 原則的基盤の上での全知全能である

 

天地すべての存在物は法則、大原則によって作用するのです。いくら神様でもこの法則を破壊して行動することができないのです。この国の大統領でも憲法を中心として制定したすべての法、立法を通じて制定した法を重要視しなければならないのです。そのようにしていないので、今騒いでいるのではないですか。

 

  )  愛のみが絶対基準である

 

 神様は愛が好きですが、神様が一番好きな愛はどんな愛でしょうか。真の愛です。ところで真の愛ですが、どのようなものが真の愛ですか。真の愛というのは愛の根をどこにおいて言いますか。その根を神様においていないのです。それはおかしな話でしょう。全知全能の神様が真の愛の主人公なのにもかかわらず、その愛の根は神様から始めたくないというのです。その愛の対象になることができる人に根を植えたいと考えるのです。

 

愛によって遍在される  

 

 ) 愛だけが境界を出入りする

 

 神様の心は神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあるのです。天地のどこに行ってもそこに神様の心があるというのです。ですから天はいらっしゃらないところがないのです。すなわち遍在すると言いました。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが眺める物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のすべての存在物を私の物として抱こうとする心をもたなければなりません。

 

人間は神様に似た

 

 神様が遍在されるので私たちも遍在するものに似たいし、神様が全知全能なので私たちも全知全能になりたいし、神様が唯一無二なので私たちも唯一無二を願うのです。これが似ました。私自身が神様に似たので、私を神様に似るようにつくりたいのです。私自身がすべての天下を治めたいのです。これがすべて同じように神様に似たのです。


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第一章  神様の本体  

 

神様は無形の主体であられる

     ) 無形でおられる神様

 

神様はどんな形態ももっていらっしゃいません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。

 

神様は果たしていらっしゃるのでしょうか。誰かがつねって「あっ」と叫ぶことよりも、おなかがすいて御飯を食べるよりも、もっと事実的に感じることができる神様がいるのでしょうか。問題はそこにあります。本当に神様がいらっしゃるとするならば、問題はすべて解決されます。

 

人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心はどこにあるのでしょうか。頭にあるのでしょうか、心臓の中にあるのでしょうか。心は、私の体の中のどこにでもあります。私の体の中にないところはありません。同じように神様がいらっしゃるならば、神様もこの世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでもいらっしゃいます。

 

神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であるので、霊界に行っても見ることができません。

  

私たちは空気が通っていることが分かりません。空気が通っているのにそれを感じられません。空気が通っているのを感じられないのに、神様が通っているのが分かるのかというのです。神様は無形の神としていらっしゃるのが最高の便利な方法です。そうしながら、この大きな宇宙をふろしきで包んでも余りある、そのような神様でなければならないのです。無形の神様ですが、神様の心はこの宇宙よりも大きいものを要求しているのです。

  

 ) 本来は自然に分かるようになっていた 

 

人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいないのかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中でお乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが堕落することにより全部忘れ去ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です。

  

神様に似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じていつも神様がいらっしゃることを歴史を通して認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば神様に対して疑うようなことはできなくなるのです。堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼べばすぐ現れるようになっていたのです。そのような基準になったならば、誰が神様は存在しないと否認するでしょうか。否認することができないのです。

 

「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私が考える前にいらっしゃたのです。私のすべての感覚、私の一切を主管する方であるという立場でなければなりませんそれを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。

私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。

その境地が問題なのです。言い換えれば体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。

   

無形の神様は体が必要

) 体をもつためにアダムとエバを創造

  

神様はなぜアダムとエバを造られたのでしょうか。神様は無形でいらっしゃる方なので、実体の形状をもった父母になれなければ形状の子女を愛することができないので、体を着るためなのです。アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。三つ目は、神様は中心

軸をもった垂直の父で面積がないので、面をもとうということです。

  

  ) アダムは宗の祖先、有形の神様

 

神様は第一に、体を持つためにアダムとエバを創造され、第二に、愛を完成するために創造されたのです。このようなアダム、エバが完成し二人が一つとなれる愛の実体になれば神様が臨在し、人類の前に愛の父母となるのです。そうして、神様の形状的実体の父母になったアダムとエバが実体の子女を繁殖することによって理想世界ができるのです。そのようになれば、人間を通じて霊界と地上世界が連結されるのです。その目的もあって人間を造られたのです。

それで神様が愛を中心としてアダムとエバに臨在されることによって人類の真の父母、実体の父母としていらっしゃってから、アダムとエバがあの世へ行けば、霊界でもアダムとエバの形状で体をもって父母の位置に顕現することができるのです。

 

実体をかぶった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆえアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。

  

神様は人格的な神

) 神様は知情意をもった人格神

 

今日、多くのキリスト教信者たちは、神様は唯一無二のお方であり、絶対的な方であり、創造主であり、至高至善の位置にいらっしゃるので、被造人間すなわち被造物と創造主は関係をもつことができないと考えます。被造物は俗なるものであり、創造主は絶対的で神聖な方であると見ます。しかし愛の概念を中心として見る時、至高至善の神様であり、どんなに低俗な被造物だとしても愛の関係を結ぶためには人格的内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。人格を備えた人間と性稟が同じでなければならないのです。

 

神様は、どんな神なのでしょうか。人格的な神です。知情意を合わせた内容をもった人格的な神です。そのような人格的な神が最高に願うのが愛なので、その愛の対象として私たち人間を造ったというのです。これは驚くべき事実です。 

  

神様は父であられる

) 神様と人間は父子の関係

 

 神様と人間は父子の関係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。神秘の境地に入ってこの宇宙の中心が何であるかと尋ねると、父子の関係だという答えを得るのです。宇宙の中心とは何でしょうか。一言で、父子の関係です。

 天地の中心と宇宙の根本とは何ですかと、神様に祈祷してみれば、父と息子、娘の関係、父子の関係だと言います。分からない人は、肉親の父、母、息子、娘との関係だと思うでしょうが、神様との根本関係を言っているのです。

  

 神様と人間が父子の関係だと言いましたが、父子の関係がもつ特定内容とは何でしょうか。

父と息子が出会うことができる最高の場は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば愛と生命と理想は一つの場所にあります。その場所に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定することができる初の因縁が、父子の関係です。

  

 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をすべて投入して創造した人間なので、神様を引っ張れば引かれてこざるを得ないのです。

 

 神様は愛のために創造しました。愛ゆえに創造したので、男性と女性が愛し合うのを見るのがもっといいのです。それゆえ、神様は存在世界の前に現れるとき、愛の本質として現れます。

 

 子供は、お母さんとお父さんの愛の実現体であり、投入体です。お母さん、お父さんの生命の延長体です。またお母さん、お父さんの理想の具現体です。子供はお母さん、お父さんの愛と生命と理想の基盤から生まれるので、父母はその子を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対なのです。

 

 神様と人間は、絶対的な相対として愛の関係を中心として生まれた存在です。その位置が、神様は父となり、私たちは息子、娘となる位置です。もしそれ以上の位置があるならば、人間の欲望はまたその位置を占有しようとするのです。人間の欲望は最高を追求するので、それ以上のものがあったとしたら私たち人間に与えなければならないのです。このような点から見るとき、当然神様は人類の父であり、人間は神様の息子、娘です。

 

 神様が人間を造るとき、無価値に造ったのではないことを知ることができます。無価値に造ったのならば、神様は異常な神様です。神様は絶対的な方なので、何でもすべて知っています。それなのにそれを知らずに造ったならば、その神様は不完全な神様です。神様は絶対的な方なので、私たち人間を造るときも絶対的な相対として造りました。

 

 天地を創造した神様はどんな方でしょうか。

極めて善なる方であり、すべての万物の根本となる方であり、愛の主体です。ですから神様は天地万物を創造したのち、全宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。神様は自分が本当に信じることができ、愛することができ、すべてのものを任せることのできる人がいれば、一番貴いものをそっくりそのまま与えたいのです。

 神様が私たちの父ならば息子、娘を造るのに、いい加減に造り、駄目なものを造りたくなかったのは間違いないことです。神様は人間を全知全能なる神様のような同等の位置、同位の立場に立つことができるように造られたので、私たちの良心は最高のものを希望するのです。

 

神様も発展して来られた

 

本来、絶対者なる神様はどのように始まったのでしょうか。一度にさっと出てきて生まれたのでしょうか。それが気になりませんか。

そんなことを言えば既成教会の信者たちは、「ううー、創造主は聖なる方なのに、その冒涜も普通の冒涜ではない。ばかげたことはやめなさい!」と言うのです。神様が生まれて出てきたのでしょうか。ただそのままいたのでしょうか。気になりませんか。その問題に対するには、論理的背景を備えなければなりません。

尹博士。どのように出てきましたか。

物理学の博士様がそれを知らなければならないではないですか。博士様がそのように顔を隠せば恥ずかしいではないですか。

統一教会員も仕方なく「自然にいらっしゃる?」と言うでしょうが、違うのです。神様も発展していかなければならないのです。そのように言えば正しいのです。

   

  法度の中での全知全能である  

) 原則的基盤の上での全知全能である

  

 神様一人ではできないのです。今日、既成教会の牧師は「全知全能の神様が、創造能力をもった神様がいつでも思いどおりにできるでしょう」と言うかもしれませんが、とんでもありません。

天地すべての存在物は法則、大原則によって作用するのです。いくら神様でもこの法則を破壊して行動することができないのです。この国の大統領でも憲法を中心として制定したすべての法、立法を通じて制定した法を重要視しなければならないのです。そのようにしていないので、今騒いでいるのではないですか。

 

  )  愛のみが絶対基準である

  

 神様は愛が好きですが、神様が一番好きな愛はどんな愛でしょうか。真の愛です。ところで真の愛ですが、どのようなものが真の愛ですか。真の愛というのは愛の根をどこにおいて言いますか。その根を神様においていないのです。それはおかしな話でしょう。全知全能の神様が真の愛の主人公なのにもかかわらず、その愛の根は神様から始めたくないというのです。その愛の対象になることができる人に根を植えたいと考えるのです。

  

愛によって遍在される  

 ) 愛だけが境界を出入りする

  

 神様の心は神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあるのです。天地のどこに行ってもそこに神様の心があるというのです。ですから天はいらっしゃらないところがないのです。すなわち遍在すると言いました。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが眺める物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のすべての存在物を私の物として抱こうとする心をもたなければなりません。それが天の心です。最高の道に通じた人がいたとすれば神様の心に所有された人です。飛ぶ鳥一羽、香りを放つ花一束を見ても、永遠を歌うことができる境地に入る心をもった人は、万物の中にあるのではなく、神様の心の中にあるのです。

 

それでは神様の遍在性をどのように感じるのでしょうか。空気を神様の息吹のように感じなさい。台風が吹いてきたら、それを神様がこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさいというのです。

 

太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知って、神様の愛を太陽に学ぶのです。神様の心情を体恤する一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てられたのが自然です。木の葉を見て自分の息子、娘のように思って一人つぶやくことができる人がいれば、彼は聖人に近いのです。

 

人間は神様に似た

 

 神様が遍在されるので私たちも遍在するものに似たいし、神様が全知全能なので私たちも全知全能になりたいし、神様が唯一無二なので私たちも唯一無二を願うのです。これが似ました。私自身が神様に似たので、私を神様に似るようにつくりたいのです。私自身がすべての天下を治めたいのです。これがすべて同じように神様に似たのです。

  

  既存神観の問題点  

) 既存神観は二律背反的である

 

 今、数多くの宗教人たちは「神様」と言えば、栄光の宝座に座って、全知全能であられ、遍在される方、また絶対的な権限をもっておられる方だ、このように考えているのです。それで神様は苦痛とか悲しみとかそのような概念と関係ない方だ、このように考えています。そう言いながらキリスト教では神様をどのような方と言うかといえば、天のお父様だ、とこのように呼ぶのです。そしてお父様と呼ぶすべての信者は罪悪の世の中で悔い改めなければならず、信仰をしなければならないと言います。父子の関係にあるのに、神様と人間がこのように二律背反しているというのです。

  

 統一教会の原理が偉大なのは何かと言えば、創造性が具体的だということです。創造がどのようにされたのかということが分かるようになっているのです。その次にどのように堕落したのかという実質的な論理があります。その次には歴史観があります。歴史時代において神が堕落した人間を放置したままにしないで、再創造するためにどれほど苦労されたのかということがはっきりしているというのです。そうして過程を通して目的の世界に到達するということを理論的に一目瞭然に明らかにしたのです。

  

&&&& 原文 &&&&

 

第一章  神様の本体  

神様は無形の主体であられる

     ) 無形でおられる神様

 

神様はどんな形態ももっていらっしゃいません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。

 

神様は果たしていらっしゃるのでしょうか。誰かがつねって「あっ」と叫ぶことよりも、おなかがすいて御飯を食べるよりも、もっと事実的に感じることができる神様がいるのでしょうか。問題はそこにあります。本当に神様がいらっしゃるとするならば、問題はすべて解決されます。

 

人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心はどこにあるのでしょうか。頭にあるのでしょうか、心臓の中にあるのでしょうか。心は、私の体の中のどこにでもあります。私の体の中にないところはありません。同じように神様がいらっしゃるならば、神様もこの世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでもいらっしゃいます。

 

神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であるので、霊界に行っても見ることができません。

 

知恵の神様、全知全能なる神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在としていらっしゃいながら主管することが一

番便利だと考えられたのです。神様は無形であるだけに、存在世界を思いどおりに突き抜けてきたとしても少しも支障を感じません。皆さんは体がありますが、神様が来て思いどおりに過ぎたとしても皆さんには分からないのです。神様がこくりこくりと居眠りしている皆さんの体を思いのままに踏んでいったとしても分からないのです。それでどんなに便利でしょう。ですから神様は考えた末に見えない神様としているのが一番便利だろうと思い、見えない神様になったという論理は妥当な論理です。

 

私たちは空気が通っていることが分かりません。空気が通っているのにそれを感じられません。空気が通っているのを感じられないのに、神様が通っているのが分かるのかというのです。神様は無形の神としていらっしゃるのが最高の便利な方法です。そうしながら、この大きな宇宙をふろしきで包んでも余りある、そのような神様でなければならないのです。無形の神様ですが、神様の心はこの宇宙よりも大きいものを要求しているのです。

 

皆さん! 愛をもっていますか。生命をもっていますか。皆さんの血統を継ぐことができる精子と卵子をみなもっているでしょう。良心ももっていますか。それでは愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見ましたか。その存在の現象は知っていますが、触ることも見ることもできないことを知らなければなりません。ただ心で感じてこそ知ることができるのです。同じ論理で神様がいるのかいないのかと言う時、または神様を見たのか見なかったのかと尋ねる時、見なかったと言うことができないのです。心の中に神様が入ってきて、いらっしゃれば心が分かります。神様が心の中に入ってくれば壁も突き通して見ることができ、じっと座って何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。永遠なる神様が心の中に入ってくればそのようにすることができます。

永遠を時間ではとらえることはできませんが、永遠の中に時間があります。ですから神様は見えなくても心は分かるのです。

 

 神様はどのように愛するのかと言う時に、答えるのが大変でしょう。神様は無形の神なのでどこでも通ることができることを知らなければなりません。若奥様の目の中に入って心臓の中にも入って……。どこにでも行けないところがないのです。すべてに通じるのです。

それでは、神様はどこに住んでいらっしゃるのでしょうか。神様の住んでいる家は私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性的心情がとどまり、女性の心には女性的心情が入り、生きるというのです。

 

全知全能なる神様、すべての天下を料理される神様がここにいらっしゃるとしましょう。力で言えば太白山も吹き飛ばし、地球にも穴を開けることができる能力の神様なのですが、そのような神様を皆さんの目で見ながら生きるとしたら生活することができると思いますか。神様が見えなくて良かったというのです。見えれば皆さんは神経が衰弱して一時間も我慢できないのです。ですから神様が見えないことを有り難く思わなければなりません。これは笑い話ではありません。今までの話は私がそのような問題を中心として深刻に通過してきた経験談です。他人のことを言ったのではな

く、私が今までたどってきた経歴報告のような話です。

 

もしこの世界に空気が一升しか残っていないとすればどうなるでしょうか。神様が意地悪な方ならば、世界統一は問題ありません。多分五分以内に統一されるでしょう。神様が空気をすべてもっていって「お前たち統一するのか、しないのか」と言えば、世界人類が合唱して「統一します」と言うのです。そのようにすれば一遍に統一することができますが、神様が空気をもってそのようにされないことは有り難いことです。空気がなければ私たちは生きることができません。このように空気は生命に絶対に必要な要素です。ところが空気に対して有り難く思いもせずにどろぼうみたいに使っています。

 

天宙の大主宰なる神様が人間の目に見えるようになれば、神様をお互いが奪い合おうとしてけんかをするでしょうか、しないでしょうか。このけんかを防ぐ道がないのです。神様が見えなくて良かったのです。もし神様が見えたとすればアメリカとソ連がお互いに自分の神様だと争うでしょうか、争わないでしょうか。争うのです。その争いを誰が止めることができますか。神様は全知であられ、こんな争いが起こるかもしれないので無形でいらっしゃるのです。神様が見えることを願うのはばかげた行為なのです。見えなくて良かったのです。

 

この宇宙は神秘に包まれています。その大きさが二百十億光年にもなる大宇宙です。一光年とは光が一年間かかって行く距離を言います。一秒間に地球を七周半も回ることができる光ですが、この光が一年間かかって行くのが一光年です。それではこのように大きい宇宙を支配することができる主人はどれほど大きいでしょうか。背が高いとすればどれほど大きいでしょうか。神様がそれほど大きければ神様自身が足手まといな体を引きずって歩き回ることができるでしょうか。ずるずると歩き回るとすればどれほど大変でしょうか。一度動けば、宇宙が全て驚き倒れるのです。神様は知恵深い方です。それで「見えない主人になろう」と考えられたのです。

 

それでは神様がどれほど重いですか。それを考えたことがありますか。神様がどれほど重いですか。斤数で量れば何斤になるでしょうか。何億万トンになるでしょうか。重ければその体で歩き回るのは大変ですが、神様は無形でいらっしゃるので理想的です。財布に入れて歩いても重くありません。また、無形なのでどんなに狭い針の穴も通り抜けることができます。思いどおりに運行できるのです。大きいと言えば大きいのに、小さいと言えば無限に小さく、この宇宙どこにでも思いどおりに運行することができるのです。

 

一番貴重な物があったなら、いつも持ち歩きながら、一時もその物と離れたくないのです。

それでは最高の宝物といえる神様を持っているとすれば、その方をどこにしまっておきたいでしょうか。安全にしまっておくことができる倉庫があるとしたらどこでしょうか。その倉庫が私たちの心です。人間の心が神様を安全にしまっておくことができる倉庫です。

 

神様は無形なので、有形の存在を自分より重要視しなければならないという結論が出るの

です。そうでなければ回らないのです。また、人は自分の体より見えない心と神様をもっと重要視しなければならないのです。

 

 ) 本来は自然に分かるようになっていた 

 

人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいないのかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中でお乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが堕落することにより全部忘れ去ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です。

 

人はこの宇宙の被造万物の中の傑作品です。どのくらい傑作品かというと、皆さんが察することのできないくらい大きく素晴らしい傑作品です。それでは絶対的な神様がいらっしゃって、人を造られたとしたら神様自身が言うこと、見ること、感じることを人間には分からないように造られるでしょうか。

 

神様に似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じていつも神様がいらっしゃることを歴史を通して認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば神様に対して疑うようなことはできなくなるのです。堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼べばすぐ現れるようになっていたのです。そのような基準になったならば、誰が神様は存在しないと否認するでしょうか。否認することができないのです。

 

「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私が考える前にいらっしゃたのです。私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないかという立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。

私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。

 

皆さんが寝ていても「お父様」と言うことができ、独り言でも「お父様」と言えなければなりません。御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながらその生活の裏面で父に対する懐かしさをもって「お父様」と言えば、父の手に捕まるようになるのです。夢のような事実が起こるのです。「お父様」と言えば父の懐に抱かれるのです。このような表現的圏において体恤的感情をどのように体得するのかということは信仰生活で何よりも貴いということを知らなければなりません。そのような体

恤の感度、感じる度数、その量いかんがその人の信仰基準になり得るのです。そのような愛の心情をもったならばどこかに行って「私がこれをしなければならない」という時は、「天よ、共にいてくださるように」と言う前に既に神様は共にいらっしゃるのです。このようなことを皆さんが感じれば、「有り難い神様」と言うようになるのです。

 

統一教会の原理は、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃる方だと言います。二性性相であられる神様自身の分性的実体としてアダムとエバを造り、彼らが成長して愛を中心として横的に連結されるとき、縦的な立場で中心になろうとされたのです。それは何のことかと言えば、アダムとエバが成熟すれば神様の男性性相はアダムの心の中に、神様の女性性相はエバの心の中に入っていくということです。だからといって神様が分かれるのではありません。そのような二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるというのです。

 

神様は二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在ということは今まで話さなかったのです。そこに愛を中心とした統一的存在だということをつけ加えなければならないのです。

 

無形の神様は体が必要

) 体をもつためにアダムとエバを創造

 

神様はどうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。そのような方がどんな標準的な形を形成し、形体を現したとしても実体をもった万物はその神様に直接主管されません。

ですから実体をもった被造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。神様は地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するにはその中心的タイプ、すなわち形状が必要です。それで神様はアダムを創造されたのです。

 

アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。

 

神様はなぜアダムとエバを造られたのでしょうか。神様は無形でいらっしゃる方なので、実体の形状をもった父母になれなければ形状の子女を愛することができないので、体を着るためなのです。アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。三つ目は、神様は中心

軸をもった垂直の父で面積がないので、面をもとうということです。

 

霊界に行っても神様を見ることができません。神様は見えないのです。皆さん、力が見えるでしょうか、力が見えますか。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができません。体がないのです。ですから実体世界を指導して主管するためには実体をもたなければならないのです。神様はどのような神様ですか。アダムが堕落しないで完成して地上で暮らし、天上に行くようになれば、アダムの形状をもった神様になるのです。それで見えない神様と見えるアダムが一つになるのです。そのようになればアダムが「ははは」と笑うのは神様が「ははは」と笑うことになるので、それはすなわち宇宙が「ははは」と笑うことだというのです。何のことか分かりましたか。

 

無形の神としていらっしゃる神様では、この宇宙を相手に刺激を感じることができないのです。心自体だけをもってしては、どんなに刺激しても感動しないのです。無形では、同じなので刺激が来ないのです。これが互いに相反するもの、熱いお湯と冷水が合わされば爆発するでしょう。そのような刺激が必要だというのです。

 

神様は霊界でも無形です。形がありません。それで姿をもった人間の父母になるためには、姿をもたなければ中心になることができないのです。

 

神様の最後の創造目的は体をもつことです。実体世界を主管するためには無形の神様では駄目なので万民の父母として体をもって現れなければならないのです。感覚器官をもって刺激を感じることができる主体と対象として立つためには、体を持たなければなりません。

 

実体世界を造られた神様が無形であっては、実体世界を支配することはできません。それで体が必要なのです。(アダム・エバが)創造された目的は、神様も実体をもって実体の父母になるためです。その実体がアダム、エバです。アダム、エバが完成したならば神様は、アダム、エバの心の位置に入って神様を中心とした王権を成すのです。王権が成立するとともに父母権が成立するのです。父母権とともに本然のアダムは長子権をもつのです。

 

今日、次子権は必要ないのです。アダム自体が長子中の長子で、エバも長女中の長女でしょう。そのようになれば二人の息子、娘は、人類の父母中の父母になるのです。父母であると同時に、永遠な世界の王になるのです。

 

なぜ神様が人に体をもたせたのでしょうか。体のない神様がいらっしゃったならどれほどいいかというのです。神様が一人でいらっしゃればいいのに、問題となるような体をなぜ造られたのかというのです。神様自身は無形の神です。無形の神様が体をもった人間の先祖になることができないのです。体をもった息子、娘に対そうとするので、体をもった神様の立場へ出ていかなければならないのです。それでアダムの体が神様の体のようになるのです。しかし神様は、アダムの心のような位置より一層次元が高い世界の段階に上がっていくのです。

結局、神様は無形で形体が見えないので、形体を得て現れるのです。また、形体をもっている人間と万物を主管するために神様がアダムとエバの形体を持って現れます。そのようになればアダムとエバは神様と一体となるので、神様はアダムとエバの心のような方になるのです。アダムとエバの心の位置に神様が臨在して一つになったので、結局はアダムの内的な主人、内的なアダムのような方が神様だということを知らなければなりません。

 

なぜ人を創造したのでしょうか。この宇宙は実体があるので、実体の主人であるアダムとエバを中心として管理主導することができる立場に立つためです。神様は霊界で無形でいらっしゃるので支配することができません。それで実体の仮面をかぶり、実体の体をもつことによって、あの世で、地球で生産されてくる自分の息子、娘となる子孫を実体をもって支配することができる王になるために人を造ったのです。その王の顔がアダムの顔です。王を造ったので、王妃が必要なのです。王妃とは誰ですか。エバが王妃にならなければならないのです。アダムとエバは地上の祖先であると同時に、天上世界の祖先になるのです。

 

  ) アダムは宗の祖先、有形の神様

 

神様は第一に、体を持つためにアダムとエバを創造され、第二に、愛を完成するために創造されたのです。このようなアダム、エバが完成し二人が一つとなれる愛の実体になれば神様が臨在し、人類の前に愛の父母となるのです。そうして、神様の形状的実体の父母になったアダムとエバが実体の子女を繁殖することによって理想世界ができるのです。そのようになれば、人間を通じて霊界と地上世界が連結されるのです。その目的もあって人間を造られたのです。それで神様が愛を中心としてアダムとエバに臨在されることによって人類の真の父母、実体の父母としていらっしゃってから、アダムとエバがあの世へ行けば、霊界でもアダムとエバの形状で体をもって父母の位置に顕現することができるのです。

 

実体をかぶった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆえアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。

 

神様がアダムとエバを必要とするのには二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就しようとすることです。もう一つは、無形の神様が形状をもって現れるためなのです。ですから、無形の神様が有形の形状をもって有形世界と関係を結ぶことができるその基礎、その核心がアダムとエバなのです。

 

天の国に無形の神様が一人でいて何をしますか。見えない神様では何の意味もないのです。

人間の父母になるには、体をもって感じるこ

とができなければならないのです。このような人間と同じ体を着なければならないので、体をもつために仕方なくアダムとエバを二重的存在として造らざるを得なかったということを知らなければなりません。

 

体をもった父になることで、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。ですから神様の形状に似たそのような体をもつことができる姿として、アダムとエバを造ったのです。そうしてアダムとエバを天の国の王宮に、王座へ上がらせ、その王と王妃の心の中に神様がいらっしゃり地上世界と無形世界を統治するのです。神様の王国を造るのです。王国は愛の王国だというのです。愛の王国。愛を中心としてのみ霊と肉が合わさるようになっているのであって、他のものをもってしては合わさることができないのです。

 

 エバは未来において、神様の王女です。王女であると同時に、将来の神様の相対でした。エバを愛の相対にしようとしたのです。神様の夫人となるのです。なぜそうなのかと言えば、愛を分かち合うためには体が必要です。体が必要なのです。あの世へ行ってみれば神様は無形です。空中で太陽のような光が二十四時間いつも浮かんでいるのです。空中から神様がみな無形で管理しているのです。その無形の神様が、実体をもった人間の愛の対象ではむなしいのです。ですからアダムとエバは無形の神様の愛の理想の絶対作品です。パートナーとして体をもったアダムとエバを造ったのです。神様は誰の姿かと言えば、アダムとエバの姿です。一つは内的な父であり、一つは外的な父なのです。一つは内的な父母であり、一つは外的な父母だというのです。

 

神様は愛を共にするために天地を創造したのです。ですから男性と女性を、無形の神様が永遠の愛の実体として登場させるのです。愛の中心の実体として登場させるのが人類の善なる真の先祖、真の父母なのです。皆さんは真の父母をもてませんでした。しかし今日、統一教会には真の父母の教理があります。

 

神様はアダム、エバをなぜ造ったのでしょうか。無形の神をもってしては実体世界を主管できないからです。無形の神をもってしては、見えない神をもってしては、この見える世界、創造物、宇宙世界を支配することができないのです。ですから神様は、愛を中心として体を着なければならないのです。それで創造をしたのです。愛を中心として体を着れば、内外共に刺激が起こるのです。刺激が起こるのです。

 

無形の神様は実体がないのでその形体を身代わりしたのが真の父母だというのです。真の父母は個人的な父母、家庭的な父母、氏族的な父母、民族的な父母、国家的な父母であり、霊界に行ってもこれからは真の父母の形状で神様が現れるのです。統一教会が偉大なのはそれです。レバレンド・ムーンが偉大なのは何かと言えば、レバレンド・ムーンの形状を神様が使うというのです。何の話か分かりますか。

 

神様は、無形の神様なのです。無形の神様が、有形の神様として現れようというのです。有形の神様とは何ですか。堕落していない、私たちが言う真の父母です。

究極的に神様は霊的で無形なので、人間は直接神様から教えを受けたり重生の体験をすることができません。それで神様は中心人物を立てて、人間が彼を通じて教えを受け重生を体験することができるようにされました。この方が正に有形、無形の真の父母です。

 

 神様がアダムとエバを造った目的はどこにあるのでしょうか。私たち人間の形状を見なさい。体をもっているのです。しかし無形の神様は体がありません。体を着なければ、体をもたずしては霊界世界や地上世界を治めることができないのです。それで神様がいらっしゃったとしても、神様が人間の父母として現れるためには体を着なければならないのですが、その体を着た代表が誰かと言えば、アダムとエバだというのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。そうすることでアダムとエバは人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様になるのです。

 

実体をもった神様、すなわち永遠な無形世界の神様の形状を代わりに着て現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。

 

神様は、神様と人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標にされてはいませんでした。縦的な愛を完成し、アダムとエバの横的愛の結実をもたらそうとされたのです。その瞬間が正に、内的父母であられる神様が外的父母であるアダムとエバと完全一体を成すために臨在される、愛の理想の成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状を使って有形世界に永存される父母になるのです。この時アダムとエバは、真の父母、真の先祖となるのです。

 

神様は人格的な神

) 神様は知情意をもった人格神

 

今日、多くのキリスト教信者たちは、神様は唯一無二のお方であり、絶対的な方であり、創造主であり、至高至善の位置にいらっしゃるので、被造人間すなわち被造物と創造主は関係をもつことができないと考えます。被造物は俗なるものであり、創造主は絶対的で神聖な方であると見ます。しかし愛の概念を中心として見る時、至高至善の神様であり、どんなに低俗な被造物だとしても愛の関係を結ぶためには人格的内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。人格を備えた人間と性稟が同じでなければならないのです。

 

神様は、どんな神なのでしょうか。人格的な神です。知情意を合わせた内容をもった人格的な神です。そのような人格的な神が高に願うのが愛なので、その愛の対象として私たち人間を造ったというのです。これは驚くべき事実です。

 

神様は第一原因的存在ですが、人間をどのように造ったのでしょうか。神様と同じように造ったというのです。神様と同じように造るのに、神様の形状をかたどって、形状どおりに造りました。その言葉は何を意味するかと言えば、私が父に似ると同時に父は誰に似ましたか。私に似たというのです。それで答えになります。ですから神様を模索してみると

き、神様はどんな方ですか。私のような方だと言えば、さっと入ってくるのです。

 

神様は誰に似たのでしょうか。神様の必要とするものが愛ならば、神様が愛するのに、神様に似たものを愛するでしょうか、神様と似ていない動物の子を愛するでしょうか。神様は喜ぶことができ、愛を分かち合うことができる相対的なものを必要とするのです。ですから人間がそのような相対ならば、人間を中心として見る時、神は人格的神でなければならないという結論が出てくるのです。そうでありながら、人間とはすべての要素が一〇〇パーセント和合しなければなりません。体と心の素性において、すべてが和合することができる神でなければなりません。ですから神様は、知情意をもった神でなければならないのです。

 

神様がいらっしゃるのならば、人間とはどんな関係なのでしょうか。神様が人間と関係をもつためには、人格的神でなければならないのです。人格的神になるには、人間と同じでならなければならないのです。人間には心があり体があるのと同じように、このような素性がある人間を造られた神様も、人間と共に共同目的をもつことができるその本体ならば、人間に似なければならないというのです。二性性相という概念はここから出てくるのです。

 

さあ、それでは、神様も人間のような人格をもっていますか。人と同じならば神様は男性でしょうか、女性でしょうか。それでは男性と同じようにぶら下がったものがあるでしょうか、ないでしょうか。神様は何性相と言いましたか。二性性相の主体なのですが、凹凸があるでしょうか、ないでしょうか。それを考えたことがありますか。

 

神様が笑うでしょうか、笑わないでしょうか。

神様が笑うのを見ましたか。神様も目があるでしょうか、鼻があるでしょうか、口があるでしょうか、耳があるでしょうか、体があるでしょうか。既成教会の信者たちをよく見てみると、でたらめです。神様に目があるのか、ということも知りません。目を本当に見たかと言えば、知らないのです。神様は誰に似ましたか。誰に似たのでしょうか。神様に似たと言うのです。そんな答えがどこにありますか。神様は誰に似たのですか。息子、娘に似たのです。それで神様は人格的神でなければなりません。人格的神として神様が、私に人格的高の基準を要求するのです。人格的高の基準とは何ですか。それはお金でもなく、権力でもなく、愛なのです。

 

神様がいらっしゃるのならば、神様も人格的神でなければなりません。人と同じでなければなりません。人格的神だということは、知情意を備え、感情とか、またはみ旨を中心として目標とか、そのようなすべてのものが具体的でなければならないのです。

 

神様は、知らないものがありません。知識の大王であられ、能力の大王であられ、全知全能であられるというのです。また、遍在されます。いらっしゃらない所がありません。この方が必要なものとは何ですか。ダイヤモンドですか。それはいつでもつくることができます。黄金ですか。宝石ですか。神様が必要なものは愛です。神様が一人でいて「ああ、愛があってとてもいい」と言い、「ひひひ」

と言いますか。神様が必要なものとは何ですか。神様も人格的神ならば口があるでしょう。鼻もあり、目もあり、耳もあり、手足もあり、心もあり、心情もあるでしょう。人格的神ならばです。

 

神様はいったいどんな方なのでしょうか。全知全能で、遍在され、ただ一言で世界を殺したり生かしたりする……。そのような神様を私たちは必要としません。私たちの本心は、どんな神様を願うでしょうか。「愛をもって、私のお母さん、お父さん以上の愛で愛さざるを得ない方なのだな。我が国に義なる国王がいるとすれば、義なる大統領がいるとすれば、その国王以上、その大統領以上の方なのだな」と、こんな方を願います。大統領は四年ごとに変わるので慌ただしくて、別に尊敬するほどでもありませんが……。

 

今日、この世界を探し求めてこられた神様がいらっしゃるとしたら、その神様は知情意を備えた神様であることに違いありません。なぜでしょうか。人間がそうだからです。それは人類を中心とした知情意ではなく、天倫を中心とした知情意です。

 

絶対的神様は、悲しむことができるでしょうか、できないでしょうか。全知全能なる神様は、悲しみの場を避けることができるでしょうか、できないでしょうか。その悲しみとかかわることができるでしょうか、できないでしょうか。これは深刻な問題です。私たちのような人間は、それをそのまま通り過ぎることはできません。絶対的である神様は絶対的に悲しみがあってはならないと言うならば、その神様は知情意をもった、喜怒哀楽の感情をもった人間の父となることはできないのです。論理的に矛盾します。ですから神様は、私たち人間よりももっと喜怒哀楽を感じることができる主体とならなければなりません。

 

神様に対して正しく証した宗教団体はありません。仏教でも儒教でも、みな同じだというのです。神様と言えば、すぐにあぜんとして物が言えなくなります。彼らは人格的な神様、知情意を兼ね備えた神様を知らないのです。しかし統一教会は、神人一体を主張しているのです。それが偉大だというのです。

 

統一教会が誇ることができるのは、神様をよく知っているということです。神様をはっきりと知っているというのです。神様は、知情意を備えた人格的神であると同時に、愛の主体だというのです。それを私たちははっきり知っています。その愛の神は、天情が中心なのです。天情の中心位置は行ったり来たりできないのです。

 

  )  神人一体の人格神を要求

 

神様も知情意をもった方であられるだけに、神様にも願いがあり、事情があり、心情があります。神様の願いは何で、神様の心情が何で、神様の事情とは何でしょうか。人間の事情よりも先に知らなければならないこととして、これさえ知ればいいのです。これさえ知れば、自然に人の願いが何であるか一遍に分かるのです。なぜでしょうか。人間の目的は神様であり、神様の目的は人間なので釣り合うのです。人間の事情をよく知って、願いをよく知って、心情をよく知る人は、神様の願

十一

い、神様の事情、神様の心情と通じることができるのです。

 

愛を論じるならば、人格的神でなければなりません。情緒と、人格的に人と同じ素性をもった神でなければならないのですが、そのような神を提示した宗教はキリスト教以外にはないのです。神様を父と言ったのは偉大な発見だというのです。神様を父だと言ったのです。神様を父だと発見したという事実は今先生が話す、神様を内的父と外的父と見て実体に一致する愛によって統一的な権限をつくろうとするその基準、確実にこの基準までは発見できませんでしたが、そんな内容を暗々裡に解明することができる標題を掲げたという事実は驚くべきものです。そして唯一神を論じました。ですからこの宗教は世界的宗教であり、世界がこの宗教を中心としてまとまることができるというのです。この宗教によって世界が一つになることができる道を立てていくと、このように見るのです。

 

今日、数多くの道がありますが、心情を通過することができる一つの道が歴史路程において現れませんでした。そのような道は必ず現れなければなりません。もしそれが現れないとするならば、神様はいらっしゃらないのです。人間が守らなければならない社会的倫理と道徳を教えてくれる道もあり、無限な霊界を教えてくれる道もありますが、倫理道徳と無形世界に対する教えを統合し、一つの心情の骨子の上にあげられた宗教がなければなりません。そんな宗教を探してみると、キリスト教だったというのです。キリスト教は心情の宗教です。人間は堕落することによって神様を失ってしまい、神様が私たちの父だということが分からなくなったのです。実体をもった真の父母を失いましたが、キリスト教はその真の父母を紹介することができる宗教です。

 

哲学の 後の終着点は、神様を発見することです。その神様はどんな神でしょうか。絶対的な神、不変の神、唯一の神です。神様を発見することにおいて、その神様は私たち人間に必要な人格的神でなければなりません。私たち人間と関係を結ぶためには、私たち人間が考えるすべての内外を備え、意志を備え、理想を備えた人格的神でなければならないというのです。すべての面で通じることができる、情緒面やみ旨的な面や、または知識的面で私たち人間と通じることができる、完全に関係を結ぶことができる神様でなければ、どんなに神様がいると言っても私たちとは完全にかかわることができないのです。このように見るとき哲学は、人格的神にならなければならないという標題のもとであがめ尊んでこなかったのです。

 

神様は誰に似ましたか。息子、娘に似ました。

皆さんは誰ですか。神様の息子、娘です。神様に似たのです。そして神様は人格的な神です。神様がつまらない神様でいいでしょうか。

キリスト教の驚くべきことは、人格、愛を中心として、知情意を中心として情緒的な人格的神を論じたということです。これが偉大です。そして唯一神を論じました。

神様が人格的神ならば、神様に愛が必要でしょうか、必要ないでしょうか。私たち人間が神様の息子、娘として生まれ、神様に対して父だと言うなら、父が必要なように私も必要なのです。私も必要なように父も私が必要なのです。

十二

人格的な神がいるとすれば、その神を中心として何が連結されなければならないでしょうか。皆さん、神様と言えば高いところにいらっしゃると言うでしょう。そこに私の体が連結されるでしょうか。違います。心が連結されるのです。人格的な神であり第一原因なる存在の神様を中心として人生を生きていくのに、垂直のような心を中心として生きていくのであり、地球星が太陽系を中心として角度を合わせて軸を成して公転しながら一日、二日、三百六十五日と回るのと同じように、回りながら生きていくのです。このように見なければなりません。

 

神様がいらっしゃるならば、神様の摂理を通して行かなければ、世界が未来に希望を残す何ものもないという、論理的な結果として結論を下すことになりました。ここにおいて統一教会が出てきて、神様がいるという実存性と、知情意の完成基準に立った人格的神を認定し、心情圏を中心とした理想世界を実現しようとしたのです。統一教会が初めて、神と人間の関係を確実にしたというのです。

 

神様は父であられる

) 神様と人間は父子の関係

 

 神様と人間は父子の関係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。神秘の境地に入ってこの宇宙の中心が何であるかと尋ねると、父子の関係だという答えを得るのです。宇宙の中心とは何でしょうか。一言で、父子の関係です。

 天地の中心と宇宙の根本とは何ですかと、神様に祈祷してみれば、父と息子、娘の関係、父子の関係だと言います。分からない人は、肉親の父、母、息子、娘との関係だと思うでしょうが、神様との根本関係を言っているのです。

 

 神様がなぜ人間を創造されたのかといえば、一人でいれば刺激がないからです。喜びとは相対関係によってわきいずるものです。一人では喜びの刺激を得ることができません。神様の相対的位置に立って初めて高の愛を得ることができるのです。そのようになれば、神様の性相がそのまま実体化されます。神様が悲しくなれば人間も悲しくならざるを得ません。ですから人間と神様の関係は離そうとしても離すことのできない不可分の関係です。

どんなに研究してみても、ここに到達するようになるのです。

 

 神様と人間が父子の関係だと言いましたが、父子の関係がもつ特定内容とは何でしょうか。

父と息子が出会うことができる 高の場は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば愛と生命と理想は一つの場所にあります。その場所に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定することができる初の因縁が、父子の関係です。

 

 神様は私たちに愛を与えるとき、どれくらい与えたがるのでしょうか。神様の愛はこれくらいならいいだろうという限界を引いて与える、そんな愛ではありません。無限に与えようとする愛です。神様はすべて与えても、「お前によって、お前の中で生きたい」と言います。そのようにさせる本質とは何でしょ

十三

うか。愛です。神様も愛の中に入って僕になってもいいというのです。父は愛する息子が自分の食卓の上に上がってうんこをしても、それを眺めて喜びを感じるのです。愛は法を超越します。

 

 神様が今まで人間に愛を与えたからといって、「私は完全にすべて与えたのに、お前たちはなぜくれないのか」と、このように言えますか。絶対的な愛をもった神様は、今でも与えたい愛をすべて与えられずに、もどかしがっています。自己を主張することができない神様です。完全な愛を与えようとしたのが神様の人間創造の目的ならば、神様は今まで完全な愛を与えられなかったので、人間世界に対して愛を与えたがる神様です。そのような神様なので、考えるほどいいのです。「私はすべて与えたので、これからはお前たちがもってこい」と言う神様ならば必要ないのです。

 

 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をすべて投入して創造した人間なので、神様を引っ張れば引かれてこざるを得ないのです。

 

 神様は愛のために創造しました。愛ゆえに創造したので、男性と女性が愛し合うのを見るのがもっといいのです。それゆえ、神様は存在世界の前に現れるとき、愛の本質として現れます。

 

 子供は、お母さんとお父さんの愛の実現体であり、投入体です。お母さん、お父さんの生命の延長体です。またお母さん、お父さんの理想の具現体です。子供はお母さん、お父さんの愛と生命と理想の基盤から生まれるので、父母はその子を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対なのです。

 

 神様と人間は、絶対的な相対として愛の関係を中心として生まれた存在です。その位置が、神様は父となり、私たちは息子、娘となる位置です。もしそれ以上の位置があるならば、人間の欲望はまたその位置を占有しようとするのです。人間の欲望は高を追求するので、それ以上のものがあったとしたら私たち人間に与えなければならないのです。このような点から見るとき、当然神様は人類の父であり、人間は神様の息子、娘です。

 

 神様が人間を造るとき、無価値に造ったのではないことを知ることができます。無価値に造ったのならば、神様は異常な神様です。神様は絶対的な方なので、何でもすべて知っています。それなのにそれを知らずに造ったならば、その神様は不完全な神様です。神様は絶対的な方なので、私たち人間を造るときも絶対的な相対として造りました。

 

 天地を創造した神様はどんな方でしょうか。

極めて善なる方であり、すべての万物の根本となる方であり、愛の主体です。ですから神様は天地万物を創造したのち、全宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。神様は自分が本当に信じることができ、愛することができ、すべてのものを任せることのできる人がいれば、一番貴いものをそっくりそのまま与えたいのです。

 神様が私たちの父ならば息子、娘を造るのに、いい加減に造り、駄目なものを造りたくなかったのは間違いないことです。神様は人間を全知全能なる神様のような同等の位置、同位の立場に立つことができるように造られたので、私たちの良心は高のものを希望するのです。

 

 神様が絶対的な方であられるのなら、その絶対的な方がなぜ人間を造られたのかというのです。お金のために造ったのでもなく、知識のために造ったのでもなく、権力のために造ったのでもなく、神様の愛を感じることができるただ一つの道のために人間を造られました。このような観点から見るとき、神様は父であり人間は息子、娘だというのが一つの軸を成すのです。この軸がもし連結されていたならば、人間と神様が愛によって一体になった関係に、何が作用しても絶対に離すことはできないのです。

 

 神様は人間を創造するとき、完全に投入することによって、より価値があり理想的な完全な形で展開しました。神様はアダムとエバを造られて、彼らのために生きるというのです。神様のためにではありません。自分のために生きていたときから、相手のために生きるときに展開されました。理想的な存在は自分を中心としません。理想的な存在は、人のために生きるところに、対象のために生きるところにあります。この原則が宇宙の根本です。

 

 神様がどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能な方であったとしても、お一人ではうれしいはずがありません。「幸福」という名詞、あるいは「うれしい」という言葉は一人では成立しない言葉です。必ず、相対的な関係を備えた立場においてこそ「うれしい」、「幸福だ」という言葉を語ることができます。一人でいて「幸福だ」と言う人がいますか。どんなに全知全能な神様であっても、お一人でいては幸福ではありません。歌が上手な声楽家が、誰もいないところで歌を歌ったとしましょう。それで幸福ですか。そこには相対がいなければなりません。与えたり、受けたりすることができてこそ、うれしいのです。それゆえ、神様も喜ばれるためには、必ず対象がいなければなりません。

 

  神様は完全に投入して愛の対象を創造しました。そのようにしたのは神様も愛の対象が必要だったからです。ところが愛は一人ではできません。どんなに絶対者であっても、その絶対者の前に愛の対象がいてこそ愛することができるので、その愛の対象として人間を造りました。それで人間を造るとき、いい加減に造ったのではありません。聖書にみ言で造ったとありますが、いい加減ではありませんでした。千辛万苦を経て、自分の一二〇パーセント、何百倍を投入して造ったのです。

 

 神様の天地創造を考えるとき、既成教会の信者たちは「神様は全知全能なのでみ言で造られた」と信じています。しかし魔法を使うように、そのように造ったのではありません。

知性の限りを尽くし、自分の身を全部投入して息子、娘を創造しました。ですから愛するのです。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。私の骨の中の骨、肉の中の肉、私の思想の中の思想、私の

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全体中の全体を投入したので希望の対象とするのです。

 

 神様は、創造の理想的出発点をどこに置いたのでしょうか。神様の前にすべて「ため」に生きよ、というのではありません。「お前、私の所に来てくっつけ」という吸収ではありません。投入です。「くっつけ」ではなく投入です。その言葉を振り返れば、「ために存在する原則」に理想的出発点を置いています。ですから神様は、人間のために投入しました。神様自身は人間のために存在します。

 

 神様が「私は愛である」と言いましたが、それは何でしょうか。夜も喜び、昼も喜び、働きながらも喜び、休みながらも喜び、踊りながらも喜び、泣きながらも喜ぶということです。それで「私には愛がある。すべてある」と言ったのです。「すべて」という言葉は、その中に全部入っているということです。愛が一番好きな方は誰かと言えば、神様です。そんな愛をすべてもっている神様なので、その愛の味を占めれば死んでも離せないのです。

 

 神様は全知全能で、遍在されるお方として、惜しむものがなく、もっていないものがありません。すべてのものをもっていますが、その全部の価値よりも貴く立てて誇りたいものがあるとすれば、それは何でしょうか。神様は、ただ愛のほかは必要ないというのです。

愛以外は必要ないというのです。

 

 創造理想完成はどこから始まるのでしょうか。創造理想完成は神様から始まるのではなく、人間から始まるのです。創造理想完成なので創造物から始まります。創造物の中心は人間です。ゆえに人間の完成がない限り、神様の完成はあり得ません。神人一体なのでそうなのです。

 

 神に一致することができる、神のみ旨に一致することができる、神のみ旨を中心としては過程的み旨ではなく、完成的み旨の中心の核と一致することができるそれとは何でしょうか。それが神様の全知全能なのでしょうか。

全能性をもってしても駄目なのです。全権でしょうか。違うというのです。それでは遍在する素性でしょうか。それも違います。それは何でなければならないのでしょうか。神様自身も生きて生活するのは、もちろん霊界があって時空の関係を超越したところで生きていくのです。生きていくには何を中心として生きていくのでしょうか。無限な力がある、遍在する、全権的権限がある、それではありません。神様も愛を中心として生きていく、このように見るのです。生きていくには始まりもそうで、過程もそうで、永遠にそうなのです。神様も真なる愛の対象をもつようになれば喜ぶからです。

 

 神様は絶対的であり、全知全能なので、愛をひたすら与え与えて、また分け与えても限りなく補充することができる愛の倉庫をもっています。それでは、神様の倉庫から愛を多く盗んで、夜も昼も限りなく愛を取って分け与え分け与えるとき、神様が「やあ、こいつ!盗人、愛どろぼう!」と言って処罰するでしょうか。全知全能な神様なので、「そのようにしろ、してもいい。いくらでもやってみろ。お前が永遠にやってみろ。お前が入ってきても余る。それで私が神様だ。だから私が主体だ!」と、神様がそのように言われ

十六

るのです。「私が主体なので、客体に与えても残ってこそ主体だ。お前たち客体である人間に与えても余ってこそ主体としての神様であって、そうでなければ神様になれない。私がそうなのだ!」と言われるのです。「私から愛を盗んで神様の愛の発電所のように限りなく与えたいならば、いくらでも補給してあげよう」。それで「これが全部なくなれば私はまたもっていきたいのですが、神様の愛のパイプに私を連結したらどうでしょうか」と言う時、「そうしたければしなさい」と言うのです。

 

  )  神様は一番近くにいらっしゃる方

 

 真理中の 高の真理とは何でしょうか。それは父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はないのです。それでは真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、高の真理の中心とは何なのでしょうか。神様は真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だと言うのですが、それは何を意味しますか。みな同じ言葉です。真理が成立するには愛と生命がなくてはならないのです。ですからも核心である生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどんな方でしょうか。私たち人間の父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、神様は簡単な方であられます。

 

 神様は白い髭が生えているでしょう。それが似合うのです。さあ、神様が髭をそっと触るとき、息子が「僕は長い髭が好きだ」と言えばその髭は長くなり、「短い髭が好きだ」と言えば短い髭になるのです。そうなるはずです。全知全能な神様なので、神様の顔は男性に対するときは粗雑で乱暴に見え、男性格が好きなアダムには男性のように見え、エバのような女性には女性が喜ぶことのできる姿を見せるのです。

 

 神様は天地創造の以前からいたでしょうか、いなかったでしょうか。それでは神様の年は何歳でしょうか。そう、七十しか知らない人は七十だと言ってもいいです。そのような人には神様は「ほほ、私は七十だ」と言うのです。五つしか知らない人が「神様何歳ですか」と言えば「ほほ、五つだ」と言うのです。

それ以上知らないからです。数がどんなに多くても、その数で数えられるような神様ではありません。私たちの神様がそうだというのです。

 

 神様も冗談が本当に好きです。ユーモアが好きです。ユーモアの大王は誰でしょうか。誰かと言うと、神様です。全知全能なのでユーモアも多いのです。笑うときもにこにこ笑い、おなかをよじりながら笑い、転げ回って笑わせることができる大王とは誰ですか。神様です。そんな大王が神様だというのです。

 

 神様は外的に男性に似たとするならば、内的には女性に似たのです。神様は、強く、全知全能でもありますが、お釈迦様のほほえみに花を添えることができる慈悲の心もあるというのです。女性の中の女性のような心もなければなりません。そうしてこそ両面がみな生きるのです。

 

 神様が宇宙の大主宰であり全知全能であられて、もっていないものはないくらい能力が

十七

多い方ですが、どんなにそうだとしても愛の因縁をもって孝子の立場に立った息子が尋ねもしないで胸をかき分けるからと言って「おい!やあ! お前、いつ見たというのか」と言いますか。いつ見たのかと言ったとしても知らないふりをして幾度も胸をかき分けて、昔、自分のお父さんの乳を触ったようにこうして……。「私は昔、うちのお父さんの乳を触ったように触りたくてそうしたのです」と言えばどうしますか。気分を悪くするでしょうか。お父さんが本当に幸福を感じるでしょう。だんだん大きくなれば自分のもとを離れ、壁を越え、川を越え、山を越えて、消えようとしていたのが、越えていった息子が、壁を越え、門を越え、服を越え、昔のように自分の乳を触ろうとする時、お父さんは気分はいいでしょうか、悪いでしょうか。もうすぐ死にそうなおじいさんも、「早くここに来て触れ、早く!」と、気分が良くてそうするでしょう。

 

 神様は創造主ですが、つけ足すものがどこにあり、引っ張るものがどこにありますか。大きくなろうとすれば吸収して引っ張るとか、誰かがつけ足してくれるとかしなければならないのです。自分が吸収するか、第三者の存在がもってきてつけ足してくれるかしなければなりません。ところが神様自身において、つけるものもなく引っ張るものもないのに、自体がどのように大きくなることができる概念を立てるのかというのです。これが重要な問題です。私がこれを話せば皆さんがむやみに話して困るので話さないのです。研究してみてください。宿題を出すので研究してみてください。論文を書いてみなさい、私が点数をつけてあげます。

 

神様も発展して来られた

 

本来、絶対者なる神様はどのように始まったのでしょうか。一度にさっと出てきて生まれたのでしょうか。それが気になりませんか。

そんなことを言えば既成教会の信者たちは、「ううー、創造主は聖なる方なのに、その冒涜も普通の冒涜ではない。ばかげたことはやめなさい!」と言うのです。神様が生まれて出てきたのでしょうか。ただそのままいたのでしょうか。気になりませんか。その問題に対するには、論理的背景を備えなければなりません。尹博士。どのように出てきましたか。

物理学の博士様がそれを知らなければならないではないですか。博士様がそのように顔を隠せば恥ずかしいではないですか。統一教会員も仕方なく「自然にいらっしゃる?」と言うでしょうが、違うのです。神様も発展していかなければならないのです。そのように言えば正しいのです。

 

 調和の無限な力をもっているのは何ですか。

神様も研究したことでしょう。神様が人格的神として人と同じならば、全知全能なるその方もそれに対するとき、その中に行って安息の睡眠を取りたいのです。神様がいつも目を大きく開いて「こいつ、昼夜休まずに蕩減復帰をしろ」と、このように言うことができません。神様も道理がそうではないですか。息をする道理と同じです。息を吐けば吸わなければなりません。神様も働けば、休まなければなりません。神様が働くのもすべて、休む喜びを感じようとするからなのです。神様もそのすべてのものが、相対的授受関係の因縁になっています。

 神様が愛することができる相対は、私たち人間しかいません。被造物の中で、神様自身がまた別の神様を造ることはできないのです。

十八

どうしてですか。全知全能なる神様なので神様と同じ、もう一つの神様を造るだろうと、それも可能だと思いますが、神様がそのように造ればどうなりますか。同じ神様が御飯を食べるとき、一緒に御飯を食べ、手入れをするときは一緒に手入れをして、立つときは一緒に立ってついて回りながら、神様が座れば一緒に座り、このように億千万年一緒に行動するならば生きていけますか。考えてみなさい。どんなに気が遠くなるでしょうか。一日もたたないで目が回ってひっくり返ってしまいます。また、話はどうしますか。話をすれば何日話すと思いますか。三日間ですか。「あれ、あの、同じではないか! 死にそうだ」と言うでしょう。

 

 宗教の中心とは何でしょうか。神です。神様です。もちろん神に対する名前はたくさんあります。しかし名前が問題ではありません。その神は二人になることができないのです。根源は一つなので、一つの神です。一つの神について話すとき、各国の言語が違うので一つの神を表す名詞は違っていますが、その本体は一つなのです。

 

 天と地自体も自ら存在したくて存在するようになったのではなく、必ず存在するようになった動機と根源を通じて、ある力の源泉に立脚して生まれたということを考えるとき、ここからももっと上がって必ず中心的な主体を備えて天地を動かすとか、あるいはここに創造するという力の作用体、根本の作用体がいなければならないのです。このような立場にいるその方を私たちは神様と言いますが、民族が違い、言語が違うからといって、違う表現をするその名詞が問題ではありません。いずれにせよ、この宇宙の中心がなければならないのです。その中心は全体、この存在世界の前において、存在が作用し移動するとしても、その移動するのに従って移動するのではなく、この動く相対的な世界の中心において億千万年動かない中心的な本体がなければならないのです。

 

  法度の中での全知全能である  

) 原則的基盤の上での全知全能である

 

 神様が天地万物を創造するようになった動機とは何でしょうか。根本に入っていくのです。神様はお金が必要ありません。お金のためでもありません。知識のためでもありません。知りたくて造ったのではありません。何かの権力のためではありません。全知全能で遍在されるその方は、知らないことがありません。知恵の王であり、能力の王であり、黄金の王ではないですか。ダイヤモンドもいくらでもつくることができるでしょう。神様にはダイヤモンドが必要ありません。いつもあるのにそれが必要ですか。ないから必要なのでしょう。また知識というのは……。この宇宙のすべての原理原則を中心として運動し作用する一つの構成体を全部コントロールすることができる法理、法度を造られたその知識に比べれば、今日の科学者たちがどんなに研究しても、自然界の法則一つ発見してそれでもって博士になったと威張ったりして、そんなものは何でもありません。芸術もそうなのです。芸術というものが他のところにあるのではなく、全部自然から学んできたものです。

自然にはないものがないのです。

十九

 神様は全知全能なる方なのに、力がなぜ必要でしょうか。宇宙を動かすことができる主体であられるのに、そうではないですか。力の大王だから力は必要ないのです。歴史上の英雄豪傑が偉いと言っても、歴史において大国を統治した君王、帝王たちが過ぎ去りましたが、彼らはみんな神様の権威のもとで踊りを踊っていった人たちです。神様は、私たち人間が必要とするお金も知識も必要ありません。

 

 神様自身は絶対的な存在です。全知全能なる方です。遍在されます。その方には知らないものがなく、できないこともありません。そのようにすべてのものを備えた主体として絶対的な位置にいらっしゃる神様において、何が必要でしょうか。神様が絶対的な主体だとしても、主体自体が主体となると同時に相対となりたい心もなければならないのです。なぜそうでなければならないのでしょうか。人には東だけ必要なのではありません。東があれば西が必要であり、東西があれば南北が必要であり、南北があれば前後、上下が必要であり、一つの球形を成すことを願うのです。ですから宇宙は球形を標準にして動くのです。

 

 さあ、あの星の国にはどんなものがあるでしょうか。ダイヤモンドの星があるでしょうか、ないでしょうか。全知全能なる神様が宇宙を造ったのならば、ダイヤモンドの星一つだけ造ったでしょうか。

 

 そう、神様が一番好きなものは何ですか。学者、有名な学者ですか。有名な学者も大したことはありません。自分が何を研究して何をどうしたとしても、神様が造ったすべての自然界のある公式とか原則を発表しただけであって、それ自体を造ったのではありません。

神様は、学者も好きではないというのです。その次は大統領ですか。レーガン・アメリカ大統領を神様が好まれますか。世界大統領ですか。宇宙大統領なる方が神様です。全知全能なる絶対者なのに何が必要でしょうか。権力も神様は好まれません。その次には何ですか。お金ですか。口にもするなというのです。

 

 神様は全知全能なる方です。憤って一度地面をけられるならば、めちゃくちゃにすべてが崩壊してしまうのです。大統領や世界の偉大な人たちも、一度叫んだならば、もれなくすべて流れていってしまうでしょう。その方に権力が必要でしょうか。神様の前には権力は必要ありません。それはちんぴらが好むものです。誰が好むのかと言えば、悪魔が好むのです。

 

  神様は、天地創造をなぜしたのでしょうか。

「力を誇ろうと、全知全能性を誇るために一度造ってみたのだ」と言えばすてきですか。そのようなとき、力によって生まれたものたちが「神様ありがとう。力でもって造ってくださって!」と、このように有り難いと言うでしょうか。神様が知恵が多くてお前を造ったのだと言うとき、気分はいいですか。能力が多くてお前をこのように造ったのだと言うとき、気分はいいですか。能力や知恵で造ったならば私の喜びと何の関係があるでしょうか。それが神様の能力でしょう、私の能力ですか。神様の知恵でしょう、私の知恵ですか。私を見れば無気力この上もない私なのに……。このように考えるのです。それで問題になるのです。

二十

 今日、キリスト教で「父なる神様、全知全能の神様」と言いますが、全知全能なる神様も原則的基盤の上での全知全能であって、無原則的基盤の上での全知全能ではありません。自分勝手にする神様ではありません。自分が法を立てたならば、永遠なる方が制定した法は永遠なものです。自分が立てたものを自分勝手にしないのです。それに順応して越えていこうとするその神様の権威、それが驚くべきことなのです。公義を立てるにおいては、すべて天理の原則にかなう公法を立てるにおいては、絶対に神様がまず踏んで越えていったのちに万民が従うようになっており、宇宙が従うようになっているのであって、それを二番目にすることはできないのです。そのような人間創造の理想的基準があるのです。

 

 神様一人ではできないのです。今日、既成教会の牧師は「全知全能の神様が、創造能力をもった神様がいつでも思いどおりにできるでしょう」と言うかもしれませんが、とんでもありません。天地すべての存在物は法則、大原則によって作用するのです。いくら神様でもこの法則を破壊して行動することができないのです。この国の大統領でも憲法を中心として制定したすべての法、立法を通じて制定した法を重要視しなければならないのです。そのようにしていないので、今騒いでいるのではないですか。

 

 このように言えば少しおかしいですが、神様が愛をしたいならばつくればいいでしょう、なぜ愛をつくれなかったのでしょうか。それは思いどおりにつくったならば神様が立つ位置がなくなるからです。それでつくらないのです。それはつくれないのと同じなのです。

 何のことか分かりますか。「ええ! 神様は全知全能なのにつくれないとは……」。そうなると二元論や多神論という結果に陥ってしまうのに……。しかし、疑えばそうです。

 

 近人々は神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、唯一無二であり、その次に永遠不変だと言うのです。しかし、絶対的で何をするのですか。唯一だとして何をするのですか。神様が唯一なのと私たちとは何の関係がありますか。大きな問題です。全知全能ならば何をしますか。何の関係があるのかというのです。永遠不変ならば何をしますか。神様自身にはいいですが、私たち人間には何ら関係がないならば、それは邪悪なことになるのです。必要ないのです。盲目的な信仰をすることができないというのです。このようなことを全部分別してあげなければなりません。

 

 神様は知らないものがありません。全知全能であられ、全権者であられ、遍在されるというのです。それが私と何の関係がありますか。私と何の関係があるのかというのです。

 

「ああ、全権があるので私を支配するのにいいですね、どこにでも遍在しているので私を監視するのにいいですね、知らないものがないので私をすべて精密に分析して身動きできないように造ったのですね」と、神様が私を全知全能で支配されるとすればいいことがあるでしょうか。

 

 神様は天地を何をもって主管しますか。法で主管しますが、その法も愛で治める法です。そして治める方向を後押しするために宇宙の法も存続するというのです。それで神様は人間創造をなぜしたのかといえば、愛が恋しくてです。一人でじっとしていればいいのに、何のためでしょうか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。

 

  )  愛のみが絶対基準である

 

 神様が一つだけどうすることもできないものがあります。神様は全知全能でしょう。全知全能ですが一つだけ思いどおりにできないものがあるのです。それは何だと思いますか。金がつくれないでしょうか、ダイヤモンドがつくれないでしょうか。力がないでしょうか。全知全能なる方が一つだけつくれないものがあるというのです。それは何ですか。愛だというのです。愛です。先生の心にも愛がありますか。あると思いますか。皆さんの心にも愛がありますか。あることはあるのです。あることはありますが、自分一人で「私の愛する人、私一人の愛、私の恋人!」と言っていれば気違いになるのです。

 

二十一

 

 神様一人で愛を成すことができますか。全知全能であられ、唯一無二であられる神様一人で、「ああ、気分がいい!」と、そう言いますか。そうすれば神様も気が狂ったと言うしかありません。レバレンド・ムーンも愛を感じることができるものをもっているからといって一人で「ああ、うれしいな!ああ、私の愛する人よ!」と、こう言うならば、それは気の狂ったやつだと言われるのではないですか。しかし、相対となる紙のかけらでも、このような手拭いを中心としても「愛するお前、手拭いよ!」と言うならば、誰が悪口を言いますか。宇宙に代わって登場することができる相対的価値と権威は、愛の世界でのみ可能なのです。

 

 どんなに絶対者の神様だとしても、一人では愛をもつことはできないのです。愛は必ず相対的関係でのみ見つけられるものなので、どんなに全知全能なる方だと言っても愛だけは一人で所有することができないのです。もちろん愛の素性をもっていますが、愛の刺激と愛の信号は相対を通じてのみ再現されるのであって、自体だけでは顕現することができません。これが愛だというのです。愛の力です。

 

 寡婦と男やもめをかわいそうだと言いますが、なぜかわいそうだと言いますか。愛はその中にありますが、発動する何かがないからです。神様がいくら全知全能で遍在する神様だとしても、相手がいないときは愛が作用しないのです。天宙を造られた神様は、誰を中心として相対したいのでしょうか。アダムとエバを中心として愛の作用をしたいのです。

 

 神様は愛が好きですが、神様が一番好きな愛はどんな愛でしょうか。真の愛です。ところで真の愛ですが、どのようなものが真の愛ですか。真の愛というのは愛の根をどこにおいて言いますか。その根を神様においていないのです。それはおかしな話でしょう。全知全能の神様が真の愛の主人公なのにもかかわらず、その愛の根は神様から始めたくないというのです。その愛の対象になることができる人に根を植えたいと考えるのです。

 

 神様が天地を創造するとき、誰のためにしたのでしょうか。神様自身のためにしたのか、相対的な創造物のためにしたのでしょうか。神様はもちろん自分のために造ったと見ることはできますが、相対を重要視することにすべての創造の基準をおいたということを知らなければなりません。その相対の主体が誰かと言えば人間です。人間を中心として、すべての人間の幸福を中心として考えたのです。神様自身こそ全知全能な方ではないですか。

 

 神様は絶対的であり、また全知全能で遍在する神様ですが、神様も愛だけは思いどおりにできないのです。神様も愛の支配を受けます。それでは神様は何ですか。神様は全知全能ではないのではないでしょうか。「神様、あなたは全能ではないのではありませんか」と言えば、「私は全能だが、愛には全能ではない」と言われるのです。神様がなぜそうなのですか。

 

 神様一人では神様の本分を尽くせないのです。それは何のおもしろ味がありますか。食べ物が心配ですか。寝るのが心配ですか。着るものが心配ですか。思いどおりに供給を受けることができるのです。飛行機に乗って空中を回るとしても、一時間も回ったらおもしろくないのです。どんなに全知全能なる神様であり、どんなに威張った神様でもおもしろくないのです。私たち人間と同じなのです。それで神様も仕方がないのです。自分が努力して貴いとするものを創造しておいて、行ってみるおもしろ味がなければならないのです。

このようになるのです。

 

二十二

 

 神様は、何が恋しくて創造したのでしょうか。絶対的なのに神様は何が恋しくて創造をしたのかというのです。その方は黄金も必要なく、知識も必要ない全知全能なる方なのに、備えていないものがない方なのに、何が必要で人を造ったのかというのです。創造の根本動機とは何でしょうか。権力でもなく知識でもなく、所有物でもないというのです。神様に何がないでしょうか。愛の基盤がなかったのです。神様もやはり一人でいては愛を成せないのです。ですから天地創造の動機、アルファ的起源も愛だというのです。

 

 神様に何の愛が必要なのでしょうか。神様も愛をもっていますが、相対がいなければ愛せないというのです。皆さん、愛をもっていますか。

ところが一人で「ああ、いいな! ああ、私の愛する人よ!」と、それがいいですか。愛というのは相対が現れなければ作用しないのです。これが宇宙の原則です。どんなに全知全能なる神様でも、愛の相対がいなくなれば孤独な神様であり、悲しい神様なのです。

 神様がどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能な方だとしても、一人ではいいことはあり得ません。「幸福」という名詞、あるいは「良い」という名詞は、一人でいて設定される言葉ではありません。必ず相対的関係をもった位置にいてこそいいのであって、そうでなければ幸福という言葉はあり得ません。どんなに全知全能なる神様だとしても、一人でじっとしていてみよというのです。それが幸福でしょうか。歌が上手な音楽家が一人で歌を歌ったとしましょう。それが幸福ですか。相手がいなければなりません。授受するものがあってこそいいのです。それと同じです。神様が喜ぶためには、神様が一人でいてはならないのです。

 

 神様自身を存在させる起源とは何ですか。何から生まれたのでしょうか。神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。絶対的権限があれば何をするのですか。一人でいるのに、一人でいる両班が絶対的権限があって何をするのですか。誰もいないのに。一人で絶対者になっていれば知識があって何をするのですか。神様の本質が何かという問題が重要な問題です。それが愛です。「ため」になれという愛ではなく、「ため」になろうとする愛です。

 

 全知全能なる神様も、真の愛の前にはどうすることもできません。大韓民国の大統領がどんなに素晴らしいとしても、真の愛の場ではどうすることもできません。妻を本当に愛するというときは、妻の前に敬拝したいですか、したくないですか。敬拝しても足りません。宇宙の中で偶然にも、私がこうして心から愛してやまない妻がどこから来たのでしょうか。その人がいないと考えたら、四肢がすべて麻痺します。実際にいないと考えるときは大変です。しかし、いるのでどんなにいいですか。いいので大統領でも仕方なくお尻を天にして「思慕する人よ、愛し給え!愛します!」と言います。そんなとき、小柄な女性が座って見るとき、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。

 

二十三

 

 神様がどんなに全知全能だとしても、愛を一人で思いどおりにできません。「全知全能だから愛も思いどおりにできるだろう」と言うかもしれませんが、それなら問題が大きいのです。愛の対象が必要ないという論理に逢着するのです。ですから神様も絶対的な中心存在として自分自身の愛、神様的愛に対する刺激と喜びを感じるためには、愛の対象が必要なのです。  神様自身も相対が必要なのです。神様も愛を一人では成せません。私が人もいないのに一人で立って、「ああ、きょうは本当にいいな」と、このように熱烈に語るならば、気が狂ったと言われるのではないですか。しかし相手がいて熱心に語ったなら、それが筋道に合い環境与件にかなうようになっているでしょう。どんなに全知全能なる神様でも、一人で「うれしい、うれしい、ああ、私の愛がいい!」と踊りを踊れば、それは何ですか。それを知らなければなりません。神様も愛を成すためには一人では駄目です。相対を立てておかなければ刺激的な愛を感じることができません。これが問題です、これが。

 

 世の中に存在するものの中で神様と相対になる力はありません。神様は全知全能であり、絶対的だからです。または永遠不滅の自存の方が神様です。そのような神様が願われるものがあるとすれば何だと思いますか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもない、その何を願っていらっしゃるのかというのです。神様が絶対に必要とするものがただ一つあります。それは人間に絶対に必要なものであると同時に、神様にも絶対に必要なもので、真の愛です。

 

)  神様も愛の前には絶対服従である

 

 神様も愛が好きなので、神様も愛に及ぶことができるでしょうか。天地を造られた全知全能なる素晴らしい神様が? 神様が愛に及ぶことができるでしょうか。家の中で虎みたいなおじいさんが、小柄なおばあさんにどうすることもできないこともあるのです。それは何の鼻をつままれてそうなのかというのです。愛の鼻です。愛には偉大な力があるというのです。ですから神様も、愛の前にはどうすることもできません。

 

 能力が多く全知全能なる神様がいらっしゃるならば、神様はどんなものを好まれるのでしょうか。神様は人間より優れているので、愛を好まざるを得ないという結論がも理論的に妥当なのです。それでは神様の愛とはいったい何でしょうか。永遠の昔から永遠に「ため」に生きる愛をもっておられ、そのような愛をしようとする方が神様だというのです。

 

 皆さんは神様を中心として息子にならなければなりません。神様を中心として息子になるには何を中心としてなりたいですか。お金ですか。神様が「私が全知全能なる神様なので、大きい権力を中心とします。父子の関係にならなければ」と言いますか。知識ですか。それはすべて付録です。神様は愛を中心として、その愛と私は一つにならなければならないのです。「その愛だけが高だ」。そうでなければなりません。この愛を完全に占領する日には、天下にどんなに権能が多い神様でも「うん、うん」と言うのです。

 

 いくら神様が全知全能だとしても、男性、女性は愛に絶対服従だと命令することができますか。「私も真の愛には絶対服従するから、私のようにお前たちも真の愛に服従しろ!」と、こうすればこそ父なる神様として堂々たる神様になるのであって、神様は守らずに

二十四

 

「おい! 息子、娘、お前たちは愛に絶対服従しろ!」と言えば、それは話になりません。先生の位置にいる神様が、独裁者の神様になるのです。神様も同じように「私が真の愛に永遠に永遠に絶対服従するように、息子、娘も真の愛を中心として永遠に服従すべきだ!」と言うとき、息子、娘が「アーメン!」と言うのです。そうでないときには「父は自分勝手にして、私たちだけに服従しろと言うのでしょうか。ふん!」と言うのです。問題になります。このように見るとき、神様も真の愛には絶対服従するという論理を立てなければならないのです。

 

 どんなに全知全能なる神様でも、真の愛の前には絶対服従するのです。どうですか。この言葉を聞くのはいいですか、悪いですか。その真の愛は東から聞けば良く、西から聞けば悪いでしょうか。西から聞いても良く、南から聞いても良く、北から聞いても良く、上から聞いても良く、下から聞いても良いのです。夜も昼も四季も越えて、青年時代と老年時代を越えて、真の愛は永遠に聞いても悪くないというのです。

 

 絶対的な力を主張する神様も、愛が定着できるところ、愛が立つことができるところを探されるのです。神様も愛を中心として絶対に好まれるのです。絶対に好まれますが、どのくらい好まれますか。絶対的、全知全能、遍在されるよりも好まれるのです。神様はすべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするのです。そうしてこそ話が通じるのです。神様は人類の父であると言うでしょう。それでは、父自身が愛を中心として生きずに、「子供たちよ、お前たちは愛に絶対服従して生きろ」と言うことができますか。根源がなければ駄目なのです。それゆえ神様自身も愛に絶対服従して生きるとき、「私がこのように生きるので、お前たちもこのように生きなければならない」という教育をすることができるのです。

 

 絶対的な神様も「ああ、私が絶対的で全知全能で遍在するのですべてをもっているが、私もその何かに順従して生きることができたらいい」と言うのです。神様も「ため」に尽くしたい心があるのです。そんな神様なので、私のために尽くせという愛をしないのです。

「ため」に尽くせという愛はいけないのです。

 

 神様が全知全能だと言ったので、全知性を中心としてですか。知識を中心としてですか。違います。それでは何を中心としてですか。力でもってですか。力をもってしても駄目です。どんなに春に力があるとしても、花を咲かせる環境を越えることはできません。どんなに夏に力があるとしても、生い茂らせることができるそんな時期を越えることはできません。秋を迎えれば、それが全部枯れてしまうのです。秋がどんなに結実の時期だとしても、冬を克服できないのです。これを克服するためには、いつも太陽を中心に仕えていなければなりません。そこで春夏秋冬を克服することができます、それ以外はできません。それは何のことかと言えば、息子、娘、姉、弟、兄弟同士けんかしている場面において、父母の伝統であられる神様がそこに入ってきて、中心となり「このようにしろ!」と言うとき、統一ができないでしょうか。「統一できない」と言う者は狂った者です。

 

二十五

 

 今日、現代神学が滅びざるを得ない内容とは何かと言えば「神様は全知全能なる神様なので、その方は愛も思いどおりにすることができる」と考えることです。自分一人で思いどおりに愛することができますか。うちの奥さんなくして、できますか。できると言う者は狂った者です。それでは神様一人で愛することができますか。

 

 神様は全知全能ですが、神様のように全知全能なものがもう一つあって、二つの全知全能なものが愛するようになれば、その世界はどんなものだと思いますか。これがバランスが合わないで、かえって逃げてしまうというのです。その二人の中で引っ掛かって、行くこともできないし、来ることもできないのです。横に外れてしまうのです。弱いものは強いものに行き、強いものは弱いものに入っていってこそ、ちょうど真ん中にはさまれて身動きがとれないのです。

 

 弱いものは強いものを、強いものは弱いものを願います。女みたいな男が好きな女は、死んでしまえというのです。女のような男を愛するという女は、死んでしまってもいいというのです。女が女の手を触れば気分がいいですか。女同士で手を握ると気分がいいですか。ソフトな女性の手がソフトな手を握れば、それはどれだけ気分が悪いでしょうか。二つのソフトな手の感じが、どれだけ気分が悪いですか。それは死ぬよりももっと嫌なのです。

だから死んでしまえというのです。

 

 神様がいらっしゃると言うとき、その神様はいったいどんなお方でしょうか。全知全能な方、遍在される方、それもいいです。全知全能で遍在され、できないことがない方……。しかしどんなにできないことがない力をもっていて、どんなにすべてのものより優れた立場に立ったとしても、自分だけのためにさせようとする神様ならばどうなりますか。千ならば千、万ならば万、数多くの人類、多分数千億になるでしょうが、その人類が集まって住むそのような霊界があるとすれば、霊界において神様が「ああ、私は全知全能の方で、絶対的な存在なので、お前たちは絶対的に私のために生きよ」と、このように言われたらどうでしょう。全部神様だけのために尽くさなければならない立場に立ったならばどうなりますか。私たち人間の良心の本質から見るとき、それを永遠に歓迎することができないのです。それは必ず相反するのです。皆さんの心は相反するしかないのです。いつでも、そうではないですか。

 

愛によって遍在される  

 ) 愛だけが境界を出入りする

  

 神様の心は神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあるのです。天地のどこに行ってもそこに神様の心があるというのです。ですから天はいらっしゃらないところがないのです。すなわち遍在すると言いました。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが眺める物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のすべての存在物を私の物として抱こうとする心をもたなければなりません。それが天の心です。高の道に通じた人がいたとすれば神様の心に所有された人です。飛ぶ鳥一羽、香りを放つ花一束を見ても、永遠を歌うことができる境地に入る心をもった人は、万物の中にあるのではなく、神様の心の中にあるのです。

 

それでは神様の遍在性をどのように感じるのでしょうか。空気を神様の息吹のように感じなさい。台風が吹いてきたら、それを神様がこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさいというのです。

 

太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知って、神様の愛を太陽に学ぶのです。神様の心情を体恤する一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てられたのが自然です。木の葉を見て自分の息子、娘のように思って一人つぶやくことができる人がいれば、彼は聖人に近いのです。

 

人間は神様に似た

 

 神様が遍在されるので私たちも遍在するものに似たいし、神様が全知全能なので私たちも全知全能になりたいし、神様が唯一無二なので私たちも唯一無二を願うのです。これが似ました。私自身が神様に似たので、私を神様に似るようにつくりたいのです。私自身がすべての天下を治めたいのです。これがすべて同じように神様に似たのです。

 

 愛を通じて体恤的な生活をしなければならないのです。それで神様が悲しまれるときに私が悲しみを感じ、神様が喜ばれるときに我知らずうれしくなるのです。孝子は千里万里離れていたとしても、父母の愛はいつもその孝子のそばにあるのです。神様の遍在性において神様はどこにいるのでしょうか。知識的内容に存在するのではありません。しかし、愛はそうではありません。極と極を越えて遍在を妥当に、可能にするのが子供を愛する父母の心、子供に向かう父母の心です。愛を通じるその道に父母の愛は遍在します。どこでもいないところがないのです。それは愛だけが可能です。愛だけがその息子を完全に支配することができるのです。全能な権限はそこに該当するのです。このようになっています。

 

 愛には偉大な属性があります。神様の絶対的な愛、不変的な真の愛と一致した立場に立つようになれば、神様がいらっしゃるところに私が加勢することができ、いつでも同居することができる権限をもつようになります。そのようになれば私が目をつぶらなくても神様に出会い、神様の悲痛な心情を体恤した者は道を歩いていても立ち止まって痛哭する、そのような体恤的世界があるのです。堕落した世の中でも母の愛は、もし息子が外地で不慮の事故に遭ったとしたら第六感で分かる場合が少なくありませんか。寝ていたとしても「あっ! 誰々よ」と叫んで起きるのです。

 

 動脈が偉大か、静脈が偉大か、どちらが偉大ですか。同じです。それでは神様が偉大か、人間が偉大か、同じです。愛を中心として見れば、神様が動脈的だとしたら私たち人間は静脈的な存在なので、神様と対等になることができるそのような特権をもった人間の価値があるのです。

「天上天下唯我独尊であり、全知全能であり、遍在し、私を通じないものはない」。それは何を中心としてですか。愛を中心として、それが理解できるのです。

 

二十七

 

 神様はどんなお方でしょうか。神様は欲張りの中でも大王の欲張りです。いらっしゃらないところがない、遍在される神様です。いらっしゃらないところがない神様なので、どれほど欲張りですか。欲張り者とか欲張りと言ってはいけませんが、ともかく欲が多いのです。

 神様は絶対服従できる道があるでしょうか、ないでしょうか。絶対主管しようとするそのような絶対、独裁者的な性格をもった神様が、絶対服従できなくなるときには、高いものは主管することができても、低いものは主管することができません。遍在性という言葉自体が、矛盾した言葉になります。神様も私たちに似たので……。母、父が自分の息子、娘に似ているでしょう。そうではないですか。神様を私たちの父だと言います。神様も絶対服従して生きたいのです。そういう道がないというときは、神様はどれだけ孤独でしょうか。

 

 自分が描いた作品を持って、夜も昼も酔い、眺めて涙を流し感嘆する人がいれば、それを描いた画家は気分が悪いでしょうか。そのような人がいれば連れてきて、部屋に招待し「どうしたのですか」と言いながら、その理由を話させるのではないですか。「ああ、とてもいい。ああ懐かしい。ああ、一緒にいたい」と言ったからといって、狂ったと言うでしょうか。皆さんは神様を知らなくても、神様が全宇宙にいっぱいに満ちている遍在性を知識的な主体としておられるよりも、愛としておられるので「私がどのように同感権を各分野で体恤することができるのか」という立場で神様を再認識し、再発見しなさいというのです。

 

  )  宇宙には愛がない所がない

 

 神様は絶対的な神様ですが、なぜ絶対的なのでしょうか。愛に絶対服従するからです。気分がいいですか。悪いですか。また神様は遍在します。遍在。神様の愛がない所がありません。  神様の愛は宇宙を抱いても余りあるのです。中心的な基盤をもっています。 も大きい基盤を包容する愛の中心者が神様です。もし神様が動くという場合には、小さいものも全部ついて動かなければなりません。一つの大きな円の中に全部入っているでしょう。それで神様が全世界、全宇宙をカバーすると言っても理論的な言葉になるのです。

 

 神様がいなくなるときは、宇宙がすべて空になるのです。空みたいなのです。しかし神様がいるようになれば、宇宙はいっぱいに満ちているのです。なぜですか。愛があるから。ですから私が一人でいても神様がいることを知れば、宇宙はいっぱいに満ちるのです。どこにでもいらっしゃるのです。どこにでもいらっしゃることを感じるようになるのです。それで遍在の感動を知ることができるのです。愛の中にいて……。しかし私が神様を分からなくなるときは、すべてのものが空になるのです。ないのです。同じだというのです。

 

二十八

 

 愛の主体がいなければ、何もないように感じます。しかし愛の主体がいれば、すべてのものが満ちるのです。愛がいっぱいに満ちてこそすべてのものが満ちるので、無限に与えることができるし、真実に与えることができるという結論が出てきます。授受することは理想の実現です、理想の繁殖です。愛の世界は距離を超越します。愛がどれほど速いのかといえば、光もついて行くことができません。一番速いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満ちるのも愛です。  愛とは何でしょうか。回ることができる潤滑作用と軌道作用をしてくれるものです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も動かそうとすれば油を入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとすれば潤滑作用をしなければなりません。ですから高の喜びの潤滑作用をするものは愛しかありません。それは根が遍在する神様なので、なくなることはありません。

 

 愛は神経のようなものです。私たちが髪の毛一本を引っ張れば体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば宇宙が引っ張られ、愛が動けば宇宙がすべて和して回るようになります。

 

 この宇宙にすべての人々の心を満たしてくれる一つの主体があるとすれば、それはどんな主体でしょうか。絶対的な一つの中心者でないわけにはいかないのです。どのような心の位置にも愛をいっぱいに満たすことができる絶対者がいなければなりません。ですから彼は無限な絶対者でなければなりません。今日、数十億になる人類の心をすべて満たしてあげなければならない神様のその愛の量が、どれほどでしょうか。それは絶対的でなければなりません。全知全能で遍在という言葉が、だから必要なのです。その言葉は神様に必要な単語だというのです。これは理論的です。

 

  既存神観の問題点  

) 既存神観は二律背反的である

 

 宗教の教えに対する反問にはいろいろあります。「神様は果たしているのでしょうか」。「神様が全知、全能、遍在し、至善、至美で、愛であり、審判の主であり、人類の父などと表現しますが、そうだということをどうやって知ることができますか」。「じっとしていてもいいはずの神様が、なぜ宇宙を創造したのでしょうか」。「神様の創造の目的は何なのか」。「創造には方法があったであろうが、その方法は何なのか」。「絶対的な神様が創造した世界に、なぜ弱肉強食という現状が起こっているのか」。「人間が堕落して罪の世界ができたと言うが、完全な神様が創造した人間がなぜ堕落するようになったのか」など

がそれです。

 神様は問題が多いのです。全知全能だと言いながら、なぜイエス様を十字架に架けるようにしたのでしょうか。十字架の道理でなくては救援することができませんか。それにどうやって答えるのですか。全知全能だと言いながら、十字架上のイエス様を救うことができないのなら、そんな神様は残忍な神様です。人間の前から追放しなければならない神様です。信じるとは、何を信じますか。

 

 神様は人間を堕落するようにしておいて、なぜ悲しまれるのかという根源を暴いて、人間と神様との関係がどのようになっており、また全知全能だという神様が、なぜこのように無能な神様になっているのか、ということを知ろうとした人がいませんでした。

 

 今まで神学者たちや霊界に通じる数多くの人たちは、サタンがいることは知っていましたが、全知全能なる神様の前に反対するサタンをなぜ防御できなかったのかという問題は分かりませんでした。これが霊界に通じても問題です。いつでも神側に行こうとすれば、

 二十九

 必ずサタンが妨害するようになっているのです。多方面から、一方ではなく八方から反対するようになっているのですが、それをなぜ神様が干渉できず制裁できないのでしょうか。このような問題が今でも謎です。霊界に通じても、これだけは分からないのです。

 

 全知全能なる神様が、今まで数万年の歴史を通じて人類を導いてきましたが、どうして善の目的を成すことができる世界に導くことができず、しまいにはこのような失望と絶望の世界に向かわなければならなくなったのでしょうか。これは深刻な問題です。神がいないと断定することができる内容にもなるのです。神がいないならば、私たち人間が願う理想とか、あるいは平和な世界、人間が追求していくユートピア的な内容が、未来に可能なものとして人間の前に到来するのでしょうか。今まで長い歴史路程を通じて考える人、あるいは無数の哲人たちがそのような世界を追求したのにもかかわらず、それにまだ到達できず、現在にとどまっているという事実を見るとき、私たちの未来にそのような希望の世界をもたらしてくれるとは考えることができないのです。

 

 全知全能の神様が、なぜサタンをそのままにほっておくのでしょうか。それをなぜほっておくのですか。一朝にして首を切って処断してしまえばいいのに、なぜほっておくのでしょうか。それが宗教において一番の難問題なのですが、それは簡単な内容でしょうか。

 

 今、数多くの宗教人たちは「神様」と言えば、栄光の宝座に座って、全知全能であられ、遍在される方、また絶対的な権限をもっておられる方だ、このように考えているのです。それで神様は苦痛とか悲しみとかそのような概念と関係ない方だ、このように考えています。そう言いながらキリスト教では神様をどのような方と言うかといえば、天のお父様だ、とこのように呼ぶのです。そしてお父様と呼ぶすべての信者は罪悪の世の中で悔い改めなければならず、信仰をしなければならないと言います。父子の関係にあるのに、神様と人間がこのように二律背反しているというのです。

  

 統一教会の原理が偉大なのは何かと言えば、創造性が具体的だということです。創造がどのようにされたのかということが分かるようになっているのです。その次にどのように堕落したのかという実質的な論理があります。その次には歴史観があります。歴史時代において神が堕落した人間を放置したままにしないで、再創造するためにどれほど苦労されたのかということがはっきりしているというのです。そうして過程を通して目的の世界に到達するということを理論的に一目瞭然に明らかにしたのです。