第三章 文鮮明先生の教育哲学
一 教育、何が問題なのか
世界をずっと歩いてみると、ほぽすべての分野でアメリカが基盤をもっています。科学分野であれ何の分野であれ、アメリカ人が世界最高の位置に座っています。ですから、ヨーロッパの人たちが一生懸命に勉強し、研究してみたとしても、ぽろぽろのふろしきのような扱いしか受けることができません。自主的な観念を強めて教育を実施し、自分たちがアメリカ社会圏内において最高の位置を占有しようとしていますが、それは既にアメリカの人たちがすべてやってしまいました。彼らがやってみたところでどうしようもありません。結局は、二番煎じにしかならないというのです。
その人たちの教育方法は、自主的な思想を中心として、強力に個人思想を注入するのです。そのようにするので、ある学者の学説を聞いて、絶対順応するのではなく、すべて批判的な立場で見ようとするのです。ですから、固有の伝統思想を受け継ぐことができません。これが現在のアメリカの教育制度における、とても大きながんです。(二五-一四三、一九六九・一〇・三)
今までの教育や修養、宗教は、個人を中心としてきました。長い歴史過程を経てきましたが、そのすべての目的を達成し、完全な個人と完全な家庭が形成されたのかというとき、今まで人倫道徳を立てて強調してきたすべての教養の標準を越えて真なる家庭を築いた人はいなかった、という結論を端的に下すことができるのです。(二三-一〇、一九六九・五・一一)
今まで学んだ教育や主義、思想、このすべてのものを捨てなければなりません。サタン的な世界のすべてのものを完全否定しなければなりません。一〇〇パーセント否定しなければならないのですが、もし九八パーセントまで否定したとすれば、二パーセントが問題なのです。(一六-二四七、一九六六・六・一九)
今、私たちが暮らしているこの世の中は、どのような世の中でしょうか。心を中心としなけれぱならないのですが、心があるのかないのか考えもしない物質主義の世の中になってしまいました。これは、教育の現実を見ても知ることができます。すべて物質文明中心の教育に重点をおいています。貴く素晴らしいこの心を、目に見えるお金のためにないがしろにしています。また今では、心はないと否定する立場、そして神様もいないと否定する立場にまで流れていっています。(一九-二八八、一九六八・三・一〇)
幸福も、真があるところで成立するのであり、神様の摂理も、真があるところで進行するのです。ですから、この「真」が問題です。この「真」の中には、真なる自分が必要です。その真なる自分になることができなかったので、教育を通して修養してきたのです。そして、今日の諸般の教育制度は、人間改造という問題を中心としてつくられたものであり、それを中心として今まで革新運動をしてきました。ところが、その真があるところがまだ決定できていなかったというのです。(二八-一五八、一九七〇・一・一一)
今日、人々は、聖人の道理とは何かを知りません。これを知らなければなりません。今までの教育は、このことを教えませんでした。しかし、統一教会に来れば、すべて教えてあげます。それでは、統一教会の食口たちは、聖人になりますか、聖人を指導する聖人の王子になりますか。(八四-三三九、一九七〇・九・二〇)
人類歴史、人間の組織形態の核を個人主義に立てることができますか。それはできません。そのようにすることはできません。そのようにすれば、すべて分かれていくのです。今日のアメリカの教育方法は、自主性のある人間を育てようというものです。自主性のある人間を育てようとしてそれを強調していくと、相対性を忘却してしまいました。これが間違いです。相対性のための自主性を強調せずに、相対性を忘却する自主性を強調することによって、個人主義に没落してしまいました。それでも、キリスト教思想があったので、宗教がこれを補充していたのですが、キリスト教までほうり出してしまえば滅びるのです。(七二-二一七、一九七四・六・二三)
世界のすべての国の教育制度は、競争で勝利した者だけが獲得することができるという競争の長所と、それに最も適合する生活を、あまりにも強調しすぎてきました。これは、人類を一つの人間家族の構成員として導き、平和な共存の世界に導びこうとする健全な人間の努力を食い荒らす、伝染病のようなものでした。いずれにしても、現在の人類は、知性人の間でそのような競争を強調することが変更されつつあり、生存のための協同が不可欠な要素であることを悟り始めました。このような見解に照らし合わせて見るとき、教育の目的と教育哲学は、深層から変革を経なければなりません。(七四-一〇七、一九七四・一一・二二)
大韓民国を見ても、大学なら大学を卒業すれば、そのまま卒業証書を渡して送り出します。ところが、その大学で教育を受けたことが社会に出て役に立ちません。これが完全に掛け離れ、お互いに分裂してしまいました。ですから、大学に機関がありますが、その大学機関と自分たちの卒業生、同窓生なら同窓生との関係が曖昧です。大学機関でもう少し強力な組織をもち、自分の同窓生の組織まで管理しながら地方を巡回し、彼らが卒業したのち、専門分野でどのように活用しているのかというデータを出し、そこから何人かを選んで国家で公認することができるようにしなければなりません。このような教育制度をつくれば、社会に出ていって相当に貢献することができるのです。(八四-一五、一九七六・二・六)
父母に対する愛を知らず、先生に対する愛を知らず、その国の主権者に対する愛を知らない人たちが何をするというのですか。そこには、不平しかあり得ません。それを教えてあげるべきところは、教育機関と宗教しかありません。二箇所しかありません。しかし、教会は、教派争いをして、「国がどうで世界がどうであろうと、何の関係があるのか」、国がどうであろうと、世界がどうであろうと関係ないというのです。(一〇四-一八〇、一九七九・六・一)
今まで皆さんが教育されたことは、この堕落した世界で出世することを願い、「もっと高くなりなさい。もっと立派になりなさい」ということだったでしょう。勉強でも何でも、それを標準としてやっていたのであって、反対の道を行こうとはしなかったのです。一つも努力しませんでした。ですから大変です。行けば行くほど、上がっていけば上がっていくほど、天と離れていくのです。行けば行くほど離れていきます。知識があればあるほど、天と離れていくのです。創造ではなく進化ですか。「進化ではなく創造だ!」、これが私たちの明らかにしなければならないことです。(一三二-一五、一九八一・五・一九)
現実の社会制度は、個人主義思想を中心とした文化圏です。小学校から大学を出る時まで、自分を中心とした教育を受ける個人主義思想体制圏の世界なのですが、そのような人格が形成されている人間と、その環境をけ飛ばしてしまい、撃破してしまって、跳躍することができる人にするのは簡単でしょうか。不可能に近いのです。しかし、唯一、愛の力は、すべてのものを消化することができるのです。これが力です。真の愛の力は、死亡までも消化してしまうことができるのです。(一三七-六四、一九八五・一二・一八)
皆さん、現在のアメリカの若者たちを見てください。二世は、既にすべて生ける屍です。今まで民主主義をもって国を導き、教育してきましたが、今の若者たちを見てください。麻薬を吸い、フリーセックスをし、個人主義思想に没落している事実を今、目にしているではないかというのです。そして、思想的な混乱です。キリスト教が思想的支柱になっているのですが、すべて混乱して方向を定めることができない現実に身をおいている、ということを皆さんはよく知っているのです。(一四六-三一七、一九八六・八・一〇)
民主主義は、世俗的な人本主義を生み出し、神様を追放しています。人間の正義の道理、聖人、聖子たちが教えてくれた道理を追放して、フリーセックス、性解放とは何ですか。この亡国のサタンの血統、地獄の沼に根こそぎおぽれていくことを知らず……。日本もそうです。韓国の教育方法にもメスを加えなければなりません。これを防御しなければならない使命が統一運動にあるのです。(一九三-三〇四、一九八九・一〇・八)
戦争は、後世を通していつも継続し、悲惨な出来事を果てしなくもたらす立場にいる、ということを知らずにいます。そして、数多くの歴史的・宗数的代表や聖人たちが来て人類を指導し教育しましたが、外的な教育をしたというのです。国を治め、家庭を治め、社会が平和になるというこのような外的なことを言い、平和世界のための外的な教育はしましたが、私たち人間自体における心と体が闘っているという内的な問題に対しては、教育することができませんでした。(二六九-二五八、一九九五・五・一)
二 教育が必要ない愛の世界
皆さんは、家庭で愛し方を学びましたか。ある父親が彼の子女に、「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。そのように教育を受けましたか。また、母親も、子女に「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。また、父母が子女の愛し方を誰かに学びましたか。皆さんは誰かから、新郎新婦はこのように愛さなければならないと学びましたか。学んだことはありませんが、上手にできます。本当に神秘的なことです。すべての人間は、学んでいないのに上手にできるというのです。
また皆さんの心は、学ばなくても、良いことと悪いことをよく知っています。心が誰かから、「おい心よ。誰かがこれこれこのようなことをすれば、それは悪いことだから、その時はお前が番兵になりなさい」ということを学びましたか。学んではいませんが、この心というものは、体がとても大きな力ではむかってきても問題にしません。かえってその力に比例して、電気よりも早く、即座に反応を起こします。他の心をもてば、即座に止めるようにします。どれほど教育を受ければ、そのようになるでしょうか。もし人が教育して、いつでもそのようにすることができるようにしたとすれば、これは人成功です。いくら偉大な教育者でも、このようにすることはできませんでした。それでは、皆さんは、このようなことを学びましたか、学ぶことができませんでしたか。学ばなくても、すべての人がよく知っており、よくできるのです。(二三-二〇、一九六九・五・一一)
皆さん、結婚する息子に、「お前は、結婚するために二十年間教育を受けたのか」と言いますか。生まれてから、「お前が新婦をもらおうとすれば、このようにしなければならない」と教育を受けましたか。ここにいるおじさんたち! 教育を受けて結婚しましたか。愛の道は、すべてのものを超越しています。愛さえ知れば、夫がどうだという教育は必要ありません。子女がどうだということも、愛さえ知れば教育は必要ないのです。教育があれば、かえって妨害になります。夫婦で楽しく暮らしているのに、その父と母がドアを開けて人ってきて、「おい、お前たち!愛しているのか」と言えば、気分が良いでしょうか。その場は、平等圏であり、同等圏であり、また解放圏です。誰も干渉することはできません。ですから、愛は良いというのです。(六〇-八〇、一九七二・八・六)
愛は、教育が必要ない世界を管掌しているという事実を知らなければなりません。教育は必要ありません! 誰が愛を教育するのですか。考えてみてください。すずめが愛し合ってひなを産むことを、どのようにして教えてあげることができますか。神様が指揮棒を持ってこのようにしなさいと教えてあげたのですか。出会えば、自分たちでするのです。それは、電気が通じます。引かれていくというのです。それは不思議ではないですか。それがどのようにしてひなを産むのですか。魚も、水の中でどのようにして子供を産むのですか。それは、どれほど神秘的でしょうか。誰かがそれを教えてあげるのですか。教えてあげる必要はありません。絶対に教育は必要ありません。自然の道理で、循環の道理で、すべての天理によってそうするようになっているので、教えてあげる必要がないというのです。(一三九-一九七、一九八六・一・三一)
愛は、教育が必要なく、誰の干渉も必要ありません。自律的な内容に従って自分が体で感じます。誰かの説明で、頭を通して、意識構造を通して、体験を通して知るのではなく、既に体を通してすべて知っているのです。体験して知るのではなく、意識して、体験を通して知るのではなく、既に感じていて、体験する前に知っているのです。感じるというのです。(一三九-二〇一、一九八六・一・三一)
私の心と体は、神様の愛を通して完全に一つになります。しかし、私の心と体が分かれて、一度も一つになったことかありません。堕落したためにそうなのです。堕落していなければ、神様の本質的愛を中心として完全に一つになるのです。その愛を中心とする愛の世界には、教育がありません。先生かいません。神様だけが先生です。教えてあげなくても、既に知っているのです。
心と体が一つになれば、宇宙が……。すべて宇宙の縮小体です。すべて知っているのです。学ぶ必要がありません。人間がどのように生きなければならないのか、ということを教える必要はありません。倫理道徳を教える必要がありません。見てください。すずめの世界や動物の世界で、倫理道徳教育をしますか。自分たち同士で保護し、生理的に自分の一族を連結させて生きることを知っているのに、どうして万物の霊長がこのようになっているのですか。堕落したので争いが起きるのです。(一六二-二二一、一九八七・四・一二)
愛だけが核になります。核は、千年回ってもその位置です。核が円形を成せば、核自体はどこに対しても垂直です。どこに合わせても、一瞬のうちに垂直になります。教育は必要ありません。ぴたっと止まれば、垂直になります。天地の度数に合わせるのです。(一九七-五九、一九九〇・一・七)
統一教会の教えは、心身統一です。それには、秘法がありません。お金でもできません。何かの訓練でもできません。教育してもできません。真の愛に立って初めてできるのです。真の愛とは、どのようにすれば植えることができるのでしょうか。サタン的な世界の先祖が種を植えた時のその愛とその生命とその血筋が連結された、それ以上の立場においてのみ、神様が希望をおもちになることができるのです。このように考えてこそ、聖書の逆説的論理の意味が通じるというのです。(二〇六-一九五、一九九〇・一〇・七)
愛があるとすれば、愛の帰着地はどこかという問題を理論的に探求しなければならないのですが、これが解決されなければ理論を編成することができません。理論を編成できなければ、大衆化することができません。教育することができません。それでは、愛というものはいったい何でしょうか。それがどこかに行って定着するところは、変わるところでしょうか、不変なところでしょうか。これは、深刻な問題でした。千辛万苦の末に知るに至ったことは、「愛は直短距離を通るのだ!」ということです。この一言を知って、千年を越える喜びに満たされ、踊りを踊ることができた、ということを皆さんは知らないでしょう。(二一一-二四一、一九九〇・一二・三〇)
垂直と水平がどこで一つになるのでしょうか。これは、球形に運動するので、゛一番の中央線において一つにならなければならないという論理が出てきます。これを中心として線を引くようになるとき、その線に入っていけば全宇宙が共鳴します。霊界も明確に知り……。愛を中心として関係を結ぶ世界は、教育が必要ありません。教育が必要ないのです。誰かが支配する必要がありません。それ自体が私を支配します。真の愛には、神様までも絶対服従すると言ったでしょう?方向性を間違えれば、それ自体が私を正してくれるのです。どこに行かなければならないのかを知っているというのです。(二一四-二三二、一九九一・二・二)
人間の貴重な価値を満点にすることは、真の愛と一体となる時に可能です。心身一体は、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の周波数が同じとき、一つをチンとたたけば、その反対が響きます。それと同じように、真の愛によって良心をたたけば、肉身に響きます。真の愛で肉身をチンとたたけば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育が必要ありません。そのど真ん中に入っていけば、教えなければならないすべてのことを知るようになるというのです。(二二三-三五五、一九九一・一一・二〇)
真の愛は、教育が必要ありません。自動的に知るようになっています。皆さんが結婚する時に、思春期になった時に、男性のことを考えなさいと教育してもらいましたか。教えてもらっていませんが、いくら家柄の高い女性でも、いくら母親が隠して育てたとしても、壁の向こうから男性の声が「わあわあ」と聞こえれば、我知らず飛び出すのです。それは、何者も止めることはできません。
そこには教育が必要ありません。フリーセックスだ、性教育だというのですが、やめなさいというのです。動物世界で性教育をしますか。その横にさえ行けば、自動的に合わせるのです。あるものは、生殖器が翼の付け根にあるのですが、かかとでそれを合わせます。自然に合わせるようになっています。磁石が南北に通じるのは、合わせなさいといって合わせるのですか。自動的に合わせるのです。真の愛に一致することができる心と体になれば、神様の愛があれば、ほっておいても自分で東西南北の方向をただしく見つけて、自動的に行って合わせるのです。(二七二-九一、一九九五・八・三〇)
三 人を愛する教育
愛の教育をしなければなりません。「そうだ、お前がこのようにすれば父と母が悲しむから、してはいけないだろう」と言いながら、愛の教育をしなければなりません。ですから父母は、子女の友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。
その愛の教育は、誰から受けなければならないのですか。父母からです。父母が一つになって、はとのように楽しく「クククク」と愛するのを見て、それを見習わなければなりません。「ああ、お父さんとお母さんがあのように喜んでいるのを見ると、私万人では寂しい。私もお父さんとお母さんのように『クククク』と愛することができる、そのような相対が必要だ」と、このようにならなければならず、父母は、そうなるように教育しなければなりません。結婚して愛するのを見習うことができるように教育しなければなりません。そのようになれば、その息子、娘たちが父母のしていたことを反復するようになるので、世界は、善なる世界になるのであり、人類歴史は、善なる歴史になるのです。(五七-一二一、一九七二・五・二九)
皆さん、愛する人同士、思春期の二人の男性と女性が、野ばらの咲く丘で愛をささやきながら、しおれた野ばらの花や葉だとしても、それを一つもらったこと、それを永遠に忘れられますか。愛を通した教育、愛を通した信仰生活、それが天国です。知識を通した国家、権限を通した国家、これは亡国の場です。愛を通した知識、愛を通した経済、愛を通した……。天国は、このようになったところです。(六〇-七八、一九七二・八・六)
教育に関する問題とは何でしょうか。愛の教育をすることが最も良い教育なのですが、その愛の教材はどこにありますか。教材は私です。皆さん、本当に愛してみましたか。私が父母を愛しているので、父母も私を愛さざるを得ません。私が妻を愛しているので、妻も私を愛するというのです。完全なマイナスが生じればプラスが生じ、完全なプラスがあればマイナスが生じるようになるのです。
愛は、私にかかっています。私が愛した分、私を愛するようになるのです。先に愛さなければなりません。誰が愛の教材ですか。それが難しいのです。人の夫の役割をすることが大変だということを知らなければなりません。子供のいる人が愛を知らないということは恐ろしいことです。夫としてその責任を果たし、妻としてその責任を果たし、父母としてその責任を果たせば、良く教育したことになるのです。教育材料として最も良い材料が私だということを知らなければなりません。
それで、このような教育を私の父母を中心として、それから食口を中心として、国家を中心としてするのです。天国に行って暮らすことができる訓練をするのです。それを個人・家庭・社会・国家・世界的に連結します。自分が母親ならば、赤ん坊に対して、「愛している。愛している」と言う必要はありません。目を見れば、すぐに分かるのです。(一〇二-一二二、一九七八・一一・二七)
皆さんは、父母の愛を中心として、師の愛、国の愛、聖人の愛、神様の愛をもっていかなければなりません。父母を好むのは、大概十八歳までです。それからは、先生を好みます。この少年時代、青年時代、壮年時代までは教育を受けなければなりません。愛に関する教育を受けなければなりません。私が父母を忘れることができないように、先生を忘れてはならず、先生を忘れることができないように、国の王を忘れてはいけません。また国の王を忘れることができないように、聖人を忘れてはならず、聖人を忘れることができないように、神様を忘れてはいけません。皆さんは生涯、それに対して感謝しながら教育を受けなければなりません。
統一教会の文なにがしという人は、何をする人ですか。すべての愛を行うことができる教材として登場した男です。レバレンド・ムーンを愛する以上に父母を愛しなさい、それが先生の教育です。皆さんは、父母を愛することができませんでしたが、レバレンド・ムーンを中心として愛を学んだので、レバレンド・ムーンを愛する以上に父母を愛しなさいというのです。(一〇四-二八四、一九七九・六・一)
家庭の愛を世界舞台に立体的に拡大しなければなりません。夫と妻が父母を考え、子女を考えるように、それを世界化しよう、このように教育を受けたことを世界的に拡大させようというのです。おじいさんとおばあさんの年齢に当たる人々を、皆さんのおじいさんとおばあさんのように考えなさいというのです。また、皆さんの父母の年齢と同じ世界のすべての人々は、父母と同じように考えるのです。男性を見るときに、「これは夫の延長線だ。延長線だ」と考え、自分より年下の人は、自分の弟のように考え、息子と同じ年齢の人は、息子のように考える、そのような愛で世界の人を愛そうというのです。(一〇四-三三六、一九七九・六・一〇)
根本的に、男性という人格と女性という人格が、主体と対象の相対関係を中心として力の作用をしようとします。それは何でしょうか。愛というものです。愛の力を中心として、家庭形成が展開するのです。愛国とは何でしょうか。国の主権と国民の生活基盤が、愛を中心として絡み合うことです。聖人とは何でしょうか。世界の主体の立場で、愛を中心としてすべての歴史と絡み合うことができるようにする人です。それゆえに、聖人は、すべて宗教指導者だったのです。
聖人の生活の基本は何かというと、愛の原則です。すべてそれを教育しました。仏教でいえば慈悲、キリスト教でいえば愛です。すべてそのようになっています。一般的には知られていなかったのですが、その作用は、宇宙の核となる愛の作用と連結するためのものなのです。そのような宇宙的な共通分母の作用原則があるのですが、この原則に符合することができないときには遊離するのです。遊離して相対を得ることができなければ壊れるのです。しかし、この主体的愛、核の主軸的愛に連結されれば解体されません。分解しないというのです。喪失がありません。永続するのです。(一三七-五六、一九八五・一二・一八)
もし嫁が、「ああ、私は教育を民主主義的に受けた。お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさん、すべて同じであり、息子、娘も同じだ」と不平を言い始めればどうなりますか。秩序が立つでしょうか。ですから、教育が必要です。今後、一つの教育が世界に残るとすれば……。法を中心とした教育時代は過ぎていきました。お金で交渉することができる時代はすべて過ぎていきました。力で治めるという時代は、すべて過ぎていったのです。それらは適応できません。いくらやっても適応できないというのです。行っても戻ってきます。定着が不可能なのです。今、残った一つのものは、公義に立脚した愛の秩序だけを必要とするのです。(一四七-二七三、一九八六・一〇・一)
四 良心が教えるところに行きなさい
悪が行く道には、教育が必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行くことができます。悪から始まった歴史なので、教育を受けなくても、誰でも行くことができるというのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか。自らそのようになったので、今日、人倫道徳を中心として、良心の標準を選んでいきなさいと教育するのです。
何を中心とする教育ですか。善を中心とする、良心を中心とする教育をしたにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人にどれはどなったのでしょうか。悪なることは、学ばなくても誰でもすることができます。誰でも満点をとることができるのです。(三六-五六、一九七九・一一・一五)
固執する人も、自分の心は知っています。心は、自分が正しいのか間違っているのか、すべて知っています。ですから、心の世界には、教育が必要ありません。心の世界は、自分がしたことに対して正しかったのか間違っていたのか、すべて知っているのです。にもかかわらず、意地を張って固執するようになれば、どうなりますか。そこには、サタン相続が進行するのです。毒蛇が来てかみついているというのです。毒蛇がかみついているのに、じっとしていますか。しかし、それは、毒蛇にかみつかれるよりももっと恐ろしいのです。毒蛇にかみつかれれば、自分一代だけが滅びますが、心の世界が過ちを犯せば、数千万代が滅びるようになるのです。(三七-一三一、一九七〇、一二・二三)
皆さん、誰が心を教育しますか。「私は心の小学校に通った。私は心の中学校に通った」という話を聞いたことがありますか。これは、教育を必要としません。絶対に教育は必要ないというのです。今日、いくら法がたくさんあるとしても、心以上の道理を教えてあげることができる法はありません。人は、良くないことをすれば、良心の呵責を受けるようになります。良心は正しいのです。大概、観念がそうです。良心が曲がっているのかまっすぐなのかというとき、良心が曲がっていると考える人はいません。普遍的に良心は正しいと考えるのです。(三八-二二八、一九七一・一・八)
悪に教育が必要ですか、必要ないですか。悪くするのに教育は必要ありません。教えてあげる必要がありません。そのままほっておけば、自然に悪なる人になります。体の言うとおりにすれば、間違いなく悪なる人になります。善なる人になろうとは考えることもできません。間違いなく悪なる人になります。(三八-三〇一、一九七一・一・八)
悪なる人になるには、教育は必要ありません。教育だけでなく、何も必要ありません。悪なる人になろうとすれば、何も教えなくてもすぐに悪くなることができるのです。ここには、教育が必要ありません。悪なる人になりなさいと教育しなくても、自動的になることができるというのです。しかし、善なる人になろうとすれば、自動的になるのはそれほど簡単ではありません。したがって、善なる人にするためには教育が必要なのです。すなわち、善に従って行動するためには教育が必要だというのです。善と悪が行く道は、お互いに相反する道なので、善を行うために行く道は、決して簡単な道ではありません。その道を簡単に行くことができれば、どれほど良いでしょうか。(三九-二二、一九七一・一・九)
悪を行うことには、教育も必要なく、制裁も必要ありません。そのまますぐに飛び出していっても、世界で一番の悪人になることができます。道端に立って、人が来る時にナイフで刺せば、そのようになります。体の言うとおりにするとすれば、天下でもすべて切ってしまいたいと思うのです。悪なる者になるのに、教育は必要ありません。そのままほっておいても、いくらでも悪なる者になることができます。悪なる人になるのは簡単です。しかし、善なる人になろうとすれば、必ず制裁と犠牲の代価を払わなければなりません。これ自体が何かというと、悪なる世界に暮らしているという証拠です。(三九-二六六、一九七一・一・一五)
本心は知っています。本心には説明は必要ありません。自動的に理解することができます。それは、偉大なことです。本心には教育が必要ありません。リーダーが必要ありません。自動的に分かるのです。磁石のように、N極とS極は、自動的に授受作用をします。同じことです。真に与えるところには、自動的に真に受ける力が結合し、そこで宇宙的な存在の雰囲気ができるのです。そのような雰囲気を、いわゆる自然というのです。(一四七-一四一、一九八六・九・七)
皆さんが本然の人間の境地に入っていけば、そうです。神様は、私の心の中心です。心は、天の縦的な父母を受け継いで生まれたのですが、縦的な父母を通して生まれた心は、横的な父母を通して生まれた体と一つにならなければなりません。どこでですか。九〇度の角度で一つになるとき、神様がどなたなのか、地獄がどこにあるのか、天地天下がすべて見えます。教育は必要ないというのです。(一八七-一一七、一九八九・二・五)
良心は、教育が必要ありません。なぜでしょうか。それは、垂直だからです。垂直がとどまり得るところは、ただ一つ、一点しかなく、上にも一点しかありません。それから、水平が完全にできていれば、水平という存在を教育することができますか。「お前はこのように直しなさい。あのように合わせなさい」と言うことができますか。考えてみてください。「私は水平を教育することができる」という人は手を挙げてください。それは狂った人です。水平といえば、それは永遠の基準として、永遠不変の型として受け入れなければなりません。垂直も同様です。(二一一-二三一、一九九〇・一二・三〇)
良心が体のために、どれほど犠牲を被ったでしょうか。一生の間、蹂躙される良心の事情を皆さんは知っていますか。夜も昼も私を管理することに疲れているのが良心です。それでも倒れずに、体が悪い行動をしようとすれば止めるのです。「そのくらいすれば、もうやめなければならないではないか。私の言うことを少し聞かなければならないではないか」と、このように言うでしょう? 自分に最も近い、父母の代わり、神様の代わり、師の代わりの存在が良心です。心自体には、教育が必要ありません。しかし、体には教育が絶対に必要です。(二一一-二八二、一九九一・二・三)
私たちの良心世界と体を見てみれば、どのようになっているのでしょうか。良心は教育を受けなくても、すべて善なることを知っています。例えば、五つの国があるとして、五つの国の主権者たちがそれぞれ異なる憲法をつくり、それが善なることだと結論づけ、それに従って治めようとしても、良心的な人は、その五つの国の主権者の中で、どの主権者がより善なる主権者なのかを判断できる能力があるのです。どの国が一等なのかを測定することができる力をもっています。その五つの国の中で、最も良い国を選び、最も悪い国を選ぶことができます。良心は、そのようなことを判断できるので、その五つの国の最も善なる側に従っていこうとするのです。
教育の目的は何でしょうか。良心を教育するのが目的でしょうか、体を教育するのが目的でしょうか。良心は、五つの国の中でどの国が善なのか悪なのかを判断し得る能力をもっており、いつも自己の主体性を備えて私を管理しているのですが、体は、すべてのことがめちゃくちゃです。ですから、体を主管する教育が必要なのです。良心は、主体性を既に備え、永遠に定着しているのに、どうして教育が必要ですか。良い人に会えば、すぐに心が分かるのです。一度会って、二度会って、三度会えば分かるのです。「ああ、彼と一つになりたい!」と思うのです。
では、心と体が一つになるというのはどうですか。心と体が闘えば、良心世界はそれを嫌うというのです。良心がそのような変わらない立場にいるので、変わらない霊界が良心を土台として活動せざるを得ないという論理は妥当です。啓示を受ける場合のように、霊界に接するときにはどのようになっていなければならないのでしょうか。それが水平になって動揺がなくなってこそ、霊界が自然に連結されるのです。体ではできません。(二一六-三〇六、一九九一・四・一五)
皆さんは、良心と肉身の二重性をもっています。自分を中心として見てみても、ある時は、良心と肉身が反対し合い、お互いが嫌うことをすることもあります。そのようにして、一つになることができずに継続して衝突します。良心と肉身が統一されて一つになることができなければ、理想郷に行く道がありません。歴史を通して見ても、今までこの戦争をやめさせたものはありませんでした。教育でも、止めることはできませんでした。
良心は、両親、父母に優ります。誰にも尋ねるな、父母が必要ないというのです。父母の生活様式や教えは必要ありません。良心は、教育する必要がありません。良心を教育するという話を聞いたことがありますか。良心は、教育を超越しています。法を超える絶対権限があるのです。(二一七-一二、一九九三・一・二一)
良心は両親に優る! 良心は先生に優る! 先生が必要ありません。良心には、教育が必要ないというのです。そのような偉大なものをもっています。良心は神様に優る! 神様を必要とするのは愛を引き継ぐためです。愛に連結された場合には、いつでも神様が一体となっているのです。(二五二-一五一、一九九三・一二・二九)
絶対的な良心は、絶対的な神様の立場です。神様に尋ねる必要はありません。良心に対して教育する人を見ましたか。父母が良心に対して命令することはできません。体が過ちを犯したので父母の干渉を受けるのであって、良心は父母に優るというのです。第二の神様なので、良心は父母に優るのです。良心は先生に優るのです。先生に尋ねる必要もありません。神様に尋ねる必要もありません。神様は、良心に対して教育されません。すべて教えてあげました。良心を絶対視しなければなりません。絶対視しなければ、心と体を一つにする道は永遠にありません。(二五二-二五五、一九九四・一・一)
良心は、第二の神様です。良心を教育するという人を見ましたか。良心を教育するという人は見たことがありません。誰もが、出会って、あなたは良心的かと尋ねます。外交舞台でも、良心的な外交官かと尋ね、政治でも、良心を中心として尋ねます。経済人も、良心的かと尋ねます。
「良心は父母に優る」、大きな声で言いながら書いてください。忘れないように、赤い線を三本でも百本でも引いてください。忘れてはいけません。自分は、一〇〇パーセント知っています。良心は、自分がしていることで知らないことがありません。ですから、良心には永遠に教育が必要ないのです。分かりましたか。(二五七-一一六、一九九四・三・一三)
私たちの良心だけが、(三大)主体思想を達成する対象の立場で絶対的に一体とならなければならないので、良心の位置は、私たちを生んでくれた父母より、師より、国の王よりも優れた立場に立たなければ、神様の愛の対象の立場になることはできません。良心は、教育が必要ありません。神様の代わりとして絶対的に侍らなければなりません。(二五九-四一、一九九四・三・二七)
「良心的な人士は、良心万能圏を主張し、良心解放圏を付与し、万世の勝者にならなければならない! アーメン!」と言うことができる万国になり、良心を神様よりも、自分の父母よりも、その国の何よりも価値あるものとして尊重し得る時代が来れば、良心の解放を受けた人たちが天下を支配する時が来ます。それで、最近教えていることは、良心は父母に優るということです。父母は、結婚して自分に困難なことがあれば別れることもできますが、良心は、私と共に永遠に離れず、父母の愛以上の愛をもって天上世界に還故郷する道の案内者になるというのです。
良心は師に優ります。良心世界は、教育が必要ありません。今日、世界で教育部の長官が良心を教育しようと宣布したという話を聞いたことがありますか。良心は、教育が必要ないのです。良心は、自分の行くべき道をすべて知っています。あることをしようとするとき、良心に引っ掛かるものがあればしてはいけません。その道は、地獄に行く道です。良心は師に優ります。良心は神様に優ります。なぜですか。愛する相対は、自分よりも優れていることを願うからです。(二六六-二七七、一九九五・一・一)
良心は父母に優ります。良心は師に優ります。良心は主人に優るというのです。父母や師や主人は、別れて暮らすことができます。良心は別れることができません。永遠に別れることかありません。その良心の言うとおりにすれば、完全に神様の直系の子女になることができます。例えば、朝と午後になれば影ができますが、正午になれば影がなくなります。実体しかないというのです。影がないので、この位置に入っていけば一つになります。本体とイコールになって、初めて影がなくなるのです。(二九一-一八三、一九九八・三・一一)
良心は師に優ります。「良心をつかまえて教育しよう」と言う教育部の長官がいますか。いないではないですか。良心は、教育が必要ありません。本性の良心は、教育が必要ないのです。自らが、生涯の理想教育の方向を自然と提示するようになっているのですが、肉身がそれを妨害しています。絶縁関係になって妨害しているので、不可能になってしまったのです。良心が師よりも先です。
自らの教育によって良心の声を聞くことができるようになれば、先生よりも先に良心に尋ねるとき、真理なのかそうでないのか、すぐに分かります。自らが定着しなければならない永遠の世界の主人を迎えるべき立場に立つか、それ以上の立場に立ち得るのかを知ることができます。そのようなことが備わっており、主人権、王権以上の立場にいるので、いくらその国の教えが立派だとしても、その国にいたいと思わないのです。(二九八-一八一、一九九九・一・一)
五 犠牲と奉仕、そして公的なもののための教育
み旨のために生きて傷ついたことは、後日まで自らの教育となり、子孫にも立派な教育になります。(二七-二九五、一九六九・一二・二二)
皆さんが小学校の先生だと仮定してみましょう。子供たちを教育するのは簡単ではありません。そして、子供たちは、いつも自分の思いどおりにしたがります。私たちは、自分の思いどおりにしようとする子供たちを、訓練または教育することはできません。皆さんは、先生としてその子供たちを愛し、難しくても耐え、観察し、そして彼らを助けようとしなければなりません。それは簡単ではありません。
もし、その子供が、先生が兄、姉、父母よりももっと自分を愛していることを感じれば、その先生は、本当に資格のある人であり、立派な先生でしょう。小学生のこのような例に見られるのと同じことが、私たちが教育しようとするところにも、私たちが行っている永遠不変の教育訓練にも適用されるのです。
私たちは、その人々を連れてきて教育し、訓練させるために、私たち自らどれほど多くの準備をしなければならないでしょうか。その人々に対する私たちの奉仕、犠牲と献身がなくては、この歴史的な課業を成就することはできません。ここには他の道がありません。卓越した宗教指導者たちは、先生が語っているこのような奉仕と犠牲の方法を除外しては、この世界や人々を指導する道はほかにないというのです。(五二-二八五、一九七二・・一・九)
神様が堕落した私たち人間を教育し得る道があるとすれば、それはどのような道でしょうか。人間が神様に相対し得る立場に立ち得ていないので、神様が人間を近くにおける唯一の道があるとすればそれは何か、と考えるとき、心で訪ねていく道──御自身が愛しているということを見せてくださる道──しかないということを、私たちは結論づけることができます。
神様が「人間を再び救援し、人間を再び愛したい」という考えをもたれたとすれば、その神様の教える道理は何かという問題を考えてみるとき、「人のために生きて犠牲になりなさい」という、そのような道理になるでしょう。これは、間違いない鉄則であり、素晴らしい教育だ、ということを知らなければなりません。犠牲になるということは、素晴らしい教育です。聖書に、「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五・一三)といっています。聖書のどこを見ても、そのようなことを標準として教えているのを発見することができます。聖書を通しても、神様は、間違いなくいらっしゃることを理論的に結論づけることができるのです。(六九-四六、一九七三・九・九)
先生は皆さんに、「アメリカのために犠牲になりなさい! 世界のために犠牲になりなさい!」という教育をしてきました。私がアメリカに来て、このように苦労するのです。私がもっている財産をすべてはたいて、これをするのです。アメリカのために韓国人を苦労させ、日本人を苦労させ、ヨーロッパ人まで苦労させています。皆さんは、苦労しませんか。それでは滅びます。滅ぶというのです。ですから、皆さんをもっと苦労させようと思います。ヨーロッパ人よりも、日本人よりも、韓国人よりも、もっと苦労させようと思います。そのようにしてこそ、愛を受け、伝統が立つのです。(一〇六-七一、一九七九・一二・九)
体が「やろう」ということの一八○度反対の道を行きなさいというのが、宗教の主流教育です。ですから、「奉仕しなさい。犠牲になりなさい。驕慢になってはならない」と言うのです。下に降りていきなさいというのです。頭を上げずに、下に降りていきなさいというのです。そうなると、サタンは、地獄にしか行く所がありません。(二五一-一一五、一九九三・一〇・一七)
皆さん、福を受けることを願いますか。犠牲になることを願いますか。そのようになろうとすれば、公的な人にならなければなりません。子女を教育するにおいて、自分の息子、娘だけを愛してはいけないというのです。世界の人々のために祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を抱いてお乳を飲ませるときには、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した子女にお乳を与えるという心で飲ませなければなりません。そして、かわいいといって自分の子女にだけお乳を与えるのではなく、人の子女でも自分の子女と同じ心情で接する母親になってみてください。そのような母親のお乳を飲んで育つ赤ん坊は、必ず偉大な人になるのです。すぐにならなくても、一代、二代を経ていく間に、必ずその子孫の中で世界を主管し得る人物が誕生するのです。これは公式です。(三一-一六七、一九七〇・五・一四)
私的なことは悪に属するのであり、公的なことは善に属するのです。歴史も同様です。私的な歴史はサタンの歴史であり、滅びる歴史です。公的な歴史は神様の歴史であり、善の歴史です。皆さんが教育をするときにも、そのような観念でしなければなりません。目で見るときも、私的に見るのか公的に見るのか、鼻でにおいをかぐときも、私的にかぐのか公的にかぐのか、耳で聞くときも、私的に聞くのか公的に聞くのか、仕事をするときも、私的にするのか公的にするのか、歩くときも、私的に歩くのか公的に歩くのか、この基準ですべての問題を解決しなければなりません。(三六-六七、一九七〇・一一・一五)
皆さんが受けている教育の中で、真なる教育とは何でしょうか。本当の教育、真なる教育は、人のために生き、そして死になさいと教える教育です。それ以上の教育はありません。(三七-一三三、一九七〇・一二・二三)
皆さんの中で、滅びたいと思う人は手を挙げてみてください。それでは、発展したいと思う人は手を挙げてみてください。発展する方法は、ほかにありません。簡単です。真になれば発展します。なぜ発展するのでしようか。すべてがその人の側になってくれて、すべて与えてあげようとするので発展するのです。それでは、なぜ滅びるのでしょうか。すべてがはぎ取っていこうとし、削り取っていこうとするので滅びるのです。自分を第一として横行するようになれば、永くは続きません。反面、人を第一としていけば、永く続くようになっているのです。善悪の起源は、ここから分かれていくのです。(三七-一三四、一九七〇・一二・二三)
皆さん、年を取った人たちは、「神様が私に息子を下されば、私はこのような息子にし、私がみ旨のために果たすことができなかったことを所願成就するために、代々それを受け継がせてお父様の偉業を成就させます」と言わなければなりません。子女たちをそのように教育し、そのように育てなければなりません。それゆえに、今皆さんが一つ知らなければならないことは、皆さんの汗と涙と血の犠牲に比例する祝福が皆さんの息子、娘にあるだろうということです。いつでもそのことを考えなければなりません。
ですから、自分のために喜ぶ生活よりも、公的なことのために悲しむ生活を、自分のために良い生活をすることよりも、公的なことのために苦痛を受けることを幸福と思う生活をすれば、その息子、娘は、何十倍、何百倍福を受ける、ということを知らなければなりません。(九〇-一一九、一九七六・一〇・二一)
今まで、このレバレンド・ムーンが統一教会の教会員たちに教えたことは、「あなたは愛国者の中の愛国者になりなさい」ということです。これは宣言です。「あなたは愛国者の中の愛国者になりなさい」、これが統一教会の教育第一条です。愛国者の中の愛国者になりなさい! それから何ですか。「教会の信者の中で誰よりも、いかなる宗教の信者よりも高い、一番高い立場に立ちなさい!」、このように教えるのです。(一一三-一一一、一九八一・五・一)
家門において、立派な父母が教育する教訓とは何でしょうか。「お前は、いくら困難でもこの村のために犠牲になり、この村のために手本となるように生きなければならない」と、このように言わなければなりません。このように訓示する父母は、善の父母です。
教育がある前に愛があります。最初の創造物が存在する前に、その原則的基盤が愛から始まったので愛があるというのです。本質がそのようになっています。物質もそうであり、物質を糾合して人体となる人間も、物質の器の中に含まれている愛、神様の最高の愛に帰っていこうとする心があるのです。本心がそうだというのです。(一四七-二九七、一九八六・一〇・一)
教育理念をどのように立てるのでしょうか。アメリカだけのために生きるという教育は、取り残されます。国境を越えて、世界のすべての人を導いていくことができる教育をしなければなりません。「世界は一つだ」と言い、「学ぶのもすべて世界のためにする」と言わなければなりません。世界は一つにならなければならないようになっています。結局は、一つになるのです。
そのような観点から教育する内容を考えてみるとき、宗教教育が必要です。それは、国境を越えることができます。その次に、思想的な教育が必要です。それは、世界的です。国境を越えることができるというのです。ですから、思想的な内容と宗教的な内容を兼ね備えた教育にならなければなりません。ゆえに今後、どのような国家だとしても、世界のために教育理念が後ろ盾とならなくては、世界人類の前に立つことができなくなります。(二〇七-六四、一九九〇・一一・一)
六 指導者の責任と姿勢
統一教会のみ旨に従っていく人たちの中には、一等になる人もいて、びりになる人もいて、落伍者になる人もいるでしょう。統一教会に通う人たちの中でも差が生じます。そして、実際に競技場で展開する現象が、皆さんの家庭や、あるいは活動する基盤でも展開します。しかし、問題となる国家なら国家、団体なら団体で、上手に走る選手をどのように育てるのかというのです。すなわち、どのように教育し、どのように訓練して優秀な選手に育てるかが問題だというのです。この使命が皆さんにかかっています。
選手たちを教育して訓練するためには、まず皆さん自身がそれに値する実力をもっていなけれぱなりません。皆さんの指導を受ける後輩たちが、皆さんの記録を破るように訓練することができなければなりません。そして、統一教会のみ旨を中心とするマラソン競技において、国家を代表して世界の前に立てることができる人を育てあげなければなりません。そのような人を育てあげた指導者は、彼と共に歴史的に残るようになるのです。(二九―六七、一九七〇・二・二四)
今後、後継者を選ぶようになるときには、冷淡に批判することもできなければなりません。自分と、ある部分は合い、ある部分は合わないことを知らなければなりません。そして、全体の責任を完全に相続してあげ得る適格者になっていなければ、何人かを立ててでも、このすべてのことを教えてあげなければなりません。教えてあげるときには、どのようにしなければならないでしょうか。甲が行かなければならない道、乙が行かなければならない道、丙が行かなければならない道がすべて異なるので、各自が該当する分野を中心として教育しなければなりません。教育して一つになり得る過程を経ていかなければなりません。(二九-八九、一九七〇・二・二五)
先生は、一九六〇年代に全国を巡回しながら、核心要員を育てました。里に三人だけいればいいのです。大勢いても必要ありません。核心要員として三人だけいればいいのです。三人の核心要員のうち、一人は教育的な分野、一人は教会的な分野、一人は経済的な分野に責任をもつのです。このように三つの分野を三人が一つずつ責任をもち、み旨と共に死ぬことができれば、間違いなく全国を動かし得る時が来ます。そのような時が来るというのです。(三三-一九二、一九七〇・八・一二)
先生は、ここにいる責任者たちの精誠の基準が何パーセントくらい接近したのか、ということを鑑定しています。世の中の知識を標準として見るのではなく、精誠を見るのです。
ある人は、苦労の道に追い出します。人事処置するときに、とんでもない所に送ることもあります。思い掛けない所に配置してしまうのです。そのようにすれば、「ああ、今まで私はこのようにしてきたのに左遷なのだなあ……」と言うでしょう。しかし、左遷ですか。その左遷という認識を誰から教育されたのですか。先生が何かの職責をもっていますか。(五一-二八四、一九七一・一一・二八)
教会は、原理ばかりを第一としてはいけません。もちろん、原理を中心として思想的基礎を立て、信仰生活の基礎をしっかりとつくらなければなりませんが、それに伴って対社会運動、その中でも教育をしなければなりません。最も重要なことが教育です。教育を良くしなければならないのです。家庭教育から、部落なら部落の公共生活の面を中心として、教育することができなければなりません。私たちの教会がそのような面に影響を及ぼしてこそ、教会を中心として、すべてを囲んで固めていけるのです。教会員ばかりに信仰の教育して、聖日にだけ集会をするのではいけません。
物質的な面で影響を与えるためには、農業改良のようなものがあるのです。生活面で援助することができ、直接経済面で援助することができることを私たちが指導するのです。農作業のやり方や、教育の面で影響を与えるなど、とにかく彼らに利益を与えなければなりません。損害を与えれば、従ってこなくなるようになっています。物質的な面でも、精神的な面でも、一般教育的な面でも、何でも教会がプラスとなる道をもっているというとき、いつでもプラスとなる内容を補給するとき、そこに関係した人たちは、自動的に引き込まれてくるのです。
それゆえに、今後教役者になろうとすれば、総合的な基礎教育を受けて、すべての面を備えた人にならなければならない、という結論が出てきます。結局、教役者は何かというと、神様の代身者なのですが、神様が一方的ですか。神様は、全世界を収拾して一つの理想圏に指導する総責任者なので、教会の責任者も、教会だけのために生きるめではなく、全体の行政分野の人々、派出所なら派出所の人たちまでが来て相談するほどに影響を及ぼすことができるようにしなければなりません。
ですから、皆さんは、私たちの教会の機関が精神的な面を指導するのはもちろんですが、生活的な面や教育的な面にプラスとなる与件をどのように提示するかという問題を、いつも考えなければなりません。それで、「教会がなければならない」となれば、自然に教会も彼らが遣るのです。このような立体的な活動を皆さんが考えなければなりません。(五六-一三、一九七二・五・一〇)
サタンの僕のような立場にいる人間を救うためには、人間たちを内的にもう一度教育し、その環境を飛び出すようにする運動をしなければなりません。そのようにするためには、神様が僕の僕の立場に立ち、彼らを指導し、教える責任者にならなければなりません。(七四-八一、一九七四・一一・一四)
宗教を信じ、神様の息子になろうという人々は、よく食べて、豊かに暮らそうという考えを捨てなければなりません。済州島なら済州島に暮らしている道民を中心として、「私は、最も困難な立場で彼らを教育しなければならない責任がある。こじきの洞窟に行ってこじきの親分も教育しなけれぱならないが、この道知事も教育しなければならない。この国の大統領も教育しなけれぱならない」、そのように言うことのできる神様の息子、娘を必要とします。無価値な息子、娘になってはいけません。
神様の代わりに人類に対し、下から最高まで教育しなければなりません。生涯を捧げてすべてのことを教えて教育しようというその道を行かなければ、神様の息子、娘になることはできません。(一二六-八六、一九八三・四・一九)
今から責任者の皆さんは、きょう先生のみ言を聞いて、「私は新しい存在として、この国、この地上に新しい生活様式としての伝統を立てなければならない義務をもっている」という考えをもたなければなりません。そして、先頭に立たなければなりません。「三十六家庭」、「七十二家庭」を、今でも先生が連れて教育しています。今も教育しているのです。このニューヨークにいる時には、必ず「イースト・ガーデンに来なさい」と言って教育するのです。時間さえあれば、今でもそのようにします。
先生がアメリカにいるときは、韓国の責任者に教育することができないのですが、死ぬ時まで教育する責任があります。始めたので最後までやらなければならないというのです。世界まで行き、天まで正しく行くことができる人にしなければならない責任があることを知っているので……。それは簡単ではありません。一年ではできません。
幹がそうならば、大きな枝がそうです。大きな枝が小さな枝に、小さな枝が細い枝に……。同じです。先生が根ですが、根が枝に行くことはできず、枝が葉に行くことはできないではないですか。それで、各統一教会の責任者たちに会って統一教会の伝統的思想をキャッチすることができ、うかがい知ることができなければなりません。そのような枝にならなければなりません。先生の方針がそうなので、この原則に一致していない指導者は、すべて過ぎ去っていくのです。間違いなく過ぎ去っていきます。そうでなければ、私が江原道の金剛山に入っていって教育の場所を決定し、再び教育しなければなりません。(一二九-一一八、一九八三・一〇・一)
皆さんは、自立して生活の対策を立てながら、天の民を育てなければなりません。教えるのは、専門分野の教育を受けて、自分の生計を立てるための努力よりも二倍の努力をしなければなりません。価値で見れば、どちらが重要かというと、二倍の努力をするものが重要です。そのようにすれば、教会員に世話にならず、教会員たちが暮らすことができる基盤、今後協助することができる基盤をつくることができます。
指導者は、経済問題を扱う指導者が重要な人ではありません。政治問題や社会問題や科学問題が問題ではありません。今後、「統一思想」を完全に武装して、神様の人として新しい思想を中心として教えてあげ、教育することのできる指導者が中心だ、ということを知らなければなりません。(一三三-一九九、一九八六・七・一〇)
七 教育、このように変わらねば
最も問題となることは、教育問題です。教育は、ビデオを通してします。将来、場所としての学校もいらなくなります。有名な先生の講義を、三時間のもの、七時間のもの、十時間のものとしてビデオで教育するのです。大学もそうです。ビデオを持って歩きながら、いつでも勉強すれば、四年ずつ通うこともありません。丁年でも、すべて片づけてしまうことができるのです。それで国家試験にパスすれば、その分野でどこでも超国家的に就職することができる道があるのです。(二〇六-三五〇、一九九〇・一〇・一四)
最も問題となることとは何でしょうか。教育問題です。学校問題です。しかし、学校も問題ありません。最後は、言語が問題になりますが、言語教育は、ビデオでする時が来ます。そのようになれば、学校もいらなくなります。年度ごとに国家が指定した場所に行き、試験を受けて採点してもらい、合格さえすれば、学校に行かずに卒業することができ、学者や博士にもなることができるのです。(二〇八-一九、一九九〇・一一・一三)
今後、中・高等学校も、大学の教育も、義務制度になります。義務制度というよりも、大学もなくなるのです。中・高等学校や大学の境界線もなくなります。ビデオを持って歩きながら勉強し、国家試験さえ受ければ、小学校も卒業することができ、中・高等学校も卒業することができ、大学も卒業することができるのです。ですから、天才的な人は、五年間で、大学ではなく大学院まで出てくることができるのです。言語が統一されれば、そのような時代が来ます。(二〇八-一〇一、一九九〇・一一 ・一七)
将来、学校が必要なくなります。今私は、それを始めています。ビデオ教育時代に入っていくのです。世界的な学者たちを、各分野に該当する学者たちを招待してビデオ・テープを作る準備をしています。それで今、ワシントン・テレビジョン・センターを中心として行うのです。これは何でしょうか。今までは、文字通信社会でしたが、今からは、映像、映画通信社会に入っていくのです。それを開発して、既に二百八十の放送局を通して活用されています。(二〇九-三一五、一九九〇・一一・三〇)
今、私たちがしようとしていることは何でしょうか。今、アメリカが滅びつつあります。それゆえに、青少年たちを動員して何をしようとしているのでしょうか。アメリカでは、ラジオやテレビジョンを二十四時間放送します。しかし、時事に関しては一時間半以上にはなりません。そして、教育放送でも、三時間以上にはなりません。それ以外は、すべて音楽と映画です。これは亡国の方向です。
また、時事内容を中心とした映画を一週間に一編ずつ作ろうと準備しています。なぜそのようにしなければならないのでしょうか。世界の政治家から大学水準以上のすべての人々は、時事的な知識を基準として出世できる道が分かれるので、これをよく知らなければなりません。それを中心として、シリーズで映画を作るのです。その内容は、教育的なものでなければなりません。ですから、毎週一編の映画が出てくるのです。それは世界的なものです。
それゆえに、今後、教会新築問題を早く解決しなければなりません。教会新築問題とは何かというと、三千三百の里に代わる千七百の教会をつくり、文化教育をしなければなりません。これは、国ではできません。約二千編の健全な映画を選定して、教育しなければなりません。地理学から動物学に至るまで、文化活動を通して教えてあげようと思うのです。地に生きる動物をはじめとして、すべての生物世界に関する学術的な面での文化水準を高めてこそ、民族がアジアを指導し、世界の文化圏に同参しても、同役者となって協助することができるようになります。そのようになることによって民族が……。皆さんがこれを受けて紹介することができるように準備しなければなりません。(二〇九-三三〇、一九九〇・一一・三〇)
今、教育が問題です。今後、ビデオ教育時代が来ます。既に先生がそのような計画をしています。ワシントン・テレビジョン・センターで、一週間に一つずつ映画を作ります。時事映画を作ります。有名な学者を、すべて準備しています。文総裁が「動員しなさい」と言えば、どの学者でもすべて動員されます。今、「ワシントン・タイムズ」や「インサイト」、「ワールド・アンド・アイ」などで、世界の我こそはという人の原稿依頼も、電話通話で、「文総裁がしている会社です。あなたはどのように考えますか。このような原稿が欲しいのですが……」と言えば、「ノー」という学者がいないほどになりました。技術分野で、世界最先端の科学者と学者たちがたくさんいます。(二三三-一八五、一九九二・八・一)
大学に何をしに行くのですか。先生の講義を聞きながら、学科の勉強内容をいつ記録することができますか。ですから、有名な教授たちが、おもしろい映画のようなものを挿入し、冗談も言いながら素晴らしく講義するのをビデオに撮るのです。それを一つ、二つ、好みどおりに聞けば、その学科を通過することができる実力がつきます。言語さえ統一すれば、世界のどこでも大学に行く必要がありません。ビデオをリュックに入れて、歩きながら聞いたとしても、国家を通して試験にパスすれば、学位を取ることもでき、卒業することもできるのです。そのようにすれば、お金がかかりません。教育する人たちの中に、どれほど詐欺師が多いでしょうか。ですから、このような準備をすべてしておきました。今からアメリカがそのようになるというのです。(二三八-一八五、一九九二・八・一)
今後は、人口の都市集中現象が消えてなくなります。今までは、子供の教育問題や生活が便利なことがあるので都市に集中しましたが、今後、テレビや他の現代文明圏のすべての利器を通して、座って趣味を楽しみ、オーケストラの演奏を鑑賞することができ、踊りを見ることができます。テレビ一つで全世界の図書館にあるすべての本、秘密、演芸など、すべてのものを見ることができる時代に入ってきました。どこにも家を建てて暮らす必要がありません。(二六二ー二七〇、一九九四・八・一)
今先生がワシントンD・Cで、ノスタルジアを中心として、世界の有名な学者をすべてつかんでいるので、その学者たちが教えるカリキュラム(教育課程)を編成して、世界的にテレコミュニケーション(注:電信、電話、テレビジョンなどによる遠隔通信)を通して学位を与える運動をしようと思います。
そして、二十時間の講義なら二十時間講義のビデオ・テープを見るようにして、その教授が一年に三回か四回学んだことに関して、テレビを通して直接問答しながら教育するのです。ですから、学校と同じです。そのようにする時が来ました。専門的なビデオ講義をしたその学者が出てきて、問答形式で指導するのです。大学とちょうど同じだというのです。そのようなことを、今アメリカでしています。(二六二-二七二、一九九四・八・一)
今は、テレビやラジオを持って、どこの谷間に行っても暮らすことができます。将来、学校がいらなくなります。すべてビデオで教育するのです。既にそのような時になりました。ですから、大学もなくなるほどです。国際管理体制で、ビデオを通して小学校課程を教育するのです。ですから、六年ずつする必要はありません。頭の良い人は、二年以内に卒業することができます。
大学までも、ビデオを中心として勉強し、国家が公認する試験さえパスすれば、同じレベルでどこに行っても公認されます。言語さえ通じれば、アメリカの教育部次官が韓国の教育部次官と同じになります。同じように教育することができるのです。それゆえに、定着時代が過ぎていくのです。鳥のように、景色によって、自分が願う所に行って一つになるのです。学校がすべて必要なくなります。行政部署がなくなるというのです。(二六八-二三〇、一九九五・四・二)
今、学制を撤廃するための運動をしています。学校があるために、教育問題があるために都市集中現象が起きるのです。これをすべてビデオを中心として学校をつくり、かばんに入れて勉強すれば、十六年、二十年勉強することを、頭が良ければ五年間で卒業することができるのです。そのような体制を今つくっています。このようにして都市集中体制によって環境的与件が滅んでいくのを防ぐことができるのです。公害問題! 分散させなければなりません。産業地帯のすべてのものを解体しなければなりません。今、そのような時が来ました。(二七三-二七一、一九九五・一〇・二九)
これからは、学校がいらなくなります。何で教えるのかというと、言論媒体を中心として、ビデオを中心として教える時が来ました。今、ブリッジポート大学で全世界に大学課程を教育しようとしているのです。
こうして言語さえ統一されれば、一瞬のうちにできます。先生の背後には、数多くの学者たちがいるので、大学教授の中で有名な教授たちを中心として、その人たちが講義することができる内容をビデオにすべて撮るのです。一時間半だけでも、その思想を入れることができ、十時間講義、数時間で講義する内容をすべてビデオにすることができます。このようなビデオを、その専門分野の三人のものだけ総括して入れておけば、その分野のすべての知識を把握して余りあるというのです。(二七四-一〇九、一九九五・一〇・二九)
全世界の牧場にテレビとVTRさえあれば、アメリカの放送を聞いて、アメリカで教育するその教材をもって学ぶのです。自ら勉強することができる機会を与えてあげるのです。それで、一週間に一度か、二週間に一度ずつ集まるようにして、勉強したことをすべて問答してあげて指導できる体制ができ、彼らが集まることができるように車が必要なとき、救急車を中心として、学校に案内することができるようなことまでさせるのです。二重目的で使用することができるのです。
その州の人口に比例して、幼稚園と小学校を造り、中・高等学校を造って大学に連結することができる教育体制をつくるのです。小学校の四年生から農作業の方法、木を植える方法、広野を扱うことができる方法、養殖をする方法、それを一つずつ教育します。そして、高等学校を卒業する時には、それに対して専門的な要員になるのです。大学まで行けば、地域大学の世界的な先生になり、指導者になり得る体制をつくらなければなりません。
小学校を卒業すれば十二歳、十三歳なので、四年生からすることができます。八歳、九歳からは、実技訓練ができます。ですから、高等学校に入れば、高校生たちが牧場を守る訓練をするのです。牧場を開発して、将来競争するすべてのことを教えてあげるのです。高等学校を卒業して、大学を卒業する十六年間で博士コースまで終え、二十年間、牧場でこのような専門的な教育を受けなければなりません。一度私たちの体制に入ってくれば、自分の家に食べるものは必要ありません。すべて自給自足することができるのです。(二七六-一九六、一九九六・二・一九)
通信教育をしなければなりません。誰でも通信教育を受けることができるのです。小・中学校は義務教育になっているので、高等学校から大学まで通信教育をするのです。インターネットを中心としてするのです。
私が「世界の教育をしなさい」と言っていたのですが、インターネット時代が来ました。昔、五十年前にこのような夢のような話をしたとき、みな狂人扱いしました。「座りながら世界を教育する」と言ったので、狂ったと思ったのです。今、座りながら世界にすべて通じることができる時代に入ってきたではないですか。先生が死ぬ前に、そのような環境、自由天地が成し遂げられなければなりません。誰よりも幸福な立場で、限界線まですべて行き得ることを見て死ななければなりません。(二九〇-二四六、一九九八・三・二)
今後、学校が必要ない時代が来ます。百科目の課程を完全に準備して、世界的に学校閉鎖問題が発生する大混乱時代が到来するようになりました。万民を平等に教育するのです。そのように実践していく先生に反対する国家や個人は、この地に残っていることができず、自動的に消滅してしまうのです。そのような可能性があると思いますか、ないと思いますか。可能性が絶対的にあるのです。(三〇七-二一二、一九九九・一一・一八)
ここには、若い人がたくさんいます。四十を越えていない人たちは、希望に満ちあふれていますが、将来定着してマンションで暮らしたいと思いますか、バンを中心として暮らし、遊び、寝る、そのような環境的な与件を備えて、世界を旅行しながら暮らしたいと思いますか。どちらを願うのかといえば、理想的なタイプの青年男女たちは、旅行しながら暮らしたいという答えが九〇パーセントだというのです。
その代わりに勉強が問題なのですが、それは、遠距離教育システムをつくってするのです。中・高等学校は、テープを六十くらい持っていって、それを百回ほど聞けば、どこでも試験を受けてパスすることができます。そのような体制をつくっておけば、二十年勉強して博士になるというそのようなことは必要ありません。十年以内に博士にすることができる道がいくらでもあるというのです。学校は必要ありません。
世界的に看板を付けて、「何日に遠距離テストを行います、小学校何年、中・高等学校何年、大学何年試験です」と試駐日を発表して試験を受けるようにするのです。そして、新聞を見れば、どこに合格したかが分かるようにしてあげるのです。そのようにすれば、どこでも学校がなくても卒業し、学位を取ることができます。
それで、その中で一つ、エックス表示や何かの表示を決めて、それを知らないときには、見て試験を受けたと判定するのです。カンニングしたということも、すべて座って分かるようにすることができます。試験を受けるときに、すべて理解して書かなければならないのですが、分からないで書く場合があるので、暗号表示を決めて、それが何かとして、それに合わせることができないときにはカンニングしたというのです。そのようにして完璧にすることができるのです。
アイビーリーグ(注:米国東部の名門大学を一括した総称)の十の大学も何も知りません。リュユックサックに有名な教授の講義と有名な本を入れて、どこででも勉強するのです。どれほど素晴らしいですか! そのような時が来ました。そのようにしようと、今先生は計画しています。(三〇四-三〇一~三〇二、一九九九・一一・一二)