第一章 宇宙の根本秩序 (天聖經-第11巻 宇宙の根本)

훈독왕 | 20250511174442

天聖經-第11巻 宇宙の根本

 

第一章 宇宙の根本秩序

 

一、神様の二性性相の大展開

一) 神様は二性性相の中和体

宇宙を観察してみれば、すべての存在において、陽性と陰性の二性性相が相対的関係を結ぶことによって存在していることを知ることができます。これは、鉱物という次元から始まって、すべての場合に適用されています。分子は、陽イオンと陰イオンの結合を通して形成され、植物の場合、生存と繁殖は雌雄を代表する雌しべと雄しべの結合を通じて成されます。このような二性性相は、動物の場合より一層明らかです。魚類、鳥類、ほ乳動物等、すべての動物は雄と雌によって存在します。後に、神様の 高の創造物である私たち人間も、男性と女性で区分されています。初の男性アダムと 初の女性エバは、人類の始祖です。このような二性性相の存在目的は、何ですか。神様は、なぜこのような方式によって創造されたのでしょうか。


神様が男性と女性を造られて何をしようとされたのでしょうか。見ようとされたのです。神様は、女性ですか、男性ですか。女性にもなり、男性にもなられます。男性性稟だけをもっているとするなら、女性だけを見つめられるようになるのです。アダムは、陰で生きなければなりません。そのように、女性も見つめて男性も見つめることができる二種類の性稟を、共に備えていらっしゃいます。ですから、結局縦的な立場に立ち、男性も好まれ女性も好まれる、二性性相をもった中和的主体だというのです。それが神様でいらっしゃいます。男性も必要であり、女性も必要であり、どこへでも行って迎え入れ、いつでも主体の位置にいらっしゃるので主体格です。それゆえに、格位では男性格位です。そして、横的というものは女性格位をいうのです。


神様はお一人でしょうか、お二人でしょうか。お一人です。お一人なのに、どのようにして二人の人に入っていくのでしょうか。この人に入ってからあの人に入っていき、あの人に入ってからこの人に入っていってと、そのようにするのですか。また世界には数多くの人々がいますが、数多くの人々にどのように入ったり出たり、出たり入ったりされるのでしょうか。これが問題になるというのです。それで、私たち統一教会の「原理」で、神様は二性性相の中和体であるという話が出てきたのです。ここには規則があります。神様は二性性相でいらっしゃる中和的本体です。これは真に素晴らしい結論です。


神様は、二性性相の男性的主体だというのです。それでは、その神様は、誰に似ているのでしょうか。私たちに似ていて、私に似ていて、皆さんに似ているというのです。同じなのです。それゆえに、「主体格」という言葉は、必ず相対格位を介在させて成立するのです。そのような概念が含まれています。相対格というものを必要とするために、「主体格」という言葉が出てくるというのです。


千三百三十七

原理講義をする時、創造原理で「神様は二性性相の中和的主体としていまし給い、中和的存在になっている」と簡単に言います。中和的主体になっているというのですが、それはどういうことですか。座ってそのまま神様が男性と女性の中和的存在になって、何がおもしろいでしょうか。何を中心として中和するのですか。愛を中心として中和的存在だということを知らなければなりません。


神様は何を願うのでしょうか。創造をされて、創造理想を完成して何をしようというのですか。神様御自身も愛をなそうというのです。神様御自身が願うことは何でしょうか。神様は、「原理」でいえば二性性相の中和的存在です。主体的存在です。このように、ぱっと一言で定立します。男性格を備えた主体的存在だというのです。


何が統一的起源をもたらすのでしょうか。一人でいらっしゃる神様を、統一的位置で何が喜ばせてさしあげるのでしょうか。「原理」でいえば、神様は二性性相の中和的存在であり、格位においては男性格です。その男性格位というものが、どのようにして男性格位になるのかを知らなければなりません。男性格位ならば主体でありプラスですが、相対なくしてはプラスはありません。その概念の中で、なぜプラス格位にいらっしゃるのですか。愛ゆえにいらっしゃるのです。絶対的神様も絶対的に服従してみたいというのです。愛には絶対的に従順になりたい、絶対的に一つになりたいというそのような基台がなくなる時には、統一も融合も和合というものもありません。それは、根源がないために分散してしまいます。 神様から造られた人間だという時、人間はどのようにしなければなりませんか。神様が愛の相対を造られた目的は、喜ぶためなのです。何を中心として喜ぶのでしょうか。愛を中心としてです。絶対者であられる神様も愛
が必要だというのです。そうではないですか。


神様が二性性相の主体としていらっしゃるといいましたが、二性性相の神様だとしても必ず愛の対象が必要なので、天地万物を創造されたのです。


愛は、男性と女性だけではできません。男性と女性は、ただ二つの存在です。男性と女性だけを連結させては愛が成り立たないというのです。男性と女性を総合して、中心に立って動かすものが愛です。それでは、男性と女性が和合して愛を中心として動くことがどこから始まったのかといえば、神様の二性性相からなのです。男性性稟と女性性稟が和合したものを相対的に展開させたのです。それで神様は、自分の愛の相対が自分より優れていることを願われるのです。


統一教会の文先生は知恵深い方なので、
「神様は二性性相の中和的主体だ」と結論づけたのです。右側から見れば男性に見え、左側から見れば女性に見えるというのです。二性性相がそうではないですか。内外になっているので、上から見れば男性に見え、下から見れば女性に見えるというのです。それでこそ女性も「よし!」と言い、男性も「よし!」と言うのです。


千三百三十八

原因と過程と結果が明確な内容をもってくる、科学的論理のような論理をもってくる、そのような宗教人が出てこなければ、宗教世界を救うことができないのです。統一教会の「原理」がそうです。これこれこうだからこうだ、神様は二性性相で存在される、宇宙の存在が主体と対象である、ゆえにこの世界は、神様が愛の主体であり、人は愛のパートナーとして造られたという結論がぴたっと合うのです。それが歴史を超越して、愛によって、永遠の世界と結ぶことができる力の作用によって継続されるのです。その千年、万年続く愛の作用が始まったのですが、それが普通の力ならば弱くなるはずですが、弱くなりません。


神様も愛を中心として一つになるのと同じように、統一教会もそのような観念をもっているために、世界を統一させることができるのです。キリスト教はそうではありません。「神様は絶対的な万能の神様だ。何でもすべてなさることができる」と考えています。しかし、それは誤りです。神様は何でもできますが、本来の原理原則においては、愛は二人で成すことができるようになっています。それゆえに、二性性相を成すようになっていて、愛もその条件の上で可能なのです。


神様が二性性相の中和的存在としていらっしゃるならば、二性の中和的存在の中心は何ですか。愛です。神様も愛を中心として生きてきました。


「原理」で論じている二性性相の主体としていらっしゃる神様は、いかなるお方ですか。二性性相の神様であると同時に、二性性相の中和的主体としていらっしゃるお方です。その主体の本質が愛です。絶対的愛だというのです。


「原理」の総論は、神様に対してどのように表現しましたか。神様は、二性性相の中和的主体であると同時に愛的主体です。
「愛」というこの言葉も入れなければなりません。それを必ず入れなければなりません。


神様がアダムとエバを造って二性性相を分立して中和的存在になろうとするなら、何を中心として中和的存在でなければなりませんか。愛を中心として中和的存在でなければなりません。それとともに、格位においては男性的主体格でなければなりません。


なぜ神様が人間を創造されたのですか。このような根本問題、私がなぜ生まれたのかという根本問題をはっきり知らなければなりません。神様は愛の主体です。「原理」を見れば、神様が二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在だという話はまだしていなかったのです。そこに、愛を中心として統一的存在だということを添付しなければなりません。


男性の愛と生命の起源はどこですか。神様でしょう。二性性相の中和的主体であると同時に愛の根本であるお方が神様です。『原理講論』に「真の愛の起源」という言葉を入れなければなりません。「真の愛の起源が神様だ」という言葉を入れなければならないというのです。『原理講論』を修正することができる主人公は私しかいません。それを知っていますか。

 

千三百三十九


問題の出発点は、神様がいるかいないかということなのです。神様がいらっしゃるならば、人間とどのような関係にあるのですか。神様が人間と関係を結ぶためには、人格的神でなければなりません。人格的な神だということをはっきり悟ったのです。人格的神になろうとすれば人間のようでなければなりません。人間には心があって体があるように、このような素性があるので、人間を造られた神様も、人間と共に共同目的をもつことができるその本体ならば、人間に似ていなければなりません。二性性相という概念は、ここから出てくるのです。


神様が人格的な神であるように、神様は誰に似ているのでしょうか。神様は、アダムとエバを一つにしたそのようなお方なのです。二性性相の主体は神様です。男性と女性を雑然と一つにしたようなものではありません。一つに合わせたものですが、主体格を備えたそのようなお方です。この主体格の無形の神様の前に、主体格を身代わりして男性と女性が一つになり、その無形の神様の前に相対格位を備えて結ばれることが神様の創造理想を完成することであり、私たち人間、アダムとエバの理想を完成することになるのです。それ以外にはありません。


東洋哲学では人格的神を知らなかったのです。人格的神がいるということを知りませんでした。陰陽といいますが、漠然とした陰陽では人格的起源となることができないのです。それではいけないというのです。根のすべてのものを備えなければなりません。人がこのようになっているならば、男性と女性のすべての神性を備えることができるそのような根にならなければなりません。そのような意味で、統一教会で教える二性性相、この論理は
偉大な論理です。


二) 被造世界は神様の二性性相に似て出てきた

宇宙の根本である神様がいらっしゃるなら、その神様は、主体と対象的な観念をもった存在だというイメージが出てきます。それゆえに、私たち統一教会の「原理」でいう二性性相は偉大な言葉だという結論に到達するのです。主体と対象が作用し始めるところから存続が展開するのです。生まれ始めるというのです。このような根本のもとでなされているので、すべての宇宙は二重的です。二重的になって、授け受ける相互作用をするのです。


被造世界は神様の性相に似ています。すべての被造物は、二性性相の分立体として展開されているということを知っています。主体と対象の関係、それから上下関係、前後関係、左右関係の相対的関係によって連結しているということを私たちは知っています。そのような環境的制度の条件をもった目的とは何でしょうか。愛を目的として動くのです。


主体と対象はどこから出てくるのですか。これが出てくることのできる基台がなければなりません。統一教会では、これを二性性相といいます。この主体と対象は、人間自体からつくられた主体と対象ではありません。ここにその基台が必要なのです。その基台が二性性相であり、二性性相の中には本性相と本形状がなければなりません。

 

千三百四十

 

主体と対象があって、お互いに作用しなければ力が生じないのです。力は、一人で出てくるものではありません。力は、必ず主体と対象があって初めて生じるのです。私が対象である時、私が心に悪いと感じても主体がなければならず、良いと感じても良いと言うことのできる主体がなければなりません。それで、統一教会の「原理」に、「二性性相」という言葉があるのです。


「原理」で見ると、神様は二性性相の中和的主体です。主体というものは、何を中心として成立するのですか。愛を中心として成立します。ですから、横的な基盤が必要なのです。刺激的な基盤を多方面にもちたいと思って拡大展開させたのが被造世界です。


どのような種でも、二つのかけらで一つになっています。豆のようなものも二つのかけらです。神様が宇宙の根本なので、神様の形
状に似なければ根本の種になり得ないのです。


生命の種は必ず二つになっています。これは天地の道理です。神様は、二性性相としてお一人の人格になっています。種の根本を象徴するのです。種には胚芽があるのですが、胚芽には、根になる部分、芽になる部分があります。自らが存続することができる内容をすべてもっているのです。そのまま置いておいても、完成した実体を構成できるようになっているのです。


神様が二性性相になっているので、私たち人間も二性性相になっているというのです。万物もプラス・マイナスの二性性相になっています。神様と人間と万物を合わせて連結させれば七数になります。これは、段階で見れば三段階であり、広げれば四位基台です。この三数と四数が調和をなして統一されれば七
数になります。七数は、創造目的完成数です。


宇宙は、すべてプラス・マイナスになっています。分子を見ても、プラスイオンとマイナスイオンになっています。すべて相対圏になっているというのです。原子を見ても、陽子と電子になっています。宇宙構成の根本がそのようになっているのです。植物は雄しべと雌しべ、動物は雄と雌、人は男性と女性になっています。すべてが相対的になっています。そのように相対的になり、一つの体制圏に収拾されなければなりません。神様が主体なので、神様を中心として収拾されなければなりません。その創造の意志に一体化した相対圏がつくられなければ、神様の創造の喜びはあり得ないのです。


統一教会で神様を二性性相の主体としていらっしゃるお方だというのは、すべて科学的な分析結果によって、間違いなくそのようにいらっしゃるという事実を知っていうのです。ですから、主体と対象が完全に一つになれば、神様の力がそこに永遠に存在するのです。主体がなく対象がないところには力は存在しません。それでは、神様はどのように存在するのでしょうか。神様自体内にある主体と対象
の力が授け受けすることによって永存します。


千三百四十一

「原理」は二性性相を言っています。二性性相は、なぜ必要ですか。二性性相がなければ創造の調和をつくり出すことができないのです。二性性相があるのでお互いに授け受けできるのであり、その一つは骨と同じで、一つは肉と同じなので、授け受けすることによって新しい形態が展開できるのです。神様が二性性相それ自体なので、神様を中心としてその相対世界が生まれざるを得ないというのです。このように二性性相は、創造的妙味を成し遂げるために必要なのです。


「原理」でいえば、全体を連結するものが万有原力です。すべてのものに神様の二性性相が入っていって、それがすべて万有原力になっているのです。核心は同じです。


男性には女性の性相があります。女性も男性の二性性相の要素をもっているために、男性が暮らすことのできる場所があるのです。神様は二性性相なので、女性とも男性とも暮らすことができます。それと同じように、一つの相をもった夫も、女性が二性性相の要素をもっているために夫人の胸の中にとどまることができます。女性も男性の心の中にとどまることができます。一つです。離れることができないのです。


アダムとエバ、男性の先祖、女性の先祖です。男性の種、女性の種です。半分の種なのです。すべてのものが一つの殻の中で二つになっています。それで、神様と宇宙を象徴するのです。神様が統一された中には二性性相があるのですが、その二性性相には胚芽があります。種があって核があるのです。


神様も無形の主体でいらっしゃるために、実体相対圏、絶対的な有形の実体を必要とせざるを得ないということが理論的な結論です。それゆえに、神様も二性性相をもっているのです。それは、無形の性相を有形の実体として展開する創造のためのものです。それを中心として宇宙の被造世界を考えてみれば、鉱物世界もすべて主体と対象の関係をもって運動をしています。分子で見るときはプラスイオンとマイナスイオンが主体と対象の観念であり、原子で見るときは陽子と電子が主体と対象の観念です。


神様は、女性性稟もあって男性の性稟ももっている二性性相によって成されています。神様は、神様の中にある男性の性稟を集めて男性を造られ、女性の性稟を集めて女性を造られたのです。このようになれば自然に主体と対象に分かれ、この主体と対象がお互いに授受作用をすれば、これが再び一つになって作用するようになります。これが正に統一教会の「原理」でいう正分合作用だというのです。この偉大な統一教会の「原理」が、今後哲学において、宗教において問題になるはずです。


愛のみ旨を成していくためのものですが、愛を成すことができる存在は誰ですか。神様の中にあるものをそのまま表したような、一つ残らず自分に似た同じ姿の息子と娘を造られたのです。それゆえに、統一教会でいう

「二性性相」という言葉は、この地球上で初めて聞く驚くべき内容だというのです。二性性相の中和的主体、これはどういうことでしょうか。天地の道理がすべて入っている言葉です。


千三百四十二

愛といっても、一人でいる所には通じません。二つが和合する基準を中心として、より高い次元に引き上げるために作動するのです。これが愛の力です。愛が作動する時は、相対という橋がなくてはならないので、万有のものは愛の理想に和合することができるようになっているのです。神様がさらに愛の理想を実践するためには、相対になるようにせざるを得なかったという事実を知らなければなりません。それで、「二性性相」という名前をつけたのではないですか。


全体を糾合して一つの原則的な基本を明らかにしてみれば、主体と対象の関係、ここから存在と作用を起こすのです。主体と対象によって存在し作用すると見るのです。私たち統一教会は、これを中心として二性性相という概念をキャッチしました。それでは、二性性相がただそのままいるのでしょうか。ストップしているのでしょうか、動いているのでしょうか。ではどうして動くのでしょうか。なぜ動くのかというのです。損をするために動くのでしょうか、利益を得るために動くのでしょうか。作用して運動するのに、損をするために運動するという法則があるならば、私たちの理想の作用や希望に向かって前進する作用はあり得ないのです。損をするならば、これがますます小さくなっていくというのです。小さくなってストップしてしまうというのです。しかし、この小さいものが利益のために動くならば、ますます大きくなっていきます。


神様御自身は一つの体です。二性性相の主体としていらっしゃるために自体内で愛するといいますが、思考では「男性的主体の位置だ、女性的対象だ」といって愛を感じることができるのかもしれませんが、男性と女性が分立された立場では刺激的な衝撃を感じることができないというのです。 したがって、アダムとエバが神様御自身をさて置いて、自分たちの間でもっと衝撃的に愛するのを見る時、愛の主体であられる神様は悪く思われないというのです。なぜですか。その二人が一つになったその場を相対として喜びを感じることができる主体者でいらっしゃるために、その相対がより価値的な愛を感じるようになる時、神様も幸福を感じられるようになるというのです。それが神様の人間創造を中心とした愛の第一法度ではないかというのです。したがって、そのような愛の教育を受けることなくしては、その場に行くことができないのです。


本来力とは、作用すれば減少するのですが、愛の力だけは作用すれば強くなります。無限に拡散したものは、その中に無限に集約された力があるために引き寄せるのです。
ですから、循環作用の内的力を自分自体がもっているということを知らなければなりません。そのような論理を適用しようとするので、私たち統一教会では二性性相の論理がどこにでも適用されるのです。文先生に知恵があるので、それをすべてキャッチしておきました。


千三百四十三

真の愛がどれほど良いかというのです。神様も愛ゆえに生まれました。愛ゆえに生まれました。気分が良いでしょう?「ああ、文総裁が言うには、神様は愛ゆえに生まれたそうだ!」。神様を捕まえて分析してみてください。神様の二性性相まで先生が分析しました。その二性性相にも、また二性性相があるでしょう?皆さんもすべて男性ホルモンと女性ホルモンが出てきますね。分からなければ病院に行って診察してもらってください。それゆえに、すべて通じるようになっています。


創造原理の二性性相がなぜなければならないか、どのようなものが主体でどのようなものが対象かという問題を根本的に解いて、解いて、これ以上解くことができない時、戻ってくるというのです。いくら掘り下げても戻ってくるというのです。これが千年、万年そのようになるので、仕方なく「ああ、この道しかないな。これ以上探す必要はない」という時、「原理」という言葉が成立するのです。それで、原理というものは変わらないのです。


三) 神様の宇宙創造の動機は愛

天と地自体も、自ら存在したくて存在するようになったのではなく、ある力の源泉に立脚して生まれたということを考える時、ここよりも一段階上がって、中心的な主体を備えて天地を動かすか、あるいはここに創造をするという力の作用体、根本の作用体が必ずなければなりません。このような立場にいるそのお方を私たちは「神様」と言いますが、民族が違い、言語が違うことによって異なった表現をします。しかし、その名詞が問題ではありません。この宇宙の中心がなければならないというのです。その中心は、この存在世界全体の前において、存在が作用して移動してもその移動するところについていって移動せず、動く相対的な世界の中心において億千万年動かない中心的な本体がないといけないというのです。


宇宙の根本を掘り返してみた時、神様はなぜ生まれたのかという問題は根本に入ります。神様はなぜ生まれたのか、何のために生まれたのか、神様は何をするのか、このようなことが問題なのです。今日、キリスト教の盲目的な信仰時代は過ぎました。むやみに神様を信じる時代は過ぎました。このような推理的な結論に続いて、適切な神様に対する内在的性稟、外向的なみ旨に対する世界との関係、神様における内外との関係、この関係というものが問題です。


人間が第一の存在になることはできないのです。いくら優秀だとしても原因的存在になることはできないというのです。私たちは、あくまでも第二の存在です。結果的存在です。それでは、この宇宙の原因的存在とは何ですか。神様がいるならば、神様自体が原因的存在であり絶対者です。そのような絶対者がいるとするなら、絶対者自身が何を必要とするでしょうか。何を中心として人間や被造物と関係を結ぼうとされるでしょうか。これが根本問題です。神学で取り扱わなければならず、哲学で取り扱わなければならない重要な問題です。神様と人間、原因と結果を連結できる内容は何なのかというのです。


千三百四十四

神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本はどのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。皆さんと同じです。父母の愛によって受けた皆さんの生命の種、一つの細胞が大きくなって今の皆さんが生まれてきたのと同じように、神様もそのように大きくなったというのです。神様も、目が生じ、鼻が生じてこのように生まれました。全く同じだというのです。


真の愛というものは、も深いところから出発します。では、真の愛の起源は何ですか。

神様、ゴッド(God)です。「ゴッド」という発音を韓国語で言えば、昔の人々が使った帽子のことを表します。帽子は、てっぺんに使うものを言います。同じ意味だというのです。ここにおいて、性相と形状がなぜ分かれるのでしょうか。問題になります。宇宙の根本とはどこでしょうか。宇宙の根本はどのように生まれたのでしょうか。これが問題です。神様がどのように生まれたのかというのです。神様を見ましたか。それはどのように生まれましたか。皆さんはどのようにして生まれたのですか。宇宙のすべての要素の津液を取って、総合して生まれたのが正に「私」です。


愛の中心は神様なのです。宇宙生成以前からいらっしゃる、唯一的であり、永遠的であり、不変的な存在なのです。ところで、愛は心情の流れです。内的な心情が外的に流れるものが愛です。ゆえに神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。この根本原因からの宇宙の生成が、正に神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。

それでは、神様は、どうして宇宙と人間を創造することができたのでしょうか。それは、神様が心情をもっていらっしゃるからです。心情があるところにおいてのみ生命が現れることができ、生命があるところに発展運動

(創造)が展開するためです。ところが、その創造には必ず目的があるのですが、その理由は、本来心情というものは目的を指向するものだからです。ですから、創造目的は、心情を充足させる喜びであるといわざるを得ません。そして、この喜びは、被造物、特に人間が神様に似た時に訪れるのです。

ゆえに神様の愛と創造性に似た人間と国家が、神様が創造しようとされた目標だったのです。これは、人間の理想がそれを追及することを見ても知ることができます。理想とは、当然享有するようになっている世界を追及する熱望なのです。


宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。


神様は、なぜ創造をされたのでしょうか。愛のためにされました。愛は、一人ではできないのです。相対がいなければなりません。一人でいる愛は縦的な愛なので、環境的条件がありません。


神様は絶対者ですが、何が慕わしくて人を創造されたのでしょうか。黄金も何の知識も必要ない全知全能の神様が、もっていないものは一つもない神様が、何が必要で人を造られたのですか。

 

千三百四十五

すなわち、創造の根本動機は何ですか。それは権力でもなく、知識でもなく、所有でもないのです。神様には愛の基盤がなかったのです。神様も一人では愛を成し遂げることができないのです。それゆえに、天地創造の動機が愛だというのです。


神様は、なぜ天地を創造されたのでしょうか。その全知全能の絶対者が、何がなくて人を創造されたのでしょうか。愛のために創造されました。愛は相対がなくては現れません。相対がいないのに作用するようになれば損をします。すべて自分を保護するようになっています。損をするところでは絶対に動きません。愛は、相対が現れれば、ないようですが、飛び出してきます。

神様にも愛がありますが、男性的な神様が静かに一人でいる時には、その愛が現れません。これを現してみせることのできる相対が、正に人です。


全知全能の神様、遍在する神様が、何が不足で人を造られたのでしょうか。神様にお金が必要で、金の塊が必要で、ダイヤモンドが必要ですか。そのようなものはいくらでもあります。それでは、知識が必要ですか。神様は知識の王なので、知識はいくらでもあります。それならば権力が必要ですか。権力とは、神様にとってあってもよく、なくてもよいものです。神様に不足だったのは愛です。愛というものは相対的関係においてのみ成立するものだからです。神様も、愛を必要とする神様にならずしては、この創造世界と人間世界が関係を結ぶことができないのです。ですから、愛をもって訪ねてこなければ存在世界とは関係ないという結論が出てくるので、神様は愛を標準として定めてこられたのです。 神様がなぜ天地を創造されたのでしょうか。いくら絶対者だといっても一人では喜びを感じることができず、仮にうれしいと思っても喜びの刺激を感じることができないので創造されたのです。絶対者がいくら、「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができませんし、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。


神様が自分自身だけを考えたとするなら天地創造をされたでしょうか。創造とは、力の投入をいうのです。芸術家は、高の傑作品をつくることが願いです。芸術家は、傑作品をつくるためにあらゆる精誠を投入します。すべてを投入するところにおいてのみ完全な傑作品が出てきます。これ以上できないという時に、初めて傑作品が生まれます。

創造は、投入するところから始まります。力を投入してこそ創造が可能です。力を投入しなくてはいかなるものも生まれません。完全な投入をするところから完全な対象が成立するという原則をおいて見る時、神様は主体として対象を造るために完全に投入されました。神様御自身が、自分自身のためにではなく、対象のために生きるといって運動を始めたのが創造です。


千三百四十六

創造するということは、力の投入をいうのです。投入をしたのですが、どれほど投入したのでしょうか。神様がみ言によって造られる時、「このようになれ、あのようになれ」といたずらに創造したかのように理解しています。違います。そうではありません。ここには真の生命を完全に投入して、真の愛を完全に投入して、真の理想を完全に投入しました。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。

それゆえに、創造する前と創造したあとが違います。創造する前には自分のことを考えましたが、創造を始めてからは対象のために生きました。私がいるのは自分のためではなく相対のためだ、息子、娘のためだ、このようになっています。


神様が人間を創造される時、自分よりももっと立派な愛の相対を造ろうとされたので、神様のすべての要素、見えない無形の要素を一〇〇パーセント実体化させるために投入しても、もっと投入しようとされたのです。そのことが意味するのは、投入して忘れてしまうことができるその場においてのみ、真の愛の起源を発見することができるというのです。簡単な内容です。正にこれが、宇宙の根本原理です。


愛を占領しようとするなら、投入して忘れ、投入して忘れてしまわなければなりません。なぜそのような愛をもたなければならないのですか。愛は、動けば動くほど小さくなるのではなく、大きくなっていくものだからです。力学世界での自然現象は、動けば動くほど、作用すれば作用するほど小さくなるでしょう?自然世界は、動けば動くほど小さくなるのですが、真の愛の世界は、動けば動くほど大きくなっていきます。神様がそれを御存じだったので、真の愛を中心として創造を始めることができたのです。


宇宙はどのように出発したのですか。神様をおいて見る時、すべてが「ため」に生きるところから、投入するところから出発したのです。自分を消耗するところから始まります。それでは、自分を消耗して相対をつくって何をしようというのでしょうか。二つとも消耗するのですが、消耗して得るものが愛です。愛さえもてば、いくら消耗しても良いというのです。そのような概念が愛なので、愛を中心として神様が創造を始められたのです。 神様が損することをされたのではありません。投入することは損害ですが、なぜ神様がそのようにされたのでしょうか。愛はすべてのものを満たしても余りある力があるので、消耗させて投入しましたが、その代わりに愛を取り戻してくるのです。真の愛は、投入するほどますます小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていきます。そうでなくて、真の愛が小さくなるという原理ならば、神様自体が投入して消耗してしまうのです。反対になります。真の愛は、投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。


愛には創造能力があるので疲れません。愛の心をもてば、いくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつも補充し得る愛の力があるので疲れないのです。それで、難しくて苦痛でも嫌ではないのです。それが嫌ならば行くことができません。愛ゆえに生きる道には、「嫌だ」という心を永遠にもつことはできません。真の愛ゆえに生きる道には、永遠に「嫌だ」という心はあり得ないというのです。神様の本質には怨讐の概念がありません。悪の概念がないのです。それは、真の愛の中にいらっしゃるからです。


千三百四十七

神様の創造理想を中心として、投入、投入、投入しなければなりません。投入をすれば巡り巡るのです。空気を例に挙げて、絶対低気圧と高気圧があるならば、その中間の気圧が生じます。誰が呼ばなくても天が降りてくるのです。それゆえに、一〇〇パーセント以上投入したいと思う人は、常に天が満たしてくれるのです。宇宙の原則がそうです。完全に投入して忘れてしまうところには永遠の運動が連結するので、その基準において永生の論理が出てくるようになるのです。永生、永遠の生命、そうでなければ、統一原則をどこから引き出すことができますか。「ため」に生きるようになればぐるぐる回るでしょう?ぐるぐる回ってどこに行きますか。どんどん小さくなって上がっていきます。上がっていくのです。くるくる回って広がれば下がっていきますが、徐々にすーっと上がっていくために、神様は、自動的にアダムとエバの肩の上に両足を載せざるを得ないのです。


なぜ神様がいらっしゃるのでしょうか。何のためにいようとされるのですか。愛のためにいようとされるのです。それで、愛の相対が必要なのです。そのようにして全知全能の神様は、愛の相対を創造しなければならなかったのです。

創造の本質的理想が愛を中心として創造を始めたということを、これまで私たちが全く知らなかったというのです。愛を中心として、すべての被造世界が創造されたというのです。


神様の願いは、真に与えることができる世界的な踏み台をもつことです。神様は、与えることにおいても誰も讒訴することができず、受けることにおいても誰も条件を提示することができない、自由で平和で幸福な場を願われます。そのような場を世界的に広めて、万民がそこで暮らせるようにすることが神様の収めようとする所期の目的です。


愛が先ですか、生命が先ですか。愛が先です。地球が神様の生命から出てきたからといって、生命が一番だとはいえません。愛が一番だというのです。神様は、天地創造を生命からしたとしても、その生命の発源地、動機

は愛です。生命が生まれたのは愛のためです。


世界の一番になるものは何ですか。神様が一番です。その位置に上がっていくのです。上がっていって何をしようというのですか。神様の愛を中心として、宇宙を自分のものにしようというのです。そうです、皆さんも全員欲心があるでしょう?その欲心、欲望のすべてを完成するには、お金をもって、自分の知識、自分の権力をもってはできません。唯一、愛です。これが統一教会の「原理」の真髄であり、人生哲学の根本です。今までこれを知りませんでした。簡単な内容です。


二、宇宙は主体と対象でできている 

一) ペア・システムが宇宙存在の原則

千三百四十八

万物は、鉱物世界でも植物世界でも、愛を基台として、愛の主体と対象関係の因縁を通じて理想的分母をもって生まれました。万物は結果の存在なのです。そして、結果の存在は、原因的内容なくしては生まれることができません。それで、私たちは、その原因的存在を神様といいます。それで、神様を中心とした愛の圏内で、東西南北、上下、前後左右を問わず、いつも和合して和動するためにすべての鉱物世界もペア・システム、主体と対象の関係にあるのです。このようにペア・システムで構成されているというのです。鉱物世界も動物世界も植物世界も人間世界も、同じです。


創造をするにおいては、人間を中心に、人間をモデルとして東西四方に広げて橋を架けてつくったのです。それで、すべての万物、鉱物、植物、動物界、すべてが相対になっています。すべて相対につくったというのです。そのように縦的な道と横的な道をペアでつづりながら行くのです。ジグザグに行くもの、このように運動するもの、様々な形態の作用を経ながら、ペア・システムを中心とした万物は、理想的愛を訪ねていくことができる人間の教材です。


すべての被造物は、主体と対象のペア・システムになっています。なぜそのようになっているのでしょうか。すべての被造物、存在世界は、それ自体の愛を絶対視する立場に立っているために、それを中心として授け受けして一つになるために、主体と対象関係、ペア・システムになっているのです。そのようになっていないものがありません。すべて愛ゆえに生まれたのです。


宇宙には主体と対象の関係が必ず必要であり、存在するすべてのものは主体と対象の因縁に従って存在するようになっているので、この宇宙はペア・システムのコンセプトを中心として造られました。そのように生まれたのは、愛を中心として、愛を必要とするためにそのように生まれたという結論を下すことができるというのです。鉱物も同じです。プラスイオンとマイナスイオンが授け受けします。植物世界も必ず雌しべと雄しべを中心として、動物も雌と雄を中心としてすべて存在するのです。


鉱物世界も陽イオンと陰イオン、すべて相対になっています。百七個にもなる元素も、どこにでも行ってくっつくわけではありません。実験室でいくら強制して付けても駄目です。しかし、自らの相対になると、一つになれないように無理にいろいろしても、神様が止めてもぴたっとくっつきます。それは知っているでしょう?すべてペア・システムになっています。鉱物もそうであり、動物も植物もそうです。すべてペア・システムになっ

ています。すべて陰陽の道理に通じています。


この世の中のすべての存在は、ペア・システムになっているというのです。ペア・システムになっているために、鉱物世界、植物世界、動物世界を問わず、彼らが連合するためには、必ず主体と対象が愛という概念を中心として連結するようになっているというのです。


愛をもってする時は、通じないところがないのです。それゆえに、この宇宙はペア・システムになっています。鉱物世界もペア・システムです。植物もペアでしょう。動物もペアです。何を中心としてですか。級は違いますが、垂直の愛を中心として、次元は違いますが、この大宇宙に愛を中心として、どのような空間でもすべてそうだというのです。水平線上の位置に自分の存在を決定し、宇宙空間に浮いているのです。これらはすべて、愛ゆえにそのように生まれたのです。

 

千三百四十九


すべての被造世界は、ペアの組織体制で連結しています。鉱物世界もそうです。すべてのものがプラス・マイナス作用をするのです。重力をもった地球星上でも、強い引力関係をもっている磁石は、その引力が地球の重力よりも強いために作用が表向きに現れるだけであって、磁石以外のすべての要素もプラス・マイナス作用をするのです。意識化運動も電流を通したプラス・マイナス作用を通して展開するのです。ペア・システムの中心にあるものとは何ですか。その中央には、自分なりに二つを連結させて保護することのできる中心軸があるのですが、その軸が正に愛の軸です。ですから、鉱物世界の元素も相対基準になるもの同士では自ら一つになりますが、相反した元素同士では、いくら神様が命令して、またどのような実験室の主人が命令して、いくら千年精魂を込めても一つになることができないのです。


宇宙は、愛を離れては生きることができないようになっています。ペア・システムになっているのです。昆虫たちも、見れば雄と雌がいるでしょう?ある時は、庭のような所に行って土を一度掘ってみます。多くの虫がいます。見えない多くの虫がいるのですが、それにも雄と雌がいます。それらも子供を産んで、おっぱいを飲ませます。それらも話をするというのです。話を感じとったり、雄と雌がこのように喜んだりしていますが、どのような力でそのような調和を起こすのですか。昆虫世界にも愛があるでしょう?雄が雌に
従っていき、雌は絶対に雄についていきます。


鉱物世界もペアになっています。陽イオンと陰イオンを中心として作用するのです。それゆえに、真の愛を中心としてこのつまみさえぱっと抜けば、神様も引っ張られ、真の父母からすべての世界人類が、すべて神経の筋に引っ掛かって引っ張られてくるのです。すべてがペア・システムになっています。級は低いのですが、愛の天理に従って生きるのです。


神様から造られたすべてのものはペア・システムです。鉱物世界もペア・システムであり、級は低いのですが陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史始まって以来初めて発表するのです。神様御自身も真の愛を絶対視して、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、神様は、真の愛を探し出すために創造されたのです。


小さな虫もそれなりの愛を中心として、この宇宙のペア・システムという創造理想圏内で同じ位置、同じ要素をもっていることを誇るのです。あなたは大きくて私は小さいけれど、二つが一つになって分けてあげることさえできれば、億千万世たっても分けてあげることができると誇っているというのです。人と違うのです。元素世界が一つになる時は、プラス・マイナスが自分の相対についていって一つになるのです。ところが、人の取るに足らない姿は何ですか。ですから、本質に一致できていないので、これは事故です。


千三百五十

世上万事を見ると、すべてペア・システムになっているというのです。それを抱えて生きています。神様が御覧になる時、「やあ!あなたも私に似ているなあ。あなたも一人では寂しいだろう」、そのようにおっしゃるのです。それで、この宇宙は、級は低いのですが、すべて理想的ペア・システムによって展開した、充満した自然博物館だというのです。自然博物館であると同時に、愛の博物館です。どうですか。過ぎゆく道端の松やそのポプラの木をいつも見ているように無心に見たでしょう?これを見つめる時、「あなたも私のように主体と対象が授け受けできる愛の相対的な因縁をもって生きているのだなあ! あなたと私を比較する時、今日私は一人で生きていて、このように堕落した生活をしているのであなたに恥ずかしい」と言うことができなければなりません。そのような世界に至るようになれば、落伍した人間でも価値がいくらでもあるというのです。それを見て尊敬することができる人間になれば、どれほど美化された世界になるでしょうか。見る世界がどれほど美しいでしょうか。神様が愛の心をもっていらっしゃるので、そのように造らざるを得ないのです。それゆえに、存在世界はペア・システムになっているというのです


この宇宙は、すべてペア・システムでできています。鉱物世界においてもプラスイオン、マイナスイオンになっています。元素が違うものは、いくら科学者が研究して何をしても一つになりません。しかし、自分と相対性をなすようになれば、いくら離しておこうとしても一つになるのです。ペア・システムになっているのですが、そのペア・システムの中心は何でしょうか。愛です。植物も、すべて男性と女性のような性稟を中心として和合し、種を結ぶようになります。このようにして本然へ帰るのです。二つが一つになってこそ本然へ帰るのです。分かれたものだからです。
それで正分合です。


皆さんが環境圏をつくらなければなりません。神様も環境圏として太陽、地球、空気、水を造られたのです。環境圏には、いつも主体と対象があります。公式です。すべての被造万物はペア・システムになっているのです。鉱物世界もそうであり、動物世界もそうであり、人間世界もそうです。なぜ主体と対象になっているのですか。真の愛の完成のためです。主体なくしては愛を中心として完成できません。公式です。そのように完成した先祖
が、今まではこの地球上にいなかったのです。


雄と雌が一つになってこそ、すべての天地の調和をつくり出すことができるのです。雄と雌が一つにならなくては天地の調和が成せず、ペア・システムになっている宇宙世界に和動することができないのです。そこでは除去されてしまうのです。


一人では存在できません。一人で存在する道理はないのです。それゆえに、すべての存在世界はペアで存在するというのです。なぜペア・システムになっているのでしょうか。愛のためです。どのような愛のためですか。本然の神様が喜ぶことができる本然の愛、真の愛のために存続するのです。


千三百五十一

万物は、一人でいるものがありません。万物は、必ず主体と対象になっています。すべてペア・システムになっているというのです。これを今日の人間たちは知りません。相対で宇宙を創造したところには絶対信仰観が出てくるのです。ペア・システムが生まれたのは愛のゆえだというのです。


この世の中をよく見てみると、ペア・システムになっているでしょう。環境圏内には必ずペアがいます。そのペアの、主体と対象はバランスをとっているのです。バランスをとらなければ滑り落ちてしまいます。四方に滑ってしまうのです。東西南北に滑ってしまうというのです。バランスがぴたっと合うようになれば、愛を追求することができるバランス基準さえできれば、世界のすべてのものが平衡となり、ぴたっと平面になるのです。宇宙に水平の表面が生じるのと同じです。ぴたっと一つになる時には、水平の表面が角張らないで丸い形態になるのです。

その端は、ぐるぐる回るのに妨害となる作用の形態を自然に備えなくなるというのです。循環するにおいて、それが遠心力作用を一〇〇パーセント加重することができる円形に似て一つになるようになっているのです。どれほど素晴らしいでしょうか。


ペア・システムは主体と対象の概念ですが、この主体と対象はいったい何をするのですか。これがあるのは愛のゆえです。愛の概念があって主体と対象があり、主体と対象があって作用し、作用があって力が出てくるのです。今日の科学者は、これしか見ることができませんでした。それゆえに、このような理論をすべて整理しておかなければなりません。
「ああ! このようになって作用があり、作用がある前に主体と対象が、主体と対象がある前に愛がなければならない」、これを反対に話すと、力が存在するためには作用が必要であり、作用するためには主体と対象がなければならず、主体と対象は愛がなければならないというのです。


環境には、必ず主体と対象があるようになっています。したがって、神様が造られたすべての世界はペア・システムになっています。簡単な内容です。鉱物世界も相対になっていて、植物世界も相対になっていて、動物世界も相対になっていて、人間世界も相対になっていますが、その相対とは何ですか。男性と女性です。


力よりも作用が先です。作用は一人ではできないのです。必ず主体と対象がなければなりません。この宇宙は、ペア・システムの原則、公式に立っています。ペア・システムになっているというのです。結論がそうです。世界がどれほど簡単か見てください。鉱物世界も相対でできています。すべてそのようになっています。植物もペア・システム、動物もペア・システム、人間もペア・システムになっています。神様も二性性相です。それは、永遠の真理であり、公式です。


すべての創造物は、ペア・システムになっています。それで、それを管理して、見て、聞いて、話すことができる五官も、すべて相対になっています。彼らを感知することができるようになっているのです。相対をもてないものは、この宇宙創造世界から追放されてなくなるのです。


千三百五十二

すべてのものは主体と対象、ペア・システムになっています。完全なものが相対なので、そこに従っていかなければなりません。心と体のうちで、どちらがより良心的で、より善に近いでしょうか。体よりも心が善の面に立っているので、心に絶対に従っていけば天国であり、体に従っていけば破壊、なくなる存在、地獄、破滅だというのです。


二) 主体と対象は愛の関係

この宇宙がなぜ生まれたかということが問題です。これは、宗教世界やすべての学問世界、あるいは哲学世界の根本問題なのです。宇宙の中心は人間ですが、人間がなぜ生まれたのかという問題さえもみな分からずにいます。また人間を中心として横的に鉱物世界、植物世界、動物世界の三段階に連結されたすべてのものがペア・システムになっています。なぜペア・システムになっているのか、今までは漠然としていましたが、そのすべてのものは愛ゆえに始まったのです。


宇宙の根本は何かといえば、すべて愛ゆえに生まれたので、愛を求めるためには、愛をなすためには雄と雌がいなければならない、このようになるのです。動物では雄と雌ですが、植物では何ですか。雄しべと雌しべです。鉱物世界では、分子をおいてみればプラスイオンとマイナスイオンです。それが雄と雌です。すべてが雄と雌なのです。


作用しようとするなら、どのようにしなければなりませんか。作用は、一人のままではできないのです。プラスとプラスが会ってはできないのです。必ずプラスとマイナスの相対的関係においてのみ作用が成立するのです。宇宙の現象の根本は、力によるものというよりも、ある作用が始まって調和の世界へ拡大していくものですが、作用の形成はプラスだけではできないのです。プラスとマイナスが授け受けすることから作用が始まるので、作用するところには必ず主体と対象がある、このように見るのです。それで、すべてのものは相対をもっているのです。


このように小さいものにも雄と雌があるというのです。雄と雌、プラスとマイナスになっているというのです。分子もプラスイオンとマイナスイオン、すべて相対的に主体・対象関係になっています。神様は何を好まれるお方ですか。神様はどのようなお方ですか。プラス・マイナス、雄・雌をつくられたことを見ると、そのように行動することを好まれる神様です。宇宙の根本とは何ですか。「主体・対象であり、雄・雌である!」というのです。


宇宙の根本に入っていけば、主体・対象関係においてすべての調和がなされるのです。もう少し入っていって見ると、主体と対象関係がなぜ必要なのでしょうか。作用するためです。作用は運動するためです。このようになります。この世に存在するものの中で運動をしないものはありません。皆さんも運動しているでしょう?先生と皆さんも、必ずこの主体と対象を中心として何かが流れているのです。


千三百五十三

主体と対象が一つになることによって、電気でいえばプラスとマイナスが一つになることによって光が発するのと同じように、宇宙の光が発することができるというのです。電気と同じだというのです。この小さな電球の中にあるプラス・マイナスが連結されてです。ここだけで一つになっても駄目です。これが、もっと大きい変電所を通して発電所まで、結果的な立場ですが、根本的発電所と連絡することができるところにおいてのみ永遠の光を発することができるというのは常識的な結論です。


宇宙の根本は、力よりは主体と対象の観念です。宇宙的根本は、主体と対象の観念で始まり、主体と対象には格位がなければなりません。主体的格位と相対的格位がなければなりません。その主体的格位が神様であり、相対的格位が人間です。神様は、なぜ人間を創造されたのでしょうか。神様は主体であられるので、相対がなければならないからです。相対がいることによって刺激を感じることができるためです。何によって。美と愛と真理によって刺激を感じるので人間を造られたというのです。


宇宙の根本である力というものも、物質世界において授け受けする愛的因縁と同じ形態の作用によって生成されるのです。それゆえに、どのような存在でも、主体と対象の関係をもたなければこの宇宙に存在できないのです。


宇宙の根本概念とは何でしょうか。哲学者たちも、宇宙の根本概念がどこから出てきたのかということを知りません。真の愛!神様もなぜ存在するのかといえば、愛ゆえに存在するのです。愛ゆえに神様が必要であり、愛ゆえに神様がいらっしゃるのです。神様も愛のために生まれたのです。それゆえに、宇宙が存在する前に愛の概念があったというのです。この愛の概念の完成は何かというと、雄と雌、陽性と陰性がなければならないということです。存在するすべてのものは二種類の類型があります。


人類のすべて、宇宙の根本が主体と対象、ここにすべて入っています。それゆえに、すべてが相対のために生まれたというのです。主体と対象をもたないものがありません。鉱物世界もそうではないですか。分子なら分子において、プラスイオンとマイナスイオンが主体と対象になっていて、植物の世界はすべて雄しべと雌しべ、動物世界は雄と雌、人間世界は男性と女性になっています。すべて相対的です。


宇宙の根本は何ですか。宇宙は何から始まったのですか。愛です。科学者たちは、「宇宙は力でできている」と言います。作用するのを見て、力があることが分かるのです。力があれば作用をします。では、作用が先ですか、力が先ですか。男性が男性として成長する時は、愛の力は作用しないのです。

男性として作用しながら大きくなるのです。心と体が作用しながら、だんだんと成年になっていくのです。そして、女性に会う時に横的な力が生じるのです。力が現れるには、必ず作用を経ていかなければなりません。力がある前に作用があるというのです。それでは、作用はどこから出てくるのでしょうか。主体と対象の関係です。人も心と体、すべてのものがペア・システムになっています。この目も二つの焦点を合わせなければなりませんし、鼻もまず焦点を合わせるのです。ペア・システムになっています。


千三百五十四

再創造の公式は何ですか。宇宙は、プラス・マイナスになっています。分子を見てもプラスイオンとマイナスイオンになっています。すべて相対圏になっているでしょう。原子を見ても陽子と電子になっています。すべてそのようになっています。宇宙構成の根本がそのようになっているのです。植物は雄しべと雌しべ、動物は雄と雌、人は男性と女性でしょう?すべて相対的になっています。そのように相対的になって、結局一つの体制圏に収拾されなければならないというのです。神様が主体なので、神様を中心として収拾されなければなりません。その創造の意志と一体化した相対圏がつくられなかったとすれば、神様の創造の喜びはあり得ないのです。


真の愛には、垂直的な愛と水平的な愛の二種類があり、宇宙はこの原則によって動きます。宇宙の構成もそのようになっていて、植物世界、動物世界、鉱物の世界、このすべてが主体と対象の関係になっていて、垂直と客体の関係を中心として円形に似ているという事実は、級は低いのですが、すべてのものは愛をモデルにして宇宙の根本に従って伝送が始まったという事実を知らなければなりません。


この世界、宇宙を見てください。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオン、植物世界も雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌になっています。近ごろは細菌まで雄と雌があるといっています。すべてのものは、愛を中心として、自分の級を中心として一つになるようになっています。このようなペア・システムの宇宙を見れば、これらは、人間の理想的愛が天地を代表して一つになる時、共に連結されて信奉するためにそのようになっているというのです。 家を建てようとすれば、初めに基礎をつくるのと同じように、人のためにこのようなペア・システムですべてつくったのです。動物もそうではないですか。雄と雌とが歩いていて、雌が被害を受けるようになれば、雄が命を懸けて守るのを見たでしょう。子を見れば、子のために命を差し出すのです。愛の道理はそうなのです。それは本来、根本がそうであるがゆえにそうなのです。


作用がある前に宇宙の主体と対象がなければならないので、神様御自身を中心として、宇宙の根本であるそのお方も、主体である心と対象である体が愛の概念を中心として永遠に共存しなければなりません。愛においてのみ永生があるのです。


宇宙の構成体自体が盲目的になっているのではないのです。この膨大な宇宙が、相対的、主体と対象関係において対応しながら、授け受けする運動をしながら、永続的なその法度の軌道に従って永続するのです。法度の軌道に沿っていってこそ永続するというのです。法度の軌道に沿っていかなければ、永続するのではなく破壊が展開するのです。私たちも、御飯を食べて消化が正常にされ、栄養要素が正常に血管を通じて普及されてこそ永続が展開するように、正常に普及されなければなりません。良く授け良く受けてこそ永続が展開するのです。


千三百五十五

神様が天地をなぜ創造されたのですか。根本である愛ゆえに創造されました。それゆえに、すべての存在世界はペア・システムで造られています。ペアのないものがありません。ペア・システムでぎっしり満ちています。このように、人間を取り囲み、愛が宇宙の中心なので、この中心となる人間を中心とした愛の柱を打ち込み、そこに大木の根元のようにくっついて生きるようになっているのが、神様の愛を中心とした創造理想だったというのです。「神様の創造理想とは何か。神様のみ旨とは何か」という時、そのみ旨が権力に行けば滅びなければなりません。知識に行っても滅びなければなりません。神様の愛に行かなければなりません。愛が終着点にならなければならないというのです。


与えるものがなぜ栄え、与えることによってなぜ大きくなるのかということが問題です。それは、神様が本来、この宇宙を創造された当時の根本と通じるためです。神様が創造しようというのは引き寄せることですか。与えることです。ギブ(give:与える)すれば、絶えず大きくなるのです。絶えず大きくなるのです。すべてのものがギビング(giving)です。すべてのものが与える概念に変われば、アメリカはますます大きくなります。絶えず受けていれば、すべてのものは小さくなるのです。なぜそうなのかというと、神様の創造原則に同伴することができるので宇宙が私を協助するのです。宇宙が私を協助するからです。


宇宙の根本、九〇度の角度は真の愛です。これがすべてのものの測定基準になっています。動物世界もすべて雄と雌になっているでしょう?左側にあるか右側にあるか、陽質か陰質か、そして、すべて自分の系列に従い、縦横を中心として愛するのです。それも、すべて愛するではないですか。ここに縦的垂直線と横的水平線があるとするならば、ここが自分の存在位置です。

それゆえに、愛を中心として存在する博物館です。鳥も愛を中心としては命を懸けます。獣もそうです。すべてそうだというのです。植物もそうです。鉱物世界もそうです。元素にもプラスイオンとマイナスイオンがあります。元素もすべて自らの相対を中心として作用するというのです。


宇宙の根本は、運動の起源はどこから始まったのですか。すべての天体世界も、太陽を中心として衛星が運動をします。それが一つの核になり、もう一つの相対的な相応世界と連結し、またこれを中心として大きくなればもう一つの大きな世界と連結するのです。このようにして、全宇宙はいったいどのように生じたのか、広大無辺なこの世界のすべての存在はどのように生じたのかというと、これが運動するのです。すべて運動しながら一つの球形のために動いていきます。そのようにしながら星が動くその世界が、ある時は大きくなり、ある時は小さくなったりするのです。息をするというのです。地も大きくなったり小さくなったりします。そのことを知っていますか。大きくなったり小さくなったりします。


千三百五十六

回るときには何を中心として回ってみたいですか。真の愛を中心として回りたいのです。これが宇宙の根本です。男性も「受ける」と言い、女性も「受ける」と言えば、どのようになりますか。お互いがそのように「受ける」と言えば、額を合わせてこのようにしていなければなりません。それは互いに主管しようとするためです。宇宙の存在は、授け受けするのです。授け受けすることが原則なので、先に与える側が主体です。先に与える人が主体だというのです。


皆さん、体が重要ですか、心が重要ですか。心です。心の中心に真の心があり、その真の心がも重要視するのが真の愛です。同じです。したがって、この宇宙の根本が真の愛なので、真の愛の心をもたない人はここから追放されます。宇宙から追放されないようにしようと、神様がそれをすべて教えてあげようと、男性も女性も愛することができる、真の愛を行うことができる訓練をするためのものが結婚だというのです。このようにして男性と女性が一つになり、神様の真の愛、すなわちプラスの前に相対にならなければなりません。これを完全に授け受けしようとするなら、人間が完全でなければなりません。


私たちが宇宙の根本を求めていけば神様に帰着するのですが、そのお方は、男性格位と女性格位の二つの性稟を所有していらっしゃるお方であることを知らなければなりません。宇宙出発の原因はどのようになっていますか。神様に対してはまだ分からないとしても、人間は男性と女性、主体と対象になっています。鉱物界の分子を見れば陽イオンと陰イオンによって構成されていて、植物界は雄しべと雌しべに、動物界は雄と雌に、そして、人間は男性と女性になっていることを見ることができます。

今まで数多くの博士、数多くの学者がいましたが、これ一つ考え出した人がいないのです。皆さんは否定することができますか。皆さんの父母、祖父母、またその祖父母、そして、人類の先祖である方とさらには宇宙の根本であられる神様に尋ねてみても、すべて同意するのです。これは鉄則です。この真理こそ宇宙が億万年過ぎても原理原則として残るための鉄則です。そして、神様の前に進んでいくようになれば、この鉄則によって正しい人と間違った人の判定を受けるようになるのは当然のことです。


自分のものを主張するものは追放されます。宇宙万物を見る時、鉱物世界も主体・対象関係、植物世界もすべて雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌、人間世界もこのようになっていて、この根本の愛の主人が自分ではなく相対なのですが、この相対を否定したので、相対として認めるその世界には、存在することができないのです。ですから、追放してしまうのです。使用価値がないというのです。


三、宇宙の根本は愛である 

一) 宇宙の中心は愛である

この宇宙全体、天国全体の中心軸は何ですか。愛です。愛は、生命の根本であり、血統の根本です。それは、愛を中心として成されているので、愛の軸に従って運動します。運動とは、ただするのではないのです。運動は、必ず主体と対象を中心とするので、それ自体の位置において、愛を中心として関係を結んで行動するのです。

永遠の愛の実績として存続したいというのが、すべての運動するものの目的になっているというのです。作用とは、ただするのではないというのです。


千三百五十七

宇宙の根本は、愛から始まりました。神様はどのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。


宇宙の根本の動機は、何を中心として動くのでしょうか。男性を中心として動くのではありません。女性を中心として動くのではありません。神様御自身を中心として動くのでもありません。神様が動くことができる動機は何かというと、愛です。

それゆえに、愛は、始まりであり終わりだというのです。コリント人への第一の手紙第十三章を見れば、信仰と希望と愛はいつまでもあるが、このうちで一番は愛だ、といいました。それは、なぜそのようにいったのでしょうか。それを解くことができなかったのです。


なぜ真の愛で愛さなければならないのでしょうか。宇宙の根本が真の愛の原則から生じたからです。したがって、それに通じれば、宇宙のすべてと関係を結ぶことができるのです。理論的なのです。それで、一つが上ならば一つは下であり、一つが右側ならば一つは左側になるのです。鉱物世界、植物世界、動物世界がすべてそうです。お互いに与えようとするそのような世界が起源となって出発したので、お互いに与えようとしながら暮らすのが宇宙です。

このような論理で、より次元の高い大きな存在にすべて吸収されようとするのです。このように思う時に、宇宙存続の源泉はどこでしょうか。より高い愛を中心として与えようとする運動圏内で作用するものが宇宙的な存在です。


宇宙の存続する原則とは、理想的な根本の愛と接続することができる環境的条件であり、縦的、横的、すべての球形的な全体方向性の運動圏内に所属した属性だったというのです。それでは、その父母の前に皆さんはどうでなければなりませんか。そこに報いなければなりません。相対にならなければならないでしょう?一つになろうとするなら、父母のように相対にならなければならないという結論です。真の愛の相対になる時に統一が展開されるのです。真の愛がなくては完全に統一す
ることができないのです。結論を出しました。


神様を中心とした人間は、神様の体と同じであり、体と同様の実体を、象徴型として影のように送ってくださったものがこの宇宙万象です。この宇宙万象は、何を標榜して造られたのかといえば、神様御自身を標榜して造られたというのです。それが形象的、象徴的な位置にいるだけであって、その根本主体は神様を中心として造られたというのです。


宇宙の根本は、どこから始まったのですか。進化論でもなく、創造論でもありません。進化より先に、創造の概念がある前に、雄と雌がいたということを知らなければなりません。では、雄と雌はなぜ生まれたのでしょうか。
愛のゆえにです。愛、これが公式です。


千三百五十八

神様は、神様よりもっと立派な愛のパートナーを願われます。皆さんも、愛の相対が皆さんよりも優秀なことを願うでしょう?同じです。神様御自身が主体と対象として完全に一つになっているのですが、それが創造の根本です。愛を中心として二つが完成するのです。そこで神様が解放されるのです。愛の位置で歌って踊ってごろごろ転がって、すべての被造世界が一つになるのです。そのような世界は、どれほど楽しい世界でしょうか。 家を建てる時は、水平が合わなければならず、垂直が合わなければなりません。合わなければすべて倒れるでしょう?宇宙がどのように存在するか、という根本問題に入っていくというのです。

それで、神様御自身も愛が必要です。神様御自身が天の玉座において、「ああ!私は愛が好きだ」と歌いますか。文総裁が一人で踊ってこのように汗を流すようになれば、狂った人ではないでしょうか。ハンカチ一枚見ながら踊ってこのようになれば、狂ったのではありません。これの十分の一、百分の一くらいのものを見て踊って笑ったとしても、それは気違いではありません。


創造は、相対価値の絶対基準に該当する価値的内容をもっている、という事実を認めなければなりません。


アダムとエバが完成すれば、神様が結婚させてあげることによって、アダムとエバの体の中に、性相と形状、男性と女性の形状をもった神様が入っていき、私たちの心の位置に創造主、お父様の体の位置に創造物、お父様が愛によって一つになるのです。他のものではないのです。知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。真の愛によってここで一つになることによって、真の愛を中心として形状が成され、家庭が成されるようになるというのです。真の愛が重要なのです。これがはっきり分からなければ宇宙の根本を知らないというのです。


世の中の人たちが考えるのは、お金をもって世界で一番の代表者になる、権力をもって一番の代表者になる、知識をもって一番の代表者になる等の様々な考えをしています。 しかし、宇宙の根本である神様から関係しているすべてのものは、真の愛を中心とした代表者になることを願うのです。それが、人間が願い、神様が願われる道だということを知らなければなりません。


皆さんは、愛が良いと言うでしょう?愛を求めていくでしょう? どのように求めていくことが、宇宙の根本であるその公式に合う愛の直線の道、近道なのかというのです。

これが問題です。


この宇宙の根本は何ですか。神様は絶対者です。力があります。力が根本ではありません。知識が根本ではありません。それでは、お金ですか。これは、あの世から見れば退廃的な何というのでしょうか。廃物を拾って歩き回るのです。廃品を回収して歩き回る人々は、お金を集めようという人です。私たちのような人は金があるといいますが、私はそのようなお金を使わないのです。


神様が天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。神様の相対になることができるのは人しかいないのです。それで、自分を一〇〇パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入して神様はゼロの位置、無になり、あそこは百二十になるので、気圧


千三百五十九

 

でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。

それで、絶えず押し込めばこちらは巻き込むでしょう。自分を包囲するそのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則によってこのように展開されるのです。


根本は個人です。個人で連結するのです。家庭も、氏族もすべてです。根本は、いくら小さくても同じです。角度は同じだというのです。九〇度です。それで、これを茎にして真の愛、真の愛、真の愛、真の愛、真の愛、このようになって地球星全体が真の愛で一つになり、宇宙でもどこでも真の愛でぎっしりいっぱいになるのです。そのようになれば、いつでも「良い!あなたは私と似ている!」と言うようになり、どこに行っても、縦的でも横的でも全く同じになるのです。


人間は、歴史を通じて宇宙を越えていっても愛を必要とし、昼でも夜でもどこに行こうとも、若くても年老いても死んでも、いつでも愛の観念を離れることができない存在です。なぜそうなのでしょうか。根本がそのようになっているので仕方がないというのです。愛だけが今でも創造の能力を行使することができるのであって、愛がなくては行使することができないのです。発電所のような愛の原動力を中心として、すべて行くのです。


愛も、もちろん神様がつくることができると思いますが、その愛を所有するということは一人ではできません。二人が所有しなければなりません。神様も愛を一人で探すことはできません。ですから、その基準の測定原器は何でしょうか。宇宙万象、存在世界、永遠世界で測定することができる絶対的に一つしかない原器、それは何でしょうか。根本問題です。それが愛だというのです。ですからこれは、春夏秋冬、季節の変化に影響を受けません。受けてはならないのです。


なぜ愛のひもに結ばれて生きるようになっているのですか。神様の本物の愛に、神様も喜ばれ、宇宙も喜び、この世界も和合することができる愛のひもに人間が結ばれて生きるようになっているのですが、そのような愛のひもに結ばれずに幸福になり得る心の基台がないのに、生活が幸福になり得ますか。なり得ません。根本が違っているのに、結果が幸福であり得ますか。歴史はこのような関係になっています。


心と体が一つになったその場に入っていくようになれば、その場は、釈迦が経験した位置です。「天上天下唯我独尊」というその境地に入っていきます。その中に入っていくようになれば、愛の球形内のすべての力は、この中心を通じることなしには作用することができないのです。これを通じない作用は存在できません。宇宙のすべての作用は、これを基本として定めて拡大しました。

 

千三百六十

ところが、愛を中心とした軸が生まれなかったのです。それはすなわち、核心が生まれなかったのと同じです。人間だけではありません。今日、人間同士で連結された愛、家庭を中心とした愛、家庭を中心として拡大された氏族、民族、国家の愛、あるいは聖人が教えてくれた愛をもっては、その根本を悟ることができなかったというのです。


宇宙根本において、生命が先ですか、愛が先ですか。このように思う時、それを突き詰めて入っていくようになると、生命が先にはなり得ないのです。神様は生命の源泉ですが、生命の源泉であられる神様が存続するには、どのような基盤の上で暮らすことを願われるのでしょうか。何の基盤の上で暮らすことを願われるのでしょうか。神様は、平和の基盤の上で暮らすことを願われるはずです。平和の基盤設定は何がするのですか。生命がするのか、他の何かがするのですか。それがまた問題です。それは、生命がするのではありません。主体と対象が高低を超越して、共通的価値を認めることができる秩序的段階を超越したその何かです。それは何ですか。真の愛です。


皆さん、細胞繁殖というものを知っているでしょう。これ一つを取ってみても、その位置に再び目が出て鼻が出てくるのです。髪の毛も出てきて、足も出てきて、すべて出てきます。すべてのものが全く同じなのです。真の愛と連結した細胞は宇宙と同等な価値をもつことができるのです。なぜ真の愛がそうでなければならないのですか。真の愛は原因であると同時に結果であり、根本であると同時に目的だからです。


愛は、宇宙をはじめ、どのような存在でも因縁をもたない存在がありません。小さな草一本でも、必ず愛を中心として生きているというのです。鉱物もプラスイオンとマイナスイオンを中心として生まれ、すべて愛ゆえに動いています。


真の愛で成された心情圏は、いくら小さくても宇宙と連結され、その中で起きる出来事の波長は万象と霊界まで波及するのです。霊界を含む天宙は、すべて同じ神様の真の愛の原理のもとに存在するからです。神様と人間との間の縦横、前後的真の愛の関係は、人間相互間の理想的真の愛の関係の根本であり、その完成は四大心情圏を成した理想家庭においてのみなされます。


愛の本質は何ですか。どのような愛ですか。愛とはどのような愛ですか。今日のアメリカに蔓延しているフリーセックス、一夜の愛が愛ですか。それは、根本の愛とは関係がありません。それでは、根本の愛、真の愛はどのようなものですか。愛とは、始めであり終わりです。この宇宙が生まれたのは何のために生まれたのかといえば、愛のために生まれたというのです。愛を訪ねていくというのです。神様に対して聖書には「私が初であり 後である。始めであり終わりである」とありますが、それはどういうことですか。これは、愛をおいていう言葉です。


千三百六十一

なぜ「ため」に生きなければならないのですか。なぜそのようにしなければならないのですか。それを願わないのに、なぜそうでなければならないかというのです。愛のひもが結ばれているというのです。愛のひもが万物に連結しているといのです。愛のひもが私の体を結んでいるというのです。このような時、すべてが手を差し出して早く早く巻いてくれというというのです。早く早く大きくなろうというのです。愛の宇宙を占領しようというのです。愛の宇宙も宇宙であり、それはパートナーの世界ですが、愛の根本が神様まで占領しようとするのです。


神様は、いつでもうれしいでしょうか。皆さんは、いつでもうれしいですか。うれしくありません。しかし、真の愛をもった時には、悲しみもその愛によってすべて消化されるのです。これを見る時、愛の絶対権限が、この宇宙のある個別的権力や知識や何かをもって第一主義を主張する、それ以上のものとして残したいのが人間の本性の欲求だったというのです。それがどこから来たのでしょうか。根本から来ました。その根本のどこからですか。神様の愛からです。神様もそのような愛を願うために、そこから来たのです。


初から私たち人間は、近ごろの共産主義のように闘争概念から始まったのでしょうか、融合概念から始まったのでしょうか。どちらなのですか。電気でいえば、プラスとマイナスが闘争するというのですか。それでは、どのようになっていたのでしょうか。調和と融合から始まったのです。それで、お母さんとお父さんの愛を通してお互いに調和して、融合して私が生まれたのです。それは否定できません。このように思う時に、宇宙の根本は、本性とは、調和にもなり融合される内容から出発した、ということを私たちは知ることができます。


すべての宇宙の中で、借金だらけの人間にならずに借金を負わせて暮らすことができる方法とは何でしょうか。それでは、私の根本がないのでしょうか。違います。心にいくらでももっています。「ごめんなさい」、「ありがとう」と言うことのできる心、水を見て、山野を見つめて、野原を見つめて、三千里の山川、さらには大地球星を見つめて「ありがとう!」と言うことができる心、神様の前に有り難いと考え、環境に有り難いと考え、不平を言わないで侍って暮らすことができる、このような主人の心をもちなさいというのです。真の主人には、そのような人々がなるのです。


二) 人間は万宇宙の愛の中心 

(1) 神様の愛の対象として造られた

人の価値は、どれほど大きいでしょうか。神様が杖をついて千年、万年慕うことのできる存在が人です。統一教会の文先生が見るとき、これが宇宙の根本だというのです。これが、内外関係になったので縦横の愛の世界観が成立するのです。上下関係と左右関係になるので、縦横の愛の世界観が展開されるのです。その中心には神様が臨在されるのです。 心の深い谷間の位置に、一つにしっかりと結ぶことができるその場は、縦横の中心位置です。これを結んでおかなければ、縦横の基準が愛の理想型から出てこないのです。縦的なものがどんなにあるとしても、横的なものは出てこないのです。それで、人をこのように造らざるを得なかった、ということを皆さんは知らなければなりません。


千三百六十二

神様は、絶対的な創造の観を所有した絶対者なので、絶対的な対象価値の存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の中で、何をもってしても取り替えることができないものです。価値として見れば、相対的存在とは、神様を与えても取り替えることができない存在です。「相対的価値」という言葉は少し難しい言葉ですが、相対的価値というものは、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは、神様を与えても取り替えることができないのです。神様を与えてみれば、神様一人になるのです。神様が残るのです。それゆえに、神様御自身を投入して、神様御自身の力を、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をするのです。

それで、神様を与えても、取り替えることができない対象の価値的存在として造られたものが人間です。このように、絶対的な価値の存在が人間であることを皆さんは知らなければなりません。神様がそのような観をもって、価値的な存在として人間を造ってくださったのです。


神様は、人間を愛ゆえに造られました。人間はなぜ造られたのですか。愛ゆえに造られたのです。人間が万物と異なるのは、神様の息子、娘として造られたからです。神様の直系の愛を受けることができる対象者として造

られたというのです。これが人間の特権です。


人は、誰に似たのでしょうか。神様に似ました。ですから、神様が愛を願うのも、結局は人と同じだ、このように思うのです。愛を中心とした理想の創造世界というものは、実体を中心とした愛の表示が形状によって現れ、形状の表示が象徴として現れるというのです。

統一教会の「原理」ではそのようにいっているのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。その実体が喜べば、その形状である存在が喜べば、象徴的なものも自動的に喜ぶことができるというのです。そのような作用を何がするのですか。愛だけがするというのです。


「万物之衆唯人 貴(万物の中で人がも貴い)」と言いました。万物の中で人間が中心だというのです。何を中心として中心ですか。愛を中心としてです。知識とか、お金とか、権力というものは問題ではありません。

神様は創造主なので、そのようなものはいつでも造ることができ、もつことができます。しかし、愛というものは、一人では探し出すことができません。愛は一人ではもつことができません。愛は、必ず相対を通して現れて成されるようになっているのであって、一人では神様でも成し遂げることができないというのです。


神様が天地を創造される時、誰のために造られたのですか。神様のために造られたのではありません。愛の対象のためにです。それでは、神様の愛の対象とは誰ですか。「万物之衆唯人 貴」と言いました。人だけが神様の愛の対象として造られたというのです。愛の本質的内容を分析してみる時、属性には相続権があり、同位権、同参権があるために、愛に接すれば、いくら気高い神様、いくら偉大な神様、いくら宇宙的な神様といっても愛に乗せられるというのです。


今日の統一教会の教えは、神様も愛が必要だというものです。いくら全知全能で遍在する全権の神様でも、愛は相対的に訪ねてくるのが原則なので、愛の相対圏を備えなければ
なりません。その相対がアダムとエバです。

 

千三百六十三

 

神様がいくら立派で、絶対者で、全知全能の方であっても、一人では良いことがあり得ないのです。「幸福」という名詞は、あるいは「良い」という形容詞は、一人で設定される言葉ではありません。必ず相対的関係を備えた位置にいてこそ、「良い」、「幸福だ」という言葉があり得るのです。一人でいながら「幸福だ」と言う人はいないのです。

したがって、いくら全知全能の神様でも、一人では幸福になることはできません。例を挙げれば、歌を上手に歌う音楽家がいて、一人で歌を歌ったとしましょう。幸福でしょうか。相対がいなければなりません。授け受けしてこそ良いのです。同じように神様も、「良い」と言うためには、必ず神様一人でいてはいけないのです。


(2) 人間成長の道は神様御自身の展開過程

人間創造とは、神様御自身が成長してきたことを実際に再度展開させてきたものです。ここで神様が興味を感じられ、刺激を感じられるのです。人も同じです。画家が傑作品をつくるために絵を描くのは、自分の内的な素性をすべて実際に形状に展開させることです。自分の骨髄の奥深くまで絞り出して投入するのです。


人間の完成はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だからです。したがって、男性と女性が完全に一つになった愛を中心としてのみ完成するというのです。アダムが完成するには誰が絶対に必要でしょうか。神様が絶対に必要なのですが、神様は縦的に絶対必要です。アダムが完成しようとするなら、縦横の因縁をもたなければなりません。縦横の愛の因縁をもたなければ回転運動、球形運動が不可能です。それゆえに、横的にアダムに絶対必要とするのはエバです。同じように、エバにも絶対必要なのがアダムです。


アダムとエバをおいて神様が愛したのは何ですか。アダムとエバが息子、娘として育ってきたということは、神様もそのように育ってきたということを意味します。神様も赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、そのように創造されたのです。 神様は、無形の神様です。無形の神様がそのように大きくなってこられたというのです。それで、兄弟のように、夫婦のように、また息子、娘のように創造してこられたというのです。


アダムとエバを神様が造られたとすれば、どのような段階から造られたのでしょうか。アダムとエバを成人した人として造ったと考えることはできません。赤ん坊から造られたというのです。神様は、赤ん坊を身ごもった母が抱いて育てるのと同様の過程を経て造られたという論理を立てなくては、この三段階の秩序に通じた存在の形成ということを説明する道理がないのです。幼児期があったというのです。それから長成期があり、完成期がありました。これは天理の道理です。


千三百六十四

アダムとエバに幼児期があったのですが、その幼児期はどのような幼児期だったのでしょうか。無形の神様が無形の世界から有形への過程を経てくることができ、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。

それでは、赤ん坊から生まれ育ち、成熟して結婚することができる位置まで、父母になることができる位置までどのようにして行くのでしょうか。神様が青年期、壮年期、老年期のような過程を経てきたという事実を、神様が育った無形の過程を実体として見るための存在が子女だというのです。このような論理が形成されてこそ、父子一身という論理が出てくるのです。一つは縦的で一つは横的なので、縦横一身の理論を立てることができます。


愛する夫婦、アダムとエバが子女を生むということは、神様の無形実体の性相と形状が、愛をもって一つになって創造され、父母の立場に立ったのと同じです。第一の見えない神様が見える第二の創造主としてアダムとエバを造られ、実体の第二の神様の立場に立ったアダムとエバが、再び息子、娘を生むことによって父母の立場に上がっていくのです。そして、その幼い子女を通して、実体のアダムとエバの乳児時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代等、神様が経た過去を再び実体として展示するのです。それで、それを触ってみたいと思われ、愛してみたいと思われるのです。

子女は第二の自分自身です。


結婚した夫婦の立場は、途方もない立場です。歴史時代に人類が望んだ子女としての希望峰が花咲く立場であり、兄弟として花咲く立場であり、夫婦として花咲く立場です。このようにして夫婦として愛した神様が創造を始められたように、息子、娘を生んだそこからアダムとエバが創造するのです。実体的創造主の立場となり、自分を中心として平面的創造主の立場で息子、娘を生むのです。第三の創造主を造るのです。それが子女です。 それゆえに、父母は、子女を神様の代身の実体父母の立場で神様の子女を養育するのです。そのようにしてこそ、見えない無形の神様が子女を養育したということを自分の実体で感じるのです。神様もそのように大きくなられたというのです。神様も子女時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代として発展してこられました。見えない神様の過去史を中心として、自分の息子、娘を生んで育てながら、神様の見えない赤ん坊時代の第一の創造主、無形の創造主の姿を見るのです。

第二の創造主、見ることができる創造主の立場で赤ん坊を育て、兄弟として育て、夫婦を成すようにすることは、神様がアダムとエバを息子、娘として、兄弟として育てられたように、無形の内的要求の実相をすべて実体的にアダムとエバを通して平面途上から見るためなのです。これが息子、娘だというのです。


千三百六十五

神様が創造主として歴史的、内情的原則を中心として、存在の起源から今まで成長した過程を実体的に展開してくる過程がアダムとエバの創造過程です。それでは、どこから始まるのですか。完全に小さな細胞が一つとなって大きな細胞になるのと同じように、赤ん坊が十カ月間で育つ過程を経ていきながら、男性と女性の形態に分かれて出てくるのです。なぜそのようになるのでしょうか。そうでなければ、生命遺伝をどのようにするかという論理に対して解釈する方法がありません。遺伝的内容をどのように展開させるのかという論理を立てることができないというのです。それゆえに、一つの本質的な無形の形態と有形的な形態の本質が、一体的内容の因縁を中心として横的に展開することを必要とするのです。

別の言い方をすれば、主体の前に相対圏が必要だというのです。内的性相は外的形状とすべての根源的な面において、一致することもでき、通じることもできる内縁があります。それゆえに、人が生まれて育つその過程は、見えない無形の神様が実体を見るためのものだったのです。ですから、神様の内的なすべての存在が表現されて現れるので愛さざるを得ないというのです。それが私であり、私が現れた実体だというのです。無形の実体が有形の実体として展開される以上、そこにすべてを投入しなければなりません。


神様が愛を見いだす対象を造ろうとされる時、誰に似るように造られるでしょうか。神様に似るように造られます。その神様に似るように造られるなら、神様の中にあるように男性性稟がなければならず、女性性稟がなければなりません。自分に似ているのですが、自分の本性相からすべて抜いて、見えない性相、見えない思考の形態を実体として展開させたものが人間だというのです。それゆえに、聖書の創世記に出てくる、神様が自分の形に人間を創造されたというのは正しいというのです。


神様と人間の拍子が合って和動することができる喜びの拍子の前に、すべてのものが自分の姿どおりに音律を合わせることができ、自分の姿どおりにすべてが象徴的、形状的に踊り、すべてがこのようにすることができる、そのような喜びの世界が本然の園です。そのようになれば、万物も「ああ、私が生まれたかいがあるなあ」と言うでしょう。例えば、神様と人間が愛の祝宴をするその日に同参することができる因縁をもって、その喜びをお互いに分かち合うことができる存在になったという事実が、被造世界の限りなく小さな万
物が願う所願ではないだろうかというのです。


いくら真理だとしても、真理の核心とは何でしょうか。お金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。愛です。本質的愛は縦的なところにあるのであり、真理的愛は横的に連結しているのです。それゆえに、万物を見て神様を知り、アダムとエバが神様の形状なので、アダムとエバを見て神様を知るというのです。なぜですか。アダムとエバは、縦的な真の愛の対象的主体なので、これを二人とも完全にぴたっと男性と女性の愛を、東西南北を通して世界の軸に合わせるようになる時は、神様と霊界が通じて万世界がすべて通
じるというのです。


(3) 人間は被造万物の中心

神様は誰に似ているというのですか。私たち男性と女性に似ています。皆さんの心は見えないでしょう?心を見たいですか、見たくないですか。神様も同じです。神様が霊的な立場で見れば同じなのです。神様には体がありません。今まで体がありませんでした。アダム完成が成されていないので、今まで体がなかったというのです。体がありません。心のような宇宙に心のような主人、心のような先生、あるいは管理者、心のような父母でいらっしゃいます。

 

千三百六十六

 

すべての万物は、神様の息子、娘を造ることができる土台だというのです。関係して連結することができる土台です。動物もそうであり、鉱物もそうです。鉱物世界にもプラス・マイナスがあります。植物世界もすべて雄しべと雌しべがあり、動物世界も雄と雌がいます。すべてに橋を架け、すべてのものが結集して創造された高の傑作品が人間の内的形状と外的形状です。それを実体化させ、男性と女性の性相、そのすべてに形状を付与し、象徴的に、形象的に、実体的にすべて表して橋渡しするようにし、すべて連結するように、関係を結ぶようにしたのです。


神様が被造物の中心である人間を必要とされるのは、お金のために必要とするのではなく、知識のために必要とするのでもなく、権力のために必要とするのでもありません。ただ愛ゆえに必要とされます。そうではなく、神様一人で愛を受けるという立場に立つようになれば、愛してくれる何の存在もありません。結論がそうなので、神様は、必ずこの世界に自分が愛することができるそのような対象者を造らないといけません。このように思う時、被造世界においてその愛の対象になることができる、そのような度胸の大きな存在とは誰ですか。全宇宙を創造された神様の前に相対的な条件を備えることができる存在は、人間しかいないのです。したがって、皆さんは、「私は宇宙の主人です。宇宙で第一である」と言うことができる度胸をもたなければなりません。


神様は、喜びを加えて、喜びの刺激を連続させるために万物をつくられました。瞬間的な喜びを感じるためにつくられたのではなく、被造物に対するたびごとに胸深く入り込んでくる喜びの刺激と幸福を感じるために、高の心情を注いでつくられたのです。神様は五日間万物をつくられたのち、六日目の日に喜びの心情で人間を造られました。自身の形状を型として造った私たち人類の先祖は、限りなく美しい存在であり、限りなく貴い存在であり、限りなく誇らしい存在であり、限りなくうれしい存在であり、限りなく光栄の存在であり、限りなく愛したい存在でした。


神様は、全知全能の方であられるがゆえに、知識も必要なく、能力も権力も必要なく、金銭も必要ないのです。それでは、神様において必要なものとは何でしょうか。それは、神様が愛することができる一つの対象です。その対象は、被造万物の中でも貴く、 も霊長である人間以外にはいません。「神様がも好まれるものが人間だ」と言ったのですが、神様はなぜ人間を好まれるのでしょうか。神様も愛が必要なためです。愛というものは、一人では、あるのかないのか知ることができないのです。


千三百六十七

見えない神様の形状を、私たちの体に象徴的にすべて投入したというのです。目は誰に似たというのですか。神様です。それゆえに、顔の中で見れば、目は深い所にあるというのです。それで、すべてのものを観察するというのです。それから鼻は、アダムとエバを象徴します。これが中心でありセンターです。その次に、口は万物です。横的です。それゆえに、四掛ける八で三十二(四×八=三十二)、三十二の歯をもっているというのです。世の中の万物を中心として、四数を中心としてです。それから、耳は四方を象徴します。この首から上は天国です。天国の情報の場があります。


皆さんの生命の根はどこにあるのですか。堕落していない父母にあります。それでは、堕落していない善の父母の位置は、どのような位置ですか。神様が二性性相の主体であられるので、神様が自らの二性性相を展開して、神様の形状どおりに万宇宙を造って人間を造られたのです。

アダムは、神様の男性的性稟を展開させたものであり、エバは、神様の女性的性稟を展開させたものです。このように思う時、私たち一般の人々が普通「天のお父様!」というのは、一人のお方なのでそのように言うのですが、その一人のお方という概念の中には「天のお父様、お母様」という概念が含まれているのです。


もし人間先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。アダムとエバは神様と一体となり、神様と同じ位置に立って、神様の創造の偉業を受け継ぎ、神様が創造後に喜ばれたのと同様の位置に立つようになっていたのです。神様と人間との間にそのような関係を結ぶようになるのです。堕落していない本然の人は、神様の聖殿になるのです。


神様がお父様になり、人間は神様の息子になったとしても、お父様は上にいて息子は下にいる、上下関係のような気分がするというのです。その時に、私たち人間はどのように考えるのでしょうか。「お父様、お父様が座っていらっしゃるその席を私に一度下さい。私もお父様の位置に座ってみたいのです」という欲望が私たち人間にはあるというのです。

ここで神様が「なんだこいつ、駄目だ」と言えば、すべて壊れるのです。しかし、神様は、そのようにはできないのです。むしろ神様は、私たち人間がそのような欲望をもっているということを知っているので、「早くそう言いなさい、早くそう言いなさい」と言われながら、その席までも私たち人間に下さるのです。その席まで人間に与えて、神様は、私たちの心に臨在なされ、私たちの心を聖殿として定めていらっしゃるというのです。


心身一体になれば、宇宙の力が保護してくれます。宇宙の力が保護してくれる心と体になれば、父母も宇宙の因縁をもった父母、兄弟もそのような因縁をもった兄弟、このようにすべてが因縁を結んでいます。民族、国が因縁を結ばなければならないのです。素晴らしい結論です。ですから、国を越えて他の国に行っても、そのような一体圏を成すようになれば、そこでも通じるのです。どこにでも通じるのです。

サッカーをする時、ボールが転がっていって途中で止まれば、どのようになりますか。その表面全体が一つになることができる所は、垂直線に通じるのです。それで、球形体を理想的な存在だといいます。表面のどのような所でもその垂直線が安着することができます。それで、転がり回るのです。どこでもすべて良いために、そうなるというのです。それで、心身一体圏、九〇度になれば、どこでもすべて合います。西洋人と東洋人、過去の人と現在の人、未来の人を問わず、どこでもすべて合うのです。

 

千三百六十八

 

本性の心が行くべき道を行けば、宇宙が一つになるのです。そのような何かがなければなりません。そのような位置に入っていけば、自分の心と話すようになるのです。そのような境地では心と話をします。何かをしようと考えれば、すぐに答えが出てきます。そのような境地まで行くのです。そのような境地にいる人が、自分の行くべき道を知らないでしょうか。既に行くべき道が明確で、宇宙のすべての作用の力が助けるようになります。手を引っ張っていって試験場に入っていくようになれば、すぐにすべてのものが協助します。それでこそ大きなことができるのです。


私たちが自然を見て、「ああ、私には四季は必要ない。私は春だけが必要だ、夏や秋や冬は嫌いだ」と言うことができますが、神様に尋ねてみれば、「私は四季のすべてが好きだ」と答えるというのです。それゆえに、嫌いでも夏を好むことを学ばなければなりませんし、秋と冬を好むことを学ばなければなりません。雪が降る冬になれば、神様は、白い雪が世界的に積ったのを見る時に喜ばれるのです。「ああ、私も良い」と言うのです。そのように言わなければなりません。


神様のような心で自然を見ることができなければなりません。そのような心をもたなければなりません。洪水が起き、雷が鳴る時は、
「ああ、私はあれが嫌いだ」と言うなというのです。

神様は、「ハハー、あれはキスして結婚しているのだなあ」とこのように考えるというのです。そして、嫌いだという人々に「ハハハハ、こいつめ!悪いやつめ!」と言われるのです。 知恵の王であられ、全体の中心であられる神様が、真の愛や、真の理想や、真の幸福や、真の平和の起源を、主体と対象、この両者の間のどちらに置かれるでしょうか。これが問題にならざるを得ないのです。主体がいる反面、対象がいるのですが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、理想の要件をどこに置くのかということが、創造主であられる神様として問題にならざるを得ないのです。

それで、真の理想、真の愛、真の平和において、主体を中心にして対象が主体のために生きるところに理想的起源を置くべきか、対象を中心にして主体が対象のために生きるところに理想的起源を置くべきかという問題を考えられた神様が、主体の前に対象が「ため」に生きなさいと言う立場にその理想的起源を立てるならば、神様がそのようにすると同時に、すべての人も、自分がある対象をもつことができる立場に立つならば、同じようにするというのです。それでは、一つになる道がふさがってしまいます。これを知らなければなりません。


一つになることができ、平和の起源になることができるその道はどこにあるのでしょうか。神様御自身だけでなく、真の人間は、
「ため」に生きる存在だという原則を立てざるを得なかったのです。それゆえに、真の愛は「ため」に生きるところから、真の理想も「ため」に生きるところから、真の平和、真の幸福も「ため」に生きる位置で成立するのであって、「ため」に生きる位置を離れては探すことができないのです。これが、天地創造の根本だということを私たち人間は知りませんでした。

 

千三百六十九

 

男性と女性が生まれたのは、男性は男性のために生まれたのではなく、女性のために生まれたのであり、女性は女性のために生まれたのではなく、男性のために生まれたのです。生まれたのは、自分のために生まれたのではないのです。自分のために生まれたのではないのに、自分を主張します。「私」というこの思想を壊してしまわなければなりません。これさえ壊してしまえば、統一の世界は展開するのです。


自らの価値を自分から追及するよりも、相対から、すなわち相対的基準でその価値を追及できる道を探求する人は、不孝な人ではありません。いつでもどこでも、心情の基台は相対圏をもつので、孤独ではなく、幸福になることができるのです。


調和というものは、一人で展開する道理がありません。楽しいということも、一人で展開する道理がありません。幸福もまた、一人で展開する道理がありません。絶対者だとしても、一人ではできないのです。必ず、自分に対応することができる相対的な条件がなければなりません。絶対者の前には絶対的な相対者がいなければならず、絶対的な主体の前には絶対的な対象がいてこそ、幸福や、調和や、喜びや、踊りや、歌というものがあるのです。


今日の既成教徒たちは、「全知全能の神様は元から栄光の中の栄光の主体であり、幸福の中の幸福の主体であり、すべての愛と生命の主体なので、それによらないものがない」と大声を張り上げています。しかし、いくら絶対者だとしても、絶対的な対象をもたなければ、仕方なく不幸になるのです。神様も絶対的な立場に立つことができる一つの対象を探せなければ、滅びるしかないのです。いくら絶対者だとしても、絶対的な対象をもたなければ、やむを得ず不幸だというのです。したがって、神様が滅びないためには、仕方なく相対的な存在を造らなければなりません。


三) 被造世界は人間のための愛の博物館 

(1) 被造世界を造られた意味

被造世界のすべてのものは、神様が愛する息子、娘が愛の理想を探し求めていくことができるように教材として造っておいたものです。それで、相対的構造なのです。鉱物も主体と対象の関係で作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続できないというのです。運動しなければ永続と存続はできません。それゆえに、宇宙は、人間を中心としてその中心点に到達することができるように創造された世界だというのです。


神様は万物をつくられ、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造っておかれました。人間を造られる時は、神様が何かふざけて造られたのではありません。趣味で造られたのでもありません。人間を造られ、万物を代表する中心として立てるようになる時までの神様の苦労と精誠は、到底言い表すことができなかったという事実を私たちは知らなければなりません。

 

千三百七十


神様が人間を造られる時、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また心血と御自身の生命の核心をすべて注いで造られ、ありったけの愛と愛情を降り注いで造られました。どのような力を用いて離そうとしても離すことができず、分けようとしても分けることのできない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間なので、その人間を御覧になる神様には、平和が宿ることができ、すべての情と幸福は、その人間を通してこそ宿ることができるのです。


神様は人間のお父様であり、人間は神様の息子、娘です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をありったけ施して造られた人間なので、このような人間が神様を引けば、引かれざるを得ないのであり、また神様が人間を引き寄せてくだされば、引き寄せられざるを得ないのです。

神様は、このような因縁の中で、内容と目的が一致する人間に造られたのです。もしそのように造っておかれた人間を御覧になって、神様が称賛することができるあるみ言や詩があるならば、それは世の中のどのような詩人も、文人も表現できない高の作品になるはずです。その対象は、神様でもなく、万物でもない、唯一、万物を代表した人間なのです。


宇宙は何ですか。神様の体と同じです。見える体と同じです。神様の分身です。それゆえに、私が本当に愛することができるという観念が成立します。宇宙を愛するということが実感できるというのです。自身の頭もこのようになでてあげたりします。服も何かがつけばはたきます。それは、なぜそのようにするのですか。私のものだからです。私と共にあるので、そのような観念があるというのです。皆さんが今後どのようにしなければならないかといえば、心の中に神様をお迎えして、心が一つになり、体が一つになり、万物が一つになって、このような統一の世界を成し遂げなければなりません。


宇宙がどれほど大きいかというと何億光年です。光が一秒間に三十万キロメートル進むのですが、三十万キロメートルとは、地球を七周半回ることができる距離です。その距離を一秒間で走る光が一年かかって行く距離を天文学では一光年といいます。そのような光年を単位として出発した光が、何億光年になってもまだ到達できないほど大きいのです。グリニッジ天文台では、今まで百億光年向こうの世界の星まですべて発見したのですが、今ではもう百五十億光年向こうの世界の星も見ることができる時代が来て、それ以上の時代に入っていっているというのです。

 

千三百七十一

この宇宙がどれほど大きいかといえば百億、大体二百十億光年です。これは、原理的な数です。そのように大きいというのです。それがどういうことかというと、光がここから出発し、それが一日かかるのを一光日、一カ月ならが一光月、このように出発して一秒間で三億メートル、光の速度で三億メートル行きます。距離で言えば、地球を七周半回る距離です。七周半にもなる距離です。ぱっといったら、既に七周半を回るというのです。そのように早い光が一日でも腰が曲がって、考えが鈍って「私は分からない」というはずなのに、百年でもない百の何万倍にもなる一億光年です。出発してから一億光年たってもまだ進んでいるのですが、人が百歳生きるとすれば、合わせて百万人が死んでいきます。一億光年のうちにです。一億光年なので、人が生まれて百年生きて死んでいくのを続けて、百万人目が死ぬその時になっても、まだ進んでいるのです。 では、二百十億光年といえばどのくらいですか。その人々が続いて生きて死んで、また生きて、百歳まで生きて、このように二億一千万人が生きて、それほどたっても、まだ進み続けるというのです。その遠い距離は、直線で行くのではありません。これがぐるぐると回っているのです。このような宇宙だというのです。


(2) 万物世界は人間のための愛の教材

真の愛の基準から見れば、アダムとエバは、ペア・システムで造られた愛の自然園を見ながら、学び成長するようになっていました。育ってどのようにしなければならないかということは、つくっておいた万物を見れば、すべて分かるようになっていました。万物が正に神様の博物館です。アダムとエバを教育する愛の博物館です。鳥も雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛し合いながら繁殖して生きていくのを見て育つようになっています。

このように成熟して神様の愛を代表したプラス的王子が男性であり、マイナスを代表した愛の王女が女性であるということを悟るようになっていました。女性が考えるに、「あの男性が正に私に必要な男性なのだなあ!」と信じるようになり、男性もやはり女性に対して「本当に私に必要な女性だなあ!」と思うのです。


真の愛の基準から見れば、アダムとエバは、ペア・システムで造っておいた愛の自然の園を見ながら学び、成長するようになっていました。鳥も雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛し合いながら繁殖して生きていくのを見て、人間は成長するようになっています。


少年時代から育って、青少年時代に行くのです。思春期になってここから学び始めるのです。皆さんもそうです。赤ん坊の時は何も分からないので、「お母さん、これは何ですか」「お父さん、これが何ですか」、このようにして知っていかなければなりません。そして、男性は男性に対してすべて知ってみると、世上万事がペア・システムになっています。「やあ、動物世界もペアがあって、昆虫世界もペアがあって、ああすべてがそうなのだな!花の世界もそうで、鉱物世界もそうだ」。それをすべて学ぶのです。「そうだ、主体と対象になり、このようになって、このようになるのだなあ! 気がついてみると、私が行くべき道はこのように求めていかなければならないのだなあ!ああ、これではないな!」と知るようになるというのです。


アダムとエバは、成長しながら世の中を学んでいきます。二人の息子、娘が大きくなりながらじっと見てみると、世の中はペア・システムで造られた博物館です。愛の博物館です。これを見ながら学ぶのです。「やあ!彼らがあのように愛し合っている。はえも雄と雌、蝶々も雄と雌、すべてペアが戯れている。それから、愛し合って繁殖している!」、それを学んだでしょうか、学ばなかったでしょうか。


千三百七十二

天地をペア・システムで造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です。それ以上に、あなたは鳥よりももっと幸福に、昆虫よりももっと幸福に、あなたはこの世の何よ
りももっと幸福に生きなさいというのです。


この世の中のすべての被造物は、ペア・システムになっています。ペア・システムになっているこの環境は、人間のための理想的愛の博物館です。それゆえに、鉱物世界が作用するのもペアを求めてするのです。また、草木もペアを求めて運動するのです!繁殖するのです! 鳥もそうで、昆虫の中でうまおいむしもそうです。うまおいむしも歌いますね。


神様が万物世界を造られる時にペア・システムで造られたので、男性と女性を中心として、そこにすべての要素を抱いてもっています。自然は何ですか。男性と女性が愛することができるように、愛を教示するために造った博物館です。

それゆえに、男性が愛する妻を慕わしく思いながら歌うようになる時、何の歌を歌うにしても罪ではありません。堕落すれば罪になるのです。愛の問題によって家庭が破綻して天理原則がすべて壊れていったがゆえに罪なのであって、天理原則の基盤の上でお互いに愛して、「私はあなたを真に愛する。永遠に愛する。あなたは私の永遠の相対である」と言うのは罪ではありません。これをはっきりと知らなければなりません。


ペア・システムで造られたこの宇宙は、愛の神様が創造された博物館です。生きた博物館です。国立博物館にある骨董品のように死んでいる、主人のいない記念物ではありません。生きた記念物です。 真の神様がいらっしゃるのですが、その方を通して造られたすべてのものは、理想的愛の条件を備えることができるように主体と対象関係になっているのです。それゆえに、この宇宙のすべての被造物は、ペア・システムになっています。鉱石も夫婦同士になっています。夫がいて妻がいます。

それゆえに、二つがお互いに引き合うではないですか。そのような話を初めて聞いたでしょう?実験室の先生が完全に暴君となり、自分に合わない元素をいくら激しくくっつけようとしてもくっつきません。神様が「しなさい」と言われてもしません。しかし、相対が合えば、「くっつかず一つになるな」と言ってもくっついてしまうというのです。ですから、すべてがペア・システムになっているというのは、神様の愛のためだというのです。


小さな昆虫も、愛を中心としてペア・システムになっているということを知らなければなりません。鉱物世界も同じです。何のためにですか。愛ゆえにです。級が低ければ低いなりに愛を中心として繁殖し、この人間とこの宇宙が人を通して神様の理想を完成することができるように、すべての体制にギアが連動して回るようになっているのです。


千三百七十三

エデンの園に展開しているすべてがペア・システムになっているので、アダムも自然にそれを見て、「やあ!私も雄のような男性だが、私も雄のようにできているが、雌のようなものがどこにいるのか」と探すと「エバだ!」、このようにして二人が結婚式をするのです。「雄、雌があのようにすれば子を産むのだなあ」というのです。女性は、嫁に行くことは嫌でも、赤ん坊は好きな女性が多いのです。


エデンの園のすべてのものがペア・システムになっていたので、動物が繁殖して「雄と雌が楽しい環境をつくっているな」、このようにして愛というものを学んだというのです。ですから、アダムとエバも「二人が会わなければならないな」と考えるのです。昔、アダムとエバが育つ時、どれほど複雑ですか。男性はワイルドで山に登って飛び回るのに、女性は毎日座って見物して、おもちゃで遊んでいたのです。このように性格が違うのですが、このような環境から学んで自然的に相対を訪ねていくようになっています。


気がついてみると、世の中がペア・システムになっているのですが、アダムとエバも一人ではいけないというのです。動物世界のしかも牛もすべて雄と雌がいて、お互いに好んで子を産むのを見るようになります。それで、アダムとエバも動物世界の昆虫から鳥と蜂と花までもそのことをしているので、教えてあげなくても知っているというのです。


皆さん夫婦は、双子で生まれた兄と妹です。エデンの園のアダムとエバと同じです。そこでは妹一人しかいないのです。世の中に友人もいなくて一人娘です。エデンの園に女性一人しかいなくて、男性一人しかいないので、間違いなくアダムがエバの友達になってあげなければなりません。兄と妹だというのです。

それで、大きくなって万物のすべてのペア・システムがどのように繁殖して育つのかということを知り、世上万事をすべて知るようになったので、自分たちも歴史の伝統を残すためにこのように愛を行わないといけないとして夫婦になるのです。歴史のために、人類のために夫婦になるのです。


アダムとエバが生まれた時は、相対に、子女になっていましたが、兄弟の因縁の中には相対がいませんでした。相対がいないでしょう?女性は女性一人で教育を受けて女性完成しなければならず、男性は男性一人で教育を受けて男性完成をしなければなりません。その教育を受ける材料は、天地間にいくらでもあります。すべてのものがペア・システムになっているので、男性はそれを見て、「あのように大きくならなければならないのだなあ!」ということを知り、女性もそれを見て、
「あのように大きくならなければならないなあ!」と自ら知るようになるのです。愛に対するすべての教材を、すべての自然が博物館のようにそのまま見せてくれています。自然はすべてペアになっているというのです。


千三百七十四

縦的な基準には相対性が移されてこなければなりません。この縦的な基準には相対がいるのです。そして、この息子、娘が大きくならなければなりません。成熟しなければなりません。万物世界を見れば、すべてペア・システムになっています。鉱物世界も同じであり、植物世界も同じであり、動物世界も同じです。人間世界もすべて男性と女性のペア・システムになっています。自然世界というものは、級は低いのですが、ペア・システムになった愛の博物館です。それでは、愛の博物館をなぜ造りましたか。誰のために造ったのかというのです。人のために造り、神様のために造ったのです。それゆえに、神様は、万物のすべての愛の感触、鉱物世界や植物世界や動物世界の愛の感触というものをすべて感じることができるのです。


男性と女性がこの道を行くにおいて、この時までは相対がいないのです。それで、男性として女性をもらわなければなりません。すべてペア・システムで子を産んで暮らすことを見るのです。春になれば、牛もそのようにし、豚もそのようにし、犬もそのようにし、猫もそのようにし、ねずみもそのようにし、いなごもそのようにするのをすべて見るのです。「ああ、そのようになるのだなあ!一人はいけないのだなあ!」、このように目覚めることを目が開くといいます。その方向が、今までこのように四五度で、「ああ、私が必要なのはアダムだな!」と思い、「私が必要なのはエバだな!」と思うのです。そうですか、そうではありませんか。


環境には、必ず主体と対象があり、ペア・システムになっています。この宇宙は、愛を核にした博物館です。ペアの博物館になるのです。それゆえに、二羽の鳥がお互いに喜びながら一生懸命に巣を作り、子を産んで、食べさせるのを見ながら学ばなければなりません。「自分の子のためにそれ以上、何百倍しないと」、このように思わなければなりません。虫たちも雄雌二匹が愛して子を産むのです。彼らも自分の命を懸けて子を育てようとします。教育です。


アダムとエバが成熟するにしたがい、ここで横的に回ってアダムが自分の相対だと思い、エバが自分の相対と思うようになるのです。そうではないですか。女性として言うならばどうですか。アダムは、外交的に歩き回ろうとします。ハンティングもして、どこに行っても握ってつかまなければなりません。エバはどうですか。エバは、根本の性格が違います。このようにしながら大きくなり、女性として知るべきこと、男性として知るべきことを知るようになるのです。すべて世上万事全体がそのようになっています。鉱物世界も植物世界も動物世界も、すべてペア・システムになっているでしょう?それを学ぶのです。大きくなりながらじっと見てみると、何を見てもすべて相対的です。ですから、我知らず学ぶのです。


誰が愛を教えてくれるのでしょうか。自然が教えてくれるのです。園に走る動物を見ても雄と雌、蝶々を見ても雄と雌、すべてペア・システムになっているというのです。花が咲けば、美しい園には鳥がピーチクパーチクしきりに鳴いています。鳥がなぜしきりに鳴きますか。雄の鳥と雌の鳥がしきりに鳴くのは何のためですか。何を呼ぶためなのですか。鳥がしきりに鳴くのには三つの理由があります。一つは空腹で鳴くのであり、一つは愛ゆえに鳴くのであり、一つは子を呼んでいるのです。その三つの理由です。それは愛ゆえにそうなのです。


千三百七十五

標準的なアダムとエバの相対圏に立つために、自分たちもその形態として準備されなければならないので、この宇宙の創造物はペア・システムになっているというのです。ペア・システムで存在しているというのです。アダムは大きなプラスであり、万物は東西南北に広がった小さなプラスです。それゆえに、すべて相対的になっているのは人間も万物も同じです。人間と万物が、共通した絶対的主体圏を中心とした基準において平面を成すようになれば、神様が垂直に臨在されるようになるのです。


すずめがちゅんちゅん鳴いて目を覚まさせてくれることが、自分で起きるよりどれほど素晴らしいですか。どれほど詩的ですか。皆さんは、自分が歌うのが良いですか、歌を聞くのが良いですか。それは、またどれほど詩的ですか。自分がちゅんちゅん、ちゅんちゅん鳴くよりも、第三者がちゅんちゅん、自分で起きるより愛する人が目を覚まさせてくれるということです。そのように、調和の音律によって声を変えながら目を覚まさせてくれるのが理想的ではないかというのです。ですから、すずめも私の友人です。友人であるそれは、何がそのようにさせるのですか。ペア・システムから見る時、それが私の友人になるのです。男性と女性ともペアです。友人だと考える時、どれほど詩的ですか。


世の中のすべてのものがペア・システムとして繁殖するようになっているのを見る時、アダムとエバも成熟すればそのようにしなければならないことを知るのです。成熟する前は、アダムとエバはそれを知りませんでした。アダムとエバが二人で暮らしているのですが、この二人の性格を見れば、アダムは男性的で外交的です。朝起きれば飛び出していき、山に行ってうさぎを捕まえたくて、きじを捕まえたくて、しかを捕まえたくて、蛇を捕まえて割いてみたいというのです。今後、主人となり管理しようとするなら、すべて管理できる責任者になるためにはすべて知らなければならないというのです。山に何がいるのか知りたくて、動物は何がいるのか知りたくて、水にはどのような魚がいるのかすべて調べてみようとするのです。男性なので、主人になろうとすれば、何でも調べなければならないというのです。


今日、歴史を開拓した人々は男性たちです。くまなく探して、ときめくためです。男性は神様の代身なので、すべての自然万物の博物館の館長です。男性は、愛を中心として展開したペア・システムの世界、博物館の館長です。館長なので、すべてくまなく探さなければなりません。ですから、女性が嫌うのです。

「ああ、兄さん! 私を捨ててどうして。私を連れていってちょうだい。私は脚が痛くていけない!」と言って、ついていきながら、エバがどれほどアダムの心をめいらせたでしょうか。そのように、エバに黙って歩き回るので事故が生じたのです。

主人が子犬にひもを付けて連れて歩き回るように、エバをそうしなければならないのに、あまりにも泣くので投げ飛ばしたのです。その時、孤独だったので、天使が来て慰労したのです。「あのアダムは暴れん坊だ。何が楽しくて一緒に暮らしているのか。私と遊ぼう!」、このようにして問題が生じたのです。


神様が喜びを感じながら創造されました。それは、どれほど楽しかったでしょうか。ペア・システムをつくったので、細胞までもペアになって喜んでいるのを見る時、どれほど楽しかったでしょうか。写真に撮ったものだけでも、よく写っていればのぞき込んで「良い」と言うのに、写真がしゃべって踊っているのですから、どれほど良いだろうかというのです。

 

千三百七十六

 

男性と女性を神様が造られ、抱いて育てていくにおいて、僕である天使長をつくって彼らを保護して育てるようにしました。それで、彼らがすべて育って成熟すれば、神様が結婚させてあげようとしたのです。その時までは成熟しなければなりません。

そのために、生まれてから分かれて、男性は男性として育ち、女性は女性として大きくなっていくのです。大きくなって成熟した男性と女性になり、世の中をじっと見てみると、鉱物世界も動物世界も植物世界も、すべて相対理想、ペア・システムになっているというのです。「あ!動物たちも二つが一つになってあのように子を産んで幸福に生きている。やあ、お母さんは子を育てるために自分の命を捧げてでも保護する。私たちもあのようにしなければならない」、このようにすべて見て学ぶのです。それで、アダムとエバの理想的発達のための展示的博物館だというのです。


真の愛圏の深い境地に入っていくようになれば万物と通じるのです。岩にも通じるのです。真の愛の世界は、通じないものがないのです。なぜですか。ペア・システムになっているのは、神様に属することができる愛と因縁をもって、一つになるための作用をするためです。

真の愛は共鳴するようになっています。そのような真の愛圏内に入っていくようになれば、神様の内的な世界と外的な世界を感じることができるのです。それゆえに、誰が教えてくれなくても霊界を知ることができ、神様が分かって、この地で父母にどのように侍らなければならなくて、また国にいかに仕えなければならないかということなど、すべてのことを自然に知るようになるのです。愛が行く道は、いい加減に行くようにはなっていません。公式になっています。愛が行く道は一つの道しかありません。真の愛が行く道には、二つの道はないのです。人間として行く真の愛の道や天の世界、神様として訪ねてくる真の愛の道は、いつも一つの道です。天が降りてくる時は、人間が上がっていってこのようになります。

それでは、これがどこで会わなければならないのですか。ここでしか会うことができないのです。高に成人した位置がこの位置です。この位置は同じ位置です。この二人が一つになろうとするなら、どこで会わなければならないのですか。この位置で会わなければなりません。この位置しかないのです。この点で会わなければなりません。


愛の理論を話してみると、それが解けない理論がありません。知識の中の王の知識です。愛を探してみると、このすべての被造世界がペア・システムになっていることを知りました。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオンによって成っているでしょう。ペアです。それは何のための相対ですか。その級に該当する愛を中心として、愛ゆえにそのように生まれるのです。それでこそ繁殖が展開するのです。

動物世界もすべて雄と雌、人も男性と女性です。それはなぜ生まれたのですか。女性のために愛が生まれたのでもなく、男性のために生まれたのでもありません。「男性と女性が愛ゆえに生まれた!」このようにならなければなりません。その命題を否定する邪悪な者たちは、地獄の一族であり、破壊の一族です。

 

千三百七十七

 

四 進化論か創造論か

 

一) 進化論の根本的な誤り 

(1) 種の区分は厳格、第三者の介入を絶対排斥

歴史はいつからですか。進化を始めてからですか、その前からですか。進化とは何ですか。すずめとほおじろはいとこです。全く同じです。骨なども全く同じだというのです。色が少し違うだけであって、生殖器と目も全く同じです。だからといって、すずめの子とほおじろの子と、雌と雄を取り替えて、愛して子供を産みなさいといって子供を産むことができますか。千年、万年すれば子を産むでしょうか、産まないでしょうか。猿とチンパンジーとで子供を産むことができるか、千年、万年試してみなさいというのです。


すずめとほおじろとは兄弟です。どうですか。猿と人間に比較すれば一〇〇パーセント理にかなった話です。

それでは、すずめとほおじろをペアにすれば新しいものが生まれますか。全く、学者という人々が考えるには、雄と雌が愛して子を産んで発展したという論理を否定して、外形的形態の構成が同じだから進化したというのですか。皆さん、生殖器官がどれほど複雑ですか。魚は雌と雄がくっつきません。陸地に出てきて変わるのです。


この太陽系の地球が何億年になったでしょうか。何億年も回っているのに寸分の違いがありますか。毎日そのようにぴたっ、ぴたっと合います。同じです。また、アメリカのすずめと韓国のすずめと巣を作るのが同じですか、違いますか。答えてみてください。同じですか、違いますか。同じです。これは進化論的に見るならば、すずめが巣を作るのも発展しなければならないのではないですか。学んでいないのに、どのように何千年、何万年そのようにするのかというのです。それはどのようにして知るのですか。つばめはつばめで違い、すずめはすずめなりに、うぐいすはぴたっと枝にぶら下げます。それもみな知らないでしょう?鳥の世界を知っていますか
皆さん。


オランウータンの雄と愚かな女性を捕まえて結婚させて、万年祈祷をして精誠を尽したからといって人の子が生まれるでしょうか。赤ん坊が繁殖すると思いますか。答えてみてください。猿の子孫、共産党の者たち!オランウータンを人間の女性と結婚させて、共産党世界が祈祷して、あらゆる力を加えたからといって子が生まれると思いますか、生まれないと思いますか。分からないなら共産主義を主張するなというのです。進化論を主張するなというのです。明確にして暮らさなければなりません。


千三百七十八

アメーバから猿まで行こうとするなら、数千種の愛の門を通じて上がっていかなければなりません。進化論は、数多くの種の愛の門を通過して上がっていかなければならないことを省きました。そのように行くことができますか。種を通じなくても思いのままに上がっていくことができますか。鳥が昆虫と通じることができますか。鳥が動物世界に通じないで上がっていくことができますか。愛の門、愛の関係を通して大きくならなければならないという事実はすべて抜いてしまって、骨が同じだからといってそのようなことをいうとは話にもなりません。産むほど、より良いものが出てくることができますか。より悪いものが出てこなければなりません。ここで問題になるのが何かというと、彼らが愛の関係を知らなかったということです。


種の区分は厳格だというのです。アメーバから猿まで数千種がいるのです。進化論は、数千種の段階をすべて無視して、そのままこれを通ろうとするなら、すべてその種の雄、雌の門を通じて何千回も産んで子が出てくるのに、一度にすっと出てきたと考えるので、「これは間違っている」と言うのです。愛の門を通過しなければならない、ということを否定したのです。数千種の愛の門を、アメーバがどのようにすべて通過して人になることができるのかというのです。骨が同じだから同じなのですか。同じような骨はいくらでもあります。狂った話はやめなさいというのです。


今日、この進化論を考えてみる時、種の起源を話せば、一つの種が生まれるにはそのまま生まれるのではありません。必ず雄と雌がいなければなりません。これは、鉱物世界も同じです。プラスイオンとマイナスイオンが一つになって、一つの物質を造成するようになっているのです。必す雄と雌の陽陰になっているのです。


再創造は、環境の創造、主体と対象の創造、その次には対応的な発展、このようになるのです。進化論もこのように発展しなければなりません。ただ発展するのではないのです。主体と対象が一つになり、より大きなものに吸収され、必ず愛の門を通らなければならないというのです。このような原則によれば、愛のないアメーバからこの人間世界までは数千段階を経て行かなければならないのに、そのような愛の門をただ越えていくことはできない、このように思うのです。


今日、進化論がいうには、アメーバが発展して、進化して人になったといいます。ここで考えなければならないこととは何ですか。雄雌が人間にまで到達するためには、数千段階の愛の道を通らなければならないということです。それを知らずにいます。種別の限界は厳格です。ところが、それがそのまま進んでいって進化するのですか。


皆さんの中で、愛する妻の前に他の男性が来て介入することを喜ぶ人がいますか。動物もそうであり、植物も同じです。いないというのが普通ですか、絶対的ですか。絶対的だというそこには、他のものが入ってくる場所がありません。種においては、そのレベルが完全に違うというのです。ところが、アメーバは雌と雄の愛の門を通じて出てきたのですが、どのように違う種類を連結させて出てくることができたのですか。そのまま上がっていったのですか。必ず愛の門を通らなければなりません。それを無視して進化ですか。西洋の人たちは猿のような姿なので、進化論を主張したのです。そうなのです!頭の色もそうで、毛もすべて狼のように褐色ではないですか。


愛は絶対的です。二人だけです。第三者の介入を願いません。このように思う時に、アメーバから人にまでなるとすれば、何千段階の愛の過程を通して連結するのです。存続す

 

千三百七十九

 

るのです。愛がなければすべて壊れるでしょう。一年しか生きることができません。そのようなものですが、愛というその部分を通して、これが、連続的な系列的存在が残されるのです。その愛の門に第三者が介入して、まだらなアメーバを願いますか。猿と人と結婚式をして、千年くらい生きれば子供が生まれるでしょうか。生まれないでしょうか。千年ではなく万年たってもできません。話にもならないたわ言はやめなさいというのです。


昆虫の世界もそうです。このようなことが原則ならば、進化論は成立しません。相対圏、対象の路程を通したアメーバから猿まで、何千、何万回の愛の門を通じた雄雌の関係を無視すれば、連結されないというのです。すずめもそうです。冬のような時は、相対のようなのが分からないので、いたずらをしてそれぞれ他のプラスになっていますが、春になって巣を作り、相対圈をつくった時には絶対的です。第三者であるすずめに対しては、雄と雌が共に絶対的に排斥するのです。雌が来れば雄が排斥し、雄が来れば雌が排斥します。なぜですか。自分の相対圏を壊し、宇宙法圏の侵略者になるために、それを排斥するようになっているのです。


植物の花を見れば、自分の種があるのに違ったものを中心として他の種子には変わりません。変わらないのです。それを見れば種の区別が厳格だというのです。それゆえに、アメーバから猿に進化したという進化論の論理は、形成することができないというのです。種の区別が厳格なのに、どのようにして数千種類の種の協助を受ける体制において連結させて発展したかというのです。進化論では愛の力を認めません。その愛の力を通して繁殖が可能なのです。愛の力がなければ、どのようなものも繁殖は不可能だというのです。どのように、アメーバから猿まで愛の力が正常に通じることができますか。そのようなことは、いかなる場合でもあり得ないのです。


アメーバから猿まで進化したとするなら、アメーバから猿までそのまま行くことができますか。数多くの異なる種を越えていくためには、どのようにしなければならないのでしょうか。愛の峠を通らなければ越えていく道がありません。新しい大きな種が出てくることはできないのです。数千、数万の雄と雌の愛の過程を通してこそ越えていくことができるのです。種の世界において、原則的なプラス・マイナスの概念が愛を中心として第三者の侵犯を容認しないなら、アメーバの世界からより高い一段階に越えていくことはできないのです。


進化は別種が出てくることだといいますが、愛の関係を中心としないでは他のものが出て
くる道理がないのです。種の区別は厳格です。


千三百八十

進化論は、一度に壊してしまわなければなりません。自分勝手に理論をくっつけて進化論を議論したのです。人が猿の子供ですか。この者たち!人間は、千年、万年天に侍るようになっています。猿なら何の猿ですか。猿と人は四十七の種類が進うのです。質的変化は起こり得ないのです。種の変化はあり得ません。だからといって、今日でも猿と人が暮らして人が生まれますか。猿が生まれますか。生まれません。種の起源というものは絶対的です。 宇宙は、なぜペア・システムになっているのでしょうか。自然にできた、あるいは進化論でもいいです。進化論の前に散在している事実は何ですか。男性と女性の生殖器、繁殖器官があります。そこに進化があるのですか。進化があるなら、男性と女性の愛する方法が変わらなければなりません。昔の人と今日の人とでは、それが発展していなければならないというのです。昆虫世界においても、虫が愛する方法が昔と今日とでは変わらなければなりません。鳥もすべて変わらなければならないというのです。そのような内容を中心として論ずることができるのです。生命の起源である愛の器官を中心として、その本拠地が進化的内容によって発展するようになっているのですか。狂っているというのです。


愛の世界の種別区分の厳格さは、天宙のいかなるものも犯すことができないのです。春になってすずめの雄と雌がカップルとなり、これから卵を産もうと巣を作り始める時には、第三者としてどのような鳥の種類も、どのような獣の種類も絶対に介入を許諾しないのです。皆さんの中で、結婚初夜に自分がも愛する友人をそこに参加させたいと考える男性と女性がいますか。進化論は真理ではないというのです。嫁に行く女性が、母親以上にこの世で近い人がいないので、「死んでもお母さん、生きてもお母さん!どんなことがあってもお母さんと一緒に暮らしたい」と考えますが、それでもそのようにはならないというのです。そのような女性でも、夫を迎える初夜には、「お母さん、今夜お願いだから一緒にいてください」とは言わないのです。そのような女性がいますか。第三者の介入は絶対に必要ありません。それが本来、人間が迎えなければならない愛の伝統的で公式的な基準だったのです。


皆さん!生殖器官がどれほど複雑ですか。そのような構造的発達形態…。それを言えば、すずめとほおじろとせきれいは、その形がぴたっと同じです。では、すずめとせきれいとくっつければ何が生まれますか。それは可能ですか。この者たち、すべて訳が分からないのに言っているのでしょう。私が問い詰めれば、いくらも語らないうちに返事もできなくて、うんうんうめくのです。この者たち!雌、雄! アメーバからこのように生まれたとするならば、どのようにしてこのような雌と雄、凸凹が生じたのですか。なぜそれを通って授け受けして初めて子供が繁殖するようになっているのですか。それは誰が設定しましたか。進化論者がそのようなことを設定しましたか。

内的な力、生命の起源とは、偉大な宇宙観でも包括できない生命の連合基盤を通して生成が展開するという内容を知らずにいます。猿と人とは四十七箇所が違うそうですね。この二つが結婚すれば子供を産めますか、産めませんか。昔、学生の時に共産党の者たちに尋ねてみると、全員答えることができなかったのです!このようなことは、きょうも数百種類の話をすることができますが、時間がありません。そのようなでたらめではいけないというのです。


千三百八十一

進化が構造的形態の同位性によってできるのですか。違います。なぜですか。アメーバのような場合においても、より高い次元のものになるためには、雄と雌の愛の道を通じることなくしては不可能だということを知らなければなりません。ほおじろとすずめは、姿が同じです。しかし、それらが進化することができますか。足も同じで、くちばしも同じです。姿が同じです。見ても区分することができません。だからといって、ほおじろの雌とすずめの雄をペアにすれば発展しますか。白人男性とオランウータンの雌を結婚させれば何が出てきますか。子供が出てきますか、出てきませんか。進化論者、答えてみなさいというのです!生殖器を通らないでは発展するものがないということを知らなければなりません。今晩、帰ってから研究してみてください。生殖器がどれほど複雑か知っていますか。すべての構成に必要な神経要素が、すべて集中しています。


今日の世の中の人たちは、人間が進化、発展したと信じていますが、アメーバに対する例だけ挙げても、それらも雄一つだけで発展し始めたのではなく、雄と雌が共に作用して初めて、より発展したものが出てくるのです。この進化論が大きな問題です。低級なものからより高い級に発展するためには、雄と雌の愛の過程を通らなければならないというのです。多くの愛の過程を通って出てこなければならないというのです。そうでなくては発展があり得ません。皆さん、すずめとほおじろとは似ています。毛色が若干違うだけであって、彼らの骨をおいて見れば完全に同じです。だからといって、すずめとほおじろとペアをつくっておけば子供が出てきますか。進化論者、答えてみてください。一度してみなさいというのです。出てきません。また西洋の人々を見れば、比較的毛がたくさんはえているのですが、だからといってゴリラの雌と西洋の男性とを結婚させておけば人が生まれますか。とんでもない話です!


種の区別は厳格なのです。したがって、進化論者たちの話のように、猿が人間の先祖ではありません。アメーバから人まで出てくるには、そのまま出てくるのではありません。数万種類の愛の過程を通します。愛の法度は動物世界でも同じです。第三者が介入することを絶対容認しないのです。ところが、どのように段階的に進化することができるのかというのです。力の作用においては、入力より出力が小さいのです。作用すればマイナスになるのに、どのように大きいものが出てくることができますか。そうではありませんか。だからといって、大きくなることができる第三の力に自分が加入することができる能力をもった存在でもないのです。


アメーバのそばに他の者が来て、見つめるのを喜ぶでしょうか。それゆえに、連結性をもつことができないという論理を否定できません。進化という意味を話す前に、雄と雌の生殖器を除去する時には、進化論が根本的に壊れていくのです。進化する前に雄と雌がいたので、進化することができる相対的要因の運動が展開したのです。


千三百八十二

雄と雌の愛の器官が進化して、そのように合うようになっているのですか。この進化論が問題です。それが連結してアメーバのペアと、それから中間のペアと接触できる道ができていますか。横的にだけでなく、すべてに、どこでも接することができるかというのです。とんでもない話です。雌雄の世界は、既に愛という概念を中心として生じたので、進化とは関係ない次元なのです。


愛の世界では、自分の相対以外には第三存在を絶対容認しないのが天理原則です。すずめも虫も、すべてそうです。それでは、進化論を中心として見る時、アメーバから人まで行こうとするなら、その愛の系列が何千段階ですか。昆虫だけでも数千種ではないですか。
植物から動物までも数千種です。

ところが、その数千種がアメーバからそのままさっと人になったと考えているというのです。とんでもないことです!数千段階を経なければなりません。種の区別は厳格です。アメーバから進化して人になったというのですか。でたらめな者たち!


すべての存在物は、すべてペア・システムになっています。進化論者に、「雄がなぜ生まれましたか」と尋ねれば、何というのですか。「自然に生まれたのでしょう」と言うのですが、それは狂った者たちです。自然に生まれたのですか。すべての雄、雌は、自分の系列を存続させるために生まれたのです。他の系列ではありません。猿が人になって、蛇がかえるになるのではありません。それは正しいですか、正しくありませんか。雄と雌が愛の門を通るという事実を知らずにいる、全く無知な人々がその人たちです。では、あなた方は雄と雌を知っているでしょう。それがそのまま生まれたのですか。


環境には必ず主体と対象がありますが、一つになって対応的な主体・対象関係をもたなければなりません。環境の主体・対象から対応的な主体・対象関係に発展していくのです。ですから、一人では生きることができません。それゆえに、心と体は主体・対象関係です。主体が対象を見分けられなければ因縁がないのです。元素世界において、これが相対的に合わなければ、いくら実験室でくっつけようとしてもできません。ペアであれば、きちっとくっつきます。置いておくだけでもくっつきます。


種の区別は厳格です。かえるに似た鳥がかえるの世界に行って、「あなた、私とペアになろう」と言う時、「そうしよう」と言うのですか。逃げますか、闘いますか。あり得ないのです。進化論は、アメーバから猿まで行くときに何を否定したのかといえば、愛の門を経ることなくしては新しいものが生まれることができないという事実を否定しています。数千代の愛の門をすべてアメーバが経てきたというのです。そのようなことができますか。気が抜けるにしてもほどがあります。それゆえに、文総裁の前に共産主義が壊れていくのです。事由が先か、存在が先か、このような問題も気になることは気になるというのです。精神が先ですか、物質が先ですか。皆さんは学校で進化論を学んだでしょう?それは間違いでした。進化論は間違っているというのです。今から私が革命をするのです。


千三百八十三

再創造の環境では、プラス・マイナスの対応世界で発展する過程があって、雄と雌の概念が進化論よりも先だということを知ることができたでしょう?愛の種の区別は厳格で、第三者が介入できないのです。進化論によれば、アメーバから猿まで行こうとすれば数千段階を一度に跳躍しなければならないのですが、そのようにすることができる道理はありません。千万種類の愛の門を通過してこそ、発展的なその種を連結させることができるのに、一度に跳躍して猿が出てくることができるというのですか。絶対不可能です。これだけ知っておいてください。


もし進化論を認めるならば、アメーバから人まで何千段階を越えていかなければなりません。段階が同じだといって、そのまま通過できません。ここは、何千種類の愛の門を通じて連結しているというのです。愛には、第三者の侵入を許す法がありますか。ありません。嫁に行った初夜に「お母さん、頼むからここで一緒に寝ましょう!」と言う新婦を見ましたか。夫もそうです。「お父さんがいなければ嫌だ!」と言っていた男性でも、初夜に「お父さん、ここで一緒に寝ましょう!」と言う男性はいないというのです。愛は第三者の介入を願いません。動物界でも同じであり、昆虫世界も同じです。このように思う時、猿は猿を産むのであって、猿のような種類から人間のようなものが出てくる道理はありません。


化学実験室で元素を研究する教授が、「やあ!こいつ、この元素とあの元素と一つになりなさい」といくら命令してもできません。自分の相対圈が成されなければ絶対に一つにならないというのです。作用しません。自分が相対の主体になってこそ一つになるというのです。このようなことが原則なのに、無責任に進化論をこの宇宙形成に当てはめたのですが、それはでたらめです。ここで私たちは、
「すべての存在に内的作用の力を起こすことができる本然の宇宙力がある」ということを認めていくべきだというのです。 猿と人は種子が違います。猿が文化的な生活をしますか。人は、生命が始まった時から宗教が付いて回りました。しかし、猿が「文化をもって世界を統一しよう」と言いますか。他の国を占領して自分の国にしたり、国境線をつくって「お前の国だ、私の国だ」と言いますか。そうですか、そうではありませんか。人とは種類が違うというのです。猿が神様を賛美しますか。猿は、ただ食べることを喜び、食べて繁殖すればそれで終わりです。人と狼では全く違います。進化論を主張する学博士という人々は、猿が人として進化したと意地を張って詐欺を働いているのです。統一教会では、彼らの主張が誤っていたことを明らかにして正さなければなりません。


(2) 力の作用法則と進化論の虚構

今日、進化論を適用しているのですが、アメーバならアメーバが繁殖していくにおいて、アメーバよりも大きなものが生まれるためには、現在のものよりも大きくなるためには、他の力が加えられなければならないというのです。力がプラスされなければならないというのです。アメーバ自体が、自分で力をプラスさせながら発展することができますか。自分自体がそのような力を加入させることができるのかというのです。そのような能力があるのかというのです。

 

千三百八十四

もう少し上がっていって、より大きなものになることができるならば、ここにもっと大きな力をプラスしなければなりません。それでは、自分自体で力を創造してプラスさせることができる能力はないのに、どこからどのように来るのですか。そのような論理が成立しますか。ミスター金ならばミスター金、ミスター朴ならばミスター朴がいる時、「私は、モハメド・アリのようなものは問題なく握って片づける」、そのようなことができますか。そのようにしようとすれば、ここにより大きな力が加えられるか何かすべきで、そうでなければいくらやっても限界線を越えることはあり得ないのです。ミスター朴が「突然変異によって私の力が大きくなればアリをたたきのめすことができる」と言ってそのようになることができるでしょうか。そのようなことができますか。


力の公式的な原則を見れば、人間において入ってくる力と出ていく力とを同じにすることができますか。力が入ってきてこのように作用したのに、作用しようとして入ってくる力と作用したあとの力とが同じになることができますか。ここには消耗が生じます。そうではないですか。運動をすれば消耗が生じるでしょう?ですから、入ってくる力と同じにはなり得ないのです。作用したあとには、常に力が小さくなるものです。進化論者たちは、作用したあとに力がもっと大きくなるというのです。そのような公式はありません。そのようになれば、この世はひっくり返ります。それゆえに、第二の力が必要です。


進化論者たちは、アメーバが順次進化して高等動物である猿になり、その猿が進化して人になったといいます。ところが、皆さん考えてみてください。人が人以上の力を発揮しようとするなら、その力をどこからか補充されなければなりません。力の原則がそうです。力が作用するようになれば必ず消耗します。ここに力を補充してあげてこそ、再び作用するようになるのです。 主体と対象が作用して現在よりも劣るようになれば作用しないのであり、より良くなり得るお互いの目的を発見すれば作用するのが原則になっているというのです。この問題を中心として進化論を見れば、進化するところにおいても、より良くなり得る目的的なその何かをもつことができないときには発展できないということを考えることができます。発展するためには、横的により強い力が加重されなければなりません。そうでなくては発展できません。その力は、作用することができる目的と対象がなくては絶対にできないのです。


進化論の矛盾は何ですか。アメーバが進化、発展するためには力が必要です。どんどんと大きくなっていくためには第三の力が必要です。「私は上の段階、高い段階の物に生まれる!」とするなら、ある何かをそこにプラスしなければなりません。力が加えられなければ大きくなることはできないのです。第三の力が必要だというのです。アメーバがより大きくなっていくことができる力を創造していきながら育つことができるのか、生きていくことができるのかというのです。そのようなことはあり得ません。


千三百八十五

進化論では、どのように発展するというのですか。進化論は、入力と出力の法則と反対です。世の中にこのような原則がどこにありますか。進化論は絶対に大きくなることでしょう?進化とは小さくなるということですか。進化論では、アメーバが自然発生してどんどん大きくなって上がっていき、猿に進化発展して人に進化発展したといいます。進化論によれば、それが大きくなるのですか、小さくなるのですか。しかし、力の原則においては、入力と出力が同じ時、絶対に大きくなることはできません。小さくなるのです。力の消耗が起きるというのです。


力学の世界では、入力・出力圏を中心として作動すれば、必ずロス(損失)が生じることになっています。落ちていくようになっています。ところが、進んでいくことができるという論理がどこから出てくるのかというのです。「進化」ということ自体が、進んでいきながら変わるということ自体がプラスするという言葉ですが、それがどこでプラスされたのかというのです。投入した入力よりも出力が大きくならなければならないという論理をどこから探し出すのですか。作用すればロスが生じるので、入力は出力より大きいのです。このような立揚では、進化という論理は形成されないのです。

三点加入をそれ自体が投入できず、それから運動する世界では、入力よりも大きい出力を自分自体で発生することはできないのです。このようになれば、無限の動力が出てくるのです。その次の問題とは何でしょうか。今日、進化論を考える人々が、性関係を、プラスとマイナス、男性と女性、雄しべと雌しべ、プラスイオンとマイナスイオンが一つになり、その運動を通して出てきたということを忘れてしまいました。アメーバから人まで来ようとするならば、何千段階の愛の門を通らなければなりません。ところが、これがただ自然になったと考えています。突然変異が起きてそのようになったと考えますか。でたらめな者たち!すべての種の原則は厳格なのです。

第三者の介入を許す存在はありません。 進化論を主張しようとするなら、進化できるようにする力をどこからか補充することができなければなりません。そうでなければ、核の変革形態を自分自体に成し遂げて連合できる自制力がないというのです。それゆえに、進化は不可能だという結論です。


主体と対象があれば、必す目的があって方向性があります。ところが、進化にどうして方向性と目的があり得るのかというのです。進化論では、このような理論を適用できないのです。それゆえに、この目的観、方向性によって共産主義を壊してしまわなければなりません。このでたらめな理論をもって世界を蹂躙してしまおうとしたのです。アメーバが作用すれば、入ってくる力よりも作用が小さいはずですが、どのようにして大きくなるのかというのです。どのようにして大きいものが出てくるのですか。アメーバにおいて、入力より出力が小さいので、大きいものが出てくることができるようにするためには、第三の力が投入されなければなりません。そうでなくては進化論の根拠が壊れていくのです。アメーバ自身が第三の力を投入できる能力がありますか。このでたらめな者たち!


千三百八十六

進化論を語る時、進化するアメーバ自体が進化の出発である三点をつくり出せるでしょうか。作用しようとするなら、運動しようとするなら、三点で回っていきながら、回転することができる四点基準を経ていかなければなりません。三点から四点を経なければなりません。円形で授け受けして運動しようとするなら、三点から四点を経なければなりません。ところが、アメーバ自体が再び自己の位置に戻ってくることができ、三六〇度に循環させることができる力をもつことができるのですか。もてません。

それでは、三点の力は誰が加えたのでしょうか。それは、理論的に、他の違う力が含まれなければならない、という事実を知らなければなりません。ですから、進化する時、進化の方向がどのようになるのですか。その方向性を誰が決定するのかというのです。進化するアメーバ自体は、方向性を備えることはできません。それを思うとき、突然変異というものは気違いのたわ言です。それを誰が受け入れますか。近では、進化論というものは、既にごみ箱に入ってすべて腐ってしまったというのです。何というのでしょうか、肥料の山のように考えているのです。


今日では、物理学が発達し、すべての原子にも意識があるという二元論を主張しています。この論理は、統一教会の二性性相原理のみ言と同じです。次元は違っても、すべての万物が聞き分けるというのです。そうではないですか。それでこそ細菌のようなものも生きるのです。そうではないですか。細菌のように見えもしない、何千万分の一にしかならない大きさで生きている細菌に耳がありますか、ありませんか。目がありますか、ありませんか。鼻がありますか、ありませんか。口がありますか、ありませんか。そこに生殖器がありますか、ありませんか。すべて備えているというのです。


神様もこの世界を創造される時、三点から始めました。このように思う時、進化論というもの、「進化」という言葉を私たちが認めることはできません。アメーバが作用するならば、作用するところにおいて三点基準を自分自ら選ぶことはできないのです。その三点基準は、もう一つ別の力によって形成されるのです。このようにして運動すればするほど、そこには必ず円形を経て運動したその点数を加えて球形運動を経ていくのです。


進化論を信じる絶滅分子たち、ここに進化論を信じる者たちがいますか。教授という安物がそのようなものをよく信じるでしょう?それがなぜそうなのでしょうか。ペアにならないものを、いくら力を通してやっても、神様だとしても、和合作用もしないのはもちろん、一つにもなりません!なぜですか。これが宇宙の法です! なぜですか。愛の理想を中心としてつくられ、相対性を分け与えたために、宇宙はペア・システムになっています。アメーバから人になりますか。

直線上では調和がありません。このようなことを理論的に話そうとすれば、時間がたくさんかかります。直線世界でどのようにして三点をつくり出すのですか。三点、四点、四角形をどのようにつくるのかという問題、ここから調和が成されます。円形はどこから出てくるのですか。直線からは出てきません!アメーバが三点自体を策定して、それを形成することのできる自力がありますか。ありません!運動すれば直線でするのです。


千三百八十七

アメーバを中心として、数千階段が愛の法ですべて積まれているのに、それがどのように愛の門、男性と女性の愛の門をすべて越えていくことができますか。できません。進化論の問題とは何かといえば、第三はどこから来たのかということです。愛の峠を越えてのみ種の繁殖が可能なのに、その門を通っていったのか、そのまま越えていって猿になったのかというのです。その次には、進化論というものが、雌と雄、このすべての鉱物において、元素世界においてもプラス・マイナスがあるのですが、プラス・マイナスの相対的概念より先にあったのかという時、それはあとだったというのが事実です。それでは、この宇宙の主体・対象関係を認めざるを得ないというのです。これは、自分の正道以上に越えていくことができないということです。


直線上には調和が成されません。直線は何かというと、二点を連結したものです。創造されるためには、三点四点、スペースが必要です。この三点を誰がつくっておいたのですか。直線自体が知ることができるのかというのです。答えてみてください。上の三点に下の三点を誰がもってきて置いたのかというのです。それとともに、宇宙のすべての発展をするのです。その話は、運動というものは主体と対象がなければならないということです。それゆえに、主体・対象がなくてはなりません。また、それからもう一つは何ですか。力学の世界では入力が出力より大きいのです。それでは、アメーバが運動するところにおいて出力が大きいという論理がどこにありますか。上がっていくのではなく、落ちていかなければなりません。そのような意味で、進化論はすべて整理しなければなりません。


直線上には調和がありません。三点からすべての球形世界の調和基準が展開するのです。進化論には、三点を提示することのできる能力がありません。それゆえに、創造を無視することはできない伝統的な内容があることを知らなければなりません。直線上の点にはそのようなものはないのです。 宇宙の創造から見るとき、直線世界でどのようにして三点の基準を立てるようになったのかと考えてみるならば、進化論の観点で宇宙が始まったという結論を下すことはできないということを知ることができます。三点を中心として始まったというのです。三つの点があるというのは、必ず相対を中心として見るとき、それを連結させてあげる核があるということを意味するのです。


進化論は、既に過ぎた廃論です。方向性がありません。このようなことを中心として見るとき、方向性が設定されたということは、プラスとマイナスの二つに、相対圏にすべて共同的な利益をもたらすことのできる道が決定したのです。中道であると同時に正道の道を行くのです。二つとも喜ぶことができる道を行くのです。進化論者たちは、入力と出力の関係に対する論拠に解答できませんでした。しかも、方向性を提示できませんでした。第三の力を加えて、より大きいものを引き込むことができる内容的力を、アメーバ自体が介在させる自主力をもったのかというとき、もっていないのです。話もするなというのです。

その方向性は愛の方向性です。


千三百八十八

進化論を結論づけて越えていこうとするなら、進化することができるためには、アメーバが大きくなれる第三の力を自分で創造しますか、補給されますか。アメーバが進化して大きくなるためには、現在の状態から大きくなろうとすれば第三の力が加えられなければなりませんが、自分が創造しながら大きくなりますか、他人の力を受けて大きくなりますか。創造することができなければ、力を受けたという論理を否定することはできません。また、そして、無条件に骨が同じだからといって進化するのですか。そのような狂った者たちは、いてはいけないというのです。精神病者です。

アメーバから猿まで行くときには、数千種の階級があるということを知らなければなりません。種の区別があるということです。それは何かというと、すべての種は、男性と女性、雄と雌の愛の門を通じてのみ出てくるようになっているというのです。ところが、数千種の愛の門を通過するということを忘れてしまって、骨が同じだ、似ているといって進化したということができますか。その数千の門の、階級の愛の峠をすべて越えていって発展したのかという話です。


生まれる時に、目を閉じて生まれますか、目を開いて生まれますか。では、私がいつ目を開けると思って開けましたか、自然に開けましたか。また、お母さんのおっぱいを飲むという教育を受けましたか、受けませんでしたか。ところが、どのようにしてそのようになりましたか。そこには見えない磁石のひもがあります。作用するすべてのものに、原則的な道があるというのです。このように思うとき、すべての作用というものは、偶然に展開するのではないということを私たちはここで知らなければなりません。今日、進化論者たちは、「宇宙が発展した、自然発生だ」とこのように言うのです。ところが、どのように自然発生するのかというのです。どのようにしてそのまま自然発生することができるのかというのです。原因もなく、動機もなく、過程もなく、結果もなく発生することができるのかというのです。

動機が初であり、原因が 初であり、その次が方向です。それでは、なぜ方向が出てきたのかというのです。存在それ自体が、「私はこのように行くべきだ」ということを意識していきますか。目はなぜ開かれるのですか。目を開ければ、開けるや否や中を見つめますか、外を見通しますか。なぜそのように見なければならないのかというのです。そのような方向性がどこから出てくるのですか。どのようにしてそのようになるのかというのです。存在するものは、方向に従っていくために存在するということを私たちは知ることができます。


私たちは、目一つにしても答えることができないのです。今日の弁証法や進化論をもってこのことを話すことはできないというのです。皆さんは、今後共産主義者と闘わなければなりません。今から進化論と弁証法を壊さなければなりません。進化論さえ壊してしまえば弁証法は壊れるというのです。今の闘いは何ですか。意識が先か、物質が先かという問題です。共産世界は「物質が第一である、物質が初である」と言い、民主世界では

「意識が先だ」と言います。目がどのように生まれたのかという時、目がただ生まれたいと思って生まれた、と考える者は狂った者です。鼻はじっとしているのに、なぜ目は動くのですか。「なぜ目が動くのですか」と言う時に、「動きたいから動く」と言うのが進化論式であり、弁証法式です。

目の目的は見ることです。見ることに目的があるので動くのです。目的を達成するために動くのです。鼻はほこりがくっついてもじっとしているのに、目はなぜこのように絶えずぱちぱち瞬きするのかというのです。なぜ

 

千三百八十九

 

ですか。なぜそうなのかというと、水分が蒸発して乾くので、水蒸気をまいてあげるためにそのようにするのです。まゆ毛はなぜ生えているのですか。ほこりを防ぐために生えています。「なぜそのようになっているのか」と言う時、「そのようになってみたいと思うからそのようになるのだ」と言うのが進化論式であり、弁証法式なのです。それは、そのように簡単ではありません。それが「ただそのようになった」と言う者がいれば、「この者たち、狂った者め!たわ言を言うな!」と、このように言うのです。


(3) 愛の論理から見るとき、進化論は間違っている

進化論を解決しなければなりません。進化論が問題です。進化論のコンセプトと実在は、共産主義が問題とするのです。見えないものが貴いのです。神様が見えますか。良心が見えますか。愛が見えますか。人間にも貴いのはこの三つです。見えない三つの貴重なものが神様、良心、愛です。良心があることはみな知っているでしょう? 「良心はない」と言う人がいますか。「愛はない」と言う人がいますか。しかし、目には見えません。見えないのでどのようにするのですか。どこにでも入っていくことができて、どこにも一つになることができるのです。見えたら入っていくことができますか。見えないので細胞の中にも入っていくことができるのです。通じない所がないということです。それは論理の根源を探すことができます。愛だけは誰も制止できないのです。真の愛は、宇宙が制止できず、妨げることができないのです。 進化論が先ですか、雄雌の概念が先ですか。どちらが先ですか。実在が先ですか、愛に対するコンセプトが先ですか。これは深刻な問題です。共産党を押し倒すためには、進化論を克服することができる論理をはっきりと知らなければなりません。アメーバが現象世界以前にいたでしょうか、その以後にいたでしょうか。アメーバから人間までの発展の連結体制を成すにおいては、どのようになっているのですか。愛によって実体が発展するという概念は無視して、そのまま進化によってアメーバから人になったという、そのようなばかな論理が世の中のどこにありますか。


中世時代から今まで、歴史を経てきたキリスト教文化圏がも混乱したものとは何かというと、人本主義思想です。人本主義思想を中心として出てきたチャールズ・ダーウィンの進化論が、キリスト教を滅ぼすことにおいて、首を締めてつるし上げるのに主導的な役割をしたのです。「神様はいない」と言ったのです。環境圏内において、主体と対象になるのが雄と雌の相対概念です。雄と雌、人でいえば男性と女性のコンセプトですが、このコンセプトが先でしょうか、進化論が先でしょうか。環境には主体と対象があるのですが、そこには進化がありません。環境の中には必ず主体と対象があります。鉱物世界でも電子が陽子を中心として回っているのです。分子なら、プラスイオンとマイナスイオンが一つになって運動しているのですが、それらが進化論よりも先にあったでしょうか、あとにあったでしょうか。先です。先にあったというのです。

 

千三百九十

 

進化論が先ですか、宇宙の雄、雌の概念が先ですか。主体と対象が先ですか。鉱物世界にもプラスイオンとマイナスイオンがあり、主体と対象によってすべてペア・システムになっているでしょう?植物世界もそうでしょう? 雌しべと雄しべがあり、主体と対象の相対的関係です。動物世界はどうですか。雄と雌になっています。宇宙の天理です。不変の天理です。これを人間の力、ある自為的な力をもって種別に対する雄、雌を変更させることができるものは、この地上に永遠に誰もいません。いれば大変なことになるのです。

進化論を片づけてしまいなさいというのです。進化論がある前に、そのような雄、雌の思想があったということを知らなければなりません。宇宙の神秘な秘密の中に隠された秘密、そのような秘密であり、今まで人間が知らずにいたのが雄、雌の概念であり、この概念が宇宙を形成したという、主体・対象関係で宇宙を形成したということを知らなければなりません。進化論が先ですか、雄、雌の概念が先ですか。雄、雌の概念です。イエス様がこの地に来て雄、雌の概念を革命しようと言いましたか、言いませんでしたか。


進化論を中心として見るとき、どのように進化したのですか。自分だけがいて、アメーバだけで進化したというのはでたらめです。あなたがなければ発展がないというのですか。自分だけがいれば発展するのですか。あなたと私とで喜ぶことができるその内容を中心として発展するのです。発展は、あなたと私の間の相関関係において、理想的な授受をすることによってより次元の高い発展が展開されるのです。 進化論では、アメーバから人まで発展したと見ます。発展がどれほど複雑ですか。一段階より高い生物がそのまま環境に適応して発展してくるのではありません。一段階高い存在の位置に上がっていくためには、必ず雄と雌、プラスとマイナスの愛の過程を通してこそ成されるのです。ところが、進化論では、このような問題を無視しているというのです。雄から雄に行って再び雌に行き、また雌に行って、このように生きることができるのかというのです。その方向性を見れば、必ず愛の門を通じて次元の高い存在になるのです。ところが、進化論者たちはそれを知らずにいるというのです。進化するためには愛の門を通過しなければなりません。


千三百九十一

進化して男性と女性になったという言葉が問題です。愛という観念が進化する前にあったのでしょうか、進化したあとに生じたのでしょうか。どうですか。前ですか、あとですか。前です。今では、細菌までも夫婦があるというでしょう?アメーバではなく細菌です。何十万倍、何百万倍に拡大して見ることができる細菌の世界にも夫婦というものがあるというのです。その細菌は、アメーバがいる前にいたのでしょうか。どうですか。おもしろいでしょう?万物がペア・システム、相対になっているということ自体は、愛を中心として成されたものです。このことを考えてみれば、愛の感性とは進化する前からあったという話になります。それならば、アメーバから人間まで進化するのに、何億段階の雄雌交流の等級をどのようにして越えることができるのですか。これは、既に理論に合わないのです。そのような理論は、今ではもう古くなりました。進化論は大変なことをしでかしているのです。これは、歴史上「神様はいない!」といって神様を否定する共産主義が発展した基台になったのです。


宇宙は、どの方向に向かっていますか。その方向性をつかむことができなければ目的観が出てこないのです。共産主義者たちは、進化論を語るので目的観がありません。しかし、すべての存在物は、既に主体と対象になっていれば、必ず愛というものを中心として作用します。ですから、それを連結させていく道
が愛の道です。愛の道を訪ねていくのです。


今日、進化論もこのような原則で発展するものとして説明しなければなりません。二つの心が合って、お互いにより大きな目的によって刺激を受けなければなりません。刺激を起こし、その目的を中心として二つが追求してこそ、より高い所に行くことができるというのです。ですから、必ず主体と対象がなければなりません。その二つの間に起きる刺激とは何かといえば、愛だというのです。


進化論に愛の論理がありますか。なぜ凹凸が生まれたのかという理論的な根拠を語っているのかというのです。それでは、進化論が先ですか、雄、雌の概念が先ですか。どちらですか。雄、雌が先です。雄、雌が先ですか、愛の概念が先ですか。どちらですか。愛ゆえに雄、雌が生まれたのです。


宇宙の根本がどこから始まったのですか。進化論ではありません。それを知らなければなりません。進化よりも先に、創造の概念がある前に雄と雌がいたということを知らなければなりません。雄、雌はなぜ生じましたか。

愛ゆえにです。愛、これが公式です。


すべての存在物は、すべてペア・システムになっているというのです。進化論者に「雄がなぜ生まれましたか」と尋ねれば、何と言うのですか。「自然に生まれたのでしょう」と、また「雌がなぜ生まれましたか」と言えば、「自然に生まれたのでしょう」と言うのですが、それは狂った人です。自然に生まれたのですか。すべての雄、雌は、自分の系列を存続させるために生まれたのです。他の系列ではありません。猿が人になって、蛇がかえるになるのではありません。それは正しいですか、正しくありませんか。雄、雌が愛の門を通るという事実を知らずにいる、全く無知な人々がその人々です。そうです、あなた方は雄、雌を知っているでしょう?それがただ生まれたのですか。


千三百九十二

主体と対象の相対圏は宇宙が保護します。このような理知で進化論を見れば、どのようになりますか。アメーバからそのまま行くことはできません。必ずプラスとマイナスが一つにならなければなりません。この一つになったものは、また一つの大きなプラスになるかマイナスになるのです。このようになり、ある存在は上に上がっていって、ある存在は下に下りていくのです。このようにしてその全体的な一つの主体的性格の基準の前に、自分に合う相対的主体性に該当するプラス的対象存在ならばプラスに行ってくっつき、その大きい主体に対してマイナス的対象存在ならばマイナスに行ってくっついて、もう一つの大きなプラスになるかマイナスになるかして、より大きな世界に向かって発展していくというのです。


進化論をどのように撃破しますか。学者を中心としてその進化論が問題です。進化する前、猿の雄、雌も進化してそのようになりましたか。どうですか。雄、雌は進化してできましたか。すべてのものが、鉱物世界はプラスイオンとマイナスイオンであり、植物世界は雄しべと雌しべであり、あの昆虫世界の小さな虫もすべて雄、雌ですが、この雄、雌は、進化して生まれたのですか。

進化論者に雄、雌が生まれた起源とは何かと尋ねてみてください。それを何だと答えますか。繁殖するためであり、愛するためだということを否定できません。


進化は、どこから始まったのですか。これが問題です。今日の若い知性人たちは、この問題に引っ掛かり、このわなから抜け出すことができずに、すべて地獄に行っているのです。進化はどこから始まったのかといえば、アメーバから始まったというのです。進化なのか、神様が創造した調和なのか、この二大論理が文総裁によってきれいに整理されます。進化論は、神様を否定する共産党の無神論が作り出したものです。進化論は、科学世界に途方もない被害をもたらした怪物です。それは処断しなければなりません。進化がアメーバから始まったとするなら、それより何十万倍、何百万倍も小さなそのような世界を顕微鏡で見ることができますが、そこにいる菌の雄、雌は、アメーバがいる前にいたのでしょうか、あとにいたのでしょうか。 一つ知らなければならないことは何ですか。進化論よりも愛というものを中心として雄、雌が先にあったのでしょう?この進化論が問題です。進化して雄、雌が生じましたか、進化する前に雄、雌が生じましたか。愛という内容を中心として実体が生まれたのです。愛ゆえに生まれました。男性と女性、雄と雌が一つになるのは愛のためです。進化というものはあり得ないというのです。進化する前に愛のコンセプトがあって実体が生まれたので、進化という言葉は、男性と女性、雄と雌にはふさわしくないというのです。愛ゆえに生まれました。


進化論を主張する前に雄、雌、愛の概念が初にありました。それは、進化論以前にありました。男性と女性は、愛ゆえに結婚して一つにならなければなりません。一つになるのは何のためですか。それは愛の目的を得るためなのです。ここには進化論の内容も何も
ないのです。

創造の公式的な一致観を認めることはできますが、進化して雄自身がどのようにして雌になるのかという観念、また雌自体が、女性である私が男性になるという観念をどのようにもつのかというのです。そのようにはならないというのです。自分自体ではなりませんが、そのようになった結果論から見れば、その動機は愛という観念であるということを否定できません。雄、雌を考える時、進化論は絶対に成立しません。結局、雄、雌は何のために生まれたのでしょうか。愛ゆえに生まれたというのです。


千三百九十三

宇宙には進化という観念がなかったというのです。増加するという観念は、本来愛を中心にして始まったのです。愛の観念から進展の編成を展開させるのが神様の創造理想です。進化論に先立つ愛の観念を考えてみても、そこに連結する雄、雌の内容をどのように進化論によって理解させることができますか。愛の感情は進化する前からありました。それは自分とは関係ないのです。男性と女性が生まれる前から、存在前からあったのです。したがって、観念が先だというのです。愛の本宮とは何ですか。本宮が何か分かりますか。


進化論という言葉が出てきたので、一言話して次に行きましょう。鉱物世界にプラス・マイナスの概念があります。動物世界にも雄と雌がいて、植物世界は雄しべと雌しべがあります。すべて雌雄関係です。それから人間世界は男性と女性です。

ところが、男性と女性がいたずらに生まれたのですか。それは、何のために生まれたのでしょうか。これは、すべて主体・対象関係です。授け受けするために、運動するためだというのです。それ自体の愛を中心としてこのようになったのです。


進化論がキリスト教を破壊させるのに、どれほど貢献したか分かりません。しかし、今、進化論を私の手で握りつぶすことのできる時代が来たというのです。進化論を信じますか、信じませんか。文総裁の話を信じますか、進化論を信じますか。今、整理して越えていかなければなりません。これはうそだというのです。愛の力は何千万代を経るのに、アメーバがそのまま何千段階の愛の門を通って人になることができますか。アメーバ自体がそのような能力、飛翔天することができるそのような資質をもつことができますか。

 

二) 進化論は既に時代後れの思想

今、世界の主流思想から見るとき、概念と実在が哲学世界の二大主流になり、有神論と唯物論、左翼と右翼の闘争によって世界に及ぼしたその被害は莫大なものです。左翼思想というものは、進化論によって世界的に覇権をもつようになりました。男性と女性という概念が先ですか、愛が先ですか。男性と女性がいる前に、愛という概念が先にありました。愛が先にあったので、男性と女性もそこに準備してその愛の概念に一致するようになっているというのです。それゆえに、概念と実在は分かれるものではありません。このように、概念と実在が愛によって一つになることができる、ということを共産主義は分かりませんでした。


千三百九十四

今まで世の中の学者において進化論が先か、神様の創造が先かということが問題でした。愛の概念がある前に、先に進化の概念がありましたか。どちらが先ですか。進化論が先ではなく、この愛の概念が先にあったあとにそれがあったというのです。ペア・システムの宇宙が先に生じて、その中で形体的な構造が合うものが進化論形態として合うだけであって、それで根本がそのようになったのではないということを知らなければなりません。 すべての鳥の種類は、形態がすべて同じです。しかし、種の区別は違います。すずめとほおしろが夫婦になって子を産むことができますか。それはできないというのです。アメーバから人までは何千段階の種の区別があるのですが、これを無視して一度にさっと人が出てくることができますか。とんでもありません。種の区分は絶対的です。 共産主義も「神様がいる」と言って帰ることができる、そのような思想的概念をどこで取り戻すのかというのです。絶対的に唯物論を、絶対的に進化論を否定することができるように確定しなければならず、心と体が一つになることができるように確定しなければならず、理想的出発を自分から始めなければならないという、このような基準をどのようにしてつくるのか、統一するのかという問題が世界史的問題です。

共産ブロックが進化論を主張して、創造論は宗教圏が主張して、この二つが闘いました。それで、世界的ブロックが主張したことが、すべて失敗しました。ですから、どこからこれが出発しなければならないのかといえば、世界的基準ではないのです。個人に入っていかなければなりません。個人で誤ってこのような結果になったのですから、個人から唯心、唯物を中心として判定しなければなりません。

進化論を取り除いてしまい、絶対的神様を中心とした創造論を中心として、絶対的神様を中心とした絶対価値の核を立てなくては、世の中が行ったり来たりするというのです。


今日、進化論や唯物弁証法、認識論、唯心論、唯物論等によって、世界の思想界は矛盾と混乱に陥ってしまったので、絶対真理を樹立してこそ絶対的価値世界の形成が可能なのです。絶対価値的存在は、永遠、不変、唯一の存在です。それでは、宇宙の中で永遠、不変、絶対の原理が何かというと、原因と結果、主体と対象の関係だという結論になります。


今日、進化論が事実か、調和の創造が事実か、ということが大きな問題になっているのです。その進化論の方向性は誰が決定するのですか。自分が決定するのですか。発展するその物質が決定することができますか。また問題は、それ自体が理想圏と関係を結ぶことができる力をどのように育てることができるか、もっと抱くことができるか、プラスさせることができるかということが問題です。 それは神様によって可能なのです。そのような問題は、科学も解明することができません。それゆえに、物質にもやはり人の欲望のようなものがあるのですが、その欲望的方向は神様と一つになることです。それが目的です。同じです。ここにおいて宇宙のすべての元素の総合的代表、この物質世界の代表が人間だというのです。


思考の根拠地はどこですか。ある人は頭にあるといい、ある人は胸にあるといいます。それでは、自分が胸にいるのですか、頭にいるのですか。それだけではないのです。このように見ると、自分が存在するのは結果的なことなので、どのようにして生まれたのでしょうか。すなわち、起源がどのようになっているのでしょうか。これが問題です。自分はどこから始まったのですか。

一般的に人々は、人間が動物界から進化したと考えます。それは、仕方なく作った方便的な理論です。論理的に連結させるために仕方なく方便的にくっつけたものであって、本当に進化したかということは知ることができないというのです。私たちの精神的底辺がアメーバから始まったのですか。精神的先祖がアメーバなのかというのです。進化論では、アメーバから出発してすべて発展したというのです。

 

千三百九十五

 

今日の哲学思想、その哲学思想とは何かというのです。これは、すべて一番下から探求していくのです。ところが、これが、「どのようになっているか」と理論的な追求をしてきましたが、「人間とは何か。真の人間とは何か」ということに対してまだ結論が出ていません。すべての学者、すべての有名な哲学者が人間の問題を中心として考えましたが、この結論がまだ出ていないのです。「人間とは何か。人間の起源とは何か」ということに対して、進化論や創造説による様々な学説を通しても、まだ解決されていないというのです。「こうだ」と言える決定が出ていないというのです。


すべての経典を見れば、孔子もあいまいです。人格的神を知らなかったのです。お父様を知らなかったのです。生まれた私たち人間の根本であるお父様がいるはずですが、お父様を知らなかったのです。また仏教も万象帰一の法を論じますが、人格的神を知らないのです。

もしも誤れば、唯物論に陥りやすいのです。進化論に陥りやすいのです。進化論的見地の発展的信仰基準に立つために、これは唯物論に接近しやすいのです。


フランス革命以後、人本主義思想を中心として啓蒙思想を経て、今の共産主義まで出てくるその過程において、このチャールズ・ダーウィンの進化論を中心として共産主義が一つにつづられ、今までキリスト教を完全に破壊のくぼみに陥れたのです。


今日の科学者たちは、「この宇宙は力でできている」と言います。しかし、力がある前に作用が先だという事実を知らずにいます。作用があるがゆえに主体と対象があるという事実を知らないので、混乱が生じるのです。主体・対象の概念によって事物を判断すると
きには、進化論が根本的に壊れていくのです。


近、進化論のようなものは、アメリカの大きな大学では講義しない所が多くなったといいます。それは当然のことです。「自然にできた!」と言いますが、皆さんが自然にできたと考えれば、それはどれほどむなしいでしょうか!「自然にできるのですか。自然も主体的な自然がありますか」と言えば、
「それは私には分かりません」と言います。 このような話がどこにありますか。どのようにして主体的な自然があるのですか。「それはそのようになっている。生理作用がそのように、発展現象はそうなるようになっている」と言うというのです。「そのようにですか?なぜそのようになるのですか」と言えば、「それは誰も分かりません。それはそのようになったのでそうなのです」と言うのです。そのような論法は、あり得ないのです。原因がない結果は、あり得ません。因果法則を否定する科学論理というものは、あり得ないのです。


千三百九十六

今、進化論は、流れていった一つの歴史的遺物になっていますが、進化して発展するというでしょう?進化すれば、なぜ逆にはならなかったのですか。逆さまになることもあり得るのではないかというのです。東にも行くことができて、西にも行くことができて。進化することができる方向を誰が定めてあげたのですか。自分で育ちながら方向を定めるのですか。アメーバから発展して人になる時まで、数多くの高次元の段階を経ていくのに、その方向を、高次元に向かって発展することができる方向を誰が定めてあげたのかというのです。なぜそのように高次元に向かうのかというのです。


各宗教の経典の欠点とは何かといえば、創造説がないというのです。神様が創造されたプログラムがないというのです。それで、あらゆる論理を中心として論告を書くのです。創造説がないので、創造の方向と創造目的を知らないのです。これだから世の中が自分勝手になり、進化論だ、何論だというものを掲げてきて自分の思いどおりにやってしまい、自分の思いどおりに行動してきたというのです。

ですから、創造説がどうだということをはっきり知らなければなりません。その次には、方向性と目的性があって、これがこうなのですが、なぜこのような悪なる世界になっているのかという、その理由を糾明しなければなりません。

その原因を糾明し、聖書とか歴史的な過程において、人類歴史の中で滅びた国がなぜ滅びたのかという、そのすべての起源を解決していかなければなりません。一般常識的な立場で、誰でも妥当性があると公認することができる論理的体制を整えた歴史観がなければならないというのです。


絶対的な愛の前には、第三の相対者を絶対に付与しません。このような論理が本物ならば進化論はあり得ないのです。アメーバも、それだけでは発展できません。陽性、陰性の内容を通して、愛の門を通じて新しい次元を経ていかなければなりません。すべての宗教の教理は、愛の門を通るという論理、またここには第三者の介入が不可能だという天理を考える時、進化論はあり得ないという結論が
出てくるのです。