天聖經-第10巻 成約人への道
第一章 人生観
一 人生とは何か
一) 今まで人生問題は迷路
私がなぜ生まれ、なぜ生きなければならず、どこに行かなければならないのでしょうか。生まれたことを、皆さんが自分で生まれたと考えてはいけません。生まれはしたけれど、どのような動機で生まれ、何のために生まれたか、私をして生ましめた動機と目的が分からない私たちです。生まれるには生まれたけれど、私が生まれようとして生まれたのではなく、生きるには生きるけれど、私が生きようとして生きるのではなく、死ぬには死ぬけれど、私が死のうとして死ぬのではないというのです。
ところで、私をもってして何を誇るのでしょうか。自分自身が生まれたくて生まれることもできず、自分自身のその何かをもって生きることもできず、死ぬ道を避けることもできない自分をもって何を誇ってみても、哀れで物悲しいだけです。生まれたので生きなければならない運命であり、またそのように生きていかざるを得ない運命です。
今日まで哲学は、歴史時代を通じて人生問題を解決するために苦心してきました。真の人間の価値、人間がどのように完成することができ、人間自体から勝利して万宇宙に誇ることのできる勝利の完成した姿を、いかに成し遂げるかという問題を中心として、数多くの哲人たちが出てきて、苦心しながらありとあらゆる主張をしました。それが今となっては、人間を通じて思想体系を立てたすべての主義主張がもはや実験をすべて終え、既に落第してしまったというのです。みな脱落してしまいました。
なぜ人間が、このように特別することもなく生きながらも死ぬことを嫌い、「なぜ生きるべきか。根源がどのようになっているのか」と、皆さん疑問が多いでしょう。そのすべての疑問は、人間の哲学書籍を通しては解決できません。哲学というものは、今まで神様を探していく道を開発したものです。宗教とは何でしょうか。神様を知って、共に生きる生活から始めるのが宗教生活です。
1190 * 千百九十
人生をこのように生きて行く目的とは何でしょうか。この問題を、もう一度考えてみなければなりません。動機が私によるものではなく、目的も私だけのものではないことに間違いありません。生きる上において幸福な場を嫌う者がどこにおり、豪華絢爛な場で生きたくない者がどこにいるでしょうか。しかし思いどおりにできないのが私です。それでも自分を誇りたいし、思いどおりに生きたいし、思いどおりに残りたい私です。このような心情の交差点をもった私だというのです。 さあ皆さん、見てください。皆さんが八十年ほど生きたとします。その中で夜寝る時間を除けば四十年になります。半分に減るということです。寝ることも生きることでしょうか。寝ることは死んでいるようなものです。寝ることは死んだ命です。ですから、二十四時間の間で生きようともがく時間は半分にもなるでしょうか。また、そこから御飯を食べる時間を一時間ずつ切り捨てたらどうですか。御飯を食べる時間を一時間は見ないといけません。
さあ、またその中で友達の宴会の日、近所の町内のお年寄りの還暦を祝う日、誰かが亡くなった日、葬式を行う日、病気になって寝ている日、すべての日を全部差し引くと一生の中で生きているという日が半分にもなるでしょうか。この間計算してみたところ、生きているという日が七年と出ました。その七年の中で「本当に生きた」と言える日が何日出てくるかというのです。
一生というものは早いのです。一生は本当に早いのです。物心ついてこの世の物情を知り、あれこれしていて四十を越えたら五十であり、もう十年はあっという間なのです。そして十年たてば六十があっという間であり、六十になれば七十があっという間であり、私も静かに考えてみると、一場春夢(注:人生のはかないたとえ)という言葉を実感するのです。
自分が運を百ほどもって生まれたのに、百二十ほど生きて死ぬ人は、その後孫が滅びるのです。人の運は、ゴムひもと同じでピンと張るというのです。しかし八十ほど生きて死ねば二十ほどの福を残して、その運勢を後孫の前に相続してあげ、逝くことができるというのです。
運命は変更することができますが、宿命は変更することができないのです。大韓民国の人として生まれたことは、変わり得ますか。自分のお父さんの息子、娘として生まれたことは、変わり得ますか。その国の主権がどんなに強く、その国の慣習がどんなに強くても、お父さんの息子、娘だということは変更できないというのです。そのように復帰の道は、宿命的な道です。どうせ、いつの日かは清算しなければなりません。
出発を誤ればとんでもない所に行くというのです。ですから船が大海を航海するにしても、出発した港から羅針盤を中心として行くべき目的地に向かって、方向性を描いてこそ行くことができるというのです。
それでは、人間が出発した港とはどこなのでしょうか。分からないでいます。羅針盤をもって彼岸の世界に到達することのできる、目的地を描いて行くことのできる方向性がどこにあるのでしょうか。ないというのです。これがくねくねと、自分勝手に行ったり来たりしました。このように見るとき、人間はどんなにやったとしても人間で終わるのです。
二) 私たちはどこに行くべきか
一生を経たのちに、私はどのような所に行くのでしょうか。これが、人間たちが解決しなければならない重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。それで皆さん自身も、このような運勢に捕らわれて導かれていっていることを否認することがで
千百九十一
きないのです。
それならば、どうせ行かなければならない私自身であるとすれば、この体はどこに行こうとするのでしょうか。この心はどこに行こうとするのでしょうか。またこの生命はどこに向かって傾いていて、私の心情はどこに行こうとするのでしょうか。私の所願あるいは所望と理念はどこに行こうとしているのでしょうか。
この問題を解決することができないとしても、私たちはどうせ行かなければならない運命に置かれているのです。私たちが生きて、そして死ぬ日、この体は土に埋められることによって終わるのです。それならば体が埋められるその日、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは所願までも一緒に埋められてしまうのでしょうか。消えてしまうのでしょうか。ここに確実な内容と、確実な解決点と、確実な目的観を立てておかない限り、これは不幸な人間でしかあり得ないのです。
せみの卵がせみになるためには、赤ちゃん時代、幼虫時代があります。幼虫時代には水たまりに棲み、あるいは地面のくぼみにある穴の中に棲むとしても、それらが行かなければならない道はそこではありません。大空を飛ぶことのできる道を行かなければならないのです。飛ぶためにはどんなに地面の穴を掘り入ったり、水の中で泳ぎ回ったとしても、その過程で何かを準備しなければなりませんが、それが絶対条件だというのです。なくてはならない条件だというのです。
幼虫時代から成虫時代に越えていくためには、幼虫時代において飛ぶことができる万端の体制が準備されなければならないのです。そこに反対の要素である皮を脱いで整備することができる一時を必ず通過しなければなりません。殻を脱がなければなりません。水の中で棲む時は平たくなければならず、水の上に浮かんで回るのに必要な姿が適格でしょうが、空中で飛ぶようになる時にはそうであってはいけないというのです。そこに合うように、すべてのものが整えられなければなりません。
私たちは何を中心として生まれ、何を中心として行くべきであり、何を目的として行かなければならないのでしょうか。このことは、神様抜きには絶対駄目なのです。神様を抜きにしては動機のない因縁になるのです。動機をもつことができない人は、どんなことを成就しようとしても、その結果は収められず、価値が認定され得ないのです。ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図に従って建築するようになります。設計の原本もなく建てられた建築物は、設計者が目的とした建物になることはできないのです。
秋の季節が来たという事実は、冬が近づいているということを意味します。冬は、生命があるものだけが通過することができる路程です。生命をもてないものはすべて、ここで後退するしかありません。それで、冬が来る前に新しい生命を注入しなさいというのです。
千百九十二
新しい生命は新しい愛を中心とした新しい主義と思想、そして新しい人生観、新しい世界観、新しい宇宙観をもたなければなりません。そうでなくては、冬の季節を通過することはできません。冬の季節を通過することができる生命力をもつようになれば、それを通過する過程には苦労が多いのですが、行けば行くほど春の日が近づくのです。春の日が訪ねてくるのです。統一教会はその道を行くのです。
二 人間は原因たる存在ではない
一) 本来神様の愛によって生まれた人間
本来私たち人間は、自分の意志によって生まれたのではありません。また、父母なら父母自身がこれこれこのような息子、娘を生もうという計画のもとで生まれたのでもありません。このように私たちは、父母の要求によって生まれたのではないというのです。神の摂理を中心として私たちが存在するようになった根源を掘り下げてみるなら、私たち人間は摂理の起源と一致し、その起源を中心として動いていく歴史と関係を結ぶ重大な責任をもつための一つの生命体として、この地に送られたとしか考えようがないのです。
それゆえ歴史過程にある私自身、その中で生きている私たち個体がどんなに小さいとしても、一つの個体として終わるのではありません。
人間自体が、自分で生まれたのでしょうか。自分を主張することができる起源はどこにあるのでしょうか。この大宇宙の原則の前に人間を主張することができる起源を、どこから探さなければならないのでしょうか。私たち人間は生まれた結果的存在なのに、結果的存在が原因を知ることはできないのに、自分を主張しようとする人、そのような人たちは精神の抜けた者たちです。全部が狂った人です。 生まれたことについて、なぜ生まれたかという問題、神様が人間をなぜ造り、天地万物をなぜ造ったかという問題、その結論は簡単です。神様も愛の対象が必要なので、愛の対象として人間を創造されたのです。皆さんは今、「何でもない姿の私のような存在は、いてもいなくても同じだ」と考えるでしょう。それではいけません。神様の愛の対象になるのに、父母の前に子供が優れているからといって愛するのではありません。子供であれば、優れていようがいまいが愛するというのです。
障害のある子供をもつ父母の胸がもっと痛いのと同じように……。天地の中心であられる神様の愛の心は、皆さんが優れているとかいないとかいうことを超えているのです。本性の愛の、そのパターンをもっているかいないかということが重要です。ですから、私がなぜ造られ、宇宙がなぜ創造されたかということを知らなければなりません。愛の理想を完成させるために造られたという事実を知らなければなりません。
神様がなぜ天地万物を造り、神様が私をなぜ造ったのでしょうか。愛のためです。私がなぜ生まれたのでしょうか。神様の愛ゆえに生まれたのです。神様の愛の中で生まれ、神様の愛の中で生きるために生まれたのです。「神様と共に私の家庭で愛することができる人だ、神様と共に私の社会で愛することができる人だ、神様と共に私の国で愛することができる人だ、神様と共に私の世界で愛することができる人だ」と言うことができる人になるために、神様の愛の中で生きなければならないのです。
千百九十三
私というものは父母から何を受けて生まれたのでしょうか。生命の連結体として生まれた、このように見るのです。お母さん、お父さんが一つになる所から、お母さん、お父さんの生命力の価値をもって生まれたというのです。
その生命力は何によって?愛によって。その生命力と愛は何ゆえに? 宇宙の目的を完成するために。このようになるのです。目的を完成するために生まれたというのです。男なら男、女なら女としてのある目的、大宇宙目的の協助体としての自らを完成するために、このような生命力を中心とした結合によって生まれたというのです。
私たちが生まれたのは、なぜ生まれたというのですか。何のために生まれましたか。神様の愛、神様の愛ゆえに生まれたというのです。ここで「ドカン!」といえば、神様の頭に「ガン!」と通じることのできる、その愛だというのです。皆さんが何かを持って池に「ポン!」と投げれば、波紋が池の辺に広がるのと同じように、この宇宙の中で愛を「パーン!」と投げれば、全宇宙に波紋が生じるはずだというのです。そのようなことをしているのです。皆さんが何によって大きな波紋を起こすかということが問題だというのです。
神様とはどういうお方でしょうか。創造主です。創造主とはどういうお方でしょうか。宗教世界での概念では、「神様は私たちのお父さんだ」「私たちは神様の子女だ」と言うのです。では、そのお父さんは、どんなお父さんですか。どのようになったお父さんですか。これは漠然としているというのです。 借りてきたお父さんですか、隣近所のお父さんですか、あるいは養父ですか、どんな父母ですか。そうでなければ妻の父母ですか、嫁ぎ先の父母ですか。お父さんという言葉はたくさんあります。根本を解決できずしては、どんなに環境が拡大されたその世界で解決しようとしたところで、それは解決が出てこないのです。千万年行っても解決ができないというのです。
それならば、人間と神様が問題です。「神様が私たちのお父さんだ」と言うとき、皆さんは神様がお父さんだと感じられますか。私よりも、私がいる前にもっと確実なのがお母さん、お父さんです。お母さん、お父さんが私より先にいるので、私がいるということを前提とする時は、私がいるということを主張する前に、私たちのお母さん、お父さんがいると主張しなければならないのです。それが正しい定義です。お母さん、お父さんをのけ者にして私がいるという主張は、愚かな主張なのです。
人間は第一の原因的存在ではありません。第二の結果的存在だというのです。ですから私がいるということを語る前に、お母さん、お父さんがいることを語るべきなのです。このように見れば、根本に帰って宇宙の根本となる神様という問題を、根本的に、一番初に解決しておかなければならないのではないかというのです。
千百九十四
お母さん以上、お父さん以上、先祖、先祖と言って上がっていけば神様になるでしょう。このような論理を追求すれば、私を主張する前に神様を決定しなければなりません。神様はどんな方だ、彼は私のお父さんだ、そのお父さんはどんなお父さんだということを。それで私たち統一教会はこれを教えてあげるのです。
本然の出発点を正しくつかめ、正しく求めよというのです。人間は結果的存在なので原因の起点にもっていって合わせろというのです。原因の起点に合わせますが、その起点が盲目的起点になってはいけません。神が人格をもっているので、人格をもった人間においても知情意のすべての良心的作用の内容を持ち合わせているのです。ですからその動機も原因的内容以上の動機でなければならないというのです。それでいて絶対的でなければいけません。一度出発したものが誤ったなら、永遠に是正することはできません。
二) 人間が生まれた本然の目的
神様は宇宙の第一原因であられ、森羅万象の創造主です。そして私たちの愛するお父さんであられます。神様は特別なみ旨を成し遂げられるために万物を創造されたのであり、その目的は正に愛の具現にあります。神様は真の愛の根源であられますが、どんなに全能な神様であられるとしても、一人では決して愛の喜びを感じることができません。
神様は愛の対象が必要であり、その対象から自発的な愛が帰ってくることを願っていらっしゃいます。その対象としての高の被造物が、正に私たち人間です。そのような理由で人間の生命には目的があるのです。人生の目的は成熟し、神様と永遠の真の愛の関係を実現するところにあるのです。正にこれが、神様と人間の間に平和をつくり上げる根本原理なのです。 豊かに生きることも重要で、何かをすることも重要ですが、まずは縦的な天の父母の前に孝の道理を立てなければなりません。縦的天の父母の前に忠の道理を立てなければなりません。縦的な天の父母の前に聖人以上の道理を尽くさなければならないというのです。それが、人間が生まれた本来の目的です。また、そのような人に出会うために神様が人を造ったのです。そのような目的があるというのです。
人生が真実に行く道とはどこでしょうか。人間はどこから生まれたのでしょうか。愛から生まれました。人生はどんな道を行くべきなのでしょうか。愛の道を行かなければなりません。どのように死ぬべきなのでしょうか。
愛のために死ななければならないという結論が出てきます。その愛とはどんな愛でしょうか。大宇宙が歓迎することができる愛です。小宇宙ではないというのです。神様が公認し、天使世界が公認し、万物が公認し、すべての人が公認し、私たちの父母が公認することができる大宇宙の中で生まれ、その中で生きて、その中で愛し、その中で死んでいくことが、人生の目的だと見るのです。
千百九十五
愛は自分が良いときは父母、兄弟、親戚を訪ねて、一緒に楽しもうとします。良いことは幸福なことなのです。幸福は永遠なものであり、永遠なものは心情です。宇宙の中心は何でしょうか。それは父母と子供だというのです。すなわち父母と私です。神様と私だというのです。神様はお父さん、私は息子……。人生の究極的な目的は、父を訪ね、切ることのできない関係を結んで喜びを感じることです。 先生はいつか、道を行く途中で年を取ったおじいさんと話をしたことがありました。そのときおじいさんに「どこに行かれますか」と尋ねると、「行くって、どこに行きますか。うちの息子の家に決まってるでしょう」とおっしゃいました。「そうですか。行って何をされるんですか」ともう一度聞いてみると、「くれる御飯を食べて、たまに鶏でも出してくれるなら鶏もおいしく食べるんだよ」と言うのでした。また「それなら食べたあと、何をされますか」と聞いてみると、「食べたあとは特にないよ」と、このような答えでした。私たちの人生を、このように送ってもいいのでしょうか。
家計の帳簿を整理するときにも、収入がいくらで支出がいくらかを正確に決算します。このように帳簿を整理するときにも、収支計算を徹底してやるのに、皆さんの人生はどうですか。一生の間生きたことを収支決算してみましたか。赤字ですか、黒字ですか。赤字ならば地をたたいて痛哭しなければなりません。
人は死ぬ場において、楽しく歌を歌って死ぬことができなければなりません。ところで、死を前にして生きようともがくことは、赤字の人生だという証拠です。私たちは絶対性を中心として、心情の世界において黒字の人生を生きなければなりません。
人間は誰のために生きるのでしょうか。
「私のために生きます」と言えば落第です。自分のために生きる人の前に家庭が存在することができますか。希望の家庭がないのです。国が存在することができますか。国は出てきません。そこに世界が存在することができますか。世界が存在することができません。世界が出てくることができる場がないのです。天地の公約は「この個人主義の悪党よ、立ち去れ」と制止するのです。個人を第一とするのに、そこに家庭が入ることができますか。そこにある理想的な国が入ることができますか。錐の先のような狭い所に入ることができるかというのです。どんなに入ろうとしても、入っていくことができないというのです。
皆さんは愛を知らなければなりません。すべてのものが移動する目的、存在する目的は、愛だというのです。愛を求めて動き、愛を求めて存在しているというこの鉄則を、皆さんはいつももっていなければなりません。鳥たちがお互い好きになり、チュッチュとさえずりながら飛び回ることも愛ゆえであり、磁石のプラスとマイナスがお互い合わさることも愛で一つになるためだというのです。人がみな誰かに会おうとするのも一つになるためなのです。
三) 愛のために生きる
人生はどのように生きるべきでしょうか。人間はどこから、なぜ生まれ、どのように生きていくべきでしょうか。簡単だというのです。愛(神様を中心とした)ゆえに、愛によって生まれたので、愛の道を求めて、愛の目的地に行くのです。そうすれば循環法度上で、永遠に回ることができるのです。愛は永遠の概念なので愛を求めてこの中心に来るのです。
それは愛でのみ成立するのです。
千百九十六
私が一生の間生きるのは、私のために生きるのではありません。神様の愛のために生きるのです。その目的のために移動し生きるというのです。それがどれだけ素晴らしいことでしょうか。そのように生きる人は絶対滅びないのです。そこに大変なことがあり、涙もあり、時には悲惨なことがあったとしてもそれは神様の愛ゆえなので、悲惨ではなく、悲痛でもなく、悲しみでもないというのです。
その原則を知らなければなりません。
私たちは何のために生きるのでしょうか。絶対的な真の愛、真の愛のために生きましょう!ここにすべてが入っているのです。ですから私のポケットにあるハンカチも愛のためにあり、私が仕事をするのも、汗を流すのも愛のため、真の愛のためにするというのです。私が話すことも真の愛のため、食べることも真の愛のため、遊ぶことも真の愛のため、すべてがそうだというのです。
人間は何を目的としなければならないのでしょうか。個人を目的とすることより、家庭を目的とすることより、団体を目的とすることより、国家を目的とすることより、世界を目的とすることより、天地を目的とすることより、神様を中心として神様と人間が合わさった目的に向かって進んでいかなければならないのです。
そうすれば、どの目的が後に残るでしょうか。個人を主としたものは流れていくし、家庭を主としたものも流れていくし、団体を主としたものも流れていくし、国を主としたものも流れていくし、世界を主としたものも流れていくのです。しかし一番後まで残る一つの目的があるとすれば、それは神と人間が共同で追求する目的です。そのような目的だけが、人間の歴史の 後にまで残ることができるものなのです。
皆さんの心が後に安着することのできる終着点とはどこでしょうか。神様を求めて自分のものにしたとしても、そこに皆さんの心は安息しようとしません。心の 後の終着点は、神様を占領し、神様の愛を占領する所です。ですから皆さんが神様の愛を占領することができなければ、万事がむなしいのです。
人生の後の目的は、神様を中心として天の中心たるその方と出会うことではありません。その方と一緒に住むことが問題となります。その方と会うのにどのような場所で会うか、生きるのにどのような場所で生きるのかということが問題です。その方とは中心の場所で会って、中心の場所で生きようというのですが、その中心の位置は神様の愛の位置なのです。ですから人類の良心が指向する高の目標は、天運に従って神様と一致して、神様の愛を私のものにしようというのです。結論はそれです。
人間が後に到達したいのは、 高であられる方の愛の対象者になることです。その高の方とは誰かというと、私たちの父であられると同時に、神様だというのです。
本来人間の特権は、誰彼問わず、天上王国世界において皇太子として生まれることのできる権威をもっているのです。お姫様として生まれることのできる権威をもっているのです。それが人間の価値です。それが本来の人間の権威だったのです。
千百九十七
心情が通じるようになれば、みんなが神様の子女になります。文化の背景や歴史的環境、あるいは時代の位置いかんによって人間の価値が左右されるのではありません。そのいかなるものをもってしても人間の価値を決定することはできません。人間が天を知り、地を知り、天の目的と地の目的と人間の目的を知るところにおいてのみ、人間の価値が決定されるのです。
私たちは新しい価値観を模索して、それを中心としなければなりません。世界に対する新しい価値、人間に対する新しい価値、理念に対する新しい価値、あるいは愛に対する新しい価値を模索しなければなりません。その価値観が神様のみ意と一致することのできる内容をもって出発するとき、その価値観は人間を中心とした価値観とは母体が異なるのです。人間の意志を中心として立てられた価値観とは異なるのです。
今日、この世界において確実な価値観をもたなければなりません。世界観を越えることのできる価値観をもたなければなりません。私たち統一教会は、その価値観の中心を神様においているのです。私たちの主張する世界に帰ろう、理想世界に帰ろう、ではないのです。神様に帰ろうというのです。
神様に帰らなければ理想世界もないのであり、幸福な世界もないのであり、永遠な世界もないのであり、愛の世界もないのです。そのすべての幸福の要因、私たちが願うすべての要件は神様によって始まらなければならないからです。それゆえ、神様に帰らなければならないのです。これを懐かしがり、これを求めてきたのが、人類歴史上に現れた宗教という機関だということを知らなければなりません。
私たち統一教会は絶対的な価値観を提示するとともに、真の御父母様を提示しています。私たちが願う絶対的価値の基準は、どこが終着点なのでしょうか。真の父母の息子、娘になるところです。永遠の生命をもつことができ、永遠の愛をもつことができる神様の息子、娘になることです。そのほかには道がありません。
アダムとエバが堕落するとき、神様が許諾したところで相対理想を結んだのではありません。自分たちが勝手にやったのです。神様が許諾して関係をもって出発することができるのは父子の因縁しかありません。ところが、それが壊れたので、没落したので、それを標準にし、もう一度継ぎ当てしなければなりません。
千百九十八
三 人間の価値は偉大である
一) 人間の価値は神様的価値
人の価値は、どのくらい大きいでしょうか。神様が杖をついて千年、万年懐かしがることができる存在が人間です。統一教会の文先生が見ると、これが宇宙の根本だというのです。これが内外関係になったので、縦横の愛の世界観が成立するのです。上下関係と左右関係になれば、縦横の愛の世界観が広がるのです。その中心には神様が臨在されるのです。心の深い谷間の位置で一つに固く結んであげることができるその場は、縦横の中心地です。これを結んでおかずしては縦横の基準が愛の理想型として出てこないのです。ですから人を、このように造らずにはいられなかったということを皆さんは知らなければなりません。
神様は絶対的な創造の観を所有した絶対者であられるので、絶対的な対象としての価値のある存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の中の何をあげても換えることのできないものです。
価値的に見るならば、相対的存在とは神様をあげても換えることができない存在です。「相対的価値」という言葉は少し難しい言葉ですが。相対的価値というものは、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは神様をあげても換えることができないのです。神様をあげたところで神様一人になるというのです。神様として残ってしまうのです。
ですから神様自身を投入して、神様自身の力を、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をされるのです。ですから、神様をあげても換えることのできない価値的存在として造ったものが人間なのです。これと同じように、絶対的価値の存在が人間だということを皆さんは知らなければなりません。神様がそのような観をもって、価値的存在として人間を造られたのです。
神様は、人間を愛のために造られました。人間はなぜ造られたのでしょうか。愛のために造られたのです。人間が万物と違うのは、神様の息子、娘として造られたからです。神様の直系の愛を受けることができる対象者として造られたというのです。これが人間の特権です。 人は誰に似ましたか。神様に似たというのです。ですから神様が愛を願うことも、結局人と同じだ、とこのように見るのです。愛を中心とした理想の創造世界というものは、実体を中心とした愛の表示が形状として現れ、形状の表示が象徴として現れるのです。統一教会の原理は、そのように言っているのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。その実体が喜べば、その形状となるものも自動的に喜び、形状となる存在が喜べば、象徴的なものも自動的に喜ぶことができるのです。そのような作用を何がしますか。愛のみがするのです。
神様が、愛を求めていく対象を造ろうとするとき、誰に似るように造るでしょうか。神様に似るように造るのです。その神様に似るように造るなら、神様の中にあるもののように男性の性稟がなければならず、女性の性稟がなければなりません。自分に似たので自分の本性相からすべて抜き出して、見えない性相、見えない考えの形態を実体として展開させたものが人間だというのです。ですから聖書の創世記に出てくる、神様が自分の形状のとおりに人間を創造したという言葉は正しいのです。
見えない神様の形状を、私たちの体中に象徴的にすべて投入したというのです。目は、誰に似たのですか。神様です。ですから顔の真ん中を見てみると、目は深い所にあるのです。そうでありながら、すべてのものを観察するというのです。その次に、鼻はアダムとエバを象徴するのです。これが中心でありセンターです。その次に、口は万物です。横的です。ですから、四八、三十二(四×八=三十二)、三十二個の
千百九十九
歯をもっているのです。この世の万物を中心として四数を中心として。その次に、耳は四方を象徴するというのです。この首の上は天の国です。天の国の情報センターがあるというのです。
顔は、天地創造の主人が自分の形状をすべて取り入れて造りました。ですから、人の中には神様の性稟がすべて入っているのです。この目は何を象徴するかというと、神様を象徴します。ですから生物が生まれるとき、目が初にできるのです。天地の中心は神様であられるので、目は神様を象徴するのです。ですからどんな人でも、その人の目は神様を象徴するというのです。ですからどんな人でも、その人の目を見ればその人が良心的な人なのか、非良心的な人なのか直ちに分かるのです。
いくら真理だと言っても、その真理の核心とは何でしょうか。お金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。愛です。本質的な愛は縦的なところにあるのであり、真理的愛は横的に連結されているのです。ですから万物を見て神様が分かるし、アダムとエバは神様の形状なので、アダムとエバを見て神様が分かるのです。なぜですか。アダムとエバは縦的な真の愛の対象的主体なので、これを二つすべて完全にピタッと、男女の愛を東西南北を通して世界の軸をもっていって合わせるときには、神様と霊界が通じ、全世界がすべて通じるのです。
皆さんは主体と一つにならなければならず、対象と一つにならなければならないということを知るべきです。主体と対象が一つになれば、繁殖が起こります。与え受ければ、必ず繁殖が繰り広げられるのです。その繁殖することができる場は、うれしい場なのです。神様自身も性相と形状の二性性相になっているでしょう。各自が一人の時は主体ではありません。男性と女性が合わさってこそ家庭の主体が成立するのです。二人が合わされば、主体になるまいとしても主体になるのです。
人間たち自らが、神様の本然の愛を再現させることができる運動、神様を愛することができる運動、神様に接近することができる運動をしなければならないというのです。「汝の体と心を尽くして、主なる汝の神様を愛せよ」と言われた、それが第一の戒めだというのです。愛することが第一です。体と心を尽くして愛さなければならないのです。中間であってはいけません。終わりまで行かなければなりません。
そうです、神様の形状が現れることができる真実な心、神様と一つになろうとするその心の本性が絶対的であり、それによってすべてのものの始まりと終わりだとすることができる境地に入っていかなければなりません。そのように愛せよ、ということが第一の戒めなのです。
1200 * 千二百
神様と人間が拍子が合い、和動することができる喜びの拍子の前に、すべてのものが自分の形のとおりに音律を合わせることができ、自分の形のとおりにすべて象徴的に、形状的にみなこうすることができる、そのような喜びの表示がそうだというのです。そのようになれば万物も、「ああ、私も生まれがいがあるなあ」と言うのではありませんか。例を挙げて話をするなら、神様と人間が愛の宴をするその日に同参することができる因縁をもって、その喜びを分かち合うことができる存在になったという事実が、被造世界のこの上なく小さい万物が願うことのできる所願ではないかということです。
このすべての万物は、神様の息子、娘たちを造ることができる土台なのです。関係を結び、連結することができる土台なのです。動物もそうですし、鉱物もそうです。鉱物世界にもプラス・マイナスがあるのです。植物世界にも全部雄しべ・雌しべがあり、動物世界も雄・雌があります。すべて橋を架けて、すべてのものが結集され創造された高の傑作品が、人間の内的形状と外的形状です。それを実体化させて男性、女性の性相を……。そのすべての形状を賦与して、象徴的、形状的、実体的にすべてさらけ出して橋を架けるようにして、すべて連結するように、関係を結ぶようにしたのです。
それでは神様は、なぜ夜と昼をつくられたのでしょうか。毎日のように一日中お日様があれば、朝何の刺激がありますか。光明な朝だ、光輝く朝だというとき、光明がどのように光明で、光がどう輝くというのですか。おもしろ味がないのです。しかし、すべてのものは刺激のために、愛という課題を置いて、刺激的な象徴と形状でつづられながら調和することができる拍子をもっているのです。
皆さんの生命の根は、どこにありますか。堕落していない父母にあります。では堕落していない善なる父母の位置は、どのような位置ですか。神様が二性性相の主体であられるように、神様が自分の二性性相を展開し、神様の形状どおり万宇宙を造り、人間を造ったのです。アダムは神様の男性的性稟を展開させたものであり、エバは神様の女性的性稟を展開させたものなのです。
このように見るとき、私たち一般人たちが普通「天のお父様!」と言うのは、お一人ですからそのように言うのでしょうが、そのお一人という概念の中に「天のお父様、お母様」という概念が入っているというのです。
二) 人間は神様が臨在される聖殿
もし人間の先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。アダムとエバは神様と一つの体になって、神様と同じ立場に立ち、神様の創造の威厳を継承し、神様が創造後お喜びになられたのと同じ位置に立つことになっていたはずです。神様と人間の間で、そのような関係を結ぶようになるのです。堕落していない本然の人は、神様の聖殿になるのです。
アダムとエバは、神様の息子、娘であると同時に神様の聖殿です。彼らが共に成長し聖殿が完熟するように造られたなら、神様がアダムとエバの中に入ってこられるというのです。そして完成したアダムとエバが神様を中心として聖なる式を挙げれば、それは何ですか。神様と一つの体になるということです。神様は内的な神様になり、私たち人間は実体をもった神様の体になるというのです。
千二百一
皆さん、コリント人への第一の手紙第三章十六節を見ると「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」というみ言があります。信じて救いを受ける人も神様の聖殿になるのですが、本然の人類の真なる先祖の位置に進むその方たちにおいては言うまでもないというのです。
神様が父になり人間は神様の息子になったとしても、父は上にいて息子は下にいる上下関係のような、そのような気分がするのです。そのとき私たち人間は、どのような考えをするのでしょうか。「お父さん、お父さんが座っていらっしゃったその席を、私に一度下さい。私もお父さんの席に座りたいです」という欲望が私たち人間にはあるのです。
ここで神様が「おいこいつ、駄目だ」と言えば、すべて壊れるのです。しかし神様は、そのように言われないのです。むしろ神様は、私たち人間がそのような欲望をもっていることを知っているので「早く、そうしなさい。早く、そうしなさい」と言われながら、その位置までも私たち人間に下さるのです。その位置まで人間に下さって神様は私たちの心に臨在され、私たちの心を聖殿として、いようとされるのです。
聖書には「私たちの体は聖殿である」とありますが、それはどういう意味か、解釈できずにいるのです。それは偉大な言葉です。いくら大きな神様だとしても、その神様と私が愛をささやくことができる愛の対象圏になり、その愛の対象圏と一つになれば宇宙を相続することができる権限が生じるからです。愛という原則基盤を通じて神様が造った世界、霊界、無形世界、実体世界、このすべて、すなわち宇宙の相続権を獲得することができるのです。この驚くべき事実を知らないのです。 アダムは実体をもった神様の体です。コリント人への第一の手紙第三章十六節にあるでしょう。あなた方の体が聖殿であることを知らないのかと。聖殿は神様がいらっしゃる所でしょう。私たちの心に本然の愛が芽生えるその場所を至聖所としているのです。ですからアダムの心に神様が宇宙的な愛の聖殿を造って愛の力を伸ばして、愛の花を咲かせようとするのです。これが、神様がアダムとエバを造り、家庭と世界に繁殖しなさいと祝福してくださった目的だということを知らなければなりません。
一番神聖な所はどこですか。至聖所とはどこかというとき、エルサレムの聖殿が至聖所ではありません。人間が造ったそこが至聖所ではありません。神様が造られた愛がとどまることのできる所が高の至聖所です。この至聖所を失ってしまったのです。ですから人間の罪がどれほど大きいでしょうか。
神様が人間を造ったのは、実体の神様の体として造ったということです。コリント人への第一の手紙第三章十六節を見ても「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と言っています。聖殿とは何ですか。神様の家だというのです。アダムとは誰かといえば神様の体であり、エバとは誰かといえば神様の夫人だったというのです。このようになっていたならば、その子供は神様の血統をもって生まれるのです。彼らが神様の血族になるのが原則です。
千二百二
完成段階に至った人間が霊界に行くと、どのようになりますか。アダムは神様の体になります。アダムは神様の体になるというのです。ヨハネによる福音書とコリント人への手紙に「あなた方は神様の聖殿である」と出ているのと同じように、神様が臨在することができる聖殿です。家です。神様とどのように似ますか。責任分担完成段階に至り、神様が臨在し一つになれば、愛によってすべての生命の結合、一体化が成し遂げられるのです。生命が和合するのです。男性、女性が家庭、夫婦を成すということは、愛を中心として一体となり、和合するということです。それと同じように、その愛の力は神様と和合するようになるのです。神様と和合するようになるということなのです。
人間が完成して成年になれば、そのとき、見えない神様が入ってきて愛を造るのです。神様が好むと同時に、アダムが好む激動的愛を神様がすることができるというのです。それゆえ愛は高の神聖な聖殿です。神聖の聖という字です。ですから真の愛の中には、どこでも神様が入っていらっしゃるというのです。なぜ人は真の愛を好むのでしょうか。真の愛にさえ会えば、神様がここにいらっしゃるというのです。主人がいるようになっているのです。ですからアダムとエバが成年になって愛するとき、アダムとエバの体は、この宇宙を創造した神様がその中に入ってきて高の神聖な聖殿を築く神聖なところになるのです。
エバとは誰かというと、アダムの妻です。アダムは、神様の実体です。「あなたの体は神様の聖殿だ」と言ったのです。神様は、アダムの心に臨在している見えないアダムです。この二つの父が一つになるのです。合一されるのです。そして霊的世界、無形の世界と有形の世界の合一の起点がアダムの本性的基準です。その本性的基準は何ですか。お金のふろしき、欲心のふろしきではないのです。 純粋な思春期を通じてすべての細胞機能が総動員され、一つの触覚として、アンテナとして現れたその基準を中心として、神様がそこに臨まれるので席を設けて……。陰陽が調和し、合わされば互いに降りていくのと同じように降りてきて、警備兵のいるところ、基地を……。アダムの心の中に来て神様は内的父、アダムは外的な父として霊的世界と実体世界の和合、一体の基準で、一人の男性を中心として一人の女性を中心とした横的世界で一致を成し遂げ、愛を中心として球形の核が広がるのです。球形の核。
コリント人への第一の手紙第三章十六節を見れば「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」というみ言があるでしょう。これが何かというと、神様の聖殿です。皆さんが神秘的な境地に入って祈祷しながら「神様、どこにいらっしゃいますか」と尋ねると、答えがとても素晴らしいのです。「ここにいる!なぜそのように大騒ぎするのか」とおっしゃるのです。
「朝御飯を食べられなかったのか。夜遅く、なぜ大騒ぎするのか」と言うのです。「どこにいますか」と尋ねると、「どこにいるも何も、その深い心の奥に立っているだろう!お前の心の中にいるだろう!」と言われるのです。天国がどこにあると言いましたか。心の中にあると言いました。
千二百三
四 人間本性の真なる生活
一) 心に和合した生活をしなければならない
自分の一番近い先生とは誰かと言えば、自分の心です。一番親しい友達よりも貴いものが自分の心であり、お母さん、お父さんよりももっと貴いものが自分の心です。心に尋ねてみるのです。その心には神様が入っていらっしゃるのです。その心の声を聞くことができなければなりません。その境地まで入らなければなりません。仏教には、自性を清めなければならないという言葉があります。「天上天下唯我独尊」とお釈迦様が言いましたが、それは何かと言えば、私が私に尋ねれば私に神様が入っていることが分かる、ということです。そのようになれば、できないことがないというのです。
愛する心は、いつも犠牲になろうとするのです。譲歩しようとするのです。与えても、また与えようとするのです。例えば、私にお金が百億あって、道端に出ていって全部分けてあげたとします。それでも心が安らかでないというのです。世界の人類をみな助けてあげられなかったので、お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいのです。神様の心は、推し量ることができないというのです。神様の心がそうなのです。ですから自慢することができないというのです。いくら大きいことをやったとしても、心に尋ねると「もっとやらなければ」と、このように答えるというのです。
自分の心を清めなければなりません。心を清めなければならないというのです。心が先生よりもいいのです。心は永遠の私の主人です。ですからよこしまな心をもつなというのです。公理に属した公的立場に立った心をもたなければなりません。
ある人をさっと見れば、その人がどんな人かということを、心は一遍で分かるのです。すぐにもそれが分かるというのです。ですから一番近い先生が自分の心です。ですからその心を苦しめるなというのです。心を悲しませるなというのです。それは先生を悲しませることであり、天宙の主人を悲しませることです。心が私の生涯の主人です。ですから心を悲しませるのは、私の生涯の主人を悲しませることなのです。心が喜ぶことのできる道を行かなければなりません。
心と楽しむ時間をもたなければなりません。世の中で見れば、寂しい立場のようですが、心と友達になる時間です。心と座って、瞑想でもしてみよというのです。深い祈りの境地に入るでしょう。人知れぬ深い世界に入るのです。そのようなものが必要です。
二) 三位一体を成してこそ完成人間
統一教会では三位一体を主張しています。それを何によって一体化させるのかといえば、正に真の愛を中心として一つにするというのです。観念と実在に対する問題も深く入ってみると、いろいろな背景があります。それを解明していけば、正にこの道が正当な道だということが分かるのです。それは、体恤してみれば証明されるのです。
千二百四
良心が正しい、行動が正しい、心身一体圏を成しているというとき、それは何を中心として言う言葉でしょうか。言葉だけではいけないのです。行動だけでもいけないのです。心身一体圏の決着点はどこでしょうか。「まず九〇度になりなさい。九〇度になるには、すべての世の中で水平として中心になることのできる基準を立てなさい。西洋に行っても東洋に行っても連結できる標準的な人間になりなさい。それで歴史的に現在と未来を通じて見ても、それは間違いないと言える基準にならなければならない」。これが結論です。
人間の貴重な価値を満点にするのは、真の愛と一体になるときに可能なのです。心身一体とは、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを言います。音叉の周波数が同じとき、一方をぽんと打てばその反対の音叉が響きます。それと同じように、真の愛によって良心を打てば肉身が響くのです。真の愛によって肉身をぽんと打てば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育は必要ありません。その真ん中に入れば、教えるべきすべてのことが分かるようになっているのです。
統一教会の勇士は、どんなことがあっても心身一体圏を成さなければなりません。この生涯の間に心身一体圏をどのように成すのでしょうか。それを成すことができない者が愛を考え、理想を考えるということは恥ずかしいことです。天運に反するのです。そのようなものを完成した自分自身を指向する、そこに新たな希望の道が連結されるのであって、ただそのままの基準においては新たな希望の天国に連結される道が現れません。
心身一体をどのように成すのでしょうか。歴史を通じて心身が紛争しています。神様がそのように創造されたとすれば、そんな神様は人間の敵です。自分がそんな立場にいることをはっきりと知って、神様に「神様自体の心と体が人間のように争いますか」と尋ねたら、神様はどう答えるでしょうか。そんなことを考えてみた人がいますか。
神様も人間のように良心と肉身が、心身一体できずに闘っているのかと聞いてみれば、神様は間違いなくそうではないと答えられます。皆さんは、そんな境地に到達したことがないので知らないかもしれませんが、統一教会の教主としては、そんな境地をいつでも連結できる道があるので、間違いありません。
神様は心身一体となっていらっしゃるのです。
宗教生活は体を主管するものです。三年ないし五年以内に習慣性をつくるのです。そうならないままでも、不便な自分を発見できないときには、心身一体をいくら願っても道がないのです。先生の第一目標は「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」ということです。自分自身の統一圏を成せない人がいくら世界を飛び回ったとしても、自分と関係をもつ道は絶対にないのです。
人間の体はサタンの血統をもっています。皆さんの良心は、アダムとエバが長成期完成級に成長するときまであった神様の良心の基準まで成長しなければなりません。それは信念です。それと反対の愛の力によって、この良心以上の力によってサタンにだまされてしまいました。良心も肉身の方向に従わざるを得なかったのです。
千二百五
良心のほうにもっと力を与えなければなりません。ずっと多くの力を与えれば、肉身がいくら強くてもついてこざるを得ないのです。そうでなく良心が肉身より弱ければ、現在の状態よりももっと下に落ちることになるのです。この二つの道しかありません。それで断食とか水行をして犠牲と奉仕をするのです。
それ以外の道はありません。
皆さんそうですか。この道を歩んでいますか。死んでも犠牲と奉仕をしようと誓いますか。それで死ぬ覚悟をして反対の道を行かなければならないのです。宗教の行く道、それは克服の道です。心身が闘うそれ以上の克服の道なのです。その道を行かずしては心身一体を成すことができないのです。
統一教会に入って長くなったからといって、罪を埋めていてはいけません。それを清算しなければなりません。手続きを踏んで清算しなければならないのです。私の生涯のすべてのものを白紙化させて、そこから新たに復活してエデンの園で罪を犯さず、神様が造られた心と体が完全に真の愛と一つになることのできる本然的な私だ、と自覚できる男性と女性にならなければなりません。分かりましたか。
そうでなければ故郷へ行くことはできません。皆さんは故郷の家を訪ねていかなければなりません。そこには神様がいらっしゃるのです。神様がいらっしゃり、本然的父母がいらっしゃり、本然の私たちの家があり、皇族圏生活を中心として万国を治めることのできる長子権国家の後孫たちが住むべき所なので、そこが新しい私の故郷の家です。自分が生まれたその故郷ではなく、新しい私の故郷の家、本然の家を訪ねていくにはどうしなければならないでしょうか。その故郷に入ることのできる資格を備えなければなりません。そうするには私自身が心身一体となり、統一圏を備えなければならないということを知らなければなりません。
いくら良くできなかったとしても「神様、私はこのように良くできませんでした」と、このように率直でありなさいというのです。そのように祈祷しなさいというのです。「本然の心がこうで、父の心がこうで、師の心がこうで、国の民の心がこのようになるべきではありませんか。このような心を神様の愛と連結させようと、忠孝を尽くす私の心は変わらないでしょう。このような心を哀れに思い、きょうのこの心の前に、すべてのことを許してくださることはできませんか」と言えば、神様が「うんうん」と言われるのです。祈祷する方法も知らなければなりません。分かりましたか。
神様は、いったいどこにいらっしゃるのでしょうか。神様が住まれるところは、いったいどこでしょうか。神様はも価値のある愛に定着します。それならこれが男と女の二人だとすれば、神様はどこにいるでしょうか。神様は一体化し、変わらない、統一された愛の も底に、垂直に住んでいらっしゃるのです。これが何かと言えば、男性と女性が一つになったところ、それが中心点になるのです。皆さんが神秘な祈祷の境地、霊的体験圏に入って「神様!」と言えば、おなかの中から「どうして呼ぶのか。ここにいる、ここ!」と答えます。「ここ」というのは自分の心の中です。心身一体となった愛の中心点、垂直の場にいるのです。神様の点を垂直と見れば、これをゼロ点というのです。
千二百六
心身一体となれば、宇宙の力が保護してくれるのです。宇宙の力が保護してくれる心と体になれば、父母も宇宙の因縁をもった父母、兄弟もそのような因縁をもった兄弟……。みな因縁を結んでいます。民族、国が因縁を結ばなければならないのです。素晴らしい結論です。それで国を越えて他の国に行っても、そのような一体圏を成せばそこでも通じるのです。どこでも通じるのです。サッカーをするとき、ボールが転がっていって止まったらどうなりますか。その表面全体が合わさることができるところは垂直線を通るのです。それで球形体を理想的な存在だというのです。表面のどんなところでも、その垂直線が安着できるのです。それで転がっていくのです。どこでもみないいので……。それで心身一体圏、九〇度の角度になればどこでもみな合うのです。西洋人と東洋人、過去の人と現在の人、未来の人もどこでもみな合うのです。
三) 心が正に師であり近い神様
心とは誰でしょうか。私の主人です。私の先生です。心は誰かと言うとき、心に似た体を生んだので、私の体の根源です。ですから平面的にお母さん、お父さんの代わりです。心は父母の代身であり、師の代身であり、その次は主人の代身です。
皆さんの心は、師が必要ありません。心は第二の神様です。師についていかないで、統一教会の先生に侍らないで、皆さんの心に侍りなさい。心はどうですか。朝早く起きて一人、ねずみの子の音も聞こえず、はえの音も聞こえない静かなときに、「ああ、私はこんなことをしなければ。いいことをしなければならない」と言えば、心が「うれしい!うれしい! 早くしろ!」と言いますが、悪いことを考えれば、心が「こいつ!」と言うのです。心が分かるでしょうか、分からないでしょうか。分かるのです。そうだというのです。心はよく知っているのです。
心の価値、私にとって心がどれほど高いものかを考えてみたかというのです。心は体が間違ったところへ行こうとすれば、いつでも忠告し、こうしてはいけないとみな制裁するのです。しかし体はいつも心を攻撃し、無視し、踏みつけて、自分勝手だというのです。迫害を受けながらでも死ぬときまで私にとっての戦友のように、師のように、主体的使命を全うすべく犠牲を払っていくのが、私たちの体についている心だ、ということを考えてみたかというのです。
人間の主人は、正に自分の良心です。この良心がどれほど皆さんのために忠告し、昼夜を分かたず悪い考えをすれば「おい、こいつ!」と言って、疲れずに引っ張って峠を越え、川を渡ろうと、どんなに気をもんだことでしょうか。このように心は真の主人の姿をもって私を保護しようとするのに、裏切った体、一つしかない宇宙から貴い師として賜り受けた先生であるにもかかわらず、この先生を手荒にあしらった体、また私の本然の愛の心を引き継いでいけるようにした父母の代わりに送ってくれた良心を余地なく蹂躙したこの体、このように心の怨讐となったこの体を皆さんは愛しますか。いいえ!
千二百七
もう、私たちが誰かの言葉を聞く時は過ぎ去りました。どんな真理よりも、千万倍素晴らしい師の言葉よりも、私の心の声を聞き、聞いてもまた聞きたくて、その心を求めていくべきです。そうすれば、私も分からない無限大の何かが出てきます。それが創造の内容です。
良心が体のために、どれほど犠牲になったことでしょうか。一生の間蹂躙される良心の事情を皆さんは知っていますか。昼も夜も私を管理するのにくたびれているのが良心です。それでも疲れずに体が悪い行動をしようとすれば、やめさせようとするのです。「そんなにやったのならもうやめなければならないのではないか。私の言うことを聞かなければならないのではないか」と、そう言うでしょう。自分の前に一番近い、父母の代わり、神様の代わり、師の代わりの存在が良心です。心自体には教育が必要ありません。しかし体には教育が絶対必要です。
私が一つ聞いてみましょう。皆さんの心と体を中心として見るとき、心がどれほどかわいそうですか。心は神様の代身です。心は烈祖(功績のある先祖)、先祖たちを代表するのです。心は師を代表し、心は王を代表するのです。ところがこれまでこの心をどれほど蔑み、手荒にあしらいましたか。宇宙の中心として真なる父母の立場にあり、真なる師の立場にあり、真なる主人の立場にいる、真の愛をもった主体としていらっしゃる方の代わりにあるその心が、この地上において私一人を収拾するためにどれほど犠牲になったことでしょう。そのように犠牲になりながらも不平を言いますか。
ただぞんざいに扱われ引っ張られて回りながら、死んだと思っていたのに、悪い考えをもって夜中にどろぼうでもすれば、「おい、こいつめ!」と再びよみがえって忠告するのです。皆さんは、そのような心をどれほどもてあそびましたか。心は父母の代身であり、心は師の代身であり、心は主人の代身です。心の世界には公判が必要ありません。皆さんが、皆さん自身を誰よりももっとよく知っています。第三者、証人が必要ないのです。
私自身に偉大な師がいることを知りませんでした。心は偉大なお母さん、お父さんの代身なのです。お母さん、お父さんが心に逆らって訓示するはずがありません。心がお母さん、お父さんのように訓戒するとき、服従することを知るべきです。このようなすべての秩序的環境において、起源になり得る道義的な結論が出ていません。そのような公式が出ていないというのです。心を虐待してはいけません。皆さんは二重人格が好きですか。心は先生の代身、父母の代身、神様の代身です。
心を教えることのできる師はいません。
すべての人間は、それぞれ自分の中にも貴い師を一生の間ずっともっているのです。にもかかわらず、その師を間違って待遇し、踏みにじり、濫用します。その師が、正に人間の良心です。私たちの良心は、常に私たち自身にもためになるように言葉を語り、私たちを真の愛と連結させてあげようとします。父母のように私たちの良心は、私たちをして善なる非利己的な人になれと促し、神様のみ意に従って行動するように導いてくれます。しかし各自の心の中にはまた、良心の声にいつも逆らう反乱者がいます。その反乱者が、まさしく肉体なのです。
千二百八
「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」というのは、道義の道を開拓したときの標語でした。「宇宙主管を願う前に、この世の万事と何らかの関係をもつ前に、自己主管を完成せよ」と言いました。貴重な三大お客さんです。主人になることができ、師になることができ、父母になることができるこの方を、私の体が千年、万年仕えても不足だという自分自身を発見するときに、初めてここに天運が臨むのです。心は体のために生きたがるのですが、体は心のために生きません。これが問題です。問題は私自身にあるのです。社会にあるのではありません。
このように心は、真なる主人の姿をもって私を保護しようとするのに、裏切ったこの体、宇宙から賜り受けた一つしかない貴い師であるにもかかわらず、この先生を余地なく手荒にあしらったこの体、また私本然の愛の心を引き継げるように父母の代わりに送られた良心を余地なく蹂躙したこの体……、このように心の怨讐となったこの体を皆さんは愛しますか。いいえ。心と体の闘いをやめさせる前には天国はないのです。どの聖人もこのようなことを考えませんでした。
陰と陽、性相と形状というプラス・マイナスは、相対的であって、相反することができません。しかし今日、堕落した人間には心の声もあり、体の声もあります。心と体が一つになっていません。神様に似て生まれるべき男性や女性の心と体が、どうやって分かれたのかというのです。これが問題です。神様は絶対的な方なので、私たち人間においての標準相である心と体が絶対的に一つになって、神様の全体世界に和合し、一つの中心的な役割をすべきなのにもかかわらず、私たちの心と体がどのように分かれたかというのです。心と体が分かれたのが、心のままになされたことなら、神様はいないのであり、理想や統一や平和や幸福といったものの基地を見いだすことができません。
神様は遠くにいるのではありません。私の中にいます。心が皆さんの主人でしょう。夜にただ悪いことをしようとしても、現れて「行くな」と言い、いつでも現れて主人の役をして、どこででもお母さんのように、先生のように教えてくれるのです。ですから、この体のやつが怨讐です。体が怨讐だというのです。
神様は誰に似ましたか。私たちに似ました。男と女。皆さん、心は見えないでしょう。心を見たいですか、見たくありませんか。神様も同じです。神様が霊的な立場から見れば… …。神様も体がありません。今まで体がありませんでした。アダム完成が成されなかったので、体が今までなかったというのです。心のような宇宙に、心のような主人、心のような師、あるいは管理者、心のような父母としているのです。
千二百九
皆さん、心と体が一つにならなければ駄目なのです。そこに焦点を合わせなければなりません。祈祷するとき、心と体が呵責を覚えるものがあれば、悔い改めなければなりません。悔い改めるときは一人ではいけません。東西南北を備えなければなりません。自分の一番近い人、父母の前に通告しなければなりません。師の前に通告しなければなりません。その次に、自分の息子、娘に、自分の弟子に通告しなければなりません。「私にこんなこんなことがあるのだが、許してもらえるか」と、こうして心を合わせて後援することのできる、このような道を行かなければなりません。何のことか分かりますか。
心と体がいつ統一できるのか、それを考えなかったでしょう。これが深刻な問題です。一生の間心と体が闘うのですが、この闘いをやめさせる者は誰でしょうか。これが問題です。私たちのお母さん、お父さんもやめさせられません。王もやめさせられません。師もやめさせられません。聖人もやめさせられません。この心と体の闘いをやめさせられる主人は、どこにいるのでしょうか。深刻に求めてみましたか。それが真の愛だというのです。真の愛。
心は、皆さんの番人となって昼も夜も皆さんを守ってくれ、皆さんに休みなく「善なることをしろ。善なることをしろ」と言うのです。ですからどんなに疲れるでしょうか。生まれたその日から、意識的に考えることができ、社会環境においてすべての制度を分析できる知能的起源が生じるその日から、生涯をついて回るのです。
自分の師もついていくことはできず、お母さん、お父さんもついていってくれませんが、生まれたその日から死ぬ時まで、永遠に良心は私に対して命令するというのです。神様に似なさい、聖人に似なさい、愛国者に似なさい、孝子に似なさい……。それと同じように似ることを願うのですが、「体よ、お前は私に似なさい」と言うのです。 皆さんの心と体の統一も、真の愛でなければできません。ですから心は、体のために犠牲になりながらも忘れ、また忘れ、また忘れるのです。心は、神様の代身としての立場なので、皆さんの師の中の師です。その心は神様が御自身の代わりに送ってくれた私の中心です。縦的な私です。
五 真の人間が行く道
一) 人間が求めて行くべき道
本性の心が行く道を行けば、宇宙が一つに広がります。そのような何かがなければなりません。そのような境地に入れば、自分の心と話をするようになるのです。そのような境地では、心と話をするのです。何かをしようと思えば、既に答えが出てくるのです。そのような境地まで進むのです。そのような境地にいる人が、自分の行く道が分からないでしょうか。もう行く道が確実で宇宙のすべての作用の力が助けるのです。手を引っ張って試験場へ入れば、既にすべてのものが協助するのです。そうしてこそ大きいことができるのです。
偉大な力の背景をもって生きることのできる人間が、真の人間です。真の人間にはそのように無限の力のバックグランド(背景)があって、自分が指向する方向に無限に後押ししてくれるのです。方向が間違えば、すぐに分かるというのです。統一教会は、皆さんがいい加減に知っているような統一教会ではありません。深い背景、偉大な力のバックグランドをもっているのです。ですから皆さんが努力をしてこのような境地を連結して上がれば、すべてのものがみな解決されるのです。
千二百十
ですからそのような面で、皆さんが行く方向感覚を決定しなさいというのです。それは自分がしなければなりません。自分が一番よく知っているのです。
自分が行く道を求めていかなければなりません。お金さえもてばすべてでしょうか。そうではありません。お金が必要なときがあり、また人として自分が行くべき、他の道を行くべきときもあるのです。ですから、自分が行く道は自分が決めなければなりません。自分自ら、自分の深い心の底から本来自分がもって生まれた本質と共に和合して、未来の目的を指向することのできる、天があれば天がその方向を提示するようにして、自ら解決するようにしなければなりません。
磁石は地球の引力を凌駕した作用として現れるようになっていますが、そのような作用は何によって可能なのでしょうか。地球の重力以下の作用として、その作用を越えるというのです。ですから私たちの良心も同じです。生まれたなら、既に自分が生まれた背景がさっと分かるのです。これは自分が判定しなければなりません。そのようなものを感覚、判定できなければ、皆さんは将来大きいことができないというのです。(一二〇・三〇二)
私たちが自然を見て「ああ、私は四季が必要ない。私は春だけ必要であって、夏や秋や冬は嫌だ」と言うかもしれませんが、神様に尋ねてみると「私は四季がみな好きだ」と答えるというのです。ですから嫌いでも夏を好むことを習わなければならないし、秋と冬を好むことを習わなければならないというのです。雪が降る冬になれば、神様は白い雪が世界的に積もるのを見るとき、喜ばれるのです。「ああ、私もいい」と言うのです。そうでなければなりません。
神様のような心で自然を見ることができなければなりません。そのような心をもたなければなりません。洪水が起こり雷が鳴ったりするときは、「ああ、あれは私は嫌だ」と言うなというのです。神様は「ほほ、あれはキスして結婚するのだな」と、このように考えるというのです。そして「嫌いだ」と言う人たちに、「はははは、おいこいつ!ならず者たちよ!」と言うのです。
人間を愛さなければなりません。人間の中でも五色人種をみな愛さなければなりません。「あ、私は白人だけ好きだ」と、神様がそう言うでしょうか。それならみんな白い服だけを着なければなりません。白人たちはみんな白い服だけを着なければなりません。色のある服は全部捨てなければなりません。
千二百十一
黒い服をなぜ着ますか。色のある服をなぜ着ますか。それは矛盾です。部屋に入れば、色とりどりのものがみなあるのに、ピアノなどもみな真っ黒ですが、どうして置いてあるのですか。黒板のようなものもどうしてもってきたのですか。その人たちには夜もあってはなりません。夜もあってはならないというのです。真っ黒な夜もあってはなりません。どうしてそうですか。白人中心ですか。白人中心が何ですか。それは、滅びる道です。滅びる道。それが何年も続くと思いますか。どれほど続くと思いますか。冬がいくら長くても三カ月しか続きません。永遠のもののために皆さんは、四季をみな愛さなければなりません。ですから白人だけ好んではいけないのです。
神様の愛は、神様のすべてを愛し、人類を愛するだけでなく、過ぎ去った過去、現在、未来の人類を愛してあげる愛です。ですから地獄へ行った霊人たちまでも解放してあげる運動をする神様だということを知らなければなりません。人は真理の道を行かなければならず、生命の道を行かなければならず、愛の道を行かなければなりません。いくら偉大だとしても「ため」に生きる基盤がなければ、すべてのものがついてこないのです。このように生きる人は自然に主体になります。真の生命の人になるのです。
皆さん自身が、自分がどんな道を行くべきかを知って、行かなければなりません。方向をすっぱり決めたならそれを中心として、ありったけの精力をみな投入するのです。疲れて目を開けることができないほど、耳が聞けないほどに、すべてを投入しなければなりません。
統一教会で正常的な信仰生活をすれば、自分が何をすべきかすぐに分かるようになっているのです。しかし自分を中心として生き、自己の考えを中心として行動する人は分からないのです。船にいるねずみの子でも、波打てば船が破損することを知り、すぐに縄をつたって船が出る前にみな港の荷下ろし場へ出ていくのです。それなのに、人間にそれが分からないはずがないというのです。
自分が行く道を知らなければならないというのです。ありも、梅雨になることがみな分かるではないですか。ありが引っ越しするのを見たでしょう。行列をつくって。意味のない空想でもしているので分からないのでしょう。自分が自分の分野を知らないという事実は深刻なことです。深刻に重要な一生の問題を天と共に話し合うべきです。そして自分自ら環境的与件に適応しなければなりません。それを誰がしなければなりませんか。それはいずれにせよ自分がしなければならないのです。
人は冷静になれば、心の深いところに心が落ち着く場があるのです。心が眠ることのできる場があるのです。そこまで私の心が入らなければなりません。そこで寝て、目覚めるときには鋭敏だというのです。そのときに雑多な考えをせずに精神を集中すれば、すべてに通じます。ですから修養が、祈祷が必要なのです。
先生も祈祷するのです。精誠を尽くすのです。いつも精誠を尽くさなければなりません。精誠は一度だけ尽くして使ってしまうものではありません。刀は常に研がなければなりません。刀を一度使って研がなければどうなりますか。いつも研がなければなりません。一度激して怒ったならば、いつも磨いておかなければなりません。それが問題です。静かに心の位置をつかまえておかなければならないのです。
千二百十二
心情の世界の中央に行けば、下がったり上がったり運動するのです。自動的に運動するのです。これが息をするということです。地球も息をしていることを知っていますか。地球も一メートル近く息をするのです。こうしながら調整しているのです。円形によって曲がったところを調整するのです。ですから心情の世界も、中央はすべて軸を中心として上がったり下がったりするのです。運動するのです。
すべての存在物は楕円形で形成されたものです。ですから心の、心情の中心、真ん中に入ってみよというのです。そこで無限の力が伝わるのです。それで九〇度の角度さえつくれば、無限な力を九〇度で保つことができます。それで道を磨いていかなければなりません。精誠を尽くしてこの世のすべての面で、深い心霊世界を体験しなさいというのです。なぜでしょうか。一生の間生きていくのに推進力を無限に普及されることのできる一つの源泉が必要なので、そのようなことをするのです。
先生も、先生自身が今もっている力よりももっと大きい世界的な仕事をするときは、深刻だというのです。もっと大きい力が必要なときは、それをどこからもってくるのかということが問題になります。もってこれないときは、それをどこから補うのかが問題になります。もってこれないときは後退しなければならないのですが、そうすることはできません。ですから祈祷が必要であり、神様が必要なのです。
心情の世界が、それで必要なのです。愛の世界は、いくら引っ張り出しても終わりがないのです。物質の世界も終わり、知識の世界も終わり、権力の世界もすべてが崩壊し得るのですが、心情の世界は無限なのです。ですから心情の世界を中心として動かさなければなりません。 神様は独裁者ではありません。神様も人間のために投入しました。そう、神様が人間の前にいるのは、「ため」に存在するのです。ですから千年、万年神様についていこうとするのです。「ため」に生きる天理の宇宙の存在世界の前に自分自らの存在位置を維持するためには、「ため」に存在しなければなりません。「ため」に生きることが東洋、西洋に通じることができ、古今に通じることができるのです。
神様は昔も今も東洋にも西洋にもみな同じ愛をもっているので、東洋、西洋を克服することができ、過去、現在、未来を克服することができるのです。それは何かと言えば、過去も現在も未来も克服できるので、いつも発展できるし、東洋、西洋を克服するので、東洋、西洋を統一できるというのです。これは愛でのみ可能なのです。
自己主張するときは自己破壊、相対破壊、神様破壊、完全に分離されるのです。そこでは統一的理論を発掘できないことを知らなければなりません。簡単な言葉ですが、重要な言葉です。私たちが理想を求めていく後には、究極には神様の愛と縦的な統一を要求しますが、その縦的基準が早く来いと繰り上げることのできるようにするためには、互いに「ため」に生きなければなりません。「ため」に生きるところから完全に統一圏が広がるのです。
千二百十三
どのように統一されるのでしょうか。先生がどのように統一するのでしょうか。何によって?こぶしによって、力によって、お金によって、権力によって、知識によって?愛を中心とした「ため」に生きる立場で万事が解決するのです。結論は簡単でしょう。真の愛を中心として「ため」に生きていくところに、悪魔の世界が天の国へ再創造されていくという結論です。それは理論的です。
二) 真の人間の行く道
自分を中心として作用しようというのは悪をもたらしますが、全体のために作用しようというのは発展をもたらすのです。これを知るべきです。全体のために行くところは、すべてのものが門を開くのです。個人も門を開けるし、家庭も門を開けるし、氏族も門を開けるし、民族も門を開けるし、世界も門を開くし、天の国も門を開くし、愛の道や、すべての道が門を開いて歓迎するというのです。 そのような道とは何でしょうか。これを私たちは考えなければなりません。それで統一教会はこのような観点で「ため」に行く道を取れ、「ため」に生きよ、と「ため」に生まれたという天理を教えるのです。
真の人生が行く道とは何でしょうか。一つの公理として立てるべきことは「ため」に生きよということです。これはどこでも通じることのできる原則ですから、万古不変です。過去、現在、未来がないので「ため」に生きよというのです。ここに孔子やイエス様やお釈迦様やマホメットのようなすべての聖者という人の前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」と言えば、「そのとおりです」と言うでしょうか。「それは違います」と言うでしょうか。「正しい」と言います。それが宇宙の法則です。それが、人間が人生において真の姿で生きることのできる一つの法だということを知るべきです。このような真の道があるのです。
世界的な人物になるためにはどうしなければならないでしょうか。人倫道徳だけを中心としてはいけません。人だけを中心としてはいけないのです。人だけを中心としては国を越えることができません。国を越えることのできるそのような内容は天にあるのです。天宙思想をもたずしては国を超越できないのです。ですから聖人たちが何を紹介したのかといえば、人間だけを紹介したのではなく、神を紹介しました。聖人の等級に同参した人々を見れば、神を崇拝しましたか、しませんでしたか。神を抜きにして聖人になった人がいますか。また聖人たちは人倫の道理だけ教えてくれたのではなく、天倫の道理を兼ねて教えてくれたのです。
家庭で父母に尽くし愛する人は孝子です。国のために生き、愛する人は愛国者です。世界を愛する人は聖人です。それでは、先生が教えるものとは何ですか。神様と世界と宇宙を愛する聖子になれというのです。皆さんはどんなものになりますか。聖子になりますか。孝子、孝女になりますか。そうなるには神様のような愛を心にもたなければなりません。
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神様は、短い生涯を生きて死んでいく人間の前に、一番良い標語、一番良い課題を賦与せざるを得ないので、その課題として「誰よりも神様をもっと愛しなさい」という標語として掲げたというのです。それによって誰もなることのできない神様の息子になれるのです。神様の息子になる日には、聖人完成はもちろん、忠臣完成ももちろん、孝子完成ももちろんなのです。すべてのものが完成だというのです。このようになれば、家庭でも勝利した立場に立つのであり、国家的基盤においても勝利者となるのであり、世界的基盤においても勝利した者となるのです。
統一教会は何をしようというのでしょうか。偉人をつくろうというのではありません。聖人をつくろうというのです。偉人の前には怨讐がいますが、聖人の前には怨讐がいません。偉人は自分の民族だけを愛した人ですが、聖人は人類を愛した人です。それゆえ偉人が神様の前に出ていくとき、「お前はお前の民族は愛したが、私が愛する、私が求める世界人類を愛することができなかったではないか」と言われれば、出ていくことができませんが、聖人の道理に従っていった人は神様の前に直行できるのです。統一教会は何をしようというのですか。偉人をつくろうというのですか、聖人をつくろうというのですか。
宇宙を造った神様とは、宇宙の法度を立てた神様とはどんな方でしょうか。全宇宙を通じて、誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですからその方に出会うには「ため」に生きなければならないのです。その方は知識の大王でありながら、「知識をもって神様の前に来い」とは言いません。能力の大王ですが、「能力をもってこい」とは言いません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、「それをもってこい」とは言わないのです。「ため」に生きてくれば、すべてがついてくるというのです。
三) 「ため」に生きる法度を立てた理由
私たちが思うに、愛とか理想とか幸福とか平和とかという言葉は、一人では成立しません。これは相対的な関係で成立する言葉なので、いくら絶対者神様がいらっしゃるとしても、その神様が願う理想と幸福と平和は一人で成すことはできないのです。神様の理想を成就させることができ、神様の愛を成就することができ、神様の幸福と平和を完結させられる対象が人間だ、という事実を私たちは考えることができなかったのです。神様一人で愛すれば何をし、神様一人で理想をもって何をしますか。相対的な人間を通じずにはこのような要件を成就させることはできないということは、当然の結論です。
知恵の王であられ、全体の中心であられる神様の真なる愛や、真なる理想や、真なる幸福や、真なる平和の起源を主体と対象、この両者間のどこにおくのでしょうか。これが問題にならざるを得ません。主体がいらっしゃる反面、対象がありますが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、理想の要件をどこにおくのかということが、創造主であられる神様として問題とならざるを得ません。
それで真なる理想、真なる愛、真なる平和において主体を中心として対象が主体のために生きるのに理想的起源をおくのか、対象を中心として主体が対象のために生きるのに理想的起源をおくのかという問題を考えられた神様は、その理想的起源を主体の前に対象が「ため」に生きよという立場に立てるならば、神
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様がそうなると同時にすべての人も自分がある対象をもつことができる立場に立つならば、そのようになるでしょう。そうなれば、一つになることのできる道がふさがってしまいます。これを知るべきです。
一つになることができ、平和の起源になることのできるその道は、どこにあるのでしょうか。神様御自身だけでなく、真の人間は「ため」に生きる存在だという原則を立てざるを得なかったのです。ですから真の愛は「ため」に尽くすところから、真の理想も「ため」に尽くすところから、真の平和、真の幸福も「ため」に尽くす立場で成り立つのであって、「ため」に生きる立場を離れては見いだすことができません。これが天地創造の根本だということを、私たち人間は知りませんでした。
男と女が生まれたのは、男は男のために生まれたのではなく、女のために生まれたし、女は女のために生まれたのではなく、男のために生まれたのです。生まれるのに自分のために生まれたのではありません。自分のために生まれなかったのに、自分を主張するのです。「私、私」というこの思想を壊してしまわなければなりません。これさえ壊してしまえば、統一の世界が展開するというのです。
自分の価値を自分から追求するよりも、相対から、すなわち相対的基準からその価値を追求することのできる道を探求する人は、不幸な人ではありません。いつも、どこでも心情の土台は相対圏をもっているので、どこに行き来しても彼は寂しくなく、幸福であり得るのです。
神様は、なぜ「ため」に存在する原則を立てざるを得なかったのでしょうか。まず皆さんに尋ねますが、もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くし犠牲になりながら一〇〇パーセント恩賜を施した人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩に報いるのに五〇パーセントはポケットに入れて五〇パーセントだけ報いたいですか。それともありったけの恩返しをしたいですか。私たちの本心がどのように作用しますか。
誰でもより多く報いたいのが本心です。与えるままに心から愛する中でくれたことを知れば、一〇〇パーセント以上を返そうとするのです。一〇〇パーセントが一一〇パーセントになって帰ってくるし、その一一〇パーセント帰ってきたのは、また向こうが心からくれたので一二〇パーセントを返すようになり ……。このようにすることによって、ここで永遠という概念が設定されるというのです。永遠が始まるのです。ですからこのような原則を立てざるを得ないし、それだけでなく、ここから発展と繁栄が生じるのです。
理想と愛は人間にとって生命よりも貴いものなのにもかかわらず、今日人間たちはこのようなものが自分のものとして自分に現れると思っていること、これが大きな誤解だというのです。愛と理想はどこから来るのでしょうか。対象から来ます。対象から来るので、「ため」に生きる法度を立てざるを得ないのです。知恵の王であられる神様はこのようなすべての結果を御存じなので、そのような法度を立てざるを得ないということを知るべきです。
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永遠という概念、これは自分の「ため」に生きるところでは不可能なものです。皆さんが運動するのを見ても、押してくれ、引っ張ってくれる相対的方向が、大きければ大きいほど早く回るのです。知恵の王である神様が「ため」に存在する法度を立てたのは、永遠であり得るために立てられたということを知るべきです。
私たちの中で、人に主管されるのは死んでもできないと考える人たちが多いと思います。さらに識者層にいる高名な方の中に、このようなことを多く見ます。しかし一つ知るべきことは、今までの人間たちが「ため」に存在するその方に主管されて生きることが、どれほど幸せかという事実を夢にも考えられませんでした。霊界の組織を見れば、天地の大主宰であられる神様、その神様は宇宙万有の存在の中で、「ため」に存在する中心存在なので、その方に支配されるのがどんなに幸せなことか……。千年、万年支配されても感謝することのできる理想的統一圏がここに成立することを知っているので、神様は「ため」に存在せよという原則を立てざるを得ませんでした。
愛は私から始まったのではありません。生命よりも貴い愛と理想を見つけるには、対象がいなければできません。私たちはこれを考えつきませんでした。この高貴な愛と理想を受けることができ、それを見いだすことができる存在が対象です。ですから私たちが謙遜にその高貴な愛と理想を受け入れようとすると、も「ため」に生きる立場でなければならないので、神様は「ため」に存在せよという原則を立てざるを得なかった、ということを私たちは覚えておくべきです。 愛は一人では成されません。愛はどこから出てきますか。私から出てくるのではなく、対象から来るのです。対象から出てくるので、私が頭を下げて対象のために生きなければならないのです。「ために生きよ」という天理がここから生まれるのです。極めて高貴なものが私を訪ねてくるのですが、それを受けようとするので、高め、「ため」に生きるべきだというのです。「ために生きる哲学」を成してこそ愛されるのです。
真の愛は、与えても忘れ、また与えようとする愛です。偽りの愛は、与えても付け加えて商売する愛であり、与えたのでお前はそれ以上返しなさいという愛です。これはサタンの愛です。
私たちの本郷は、神様の「ため」に存在する者たちだけが入るところであり、「ため」に生まれ、「ため」に生きて、「ため」に死んでいった人たちが入る所です。これが私たちの本郷の理想的構造なので、神様は本郷を訪ねてこさせるために、歴史過程で数多くの宗教を立てて、訓練させてきたのです。
これまでの宗教が温柔謙遜でなければならず、犠牲にならなければならないと教える理由は、霊界の法度がそうなので、霊界に帰るべき人間たちを地上生活の過程でその霊界に合うように訓練させざるを得なかったからです。ですから高次元的な宗教であるほど、より次元の高い犠牲を強調し奉仕を強調するようになったのは、普段の生活を通じて、その世界に一致させようとするところにその原因があるのです。
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しばしばこの世で、「ああ!人生とは何なのか」と言いますが、人生観、国家観、世界観の確立、その次には宇宙観に対する確立、ひいては神観の確立が問題となるのです。これをどのように確立するのでしょうか。系統的段階と秩序をどこにおき、その次元的系列をどのように連結させるかという問題は、も深刻なものです。しかし「ため」に存在するというこの原則に立脚して見るとき、も価値ある人生観は、私が全人類のためにあり、全世界のためにあり、国家のためにあり、社会のためにあり、家庭のためにあり、妻のためにあり、子女のためにあるという立場から幸福な自我を発見することができるならば、これ以上の人生観はないと見るのです。