天聖經-第9巻 祝福家庭
千二十七
第一章 真の父母と祝福
一 祝福の意義と価値
一) 祝福とは何か
①祝福の意義
祝福は、真の父母と真の子女が出会い、創造目的を成し遂げることを意味します。
神様は二性性相としていらっしゃいます。これをプラスに分立させたのが男性のアダムであり、マイナスに分立させたのが女性のエバです。そしてアダムとエバを再び合わせた姿のようなものが子女です。このように神様を中心として一代、二代、三代が形成されるのです。
では、この三代の中で問題が起こったのは何代かといえば、二代目のアダム、エバの代です。アダム、エバが神様の愛を中心として一つになれなかったのです。もし、アダムとエバが神様の愛を中心として一つになっていたならば、神様が臨むことのできる因縁が決定され、そのことによって子女にも、神様と関係を結ぶことのできる愛の基準が連結していたことでしょう。それを「祝福」と言うのです。
統一教会で行う祝福結婚式は、ただ単に男女が出会って一家庭をつくる婚礼式ではありません。今までの結婚式は、自分を中心としたものでしたが、私たちの結婚式は、神様に喜びを返すような内容をもって歴史を蕩減する貴い条件として、神聖で盛大に挙行します。私たちの結婚式とは、アダムとエバの堕落によって始まった神様の恨を解き、イエス様が成し遂げられなかった新郎新婦の基準を通過することだ、ということを「原理」は明らかに説明しているのです。
「祝福」という言葉は、統一教会から始まった言葉ではなく、創世時から堕落した以後今まで、歴史過程を通じて神様の内心の中に一つの願いとして、神様がいつもこれを追求し願ってこられたものだということを知らなければなりません。
そのような希望の一日を取り戻すために神様は、今まで受難の道を歩んでこられましたが、いまだにこの日を取り戻せないでいるのです。ゆえに、この一日を取り戻すならば、この日は歴史的な解怨が成就できる日となり、神様の歴史的な願いを成就できる日になるというのです。このようなことを考える時、この祝福の場が、どれほどとてつもないかという事実を知らなければなりません。
人間の先祖のアダムとエバが堕落したその日から、人間は神様が祝福してくださる一日を待ち焦がれてきました。
祝福の場は、過去から今までつづられてきた歴史過程における、あらゆる悲しみを清算することのできる場です。今まで成就できなかった神様の願いが、新たに出発できる場であり、新たな人間の未来が出発するきっかけとなり得る一つの基点なのです。
今の時代は、蘇生、長成の段階を越えて、完成段階へと進んでいく時代なのです。縦につくられた歴史が横的に越えていくべき時代なのです。すなわち、六千年の歴史をすべて一度に越えていく時代なのです。ですからサタンの侵犯圏内を抜け出さなければならないのです。
それでは祝福とは何でしょうか。今までの歴史的なサタン圏を完全に越えさせる関門なのです。
千二十八
祝福は、真の父母の因縁を継承することです。この日のために、先生は精誠を尽くして闘ってきました。したがって、真の父母がサタン世界と闘ったその看板を掲げて祝福するのです。
先生が生涯でも貴いと考えたものとは何でしょうか。祝福です。皆さんにとっても、人類歴史始まって以来、 高の贈り物は、祝福です。
今日、皆さんは、まだ真の父母と完全な因縁を結ぶことができないでいます。ですから、その因縁を結んであげるためにしてあげるのが、統一教会の祝福です。
祝福を受けた人は、霊界に行っても先生が永遠に責任を負います。先生が主管して指導します。祝福とは、このように先生と永遠の因縁を結ぶものでもあります。
祝福をしてあげるということは、天の全権を委譲してあげることを意味します。
祝福は、天国の門を開くことであり、天国は、子女をもって家庭が入っていく所です。
祝福とは、永遠の宝物です。子孫万代を今から出発するという一つの契約です。ですから、それを汚す時には一族が関係します。イエス様を十字架につけることによって、一国家が関連することになったように、一族に連結されます。
祝福とは、歴史が追求してきた万民解放の門を開く鍵なのです。
祝福を受けるということは、とてつもない事実です。祝福を受けた人は、神様の代わりに「私が定めれば天宙も定める」という心で、主人として振る舞える人にならなければなりません。このような条件が備わってこそ、天が私たちを中心として生活理念を立てることができるのです。
神様の祝福は、絶対的に公的なものです。その祝福は、ある個人だけのためのものではなく、またある家庭だけの、ある国家だけの、ある世界だけのためのものではありません。神様の祝福は、宇宙全体のためのものです。
「祝福」という言葉は、福を祈るということです。祝願する(祈る、願うという意味)の「祝」という字です。福を祈るのに、どんな福が一番貴いのでしょうか。愛の福が一番貴いのです。統一教会は、そのような意味で「祝福」という言葉を使うのです。一番貴いもの、宇宙の公約を代表した一番核心的な起源が、男性と女性が結合するところから始まるので、その祝福が一番偉大だというのです。
その偉大なものが福を祈れば高の福になるので、統一教会では結婚式を「祝福」と言います。初めて来た人々は、こういうことを知らなければなりません。統一教会で「祝福を受けた」というのは、今日この世で「福を受けた」というのとは違います。神様の立会いのもとに、真の父母を通じて結婚式をしてもらったということです。
今、あのイギリスの王室にある五三〇・二カラットのダイヤモンドは、昔アフリカでは石ころの扱いを受けていたのです。ダイヤモンドが世界でも貴い宝石になることを誰が知っていたかというのです。きらきら光るのを見て、単なるガラスの塊だと思っていたのではありませんか。全く同じです。この貴い祝福を受けたことは受けたのですが、これがダイヤモンドであるにもかかわらず、単なるガラスだと考えているのです。何も知らずにいたのが、先生から話を聞いてから「ああ!貴いんだな」と言っているのです。
千二十九
祝福の中で一番重要なものとは何でしょうか。お金ではありません。名誉でもありません。いかなる権力でもありません。息子、娘が栄えていくことです。皆さんがそれを知らなければなりません。祝福の中で一番良い福とは何でしょうか。息子、娘が天の愛を受けることができるように生まれることです。それは立派に生まれることです。
するとどうなるのでしょうか。その息子が私より神様の愛をたくさん受ければ、恩恵を受けるようになります。そうではありませんか。山の谷間の向こうからこのように下りてきた電線のようなもの、この送電線のようなものを見れば、伸びていますが、ここでぎゅっと引っ張ればピンと張るのです。同じように、子供が天の愛をたくさん受けるようになれば、私がそれだけ落ちたとしても、ぐいっと上がることができるのです。恵みを受けるのです。
祝福の場に参加する人がいるならば、彼はただそのまま一人の男性、あるいは一人の女性という立場で参席してはいけません。その場は、今まで六千年間この世に来ては逝った数多くの男性、あるいは数多くの女性を代表した場です。その場に皆さんが招請を受けたという認識をもたなければなりません。皆さんは、そういう事実を内情的な心情で体恤しなければなりません。
祝福が成される今の時は、どのような時でしょうか。今は、神様の願いが成される 高の時であり、六千年間苦労してきた神様の恨が終わる時であり、この地へ来られ、御苦労された神様の息子、すなわちイエス様の願いが成される時です。それだけでなく、人間が創世以後、初めての愛が始まる時であり、万物の歓喜と尊貴と栄光を受けることができる時です。神様にとっても、この日がどれほど良いでしょうか。罪悪がみな消え、光明の太陽が昇った明るい天地を迎える日、すべての自然が和動し、すべての万象が踊る明るい朝、勝利の朝を迎える日です。
先生は今、現実はこうですが、後日、先生が祝福した者の中から後に残った一人が、世界的な人的資本として残り、栄光を受けることを希望して生きています。
②祝福の価値
皆さんは、摂理的に見るとき祝福がどれほど重要なのかを知らなければなりません。神様を中心として祝福を受ける場は、地上天国と天上天国が出合う場です。横的に、永遠な世界と瞬間的な世界が出合う場です。
祝福は、天地でも貴いものです。同時に、極めて恐ろしいものです。もし祝福を受けた夫婦が、互いにほかのことを考えるならば、それは相手を蹂躙することです。皆さんからまず善の先祖、地、国が生じるのです。したがって祝福を受けた人は、目覚めれば、天地を考えなければなりません。祝福は、人に福を分けてあげるためのものです。
1030 * 千三十
祝福の場は、恐ろしい場であり、ここでは、いい加減な自分の感情は通じません。一生命の価値は、宇宙よりも貴いものです。ゆえに、一人に責任をもつには、永遠を中心として責任をもたなければなりません。こういう問題が左右する場が祝福の場であることを皆さんは、はっきりと知らなければなりません。ですから自分の一生で、そのような一時をもったならば、彼は幸福な人です。このようなとてつもない祝福の場に皆さんが加担するためには、歴史的な決心をしなければなりません。
祝福は、その価値を知って受けなければなりません。祝福を受けることによって、第三イスラエルの位置に立つようになるということを知らなければなりません。皆さん、祝福の意味と価値を知ってみると、祝福を受けずしては、人間完成の道へと行くことができません。結婚していない人々を大人として扱いますか。人間の世の中でも、処女が死ねば処女の怨霊で、チョンガー(独身の男性)が死ねばチョンガーの怨霊と言います。それは、誰かがそのようにしたのではありません。天道がそのようになっています。
国の国王も国民もサインするのは同じですが、その内容においては天地の差があるように、祝福においても外的に見れば何でもないようでも、その内容と価値において見れば、とてつもない差があるのです。
皆さんが衣食の問題が大変だといって、なすべき使命を忘れて、神様が下さった祝福をお金で売るのですか、そのような考えでしょうか。神様の祝福は、天と地を与えたとしても絶対に引き替えることができません。 祝福には、全世界を与えたとしても引き替えられない価値があります。時には、私が祝福してあげたことを後悔することがあります。祝福は、一人の男性と一人の女性が神様のみ意を中心として、「真の愛を実行する真の父、真の母になれ」と言って、してあげたものです。
祝福の場とは、どんな場でしょうか。祝福の場は、世界で一番良い場です。その祝福の場は、誰と関係を結ばなければならないのでしょうか。皆さんは自分自体で完成するのではありません。父母の愛によって完成するのです。子供が親の懐から生まれれば、立派に生まれたとしてもそうでなくとも、その親の姿に似るのです。それと同じように、統一教会では真の父母の道理を教えます。それが皆さんには、福の中の福です。
八十歳を越えたおばあさんたちも、祝福を受けることができずに死ねば、天国に行けないという事実を知っているために、死んでいく後の瞬間でも何千里も何万里も向こうに男がいても、その男と絹織り糸を結んで、祝福の条件だけでも受けたいと思うのです。統一教会ではこのようになっています。先生はこのことをやり遂げなければならないので、星回りが悪い人です。
千三十一
祝福を受けたということは、メシヤが二千年間の苦労によって地上に基盤を築き、選ばれた民族と教団と自分の氏族を中心として、新郎新婦の名前で出発することができる時が来たということです。皆さんが氏族的メシヤになることができるでしょうか。先生と父子の因縁が結ばれたがゆえに、サタンもどうすることもできないのです。このように祝福は、本当にとてつもないものです。
イエス様が二千年の間、精魂を尽くして成したかったこととは何でしょうか。婚宴をしようとされたのですが、婚宴とは何でしょうか。正に祝福です。イエス様が二千年間願ってきた、その願いを成就する基準が祝福の婚宴です。婚宴しようとするならば、新郎の前に新婦が現れなければなりませんが、それがキリスト教の終末です。ですからキリスト教を越えずしては、天国に行くことができません。
イエス様が来て、四千年の歴史を終結させて新しく出発しようとしたものとは何でしょうか。家庭がないために滅びました。家庭があったならば、氏族は自動的に時間がかかっても横的な面において歴史を通じて蕩減できるのです。そうなれば、イエス様の一族が生じていたでしょうし、イエス様の民族が生じていたでしょうし、イエス様の一国が生じていたのではないかというのです。そのようにすることができる家庭をもつために、イエス様が三十三年間苦労したのです。三十三年間苦労してももてなかった家庭なのに、皆さんは祝福の価値を知っていますか。祝福は、六千年間探し求めてきた恨の解決門なのです。
「小羊の婚宴」は人類歴史上、初めて人間が祝福を受けて家庭的な救いの基準を立てることを意味します。これが六千年の歴史が探し求めてきたものです。「小羊の婚宴」をする新郎新婦が、真の父母の使命をもって現れることです。ゆえに、再臨主の祝福を受ければ、その家庭の救い主として、その家庭の救いの門を開くことになります。 統一教会に入って皆さんが祝福を受けたということは、神様が四千年間摂理してこられた土台の上に、イエス様を送り、み旨を中心として家庭を復帰したという勝利的基準に立ったということです。それで皆さんの子孫は、復帰摂理において何の功労がなくても、皆さんの勝利の基準を通じて、四千年の復帰摂理で功臣となった先祖たちの恩賜を受け継ぐことができる立場に入っていくのです。
エデンの園で、男性の前に女性を創造しなかったならば、どうなっていたでしょうか。女性がいるという事実は、宇宙的な真理です。奇跡の中の奇跡が、男女が存在するということです。片方だけ存在するとすれば、何も存在しないのと同じです。人類はおしまいです。統一教会の祝福の価値が、こういう角度から十分に分からなければなりません。
一度相対者に会えば、それは永遠と連結します。宇宙を与えても、神様を与えても買えない本然の夫婦の愛に感謝して、強く大胆でありなさい。統一教会の真の愛を味わった者たちは、世界のどこへ行っても、その愛の光が共について回るようにならなければなりません。人類を、全宇宙を、真の愛を中心として愛さずしては、絶対に天国に行くことができないのです。
千三十二
「神様が変わらない限り、私は変わらない。過去、現在のいかなる人やいかなる物が、サタン世界の生命、サタン的愛、サタン的理想を私から完全に奪っていっても、私は行くのだ。さらには、神様が変わるようなことがあっても、私が神様を元に戻していくのだ。神様が絶対的でなければ私が絶対的にしてみせる」と、こういう考えをもたなければなりません。そのようになれば、神様でも絶対服従します。「私は、金の輝きのように、ダイヤモンドのように硬く、変わらない光をもっている」と、そのように考えなさいというのです。そのような立場で、そのような日を見つめて、神様がアダム、エバの祝福の一日を願っていたというのです。
皆さんは、神様を探す必要はありません。それよりは愛が必要だというのです。この愛さえもてば、神様は自然に私のところに来るということです。私に捕らえられるというのです。ですから神様を探す方法は、世界人類を兄弟と思い、神様のように父母のように愛して行動することです。そうすれば、すぐに神様は私のところに来るというのです。それで宗教では愛を語っているのです。しかし、このことが成されなかったために、今日、統一教会はこれを再び復帰するために、このようなことをせざるを得ないということを知らなければなりません。祝福はこの場で受けますが、一つになり、これを中心として拡大さえすれば、この宇宙は皆さんのものになります。
宇宙は、生きるか死ぬかの決定点です。
三・一運動に参加した三十三人の中に李甲成という人がいるでしょう。今、その人一人だけが生きていますが、三・一運動について考えるとき、その人が大統領よりも高いですか、高くありませんか。それは尋ねるまでもなく、より高いというのです。同じように、先生を通じて祝福結婚をした人は、世界的な栄光を受けることでしょう。
たとえ一番後に結婚した一双が、夫婦とも、目も一つなくて、鼻も曲がって、耳も一つなく、腕も一つない不具の中の不具であったとしても、彼らは世界的な栄光を受けるようになるでしょう。そのような身体上のことが問題ではなく、先生を通じて祝福を受けたということそれ自体が問題になるということです。それは数億万ドル与えても買うことができないのです。私たち統一教会のお嬢さんたち、それを知っていますか。どれほど知っていますか。
③祝福は人類が通過すべき公式路程
統一教会を中心として成される合同結婚式は、統一教会にだけ限られる結婚式ではありません。これは、全人類が必ず通過すべき公式的な路程なのです。これをはっきりと知らなければなりません。それでは祝福結婚式をやらなければならない根本的な原因はどこにあるのでしょうか。それは、私たち人間の始祖が堕落したからです。
もし人間の始祖が堕落しなかったならば、今日、私たちが祝福を受ける、このようなことはなかったはずです。しかし堕落することによって、再び神様の主管圏に越えていかなければならない復帰路程が残るようになったので、私たちはこのような道をさかのぼっていかなければならないのです。今日、人間たちが宗教を信じるのも、このためであり、歴史が指向してきたのも、やはり同じです。
千三十三
これから人類は、どこへ行くべきでしょうか。「全人類は祝福の門を通らなければ、天国に行くことができません。数多くの人々がキリスト教を信じていますが、そのキリスト教自体も祝福という門を通らなければ、天国に行けません」。このように言えば、キリスト教では、「統一教会のレバレンド・ムーンは独善的な発言を多くする」と不平を言います。こういう考えをする人、またそのように話す人がいるかもしれませんが、それはその人たちの言葉であって、統一教会でいう祝福結婚は、堕落した人類にとっては必ず行くべき道なのです。どんなに反対しても、霊界と肉界を連結して天国に入っていく上で重大な問題となるのが、この祝福結婚だというのです。
結局、後の目的はどこにあるのでしょうか。真の家庭を取り戻そうということです。これが堕落した人間が探し求めてきた 高の目的なのです。この真の家庭を成すためには、真の人が出てこなければなりません。真の人の中でも真の男性が先に出てこなければなりません。その真の男性が真の女性を探して立てて、神様を中心として聖婚式をすることによって、初めて真の家庭が出現するのです。
人間が堕落することによって、こういう起源をもつことができなかったので、私たちは今までのすべての家庭を否定し、新しく神様の摂理のみ意に従って、このような家庭的基準を踏んで越えていかなければならないのです。もしその基準を越えていくこができなければ、堕落した人間は本然の世界へ戻ることができない、というのが原理的な見解です。
堕落した人間たちは、誰でもこの公式的な条件をたどっていかなければ、神様の前に立つことができないということを知らなければなりません。 天国理想は、結婚して家庭をもたなければ成されません。統一教会ですべての善男善女たちが祝福を受けなければならないというのも、天国理想を実践していくためです。未婚者はもちろん、既に結婚した人であっても、一定の基準を備えて再び祝福を受けなければなりません。すべての人が祝福を受けなければならない理由は、創造理想世界へ帰るためです。もともと創造理想の世界は、真の男性と真の女性が祝福を受けてつくっていく世界ですが、堕落によってそういう愛の歴史が一度も現れなかったのです。
堕落とは、サタンを中心として結婚式をしたことです。サタンを中心として結婚したので、神様を中心として、神様のみ名によって結婚しなければなりません。その結婚は、世界史的な結婚です。一民族の中での結婚ではなく、民族を越えてサタン世界を超越した立場での結婚です。サタン世界を越える場です。
千三十四
エデンの園において本来アダム、エバの息子、娘の結婚式は、神様の命令によってアダム、エバがするのです。私たちの結婚式も同じ理致です。それで私たち統一教会では、真の父母のみ名によって祝福してあげるのです。今までこの世で、自分のお母さん、お父さんが結婚の主礼に立って結婚式をするのを見たことがありますか。そのような人はいないのです。それを見るとき、この世には完成した人がいないということを物語っています。 結婚式は、正に愛の伝授式です。神様の愛をもって父母が生きるように、皆さんも父母の愛を神様の愛の代わりに受けて、「このように生きよ!」という愛の伝授式が結婚式だというのです。神様の愛を父母から受けるのです。ある有名な人から受けるのではありません。それは天使長がしてくれる結婚です。名のある人が片方だけ来て結婚式をするのは、みな天使長にしてもらう結婚式です。
愛で堕落したがゆえに、復帰するにおいても、天を中心とした新しい父母の愛と関係を結んでしなければなりません。それで統一教会で合同結婚式をする時は、先生とお母様、二人でしてあげるのです。それが愛の伝授式です。ここで造成された伝統は、永遠の伝統になるのです。革命は必要ありません。このように革命の必要のない新たな伝統が、この天地間に立てられるとき、ここから新たな家庭と、新たな氏族と、新たな民族と、新たな国家と、新たな世界が形成され、この地球星を主管することができるのです。
誰も手をつけられないことに統一教会は着手して、再創造の道へと導いてきたのです。これができる日には世界が一つになるのであり、悪のサタン世界を天の国へと転換させることができるのです。今日米国が、若者たちが自ら相対を得られるようにしてきたのはおかしなことです。キリスト教文化圏なのに、聖書が認めないことをやっているのです。これは物質文明と共にサタンに侵食され、サタン側的な自由主義によって、そのようになったと見るのです。
ところが皆さんは、なぜそのようにしませんか。サタンがやってきたことを、私たちはすることができません。愛とは何でしょうか。神様から、父母から受け継いだ結婚をするのが原則であるにもかかわらず、神様と関係のない自由結婚を唱えたことが堕落なので、これを根本的に根絶しなければ、天の国に戻ることができません。
ここは、天道を立てる所です。私は死んでも原理原則を立てるために、私の生活を捧げてきたのに、この結婚という問題に対して、皆さんの言うことを聞いて、適当にする男ではありません。
二) 祝福から見た真の結婚観
①真の結婚は神様の形状に似るためのもの
結婚は、なぜするのでしょうか。神様の姿に似るためです。神様は二性性相でいらっしゃる方として各一性が合体化した一体的な存在であられ、その神様の分性的人格自体が男女なので、彼らが合性一体化することによって、種のようになり、神様の本性の場に戻らなければならないのです。
結婚の高の神聖さを私たちは謳わなければなりません。男性と女性が愛することができる道は、結婚生活なのです。そのように一つになることによって誰に似るのでしょうか。神様に似るのです。男性と女性が一つとなってこそ、御自身の形状どおりお造りになった神様に似るのです。そうしてこそ神様が臨まれるのです。
千三十五
原理について考えるとき、アダム、エバが堕落せずに完成していたならば、結婚式の場へと進んでいたことでしょう。言い換えれば、アダム、エバが神様の実体対象として神様が主体になられれば、彼らは対象になるのです。そのような立場で、愛の主体なる神様から対象的な立場の愛を連結させることができるその土台として個性を完成し、結婚することによって、祝福は成されるということを知っています。
完成は結局、結婚をいうのであり、結婚は、神様の愛の顕現をいうのです。別の言い方をすれば、結婚がなかったとすれば、現在、人類のこの世における愛というものが始まらなかったと見るのです。その愛の主人とは誰でしょうか。人間ではなく神様だということを私たちは知らなければなりません。
結婚は、創造理想を完成するためのものです。すなわち、創造目的を成し遂げるためにするということです。すると創造目的は、誰の目的でしょうか。アダムの目的である以前に神様の目的です。ですからアダムが喜ぶ前に神様が喜ばなければならないのです。そのようにならなければなりません。このように見るとき、結婚を誰ゆえにするのでしょうか。神様ゆえにするのです。言い換えれば、神様の創造目的というみ旨のためにするのです。
み旨は創造理想を完成することです。
結婚をなぜするのでしょうか。アダム、エバが自らの愛を探していくためのものではありません。縦的な神様の愛を核として、その核を中心にその分身として一つの球形を成すためのものです。それが理想です。神様の創造理想もそういう愛を中心として結着するのであり、人間の男性と女性も成熟して、そこで愛の結着点が生じ、生命が連結されるのです。ですから生命によって連結されるのではありません。愛によって連結されるのです。縦的父の愛と横的夫婦の愛を中心として、本然の愛の種が初めて連結されるのです。 成熟したアダム、エバが愛の因縁を結ぶことができるその時になれば、神様は二性性相としていらっしゃるので、男性性相はアダムに臨在し、女性性相はエバに臨在するのです。神様が私たちの体と心の中に臨んで、神様が結婚式をするのです。アダムの心は至聖所のようなもので、アダムの体は聖所のようなもので、その中に神様がいらっしゃるのです。そのようになっていたなら、アダムは神様の体になるのであり、エバも神様の体になるのです。
神様の男性格的性稟に似たのがアダムであり、女性格的性稟に似たのがエバです。この二人が結婚式をすることが、宇宙の王権を立てる式ではありませんか。それは何の王権ですか。愛の王権です。
結婚をなぜするのでしょうか。神様を愛するために。神様を愛して何をするのでしょうか。神様の軸と一致するためです。一致して何をしようとするのでしょうか。一致すればどうなりますか。なぜ一致しようとしますか。絶対的な神様の愛を中心として、永遠の愛を中心として永生がなされるのです。それだけではありません。そのように接触した、そこから宇宙の相続権が伝授されるということを知らなければなりません。愛を中心として造られた被造世界は、神様のものですが、私のものとして相続権が与えられるのです。
千三十六
結婚した夫婦の愛というものは、神様の縦的な愛に接ぎ木されるのです。神様の縦的な愛と一つになるときは、これを離す者がいません。しっかりくっついていて、離す者がいないのです。ですから人々が生きる生活において何がどうであれ、愛の道を求めていくのです。
自らの価値をどのように取り戻すのか、これが問題です。男性として生まれたのは、女性のためであり、女性として生まれたのは男性のためです。この男性と女性がなぜ一つにならなければならないのでしょうか。一つにならずしては神様の愛を感しることができないからです。これが問題です。男性と女性が完全な愛によって一つにならなければ、神様の愛を所有できないということです。結婚をなぜするのでしょうか。神様の愛を所有するためです。
絶対的な神様も、愛が絶対的に必要なので、絶対的愛の対象が必要だというのです。
アダム、エバが完全に成熟して新郎新婦として神様の前に対象圏を成して、神様の祝福を受けることによって、神的愛による家庭になったならば、それが本来エデンで堕落しないで成し遂げていた完成圏でした。その完成圏に現れたアダム、エバになっていたなら、その場は、どんな場でしょうか。祝福を受ける場です。
福の中で一番貴い福は、神様の愛です。その次は、神様の創造の権限を引き継ぐことです。神様がアダム、エバを創造したように、創造的権限を与えられるのが子女なのです。皆さんがなぜ子女を愛しますか。神様の創造の偉業を横的に実体圏で受け継いだのと同じなので、アダム、エバを造っておいて、神様が喜んだその喜びを代わりに感じるためです。 その次は、神様が天地万物を主管されたように、万物を主管させるために、私たちに主管権を与えました。したがって結婚するその時には、神様の愛を相続して、再創造の権限と主管権を完成圏に立って受け継ぐようになるということを皆さんが知らなければなりません。それで結婚式というものは、愛の顕現をいうと同時に、創造権と主管権を与えられるものです。
創造理想は、自らを中心として成されるのではありません。すべての心情が主体的な神様と一体となって、神様が動ずれば私が動じ、神様が静ずれば私も静じ、心情的一致点を中心として内外が一つにならなければならないのです。このように神様の前に和することができる基準を立てなければ、創造目的を成し遂げることができません。
②結婚は愛の完成のためにする
結婚自体は何でしょうか。結婚をなぜするのでしょうか。何ゆえにするのでしょうか。男性に会いたくて、女性に会いたくて、するのではありません。愛を完成させるためにするのです。男性が探さなければならない愛は、女性でなければ見つかりません。一人では絶対に見つかりません。女性が探さなければならない愛は、男性でなければ絶対に見つからないのです。
千三十七
男性が個性完成をしようとするならば、相対完成をしなければならないので、結婚をしなければなりません。結婚をしなければ、愛圏内に行けません。なぜ結婚をしなければならないかといえば、お互いに神様の愛に接するためです。神様の愛に接するために、男性と女性は結婚しなければならないというのです。男性と女性が結婚して、神様の愛がそこに臨むことによって、愛を中心として一つになるので、神様が、その時から宇宙と神様御自身を相続させてくださり、神様の愛まで相続させてくださり、神様に属するすべてのものを相続させてくださるようになるのです。
結婚は、なぜするのかといえば、自分の個人的愛を完成させると同時に、相手の愛を完成させるためです。個人の愛を完成させると同時に、神様の愛を完成させるために私が結婚するというとき、気分がどんなにいいですか。地上に神様が愛することができる土台を準備するために、男性と女性は結婚しなければなりません。
二人が愛によって一つになったその基準の上に、初めて神様の愛が訪ねてくるのです。結局は、神様の愛のために、また神様の愛のために生きることは、私が神様の愛をもつためなのです。「ため」に与えるから愛が来るし、愛が来るので神様の愛を自分のものにすることができるのです。
結婚の目的は、男性と女性の心の世界を一致させようということであり、男性と女性の愛の完成のためのものです。それで結婚したということは、「そういう証拠を見せる」と宣布したということです。
結婚生活を通じて、愛の完成と心の完成を成し遂げたとすれば、家庭の理想を実現したと見ることができます。それで死ぬとき、これを成し遂げたとすれば、間違いなく天国に行くというのです。 私が結婚をするのは、私だけのためではなく、相手のためのものでもあります。結婚が自分より相手のために行われるというのはどういうことでしょうか。天地間のすべての理致が、主体と対象でできているように、男女が結婚するのも天地間の道理です。男性が右側ならば女性は左側になりますが、それは宇宙間の横的な関係を成すためであり、男性が主体ならば女性は彼の対象になりますが、それは神様との縦的な上下関係を成すためです。したがって結婚とは、男性だけのためのものではなく、また女性だけのためのものでもない、天理の法度を合わせるためにするものです。それで男性と女性は、互いに異なる姿を備えています。天理の法度を合わせることができるように生まれたのです。
女性が男性を迎えるのは、男性の世界を得るためです。女性が男性の世界を得て何をしようとするのでしょうか。それは愛の一体を成すためです。
男性は女性を探していくために生まれ、女性は男性を探していくために生まれました。女性と男性は、二人が合わさって、より次元の高い神様の愛に接するために生まれました。一人では、その愛に接することはできません。一人で接しても、それは一方的です。立体的で球形的な愛に接することはできません。それで、男女がより高い次元の立体的な愛の圏内にジャンプするために結婚するのです。
千三十八
本然の世界において男性と女性が一つになればなるほど、その力の作用において偉大な中心が生まれて球形になるのです。横的に連結すればするほど、縦的な力の愛の母体が連結し入ってくるということです。そこで体と心が一つになるのです。
結婚は私のためではなく、相手のためにするという信条をもたなければなりません。結婚するとき、優秀な人、きれいな人を得ようとするのは誤った考えです。人間は人のために生きるべきだという原則を知ったなら、結婚をする時にも、相手のためにするという観念をもたなければなりません。どんなに醜い人であっても、美人よりもっと愛そうという信念をもつことが、原則的な結婚観です。
神様の高傑作品として造られた美しい男性と女性が、神様を中心として愛し合うことができるならば、それは 高の愛であり、超越的な愛であって、この世的な愛ではありません。その愛は、高の美しい愛であり、愛の中の代表的な愛であり、永遠に輝くことができる愛です。
新郎新婦は、お金や権力、名誉を中心として一つになるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体にならなければなりません。 人間として生まれて相対を神様のように愛して、人類のように愛して、この世界の誰よりも愛することができるという観念が立たずしては、天の国に復帰されません。一男性として一女性を愛することができなければ、神様と人類を愛することができないのです。
③結婚は天地合徳、宇宙合一の道
結婚とは何をしようとするものですか。発展するためにするのです。何の発展をするためにですか。神様の愛を発展させるためのものです。神様の族属を発展させるためのものです。血統を発展させるためのものです。
結婚をなぜするのでしょうか。天国へ行くために、そして人類のためにです。男性の前にいるその女性は、神様の娘であり、人類の娘であることを男性たちは知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、神様が愛する娘として愛することができれば、夫になる資格がありますが、そうでなければ失格です。女性は、その反対です。「あれは私の男だ」と考えるなというのです。私の男だという以前に、神様の息子であり、人類のすべての男性を代表した男性だと考えなさいというのです。
人類が愛する以上に愛することができ、神様が愛する以上に愛することができる女性になればいいのです。それで私が男性としての右足になり、女性としての左足となって、人類のために生き、神様のための愛の足跡を、家庭を通じて残そうという考えをもって結婚しなければなりません。
右足は夫であり、左足は妻であるということは、結婚をしなければ片足が不自由になるということです。また右足、左足が完全でなければなりません。どちらか片方だけで、完全でなければ、片足が不自由になります。ですから完全な男性と完全な女性になってこそ、円満な結婚ができるのです。それで私が夫を好むのは、人類を好むことであり、神様を好むことであり、また夫を愛することは、人類を愛することであり、神様を愛することです。
千三十九
結婚は、厳粛なものです。結婚は、天地が合わさることであり、東と西が合わさることであり、南と北が合わさることであり、上と下が合わさることです。それでは愛というものは、どこへ行くのでしょうか。二人が一つになって、愛はどこへ行くのでしょうか。なぜ愛を探していかなければならないのでしょうか。そうすることによって、そのすべての環境の中心の場に行って立つのです。私の家庭がなければ、この社会では不完全です。信じてくれないのです。それは宇宙存続の原則に不合格であるために、その価値を認めないのです。それは理論的です。
男女が合わさることは、天地が合わさることです。
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が合わさって調和を成し、水平線を成さなければなりません。
男性と女性が愛し合って抱擁するそれ自体が、宇宙が一体を成す場となります。神様の理想の中で成される創造本然の姿は、そのようなものです。
私たちの結婚観は、「宇宙で一番すてきな宇宙シルクの布団を敷いておいて、その中で愛し合う!」と、そのように考えるのです。愛を中心として所有権を私一代で決定する瞬間だというのです。私の当代に所有が決まるのですが、その所有とは、女性の所有が決定されるということです。その女性とは、どんな女性でしょうか。宇宙の半分です。これをつかむ日には、私のおしりに宇宙がついてくるのです。考えてみてください。また、女性はなぜ結婚しなければならないのでしょうか。
「男性にくっついて半分(一八〇度)と半分が合わさって、二人が宇宙の価値に対等な作用圏をつくるために結婚する!」と、このように考えるとき、統一教会の思想はすてきだというのです。
皆さん、香りのない花は好きですか。香りのない花には無関心です。「私は、花になるならば緑色の花になろう」と言いますか。緑色の花を見たことがありますか。私は植物園に行っても、今まで緑色の花は見たことがありません。木の葉のような花は、咲いても咲かなくても意味がないでしょう。それを見れば、天地の理致は実に奥妙だというのです。それ一つ見ても、「神様がいる」と言わざるを得ません。
葉がみな緑なのに、緑色の花があり得ますか。ただ、緑に近い花が一つあります。それは、唐辛子花というものですが、それも細かく注意深く見れば緑ではありません。内容を見れば、赤などもあります。それは自分を現すためです。現すのは、この世の調和圏に入っていくためです。天地調和の創造法に適用されるためには、自分を現さなければならないということです。私たちの結婚観は、このようにすてきなのです。そういう結婚、私たち統一教会の結婚観がどれほど素晴らしいでしょうか。
1040 * 千四十
この世で盛んに行われている自由結婚は、サタンが人々を堕落させて、神様の前に行くことができないようにするためにつくったわななのです。そのわなに引っ掛かれば、死んでサタンの支配を受けたり、餌食にならざるを得ません。今日の西欧社会、特に米国は自由結婚が盛んに行われることによって、真の家庭が成されず、家庭生活に失敗した人たちが日増しに多くなり、遠からず家庭をもたない人が多数を占めるようになるでしょう。 そのようになれば米国社会は、愛に渇いた社会になり、不信によって不安と恐怖が支配する地獄のような社会になるだろうと、自信をもって確言できます。このような時点に立っている皆さんには、このような社会風潮を一掃して米国社会に愛があふれ出る、神様が願う社会を建設しなければならない義務と使命が与えられているということを知らなければなりません。
私たち統一教会は、結婚観が違います。結婚というものは根本へ帰るためのものです。
三) 祝福を受けなければならない理由
①堕落によって偽りの父母から生まれた
アダム、エバは堕落のゆえに血統が変わったというのです。誰の愛によって?神様の怨讐、姦夫であるサタンの愛によって、サタンの生命体になったのです。男性の生命体、女性の生命体が、サタンの愛に入り混じって一つになり、その二人によって結実したのが、息子、娘です。したがってその息子、娘は、サタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を継承しているのです。
聖書的内容を観察してみれば、人類始祖が不倫な愛をすることによって、悪魔サタンを中心として父子の関係を結んだという事実を否定できません。神様の血筋を受けて、神様の絶対的な愛の中で神様の直系の息子、娘として生まれなければならない価値的な人間が、悪魔サタンの血統を受けて、サタンの息子、娘として生まれたというのです。ローマ人への手紙第八章に「御霊の初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる(養子の)身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(二三節)と記録されています。養子は血筋が違うのです。これが私たち人間の正体なのです。
ローマ人への手紙の第八章を見てください。
「御霊の 初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる(養子の)身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(二三節)とあり、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷(僕)の霊を受けたのではなく、子たる(養子の)身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」(一五節)と書いてあります。養子にしかなれないのです。今、キリスト教徒たちは養子なのです。養子は血筋が違うのです、血筋が。
ヨハネによる福音書の第八章四十四節を見れば「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」とイエス様が言われました。ここで「父」と言われたので、血筋が、先祖が悪魔ではありませんか。ですから割礼とは何ですか。陽部を切ることです。このようになっています。善悪の実とは何でしょうか。
千四十一
もともとサタンはどんな存在ですか。悪魔という存在はどんな存在かといえば、神様の僕です。ところがこの僕が主人の娘を強奪したのです。これが堕落です。聖書に出てくるその堕落とは何かといえば、エバが善悪の実を取って食べたことが堕落だといいますが、善悪の実とは果物ではありません。僕が主人の娘を強奪したことです。
将来、代を継ぐ息子と娘を生み育てて、神様の理想を成就しようとしていたのに、僕としてつくった天使長が主人の娘を強奪したことが、人類の堕落の起源となりました。全くそんなことがあっていいでしょうか。天地がそのようになったというのです。複雑にからまった内容ですが、皆さんが「原理」を聞けば、大体分かるでしょう。
堕落した結果、どうなったのでしょうか。私たちは死亡圏内に落ちました。神様が、「善悪の実を取って食べたら必ず死ぬだろう」と言われたみ言のとおり、死亡圏内に落ちてしまいました。堕落した結果、どうなったのでしょうか。ヨハネによる福音書第八章の四十四節を見れば、悪魔サタンが私たち人類の父になったとイエス様は指摘しました。神様を父として侍らなければならないアダム、エバが堕落することによって、悪魔サタンを父として侍るようになったという、この恨めしい事実が、堕落の報いであるということを知らなければなりません。
アダム、エバが堕落しなかったならば、神様を中心としたアダム直系の長孫の子女たちが出てきたことでしょう。アダムは長孫であり、真の父であり、王です。地上の国と天上世界の王です。また真の父母であり、真の長子です。ですからアダム家庭は、天の国の王室です。
それでは、アダム家庭のおじいさんは誰でしょうか。神様がおじいさんです。その次に、お父さん、お母さんはアダム、エバです。そして過去の立場を身代わりした観点で見れば、おじいさん、おばあさんは神様の代わりであり、また神様は父母の代わりです。縦的に見れば、一代圏、二代圏、三代圏を中心として、神様が家庭に着地するのですが、一代圏が横的に展開したのがおじいさんであり、二代圏が父であり、三代圏が私です。それで息子、娘を中心として万世一系の天的皇室を受け継ぐのです。
真の父母権、真の王権、真の長子権、これがアダム、エバが出発しなければならなかった原点です。そこに神様の王宮があり、神様の愛があります。そして人間と創造主が一つに連結され、真の愛の基盤になるのです。そこが完成した本然のアダムの家庭基盤であり、神様が永遠に臨在することのできる神様の王宮です。
堕落しないで、完成の場まで行ったとするならば、アダム、エバは個人完成だけでなく、宇宙史的な完成をしていたはずです。また、神様の愛を中心とした新たな家庭が出発していたことでしょう。このように家庭から氏族、宗族、民族、国家、世界が成されていたならば、神様に侍る一つの大家族社会になっていたでしょう。
千四十二
このような大家族社会の中心は、神様とアダムです。それでその世界では、神様を中心としたアダム家庭の生活や一生の路程が歴史的伝統として残されるのです。彼の生き方、風習、慣習、彼の生活的な背景が歴史的伝統になるのです。それは神様の愛を中心とした伝統でないはずがありません。神様の愛は生命の根源であり、すべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れることができず、離れたとしてもまた帰ってこざるを得ません。
アダム、エバの堕落は、アダム、エバだけの堕落ではなく、全般的な人類歴史を総合した立場での堕落です。言い換えれば、アダム、エバが堕落したというのは、善の父母になることができず、悪の父母になったということです。悪の父母によって悪の子女が生まれ、悪の子女が生まれることによって悪の氏族、悪の国家、悪の世界が形成され、この世界圏内に五十億の人類が存続しているのです。
こういう堕落圏内にある今日の人類歴史は、喜びの歴史ではなく、悲しみの歴史であり、人類も喜びの人類ではなく、悲しみの人類であるに違いありません。愛を知るようになるとき、すべてのものが通じます。地上世界の平面的な事実だけでなく、霊眼が開いて、立体的な世界までも分かるので、神様を直接見て、接することができる境地に至るようになります。ところが愛の知覚が発達する前に、堕落してしまいました。天使長との不倫の関係を結んだのです。これが宇宙を破綻させた根本原因になったのです。
こういう話を、お金を払って聞くことができますか。自分の家を売り、財産をはたいて、千年、万年祭祀を捧げても教えてくれる人はいません。統一教会の文先生しかいないのです。これは宇宙の秘密です。聖書にもこういう内容はないでしょう。聖書では、善悪の実を取って食べて堕落したといいます。善悪の実とは何の果実ですか。そのように幼稚園生にも劣る実力でもって、博士学位を検証し、博士の総会長になった文総裁に「異端だ」と言うことができますか。自分が異端でしょう。異端というのは、終わり(端)が異なるのではなく、終わりが見えないということです。
私が解き明かした原罪と堕落の曲折は、人間の初の家庭で起きた天使長との不倫の事件でした。「統一原理」でいうサタンは、観念的存在や仮想の存在ではなく、霊的実体です。神様の愛の理想を破壊して、神様の血統をサタンを中心とした血統に変えた元凶です。イエス様もヨハネによる福音書第八章で、人類の父が悪魔であることをはっきりと語られました。神様が御自分の外的体であるアダム、エバを通じて実現なさろうとしていた愛の理想を剥奪した愛の姦夫が、まさしく悪魔サタンなのです。皆さんには耳新しいでしょうが、私が霊界を開拓して宇宙の根本の曲折を究明しようと血涙のにじむ闘争をした結果、得た結論がこれです。皆さんも真剣に祈祷すれば、解答が得られるでしょう。
千四十三
②怨讐の血統を受けた
堕落人間は偽物になったので、接ぎ木しなければなりません。血統的に見れば、皆さんは先祖が違うというのです。なぜ養子にしかなれなかったのかといえば、お父さん、お母さんが違うからです。ですから統一教会で、愛によって堕落したと主張するのを否定することができません。聖書を見れば、善悪の実を取って食べて堕落したと書かれています。善悪の実とは何か知っていますか。善悪の実は果実ですか。風が吹けば、落ちてごろごろ転げ回る果実でしょうか。違います。 アダムとエバの心にサタンが入って、一つになったので、サタンの血統を受け継いだというのです。愛の神様がなぜサタンを許せないのでしょうか。強盗、殺人も許し、みな許すと言ったのに、イエス様を信じるならば許されると言ったのに……。サタンを許してあげることができない理由とは何かといえば、人類の血統を汚したからです。それは何のことですか。神様の立場から見るとき、サタンは姦夫です。愛の姦夫。何のことか分かりますか。
サタンを中心として結婚式をしたので、サタンを中心とした愛、サタンを中心とした生命、サタンを中心とした血統を受けなかったと否定することができません。もし善悪の実を取って食べずに堕落しなかったならば、神様を中心として結婚式をしていたことでしょう。統一教会の父母様が皆さんを祝福してあげたように、アダム、エバが成熟したあとには、神様が呼んで、祝福してあげたはずです。
アダム、エバが善悪の実を取って食べずに完成していたならば、天地を創造した大王の息子、娘になるのです。大王の息子、娘というのは、その直系の長男、長女とは何ですか。正に王子、王女になるのです。天の国を代表した地上の王国を治めることのできる基盤になります。王権は二つではありません。一つだというのです。
神様の手によって直接造られたひとり子、ひとり娘がアダム、エバです。アダム、エバが堕落したので、問題になったのです。それでは、堕落することによってどうなったのでしょうか。「取って食べるな」と言った善悪の実を取って食べて堕落しましたが、「取って食べるな」と言ったその言葉を実践していたなら、どうなっていたでしょう。キリスト教は、そのことを考えることができませんでした。考えてみても分からないのです。それは蒼々たる大海なのです。深いか浅いかについて、深さを測ろうとしても、それを測定する方法がありません。分かろうにも分かるすべがないので、無条件に信じなければならないという冠をかぶせたのです。けれども、無知には完成がありません。
体を打つというようなことをなぜするのでしょうか。サタンの血、神様の怨讐の血を受けたからです。神様の怨讐とは誰かといえば、姦夫です。神様の愛の怨讐です。その姦夫の血を受けたのです。天国の王権を受け継いで皇后になることができたはずのエバが、悪魔の配偶者になり、僕の対(妻)になりました。これは天地の秘密ですが、先生の時代になって初めて暴露されたので、サタン世界は退かなければなりません。
無知には完成があり得ません。サタンとは誰ですか。神様の姦夫です。こういう問題を見抜いたのに、これをみな伏せておいて、天国へ行きますか。伏せておいて救いを受けますか。とんでもないことです。でたらめな者たち!そのように信じて救われるのなら、私たちのような人は、とうの昔にみな救われて余りあるというのです。このように苦労しません。
千四十四
悪魔は、なぜ神様を憎むのですか。神様は、なぜ悪魔を憎むのですか。キリスト教の論理でいえば、キリスト教は「怨讐を愛せよ」と言っているのに、神様は怨讐であるサタンをどうして愛することができないのでしょうか。愛の怨讐を愛せば、天地がなくなるというのです。治める法がなくなります。存在する法がなくなるのです。
サタンが神様の理想的愛を破壊させ、理想的生命、理想的血統を蹂躙したのです。そうして子供を生んだのですが、それが人間たちです。サタンの愛の表示、生命の表示、血統の表示であるその息子、娘を、神様は干渉できません。
サタンがなぜうんざりするほど、今までの人類歴史において、道義の道を行こうとする人のところに例外なくやって来て、首を押さえて、背中に乗り、犠牲にするというようなことをやってきたのでしょうか。そのサタンとは、神様にとっては、神様の家族を奪っていった、強奪していった姦夫だというのです。お母さんが本来、神様に仕えて平和の王国を成し、平和の天地を成さなければならないのに、お父さんと私たちを追い出したというのです。サタンが入って、今日の人間をこのような姿にしてしまいました。何か他の罪を犯したのではありません。
堕落は、血統の否定的動機から始まった事件でした。それで堕落の結果が現在まで原罪として遺伝してきているのです。血統を転換しなければなりません。なぜ血統を転換するのでしょうか。サタンの血統を受けて継承したので、血統を正さなければなりません。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。 サタン圏に属している人たちは、神様の血統とは全く関係がありません。すなわち、善の父母の子女として生まれなければならない人類が、悪の父母との因縁によって生まれました。それで悪を中心とした家庭、氏族、民族、国家、世界へと拡大されたのです。
堕落とはいったい何でしょうか。生命の因縁が切れたということです。アダム、エバがどうなったかといえば、アダム、エバが関係して神様と一つになるべきところを、僕と一つになってしまいました。結局、神様の血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなに神様を父と呼んでも実感がわかないのです。それで自分のお父さん、お母さんがしたのと同じように、サタンの本性を引き継いで、自分を中心としてすべてのものを考えるようになり、天も何も、高いものはみな自分と連結させるのです。
堕落することによって、真の父母を失い、真の夫を失い、真の子女を失ってしまいました。失うようになった動機は、エバと天使長によるものでした。こういう観点で見るとき、この地に生きている女性たちは、天使長の父、天使長の夫、天使長の兄に頼って生きているのです。ですから女性たちは悲惨なのです。裕福な家のお嬢さんが、自分の家の僕と暮らす立場になったのです。すなわち、僕の血統を受け継いで生まれたということです。ですから本来の夫、本来の父、本来の兄の愛を受けられなかった女性たちなのです。
千四十五
悪魔は、何によって堕落させたのでしょうか。善悪の実だというのですか。善悪の実を食べてどこを隠しましたか。口を隠しましたか。手を隠しましたか。下部を隠したでしょう。それが悪を蒔いた種になりました。青少年時代、成熟する前に堕落しました。この歴史的な人間の世の中の血統がそこから広がったので、それが人間の終末時代において盛んになるのです。全世界的に青少年たちが、アダム、エバのように日陰で独自に愛の倫理を破壊させて、天を恐れない時になれば、サタンの全権時代が地上に到来すると思え、ということです。その時は、神様の鉄槌が目前に迫るのです。
血統的にこじれたために六千年かかるのであって、そうでなければ一日でみな復帰できるというのです。血統的に固まってしまったので、能力のある神様が一度にみな抜いてしまえば、死んでしまうのです。それで六千年かかってやってきたのです。善悪の実を取って食べて堕落したというのですか。そうであるなら、どんなにいいでしょうか。
罪の基盤、堕落の基盤、悪の基盤、地獄の基盤、こういうものは具体的にどのように生じるのかということが問題です。アダム、エバに戻って考えてみましょう。アダム、エバがなぜ堕落したかという根源を探ってみると、アダム、エバは神様が命令した「善悪の実を取って食べるな」という言葉を不信して堕落しました。
二つ目は、自己中心的だというのです。三つ目は、自己を中心として愛そうとしたことです。これが堕落した中心的骨子の内容であるがゆえに、この内容を共に行おうとする者はサタン側だという結論が出てくるのです。堕落した人たちはみな、不信の愛で、自己中心の愛で愛した人たちです。結局、自己中心の愛を主張するのが、この世界の人たちだと見るのです。
堕落が善悪の実を取って食べたことだというのですか。善悪の実とは、女性のそれです。女性は善の夫に出会えば、善の母になり、悪の夫に出会えば、悪の母になるのです。今日、統一教会の文総裁が言うことは、理論的に否定できません。心と体が争う起源は、夫婦の争いによって始まったからです。これを理論的に否定できません。
③メシヤとして真の父母が必要
私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的な基点とは何ですか。それは神様の愛の接触点へ帰ることです。ところが人間は、神様とは関係のないサタンの実体をもった存在になってしまいました。これは神様の愛とは正反対なので、蕩減されなければなりません。蕩減とは原罪を除去することであり、原罪を除去するには、血統的なことが根本的に存在します。血統的なものは、堕落人間としては到底解決できないものです。それでメシヤが必要なのです。
千四十六
アダム一族において、真の父母が生まれることができずに罪の父母が生まれたので、これを真の父母の役事を通して蕩減復帰し、神様に接ぎ木しようということがメシヤの思想であり、救世主の思想です。そのようになったのは人間の堕落のゆえです。 メシヤとは誰でしょうか。真の父母です。それでは真の父母が、なぜ必要なのでしょうか。真の父母の愛に再び接ぎ木されなければならないからです。ですからメシヤである真の父母が現れなければ、堕落した人間は原罪を脱いで、罪のない解放された立場から完成段階の祝福を受ける場に出ていくことができないのです。
堕落した人間が要求する救い主とは、どんな救い主でしょうか。堕落した父母の立場ではなく、堕落していないアダム、エバのような立場で、神様のみ旨と一体となって神様の愛を受け、神様の祝福を受けることができる真の父母の立場で、人類を生んでくれる救い主でなければなりません。そうでなければ、人間は原罪と関係のない立場に上がることができません。
真の父母が必要なのは何ゆえでしょうか。心情圏を中心として、その根を下ろさなければならないためです。今は根が違います。堕落によって幹と枝がすべて違います。ここで新たに、根が真の父母から始まって、幹と枝が出て接ぎ木をするのです。切って、接ぎ木するのです。接ぎ木して、それが宇宙の大きな主流になるのです。サタン世界のすべてのものを切ってしまわなければなりません。根まで切ってしまわなければなりません。
人間は堕落によって、神様とは関係のないサタンの実体をもった存在になってしまいました。これは神様の愛とは正反対なので、蕩減しなければならないのです。蕩減とは原罪を除去することであり、原罪を除去するには血統的なことが根本的に存在します。血統的なものは堕落人間としては到底解決できないものです。それでメシヤが必要なのです。
エデンの園で結婚を誤ったことが堕落なので、今、真の父母が正しく結婚させてあげることにより、再びひっくり返したのです。偽りの父母が誤ったことを真の父母が清算することにより、地獄を撤廃して数百、数千億の霊界の先祖たちまで祝福結婚をさせてあげるということが起こるのです。真の愛を中心とした地上の子孫たちの家庭基盤を通じて、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つに合わさるだけでなく、このような家庭基盤を基点として東洋と西洋が互いに連結されます。
皆さんは、新しい血統を受け継がなければなりません。受け継ごうとすれば、メシヤが父として来て、サタン世界に勝ち、サタンが干渉できない超世界的な基盤の上で、エバに侍って蕩減復帰しなければなりません。そうして、夫婦の因縁を中心とした家庭における息子、娘を立てて、横的に接ぎ木するようなことが行われなければなりません。それで統一教会で祝福してあげるのです。
統一教会は違います。統一教会は、血統がどこから始まったのでしょうか。神様から始まったのです。ですから、いくらでもサタン世界で反対してみなさいというのです。反対していれば、損害賠償を払うようになるのです。
真の父母は、血統転換する新しい祝福結婚行事を通じて、全人類を神様の真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して、真の人として救い、さらに真の家庭を成して地上天国を建設されるのです。
千四十七
二 真の父母と重生と血統転換
一) 真の父母はどんなお方か
①真の父母は原罪のない始祖
真の父母とは何でしょうか。堕落していなかったら、神様は縦的な愛になり、アダム、エバは神様の体になります。神様の体のようなものだというのです。神様は骨のようなもので、アダム、エバは体のようなものです。神様も心があり、体があります。神様は内的な立場で内的な父母になり、アダム、エバは外的な立場で外的な父母になります。内的・外的父母が一つになったその場で、愛で結ばれ、内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神様と人間との愛の結合によって、真の父母、すなわち、完成した人間が成就するはずだったのです。愛と結合しなければ、完成人間がいないというのです。
真の父母の立場は、どんな立場でしょうか。アダム、エバが神様を中心として完全に一つになり、サタンの讒訴圏を抜け出した立場です。サタンが讒訴することのできる内容を残さずに、完成基準を越えた立場に上がって、初めて真の父母の起源が生じるのです。これが原理的見解から見た真の父母の起源です。しかしその見解にふさわしい立場は、簡単につかむことができるものではありません。
新しい父母とは、どんな父母でしょうか。昔エデンの園で堕落したアダム、エバは堕落した父母ですが、これから人類を再び生み変えてくれるその父母は、堕落していない立場で、神様のみ旨と一致した立場で、神様の公認を受けることができる本来の父母なのです。堕落しないで、み旨を完成し、神様の愛を中心として神様の懐で理想的な家庭を成して、善の子女を繁殖できる、そのような本来の基準に立つことができる父母なのです。その父母は、堕落とは関係がありません。
もともとアダム、エバが堕落しなかったならば、人類の父母になって神様を中心とした世界を成し遂げていたことでしょう。ところが彼らが堕落することによって、サタンが主管する偽りの父母になってしまいました。したがって、本来神様の創造理想によって立てようとした真の父母はいなくなりました。真の人類の先祖がいなくなったということです。
真の父母とはどんな存在でしょうか。真の父母は、全体の希望の象徴です。堕落した人類の前に絶対的な希望の象徴なのです。彼は、歴史的な結実体であり、時代的な中心であり、人類が生きている今日、この世界へ連結することができる未来線上における出発点です。
真の父母というその名前の三文字(韓国語で)を考えるとき、真の父母によって歴史が治められ、真の父母によって新しい世界へ戻ることができる起源が生じ、真の父母によってサタンを屈服させることができる内的な因縁が決まり、真の父母によって外的な世界を占領しているサタンを征服して、初めて神様の解怨を成就することができる中心が決定されるのです。したがって、真の父母と共に生き、真の父母の命令を奉じて行動できるこの驚くべき恩賜に、皆さんがまず感謝しなければなりません。
千四十八
人間の願いは、真の父母に出会うことです。死の道を行くとしても出会わなければならない人が真の父母です。歴史をみな失い、時代をみな失い、自らの子孫をみな失ってしまうようなことがあっても、真の父母に出会うならば、歴史を見つけることであり、時代を見つけることであり、未来を見つけることになるのです。このような方が正に真の父母だということを皆さんは知らなければなりません。
メシヤがこの地上に来られるとき、その方は、個人として来られても個人ではありません。その方の価値は、全世界の人類が信じている信仰の結実体であり、全世界の人類が願っている希望の結実体であり、全世界が願っている愛の結実体です。その結実体には、すべての歴史路程が連結されています。すなわち過去、現在、未来がみな連結されています。そして個人から家庭、氏族、民族、国家、世界がすべて連結されていて、天と地がすべて連結されているのです。
イエス様は、人類の父母の位置に立たなければならない使命をもって来られましたが、そのみ旨を成就できずに亡くなりました。したがって再臨時代には、そのような立場を蕩減復帰して勝利しなければ、その理想の世界へ上がれないのです。その仕事をこれまでやってきたのが統一教会です。
真の父母は、完成したアダムとして、アダムが失敗した第一の父母の基準を復帰しなければなりません。また、第二アダムとして来られたイエス様が失敗した父母の基準を完成させなければなりません。再臨時代において先生が苦労の伝統を立てざるを得なかったのは、イエス様が霊的基台しか立てられず、霊肉ともの世界的な基台を立てることができなかったからです。
私たちが知っている真の父母とは何でしょうか。人間の先祖です。人間先祖。ですから真の父母を自分の父母のように侍らなければなりません。
人類には真の父母が必要なのです。なぜそうなのでしょうか。愛の軸に連結することができる原則的なことが、歴史始まって以来初めて起こったのです。歴史始まって以来、前にもなく、あとにもありません。はっきり知らなければなりません。軸は一つです。絶対に二つではありません。その軸とは、正に真の愛です。
歴史始まって以来、神様の名によって人類の男性を代表して勝利した人がいませんでした。これまで先生は、そういう勝利の基準を立てるために闘ってきました。統一教会と先生は、苦労をしなくてもいいのですが、こういう原則を知っているために、苦労せざるを得ないのです。
人類が願うものとは何でしょうか。真の父母に侍ることです。六千年前にアダム、エバが成婚して全人類が神様の子孫にならなければならなかったにもかかわらず、堕落することによって人間たちはサタンの子孫になってしまいました。したがって私たちは、六千年前に失った天の側の真の父母を再びこの地上に探し立て、真の父母の愛の因縁を通じて重生しなければなりません。そうしてこそ天国の国民になることができるというのです。
千四十九
真の父母とは何でしょうか。肉身の父母は、真の父母と何が違いますか。真の父母とは何ですか、何をするのが真の父母ですか。愛を中心として話すとき、その肉身の父母と真の父母とでは何が違いますか。何が違うかといえば、愛に対する概念が違います。正に愛の概念が違うということです。肉的父母は肉身を中心とした愛を教えてくれるのであり、霊的父母は霊的な世界を中心とした愛を教えてくれるのです。内容が違うということです。
②真の愛によって人類を生んでくださる
皆さんは、真の父母と関係ない立場で、天の前から追い出された偽りの父母の血統を受けて生まれたので、この血統から抜け出すためには、血統を否定して否定して抜き取らなければなりません。そうして血統を根本的に変えずしては天の国に行けないのです。
真の父母は何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根っこの間違った血統を正さなければならず、間違った生命を元に戻さなければならず、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。
血統的転換を成すためには、アダムの骨髄まで、骨肉の中心部まで入っていって、将来の赤ちゃんとなるその種に神様の愛と結束した勝利的条件を充足させなければ、神様の子女として生まれることができません。これは理論的に間違いないというのです。聖書に、そのようにしてきた記録があるでしょうか。あるとするならば、聖書は神様のみ言だということです。 堕落した人間が要求する救い主とは、どんな救い主でしょうか。堕落した父母の立場ではなく、頃落していないアダム、エバのような立場で神様のみ旨と一体となって神様の愛を受け、神様の祝福を受けることができる真の父母の立場で、人類を生んでくれる救い主でなければなりません。そうでなければ、人間は原罪と関係のない立場に上がれないのです。
真の父母が必要なのは何のためでしょうか。心情圏を中心として、その根を下ろさなければならないからです。今は根が違います。堕落によって幹と枝がすべて違います。ここで新しくこの根が真の父母から始まって、何が出てきたのでしょうか。幹と枝が出てきて、接ぎ木するのです。切り取って、接ぎ木します。接ぎ木して、それが宇宙の大きな主流になるのです。
サタン世界のすべてのものを切ってしまわなければなりません。根まで切ってしまわなければなりません。
今日、万民が願うこととは何でしょうか。世界国家を迎える前に、真の父母を迎えようということです。また未来の子孫たちは誰から出発したいのでしょうか。皆さんの息子、娘は皆さんの血統を通じて生まれたいのではありません。真の父母の血統を通じて生まれたいのです。ですから真の父母は、新たな未来の出発点になるということです。
1050 * 千五十
真の父母は何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根となる間違った血統を正さなければならないし、間違った愛の道を正さなければなりません。聖書に「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」とありますが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのでしょうか。正にサタン世界は死ななければならないからです。
真の父母と真の父母の子供というのは、永遠不滅の宿命的な業(関係)です。これは誰も分けられないのです。千年、万年、その道を行かなければなりません。行く道は、二つの道ではなく一つです。他の方法はありません。秘法がないのです。その道を行かなければならないのです。
エデンの園で結婚を誤ったことが堕落なので、今、真の父母が正しく結婚させてあげることにより、再びひっくり返したのです。偽りの父母が誤ったことを真の父母が清算することにより、地獄を撤廃して数百、数千億の霊界の先祖まで祝福結婚させてあげるようなことが起こるのです。真の愛を中心とした地上の子孫たちの家庭基盤を通じて、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つに合わさるだけでなく、このような家庭基盤を基点として東洋と西洋が互いに連結されます。
養子はどのようにしなければならないのでしょうか。真の息子から接ぎ木を受けなければなりません。野生のオリーブの木を切り捨てて、真のオリーブの木の芽を接ぎ木しなければなりません。渋柿の木が甘柿の木になる運動をしなければならないのです。重生するためには真の父母の血統を受け継がなければなりません。それで人類が願うのは真の父母であり、イエス様と聖霊が願うのは「小羊の婚宴」です。
まずは父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の願いの一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準を中心として、父母に侍らずしては救いを受けられません。皆さんはそのように侍ってみましたか。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。ですから「私は真の父母と永遠に一つになることのできる息子、娘だ」という信念を、自分の存在意識を超越できるほどに固くもたなければなりません。そうでなくてはならないのです。
皆さんは買ってきた人たちです。人類を与え、天宙を与えて、買ってきた人たちです。ゆえに神様は、皆さんをおいて天地を審判したいと思われるのです。神様は、サタン世界の奴隷の立場にある皆さんを買って、神様の息子、娘として立てました。ゆえに皆さんは、福を受けた栄光の子女たちです。ですから全世界で皆さんを「くれ」と言うとき、与えることができる皆さんにならなければなりません。サタンにまでも与えることができる皆さんにならなければなりません。
皆さんは、先生の血と汗の代価で買ってきた人たちです。先生の体を与えて、買ってきた人たちです。したがって、皆さんも先生のような仕事をしなければなりません。先生は食口たちを誇りたいのです。このような立場で公約しましょう。
千五十一
二) 重生摂理の核心
①生まれ変わるということの真の意味
再び生まれなければならないというのは、堕落したアダム、エバの子孫の父母の血縁を通じて、もう一度生まれなければならないということではなく、堕落と関係のない父母の血縁を通じて再び生まれなければならないということです。そうでなければ、神様に帰ることができないのです。罪の根本の根はアダム、エバから始まったがゆえに、これを踏んで越え、すなわち原罪と縁がない立場で生まれたという資格を備えなければ、神様のそばに絶対に帰ることができないのです。
神様が私たち人類を救おうとする目的はどこにあるのでしょうか。堕落圏以下では、どんなに救おうとしてみたところで、救援ができないのです。それで神様は、堕落していないアダム、エバ以上の真の父母をこの地上に再び送り、その父母を通じて人類が再び生まれる路程をたどらせ、永遠にサタンとの関係をなくさせ、讒訴しようにも讒訴できないようにされ、神様だけが主管し、神様だけが干渉できるようになさるというのです。そのような立場で人類が再び生まれなければ、原罪をもった人間が原罪のない立場に戻ることはできないのです。
真の父母が真のオリーブの木ならば、皆さんはみな接ぎ木されなければならない野生のオリーブの木です。脇の芽であり、脇の枝です。これは新しい枝が出てこそ、正常な生態作用をすると見ることができるということです。人類は、信頼と愛と実体を失ってどうなってしまったのでしょうか。血統的に逆になってしまいました。それでひっくり返さなければなりません。すなわち、ニコデモがイエス様に「天国に入るには、どうしなければなりませんか」と尋ねると、「生まれ変わらなければ、天国に入れない」というも重要で、事実的な内容を明らかにしたのです。 生まれ変わるというのは、心が改変しなければならないということです。
ニコデモがイエス様に「どうしたら救いを受けることができますか」と尋ねると、「生まれ変わら(重生し)なければならない」と言われたのです。それは、サタンの子として生まれたので、救いを受けるには、神様の聖霊を受けて、再び生まれなければならないということです。今までサタンと結んできたすべての関係を清算して、神様と創造本然の関係を結ばなければならないという言葉です。
神様の摂理で信仰を立てたとしても、神様の子供に復帰されるためには、接ぎ木されなければなりません。
生まれ変わるには、アダム、エバより劣っていてはできないし、またアダム、エバより劣っていては根本復帰もできません。生まれ変わるにも個人が生まれ変わらなければならないし、家庭、民族、国家、世界が生まれ変わらなければなりません。この事実を、今日のキリスト教徒たちは知らすにいます。
今日、キリスト教を信じる人たちの中には「再び来られる主は、雲に乗って来られる」と信じる人々もいます。何も知らない中でも、信じれば救われるという考え方では、真の信仰をすることができません。そんなに簡単に救いを受けることができるならば、統一教会はこの世に必要な宗教ではありません。
千五十二
野生のオリーブの木に真のオリーブの木を接ぎ木するときは、枝を切ってそこにつけるのではなく、木の下のほうを切って根だけ残しておいて、その上につけるということです。この話は既成教会が再び来られる主によって、既存の体制や制度、またはすべての儀式を変えて、新しく出発するようになるということを意味します。
彼らが信仰生活を通じて結んだ実は野生のオリーブの木の実なので、真のオリーブの木の実を結ぶためには、大木を切り取って、芽接ぎをしなければならないのです。もし接ぎ木することができなければ、根まで引き抜いて、燃やしてしまわなければなりません。そのまま置いておけば、野生のオリーブの木の実が畑に蒔かれて、数多くの野生のオリーブの木をつくり出すからです。
野生のオリーブの木を切るのは、新しい真のオリーブの木の芽を接ぎ木するためです。問題は真のオリーブの木の芽や野生のオリーブの木の芽が、外から見ると全く同じなので、いさかいが起こるようになっているということです。特に再臨上が来られる時には、多くの偽キリストが現れるので、真実を見つめる価値観と目が混乱を起こしかねないのです。
それで「絶えず祈りなさい」と言ったのです。
野生のオリーブの木の下のほうを切って、真のオリーブの木を接ぎ木することによって、野生のオリーブの木はみななくなり、真のオリーブの木の畑になるはすです。このような作業をレバレンド・ムーンがしようとするので、大騒ぎなのです。彼らは自らの体が切られる痛みを恐れて、「いかさま庭師ではないか」と思うからです。摂理歴史の春とともに、野生のオリーブの木に接ぎ木をする作業が始まりました。
②重生しようとすれば
新郎のイエス様の愛と新婦の聖霊の愛が一体となったその愛が、私の骨肉と一つにならなければなりません。すなわち、「私があなた方の中にあり、あなた方が私の中にあって」というイエス様のみ言のように、愛の心情基盤が成される前には、キリスト教でいう永生はあり得ないということです。
皆さんは重生されなければならないといいますが、重生されるには、イエス様を誰よりも愛さなければなりません。堕落圏内で、すなわちサタンの愛圏内でなされるそのいかなる愛よりも、神様を中心としてなされる愛が、より次元が高くない限り、神様と連結することができる道がないということを知るべきです。これが受難の道であり、宗教人たちが行くべき険しい道だというのです。
キリスト教徒たちもイエス様を日ごとに思慕しており、イエス様が再臨されることを首を長くして待っており、無心になって「新郎イエス様、いらしてください」と二千年間叫んできませんでしたか。しかし、体がばらばらになり、胸が裂けて、骨髄が溶ける立場、体の中にあるのか体の外にあるのか分からない境地、ただ神様やイエス様とのみ通じることができる境地に入るとき、初めて聖霊が臨むのです。聖霊が臨むことによって、霊的な赤ん坊として再生することのできる霊的重生の役事が起こるというのです。
千五十三
皆さん、そのような体験がありますか。そのような体験がない限り、まだサタン世界の息子、娘だということです。まだサタンの讒訴を受けざるを得ない人だということを皆さんは知らなければなりません。そのような人は、天国に行くことはできません。 イエス様はニコデモに対して、「あなたが生まれ変わらなければ、天国に入ることができない」と言われました。今まで生きてきた私は、いずれにせよ歴史的に否定されなければなりません。どんなに良くやったと弁解して自ら立てた何かがあるとしても、私自体は否定されなければなりません。堕落人間であるがゆえに、そのような圏内を抜け出すことができないのです。否定されるべき生涯であり、否定されるべき生活であり、否定されるべきしかばねの人生であったというのです。
血統を転換するのはメシヤがするかもしれませんが、転換できるように行動するのは自分自身でなければなりません。このような基準が成されない限り、私たちは救いの道に至ることができません。それは決して容易に成されるものではなく、生きるか死ぬかの境地を通過しなければなりません。四十日断食祈祷であるとか、血を吐く死の境地に行ってこそ、血統転換が可能です。
世界の万民は真の母が現れる前に生まれたので、意味もなく生まれたことになります。それでイエス様と接ぎ木した立場でイエス様の腹の中に入っていって、イエス様が夫婦になったとき、聖霊を通じて再び生まれなければなりません。偽りの愛によって生まれたので、真の愛を通じて再び生まれなければならないということです。キリスト教で愛を強調する理由もそこにあるというのです。
イエス様と一体になるには、愛以外にはありません。真理でも正義でもありません。生命があるのに先立って、愛が必要です。愛は歴史も跳び越えることができるし、距離や空間の支配を受けないというのです。
三) 真の父母の中心思想は血統転換
血統的転換は誰がするのでしょうか。それは誰でもできることではありません。先生がこのことをするために、涙ぐましい十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。こういう基準があるので、皆さんは何の功労もなく祝福という新しい伝統を受け継ぐようになりました。転換の勝利圏を立てるには、数千年に及ぶ神様の労苦と、実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これを土台として立った所が、正に皆さんが立っている所です。祝福とは、接ぎ木することであり、接ぎ木することによって血統が変わることです。
血統の同一性が必要なので、神様の心情圏に従わざるを得ないのです。なぜそうなのかといえば、根が違います。幹が違います。しかし、根が同じでなければならず、幹が同じでなければならず、芽が同じでなければなりません。そこには絶対的に血統転換という、とてつもない問題が起こるのです。それは、一人ではすることができません。真の父母がいなければなりません。
千五十四
神側では、サタンの偽りの愛圏にいる人間をより大きな神様の愛によって奪ってきて重生させるのです。人間が偽りの愛の父母、偽りの愛の先祖、偽りの愛の血統を通じて生まれたがゆえに、真の愛の父母、真の愛の先祖、真の愛の血統を通じて再び生まれてこそ、神様の子女、神様の民になるのです。イエス様の聖血が貴いのも、聖餐の儀式もみな、血統転換を通じて神様の子女になる摂理を形状的、象徴的に表すものです。 皆さんは血統転換、これの実感がわかないでしょう。皆さん、いつこのようになりましたか。先生がアベルになるとき、皆さんはカインとして完全に一つになるのです。この関係があるので皆さんが先生と一つになれるのであって、この関係がなければ大きな問題が起こるというのです。
神様の心情は、どこで連結されるのでしょうか。理論では連結されません。血統を通じてのみ連結されるのです。皆さんは、神様の心情の血統を受けました。今までは知らなかったというのです。それで皆さんが祝福を受ける前に、血統転換式があります。その時は、私は何もないという無の境地に入らなければなりません。私の体はないという立場に立って、父母様の血肉を再び受け継ぐ結着点が、私から始まるという信念をもたなければなりません。
皆さん、祝福を受けるとき、血統転換式をしたでしょう。皆さんは何も知らずに先生がさせるまま従ってやっただけですが、それがそんなに簡単なものではありません。イエス様が夫婦関係を成すことができなかったために、歴史がこのように混乱してきたということを考えて、その目的に合う一双を立てるという心情的基準から見るとき、祝福で血統を汚すような何かがある場合には、大変なことになります。これは刑罰が問題ではありません。
エデンの園では未完成期に堕落した者も追い出しましたから、完成の心情的基準で罪を犯したとすれば、言うまでもありません。そのような者は、後ろ姿も見たくない神様であられます。先生もやはりそうです。 祝福を受けるとき、皆さんは血統転換式をしたでしょう。その次からは完全に変わらなければなりません。真の父母が出てこなければ、このことが可能ですか。創世以後、どんなに険しい道を歩んできましたか。真の父母が現れたことだけでも有り難いのに、真の父母から祝福を受けたということは、もっと驚くべきことです。こうした伝統、その伝統とは、血統の伝統です。真の愛と、真の生命と、真の血統を植えた伝統ができているのです。これを、いつも考えなければなりません。
祝福家庭は、どんな意味をもっているのでしょうか。祝福家庭を中心として見るとき、サタンは祝福家庭を支配できないというのです。どんな国においても先生を完全に信じて真の父母に属したという信念をもって立つようになるとき、サタンはそれを侵犯できないのです。なぜそうなのでしょうか。父母様の心情を中心として血統転換した心情圈に連結されているからです。それで、ここからはサタンが手をつけられないのです。
復帰途上で僕の僕の時代から僕の時代を経て、養子の時代、直系の時代に上がらなければなりません。それでは完全に僕の僕の時代を経て、僕の時代、養子の時代を経て、直系の時代と因縁が結ばれるでしょうか。
千五十五
直系の時代と因縁を結ぶには、そのままでは結ばれません。必ず原理によって、信仰の基台を経、実体基台を経て、メシヤのための基台を経なければなりません。すなわち、メシヤを迎えなければならないということです。メシヤは神様の真の息子です。養子と真の息子では、血統的な関係が違います。それで血統転換が必要だというのです。 堕落人間は、血統を転換しなければなりません。これが根本的な問題です。神様と人間との関係は父子の関係ですが、このようなすべてのものが未知の事実として残っていたがゆえに、歴史が解けず、今までも神様の摂理を知らなかったのです。血統転換も個人圏、家庭圈、民族圏、国家圏、世界圈、みなしなければなりません。
これをするには、メシヤにならなければなりません。父母が出てくることによって、父母から血統が出てくるのです。父母が出てこなければ、血統が転換されないのです。このようなすべての問題に個人が責任をもたなければなりません。個人がみなこういうことをして、越えていかなければなりません。これを知らないので、知っているメシヤが来て、代わりにやってあげるのです。
堕落人間は、出発が間違ったというのです。ですから、また帰らなければなりません。帰ることは帰るのですが、どこに戻るのでしょうか。原点へ戻らなければならないのです。偽りの父母によって始まったので、原点へ帰って真の父母によって再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか。 私が神様の愛と、神様の生命と、神様の血統を再び受け継がなければなりません。それで皆さんが祝福を受けるとき、血統転換式をしたでしょう。それを自分の生命よりも信じなければなりません。統一教会の一つの儀式ですが、ただ一般の宗教儀式だと思ってはならないのです。これは死んだ人を回生させる注射の薬と同じです。解毒注射です。
聖書の歴史を見れば、ヤコブはお母さんと一つになって父を欺いて祝福を受け、タマルの歴史を中心としてもこのような非人間的行為をしたのに、ユダ支派を通じてイエス様が来るとはどういうことですか。血統転換という問題があるからです。血統を清めなければなりません。キリスト教だけが血統を重要視して、血統転換を主要思想とみなしてきました。他の宗教にはこういう歴史がないので、ここに従わなければならないという結論が出てくるのです。
ですから血統転換というものを中心として見るとき、文総裁はキリスト教を外すことができませんでした。選民思想を受け継いだキリスト教を外せなかったというのです。(世界基督教統一ではなく)「万教統一」と言っていれば、どうして私が迫害を受けるでしょうか。何のことか分かりますか。骨髄思想がこのようになっているためです。はっきり知らなければなりません。
四) 血統転換の三段階過程
①聖酒式
統一教会の祝福を受けるとき、血統転換式があります。皆さんは血統転換式をしたでしょう。蕩減棒行事とか三日行事とか、どんなに複雑ですか。そこには、サタンは入ることができません。それは真の父母と神様によって天国の門を開き、解放を宣言して立ったものであるがゆえに、長成期完成級で活動していたサタンは関係をもつことができないのです。祝福を受けた家庭は血統転換式をしたことを知っていますか。それを経なければならないのです。
千五十六
皆さんが婚約式をしたあとには聖酒式があり、その次に結婚式があります。それでは、この婚約式と聖酒式、そして結婚式はいったい何でしょうか。これは、ある前例に従って行う式ではありません。堕落したすべての内容をもう一度、象徴的に再現させて、それを蕩減するために行う不可避な行事なのです。
堕落した人間は、サタン世界の偽りの愛によって汚された過去のすべての愛を否定して、新たに神様の愛を中心として真の父母の愛を再現させることができる復活的な実体を備えずしては、祝福の場に行くことができません。したがって聖酒式は、まさしく真の父母の愛の関門を通じて、新しい生命の基準を成すことを約束する儀式です。
聖酒式は何をするものでしょうか。新しい愛を中心として神様の体を自分の体の中に投入させる儀式です。堕落した体は一つしかないので、神様の愛を中心として取り替えるのです。これが正に聖酒式だというのです。イエス様が、「パンは私の体を象徴するものであり、ぶどう酒は私の血を象徴するものなので、あなた方はそれをもらって食べ、飲まなければならない」と語ったのと同じように、愛を中心として、神様の実体を中心として、新しい血統を受け継いで原罪を洗い清めることができる式です。この式を経ずしては、祝福の場に行けないのです。ですからこの式は、血統を転換させる式です。
「血統転換」という絶対語が必要です。皆さんも祝福を受けるとき、血統転換式をしたでしょう。その血統を転換するためには聖酒がなければなりません。そして聖酒という酒が出てくるためには、二十一種類の選別過程を経なければなりません。それが何か知らないでしょう。それは空中で実を結ばせるものと、地で実を結ばせるものと、地の下で実を結ばせるものを中心としています。その次には鉱物世界、植物世界、動物世界でも貴いもの、このように二十一種類の選別された物を通じて、その過程を経るのですが、そのすべてのものが讒訴条件に引っ掛かってはいけません。七カ月間、使わずにおきますが、そこに不祥事が生じてはいけないのです。
聖酒式は蕩減復帰式です。聖酒式は天使長の立場でするのです。ですから血統とすべてを捧げます。すべて復帰する条件になります。ここでお母さんを通じて先生がするのです。皆さんも全く同じ立場です。そのような立場で橋を架けるのです。聖酒式をこのように挙行することによって、皆さんが父母の場と同じ復帰の場に入っていくというのです。それを知らなければなりません。
聖酒は女性が先にもらいます。女性が先に先生に敬拝して聖酒をもらい、半分だけ飲みます。その次は、夫が敬拝しなければなりません。これは、女性が半分飲む時は、男性は頭を下げているのです。この時は、女性がお母さんの立場にあります。お母さんの立場と同じです。こうして女性が半分飲んで残ったものを男性にあげ、男性が飲むことによって因縁が結ばれます。それで男性も対等な場に行くことができるというのです。
千五十七
聖酒式は、アダム、エバが堕落したその反対のコースで行うものです。結婚するには、婚約式がなければなりません。その次は聖酒式です。そうしてこそ結婚式に進むのです。皆さんは堕落したので、アダム、エバになれなかったのです。婚約式は、息子を取り戻そうという神様の前に、真の父母の前に、「堕落した息子より立派なアダム、エバになりました」と言うものです。
アダム、エバは婚約段階にあったのです。こうして一つの世界がここから誕生するのです。ですから、このようなすべての因縁を連結させる条件を成立させることが聖酒式だ、ということを知らなければなりません。
聖酒を飲むには、天使長からエバ、エバからアダムです。皆さんはどのようにするかといえば、エバが受けます。エバがいなければ、男性は再び生まれることができません。復帰なので、エバに杯を受けさせ、半分だけ飲んで、その次にエバが夫に与えます。杯をもらう時は、お父様から頂く代わりなので、礼をして、実際には三拝ですが、礼を一回だけでもいいです。三拝するという気持ちをもって、それを頂いて半分を飲んで、それを夫に。それを飲んだあとは、返してもらいます。そして反対にします。
そのようにすれば、心情的に一体化します。実際には、その前に先生が女性たちに手をのせて祈祷しなければなりません。先生が女性の手にこのように祈祷します。これが一体化の祈祷です。そういう祈祷をして聖酒を飲めば、堕落の血統をきれいにすることになります。それが条件です。キリスト教の洗礼式のようなものです。血統転換式!分かりますか。
天使長を通じてエバが堕落したので、復帰歴史においては、エバがアダムを通じて天の前に立って天使長復帰をしなければなりません。そのために行うのが聖酒式です。聖酒式をするとき、先生が女性に先に与えるでしょう。なぜそうなのか知っていますか。それが失ったエバを復帰する式なのです。聖酒式をすることによって霊的に一つとなり、心情的に一つとなり、肉的に一つになるのです。絶対的な内約なのです。
聖酒は、ただ作られるのではありません。ただそのままできるのではないということです。サタンと神様の立ち合いのもとに、霊界にいる数多くの天使たちの立ち合いのもとに作られるのです。そして、そこには皆さんが知らない二十一種類の物が入っています。万物世界と人間の復帰歴史の過程で形成される、すべての物が入っているのです。
聖酒を作る時は、霊界の霊人たちが来て、「頼むから一杯だけ注いで自分に飲ませてくれ」と強要します。聖酒を飲めば、復帰されることを知っているからです。それで、こじきが群れになって来て、しきりに「自分たちにも恵みをくれ」と言います。先生にはそれができるということを知っているのです。しかし、先生は、霊界のための先生ではありません。地上のための先生です。ですから「君たちは待ちなさい」と言って、苦労した皆さんに与えたのです。
聖酒には、父母の愛を象徴するものが入っています。そして血を象徴するものが入っていなければなりません。したがってそれを飲めば、父母の愛と一体になり、また血と一体になります。こういうものが聖酒の内容なのです。
千五十八
聖酒は、どのように作られるのでしょうか。それは地と海と空を象徴し、全体を象徴するものから作られた酒です。聖酒には三種類の酒が入っています。それ以外に、すべての万物を象徴するものが入っています。これを飲むということは、霊的に生まれ、肉的に生まれることを意味します。この式がなければ、原罪を脱ぎ、血統を転換することができません。血統が転換されなければ、完成基準を通過して神様の愛と一体となることができないのです。したがって聖酒式は、そのすべてのものを蕩減する式だということを知らなければなりません。
聖酒式は、堕落によって血統的に汚されたサタンの血を抜いてしまうものです。言い換えれば、原罪を取り除く式だということです。
聖酒にはサタンの讒訴のない万物の要素がみな入っています。その聖酒をもらって、真の父母と一つになった自分自身を汚す行為をすれば、サタンよりも恐ろしい立場に立つようになります。サタンは長成期完成級圏を汚して蹂躙しましたが、祝福を受けた者が過ちを犯せば、完成期完成級園で神様の実体を犯した罪が残るので、永遠に許されません。これは実に恐ろしいことです。
聖酒式をしたその場は、父母様が通過してきたすべての受難の道をみな蕩減してあげるためのものです。それは天下、宇宙を与えても替えられない貴い立場です。それを汚してはいけません。そうすれば当然、責任追及を受けなければなりません。
祝福家庭の二世たちと新しく入ってくる若い層、祝福対象者たちとは何が違うのかというのです。皆さんが祝福を受けるときは、聖酒式が必要であり、それ以外に必要なものが多いのです。複雑なのです。しかし祝福家庭の二世は、そのような聖酒式がありません。根が違うというのです。皆さんの根は堕落世界の根ですが、彼らはそうではありません。もちろん、人はみな同じように見えますが、歴史が違い、背景が違うというのです。出発が違うので、過程も違い、今現在置かれている立場も違い、未来において行く目的地も違います。目的地が同じだとしても違うというのです。祝福家庭としての立場なので、同じではありません。
②祝福結婚式
祝福式は、愛の伝授式です。神様の愛をもって父母が良く生きるように、皆さんも父母の愛を神様の愛の代わりに受けて、「このように生きなさい!」という愛の伝授式が祝福式だというのです。神様の愛を父母から受けるのです。ある有名な人から受けるのではありません。それは、天使長がしてくれる結婚です。名のある人が片方だけ来て結婚式をしてくれるのは、みな天使長にしてもらう結婚式です。
結婚式というものは、愛の顕現をいうと同時に、創造権と主管権を与えられることをいいます。
祝福結婚式は、ただ単に男女が出会って一つの家庭を成す婚礼式ではありません。今までの結婚式は、自分を中心としたものでしたが、私たちの結婚式は、神様に喜びを返し得るだけの内容をもって、歴史を蕩減する条件として、神聖で盛大に挙行されなければなりません。私たちの結婚式とは、アダムとエバの堕落で始まった神様の恨を解怨し、イエス様が成し遂げられなかった新郎新婦の基準を通過することであると、「原理」は明らかに説明します。
千五十九
主礼の前に歩いていくのは、六千年の摂理路程を歩むことです。蘇生、長成、完成を意味する路程に、二十一人、十二人の介添人を立てます。これは三数を代表するものです。七歩歩いて、蘇生を越える条件として三回、敬拝しなければなりません。この路程は、アダムから今までの歴史路程です。
特にアダム、イエス様、再臨主の三時代の過程ですが、この介添人の中を通過して、真の御父母様と出会うことを意味します。介添人を立てるのは、十二支派、二十四長老の霊的基準を立てるためです。敬拝することによって、蕩減条件を立てるのです。真の御父母様は聖水をまきますが、これは蕩減復帰した立場に立てるためであり、その条件を立てるためです。また霊界の先祖たちの土台を越える条件を立てるものです。
合同結婚式は、神様の新しい家庭を取り戻し、立てるためのものです。合同結婚式は、神様を何よりも愛することができるようにするものです。
統一教会の誇りは合同結婚式です。しかも同じ民族同士で結婚することより、東洋、西洋の人が合わさって結婚式をもつということは、誇り以外の何ものでもありません。そのことは統一教会でなければ、誰もできないことです。大統領もできないことです。それは先生が優秀だからそのようなことができるのでなく、神様の力が作用しているからです。 先生の聖婚式は、今までのどんな結婚式よりも盛大にしなければならないのに、苦難の中で行ったので盛大にできませんでした。ですから今後、盛大にしなければならない条件が残っています。食口たちは自分を中心とした三代の中で、外的にも結婚を素晴らしく行った立場に立たなければなりません。そうしてこそサタンの前に条件を立てることができます。それで合同結婚式をするのです。内的な面でも神様が喜ぶ結婚をするためには、祭物的な条件を立てなければなりません。
神様が催した宴会は、サタン世界のどの宴会よりも壮大でなければなりません。しかし個体としてはその基準に立つことができないので、歴史始まって以来、かつてなかった合同結婚式を挙げなければなりません。
祝福結婚式の目的とは何でしょうか。それは世界を教うためのものです。この結婚式は、国境と人種と言語と文化、習慣を超越した国際合同結婚式でした。新しい神様の民が編成されるのです。したがってこの結婚式場は、和解の広場でした。
神様を中心として世界民族の編成のために、統一教会で祝福結婚式を行います。
今日のこのような成婚式は、神様の希望であり、理想でした。アダム、エバが成熟すれば、成してあげようとしていた成婚式なのです。創造理想の心情の中にあったもので、これは実に歴史的なことです。このような式典は創造以後、初めて行われたということを痛感しなければなりません。
1060 * 千六十
③三日行事 ― 実体復帰式 祝福を受けて四十日が過ぎたのちには、三日間にわたり実体的な復帰式があります。この四十日期間は、歴史的で総合的な蕩減期間なのです。人間が愛を中心として復帰の権限をもつようになるのは、蘇生期でもなく、長成期でもありません。完成期に入らなければならないのです。
アダムの時代と次の時代は、失敗の時代です。その結果、旧約時代の神様の蘇生的な愛圏を継承できずに、キリスト教を中心として神様の長成的な愛を受け継ぐことができませんでした。その蘇生、長成の愛圏を受け継いだのちにこそ、完成的な成約時代圏に立つことができるようになるのです。そのような条件を立てることが、三日行事の実体復帰式である蕩減式です。三日行事の実体復帰式の初の日は、旧約時代の復帰です。堕落したアダム、旧約圏を復帰するのです。二日目は、新約時代のイエス様の立場を蕩減復帰するのです。三日目は、イエス様の代わりの新郎として新婦を再創造するのです。そこで初めて正式軌道に乗って、出発することができます。このように具体的に蕩減条件を立てるのは複雑なのです。
三日行事をするとき、夫婦はどんな立場に立たなければならないかといえば、夫婦とは夫と妻ですが、妻がお母さんの立場に立たなければなりません。お母さんになって、夫を愛によって生んであげなければなりません。結局は、再臨主までエバが生んであげなければなりません。主が来る時まで、再臨主までは三時代を経ますが、アダム、イエス、再臨主の三代を経て出てくるには、誰が生んであげるかといえば、女性が生んであげなければなりません。
この地上には今、主が、主人がいないというのです。ですからそれを生んであげる責任を果たさなければならない立場に立ったのが、女性たちだというのです。エバがアダムを完成させなければならないのに、堕落させ、イエス様がその使命を完成できるように、イエス様をよく生んで責任を果たさなければならないマリヤが、責任を果たせなかったというのです。それを、すべて復帰してあげなければなりません。結局は、アダムとして生んであげなければなりません。完成したアダムでなければ、結婚することができないということです。再臨時代まで三代かけてきたので、三人、三代にわたるお産の使命を果たさなければならないのです。
エバがアダムをこれくらい産み育てて、そこにまたイエス様をこれくらい育てたのちに、完成段階に入って夫を育てます。そののちに、夫としての権限を中心としてエバを愛して、越えていくそのような過程があるというのです。そこにおいて告解がなければなりません。再臨時代になって初めて夫になります。完成したアダムの立場に立つので、祝福の場、新郎の立場に立つようになるというのです。何のことか分かりますか。
千六十一
先生を通じて妻は、お母さんの使命を再び与えられるのです。これは、三段階で生んであげる形式で愛さなければならないということです。愛によって生んであげるので、そのような条件を立てるためには、愛するときに、今までとは反対にするのです。女性が上になり、男性が下になります。愛するとき、それを間違えないようにしなければなりません。
三日行事の式を進行するとき、まず女性が祈祷します。蘇生的アダムをお産するのに、祝福がなければなりません。その次には、イエス時代に入ります。「イエス様のような第二次アダムをお産する祝福をしてください」と同じ式を行います。それで二度生めば、イエス様の立場であると同時に完成的な立場に育ったという段階へと越えていくのです。そのとき初めて、夫の立場に進みます。主体的立場へと進むのです。
その次からは、男性が上に復帰されます。それで三度目の愛は、男性が上で行います。二人がそのように愛を終えたのちは、神様の永遠の夫婦として、天の相続を受けた永遠の家庭として、父の眷属になると祈祷して、その次に夫婦生活に入るのです。そのようになれば、完全に蕩減復帰された家庭として、天の国に堂々と入るというのです。そのように難しいものです。ですからこういうことを知らなければ、復帰は不可能なのです。これを知らなければ、復帰できません。今日、既成教会で、信じて天国へ行こうというのは、でたらめで、こっけいなことです。天国へ行くのではなく、楽園へ行くのです。楽園は待合室です。
聖酒式は、三人のお母さんから生まれたという条件を立てる式です。聖酒には蕩減の血が入っています。聖酒を飲むことによって、内的に清め、聖巾で体を拭くことによって、外的に清めようとするのです。 これから実体の子女を繁殖しなければなりません。父と心情的な因縁を結ぶことができる子女を生むようにしてくださいと祈祷しなければなりません。心情的な祭司長になることができる子女を生むために祈祷しなければなりません。先生は、天地を身代わりすることができる心情的基準の上で子女を生むことを願います。
先生は、一度祝福すれば責任を負います。私たちは世界の代わりに、もう一度祝福を受けなければなりません。ですから条件的な結婚です。それまでの四十日間は、四千年を蕩減する期間に該当します。事実、結婚生活はきょうからです。今までは蕩減期間でした。
三 祝福家庭の責任
一) 真の父母と一体圏を成さなければ
人間は長成期完成級で堕落したので、そのまま完成段階に上がることはできません。私たち人間が長成期完成級で堕落したので、堕落したその線以上に上がってこそ、初めて原罪を脱ぐことができるようになっているということです。原罪は長成期完成級で脱ぐのではありません。したがって今日、皆さんが祝福を受けて立ち上がったこの場は、完成期完成級ではなく、長成期完成級だという事実を知らなければなりません。
千六十二
堕落したアダム、エバを中心としてカイン、アベル、セツと彼らの対象(相対者)を含んだアダム家庭の八人がみな落ちていってしまったので、神様の前に蕩減条件を立てて、再び完成級に向かっていかなければなりません。そこでは父母の愛を感じなければなりません。生命の起源は、父母の愛を通じて生まれるのです。こういう生命の価値を世界の何よりも尊重視できるその場を経てこそ、新しい道を行くことができるというのです。原理がそのようになっています。
今の個性完成は、絶対的な全体個性完成になっていません。条件完成です。復帰過程での条件完成ということを知らなければなりません。それで彼らが父母の立場に立っていますが、神様の心情圏というものを知りません。自分の妻は宇宙を与えても替えることができず、夫は宇宙を与えても替えることができず、二人が愛するそこに天地をつかんでいくことができる偉大な力があるということを体験できませんでした。
ですから祝福してあげた家庭は、この堕落圏を越える時までは、条件完成圏内に立っているということを知らなければなりません。天国完成圏ではありません。条件完成圏です。条件完成圏にあるので、ここで生きたのち、霊界に行けば手続きを別にしなければなりません。手続きの手順を済ませて、完成的完成をすれば、パスポートをもらって天国に入るのです。
「私は祝福を受けたからもういいだろう!じっとしていても天国だ」とそのように座っていれば、めちゃめちゃになるのです。祝福を受けたことが完成段階ではありません。皆さん、七年路程を習ったでしょう。このような複雑な内容を知って、合わせてくれる人がいないので、全能なる神様も仕方なく引っ張られてくるのです。皆さんが祝福を受ける時、「私たちは神様の原理原則に従って祝福を受けた。きょうから一つになった」と言いますが、一つですか。再び夫婦が再創造しなければなりません。 お互いに再創造しなければなりません。怨恨の夫婦の溝を埋めなければならない道が残っていることを、統一教会の祝福を受けた者たちが忘れてしまえば滅びます。私がいくら「滅びない」と言っても、滅びるようになっています。二人の夫婦は、神様が願う理想的復帰完成の夫婦に向かって、再び再創造の過程をたどらなければならないのです。それで統一教会では、個人復帰完成、その次に家庭復帰完成をいうのです。
人類が願うこととは何でしょうか。真の父母に侍ることです。六千年前に、アダム、エバの成婚によって、全人類が神様の子孫にならなければならなかったにもかかわらず、堕落することによって、人間たちはサタンの子孫になってしまいました。ですから、これから私たちは、六千年前に失った天側の真の父母を再びこの地上に探して立てて、その真の父母の愛の因縁を通じて重生しなければなりません。そうしてこそ天国の民になることができるのです。
すべての始まりは、真の父母からです。すべてのものの出発、初めは皆さんではなく、真の父母です。生きるのもそうであり、行動するのもそうであり、愛の家庭を連結するのもそうです。初めは真の父母です。これは先生の話ではなく、私たちの初めの先祖に対する神様の公式的な概念であったというのです。どうすれば私たちの家庭を父母様の家庭のようにつくれるか、それを考えなければなりません。
千六十三
皆さんはこれから、真の父母と共に生きなければなりません。ですから真の父母は、おじいさんの立場であり、自分のお母さん、お父さんの立場であり、自分たちは長子の立場だというのです。三代にわたって共に生きるという結論、これが違うのです。神様が私と共にあり、真の父母が私と共にあって、自分の父母が共にあるのを感じて生きなければなりません。神様がいない、死んだというのは、考えられない時代に入りました。
人間は誰でも、心情的に神様と一つになるようになっています。神様である父と、子である人間は、正に心情で結ばれています。
神様を信じることができずに堕落したので、メシヤを信じて、ついていかなければなりません。ついていって何をするのでしょうか。愛の住みかを用意しなければなりません。簡単でしょう。それから新郎であるイエス様と実体的に一体化して、心情一体化しなければなりません。それで復帰しなければなりません。そうして神様と真の父母と真の子女が対面する場、すなわち神様が初めに願われたその揚が、この天地間に繰り広げられれば、そこから新しい天地が開かれるのです。
皆さん各自の血統的内容が違い、背後が違っても、父母に似るためには、接ぎ木する役事をしなければなりません。ひっくり返して接ぎ木しなければなりません。接ぎ木するには、皆さん自体に残っている蕩減路程をみな清算しなければなりません。それは父母から始まったので、父母を通じて清算されなければなりません。それで真の父母から接ぎ木されなければならないのです。アダムが真の父母になることができず、偽りの父母になったので、神様は今まで真の父母を探してこられたのです。再臨時代に新郎新婦とか「小羊の婚宴」とかというものも、みな父母を探すためのものです。
父母の愛を受けるには、何をしなければならないでしょうか。父母様が愛するすべてのものを愛さなければなりません。そうしてこそ、初めて愛されるのです。家庭でいえば、自分の親に愛されることを願うならば、その息子は親がもっているすべてのものを愛してから、愛されなければならないということを知らなければなりません。これをしないで愛されようという人は、どろぼうです。父母が貴く思うものをすべて自分勝手に引き継いでは、愛されないのです。
皆さんは、真の父母の本当の息子、娘ですか。真の子女とは、何を中心としていうのですか。真の血統です。もちろん真の愛を通じて因縁をもちますが、成されるのは真の血統を通じて連結したということです。真の血統を通じて連結されたものは、お母さん、お父さんに似るのです。皆さんは先生に似ていますか。皆さんの目は青く、私は黒く、髪の毛も違うではありませんか。髪の毛がみな白いではありませんか。私は東洋人で、顔が平らです。
似るのは、一番の骨子だけが似ます。骨子だけが似ますが、どういうふうに似るかといえば、サタンに勝つことと神様を絶対に愛することだけ似ます。それだけ似るというのです。そうしてサタンを主管して、コントロールするというのです。
千六十四
皆さんが先生をどれだけ愛さなければならないでしょうか。根本問題に戻ります。サタン世界の愛の痕跡がある、その愛に染まったところで愛してはいけません。それ以上でなければなりません。皆さんがサタン世界で生まれたお母さん、お父さんと妻子、その誰よりも愛さなければなりません。
それで聖書で「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言ったのです。すべてそのような結論を下したのです。そう言いながら、あとでは「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」(同一〇・三八)と言いました。十字架を背負わなければならないと言いました。反対に引っ張っていく力を押さえて越えていこうとするので、十字架でしょう。ここで、悲痛な涙を流さなければなりません。
今日、堕落した人間はすべてのものを否定して、全体を否定する中で、愛の芽を育てなければなりません。そのような論理が必要になっています。全体を否定して、ただ主体の愛をもった神様を中心とした、愛を中心とした絶対基準を発見しなさいというのです。
一切を父母と共にかかわり、父母と共に決定し、父母と共に話し合い、父母と共に解決しなければなりません。
二) 性の絶対的な価値観確立
男性、女性の愛の象徴とは何でしょうか。愛の終着地点とはどこでしょうか。男女を一体とならしめる性器官です。それは、愛を中心として心と体が完全に合わさることができる通路になるのです。
男性と女性は何が互いに違いますか。性器官(Sexual Organ)を含むその体がまず違います。それでは男性の性器官は誰に絶対に必要ですか。男性の性器官は女性のためにあるのです。人間の性器官が一つは凹で一つは凸ですが、なぜそのようになっていますか。二つともとがるようにするとか、二つとも平らにすることもできるのに、なぜそのように違うのですか。みな相手のためです。
男性のものは女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願います。絶対に女性のものが男性のもので、男性のものが女性のものだという事実を知らなかったのです。それを占領することによって、愛を知るというのです。
生殖器とは、愛の王宮であり、永生の生命が誕生する王宮であり、永遠に変わらない天の伝統を受け継ぐ血族を、血統を受け継ぐ王宮です。真の生命の王宮、真の愛の王宮、真の血統の王宮だというのです。その王宮はも貴いところです。自分勝手にできません。神様の公認がなければ、開けることができません。神様と宇宙の公認を受けた自分の夫、自分の妻以外にはタッチできないのです。
千六十五
男性と女性が、凹と凸が一つになるのは、神様が完成し、半分の女性、半分の男性が完成する場です。凹と凸が結婚して初愛の関係を結ぶその場で、神様の愛的理想が完成する定着地が展開するのです。男性と女性の愛を中心とした神様の相対的位置としての完成の位置が決定するのです。これは宇宙の核です。 これが動けば、すべての宇宙が行ったり来たりします。地上天国の本拠地であり、天上天国の本拠地なのです。ここは愛の本然地であるので、「愛の本宮」と言います。多くの王宮の中で、中心の宮を「本宮」と言います。ここが愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮であり、その次には、天上天国と地上天国の出発地であり、人間が願っている自由と幸福と平和がここから始まるのです。 そこは愛、生命、血統、すべてのものの王宮であり、個人、家庭、氏族、民族がそこから連結されます。天上天国と地上天国の本熱地、出発地だということを知らなければなりません。その次は自由と幸福と平和の起源地です。女性に男性がいなければ絶対暗黒であり、男性に女性がいなければ絶対暗黒です。
平和の基地もそうで、地上天国と天上天国、すべてのものが愛から始まります。何の愛ですか。男性の愛ですか、女性の愛ですか、男性、女性が合わさった愛ですか。合わさった愛です。その男女の愛はどこで合わせますか。顔で合わせますか、指先で合わせますか。凹凸で合わせるのです。
男性が崇拝できる高の場所とはどこでしょうか。女性の顔ですか。女性の胸ですか。女性の体ですか。どこですか。凹と凸を合わせることができる所は一つしかありません。そのために、予備的環境が、社会が連結され、国家が連結され、世界が連結されて、地上・天上天国、宇宙がみな連結されます。これが存在世界の鉄則であり、公式です。
男性完成、女性完成、神様まで完成させることができるその本拠地とはどこでしょうか。どこで神様の愛を完成させることができ、どこで男性、女性を完成させることができるのでしょうか。その中心の定着地とはどこでしょうか。これが問題です。これを知らなければ、地上に愛の理想天国を拡張、拡大することはできません。それは目ですか、鼻ですか、手ですか、足ですか。どこですか。凹凸です。
生殖器というものは何ですか。それは真の愛を中心とした王宮であり、真の生命を中心とした王宮であり、真の血統を中心とした王宮です。一番貴いものです。これがなければ、神様の理想、神様の家庭、神様のみ旨が成されないのです。これは、全体完成を成し遂げることができる一つの起源です。
女性の生殖器は、宇宙的な本源です。愛の関係を結ぶその場が、愛の本宮になっています。本然の宮中です。愛はそこから始まるのです。結婚した初夜の愛が、愛の本宮の出発です。女性の生命、男性の生命が、初めて一つになるのです。ですから理想的な生命の本宮がそこであり、血統がそこから始まるために、血統の本宮がそこなのです。そして天国がそこから始まるために、そこが地上天国の本宮であり、天上天国の本宮であり、人間完成の本宮であり、神様完成の本宮です。
千六十六
生殖器は、愛の王宮です。今、その愛の王宮がどのようになっていますか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮であるもの、そのように貴いのが人間の生殖器です。神聖なものです。それが堕落によって、汚いものになってしまいました。本然の神様の観点から見れば、汚いものではなく、神聖なものです。も貴いものです。生命、愛、血統がここに連結されています。このように神聖なものをサタンが汚しました。
生殖器を絶対的に貴く思う世界になれば、その世界は良い世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、減びる世界でしょうか。神様が人間を創造なさるとき、も大切に精誠を尽くして創造された箇所とはどこでしょうか。目でしょうか。鼻でしょうか。心臓でしょうか。でなければ頭脳でしょうか。これらはすべて、死んでなくなります。事実がそうではありませんか。
私の生殖器は、愛の本宮です。私の生殖器は、生命の本宮であり、王宮だというのです。私の生殖器は、血統の王宮です。このようになってこそ、神様が臨在できる王宮になることができるのです。神様は王の王であられ、本宮を訪ねてとどまられるお方なので、神様に仕えるために、愛の本宮にならなければならず、生命の本宮にならなければならず、血統の本宮にならなければならず、良心の本宮にならなければなりません。
愛が中心となって、二人が生命の合一体となって合わさる場、男性の血、女性の血が一つのるつぼで一つになる場が生殖器です。その場は、息子、娘より貴く、夫より神様よりも貴いということを知らなければなりません。子供より貴く、夫より貴く、父母より貴い場だというのです。それがなければ、父母も無価値なものであり、夫婦も無価値なものであり、息子、娘も無価値なものです。
そのように貴いので、宝の中の宝として、世の中の誰にも見えないように一生の間、錠をかけておくのです。そしてその鍵は、男性のものは女性がもち、女性のものは男性がもっていますが、各々一つしかありません。一つの鍵だけをもたなければなりません。フリーセックスのように十も、二十ももちたいですか。門を開けて主人がいない家のように、過ぎゆく人がみな出たり入ったりする廃虚の家のようになりたいですか。
男性と女性が愛する本宮、生殖器とは何ですか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮です。おじいさん、おばあさんもそれをつかんで生き、今後生まれてくる息子、娘もみなそれをつかんで生きるでしょう。それをつかまないで生きる女性、男性がいるでしょうか。ところが、それが何ゆえ悪いものになりましたか。「下品な言葉」と言うでしょう。何ゆえ下品な言葉ですか。聖なる言葉です。聖なる言葉として受け入れなければなりません。そこで永遠の愛が連結され、永遠の生命、永遠の血統が出てきます。も貴いものです。
女性、男性の貞操を守り、保護するというのは、宇宙を保護することと同じです。男性、女性の愛の秩序が、宇宙の根本だからです。
千六十七
頭よりもそれがもっと重要です。頭には真の愛の起源がありません。頭には真の生命の起源がありません。頭には真の血統の起源がありません。その起源はどこにあるでしょうか。生殖器です、それは間違いないでしょう。生殖器にすべてのものがあります。そこに生命があり、愛があり、血統があります。そこが愛の本宮なのです。生命の根もそこにあります。血統も同じです。人間の体だけでなく、人間世界と人類歴史を通じて、一番貴いところです。それがなければ人類の繁殖は不可能です。
堕落した世界において、愛は も危険なものになってしまいました。愛をよく管理できなければ、天下が崩れ、ひっくり返るのは、堕落したからです。愛が何ゆえ偽りで醜くなったのかよく分からなかった人間が、その愛を守り、保護しようとしてきたのは、真の愛が現れてくれることを希望する本能のためでした。
堕落することによって、男女の生殖器が、この妖邪な死亡の波、死亡の法、滅亡の地獄を開門させた本宮となり、天道を破綻させた化け物団地になりました。これが今まで歴史に隠された秘密でした。
愛の王宮とはどこですか。こういう話をするからといって、変に考えないでください。それを正すことができなければ、世の中がみな狂うのです。標準が合わなければ、全天下に妖邪なものが横行します。文総裁がこれまで苦心して、人間の根本問題、宇宙の根本を究明してみると、ちょうど到着したところが生殖器でした。生殖器に到着してよくよく考えてみると、天地の調和がここで渦巻いていたのです。驚くべき事実です。
真の自由は、責任性を前提とします。もし責任性がなく、個々人の愛の自由だけを主張して実践するならば、どんなに大きな混乱と破局が訪れるでしょうか。至高な愛の理想を成す人間の完成は、愛に対する責任性をもつとき、可能なのです。 人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら自己修養、自己主管によって、自由の主体となる責任性をもたなければなりません。人において愛の責任性は、法や人目を気にすることによって守られるのではなく、神様との生命的、縦的関係の中で、自己主管、自己決断によって守られるのです。
生殖器を目の見えない盲人のように、方向を失ったまま使用すれば、地獄行きであり、反対にこれを神様の絶対愛の基準に合わせて使えば、天国の高い所に行くのです。明白な結論です。
愛の器官をむやみに扱えば、罰を受けるようになっています。それが愛の王宮であり、愛の先祖の園です。愛は、そこから出発しました。生命がそこから出発しました。歴史がそこから出発しました。地上天国の起源であり、天上天国の起源であり、神様の幸福の出発の起源が、そこで形成されるというのです。
神様の笑いの土台がそこから出発します。愛を見つけて、神様が踊ることができる場が、その場です。その場を探していかなければなりません。それは正しいですか、違いますか。このように貴いものです。
人間が堕落するとき、愛ゆえに堕落したために、この性器が一番恐ろしいのです。宗教では姦淫することを一番恐ろしい罪として扱っています。米国のフリーセックスは悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか。地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。
これはすべて滅亡するのです。
千六十八
文総裁がすべての真理を探究し、霊界、肉界を探査し、すべての経典を探査しても、これは解決する道がありません。神様がいるでしょうか、いないでしょうか。神様がいるならば、世界をこのようにつくった神様をそのままにしてはおきません。見極めるための談判闘争をしたのです。人間が生まれた根本原則とは何であり、何ゆえ生まれたのでしょうか。男性は女性のためです。それが全体の真理の中の高の真理です。
女性の前に理想的な男性は高の真理です。宇宙全体を完成した理想の真理の本体だということを知らなければなりません。男性の前にそのような女性も、宇宙の真理の本体の中の本体です。絶対的な真理体です。
祝福を受けた血統を汚してはなりません。それを皆さんは、よく知らなければなりません。天国を受け継ぐことができる、相続することができる財産です。それは血族の文書、血統の権利証書と同じです。族譜と同じです。
純潔をどのように守るかということです。
三) 理想的夫婦生活が重要
男性は、神様の陽性的形状をもった存在であり、女性は、神様の陰性的形状をもった存在です。夫婦は、天下を一つのふろしきに包んだようなものです。ゆえに夫婦は、神様の理想的な愛の心情を感じることができます。
夫婦が神様を愛し、人類を愛する心の土台の上で、爆発するように愛し合うならば、その家庭によって、神様が酔い、宇宙が酔うことができるようになります。その愛は、神様のための愛であり、人類のための愛でないはずがありません。その愛の根はどこにあるのでしょうか。自分にあるのではありません。神様が愛の根源であり、人類の愛が根源なのです。
結婚したならば、既に平面的ではありません。平面的な基盤しかありませんが、高いものが低いものと連結されるときは、垂直的概念が生じます。平面的な役事は宇宙や天宙を収拾できません。垂直と水平が出合って、九〇度の角度を成すとき、それは天を地にしても、地を天にしても、前を後ろに、後ろを前にしても、右弦左弦、上弦下弦、前弦後弦、どの面に付けてもぴったり合うのです。地上の完成基準は、霊界のすべての完成へとつながります。
神様の結婚式とはアダム、エバの結婚式です。ですから地上天国と天上天国が同時に生じるのです。愛の巣から出発するのです。男性、女性の生殖器を中心として、堕落しないで出会うその時間が、地上天国、天上天国出発の起源地です。三大王権を樹立しなければならないその基地がそこです。その場でなければ、愛の巣を成すことができません。
人間は本性的に、自分に対する相対の愛が分散することを願いません。夫婦間の横的な愛の関係は、親子間の縦的な愛の関係とは違って、分散すれば既にその完全性が破壊されます。夫婦間には絶対的な愛の一体を成すようになっている創造原理のためです。人間には、自分の相対に絶対に「ため」に尽くさなければならない愛の責任性があります。
千六十九
男性と女性が祝福を受けて完全な愛を分かち合い、喜びを享受するとき、神様の目には、地上に咲いた花のようだというのです。また彼らの愛によって成されるすべての調和万象は、神様には香気のようなものです。神様は、このような美しい香りの中で暮らしたくて訪ねてこられるというのです。神様の愛が訪ねてくることができる根拠地が、まさしく夫婦の愛の場です。その場は、万物と宇宙が和動する場となるでしょう。
神様の愛が人間の三大愛を中心として共に花咲くことができる家庭を成すことが世界の願いであり、人類の願いであり、未来の願いだというのです。これが初めて天地の法度の前に歴史の香りを漂わせることができ、新しい花として登場できる貴く美しいものが、夫婦の愛だということを知らなければなりません。
男性と女性の愛の完成が宇宙の完成です。この愛が壊れる日には、宇宙の秩序が破壊され、縦的な世界がみなつぶれるようになります。 心情的な愛によって結ばれた夫婦は、その愛情が生活圏に満ちあふれ、生涯を通じて満ちあふれ、神様の目的と間違いなく一致したという家庭を成さなければなりません。そうでなくては神様がいらっしゃる天国へ帰ることはできません。
愛は永遠です。そのような愛は、二つではなく、一つです。男性と女性の間が愛によって結ばれれば、地上で百年偕老(注:夫婦が仲睦まじく年を取ること)し、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つでも、一つとなって回ることによって一体になるのです。二つの体が一つになれば、神様と回るようになって、愛の四位基台を成すので、それが正に理想世界なのです。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛のみが臨在するようになるのです。
人には常に刺激が必要です。幸福は、刺激なしには成されません。刺激がなければなりません。
いつも食べる御飯も、食べるたびに、おなかがすいていてこそ味が新しいように、夫婦間の愛も同じように、常に新しくなければなりません。妻と夫がお互いに見れば見るほど、より一層共にいたいし、一日中、共に過ごしたいと思わなければなりません。そのために自分に対する研究をしなければならず、神様に対する研究をしなければなりません。
理想的夫婦とは、どんな夫婦でしょうか。高の芸術を実体に展開させることができる夫婦、高の文学を展開させることができる夫婦なのです。 高の理想、 高の文化世界に接する前に、 高の愛によって夫婦がやり取りする甘い愛が、世界 高の芸術作品にならなければなりません。夫婦生活自体が高の文学作品であり、それ自体が文学の実体にならなければなりません。
1070 * 千七十
結婚して夫婦が真の愛を行う場は、神様と人間の愛と、生命と、血統の根源の王宮の場であり、理想のための地上天国、天上天国の出発地なのです。このような真の愛によって結実した子女が、真の愛を中心とした夫婦一体を完成して、神様に仕えて生きる家庭になり、平和と理想の出発基地になるのであり、半分の男性、女性たちは一体となって、神様の相対として神様の理想愛を完成させるようになるのです。 赤ちゃんを生む場は、神様の上弦世界を占領するのです。神様の立場に上がることによって、子女を愛することによって、神様が創造以後、人間をどれくらい愛したのかという内縁を体恤させるのです。
皆さん、愛するのを神様が見るでしょうか、見ないでしょうか。天下時空を超越する神様が、この世界の五十億人類が愛する夜になると、目をつぶるでしょうか、つぶらないでしょうか。見ているなら気分はどうでしょうか。
良い妻、良い夫がどれほど多いですか。考えてみてください。ありとあらゆることがみな展開されるでしょう。やむを得ず女性の役割をし、やむを得ず引っ張られていき、やむを得ず機嫌を取って、そのように生きるのではありません。
それが愛ですか。それが人生ですか。世の中がすべて神様が願っていた創造理想どおり、花の香りが漂うエデンの園のように、ちょうど蜂が思いのままに飛び交い、天地に和動しながら生きることのできる環境となって、神様がそこに酔い、眠ることができるなら、どんなにいいでしょうか。それを考えたことがありますか。一度そのように生きてみてください。
夫婦の愛を通じて一つになることによって、神様のような立場で、創造の能力を成したのが子女です。
四) 祝福は理想家庭完成にある
人間に対する神様のみ旨は、創造目的を完成して創造理想を実現することです。創造理想の実現は、男女が結婚して愛によって一つになることで終わるのではありません。そのようになったのちは、息子、娘をもたなければなりません。何ゆえそうなのかといえば、天地の道理は上下、前後の関係が連結されることだからです。きのうがあればきょうがあり、きょうがあればあすがあるのです。連結されなければなりません。ですから夫婦だけでは、きょうはあってもあすはありません。あすがなければ、すべてのものが終わるのです。それで天地の道理は、上下が連なってこそ左右になります。
人間の始祖を通じた神様の理想は、男性と女性が結合して、理想的な家庭を成すことでした。理想的な家庭の中心は、男性でもなく、女性でもありません。家庭とは、父母と子女、夫婦の結合によって成された一つの束なのですが、その結ばれた中心が、正に神様の愛です。神様の愛を中心として、家庭を完成させることが神様のみ旨だという結論が出てきます。家庭は、神様の理想が顕現することのできる基点であり、人類の幸福の顕現の基点となるのです。人間としての仕事がみな終わる場であり、神様もすべての物事の完成を見る場です。家庭がなぜいいのですか。それは父母の愛を中心として自由に活動する基地になるからです。
千七十一
家庭には必ず父母がいて、妻子がいなければなりません。そうしてこそ、その家庭が幸福の土台になるのです。神様が人類を訪ねてこられる目的も、神様御自身の幸福を模索するためのものであるに違いありません。ゆえに神様御自身が幸福の土台を訪ねてこられるのに、人間を離れた所では、そのような理想はあり得ないというのです。人間と共に関係を結んでこそ、その一致点をもたらすことができるのです。私たちが家庭で情緒的なすべての内容を備えた立場で幸福を感じるのと同じように、神様もやはりそういう立場で幸福を感じようとされるのです。
神様を中心として一つになるとき、千態万状に回るようになるのです。したがって兄弟間で愛するのも、父母が子供を愛するのを見習って、兄は弟を愛さなければなりません。そのように愛して一元化した家庭は、家庭愛が花咲くことができます。これがまた社会愛になることができます。さらには、民族愛になり、世界愛になるのです。ところが今日、これが漠然としているというのです。
真の家庭は、自分のお母さんのように妻を愛して「ため」に生き、自分のお父さんのように夫のために尽くして愛し、兄妹のように愛し合う所です。その次は、神様のように自分の妻を愛し、神様のように自分の夫を愛して尊敬する世界が、理想家庭が暮らす天国です。このような伝統がこの地球上に立てられなければなりません。
神様を中心とした永遠の父母の愛、永遠の夫婦の愛、永遠の子女の愛、この三種類の愛があるのが理想的家庭です。
人の一生において、も重要な時はいつかといえば、生まれる時、結婚する時、死ぬ時です。それでは生まれる時は、どのように生まれなければならないでしょうか。正しく生まれなければなりません。私たち統一教会でいえば、心情の因縁を中心として生まれなければなりません。 その次は、結婚する時です。結婚とは、生きるためにするものです。すなわち、四位基台を成すためにするものです。これと同じ宇宙の公法を地球上に立ててこそ、神様のみ旨が成され、人間の願いが成されるというのです。このような宇宙の法度が指向する内容を備え、その形態を備えるためのものが家庭です。
天国生活はどこから始まるのでしょうか。正に家庭です。他の所から始まるのではありません。天国は家庭を立体的に拡大させただけであって、家庭園を離れたものではありません。ですから皆さんが自分の妻や夫を抱くとき、これは世界のすべての男性と女性が一つになるのだという考えをしなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立てることができる場が、正にこの家庭です。
父子の関係の真の愛は縦的であり、夫婦の真の愛の関係は横的であり、兄弟の真の愛は前後の立場として、球形の真の愛の理想を願われたのです。すなわち、縦に上弦下弦、横には左弦右弦、前後には前弦後弦を全体的に連結した一つの中心点で統一は成されるのです。その点が球形体の中心点になるのです。いつ四大心情圏である子女、兄弟、夫婦、父母が一体を完成するのかといえば、神様を中心として人間が結婚して初愛を結ぶ場が、すべての完成の結実点であり中心になるのです。したがって結婚は、天地人の合徳であり、縦横、左右、前後、全体を完成するものです。結婚は真の子女、兄弟、夫婦、父母の理想の真の愛の完成地なのです。
千七十二
一家庭を中心として、一番良いものとは、皆さん自身で決定されるものではありません。それでは家庭での上の価値は、何になるでしょうか。父母です。皆さん一個人においても、権力や知識、または名誉やお金も貴重なものになるでしょうが、そのすべてのものに勝って良いものは父母以外にないというのです。その次は皆さんの妻や夫になるでしょうし、さらには皆さんの子女になるでしょう。 事実、皆さんの家庭で皆さんの父母や妻、そして子女たちよりも大切で価値あるものがありますか。ないというのです。では何ゆえ、父母が良いものになるのでしょうか。そしてまた夫と妻、子女が何ゆえ、良いものになるのでしょうか。愛があるからです。父母の愛、これは夫と妻にとって、絶対的に必要なものになります。そして兄弟間の友愛とか、子女が父母に対して抱く孝行の心も、一家庭で絶対的に必要なものです。
神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体になります。父母は神様の代わりに生きている神様であり、夫と妻はお互いに片方の神様であり、息子、娘はまた一つの小さな神様です。このように三代が真の愛を中心として成された家庭組織が、天国の基盤です。そのような基盤を成さずしては天国が成されません。家庭とは、宇宙の中心です。家庭完成は、宇宙完成の基礎となるために、家庭で愛するとともに宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。こういう場合、神様は宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の場にいらっしゃいます。
統一教会の「原理」でいう四位基台は、三大愛圏をいうのです。三代が一つの家で暮らしながら、愛によってむつまじく幸せなとき、天地創造の理想が実現されるのです。夫婦が愛し合うことはもちろんですが、子女たちに愛によって祈祷してあげ、精誠の心で世話をしてこそ、家庭がむつまじく、幸福になるのです。これが縦的に成され、横的に連結されるとき、完全な愛が成されます。いとこと、またいとこの兄弟たちまで愛によって一つになって初めて愛の原形となり、完全になります。
理想的な愛は、家庭で成されます。しかし神様は、真の息子、娘をもつことができませんでした。真の兄弟をもつことができず、夫婦をもつことができず、また父母になることができませんでした。ゆえにこのようなことを成そうというのが、神様のみ旨です。このようなところでこそ、愛がとどまるのです。このような愛が成されるところには、人々が世の中のすべてのものを捨てて、訪ねてくるのです。
神様は、家庭の中心となるお方として、この世界は神様の国にならなければなりません。祝福家庭は、神様の国を連結させることができる家庭になるように努力する生活をしなければなりません。神様の代わりに、「ため」に生きる生活をするところから、氏族が展開され、民族が展開され、国家が興って形成され、世界が形成されます。それで家庭は、神様を中心とした世界を形成する責任を果たさなければなりません。先生を中心とした統一教会は、一つの氏族のようなものであり、一つの民族のようなものです。五色人種が合わさって単一民族を形成し、世界に誰よりも「ため」に尽くすことのできる国家を形成するこ
千七十三
とが、統一教会の目的です。それが先生がしようとする目的であり、神様が先生を通じて成就しようとする目的です。 統一教会では、天国は氏族圏内から成されると見るのです。おじいさんを中心として、父母と兄弟が一つになり、いとこと、またいとこまで一つに連結されるとき、完全な三代が成されます。このような氏族圏の愛が、地に立てられ、神様と一つになるならば、すべての世界は神様と一致する愛の世界であり、天国になるのです。
女性が嫁に行っても同じです。夫の祖父や舅は、神様の代わりの立場であり、夫の代わりの立場ですから、愛で侍らなければなりません。また義理の弟や小姑とも愛によってむつまじくなければなりません。こういう愛の関係が、社会へ拡大して、民族と国家、世界へ拡大するならば、この世界は罪悪と戦争の代わりに、平和と愛で満ちるでしょう。その世界が正に神様の理想が実現された一つの天国であり、理想世界です。
この宇宙の中心は、どこにあるのでしょうか。家庭にあります。真の愛が定着できる基地はどこでしょうか。皆さんが生きている皆さんの家庭だというのです。したがって本来の家庭は、宇宙愛を掌握して宇宙の保護様相を体得しながら、宇宙愛圏を拡大させ、家庭を越えて国家を愛する愛国の道を行かなければならず、ひいては民族と国家を越えて、世界を愛する道へと行かなければなりません。家庭を愛する人を「孝子」または「烈女」と言い、国を愛する人を「愛国者」と言うならば、世界を愛する人は何と言うのでしょうか。その人を正に「聖人」と言うのです。
神様の愛圏の中で理想的な家庭を成し、氏族を成し、民族と国家を形成して、もっと拡大して、アダムの理想が実現する一つの理想的世界を成し遂げていたでしょう。木の根、幹、葉が一つの生命で連結されているように、愛を中心として上には神様を父として侍り、下には万民を兄弟のように、一つの生命体、愛の生命体に和するようにして、神様を中心とした永遠の理想世界を成さなければならないのが、正に神様のみ旨から見た世界観です。このような世界の人間たちには、救いが必要ではなく、メシヤも必要ありません。なぜかといえば、その世界に住む人間は、神様の善の息子、娘だからです。
この地球上に神様のみ旨が成されていたなら、アダムを中心とした単一文化圏が形成されていたことでしょう。今日のように数多くの民族がそれぞれ文化と文明を形成してきたのではなく、アダムを中心とした単一文化、単一思想、単一文明をもった世界になっていたはずです。このようになっていたならば、文化、歴史、風習、言語、伝統などがみな統一されていたことでしょう。
家庭とは、人類愛を教育する代表的な修練所です。心情の中心を立てる代表的な広場です。そこで互いに信頼し合い、幸福な生活を営めば、全宇宙の中心が立つようになり、幸福を享受するようになるというのです。それが理想圏の始まりです。愛なくしては、何の存在の意味もありません。
千七十四
統一教会の理想は、他の所にあるのではありません。出発も家庭で、結論も家庭です。まだこのような問題を解決した人がいないので、それを願ってきました。そして、そこに幸福があるので、これを体系化させ、天宙化させて、無限の価値を現したので、「統一主義」が公認されたのです。したがってこの主義を嫌う人々がなく、みな頭を下げて好きになれば、世界は自動的に統一されるのです。
これから先生は、家庭に対する規範、天国家庭としてもつべき生活に対する規範を教えてあげなければならないと感じています。しかし、復帰の路程を歩むべき人たちは、「原理」を中心として教えてくれる人がいるので、その人たちを通じて教えを受けなければなりません。先生が直接そのような問題に責任を負う時代は過ぎました。家庭一つ一つを中心として、再び収拾しなければなりません。私たち統一教会の組織は、家庭組織です。家庭を中心にするというのです。個人を中心にしてきたものを、家庭を中心にするということです。