第二章 霊界はどのような所か一 霊界の実相と法度 (天聖經-第6巻 人間の生と霊魂の世界)

훈독왕 | 20250206174102

天聖經-第6巻 人間の生と霊魂の世界

 

第二章 霊界はどのような所か一 霊界の実相と法度

 

一) 霊界は時空を超越した無限の世界

霊界がどれぐらい広大無辺な世界か知っていますか。今日、この宇宙だけで見てもそうです。二百二十億光年以上になる宇宙です。これがどれほど大きいかといえば、光が一秒間に三億メートル、一秒間に地球を七回り半回ることのできる速度で一年間進む距離を一光年と言いますが、それが二百二十億年かかるというのです。二百日ではありません。ですから、宇宙がどれほど大きいでしょうか。そ

れがすべて私たちの活動舞台だというのです。


神様は、時空を超越して存在するお方であられます。今日の時間や空間世界を超越して存在するのです。霊界に行けば、一年という年がありません。一年、二年、一日などというものがないのです。それは便利なことでしょう。寝もしないのです。霊界に行けば寝ないで暮らすことができます。食べないで暮らすことができます。思いのうちで食べて生きていくことができるのです。例えば、目である物を一度見て「いいなあ」と思えば、千年も万年も忘れられないというのです。そうであったら本当にいいでしょう。


七百八
 
天国は太陽系のように一年を三百六十五日として地球のように軌道を回って、一日は二十四時間でという、そういうものはありません。私たちの言う一年、二年というのは、地球での話です。太陽系を中心とする惑星の立場から一年を定め、地球が一回り自転することを一日と定めているのです。霊界は、地球が一回り自転するように回ったり、太陽を中心としてその軌道に従って一年を回るという決まりがありません。朝なら永遠に朝です。

そこには日や年の概念がありません。


霊界は時間と空間を超越しているので、一秒間に何億万里も行くことができます。広大な世界が時空を超越しているので、一秒間でも何億万里も行くことができるのです。広大な世界が時空を超越しています。千年前が見え、何万年前が見えるのです。見えるのですが、何を見ようとするのでしょうか。他のものは見ません。誰に会いたがるかと言えば、男性であれば女性に会いたがるのです。そして、会ってからは、その人の心中にある本然の愛の大きさがどれくらいなのか、その人のもっている愛の量がどれくらい多いのか。これが測定基準となるのです。


霊界の中心は何ですか。それは絶対的な神様を中心として構成された世界です。その絶対的な神様がいるなら、その神様は天地創造の時の宇宙の起源になられる方です。彼によらないものがないというのです。それに属しているために、それに属した全体はそれとともに感じ、それとともに因縁をもっているのです。例を挙げれば、私たち人間は約百兆個になる細胞をもっていますが、すべての細胞自体がどのような分野であろうと感じさえすれば、直接頭脳に連絡されるのです。


天地創造の創造主を中心として連結されるすべての存在もそれと同じだというのです。しかも、人間として生まれ、善でより次元の高い価値のものを追求しながら生きることは、神様を根源として始まったものです。それゆえ過程を経て根源と通じることのできる結果の世界にあるのが人生であると、このように見るのです。


神様はどのようなお方なのでしょうか。神様は宇宙の存在世界の心のような方です。神様は宇宙の心のような方です。皆さんは心を見ることができますか。霊界は心のような生活の世界ですが、これは時間と空間を超越した所です。そこでは御飯を思いのままに食べることができます。御飯の心配をする必要がありません。水の心配をする必要がありません。飲み物の心配をする必要がありません。服の心配をする必要がありません。衣食住すべてのものを超越しています。そこでは億千万里をあっという間に往来するのです。何の力をもってでしょうか。愛の力をもってそのようにします。愛する人に会いたいと思えば、さっと現れます。


動物がそうなのに、万物の霊長である人間は飛んでみたいでしょうか、飛んでみたくないでしょうか。ですから人間は飛び回るようになっています。霊界は飛行機なしに何百光年になる世界をあっという間に行ったり来たりします。一度行ってみたくないですか。


七百九
 
神様に「あらゆる昆虫までも飛び、鳩のような鳥も飛んでいるのに、人はなぜ飛べないのですか」と聞けば、神様が何と言うでしょうか。神様があの霊界の高い所から尋ねてくる時に歩いてくるでしょうか、さっと飛んでくるでしょうか。霊界は無限大の世界なのです。このごろは人工衛星が金星に行くのに、十四年間かけて飛びながら、キャッチして写真を撮って送ってくる時代ですが、この霊界は十四年ではありません。一瞬のうちです。霊人体は稲妻より速いというのです。それゆえ、霊人のように活動する神様についていきながら、共に愛の主体の対象になって生きようとするならば、飛び回らなければならないでしょうか、歩き回らなければならないでしょうか。この体では何歩も歩けません。

 

あの世の広大な大宇宙を見つめる時、ダイヤモンドの星がないと思いますか。黄金の星がないと思いますか。それがすべて自分の所有だというのであり、その楽しさで暮らすのです。神様がつくってくださった驚くべきものを自分が見て……。愛するすべての群れが、神様の愛する群れ全体が一つになって、大移動しながら暮らせる理想世界だというのです。そこに同伴者になり、同参者になってみたいですか。


霊界があるということを知っていますか。どのくらいはっきり知っていますか。この世界よりももっと確かなものです。その世界はどのような世界ですか。神様が「良し」と言える構想でもってすべてのことが可能な世界です。


考えてみてください。数多くの人が行っているのですが、一瞬のうちに彼らに祝宴を催しても余りがある理想世界です。霊界に行っているあらゆる国の人、何百億になるその人々を集めて、瞬く間に祝宴を催しても余りがあるのがそのような理想世界です。そのような世界、レバレンド・ムーンはそのような世界に向かっていくのです。この世を見つめていくのではありません。ここで、そこに合わせていくのです。 霊界に行ってみれば、男性、女性が一人の大きな人に見えるというのです。人は何ですか。皆さんはみんな一つの細胞のようなものになります。全宇宙がみな、男性、女性のように見えます。そのように見えるというのです。それは合わせたものです。このように歩けば、宇宙が歩くのです。その中に入った人は神様の細胞と同じです。一つの体になっているのです。


霊界では説明が必要なく、弁解が必要ありません。ちらっと見ればすぐに分かります。あの人が私の下なのか、横なのか、高い位置なのかすぐに分かります。何億年前のおじいさんであった人にも会えば、愛のその位階というものはすぐに……。その位階は絶対的です。その位階が高い人は自然にその位階に合わせて自分が立つ位置に立つようになっているのであって、いい加減ではいけません。世の中とは違うのです。中傷、謀略して出世したり、そのような人はそれがすべて逆になっているのです。その反対になるのです。ですから正道を見なさいというのです。


七百十
 
霊界に行っている人間は何を願うのでしょうか。霊界は自分が置かれている基準ですべてのものを補給できる世界です。願えばすぐです。主体的な能力がある人なら不可能がない世界です。もし、百万人の祝宴を催すなら、考えると同時に百万人が広場に現れ、すべての準備が可能なので、百万人の祝宴を一瞬のうちにできるのです。そのような世界です。何が可能にするのでしょうか。原子力が分裂作用において熱が出るのと同じように、皆さんが愛の分裂作用をすれば、瞬く間に可能になります。それはありそうな気がしませんか。 霊界がそうです。私が「どこかに行く」と言う時は既に行っているのです。あの大宇宙が自分の活動舞台になると考えてみなさい。愛が先んじなければなりません。「ああ、会いたい。会いたい」と、こうでなければなりません。自分の相対のように、自分の愛する人のように、会いたければさっと行くのです。あの世で芸術家に会えば、自分が芸術的なあらゆる素質を一瞬のうちに啓発してついていくのです。万事が可能な世界です。ですからあの世に行けば、歌う所では歌い踊るのです。みな喜んで心と体が和動して踊ったり歌ったりするというのです。どれほど美しいでしょうか。神様が絵を描くにも一等ではないですか。そうでしょう。神様が傑作品の絵をはって眺めるでしょうか、傑作として行動する創造物を眺めるでしょうか。どちらを喜ぶでしょうか。傑作品は必要ありません。そして、その世界は愛の心に酔う高の場であるがゆえに、年を取りません。年を取らないというのです。お母様も年を取りましたが、私が見るにはいつも も美しい時の姿なのです。

 

いつもかんかんに晴れた日だけあれば、どれほど退屈するでしょうか。そこに霧もかかったり、月に雲のかさをかけたり、このように月も見えなくて……。ありとあらゆる気候の変化を見れば、どんなに芸術的でしょうか。考えてみなさい。一つの美術世界です。芸術世界です。あの霊界の澄んだ世界に自分が雲をかけたければ雲をかけることができ、霧がかかるようにしたければ、霧がかかるようにできる、愛によってそのすべての多様な感応圏をつくることのできる特性をもったそのような人間になれるというのです。ですからすべての霊界が関心をおきます。「ああ、あの

人の所に行けばおもしろい」と言うのです。


霊界では距離と時間を超越します。時間がありません。何でも見たいと思えばすぐに現れます。膨大な天国がすぐに通じるのです。この地上で電話も距離の問題がないでしょう。そのようにどこでも通話ができるようになっています。そのような世界が背後の動機地、発電所のようになっているのです。


霊界に行けば夜があるでしょうか、ないでしょうか。霊界に行けば、この地球星にも通じることができ、この物質世界にも思いのままに通じることができます。水中にも行くことができ、大地を垂直に通ることもできるのです。宇宙には星が無数にありますが、真の愛の相対として神様の愛をもって行く所は道がぽんぽんと通じるのです。愛の速度がも速いです。 も速いのです。光の速度は一秒間に三億メートルという距離を進み、地球を七回り半を回ることができると言います。これは、それより何千倍も速いのです。億千万里でも、真の愛ならば瞬時に行くのです。膨大な霊界でも一瞬のうちに活動できます。


七百十一
 
皆さんが霊界に行ってすることは何だと思いますか。あの世ですることとは何でしょうか。考えてみなさい。そこで金もうけをするのでしょうか。服が必要で、家が必要でしょうか。皆さんが願うことは瞬間的にすべてかなえられます。霊界では私のために現れなさいと、いくら死ぬと大声を出して騒いでも駄目です。これを知らなければなりません。反対に、私が神様を愛し、世界を愛し、天国の王子の立場で、王に仕える中で「あらゆるものが必要だから現れなさい」と言えば瞬間的です。瞬く間にもてなかったものを……。想像が及ぶことはすべて可能な世界が霊界であるということを知らなければなりません。


愛は熱に例えて表現されます。熱で例えるでしょう。「胸が熱い」と言うでしょう。霊界に行けば、神様は愛の本体であるゆえに光と熱で現れるのです。霊眼で見れば、皆さんの愛の光がどれだけ出るか、どんな光が出るか、まだらな光が出るか、虹の光が出るかということがみな分かるようになっているのです。家庭が一つになって光る星にならなければなりません。太陽のように星もすべて衛星のようになっていて、星を率いる星もあるのです。


神様が創造する時、も好きな色を先につくったのでしょうか、 も嫌う色を先につくったのでしょうか。早春に咲く花の色は何色でしょうか。紫色です。紫色は赤色も入っていて、ピンクも入っていて、それから何色が入っているでしょうか。すべて入っているのです。紫色が好きでしょう。ですから高尚な物はすべて紫色です。あの世に行ってみれば、も良い色は紫色なのです。


霊界に行けば色がありません。あまりにも明るくて銀色のように見えます。銀色のように見えながらも、あまりにも明るくてきらびやかなので紫色に見えるのです。フィラメントに電気が入れば、本来黒だったものが明るい白に光るのです。同じです。霊界に行けば黒人はいません。地上にいる時は黒人に見えた人が、霊界ではそのように見えないのです。真なる良心をもって生きた善人は、高い級の霊界に行くのです。障害者も霊界にはいません。足の不自由な人、病を患っていた人も、肉身を脱げばいかなる障害もありません。


霊界ではどのような年齢で暮らすのでしょうか。も美しい年齢の時の姿で暮らします。天国に行けばそうです。そして、永遠に暮らすのです。そして、その人が考えるすべてのものが変われば変わるほど、その容貌がさらに美しく見えるのです。霊界を知れば、ただそのままそれがすべて連結するのです。


霊界に行けば、地上のことは思い出しません。窮屈なこの手のひらほどの地上で何をするのでしょうか。大宇宙があるのに、一つの砂粒のようなものを思い出しますか。しかし、霊界の民族を生産する工場はここしかありません。宇宙に一つしかありません。何ですか、金星にも人が暮らしているというのですか。人は、この宇宙でここにしかいないのです。


二) 霊界は愛全能の世界

真の愛の概念でぎっしり詰まっている所が霊界です。真の愛を五官によって感じるように、まんべんなくすべて体験してから行く所が天国です。その場に立てば、あらゆることがすべてできます。理想的な生活環境がそこで展開するというのです。どれほど驚異的なのか皆さんは知りません。


七百十二
 
霊界はどのような所でしょうか。すべてのものが愛で充満した、愛でいっぱいの調和の世界です。皆さん、スイッチさえ押せば、このスイッチ一つでニューヨーク市の何百万世帯に電気がぱっとつくとすれば、これは信じられますか。それでは、愛のボタンを一度押せば、この宇宙が作動するということがうそのように思えますか、本当のように思えますか。 地上天国は、すべての愛の電球に明かりがつく所が地上天国です。そして、天上天国とは何ですか。愛の電球に明かりが完全にともることのできる所が天上天国です。それゆえに、皆さんが愛の心だけ抱き、愛のひもだけ引けば、すべて引っ張られてくるのです。後ろに引けば後ろに行き、横に引けば横へ行き、このように引くとこのように入っていこうとして、このように引けば上がっていこうとするのです。思いどおりに操縦できるのです。無理やりそのようにするのではなく、自動的にそのようにするのです。自動的にそのようになるのです。それを理解できますか。


皆さん、一度考えてみてください。霊界に行けばうらやましいものがありません。皆さんのその愛の化身体をダイヤモンドと比較しますか、黄金の塊と比較しますか、真珠と比較しますか。宝石が問題ではありません。もっときらきら輝くのです。愛と化した化身体はもっと美しいのです。ダイヤモンドに愛のダイヤモンドがありますか。生命のダイヤモンドがありますか。しかし、私たちはダイヤモンドも感動させることができ、すべてのものに影響を及ぼすことのできる価値的存在だというのです。貴い愛のダイヤモンドなのです。貴い生命のダイモンドなのです。それが私なのです。ですから私はどんなに素晴らしいでしょうか。


霊界という所は、愛の電気で充満した所です!事実がそうなのです。私が知っている霊界はそうだというのです。ですから、今日人間は、何でもすべて愛と関係を結ぼうとします。なぜ、愛と関係を結ぼうとしますか。霊界に拍子を合わせるためです。これが理論にぴったり合うのです。そのようになっているために、そこに応じざるを得ないのが私たち存在物です。その立場を離れることができないということを皆さんは知らなければなりません。


霊界に行けば夢の鉱山がいくらでもたくさんあります。金、銀、宝石がいくらでもあります。花も好きな人が来れば、愛する人が来れば、眠っていても突然ぽかりと口を開け、目を開けて歓迎するのです。「少し待ちなさい」と言ったのに、ただそのまま行ってしま

えば「ああ」と言って枯れてしまうのです。


神様が笑えば全体が共に笑います。霊界に行けばそうです。霊界に行けば直感の世界と同じです。神様が喜んでいるのか、そうでないのか、きょうは気分が悪いのか、良いのか、すぐに分かります。地上世界に何かあって喜ぶのを見ると、全体がふわっと膨らむというのです。ぽんと浮かぶというのです。


七百十三
 
霊界に行って何をするのでしょうか。愛の歌、愛の話をするのです。霊界では、オペラ式に話せば、私がオペラ式に答えなければなりません。踊りで表現すれば踊りで答えなければなりません。永遠に喜び、踊りを踊っても永遠に飽きません。一箇所で踊れば天国がすべて踊り、一箇所で歌えばすべて歌うのです。その時は自分の愛する妻と踊るのです。他の女性と踊るなら「ああ、私の愛する妻をあなたより百倍愛するために私があなたと踊るのです」とこのように考えるのです。他の女性と手を取って踊るなら、それはすべて自分の愛する対象を千倍、万倍、もっと刺激的

に愛するためにこうするのだというのです。


霊界から神様が見れば、皆さんの心は愛の鐘の音が聞こえる所に行けば、灯がますます大きくなるというのです。この光は五色燦然と輝くのです。神様の目にはダイヤモンドの光よりもっと美しく見えるというのです。そして、光だけが良いのではなく、その光の中には味があるというのです。それは見れば見るほど良いというのです。何度も見れば見るほど酔ってしまいます。

それゆえに、神様は愛という話をするのです。皆さんの心の愛の鐘を鳴らせば天地を動かし、すべての万民を動かすのです。そのようにすれば、神様も「あ!」と言って動かすことのできる鐘があるということを知らなければなりません。それゆえに、愛の涙をどれほど流したか、愛の切なさをどれほど味わっ

たか、それが皆さんの財産だというのです。


今後私たちが真の愛の力をもって霊界に行くようになれば、いくら遠い所にいる人でも一瞬のうちに会うことができ、愛ゆえに訪ねていく時は瞬く間に故郷へ帰ることができるというのです。霊界という世界は無限に膨大な世界であるので、何百万里、何千万里の距離も一瞬のうちに愛を中心として行き来することができる世界であるというのです。愛は高の速度をもっているのです。皆さんの心と体が統一された愛の基台をもてなくなる時には、その世界と私は関係がないというのです。ですから、統一の起源が相対世界から起こるのではなく、私から始まるということをはっきりと知らなければなりません。 神様がいくら高いといっても「神様!」と愛の心で呼べば、すぐに「なんだ」と自分の心の中で答えます。「神様、どこにいらっしゃいますか」、「どこにいるかって、お前の心の根本にいるではないか」と答えるのです。神様が本来根本ではないでしょうか。心の根の根本にいるでしょう。このようになっているのです。


あの世で必要なことは、世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子よりも神様をもっと愛さなければならないということです。それが原則です。お父さん、お母さん、子供たちみんな……。お母さんが言うには「あ、あなたは私を愛するより神様をもっと愛してから私を愛してください」それでこそ夫から高い次元の神様の愛を受けることができるようになるのです。父母に対しても「どうか私たちは置いておいて、本来の父母の愛を先に受けてください。その父母の愛を受けたお父さん、お母さんを私は愛したい」と、そのようにすがりついて哀願しなければならないのです。


七百十四
 
愛の理想を中心として神様の前に相対になれる人が、考えるすべてのものを瞬間的に実現化させ得る世界です。何億、何千万名も一瞬のうちにバンケット(祝宴)を準備できる世界です。私が服を豪華絢爛に着て、愛の対象として神様を一度楽しくさせてさしあげようという時は、豪華絢爛になります。こうこうこのように想像できる以上のことを想像しても、それが可能な世界です。そのような世界を知っている人は、地上では生きる楽しみがありません。ですから、私は監獄にほうり込まれても、何の問題もありません。この世でのわずかな生活は、永遠な世界で息を一度止めるのと同じです。


神様の心情、天国の心情に通じたならば、どこでもすべて一つになることができ、どこでもすべて和合できるからです。そうなれば、その門を通ることのできる階級に暮らす人は「わあ!万歳! 神様好きです!」と言うのです。ただついて行きたがり、皆が喜ぶのです。食べたいものがあれば何でも食べることができ、着たいものがあれば着て、遊びたければ遊んで、したいことを思いどおりにできます。この地球上で百年生きても感じられないあらゆる幸福を、有り難さを、一瞬のうちに感じられるというのです。


霊界はどのような世界ですか。神様の心情と同等に立てる心情をもてば、何でも可能な、そのような所なのです。今後ムーニーが何千万人になっても「皆さん、全員このような新しい服に着替えなさい」と言えば、さっと新しい服にみな着替えることができます。それから「バンケットの場所、これこれこういう場所に現れなさい」と言えば、すぐにそのようになるのです。テーブルは、金の装飾や銀の装飾で五色きらびやかに飾られ、またそこにあるいすもそうですし、そこに座ったすべての人々は歓喜に、喜びに、愛に酔って踊ることでしょう。千年踊っても喜ぶことのできる所です。


何億万里の距離にある世界の人でも、愛の心が強くなって「会いたい」と思えばさっと現れるのです。「何の用ですか」と聞けば、「あなたが呼んだので現れました」と言うのです。「どのくらい遠くから来たのですか」と聞けば、「何億万里から来た」と言うのです。距離を超越します。宇宙が私の活動基地です。

それなのに、その世界にない物質でもって首を絞め、お金、知識、権力でもって首を絞めているのですか。あの世ではそのようなものは一つもありません。そのようなものは、残るものが一つもありません。皆さん、この世ではお金、知識、権力が必要ですが、あの世ではそのようなものは必要ありません。霊界のどんなものも皆さんを歓迎せず、霊界がいくら皆さんに関心をもって一つになろうとしても、皆さんは何ももてないのです。本質とは反対のこと、反対的なこと、それでは一つになれないというのです。霊界が関心をもてる位置と連結できません。


七百十五
 
私が「このような人に会いたい」と言えば、すぐ前に現れるのです。「あなたがこれこれこういう人ですか」、「はい、数百、数千年前に私は地上のどんな所で暮らしていた。私に会いたいですか。私に尋ねてみたいことがありますか」、「はい、あります。私はこのように教えました。私とあなたがどんなに違いますか!分かりますか」と言いながら、話をぴいぴいと交わすことができます。時間がかかりません。始めるや否やすぐに分かるようになるのです。この世に住むというのはどんなに不便でしょうか!車が必要ありません。愛の感情は、あらゆるものをつくることができます。観念をもってあらゆるものをつくることができます。真の愛の観念を中心として何でもみなつくることができます。 今から何百年前、八百年前、一千万年前に生きた人間も来てあいさつするのです。聖書では人類歴史が六千年となっていますが、とんでもないことです。何千年前と今の時がどれほど変わったかというのです。その時の人々は、今生きている人よりも心では神様をよく感じることができたというのです。しかし、文化生活の面では反対なのです。霊的世界の啓発は文化生活とともになされてくるものです。そうでしょう。

知識に通じれば知識の尺度によって理解し、すべてのものを分析するにおいて鋭敏だというのです。したがって、霊感を感得できる基盤がもっと拡大していくというのです。ですから今後は、自然にそのような知識があり、世界の行く末を憂慮する人にはあらかじめ霊界から教えてくれるのです。霊波を通じてどのようになるのか分かるのです。高の位置に行けば、終わりは一つしかないでしょう。

同じなのです。


「誰に会いたい」と言えば、何億万里、何百万里離れていたとしてもすぐに現れます。広い天国にいたとして、「自分が会いたい人、自分が愛した人に会いたい」とぴたっと情緒を整えて言えば、その場で相手が現れるのです。それはどんなにいいですか。そうでしょう。さっと現れれば既に自分がどの級にいるということが分かります。「私はどのような級だ」と知っています。自分が高いか低いか分かります。いくら親しい友人でも、自分のほうが天の前に愛の級が高ければ、来るや否やあいさつするのです。いくらお母さんでも、それよりもっと先祖でもあいさつするのです。

そのような世界なのです。


考えてみなさい。ここでは御飯を食べて暮らすことが心配でしょう。ですから、自動車工場、肥料工場、服の工場、食べ物を作る工場など、工場が必要でしょう。家でも食べ物ゆえに大騒ぎするでしょう。霊界に行けばそれはすべてありません。自動車が必要なく、飛行機が必要ありません。一瞬のうちに億万里でも行けるのです。太陽の光よりもっと速いのが霊力です。神様が造った太陽の光だけでも一秒間に三億メートルを走ります。電気もそうでしょう。光の速度も同じです。ところが、神様の本然的な愛の力、生命の力というものは、それより何千倍もさらに速いというのです。


霊界に行って、ある家に暮らす人の級が自分より低い時は、その家が良い家であればその良い家を私の家にできます。さっと訪ねていけば、主人は既にちらっと見れば分かるのです。額をちらっと見れば、顔をちらっと見れば分かるのです。さっと見て自分より高い人なら自分の茶の間に案内するのです。「い

らっしゃいませ」と言って案内するのです。


神様の息子、娘になれば、その膨大な宇宙がすべて自分のものになるのです。皆さん、霊界に行けば先生についていきたいでしょう。ついていけません。先生が行く所に皆さんはついてくることができません。皆さんは心情の門が狭いのです。真の愛は大きな門でも小さな門でも自由自在に行けます。真の愛でなければそれはできません。この位置は全体を代表した位置です。それゆえに、どこにでも入っていくことができ、どこにでも出掛けることができます。


七百十六
 
どれほど人類を愛したのか、神様が愛を中心として創造した被造物に接する時、神様のようにどのように愛したのかということがすべての測定基準です。すぐに分かります。コンピューター以上です。嫁に行った女性は、自分の夫がどれくらい愛しているかということについて誇るでしょう。あの世では、神様の愛を中心として、神様の愛をどれだけ受けた人なのかということが誇りです。本然の真の愛、これが高い級の愛なのです。これによって等級が決定するのです。


天国に神様の心情の架け橋があれば、どのように上がっていくのでしょうか。ヘリコプターのようなものに乗って行ったり来たりしながら上がっていくのでしょうか。エレベーター式に直線で上がっていくのでしょうか。ヘリコプター式ですか。エレベーター式です。万年エレベーターです。垂直です。神様の愛に接するためには垂直線に入っていかなければなりません。

聖書に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」

(マタイ二二・三七)と記されています。それは何だと思いますか。すべてのものの中心は愛だというのです。それで、あらゆる作用と意識のすべてを一つにして「主なるあなたの神様を愛することしかない」と言う時、ここでエレベーターに乗って垂直圏に上がっていくのです。そのような驚くべき世界を知らなければなりません。


あの世、霊界に行けばそうです。誰でも九〇度になれば、東西南北のどこに行ってもきちっと合います。ある社会、数多くのクラブになっている社会、千態万状の社会……。皆さん、ここに何名いますか。およそ五百名集まったとすれば、五百のタイプがあるのです。各々みな違うでしょう。似たグループにみんな集まります。それはコンピューター以上に分析されています。さっと行けば、さっと過ぎれば既に自分の角度が分かります。一週間以内にすべての背後まで、あの秘密世界の倉庫の底までのぞきます。言葉が必要ありません。心で言おうとすることを感じるのです。コンピューターのおじいさんのような世界なのです。


神様も愛のために創造したということは知っているでしょう。神様に「一番好きなものは何か」と聞いてみれば、どのように答えるでしょうか。神様は好きなものはありません。お金も必要なく、知識も必要なく、権力も必要ありません。何が必要ですか。愛の中にはお金もあり、知識もあり、権力もあります。愛の権力が万年権力です。本当に愛を知っている人は天上世界に行って学ぶことがありません。そのような人はいつでも神様の心の中を出たり入ったりします。神様の体を通して東西南北思いどおりに行き来できます。これが中央停留所のようになっています。そこに入って出てくる時は、東西南北の力が集中するために強力な力で出てきます。低い国も、その中央を通って出てくる時は、高い神様と対等な位置に上がっていくのです。愛にはこのような偉大な力があります。


七百十七
 
私は、今日世界で電気とか、宇宙とか、何だといって大騒ぎすることが、愛の理想世界を成し遂げるための一つの内的な潤滑剤のようなものだと考えます。このような時、皆さんは「アーメン」と言わなければなりません。そうだとすれば、その世界は愛の電気で充満した世界という結論が出てくるのです。霊界という所が愛の電気で充満した世界ではないかというのです。そうだとすれば、この世でも愛の電気でできないことがなく、調和が起こるのです。愛の電気ならばできないことが

ないというのです。


ここで私たちは、今私たちの意識構造をもって処理できる可能圏が霊界だということを、決定づけることができるのではないかと思うのです。それでは、霊界とは何ですか。永遠な要素を願う永遠な所です。それゆえにここで愛を体験した霊人体は、間違いなく自動的に磁石に引かれてその世界へ行くはずです。

それを自分が感じた霊界に行くというのです。


三) 霊界の空気は愛である

霊界はどのような組織からなっているかといえば、あの世は空気が愛です。愛が空気になっています。心と体が愛の感触を受けて和することのできる要素として、この地上で体恤されなければなりません。体恤圏をつくっておけば、そのまま通じない所がないというのです。木の樹液が木の芽と根に通じるように通じるのです。神様が喜ぶのを自然に感じます。東方で神様の祝宴が催されるのが分かるのです。そこに行こうとすればさっと行けます。自由天地です。


霊界で呼吸する空気は愛からなっています。愛によりすべてのものが生まれ、愛によって生き、愛によって「ため」に生き、愛の道理で和してその内容を満たしてこそ、神様が今まで歴史時代に願った希望の実体を完成したという格位を備えるようになり、天国のどこに行っても歓迎されるのです。 霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は、地上では空気を吸ってガスを吐き出すのですが、霊界は愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日のような人間の世俗的な愛を中心として授け受けするようにはなっていません。霊界で与え受ける愛は真の愛なのです。


皆さんをたたいて純金をつくらなければなりません。純金をつくらなければなりません。そして、犠牲になりなさいというのです。自分を犠牲にしなさいというのです。自分がなくなるように死になさいというのです。自分をなくしなさい、自分を犠牲にしなさい、犠牲にしなさい、なくしなさい、ゼロになりなさいというのです。このごろ、なぜ宇宙時代に入り、電気時代に入ったのでしょうか。このような時代が近いからそうなのです。「原理」で言えば、真が来る前に外的なもの、カイン的なものが先に来るというのです。この世がカイン的なのです。このように見ると、神様の愛の電気学を語ることにおいては、レ

バレンド・ムーンが先祖になることでしょう。


七百十八
 
霊界に行けば、原則にどれだけ同化し、どれだけ一致にしたかということが地獄から中間霊界、楽園、天国まですべて連結されるのです。そのような原則がなければならないのではないでしょうか。だからといって、アメリカ大統領をし、世界的なノーベル賞ももらい、世界的に有名な学者だといって霊界に行けば、天国に行けるのでしょうか。行くことができないのです。通ることができますか。 それゆえに、宗教界はすべてのものを捨てて行きなさいと教えるのです。すべて捨てていかなければなりません。それでは、何がも貴いのでしょうか。天のためにどれほど苦痛を受け、この世界のためにどれほど苦痛を受け、どれほど涙を流したか、それがあの世をパスするチケットです。これは間違いありません。絶対的だというのです。これは理論に合うのです。


霊界で、永遠の世界に拍子を合わせるために、再生のために息が詰まり、窒息して注射を打ち、酸素呼吸する皆さんになりますか、自由に活動できる、自由な神様の愛の圏で暮らすことのできる皆さんになりますか。ここは世界のために生きなければならないので、これが生涯の行く道です。将来のために行くことが、生涯において行くべき必然的な道だということを皆さんは知らなければなりません。


四) 霊人たちの生、霊人たちの相互関係

神様は、天地を創造なさった方であり、この世の存在の起源となる一番の母体となられる方です。その方は存在価値の起源です。その方がいらっしゃるので、今日この現象世界が始まったのです。そのような絶対的な方は、ある時代に変化があるといって変わる方ではありません。絶対的なものは変わることはありません。また、時間や空間に制限されることもありません。すべての制限を超越した位置で、すべての制限を主管される方です。 そのような方が誰ですか。「神様」とだけ言うのではありません。その方は「お父様」です。皆さんは「父なる神様」と呼ばなければなりません。神様を何と呼ばなければなりませんか。そのお父様は皆さんを生んでくれたお父さんです。人間が堕落したがゆえに、「再び産む」という言葉が必要なのであって、その方は本来皆さんを産んだお父さんです。肉身のお父さんは皆さんを仲介するお父さんです。そのお父さんは霊界に行けば、お父さんというのではなくお兄さんと呼ぶようになっているというのです。お母さんもお母さんと呼ぶようになっていないというのです。


霊界に行けば、アダムとエバも神様に対して「お父様」と言い、数千万代の子孫である皆さんも神様に対して「お父様」と言うでしょう。「兄なる神様」と祈祷しますか、「父なる神様」と祈祷しますか。それでは、自分のお父さんは何になりますか。霊界に行けば、お父様が何になりますか。お兄さんです。お兄さんとは何ですか。私より先に生まれたのがお兄さんです。私より先に生まれたのがお兄さんだというのです。それで、内的なお兄さんが神様で、外的なお兄さんが自分のお父さんだというのです。それ以上の理論を立てることができないことを知らなければなりません。


七百十九
 
父母の根をもった人々が、神様を何と呼びますか。キリスト教で呼ぶようにみんなが神様を「お父様」と呼びます。一軒の中でおじいさんも神様を「お父様」と呼び、お父さんも神様を「お父様」と呼びます。孫もやはり神様を「お父様」と呼びます。家族みんなが神様を「お父様」と呼びます。このように神様は、すべての人間にとってお父様になられる方です。したがって、神様は人間にとってお父様になり、人間はお互い兄弟になるのです。先生は時々、本当にそのようになるなら、霊界に行けば実におもしろいだろうと思うのです。

私たちの初の先祖まで私が見ることができるのに、先祖を造られた神様は見ることができないのでしょうか。神様も見ることができるのです。それは何の話か分かりますか。ですから、家庭というものは何かというと、見えない神様の愛の表現場所です。愛を中心として歴史時代に生きたすべての先祖は、愛の統治をあの世で受けているのです。同じ愛です。


すべての家庭が真の愛で一つになって霊界に入っていけば、神様の血肉を食べて永遠に生きるのです。そこに入っていけば農作業もなく仕事がありません。真の愛の食べ物はにおいをかいでも永遠に生きることができ、見るだけでもおいしいというのです。愛の食べ物を分けて食べるのです。神様の体、血肉と愛を分けてもらって生きるのです。


神様とは誰ですか。あなたの友人です!も高い友人だというのです。そして、お兄さん、お父さん、王であり、創造主です。ですから、皆さんが膨大な霊界の天国世界に入っていくようになって、そこでそれ以上のものを神様に願ったとしても神様がつくってくれるというのです。それは問題ないというのです。それはどんなに誇らしいでしょうか。その位置は神様の代わりの位置です。その位置に行った人間を神様が憎むでしょうか。いいえ、「私の息子、ナンバーワン、私の息子!」と歓迎するというのです。これが父母が願う高の望みです。


地上世界で親子関係の愛を貴く思うように、愛をもって生きていけば、天上世界でも神様を父母として侍って息子、娘のような立場で生きることになるのです。これが堕落しない家庭で生きる生活と同じであり、性格、性稟が似たのであらゆる方面で会うのです。


堕落しない家庭は、霊界と肉界のすべてに通じることができます。「おじいさんのお父さんは誰ですか」と言えば、見ることができるというのです。また、そのおじいさんのおじいさんが誰なのか、四代の先祖が誰なのか、五代の先祖、百代の先祖、千代の先祖、その次の先祖まで見ることができるのです。 そして、「アダムとエバがどんな顔つきか」と考えれば「こんな顔だ」と現れるのです。「私の目もアダム、エバに似たなあ、私の鼻も似ているなあ、私の口も似ているなあ」と言うのです。輪郭が似ているでしょう。顔にあるものの種類は四種類しかありません。もっとありますか。目、鼻、耳、口の四種類でしょう。「ああ、手足も同じだ!私のように目もぱちぱちしますね! 言葉も話しますね! 似ている! ああ、こんなに似ているんだなあ!」と言うのです。


あの世では、しわくちゃのおばあさん、おじいさんが皆さんよりもっと美しいのです。もっときれいなのです。愛があればそのような世界にとどまることができるのです。そこは統一された世界で、とても美しい世界です。それで、おばあさん、おじいさんに会って昔のおじいさん、おばあさんのように思って行動できますか。美しいおじいさん、おばあさんを見ればどんなにいいでしょうか。

さあ、それではその時に見るものが……。孫娘が来て、おばあさん、おじいさんに会おうと叫んでいるのが霊界では見ものです。そのおじいさんの上のおじいさんは誰ですか。

 


七百二十

 


自分の先祖のおじいさんは誰ですか。一番初のおじいさんが誰かといえば神様です。それで、おじいさんが喜んで「神様、ああ、とっても良いです」と言えば、神様が「ウェルカム」と言うのです。大声で「ハハハハ!」と言えば、神様が「うん、そうだとも!」と言うのです。

 

皆さんが霊界に行って見れば、この地で生きた皆さんのおじいさんやお父さんを見分けられません。なぜなら、そのおじいさんとお父さんが若くてすてきな姿に変わっているからです。年老いた姿ではありません。そのように若いおじいさんだから、初めは見分けられないけれども、徐々に徐々に話をしてみれば、「そうだ、それは合っている。だから私のおじいさんだ」と言って抱き締めるのです。

そのような世界なのです。

 

霊界に行けば、皆さんの顔はも美しい二十代の青春に帰るのです。愛の花を咲かせることができ、香りを漂わせることのできる時期が創造の原則であるゆえに、その本郷である天国に入っていくようになれば、そのような顔で帰るのです。それで、世の中で年老いた人があの世に行けば会っても分からないのです。二十代の青年の顔に戻るからです。知っているのは八十になった老人として知っているのに、その老人はいないのです。ですから分かりません。世界の有名な歴史的な人物もあの世に行っているのに分からないのです。写真を見てその時死んでいった年齢を知っているけれども、も美しい時に戻っていくので分からないのです。

霊界でも近い兄弟は誰でしょうか。霊界で も近い兄弟は横的な兄弟ではありません。この世で親子の関係と兄弟の関係の中でどのような関係がもっと近いですか。兄弟の関係より親子の関係がより近いので霊界に行っても私のお父さんがも近く、その次はおじいさん、その次はおじいさんのおじいさん、またその上のおじいさんになるでしょう。そのように上がっていけば 後のおじいさんが誰でしょうか。その方が正に神様です。

したがって皆さんは、この世に友人がいないと寂しく思うこともなく、一人暮らしをしていて死んだとしても悲しむこともありません。霊界に行けば上を見ても、横を見ても近い兄弟が無尽蔵にいます。しかし、兄弟にただそのままなるのではありません。神様を父として侍ることのできる特権を備えてこそ、このあらゆる人と兄弟になれるのです。

お父さんをお兄さんとし、おじいさんをお兄さんとしたからといって、気分が悪いことがあるでしょうか。気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。考え方によれば気分が悪いのです。世の中ではお父さんと呼ぶのに、霊界に来たからといってお兄さんと呼ぶのですから、お父さんはどれほど気分が悪いでしょうか。しかし、そのように呼ばなければなりません。


七百二十一
 
霊界に行けば黒人はどうでしょうか。黒人は黒人でしょうか、どうでしょうか。自分の願いどおりに、黒人が白人の姿になろうとするならいくらでもなれるのです。人間の世界で成し遂げられるただ一つの問題は何ですか。光が明るくなければなりません。何の光がですか。愛の光です。愛の光が明るくなるためには、内的にも外的にも燃えなければなりません。愛するための発動力によって燃えなければなりません。東西にたくさん吹き出さなければなりません。そのようにできる愛だというのです。そのようなことをすべて知って見ると、世の中の万事は過ぎゆく一つの旅行集です。


天国において美しい人になろうとするなら、愛の花がぱっと咲いてそこに和合し、相対的世界で花の美しさを現し、花の香りを漂わせ、その花を通じた新しい種をもつことができる、このような姿で地上で生きなければならないのです。そのように生きて霊界に行けば、永

遠の世界でもそのような姿で現れるのです。


霊界に行って、自分の夫と地上で愛した愛より拡大したい、より刺激したいと思うようになるのです。霊界に行けば、愛する女性がいればその中に男性がいるのです。


夫婦の愛はどの境地まで入っていくのでしょうか。霊界に行けばこうです。私は座っていても夫が歩けば、私も心で歩きます。帰ってくれば、心で既に帰ってくるのが分かるのです。心の中で夫と一緒に歩いているのです。どこから来るのかをすべて知っていて、どこへ行くのかをすべて知っています。この世では、男性が酒場に行ってどこに行くか、女性は知らないからえんえんと泣いてだまされるではないですか。しかし、霊界に行けばすべて分かるのです。


皆さんは、あの世、霊界に行って神様に似なければなりません。神様に帰るのです。神様の二性性相、性相と形状がぴたっと一つになっているように、男性、女性が完全に一つになってその殻を覆うようになる時、この二人が一つになったその基盤の上で神様に帰るのです。


霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、いつでも男性が女性になり、女性が男性になることができるのです。「愛は一体」と言うでしょう。女性の心をのぞいてみれば男性が入っています。夫が入っているのです。神様の二性性相とちょうど同じです。性相と形状、それが分かれて出てきたのですから、その本体に帰るには愛の架け橋を渡らなければいけないでしょう。創造の基準が愛から始まったので、この架け橋を渡って帰らなければなりません。結局、終着点では神様のようになるのです。

 

男性が地上で楽しく生きて霊界に行き、さっと見れば、男性の中に女性がいるというのです。「あの女性は誰ですか」と聞けば「私の妻です」と答えるのです。また、女性の中に男性が見えるというのです。このようにして二人が一つになれば、東西南北の方数になるというのです。男性、女性、二人でしょう。男性と女性のプラス・マイナスで東西南北になれば、神様にしっかりと侍るというのです。

神様が垣根になるというのです。


そうすることができれば、神様が私の神様です。共に生きるのです。父母が年を取って百歳を越えれば、八十歳になった息子と友達になるのを知っていますか。「や、息子や!」とそのように言いません。「おい、君」と呼ぶのです。友人として呼ぶのです。

七百二十二
 
神様に帰らなければなりません。 真の愛を実践する夫婦は、神様が本性相と本形状としてあられるように、霊界に行けば神様の本然的な基準に入っていくようになるのです。本然的で絶対的な神様も真の愛には絶対服従されるので、彼ら夫婦も本然的な基準に達するようになり、その点は一点であるから彼らは神様化するのです。神様に帰るのです。アルファとオメガです。

それを何が可能にするかと言えば、真の愛です。世の中に生まれた息子、娘は父母に帰るでしょう。同じ理屈です。それゆえに霊界に行ってこの地上で仲良く生きた人をちらっと見れば、男性に見えるのに、じっとよく見れば女性が笑顔でその中にいます。それが愛した妻だというのです。それが高の理想です。そうすれば神様の友人になるのです。それでこそ共に生きるのです。愛ゆえに生まれたのです。


霊界では、愛を中心として神様が私たち人間と和し、人間は神様と愛で一つになるのです。神様化するというのです。神様の二性性相が分立されたことを見ると、完全に愛によって一つになれば、霊界に行ってみれば二人が一つになっているのです。ただ見れば明らかに男性ですが、じっとよく見ればその中に女性が座っているというのです。愛の目はすべて統一です。憎い人もきれいに見え、きれいな人も憎く見えますか。きれいに見えるのです。


真の愛の相対になろうとすれば、零の位置に立たなければなりません。そのようになる時、神様が「良し良し」と言い、地上世界を見る時は地上の太陽のように光るのです。その二つが爆発する瞬間、霊界の神様の目もあっと驚くというのです。神様が「良し」と言うのです。それが信号弾なのです。神様がその信号弾を受けて零の位置で完全に開き、太陽のように光る愛の火がぼうぼうと勢いよく燃える所にお出ましになり、その中に入って

いき初めての夜を過ごしたいというのです。


霊界がそうです。何千、何億万里離れていた人が、ここに来て心情基準が合うので離れることを嫌がるのです。「ああ、早く行ってくれたら!」とは思わないのです。その世界では、御飯のようなものが必要ありません。すべてのものが自らの直感で解決するのです。それは愛の直感です。このようなあらゆる愛の体恤を中心として万国に拡大していくのです。そうして神様の代わりの心情さえもつようになれば、その下にすべての必要な存在が集まり、そこに千万人を一度に満たせる演壇ができるのです。


神様は、他の所にいるのではありません。神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。

「在らざる所無し」という言葉は、神様はどこにでもいるのではないというのです。愛がある所にいるということです。これを知らなければなりません。愛を中心としては「在らざる所無し」ということです。私も愛を中心としては「在らざる所無し」と言えます。特権です。それゆえに愛がある所には主人がいます。よく主人を知っているから主客は転倒できません。あの世はそのようになっているのです。愛を基調に、すべてのものが操縦されるようになっているのです。


七百二十三
 
それでは、男性とは何ですか。これは半分だけです。女性は何ですか。これも半分です。また、いくら至高な神様であっても神様にも対象がいなければなりません。それゆえに、上は下が必要であり、下は上が必要なのです。霊界とは何ですか。霊界は半分の世界です。

肉界も半分の世界です。


霊界に行ってもそうです。霊界に行ってどのようにするのでしょうか。歴史時代のすべての人、今後全世界的な版図を越えてみんなに会ってどのように生きるのでしょうか。お互い「ため」に生きるのです。霊界に行ってもやはり理想的な愛を中心として、これを再現する生活をするのです。ですから同じようにもっと高い、価値あるものに私が投入するのです。それがうれしいというのです。

霊界は肉界の延長です。平面的な面の愛の理想を地上で追求したとすれば、霊界に行ったら楽しく、天のより深い立体的な外郭的な球形だけではなく、外郭的な球形と内角の核心まで通じなければなりません。ですから、結局は深く、浅く、高く、低く、すべての面に愛を投入できるそのような行動をしなければならないというのです。神様の代わりに再創造するそのような生活をしなければならないというのです。


霊界を動かせる代表者になりたいですか。人種主義者は力を発揮できないのです。また、人本主義者も力を出せず、物本主義者も力を出せず、教派主義者も力を発揮できません。ひとえに統一主義だけが力を発揮できるのです。霊界に行ったと考えてみましょう。霊界では食べるものの心配がなく、着るものも心配ありません。暮らすことも心配がありません。そこでは趣味が何でしょうか。神様を中心としてバンケット(宴会)に参加すること、神様を中心として喜べる集いに参加すること以外には希望がないことを知らなければなりません。神様を中心とした祝宴に参加することだけが高の理想です。そこに愛があり、そこに喜びがあり、そこから幸福の起源が生ずるのです。


霊界に行けば何百里、何千万里から一瞬のうちに来るのです。さっと会えば、額を見れば分かるのです。どこから来たのか、見てから頭を下げ……。これが通じません。何百年前の人でも、愛の人格基準が高ければ、会うと、相手が先に頭を下げるのです。何をもって感動するのかといえば愛です。愛でもってどれほど人類を愛し、神様が愛を中心として創造した被造物に接する時、神様のようにどのように愛するかということがすべて測定基準です。すぐに分かります。コンピューター以上です。


嫁いでいった女性が、自分の夫がどれほど愛するかということについてを誇るでしょう。あの世では、神様の愛を中心として神様の愛をどれだけ受けた人かということが誇りです。本然の真の愛、これが高い級の愛なのです。

これによって等級が決定するのです。

 

七百二十四
 
本質的な本然の愛を実践すれば、年老いた人にでも花が咲くのです。ですから、霊界に行けばすべて青春です。思春期のもかわいかったその時の姿で行って、とどまります。ですから愛が偉大です。それが信じられなければ、きょうにでも腹を切って死んでみなさい。うそか、本当か。若くなれば本当にいいでしょう。

五) 霊界での衣食住問題は自由自在

あの世の生活はどうでしょうか。食べるものも心配ありません。住むのも心配ありません。着るものも心配ありません。なぜでしょうか。自らの心霊状態のままに願うすべてのものが可能だからです。あの世でも食べます。あの世でも自分を触ってみれば血管が、脈拍が走るのが分かります。同じです。霊的な体ですが同じなのです。私が「何々を食べたい」と言えばすぐに現れます。「このような物を食べたい」と言えばすぐに現れます。それはどこから来るのでしょうか。根源世界を動員できる能動的な自主性を行使できる世界が霊界です。ですから、全体を動員できる主体的な能動権をもったものとは何ですか。権力でもなく、知識でもなく、お金をもった勢力でもありません。愛です。


神様が創造したこの巨大な宇宙!そこには自動車もなく、飲食店もありません。しかし、私たちは、霊界でまるで創造主であられる神様のようにあらゆる種類のものを、真の愛の概念を中心として創出することができるように、愛を中心として本来の力を発揮してすべてのものをつくることができるのです。私が愛を中心としてこのようなもの、あのようなものなどを指摘すれば、実在物が完全に姿を現すことができるのです。「どのような工具、現れなさい!」と言えば、正にその工具が生じるのです。どんなにすごいでしょうか。


また、晩餐会場に数十、数百万名参加した時「このような食べ物を準備しなければ」と願いさえすれば、食事が問題なく出てくるのです。金色の正装を願えば、すぐにそのような正装が出てくるのです。どんなに素晴らしく、すごいことでしょうか!それは本当に良いのです!


考えてみてください。あの世に自動車工場があるでしょうか、ないでしょうか。このような物に乗って一瞬のうちに、一秒間に何億万キロを行くことができます。先生がそのようなことをはっきりと知っているので、地上で生きたいと思わないのです。その膨大な世界が、愛を中心としてすべて編成されているというのです。その愛に和した神様の心情圏をしっかりと所持すればすべて終わります。創造歴史は永遠に続くのです。そのような愛の心に和して、自分が構想したすべてのことをしなければなりません。瞬時にしっかりと決心して命令すれば、すぐに展開します。


霊界に行けば小便をするでしょうか、しないでしょうか。今度行ってみなさい。私は小便をすると思いますが、しないと思う人は、小便をするか、しないか、行ってみなさい。それでは、大便をするでしょうか、しないでしょうか。みんなします。みんなするけれど、すぐ元素に帰ります。宇宙の根本元素が百七個だと言いますが、どんどん増えていますね。その元素に帰ります。したがって、掃除する必要がありません。愛の心をもって手入れをすれば、きれいに本故郷へ帰るのです。それから愛の心で「何々出てこい、何々出てこい、何々出てこい」と言えば、すーっと出てきます。愛の心で言えば、すべてのものが出動可能です。


七百二十五
 
あの世にパン工場があるでしょうか、ないでしょうか。コーラとかジュースを作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。どうしてないのですか。分からないでしょう。そこに自動車を造る工場があるでしょうか、ないでしょうか。あの世に行って「私は、いい車に乗り回るんだ」と言って、こうして乗りますか。ここではベンツに乗って、何がどうだこうだと誇りますが、そこではそれはすべて必要ありません。


永遠に目を開けることができ、永遠に聞くことができ、永遠に食べないでいることができるのに御飯など……。ああ、今が良いのに、御飯を食べなさいと言われて食べるでしょうか。御飯を食べなさいと言えば食べますか。私は食べません。服を着るのも、私の思いどおりに服を着ることができるのです。

「けさは、すべて黄金の服を着なさい。さあ、ダイヤモンドの何カラットをつけなさい。英国の王妃は五百十七カラットをもちましたが、それ以上の一万七千カラットのものをつけなさい」と言えば、さっと!そのようなものは、みんなもつことができます。あらゆるのものをつくることができます。そのように見ると、レバレンド・ムーンは妄想家なのです。しかし、可能な理論圏内で話しているということを皆さんは知らなければなりません。


霊界という所は愛の空気で充満した所であるという概念を、私たちがこの地上にある認識構造をもって見つけることができるというのです。愛の神様が愛の心をもって、世界人類を一度にすべて食べさせたくて、喜ばせたくて「御飯よ出てきなさい」と言えば出てくるのです。霊界でも食べさせなければならないので、そのようにするというのです。それゆえに、愛の食べ物を食べるのです。お互いに見るのも愛の目で見て、すべてそのようにするというのです。

みんなたたかれてけがをしても、またたたかれようとするのです。形容し難いほど不思議な所です。聞いても、もっと何度も聞きたくて、眠いとか、疲労だとか、何だという観念はあり得ないのです。疲れる余裕があり、興奮する何かがなければならないでしょう。退屈で妨害する何かがなければらないでしょう。それがないのに、どうして疲れるでしょうか。


霊界では、衣食住は問題になりません。衣食住は完全に自由自在です。愛の一体圏、神様の相対圏に立てば、神様ができることもできます。何でもできるのです。何億万年の歳月も一瞬にして超越できます。愛の速度は超スピードです。愛する人がいる所に行って来る時、時間がかからないのです。すぐ行って来ることができます。ですから、愛の相対者に会うことは瞬間です。そこは絶対圏なので何の障害もありません。そのような限界を越えた世界、時空を超越した世界なのです。そのような無限の世界が人間のために準備されているということを知っている人はいません。真の父母によってそのようなことを知るようになりました。


七百二十六
 
霊界に行けば何を中心として生きているか知っていますか。霊界には工場があるでしょうか、ないでしょうか。霊界に自動車があるでしょうか、ないでしょうか。消耗品工場があるでしょうか、ないでしょうか。霊界で御飯を食べるでしょうか、食べないでしょうか。服を着るでしょうか、着ないでしょうか。このようなものは霊界にはありませんが、自分の人格構造が神様の対象的価値基準をもてば、神様ができる能力を受け継ぐことができるのです。

霊界では百万名が一瞬のうちにバンケット(宴会)を行うことができます。自分が真の愛の心をもって「彼らをこのように食べさせなければならない」という、神様のように本当に愛する心がしっかりとできていれば、万事が不可能ではありません。それゆえに愛の園で、愛の世界で泳ぎ、愛の世界でそのすべての波長に拍子を合わせることのできる生活の訓練をした人は、神様の心の中にも入っていくことができるのです。なぜですか。真の愛の波長は同じなので、相いれないことは起こらないのです。


霊界に行けば食べることだけでも「今日はこのような食べ物で……」と言えば願いどおりにすぐ現れ、愛する人に会いたければ「さっ」と一体化してこのように頼めばすぐに現れるのです。そして、一瞬にして何万、何十万のバンケット・ルームを造ることもできるのです。これは虚構ではなく、理論自体がそのようになっています。そして、そこでは食べて残ったものは原形に戻ります。元の状態の元素に戻るのです。そのように便利な所です。ですから、先生が行く所は、天宙すべてが慕って従っていこうとする、そのような所です。


創造理想世界では天国が我が家です。そのように膨大な天国ですが、それが私の生活圏の舞台になっているのです。私の国ではありません。国には制度も多く、職種も多いでしょう。しかし、霊界はそうではありません。単純です。考えてみなさい。霊界に経済支援する工場があるでしょうか、ないでしょうか。服を作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。御飯を作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。

生活必需品やこの世で必要な物は一つも必要ありません。ですから工場があるでしょうか、ないでしょうか。花だけ咲く理想的な社会だというのです。食べるものはいつでも食べられるようになっています。自分の考えるものがぴたりと現れるのです。食べて余れば ……。そこにはごみ箱があるでしょうか、ないでしょうか。ごみ箱がありません。手ぶりさえすれば元素に帰る世界です。


天の永遠な世界、あの世に行けば政治体制はあるのです。経済体制は必要もないのです。いつでも自分が必要とする物はすべて供給できるようになっています。経済的なことは副次的な問題です。霊界に行く時、米を入れるひさごを持って入っていくと思っていますか。人から食べ物を恵んでもらって生活をしていくと思いますか。霊界は食べたければすぐ御飯が現れるというのです。それを食べ残しても「零に帰れ」と言えば帰るのです。ですから、すべて人格的な能力をもって活用できる対象にすぎないのであって、それが主体的な影響は何にも及ばないのです。


七百二十七
 
霊界がどんなにいいかは、言葉ではすべてを言い表せません。そこは衣食住が心配ない所です。家もみんなあり、服もすべてあり、食べる物もすべてあって自分が願うとおりにできます。愛の心情の価値内容によって相対的基準を自由に供給できるのです。愛を中心として完成した人格基準によって、その相対的環境要件を自由に補給できるというのです。私が寝ていても朝御飯、夕御飯を食べることのできる場所に体が引っ張られていくというのです。霊界を見ればそうだというのです。そのように自由だというのです。寝ながらも食べたり寝たり、また、思いどおりに訪ねていくのです。体がそのようになっているというのです。


霊界に行けばどのようになりますか。そこでは食べることが心配ありません。稼ぎません。あの世に行けば稼ぐ必要がありません。食べたい時はいつでも食べることができます。実におもしろいことに、食べたあと、そのかすはどのようにするのでしょうか。「帰れ」と言えば元素に帰ります。根本の世界、元素に帰ってしまいます。そのようなことが可能な世界で、四方八方に起動することのできる人とはどんな人ですか。神様の愛を中心として酔いしれる生活をする人です。全知全能な神様の愛を中心とした理想が、あらゆる方面に実現される所が霊界なので、神様の愛を中心として酔いしれて生きた人間が主導的な立場に立つのです。


霊界では元素を吸います。水であれば水の元素を飲みます。元素のようなものを知っていますか。そして、思う存分食べて手ぶりさえ

すれば元素に帰ります。ごみ箱がありません。


霊界に行けば仕事が必要ですか。そこでも八時間仕事をしなければなりませんか。夜がありますか。夜がないのです。いつも目覚めているのです。いつもこのすべての器官が働いているのに、何をするのですか。どんなことをしますか。永遠に目を開けていても、永遠に寝なくても喜べるようなものとは何ですか。愛です。そのような愛の理想だけしっかりともっていれば「や、何々出てきなさい!」と言えば、すぐに出てくるのです。ここに一万名が集まれば「一万名の食堂と食卓

準備!」と言えばすぐに準備できるのです。


霊界にも空気がなければならないでしょうか、あってはならないでしょうか。なぜ空気が必要ですか。呼吸をしないで暮らせばどんなにいいですか。なぜですか。どうしてですか。呼吸をしないで生きれば大きくなることができません。二つの世界を連結させることができません。二つの世界を連結させなければなりません。肉身と霊魂を連結させなければならないのです。霊人体も大きくなろうとするなら、体が大きくならなければなりません。固着してはなりません。それならどのようにしなければなりませんか。見えないものも、神様が見えない愛の空気で呼吸するのと同じように、生命の源泉となる元素の供給をするのです。


この目がぱちぱち瞬きするのは、この世の空気中にあるほこりが入るのではないかとそのように瞬きするのです。霊界にはほこりがありますか、ないですか。霊界では神様が目を千年万年開けている、それは気分が良いですか。地上では、習慣性でぱちぱち瞬きしたので、霊界にほこりがなくても瞬きしなければならないのです。なぜですか。私たちに似たからです。


七百二十八
 
霊界に行ってみたいですか、行ってみたくないですか。文総裁がうそをついているかもしれないでしょう。うそでも神様の言葉のように信じれば、神様は創造の能力があるので、彼が願う以上のものをつくることができる主体であることを知らなければなりません。悪魔が「や、神様がこのように言った」と言うならば、悪魔が言う以上のことまで信じて行動すれば、神様は創造して成し遂げることのできる道がいくらでもあるというのです。


六) 霊界の権力は愛の権力である

霊界に行ってみれば、お金が必要ありません。知識が必要ありません。私が行ってみるとそうです。権力が必要ありません。お金を創造して余りあり、ダイヤモンドも創造できる神様です。絶対者です。知識の大王です。権力の大王です。それをいつも春夏秋冬、四季を超えて永遠に自由自在に行使できる方です。その方に何が必要でしょうか。


霊界に行けば天上世界に、無限なる世界に数百億の人類が生きています。そこに行けば会えない人がいないのです。皆さんは歴史を学ぶ必要がありません。そこで「誰に会いたい」と言って誰かを呼び出す時、彼を愛する尺度があって呼んでこそ現れるのであって、私が欲をもって、その人が立派な博士だから「知識を得るために私が会う」と考えれば絶対に現れません。会えないのです。愛がなければならないのです。彼がそのように有名な人になるまでの過去に苦労した、その苦労の代価を認めて彼を愛する心で呼べば、東西四方、誰でもみんな接することができます。


お金、お金はいくらでも作ることができるのです。知識、神様は知識の王様です。権力、大韓民国の大統領になってみても……。このような話をして失礼になるかもしれませんが、小さい国、ソ連の百分の一にしかならない国の大統領が……。知識とお金と権力は、一生において追求する価値的なものの一部分にしかなりません。

教授の知識を千年万年誇ることができるでしょうか。もって歩きながら誇りますか。一生にとどまるのです。それが自分とともにあるのは一生だけです。お金もそうであり、知識もそうです。優れているという人を見れば、知識をもって優れているということであり、お金をもって優れているというではありませんか。権力をもって優秀だというではありませんか。この世界ではそうかもしれませんが、神様はそれを何の価値もないと思うのです。

霊界ではすべて無価値なのです。


人間と歴史が何を中心として解決して完成しますか。神様を知らなければなりません。神様は、人格的な神様でなければなりません。神様が漠然としていてはいけないのです。私たち自身が具体的であり、知・情・意を備えた人格的な人ならば、その主体であられる神様も知・情・意を備えた人格的な神であるというのです。そのように考えるのです。それでは、神様がもっている多くの属性の中で一番の中心とは何ですか。情だというのです。愛だというのです。神様も生きることにおいて、愛がも必要なのです。

天国では知識だけもって生きるのではありません。皆さんが霊界を知らないのでそう思わないのであって、霊界に行って知るということは一週間以内ですべて終わります。心を鏡のように見ることのできる世界が霊界です。霊界はいくら優秀で、いくら立派な知識人がいるとしても、彼がもっている知識を一週間以内に凌駕できる直感の世界です。心の光を

 


七百二十九

 


通じて見るので、そこに関連している因縁の世界は、自動的に分かるのです。それは情の心情を通して見てこそ、私と相対的関係をもち、主体的関係をもつのであって、知識であるとか他の属性をもっては駄目だというのです。


知識とは何ですか。知識があることによって、知ることによってすべての環境的条件を所有することになります。知識の中に高の知識である愛さえもてば、天下がすべて連結します。知っている人が支配します。「知ることは力なり」と言ったでしょう。力のある人が支配するという論理です。ですから、愛をもった人は知識が必要ありません。あの世では、学ばなくてもすべて分かります。

 

宇宙が私の活動基地です。ところが、その世界にない物質でもって首を絞めており、お金、知識、権力でもって首を絞めています。その世界には、そのようなものは一つもありません。それによって残るものが一つもないのです。皆さん、この世界ではお金、知識、権力が必要だけれども、あの世にはそのようなものが必要ありません。今まで、サタン世界の人がそれを願っていたのです。


霊界でお金が必要ですか。食べる物、知識、権力が必要ですか。それが必要ならば、願えば一瞬のうちに生じるのです。そこには食べ物の工場がありません。学校もありません。権力者もいません。ただ神様が力の根源であられます。そこが私たちの永遠の故郷です。その安息の場が待っているのです。皆さんは誰しも願おうと願うまいとその場に行くのです。私はそれをよく知っています。 あの世では権力が必要ありません。霊界は愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。その世界はそのような世界です。したがって、愛を中心とした感化力をもてない人は、愛でもって感化できる本然の世界に行ったら、本質的に和合ができずに反発するのです。それは地獄に行くのです。これは深刻な問題です。


愛を嫌う人は手を挙げてみなさい。お金はなければ稼げばいいのです。勉強は今しなくても霊界に行ってすればいいのです。霊界では東大を卒業するのに、三日もかかりません。東大を卒業した基準を備えるのに三日もかかりません。心の中を見ながら、本心を話そうとすれば、先に聞くことができるのです。それゆえに、そこでは隠すことができません。便利でしょう。高の能力をもって分析できる力をもったコンピューターでもついていけないというのです。


この宇宙のすべてのものは愛で連結されています。霊界も、万物もすべて愛によって連結されているのです。真の愛を中心としてそのように連結しています。ですから、真の愛さえもっていれば、どこでも連結することができます。真の愛さえもっていれば、みんな頭を下げるのです。霊界に行けば教育が必要ありません。誰でも一週間以内に、東大を卒業した人より数十倍たくさん知ることができるのです。東大を卒業したことを強調しないでください。良心的な人は一瞬にしてすべて通じるのです。説明が必要ありません。


730 * 七百三十
 
霊界に行けば言葉は学ぶ必要がありません。一週間以内にあらゆることを知るのです。心の中で考えることが、すべて分かるのです。話す前にすべて分かるのです。ですから、だますことができません。そのような世界で皆さんは、サーチライトで照らしながら見守っているのです。その光の中で何の問題もなく無事通過して本来の位置に接することができるかということが、人生の路程においての課

題だということを知らなければなりません。

 

どれほどこの世は不便でしょうか!稼ぎが必要でしょうか、必要ないでしょうか。勉強が必要でしょうか、必要ないでしょうか。勉強をしなくてもみんな分かります。言う前に心で、既に分かっています。あの世に行けば、高い、低いということがすべて表示されているのです。ちらりと接すれば、すぐに分かります。ちらっと測定し、レベルを測るのです。東西南北がどのようになっているということを知っています。またこのようにじっとしていても、誰かが私を呼ぶのが分かります。そのような時には、私は無に入って相手を主体として立てるのです。愛の力を育ててつくられるのがあの世です。

 

霊界の組織とは何かといえば、生活を中心としてすべて系列になっているのであって、政治というものはないというのです。神様の直属の愛を中心としていて、強力に軍事拡張であるとか政治的目的のために、この世では手段、方法を選ばないのですが、そのようなことがないのです。経済の平準化運動を中心として、どのように豊かな生活をするかということです。地上もそのようにならなければなりません。 神様も愛ゆえに創造したということは知っているでしょう。神様に「一番好きなものは何ですか」と聞いてみれば、どのように答えるでしょうか。神様は好きなものはありません。お金も必要なく、知識も必要なく、権力も必要ありません。統一教会の食口は何が必要ですか。同じです。愛の中にはお金もあり、知識もあり、権力もあります。愛の権力が万

年権力です。

本当に愛を知っている人は、天上世界に行って学ぶことがありません。そのような人はいつでも神様の心の中を出たり入ったりします。神様の体を通して東西南北を思いのままに行き来することができます。これが中央停留所のようになっています。何の話か分かりますか。それがなぜ必要ですか。そこに入って出てくる時は、東西南北の力が集中するために、強力な力によって出ます。低かった国もその中央を通じて出てくる時は、高い神様と対等な位置に上がるのです。愛にはこのような偉大な力があります。


七) 霊界は神様の法則と秩序の世界

この地球自体がそうですが、太陽自体も自転しています。地球の百三十万倍にもなる質量をもった太陽が休みなしに動いているというのです。宇宙ではこのような太陽系の質量の二千億倍にもなる広大な銀河系があります。このような銀河系を小宇宙と言いますが、宇宙には銀河系のような星雲が数えきれないほどたくさんあります。これをまとめて大宇宙

と言います。

七百三十一
 
私たちはこのような広大無辺な大宇宙の世界を、心を広げて考えなければなりません。半径だけでも数千億光年にもなるものすごい大宇宙を創造された神様は、その大宇宙を変わらない法則に基づいて数億千万年を動かしていらっしゃいます。私たちが考えることができず、感じることもできないほどに偉大な力をもって、このすべての天体を動かすというのです。

このような宇宙を創造された神様を考えれば考えるほど、私たちは、その雄壮さと偉大さに自然に頭を下げざるを得ません。このような大宇宙を創造なさったその方が私たちを見守ってくださるお父様であり、私たちを保護してくださる神様、実存なさる偉大な主人公であられるという事実を、私たちは心を広くして考えなければならないでしょう。


人が精密に計算してレールをつくっていくことは、汽車の速度が少しだけ違っても脱線して大騒ぎするのですが、大宇宙は自然の法則に一致してぴったりと合い、自然に帰ります。この太陽系だけでも、太陽が広大な九個の惑星を抱えてこのようにみんな回転しているのに、そのような太陽系が一千億個も入っている大宇宙が、今でもあらゆるコースをたどりながら活動していると考えてみなさい。一千億個が入っているそのような宇宙があるというのです。それがすべて動いているというのです。これが「ただそのままできた」と言って、「自然だ」と言っています。


根本を明らかにしなければなりません。本然の神様がいるなら、その神様は絶対的な方でなければなりません。唯一、不変、永遠でなければならないのです。そうでなければなりません。神様が定めた法則は絶対的でなければなりません。それゆえに、この宇宙はその法則によって千年万年、何億万年運動を続けるのです。動物世界や植物の世界もそのような科学的公式の法則による基盤の上で存続するのです。ですから、数学ですべて解くことができるのです。


人が死ねば霊界へ行かなければなりません。霊界に行けばどうですか。霊界はすべての秩序が構成された世界です。霊界を知らなければなりません。霊界はどのような世界ですか。理想世界であると同時にしっかりと秩序が構成された世界ですが、愛を中心とした世界です。呼吸は愛でするのです。ここでは空気で呼吸するでしょう。魚は水で呼吸するでしょう。では、霊界では何によって呼吸するのです

か。愛の呼吸です。愛によって呼吸するのです。


神様は天地を何で主管するのでしょうか。法で主管するのですが、法も愛で主管する法です。そして、主管の方向を後援するために、宇宙の法則も存続するというのです。それで、神様がどうして人間を創造したのかといえば、愛が慕わしいからです。一人じっとしていればいいのに、何のためですか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。


七百三十二
 
多くの人々が霊界を体験しています。その霊界は特別な世界です。それがどのような原則が起源になり、どのような結果で運行するというそのような膨大な背景を悟るということは極めて難しいということを知りました。皆さんが統一教会の主張している「原理」の内容を見れば、霊界は、公式的な法則で私たちが認識できる圏内に入るという原則を知るようになるでしょう。その原則を明らかにしたという事実は、今後の歴史時代に大きな問題になるだろうと考えています。 全宇宙が動くすべての法則を主管し、一方では人間を再創造し、その人間を神様の代わりに全宇宙を主管する価値的な存在として立てられるために、摂理なさったということが、どれほど驚くべきことであり、かつ有り難い事実かを、皆さんは骨身にしみるほど感じた

ことがありますか。


二 天国と地獄 一) 天国は愛の理想の世界

天国とは、どのような所ですか。神様の愛が中心になっている所です。神様の愛を中心とした環境圏を設定した所が天国です。それでは、その圏に行ってとどまる人は、どんな人でなければならないのでしょうか。神様の愛の本質と和合できる人にならなければなりません。そのような人以外には行くことはできません。


天国は「ため」に生きる世界であるので、「ため」に生きようという観念のみを中心として行かなければなりません。「自分が受ける」という考えをもてば壊れていくのです。天国は、神様の愛が充満した世界です。愛の本質は受けるというのではなく、全体のために生きるということです。したがって、天国は世の中と違います。宗教の教えは「ため」に生き、絶対服従し、自分を犠牲にしなさい、奉仕しなさいというのですが、世の中にはこのようなことはありません。これは、世の中の何も知らない乞食の群れがするようなことですが、天法を知らなくても福を受けることができるようにするための、サタン世界に対する神様の暗号作戦でした。 天国へは愛の軌道に乗って行くのです。このように話せば実感がわくでしょう。ゴムのひもは引けば引くほど細くなりますが、愛のひもは引けば引くほど反対に太くなります。ですからみ旨のためには苦労の王になることが、世界を占領できる秘法なのです。苦労の王が天国の栄光を独占するのです。


天国とは、どのような世界でしょうか。お互いに反目、嫉視しながら、他人がうまくいけば嫉妬し、他人が喜ぶとたまらないという、そのような世界ではありません。一人がうまくいくことは、全体を代表してうまくいくことです。また、一人が喜ぶことは全体の代わりに喜ぶことなので、一人が喜べば全体が喜ぶのであり、一人がうれしがれば全体が共に喜ぶ所が天国なのです。


天国とはどのような世界かといえば、神様の愛の世界です。愛の空気を吸う世界です。そこには生命がぎっしり詰まっています。どこに行っても生命が躍動しない所がありません。そして、すべて血縁的な因縁によって結ばれています。神様の一つの血筋であるがゆえに、神様が悲しむそのような何かがあれば、全霊界が一つの細胞のように、一つの体のように悲しみを感じるのです。また、神様が喜べばすべてが喜ぶのです。そのような世界です。それで、神様の愛が膨大な大天国を動かしているのです。

七百三十三
 
生命圏がそこに呼応して、すべての万物の主体・対象を中心として、芸術的な美化の対象になっているのです。血筋のように連結していて、神様が喜べば私もうれしく、神様が悲しければ私も悲しくなります。やむなくそのようになっています。 天国では闘いがあるでしょうか。闘いのない永遠な世界で何をして生きるのでしょうか。その世界が一年生きて終わるのではなく、永遠に続くというのです。それなら、退屈ではないでしょうか。そこで何をして生きるのでしょうか。一人で生きますか、霊界にいるあらゆる存在と関係を結んで生きますか。何をもって関係を結びますか。真の愛です。


それゆえに、その世界の本質は何ですか。食べることも、愛を感じながら食べなければなりません。着ることも、愛を感じながら着なければなりません。生きるのも、愛を感じて生きなければなりません。旅行することも、愛の神様が母体となって旅行しなければなりません。そうでなければ、和動できないというのです。その愛というものは、神様の本質的な愛でなければなりません。神様の本質的な愛に近い内容を備えた人格があの世で高い位置を占め、そのような人格を中心として、すべての霊界の万有の存在が和動して生きるというのです。そのような人々が和動する世界だというのです。


人間を中心とした真の愛、それが絶対価値の花です。神様がなぜ生きているかといえば、真の愛ゆえに生まれ、真の愛ゆえに生きるのです。人もなぜ生まれ、なぜ生きているかといえば、真の愛ゆえに生まれ、真の愛ゆえに生きるというのです。そのような時は神様も不平なく、人も不平なく宇宙の花のように咲いて香りが漂うというのです。真の愛をセンターとして両側が一つになるのです。右側も左側も「万歳!」、両手を挙げて「万歳!」、真の人も「万歳!」、霊界も見下ろして「万歳!」、こちらもあの上も「万歳!」と言うのです。すべて一つになって香りが漂うのに酔って ……。


霊界がそうです。気が合う兄弟同士が集まって暮らします。ここでそのように暮らす訓練ができていなければ、あの世に行ってぶつかります。あの世に行けば問題が大きいのです。人の心に合わせるとは、どういうことですか。神様に侍る訓練の中で、人の心に合わせること以上に正しい道はありません。神様がどれほど気難しい方だと思いますか。原則に外れれば許しがありません。それゆえに、人の心に合わせることができ、人と和合することができなければなりません。神様に侍る

訓練の中で、それ以上早い訓練はありません。


完成した人が霊界に入っていけば、どこに行っても友人です。子女の位置に行っても友人、兄弟の位置に行っても友人、夫婦の位置に行っても友人、父母の位置に行っても友人で、すべて通じるというのです。神様の玉座でもどこでも通じることができるというのです。


どのようにして天国へ行くのですか。神様の愛に狂って生きなければなりません。アダムとエバ以上に神様を愛さなければならず、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上にイエス様を愛さなければなりません。そうでなければ、神様が私を愛し得る真の愛の相対圏を復帰できません。これさえ復帰すれば、万事思いどおりになります。


七百三十四
 
お金がないといって心配せず、息子、娘がいないと心配せず、十年、二十年その道を続けて行くと、大きな山にも、険しい峰にも上がるようになります。自分では少しずつ下りていきながら苦労だけしているように思いますが、だんだん高くなるのです。統一教会は打たれながら大きくなります。一つの家に十人が住んでいるなら、公的目的のために十人の反対を受けながらも我慢する人が、その家庭の主人になるのです。すなわち、天国の主人になるのです。


天国は、愛の世界であり、中心者である神様のためにある世界、神様のために生きる世界です。


天国には誰が先に入っていかなければならないかといえば、真の父母が先に入っていかなければなりません。「天国が空いている」と言えば、「レバレンド・ムーンはばかげたことを言う」と思うかもしれませんが、イエス様も天国に入れませんでした。天国へは一人では入れません。人間の先祖が思春期を過ぎて、神様を中心とした愛の理想を成して生活し、真の愛の種を残して父母になって先に入るべき所が天国です。ところが、まだ神様の愛を中心とした父母として、この地に愛の種を残した父母がいません。また、そのような子孫を残した基盤を成せなかったがゆえに、天国は空いているのです。


皆さんは世界天国に向かって行きますか、個人天国に向かって行きますか。「世界天国に向かって行く」と言うでしょう。先生も欲が深く、世界天国へ行く愛の綱をぎゅっとつかむために、四十年間迫害されながらもこのことをしたのです。個人の愛の綱を越えて、家庭の愛の綱、氏族の愛の綱、民族の愛の綱、国家の愛の綱、世界の愛の綱をぎゅっとつかむためです。ぎゅっとつかんでどこに行くのでしょうか。世界の愛の綱を探してからは、恵みを受け出世したので還故郷するのです。故郷に行って、かわいそうな人々を助けてあげるべきではないでしょうか。

 

天国に行く道は、兄弟を神様のように愛することから開かれます。皆さんは先生に従って行こうとするのですが、その心で兄弟を伴って一緒に行こうと努力しなければなりません。天国にも高く、早く、良く導く者は、神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すことができます。


今日、宗教を信じる人々が「天国へ行こう」と言うのですが、天国へただそのまま行けますか。まず地上で天国を迎えて行かなければなりません。地上で天国を迎えるためには愛の規則を経なければなりません。皆さんの家庭に子女がたくさん生まれれば生まれるほど、神様の国をより一層愛さなければならない十字架が加重されるということを感じなければなりません。その家庭に息子、娘をたくさん送ることは、担う十字架が多いということなので、国のために捧げるべき責任が多いという意味です。そのような内容を知って、責任を全うする人にならなければなりません。そのような家庭であればこそ、その家庭に後代を相続できる運勢をもった息子、娘が生まれるのです。


七百三十五
 
天国に入っていける人とはどのような人ですか。まず神様の心に合う人にならなければなりません。どれくらい合わなければならないのでしょうか。神様が永遠な目的を中心として永遠な理想を描いていく方なら、永遠に心が合わなければなりません。十年ぐらい合わせて途中で合わなくなれば駄目です。永遠であられる神様に、永遠に心を合わせなければなりません。そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。永遠にお互いに喜べる息子にならなければなりません。そのような息子になろうとするなら、悲しみの対象として現れてはなりません。


天国という概念は、サタンを克服した位置で、サタンが相対できる一切の要因を否定した位置で、否定するだけでなく清算した位置で成立できます。サタンの否定的条件が残っている歴史的な遺物や生活のすべての内容を否定して清算した土台の上で天国が肯定できるのであって、それを残しては天国の内容を提示できません。


天国に行こうとするなら、罪を犯さず、神様の愛を直接受けることができ、イエス様を信じる必要がなく、救い主が必要ないという息子、娘の資格を獲得し得る過程を経なければなりません。そのように生きた人間が天国

に行ってこそ、神様の理想天国が成されます。


宇宙の高のおじいさんとは誰かといえば、神様です。それから、この世界を一つ造るのに、全天地を一つ造るのにおいて、その 後の子孫とは誰かといえば、未来の後孫です。これを連結しなければなりません。何によって連結するかといえば、家庭です。国ではありません。天国へ行くのに「アメリカ人だ」と言っても認めてくれません。「発展途上国の人だ」と言って排斥しません。この主流、家庭組織を中心として神様のみ旨とともに過去、現在、未来を連結させることのできるモデル型だけを認めます。これが公式だということを知らなければなりません。そのようにしてできた実をもってきて貯蔵する倉庫が天国です。


侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経てから、侍る生活をする必要があるのです。侍るための準備の過程を経て、侍義の生活を経て初めて行く所が天国です。心情で侍る人が行く所が天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を称賛し、高くとどろかせる世界が天国です。私たちは、このような目的の世界に向かうべき運命に置かれているのです。


天国という所は、心情を通さずには行くことができない所です。天国は全体を主管できる本然の国であり、本性の国だというのです。その国は、いかなる事情をもってしても所有できません。深くしみ入る心情の因縁を備えてこそ所有できる国です。それゆえに、キリスト教は究極的に事情を通す教会ではなく、心情を通す教会です。事情の因縁を越えて心情を謳うことのできる基盤を築くのに、地に対して摂理なさる天の目的があるというのです。


七百三十六
 
天国とは、どのような所ですか。準備したことをもって誇る所であり、侍る生活をしたことを誇る所です。それではその天国とは、どのような人が行く所ですか。主を信じて恵みを受けるといって、恵みを前面に立てていく者が行く所ですか。違います。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした人が行く所です。準備する期間に死んだとしても、侍義の生活を残して喜んでいくことのできる者が行く所です。そこに復活があるのです。生活の内幕は現れません。どのように生活するのかということが、今私たちがこの侍る生活の中で考えるべき重大な問題です。


天国がそうです。天国に行けばどこも明るいのです。李相軒氏が言う霊界の実相がそうでしょう。間違いありません。神様の愛の光がこの宇宙の四方を照らして、その懐の万物は万歳しているようです。何の万歳ですか。万万歳ではありません。「解放万歳!」、解放したならすべて「解怨万歳!」、恨みを解かなければなりません。


神様の愛を中心とした本然の父母の因縁の中で、真の愛の家庭基準を代表できる位置に立つことによって初めて天国に入っていけるのです。天国に入っていこうとすれば、真の神様と真の父母の真の愛と一つにならなければなりません。その血統的な関係において生まれた息子、娘と共にこの地で生きてから行く所が天国ですが、今までそのように生きてから行った人は一人もいません。それゆえに天国は空いているのです。


教会に何百年通うとしても、自分を中心とした心をもって通えば天国に行けません。救いを受けることができません。真の宗教がどのような宗教かということを知らなければならず、真の人がどのような人かということを知らなければならず、真の国がどのような国かということを知らなければなりません。


神様の愛の本質と和合できる人とは、どのような人ですか。自分を中心としていく人は価値がありません。相手のために自らの生命を投入して、自らのすべての精誠を投入して、自らのすべてのものを投入しながら与えようとする人だけが、神様の愛の圏内に存続できるのです。歴史上の偉人もそうでしたし、聖

人もそうでした。


二) 天国はお互いのために生きる世界

自分自身を投入して忘れなければなりません。食口が全部で百人ならば、百人の食口の中で自分の息子、娘よりも良くない服を着ている人がいれば、寝ることができずにいなければなりません。与えなさいというのです。神様の心情、父母の心情がそうです。統一教会の主流思想は何ですか。父母の心情で僕の体を使い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流しなさいというのです。天とは何ですか。息子、娘を連れていく愛の世界なのです。愛をもって全宇宙の前に与えるのです。先生は神様を愛しました。霊界からここまで、そのすべてをよく知っているのです。

霊界は今まで未知の世界でした。その世界は、神様の存在原則のために生きた人間だけが行く所です。そのような内容によって形成された世界が理想天国です。


七百三十七
 
発展しようとすれば、どのようにしなければなりませんか。利他主義でなければなりません。統一教会は絶対に利他主義、「ため」に生きるのです。ここで分かれるのです。一方は地獄に落ち、もう一方は天国に行くのです。霊界に行けばそうです。霊界に行けばすぐに分かるのです。「ため」に生きた人間は、行く所を知っているのです。ですから、より「ため」に生き、「ため」に生きる聖人の思想を受け入れなければなりません。救世主の思想を受け入れなければなりません。神様の思想を受けなければなりません。神様の思想とは何ですか。絶対に「ため」に生きることです。


小さなものは大きなもののために投入しなければなりません。それゆえに、家庭は氏族のために犠牲になりなさいという論理です。氏族は民族のために犠牲になり、民族は国家のために犠牲になり、国家は世界のために犠牲にならなければなりません。国家財産を取って自分の家庭のものにする者は、みんな地獄に逆さまに差し込まれるのです。滅びるのです。ここで滅びなければ、霊界に行って逆さまに差し込まれるのです。


地上生活と天上生活は反対です。堕落した人々は、地上で自分のために生きていますが、霊界は全体のために生きるようになっています。堕落を否定して全体のために生きる人になることによって、神様の相対になることができるのです!永遠に「アーメン!」と言わなければならないのです。


霊界は、自分のために生きていく人には行くことができない所です。悪なる人とはどのような人ですか。一から十まですべて自分を中心として一元化するという人です。そのような人が独裁者、悪党なのです。そのような人は地獄に直行だというのです。統一教会では、それはいけないことです。個人は家庭のために生き、家庭は氏族のために生き、氏族は民族のために生き、民族は国家のために生き、国家は世界のために生き、世界は宇宙のために生き、宇宙は天宙のために生き、天宙は神様のために生きなければならないのですが、神様は誰のために生きるのでしょうか。

私のために生きるのです。


本郷の地に導かなければならない宗教であるゆえに、宗教は何を教えるのでしょうか。「ため」に生きなさいということを教えざるを得ないということを知らなければなりません。高次的な宗教であるほど、「ため」に生きなければならないという原則を強調しなければならないので、柔和、謙遜になりなさいというのです。なぜですか。多くの人を高めて、彼らのために生きる立場に立てというのです。犠牲、奉仕しなさいと教えるのです。なぜですか。それは、その国の法に合うことのできる人を訓練しなければならないからです。


地上で暮らしてから霊界へ行くのですが、高い所に行く人はみな他人のために生きた人です。世界の四十カ国ならば四十カ国を回りながら、そこと自分の母と家庭を拡大したという心情をもって「ため」に生き、世界の人々をすべて悪から救ってあげる聖人の心をもった人が高い所に行くのです。先生はそのように考えます。

「私は一人の男性として、歴史時代の孝子を代表した総帥であり、愛国者の総帥であり、聖人の総帥である。神様の息子として名づけられたすべての人々は失敗したが、私は勝利した息子、娘として生まれた」というのです。そのように言うことができるようにしてあげることがたった一つあるのですが、それが絶対に「ため」に生きることです。与えて忘れ、

七百三十八
 
「ため」に生きて、それを忘れて生きる人だけが、その世界を消化できるというのが結論です。簡単なのです。 死を避けることのできる人は一人もいません。死を避けることはできないのです。ここで生きて死ぬのですが、自分のために生きる人は、この世界へ行ってぐるっと回って地獄へ行くのであり、他人のために生きた人間は、ぐるっと回って天国に行くのです。この二つの世界が死を境に分かれるのです。


今後は自分の財産を天のものとして捧げるための綱が、世の中でも長い綱になると考えるのです。ですから、すべて無一文の乞食になりなさいというのです。すべて捧げました。捧げるものは鼻水と涙と血しかありません。先生自身がそうです。捧げるものがないのです。生命と財産をすべて捧げました。皆さんに息子、娘のための預金通帳があれば、それは自分の息子、娘のために使わなければならないでしょうか、世界の救いの道のために使わなければならないでしょうか。そのような考えをし、そのような行動をしてこそメシヤと同等の立場に同席できるのです。

「ため」に生きなさいというのです。全体のために生き、より大きいもののために生きなさいというのです。世界のために生き、神様のために生き、人類解放のために生きなさいというのです。自分によって新しい血統に転換しなければなりません。


今後どのような競争が起こるでしょうか。お互いが「ため」に生きるということです。なぜですか。天国では「ため」に生きる人が高い位置に行くので、その高い人のために私が生きるようになれば、その人に乗ってジャンピングできるというのです。ケープ・ケネディに行けば、人工衛星の発射台があるのですが、ここで人工衛星が発射されて天に飛んでいくのと同じように、そのようになるというのです。


人のために生きることは、神様が創造して相対をつくったのと同じなので、その人の愛の対象圏に立つということです。そうでしょう。誰かに従って「ため」に生きることも、すべてそのためです。皆さんも先生のために生きるでしょう。先生のために生きることは、先生の愛の対象になってジャンピングして、神様を占領しようというのではありませんか。そうですか、そうではありませんか。人工衛星は目標物に向かって飛ばさなければならないでしょう。同じです。人工衛星が出てきたのは、今日、信仰者が跳躍して天国にどのように行くのか、何千万里、何万里をどのように行くのかということを前もって示すためなのです。


霊界はどのような世の中ですか。真の愛を中心として他の人のために生きる所が霊界です。自分のために生きるのではなく、全体のために生きるのです。この地上でも人のために生きる人は、一〇〇パーセント「ため」に生きる人は「私を踏んで越えていきなさい!」と言うのです。いくらアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領よりもっとその国の民族のために生きる人がいれば、その人が大統領を踏んで越えていってもみな歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを取るときは、みんな怨讐になるのです。


霊界に行っても同じです。より大きいもののために生きるときは、自然に通過するのです。より大きいもののために生きるようになれば、自然に通じるのです。ですから、世界

 


七百三十九

 


のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれるのです。韓国も同じです。すべての国が含まれるのです。それでは、行くにおいて、家庭もただそのまま過ぎ、すべてが歓迎できる方向の内容とは何ですか。それは真の愛を中心として「ため」に生きていく愛の道しかないという結論が出てくるのです。


皆さんが五十年の生涯の中で、二十五年以上をこの宇宙のために生き、天倫に従って生きたとすれば天国に行くのです。そうすれば、あの世に行っていい霊界にとどまることができますが、自分を中心として生きたことが多かったとしたら、残念ですが善なる本郷の世界に行くのではなく、自分だけのために生きようとする悪なる本郷、地獄に行くというのです。そのような事実を知って、これから皆さんは、自分のために生きた過去の生活を清算して、余生を全体のために生き、国のために生き、世界のために生き、天地のために生き、神様のために生きなければなりません。そうすれば、ここから地獄ではなく天上の理想世界へと向かって進むことは間違いありません。


イエス様は死を目前にしても「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いました。死んでいきながらも神様に抗議するのではなく、お父様のみ旨がもっと大きいので、もっと大きい犠牲でも当然捧げるという姿勢でした。このような位置では、より一層深く入っていくことができるので、神様ともっと近い位置に入っていくのです。そのような人の前では、神様もどうすることもできません。そのような人を打つ人は、すぐ

に滅びます。神様が自ら制裁をなさるのです。


霊界(天国)とは、どのような所か知っていますか。「ため」に生きる人が行く世界が霊界です。自分のために生きる人は絶対に行けません。そのような人は地獄に行くというのです。有名な牧師だといってそこに行けるのかどうか、行ってみれば分かります。統一教会は怨讐まで救ってあげ、共産党まで救おうとするのですが、共産党はすべての首を切って統一教会をなくそうとします。これが違います。ですから、どのような愛がこの世界を支配しなければならないのでしょうか。私たちは共産党よりもっと強くなければなりません。悪なる人になって強くなってはいけません。「ため」に生きる愛を中心として強くなれば、世界を救っても残るというのです。

天国は与えて生きる所です。神様も、与えさえすればよいのです。親は、子女に与えさえすればよいのです。良いものを与えてからも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいのが親の心です。


百を与えて忘れることのできる神様の前に、私は千を与えても忘れることができるようになれば、神様が私の相対になってくださるというのです。このようなことを知っていますか。これは素晴らしいでしょう。主体と対象の関係が交換できるというのです。それでは、

740 * 七百四十
 
「私が一度善のために、神様以上にやってみて生きる」と言った人が地獄に行くでしようか、天国に行くでしょうか。天国に行って神様が暮らしている朝の食卓の召使になりますか、一緒に座って愛の御飯をお互いに分け合って食べながら生きることのできる位置に行ってとどまりますか。どちらですか。


霊界がどのようになっているかという事実に対しては、誰にも劣らない体験をしましたし、また霊界は私の専門的な分野です。霊界の秩序的な起源を調べてみれば、どのようになっていたでしょうか。「ため」に存在するようになっている世界が天国です。そこが私

たちの本郷です。


三) 天国は地上天国を経ていく所

今までの歴史上に神様の前に呼ばれた人々は、みんな五十代以上、六十代以上でした。年老いてやつれ、遠からず共同墓地に行くしかない人々、葬送曲を聞く日が近い者たちだったのです。そのような背後で神様は、今日このようにやつれてしまった老年層をつかんで摂理するのですが、今後は壮年層をつかんで摂理しなければならないので、彼らをつかんでどのように摂理を展開させるかを心配なさったのです。神様はそのような事情を抱えて歴史路程を歩いてこられたのです。


釈迦も神秘な境地に入って「天上天下唯我独尊」と言いました。修道しながら精神を統一して、霊的世界に入って神様の前に完全な対象の位置に入っていけば、「天上天下唯我独尊」という言葉が可能だというのです。先生が世の中をしっかりとつかめば、世の中がこの握りこぶしの中で溶け出すような思いが生じるのです。そのような境地に入っていくようになれば、奇跡が自動的に起こります。病気を治すことは信仰の付属物として自然についてくるのです。


今日大部分の人を見れば、一日の生活圏内で朝起きて御飯を食べるという習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じている人が多いのです。そのような人々は天国を所有できません。堂々とすることはできません。私を公認する相対的な要因がなくては、絶対的な信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服したのちにこそ成される天国が成し遂げられるでしょうか。とんでもないことです。なぜでしょうか。その場にはサタンがとどまっているからです。


今日、数多くの宗教人は、「天国は自分の宗教を通じてのみ成される」と言います。それはすべて妄想的な話です。多くの宗教がそれぞれ、「我が教主が教える教理を通じて天国が成される」と言います。キリスト教だけ見ても数十の宗派に分かれています。自分の宗派でなければ異端視してサタン視するのが現実です。その教団が神様から公証を受けてそのようなことを話すなら分かりませんが、ただ単に自分の宗派を立てて、自分の宗派を残すための欲からそのようにするなら動機が純粋ではありません。そのような宗団は、すべて滅びるようになります。もし統一教会がそうならば、統一教会から滅びなければなりません。


七百四十一
 
霊的世界も塀ですべて遮られています。仏教圏があり、儒教圏があり、すべて塀でふさがれています。これをより高い神様の心情を通じてすべて取り除かなければなりません。天上世界の高い玉座から塀を壊して逆に下りてこなければなりません。何万年の私たちの先祖の塀から何千年の私たちの先祖の塀、何百年のこの時代の塀、何年前に亡くなったすべての人々の塀をすべて壊して、地上のすべての塀を壊して、これを地獄まで連結させ得る道を築かなければ、開天門が成されないのです。


統一教会の食口はどの水準にまでならなければならないのでしょうか。釈迦よりも立派な人にならなければならず、イエス様や孔子よりも立派な人にならなければなりません。今までの宗教の目的は、個人を救うことでした。しかし、統一教会は個人の救いよりも家庭を目的とするのです。統一教会が一般宗教と違う点がこれです。救うけれども家庭を救い、天国に行くにも自分一人で行かないというのです。


天国という所は一人では行けません。天国という所は必ず相対理想を決定してこそ入っていけるようになっているので、堕落人間が天国に入っていくためには、復帰の歴史、復活の歴史、再創造の歴史を経なければならないのです。皆さんを祝福してあげることは、天国の門をぱっと開けておくことです。「祝福」という名詞を立てて閉まっている天国の門を開けてあげることです。


「天国はあなたの心にある」と言われましたが、「天国はあなたの家庭にある」と言えなかったイエス様がどれほど哀れで孤独であられたかを考えてみなさい。それでも皆さんは家庭をもって幸福を謳歌しています。私たちには、そのようにできる瞬間もあるのですが、天下を救うための求道者の主人であり、神様のひとり子であられるイエス様が、このような環境天国の基地を夢にも見ることができず、「天国はあなたの心にある」と言いながら、心で天国をよみがえらせようとしている途中で、三年もたたずに十字架で亡くなったので、その方の生涯がどんなに孤独で悲惨かというのです。

 

地上天国と天上天国は、レールが同じで二つが合うのです。国境を越えれば、この世のレールとあの世のレールと合わなければなりません。それでこそ貨物列車が走ることができるのと同じように、地上と天上世界のレールが合うようになります。ここで走る愛の機関車を担った家庭が、ただそのまま天国まで、天の玉座の前まで直行できるレールを連結させるための道というものは、真の愛で「ため」に生きる道です。個人が行く道と家庭が行く道を、すべて連結しなければなりません。

方向が一致するのです。


七百四十二
 
私たちは、好きでも嫌いでも、いずれそこへ行くべき運命に置かれています。それが私たちの人生の道です。私たちは、そこに向かって旅人の道を行っているのです。それでは、ここで問題になることは、自分のために生きたのか、人のために生きる生活をしたのかということです。その差によって、すなわち人のために生きたことが多ければ天国に行くことができるのであり、その反対になるときには地獄に行くというのです。この原則はこの場では信じられませんが、死んでみれば分かります。 霊界に行ってみれば、人々がいろいろな段階の所にとどまっているのですが、その人々がどのようにしてそのようになったのでしょうか。愛の道理に従ってどれくらい孝行を果たしたか、どれくらい国に忠誠を尽くしたか、どれくらい世界で聖人の道理を果たしたかという度数の差によって該当する位置にとどまっているのです。人間がこの地で行くべき道は正道です。正道には、個人の正道があり、家庭の正道があり、氏族の正道があり、民族の正道があり、国家の正道があり、世界の正道があり、宇宙の正道がなければならず、神様御自身にも正道があります。このような、ただ一つの道がなければならないのです。その道がどのような道ですか。本然の愛の道です。


後にはどのような世界へ行くのでしょうか。地獄へ行くのでしょうか、天国に行くのでしょうか。皆さんは行きながら「先生!助けてください」と言う人になるのでしょうか、「先生!いらっしゃいませ」と言う人になるのでしょうか。死ぬか生きるかというのです。皆さんが結婚して仲良く暮らすというのですが、先生が仲良く暮らしなさいということは、変わらない夫婦になりなさいということです。変わらない夫婦になろうとするなら、変わる世界に行って一緒に修練を受けて、南北が分かれ、四方に分かれて暮らす世界に行っても分かれてはなりません。このように訓練された位置に立たなければなりません。


真の父母が生んだ息子、娘は偽りの息子、娘ではなく、真の息子、娘です。そこから真の家庭が出てくるのです。真の家庭が出てきて、真の氏族が出てきて、真の民族が出てきて、真の国が出てきて、真の国が出てくることによって真の世界になります。その世界では、神様を中心として家庭で天国生活をして、氏族で天国生活をして、民族で天国生活をして、世界で天国生活をしなければなりません。そうしてこそ、この地が地上天国になるのです。この地上でそのように暮らしてから肉身を脱いで永遠なる天国に入っていけば、そこが霊界の天国だというのです。これが神様の摂理の概観です。


皆さんは、「天国に行こう」と考えてはなりません。地上に天国を建設しようと考えなければなりません。天国を建設する前に皆さん自身が先に天国人にならなければなりません。天国人になろうとするなら、「お父様の心が私の心であり、私の心がお父様の心だ」と自信をもって言える程度にお父様と心情一体を成さなければなりません。それで、地上でお父様の心に代わり、主と先祖の心に代わらなければなりません。そうしてこそ、歴史

的なあらゆる問題を解決できるというのです。

 

七百四十三
 
死にながら「神様、私は今まで神様のみ意のままにできませんでしたが、私の心では天国に行こうとしました。ですから私を蕩減条件を立てたものとしてください」と言えば、神様も公平であるので、そのような人は天国へ行こうとする位置に置いておくというのです。どのような位置に置いておくのでしょうか。行こうとしたので、天国へ行こうとする位置に置いておくのです。言ったとおり返してくれます。行くことは行くのですが、天国へ行こうとする位置へ行きます。その場は楽園以下の位置であり得るのです。地獄にいる人も天国へ行こうとするというのです。 「統一教会は、ただこのように集まって別れる所だ」と言うでしょうが、そうではありません。ここで線を引けば、永遠に引かれるのです。この門を閉めれば永遠に開ける者がいないし、開ければ再び閉める者がいません。地で結んだことは地で解かなければならないがゆえに、皆さん自身が結んだことは、皆さん自身が解かなければなりません。これが問題です。それゆえに、皆さんが伝道をするにおいて、これからは他の所に行って伝道するなというのです。


「二十億の人類の愛の結実である実体を、私を生んでくれたお父さん、お母さんよりももっと愛し、四十億の人類を私のお父さん、お母さんよりもっと愛する」と言えば、神様の愛の圏を中心として一つになったという立場で人類を愛することができるために、私は

サタン世界とは無関係な立場に立つのです。


堕落しない本然の人間として、サタンと関係がない人間として、理想的夫婦の愛を中心として家庭を築き、暮らしてから天国に直行できるようになっているのが本然の人間です。それで地上天国というのです。地上天国は天上天国を受け継ぐのです。それゆえに、ペテロに天国の門の鍵を与えたとはどういうことかといえば、天国を成すことのできる道が地上にあるというのです。はっきりと知らなけ

ればなりません。


四) イエス様と楽園

堕落がなかったならば、天国はひとり子、ひとり娘が神様の愛を中心として神様の家庭を築き、神様の愛で暮らして引っ越して行く所です。天国は家庭が入っていくようになっています。個人は天国に入っていけないというのです。イエス様は家庭を成せないことによって天国に入れず、天国の待合室に行って待っているのです。それが楽園です。楽園は、天国に入る準備をするための待合室のような所です。


イエス様は、血族を通してそれを成し遂げることができませんでした。それゆえに、イエス様が再び来てこれを解怨成就しなければなりません。そうでなければ天国に入れません。天国を開ける条件とはどこにありますか。地にあります。したがって、イエス様が天国の鍵を地に残していきました。イエス様と十二弟子が家庭を成し遂げることができなかったので、今日、統一教会で祝福家庭を通して七十門徒、百二十門徒の家庭を再び探し立てなければならないのです。それでこそ天国が開きます。


キリスト教で言うように、イエス様を信じて天国へ行けると思いますか。イエス様御自身も相対理想を成せなければ行けないのです。神様も成せなかったのに、イエス様一人で真の愛を成すことができますか。ですから再び来なければなりません。それなら、雲に乗って来るのでしょうか。今では、現実的内容をすべて目で推し量ることができ、測ることができるこの民族が私についてくるようになっています。


七百四十四
 
今日のキリスト教を信じる人々は、「イエス様を信じれば救われて天国へ行く」と言います。「天国へ行くのも自分一人で行く」と言うのであって、「自分のお父さん、お母さんと一緒に行く」と言う人は多くありません。今後、宗教は個人のみの救いであってはなりません。神様が立てておいた真の宗教ならば、宇宙的で後まで残り得る宗教にならなければなりません。人類が望む 後の宗教があるならば、その宗教は「個人のみ天国へ行くことがみ意」とは言わないでしょう。天国を個人にだけ紹介してはなりません。お父さん、お母さんにも紹介しなければなりません。そのように紹介して族長までその内容を知るようになれば、一度についていくようになるのです。


イエス様がどうして天国に入れなかったのでしょうか。天国は堕落せずに生きた者が入っていけるように、神様が人間に対して造ってくれたのです。人間は、本来の原則的な基準に立ってこそ天国に入っていけます。したがって、イエス様御自身も堕落した人間を救って、堕落しない人類の父母であるアダムとエバの位置で息子、娘を率いて入らなければならないのです。しかし、イエス様は一人で来たので子孫がいません。いないので楽園に行くようになったのです。天国に入ることができず楽園にいるというのです。天国に行くための待合室のような所に行っているというのです。


天国は空いています。これを考えれば神様の復帰摂理が、悲しい復帰摂理の歴史であるというのです。神様がアダムとエバを失ってしまいました。二人を失ってしまっただけで終わるのではありません。アダムとエバを失ってしまったということは、アダムとエバの一族を失ってしまったのです。その一族が拡大して民族になり、一つの国家を成し、一つの世界へ拡大されたはずですが、失ってしまったのです。ですからアダム一人を失うことによって、天国の王権を中心とした王国を失うようになり、天国の民族を失い、天国の氏族を失い、天国の男性、女性、ひとり子、ひとり娘まで失ってしまったのです。


本来、霊界は家庭が入っていかなければならないのですが、家庭がありません。イエス様も夫婦生活をしていない独身です。聖人の孔子、釈迦、マホメット、王たちはどうだったのでしょうか。すべて天使長圏の子孫なので、独身生活です。相対理想がありません。このようなことを話して、無知で知らない人がどんどん知って、自分が王のようになるという非法的なことが起こってはなりません。王になるなら真の愛でならなければなりません。自分が人のために生きなければならないのです。


神様は人類を救うために宗教を立てて摂理してこられます。それゆえに、高次的な宗教であるほど、その本郷のみ旨と本郷の原則に一致する教訓を言わなければならず、「犠牲になりさい、奉仕しなさい」という勧告をせざるを得ないというのです。このように、神様が歴史と宗教の背後で摂理しているという事実を否定できません。このような原則について見ると、「ため」に生きようという宗教は発展できますが、自分を中心にして世界に問題を起こしながら主体的な立場に立とうという宗教は下がっていくという結論も、ここで出せるのです。


七百四十五
 
聖書に「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)と記されています。ここに引っ掛かる人は天国に入れません。二つ目の戒めは何ですか。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同二二・三九)と言いました。神様を第一に愛し、

隣り人を第二に愛する人が孝子になるのです。


イエス様に従う弟子たちは、イエス様がローマ帝国を一時に占領してイスラエルの王に君臨すれば、自分たちは一席ずつ占領することができると思っていたのです。そのようなことが問題ではありません。まず私の心の中で天国の基盤を築かなければなりません。その心を中心として体が神様と一つになり得る基盤を築かなければなりません。これがも大きい問題なのです。結局は、私自身から始まるのです。したがって、天国の拠点は私の心だというのです。

 

神様は仲むつまじくすることを喜ぶのですが、荒々しく激しくてはいけません。神様が仲むつまじくする時は仲むつまじくしなければなりません。内外が合わなければならないのです。このように内外だけ合えば、それでよいのでしょうか。その次は、神様のみ旨と一致することをしなければなりません。そうするならば心に何もないことがあり得るでしょうか。体が嫌がることがあり得るでしょうか。心と体が喜ぶことをしなければならないのです。神様が存在するなら、神様が喜ばれることがあるというのです。またイエス様が神様の息子ならば、イエス様もそのようなことを喜ばなければなりません。 神様を愛さずにはサタン圏内を抜け出すことができないのです。それゆえに、自分の妻よりも、自分の夫よりも神様をもっと愛さなければなりません。堕落した人類がサタン圏内の愛のわなから家庭の位置まで出てきましたが、まだ完全に出てくることはできませんでした。ゆえに自分のお父さん、お母さんを

神様よりも愛してはいけないというのです。


霊界に行ってみれば、昔殉教した信徒の中で「私がこのように殉教してこそ天国に行くことができるだろう」と言った人は、天国に行けなかったというのです。反面「父なる神様が私を探すために受難の道を歩んで来られ、血を流された。主の恩に報いるためにはどのような道でも行く」と言って、「その恩に報いることのできる位置に私が共に参席できる栄光の一時を迎えられたことがどんなに有り難いことでしょうか」と言って死んだ人は、間違いなく天国に行ったのです。そのような人は自分のために生きて死んだのではなく、天地のために死んだのです。「私がこのように信じて死んでこそ天国に行く」と言って死んだとすれば、それは自分のために生きて死んだのです。堕落した人間は、自分の主張をしては絶対に天国に行けません。


五) 地獄は神様の愛と関係ない所

七百四十六
 
堕落とは何ですか。堕落したがゆえに、真っ暗な夜中になってしまったという結論が出てくるのです。天国へ行くことのできるチケットをもらうべきなのに、地獄へ行くチケットをもらったというのです。それを実感するでしょう。天国へ行けるチケットが地獄行きのチケットに変わってしまったのは、堕落のためだというのです。


地獄とは何ですか。神様の愛と血統と生命、神様との因縁がない所が地獄です。


地獄は、すべて遮られてしまって自分一人でいるのです。すべてのものを慕いながらも、何もできないのです。直感的にこの宇宙の膨大な幸福圏をすべて見て感じることができるのに、全然身動きができないでいるのです。それで、レバレンド・ムーンがすることとは何ですか。このような世界的な思想を中心として天地を愛し、神様を愛する運動をするのです。これは、皆さんが未来に霊界にもって行くべき道を今から準備させるのです。このような準備をするということは偉大なことなのです。

 

霊界は無限の世界です。私たちを包容する故郷は、そのように大きいというのです。永遠な故郷、霊界は本当に巨大な所です。霊界が好きですか。どんなに大きいか分からないというのです。その世界を活動舞台とするのです。その心が世界的になって、宇宙的であればそこに拍子が合うのであって、個人主義では駄目だというのです。個人主義は全体と通じることができないので、どれほど地獄でしょうか。鷲を捕まえて、汚い穴に動くこともできないように閉じ込めておいて、えさだけ与えるのと同じだというのです。鷲はアメリカを象徴する鳥でしょう。食べるものだけ食べて生きるとすれば、どんなに悲惨でしょうか!それが幸福ですか、不幸ですか。悲惨なのです。

自殺することは罪の中の罪です。宇宙を破綻させるための邪悪な行動です。そのような人

は地獄の中の地獄に行かなければなりません。


皆さん十分の一の鼻の穴、十分の一の口で息を吸って生きると考えてみなさい。それが地獄なのです。地獄はそれと変わりません。変わらないというのです。受けたい時に受けることができず、与えたい時に与えることができないのが地獄です。皆さん、息を吸いたいとき、空気を吸いたいとき一度我慢してみなさい。何分我慢できるでしょうか。息を吐きたいとき吐くことができず、吸いたいとき吸い込むことができなければ、どれほど我慢できますか。それが地獄です。


霊界では神様の愛がなければ食べることができません。食べる権利がないというのです。地獄は見ながらも食べることができない所であり、知っていながらも行くことのできない所だということを知らなければなりません。それゆえに、神様の愛を中心として霊界と肉界が一つになり得るこのような価値的な中心を立てておいて、地上で霊肉が一つになった天国生活をした人以外には永遠な理想的世界をもつことができないのであり、天国を所有できないということを知らなければなりません。


七百四十七
 
あの世に行って何をするのでしょうか。食べるでしょうか、食べないでしょうか。食べれば良いでしょうか、食べなければ良いと思うでしょうか。それでは食べるのに何を中心として食べますか。愛を中心として食べるようになっているために、愛をもっていない人は行って食べようとしても口が開かないのです。それが罰です。 世界も混乱しています。それでは、霊界はどうですか。混乱した人間像が霊界に行って集まっているので、霊界は混乱せざるを得ないのです。盗みも習慣になれば、いつも盗みをするものです。ですから、地上で盗みをしていたならば、天上世界に行ってもただを願います。それで、処置が困難なので地獄というものが生じました。地獄は神様がつくったのではありません。ごみ箱を作っておいてから家を建てるのではありません。家を建てて暮らしてみると、ごみ箱が生じました。同じ

です。既成教徒はみんな根本を知りません。


地獄とは何かというと、廃物収集場所です。廃品収集場所なのです。神様の愛とは関係がなく、すべて偽りの愛で出発した全人類は、みな地獄へ行きます。それで、天国に行く人は、神様の愛と心と体が一つになり、夫婦が一つになり、子女が一つになって神様の愛を中心として神様のように生きた人間です。神様も心と体が絶対的に一つになっているのと同じように、男性や女性やその家庭全体の家族が心と体が絶対的に一つになることによって、主体なる神様の前に、その家族が対象として一緒に暮らし、この地を離れて霊界へと移動していくのです。


地獄に送る神様が絶対ではありません。霊界に行けば、自分で地獄に行きます。邪悪に生きた人は、善なる所に行けば呼吸が合いません。呼吸できなくなります。ですから、仕方なく自分に合う所を探さなければなりません。地獄の暗い所に行って「おお、ここだな」と言うのです。そこが地獄です。私のような人は、「地獄へ行っていなさい」と言われても、いることができません。呼吸が合いません。私がかぐにおいが違い、味を知っているのに……。地獄に誰が送りますか。そのような神様ではありません。地獄は自分が訪ねていくのです。


天国に行けば、地獄にも思いのままに行ったり来たりできます。皆さん、霊界で制限される人になりますか、自由天地に解放された人になりますか。皆さんの横にいる人を「ああ、この人は天国の門番だ。番人だ」と言いながら、その門を通過するために訓練しなければなりません。「その門を通過しなければならないのですが、あなたが門番ですね。あなたの心をとろけさせ、あなたを感動させ、私が入っていく時、案内してもらえるようにします」と言わなければならないというのです。


地獄とは何かといえば、未来がないというのです。天国には未来があるのであり、地獄には未来がありません。天国に入ったならば未来があるのです。堕落はどこから始まったのでしょうか。堕落とは公的な意味の未来をもたない位置から、自分だけが中心となったところから始まったということを皆さんは知らなければなりません。「私のために生きなさい」という道は地獄であり、「人のために生きなさい」という道は天国です。このような概念がはっきりと生じるのです。


七百四十八
 
気球があるでしょう。水素を入れれば、ゆっくりすっと上がっていきます。上がっていくのですが、それがどのくらい上がっていくでしょうか。初に上がっていく時は、無制限に上がっていくようですが、上がっていくには限界があるのです。自らの重さと均衡が取れる所にとどまるのです。自分と同じ同類の空気圏内にとどまるのです。霊界も同じです。欲深い人は下がっていくのです。重いというのです。ですから、地獄という所は重い者たちが集まってぶつかるのです。そのようになっています。


もし霊界に白人と黒人が行って、白人が天国に入っていく時、黒人の番人を立て、黒人が天国へ入っていくとき、白人の番人を立てたとすればどうするでしょうか。後ろに戻りますか。では、どうしますか。行けないと悪口を言って殴れば「私を殺してください。昔は分からなかった」と言いながら、ただ取りすがって「助けてください!」と、このように頼みますか、逃げますか。自分が生前、黒人たちに反対したことの何千倍、何百倍生き地獄でしょう。私が神様でもそのように番人を立てます。


皆さんは、宇宙からどこにも行くことができないのです。どこかへ逃げる、そのような所はないというのです。自分の思いどおりに逃げることができないのです。宇宙の法と秩序圏内から抜け出せない人間だということを知らなければなりません。道に従って行かなければならないというのです。

皆さんは愛の秩序、人倫、家庭、社会、国家、世界、天宙、神様、全体を通じることのできる公式的な憲法基準を中心とした、宇宙法の治下に生きている自分自身だということを知らなければなりません。自然をはじめとするすべての法が支持し、擁護して、解放圏をもてる道は、愛して「ため」に生きる道しかないという事実を知らなければなりません。地獄までも……。統一教会の食口は地獄の観念がありません。地獄があるという事実を知らなければなりません。愛のバーナーをもって行くその道を行くことができなければ、もっとひどい、もっと怖い地獄があるという事実を知らなければなりません。それを分かったでしょう。法廷に立って勝利する皆さんになるように願います。


「私的なこと」と「公的なこと」という言葉は、はっきりしているのです。公的なことは、大きなもののために生きることです。私的なことは、自分を中心にするのです。自分を中心にすることは地獄と通じるのであり、公的なことは天国と通じるのです。


統一教会の食口は安物ではありません。聖書を抱えて礼拝に行けば天国へ行き、いくら献金すれば天国へ行くと考える、そのようなつまらない群れではありません。それはつまらない群れです。そのようなひどい群れではありません。信じたなら、ひたすら後まで信じるのです。どのくらいすごいかといえば、自分が死のうと生きようと、夫がつかんで行けないようにしても離婚も辞さずに信じるというのです。そのようにものすごいのです。 神様がそれを見て、「おい、お前は離婚して私についてくれば、お前を地獄に送る!」と言われますか。離婚をしてでも、け飛ばしてでも正しい道を行くという時、神様が「お前は離婚することをよく決心したな」と言われるでしょうか。どのように言われるでしょうか。一度答えてみてください。


今苦労するのは天国の自由を求めるためです。地獄までも天国につくるためです。地獄に行って裁判長のようなことをしても、地獄で懲役生活をした人たちがみな「あなたはす

 


七百四十九

 


べて経たので讒訴することができない」と言うでしょう。この位置に降りてくる時、高い位置から一段階降りてくる時、世の中ならどんなに大騒ぎするでしょうか。「私がなぜそこに行くのか。私がなぜ行くのか」と言うでしょう。それは兄弟社会ではあり得ないことですが、父母の心情圏でのみ可能なのです。この上なく高い神様が、地獄のどん底まで降りてくることができるというのです。これが父母であり、真の父母です。自分の顔に傷ができ、体がどのようになってもそのようにするのです。

 

目をむいて「酒を飲んではいけない。この者たち、滅びなさい!」とこのように言うならば、どれほどいい加減な者たちでしょうか。そこには余裕がありません。こうしたキリスト教徒たちを見れば、ばからしくて私はうんざりします。「聖句のマタイ福音書何章に引っ掛かった。あなたは地獄に行きます」と言うのを見れば、えい、この者たち……。人を殺しても、国を生かすことができれば、国を生かすことのできる道のために人殺しを釈放する法がないと思いますか。この者たち!


あなた方はそれを考えるのです……。このように成長すると……。あの尾根にある大理石の間に根を下ろしたあの小さい松、そこには通りすがりの犬が来てもおしっこもできないのです。陰があってこそおしっこをします。おしっこをするのは恥ずかしいので、犬もどこかに行ってくっついてするのです。それは人間よりましです。そうなのです。陰に行ってするのです。なぜですか。人が見るといけないからです。 天国へ入っていくのに一番の問題とは何ですか。自分が怨讐だというのです。地獄やサタン世界は自我覚醒から生じたのです。天使長が自分を中心として考えたというのです。深刻に考えたというのです。逆賊とは何ですか。自分を中心として国と主権者を越えて考える人を「逆賊」と言うのです。自分を中心として上がっていくその頂上は、すべて逆賊の道と通じるのです。地獄の道と通じるのです。人間自体において敗亡の道と通じるのです。自分を中心とするこの基盤は、死亡と通じるのです。


自分が愛を受けるということは地獄へ行く道であり、サタン側です。私が愛するということは天国へ行く道であり、神側です。確かだというのです。そのような愛が世の中には一つしかありません。父母の愛一つしかないというのです。子女が「受ける」と言わなくても、しきりに愛するのが父母の愛です。堕落したけれども、父母の愛を通じたその道だけは残っているというのです。神様がそうですから、神様が父母になるので、そのような愛が人間にも残っているというのです。


750 * 七百五十
 
皆さん、終着点とはどこですか。どこに行ってとどまるのでしょうか。レバレンド・ムーンは、あの世の霊界に行ってすべての愛の極点にいるでしょう。北極、南極と同じように愛の極点に……。中間でいくら探しても、いくら歩き回ってもレバレンド・ムーンはいないでしょう。いないから「レバレンド・ムーンは地獄へ行った」と言うでしょう。それが易しいことでしょうか。「愛の火だるまのように北極でも凍え死なない」これが素晴らしい理想であり、素晴らしい思想ですか。それならば、すべて成し遂げました。神様も私の中にいます。また世界の人も私の中にみんないます。愛の相続を受けるという人は、私の一族です。それは気分が悪いですか。


神様が地獄に行けば、地獄の悪魔まで頭を下げるのです。神様の前には頭を下げるのです。サタンも絶対的な愛には反対できません。神様は地獄に行っても地獄が順応しなければなりません。地獄も神様の所有なのです。神様が行けば、地獄が門を全部公開しなければならないのです。簡単な内容ですが、このすべての存在の作用の原則がこのようになって

いるということを知らなければなりません。


心には境界線がありません。神様を考えてみなさい。神様の心には境界線がありません。それゆえに、神様はどこにでも行けます。神様が天国に行きたければ、天国に行くのです。神様が地獄に行きたければ、地獄に行けるのです。どこにでも行けるのです。それは神様の心の中に境界線がないという意味です。


服がいくら良くても、死刑場に行く時に着る服はこの上なく嫌なのです。しかし、いくら良くない服でも、妻が愛のみ手を通して作ってくれた服は、限りなく光るのです。愛という内容を中心としたすべてのものは、神様がどこでも歓迎するという結論が出てくるのです。地獄に行っても愛のために地獄に行ったとすれば、神様もそこに共に行くことができるのです。ここに愛の地獄をぴたっとつけておけば、どうですか。気分が良いですか、悪いですか。地獄でも、愛の地獄ならどうですか。地獄に行っている人が「この!」と、このようにしていても、「愛の地獄!」とこう言えば、「ほう」と言うのです。それ、分かりますか。そうなると思いますか。


愛する人のために監獄に入っているのであれば、そこは監獄ではありません。愛する人をもっと光らせ、もっと深く因縁を結ぶようにしてあげる場所になるのです。それゆえに、真の愛というものは、高さは神様まで、深さは地獄まですべてコントロールできるというのです。それでは、この愛は人の世界でのみできるのでしょうか。違います。万物世界、すべての動物世界もそうであり、地もそうであり、植物もそうであり、すべて愛の歌は好むのです。

皆さんが朝起きた時、鳥がお互いに愛する歌がいいですか、闘う歌がいいですか。愛する歌がいいのです。この宇宙では、真の愛をもった所には境界線がありません。境界線がなくどこにでも通じることのできる内容があり、神様と地獄までもコントロールできる内容があるために、どこでも境界線を押し倒していけるそのような力があるという事実を皆さんは知らなければなりません。


愛が宇宙を存在させる柱になったのと同じように、これが地獄を成す柱になっているという事実を知らなければなりません。このようになったのを直すのは、どれほど大変でしょうか。何百パーセント強い漂白剤で細胞をすべて洗っても、これが根源になっているので、また染まるのです。


七百五十一
 
真の愛の力だけが一〇〇パーセント一つにできます。「真の愛」と言えば、神様も「うん」と、地獄にいるサタンも「うん」と、世の中もすべて「うん」と言うのです。何の力が一つにさせるかといえば、真の愛の力が一つにさせるのです。「先生のその話は違います」と言う人がいますか。


高の頂上の神様がいらっしゃる所と、地獄のもどん底にいる人間世界の間に、ケーブルカーを置こうというのです。そのケーブルカーの綱は何の綱ですか。お金の綱はすぐに全部切れてしまうというのです。お金の綱では駄目です。では、知識の綱でできますか。権力の綱でもできません。上下を超越した愛の綱をもって、その綱にケーブルカーを連結しなければなりません。


クァンデノルゥム(注:陰暦一月十五日にする全羅道の民族祭り)とは何ですか。クァンデは遊んだり踊ったりするのです。その時に行って踊ることができなくても、リズムは取らなければなりません。「ああ、統一教会の教主としてそれにリズムを取れば地獄に行く」というそんなつまらない神様ではありません。神様は、とても傑作な神様なのです。神様がそのような犬の足のつめより小さく、ありの前足のように心が狭い神様ではありません。口を開ければ空気をすべて吸い込んでも余るほどの偉大な神様であることを知らずにいたのです。


神様の摂理から見ると、霊界に行っているこの人たちはみんな地獄に送って、その残りの人だけ救援摂理をするでしょうか。神様が真の意味の愛であられるならば、その愛の限界はどこでしょうか。このように反問すれば、その地獄の限界線まで越えた救援摂理の完成を願う神様ではないでしょうか。このような答えが出てくるようになるのです。 人間の心は固い石ではなく、氷なのです。そこにはありとあらゆるがらくたが一つになって凍りついたというのです。これを溶かして、がらくたはみんな片づけてきれいな氷の塊を作ろうというのです。きれいな水で氷の塊を作って神様が召し上がることのできる氷にしようというのです。「氷の中にはサタンが好むことのできる氷があり、神様が好むことのできる氷があるが、神様が好むことのできる氷になってみよう」と、そのような考えをしてこそ、地獄の氷の塊から天国の氷の塊

に復帰できるのです。


六) 天国と地獄は自らが選択する

天国へ行くか、地獄へ行くかは自分自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのでなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言いたい時に感謝していけば天国だというのです。


神様は猜疑心や嫉妬が深くて地獄をつくったのではありません。偽物が生じたので、偽物を処理する処理倉庫として地獄をつくったのです。誰がごみ箱を先に作って家を建てるでしょうか。キムチを漬けようと良い白菜を買ってきたのに、漬けてみると虫の食ったくず葉のようなものが出てきたので、ごみ箱に入れるようになるのです。堕落は人間始祖が犯しました。それゆえに、これを蕩減して罪を清算するためには、真の父母の資格をもってこそ可能です。


七百五十二
 
今まで人間世界に生まれた人には、神様が救うことのできる条件が一つもなかったので、みな地獄行きでした。虫が食べてうじがくっついたので、豚にでも食べさせて、ほかに使おうかと思って仕方なくもっていって保存した所が地獄です。地獄と楽園があるのです。このように言えば、天国は空いているという話を実感できます。


堕落の血統を受けて生まれたその日から今日まで、全世界の人類が心を尽くして神様に侍った一日があったのかといえば、ありませんでした。堕落する前に私たちの先祖アダムとエバは、創造理想を通して育ちましたが、心情の因縁を立てて神様に侍ったことがなかったというのです。


地獄とは何ですか。神様の愛と血統と生命、神様との因縁がないことが地獄です。いくら地上でよくやり、いくら地上で努力したとしても、神様を中心とした天国とは関係を結べない地上世界になりました。これが地上の悲惨さであり、悲痛だというのです。


神様の恨とは何ですか。心情を中心として神様に侍るべき人間が、侍ることのできない位置に落ちたことです。心情を中心として侍られるべき神様が、侍ってもらえないのです。信じる者がいないことが恨ではありません。神様を知る者がいないことが恨ではありません。心情を通して神様に侍り、心情を通して神様に対することのできる人がいないことが天と地の恨です。


自分を憎まなければならないのです。この体を憎まなければなりません。私の体に怨讐の血が蠢動するのですが、これを刀で切ることもできず、燃やすこともできない私自身で

あることを知らなければなりません。神様の保護を受けることのできない位置に立って、万物を消化して消耗する消耗工場になっているという悲痛な事実を知らなければなりません。


天国と地獄がどこから分かれるかといえば、聖書をよく知り、弁がよく立つことによって天国と地獄が決定するのではありません。実績と心情が問題になるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線に左右されるのです。


あの世に行くようになれば、愛の理想に符合できる素性を訓練して備えることができなかった時には、反発作用が及んできます。誰かが「地獄に行け」とは言いません。それゆえに、聖書では「怨讐を愛しなさい」と言いました。真の愛は、怨讐にその愛が及んで一次、二次、三次、四次さえ過ぎるようになれば、怨讐は必ずなくなります。このような偉大な力をもっているので、イエス様も「怨讐を愛しなさい」と言ったのです。


七百五十三
 
人間が地獄で死んでいくのを見れば、神様は永遠に生かしてあげようととても気をもむのです。そうであってこそ天の父母の立場で責任を全うするのであって、「えい!みな掃き捨てよう」と言えば、父母の立場に立てないのです。それゆえに、地獄まで解放しなければならないという論理が成立します。 息子が自分を生かすために気をもむ父母の情景を見れば「私のお父さん、お母さんが私のためにあのようにしているんだなあ」と思い、計り知れない罪をすべて悔い改めるようになります。そのようなお母さんがいて、お父さんがいるならば、その子女は骨が溶けてやせるほど悔い改めるようになるのです。父母によってそのようにすることができる道が生じるというのです。


サタンも人類を救援しようという神様の愛の前では讒訴できません。父母の愛を通して悔い改める者を許せないという道理はありません。そのような心情を通して地獄までも解放しなければなりません。それが真なる孝子として行くべき道ではないでしょうか。それで、統一教会では地獄までも救援してあげると主張するのです。なぜでしょうか。それは神様がそのような方であられるからです。


地獄という所は、一度はまれば永遠に脱け出せない所です。それでも、皆さんは自分のお父さん、お母さん、そして親戚が地獄に行くということを実感できません。ただ「どうにかなるだろう」と思って、それでおしまいです。しかし、愛する父母が本当に地獄に行くと考えてみなさい。この世の監獄にさえ入るとなると、泣いたりわめいたりしながらありとあらゆることをしてでも引っ張り出そうとするのが人情であるならば、まして天情によって結ばれた息子、娘が、自らの父母と親戚、兄弟と姉妹が永遠に出てくることのできない監獄に行くということを知れば、そのような考えをするでしょうか。


三 霊人と地上人の関係
一) 霊界は善の霊界と悪の霊界に分かれている


今まで霊界に行った霊人たちは、みな分かれています。霊界では横的には通じません。

縦的にはこの程度で通じるのです。 霊界は二つの群れになっています。霊界はサタン世界と神様の世界になっています。霊界のサタン世界から善なる神の世界へ早く行ける道さえできれば、地上は自然に解決するのです。その道はどのようなものですか。霊界のサタン世界に行ってサタンの個人、サタンの家庭、サタンの氏族、サタンの国をすべて神側に引き継ぐ秘法さえもてば、それが可能だというのです。霊界にそのような時が来れば、地上にもそれが反映されるので、すべての変遷が速く、その世界へ転がって越えていくというのです。


霊界がどのように発展し、どのように動いてこの地上と関係を結んでいくのかという全般的な内容を知らなくては、霊界をはっきりと知ることができません。霊界といえば、善の霊界と悪の霊界、このように二つに分けることができます。その世界は実在する世界です。地上世界の人には分かりませんが、そこは確実にある世界だというのです。


霊界は、様々な部類の役事をもっています。ところが、その霊人たちは思いのままにここに来て仕事をすることができません。遮られているというのです。それで、宗教によって橋を架けないと特定の人以外には再臨できません。ユダヤ教の中でも派閥が生じました。霊界から降りて来る時、その主流が直線ではありません。ユダヤ教の別の系統が精誠を尽くせば、その主流が移されて行ったり来たりするというのです。

七百五十四
 
ですから、霊界にいる人が降りて来るには、直線に該当する人以外には降りて来ることができないというのです。再臨の役事の協助ができないというのです。そして一世紀がたてば、その人も霊界に行くのです。霊界に行って次の時代に来ようとすれば、やはりこのような原則で降りてくるのですが、特定の霊人

以外には降りてくることができないのです。


霊界の塀はだんだん多くなります。ますます複雑になります。その次の世代がみな霊界に行くのです。それで、ますますこれが大きくなるのです。これがすべて壁です。今の時は世界的時代です。どんなに複雑か考えてみなさい。ここでこれを探してこようとすれば、どんなに回りに回ってこなければならないのか考えてみなさいというのです。ですから時になったら塀を押し倒さなければならないのです。霊界から降りてくる道と入る道をつくっておこうというのです。これを統一教会がするというのです。


神様の本然の理想世界、本然の人間が行くことができる理想的な善の圏に向かって行くにおいて、善霊はそこに前進しようとし、悪霊はそこをふさいでいるのです。悪の霊界と悪の世界というのは、いつでも通じるのです。いつでも連絡がつきます。善霊は悪の世界で対立して反対される位置で生きた霊です。それは宗教を信じて逝った霊人です。


霊界でも、善の霊人と悪の霊人が闘争しているのです。霊界にも闘争があるというのです。善霊は悪霊を先導して、良い所に行けないようにするのを遮ろうという闘いを続けています。サタンを中心として悪霊が連結しているのですが、その悪霊の統治圏内に今日地球の人間が生きているのです。なぜでしょうか。今まで逝った先祖は善霊でも悪霊でもすべて霊界に行っているために、その善霊も堕落した世界と区別されたという条件をこの地上で立てて善の方に立っているだけなのであって、神様が御覧になる時、完全な善の位置に立っていないというのです。


あの世に行けば人を殺した者、殺された者、もろもろの人が一箇所に集まっているので、そこでは刃物で相手を脅かしたり、復讐しようとすることも起こるのです。ですから、数多くの塀でふさがっているのです。それゆえに、悪霊が怨讐の子女を訪ねていって事故に遭わせて連れていったりするようなことが起こるのです。これをすべて解かなければなりません。これを解くためにはまず地上世界で解かなければなりません。解くにはもっと良いものを与えなければなりません。死ぬことよりもっと良いもの、怨讐関係になったことよりもっと良いものを与えなければ解くことができません。


イエス様は、この地上において十字架で死んだことだけでも無念なのに、死んで三日間地獄に行きました。それが試験です。人間には死が高の恐怖ですが、イエス様には地獄に行くことが 高の恐怖であるというのです。それでは、イエス様はその地獄で恐怖の主人になったのでしょうか、でなければ幸福の主人になったのでしょうか。イエス様には地獄に行って三日間苦痛を克服するための試練がありました。


七百五十五
 
何をもって霊界を解放して、神様を解放するのでしょうか。このような関係は人間の先祖が成し、天上世界までめちゃくちゃにしたので、子孫は先祖の過ちを償わなければなりません。真の孝子になろうという子女なら、父母が負った負債を返さなければならないのです。そのような意味で霊界にいる先祖のふさがった塀を崩す運動をしなければなりません。そうすることによって先祖が訪ねてきて皆さんに教えてくれるようになります。これは夢のような事実です。


二) 霊人たちの霊界での立場

肉的世界はサタンの活動舞台であり、霊的世界は神様の活動舞台になって、いつも行き違いになってきました。これが復帰摂理時代に恨の要件として残っていることは間違いない事実です。これが行き違いになるようにしてはいけないのです。神様を中心とした心の圏と神様を中心として統治を受ける体の圏を準備しなければなりません。生活圏内でこれをどのように発展させるかで、統一基盤の基準が確立されるのです。


統一教会が統一するためには、霊界から統一しなければなりません。皆さん、霊界を知っていますか。私たち統一教会の群れは霊界を知らなければなりません。霊界を統一しなければなりません。霊界を統一することは易しいと思いますか。霊界の統一なしに地上の統一はありません。今日、この地上の闘いは、本当に大変でしょう。地上の闘いが大変です。しかし、霊界の闘いは地上の闘いよりもっと大変です。このようなことを考えると、今日統一教会の食口は、難しいという形容詞を口を開けて言うことができません。


理想を探し求めていく過程で、霊的なものと肉的なものが一つになるのは何によってでしょうか。霊的な世界は霊界で、肉的な世界は地上世界ですが、霊的世界と地上世界を一つにするには、入れ変えなければならないのです。自分の物をもっていてはいけません。すべて与えてこそあちらが来て、また向こうからすべて与えてこそ、こちらがあちらへ行くのです。失った位置へ行くのです。


私たちが今後霊界と肉界を連結させるには、まず世界的な信念の自覚、統一的な理念の自覚をし、世界的に打開するための受難の道を甘受していかなければなりません。このようにするならば霊界と肉界が自動的に一つになり、ここから統一が展開するのです。統一の道を行く方向が決定するというのです。


霊界を統一する前に肉界を統一できますか。できません。それが原則です。それゆえに、先生は霊界を統一するために、肉界にある統一教会の群れを死地に追い詰めるのであり、無慈悲に打ちのめすのです。そのようになれば、霊界は皆さんに協助せざるを得ないというのです。皆さんが悲惨な位置に入っていけば入っていくほど、それを中心として、霊界は霊界なりに団結するようになるのです。皆さんが深い位置に入っていくようになれば、三千万の民族の中に天国圏が展開するというのです。この圏は、以前から地獄に行っている者までも含まれるのです。


七百五十六
 
この世界は悪魔の世界です。悪魔の世界を訪ねなければなりません。皆さんは、いつ死ぬか分からないでしょう。誰でも死ぬのです。死の峠を越えて往来できる基盤を地上に築いていかなければ、地上天国ができないのです。地上天国ができなければ、天上天国はできません。皆さんが霊界に行っても、この地上に思いどおりに来ることができるようにしておかなければなりません。それでこそ地上天国で暮らし、天上天国が成し遂げられてそこで暮らすようになるのです。


あの世は物質世界を超越した世界です。あの世は知識の世界を超越した世界です。時間と空間を超越している世界なので、きのうの喜びがきょうの喜びになり、きょうの喜びがあすの喜びになり得るのです。このように見ると、その本質の世界は、今日、人間世界に生きている私たちが必要とし、重要視する内容を中心としては動かないということです。すべての霊界生活における価値的な中心とは何かということが重要なのです。


私たちは、三時代の使命を完結しなければなりません。霊界に行っている霊人を解放し、今日この罪悪の世に生きている人々を解放し、今後来る後代の人もここから解放しようというのです。このように三時代の解放圏をもってくるのです。これは膨大で途方もないことです。このように夢のような内容が事実として現れれば、どのようになるでしょうか。目がまん丸くなり、口はとめどなく開き、耳はそばだつかもしれませんが、頭は下げるようになるのです。


今日、地上に生きている人が、好きでも嫌いでも誰彼を問わず、みな帰ってとどまる所が霊界です。そこには未開人から文明人まで、歴史時代に生まれて逝った千態万状の多くの人間が集結しているというのです。今までの人類歴史が平和を中心とした人類歴史にできず、幸福を中心とした人類歴史にできず、理想を中心とした人類歴史にできなかったとすれば、霊界に行っている人々はどのようになるでしょうか。どのように統治されるのでしょうか。ここで生きた人があの世に行って突然変わることはできません。「三つ子の魂百まで」という言葉があるでしょう。もって生まれた性格は直すのが難しいのです。


あの世に行っている霊人体は、私たちの今までの生き方と特別に違うのでしょうか。突然に変わるのでしょうか。そのようなことはないのです。ここで生きた、その姿どおりに収穫されていくのです。霊界に行っているすべての霊人体は、結局は地上で生きた人々の霊人体です。そのように見ると、今日この人たちが生きている世の中と、別に違わない世界だというのです。


あの世は、どのように連結していくのでしょうか。あの世においても、現在の立場よりあすの立場が良くなることを願うのは同じです。地上で暮らす人間が生活する中で、きのうよりきょうが良いことを願い、きょうよりあすが良いことを願うのは共通心理です。西洋人でも東洋人でも、過去の人でも今の人でも未来の人でも、誰彼を問わず、現在生きていることよりも良くなることを願うのは共通心理なのです。これは変わりません。霊界に行っているすべての霊人体も、それと同じなのです。現在よりも良くなればよいというのです。地上生活した時よりも良くなることを

願うというのです。


三) 霊人たちの完成も地上人を通さなければならない
七百五十七
 

今まで世界はサタン世界だったので、悪人が国を動かすのに先頭的立場に立ったのです。しかし、善人はその反対にいるので、霊的な天使世界が先祖の善の実績をもった子孫を訪ねてきて協助しようとするのですが、協助しようとするその対象は高い位置の人ではありません。反対の位置にいる人だということを知っているために、高位層だけを考えてはいけないのです。


先生も同じです。生涯へとへとになりながら世界を見回り、家に行けば何も残っているものがありません。そうして見ると、一つだけ彼らの前に植えつけたこととは何かというと、夜が来ても、季節が変わっても、先生を思慕する心だけが大きくなっていくということです。どの国に行ってもその村に真の愛の心を、思慕の心を中心として生活すれば、天使が来て活動でき、善の先祖が来て堕落と関係ない遊び場となって、希望の峰になるというのです。

霊界にいる霊人たちが地上に来るとしても、いつでも来ることができるのではありません。みな一年中の一節気に従って、自分の心の門が合うのです。ある時は皆さんの友達にも良い時があり、悪い時があるのです。心の門が合えば、この地上に霊人たちが来て協助できるようになるというのです。


主流宗教は、すべてイスラエル民族圏を通して行くのではないのです。主流圏をすべて変えて、このように出てくるのです。その霊を通して協助し、再臨の役事をしてきましたが、これから統一教会を信じていく皆さんにおいては、主流宗教圏のすべての権限を平準化させたので、皆さんの先祖がみな、これからは統一教会を信じる人を中心として一つになります。


先祖は、皆さんより先に生まれたから天上天使です。先に造ったのは天使と同じで、私はアダムと同じなので、自然に天上の位置にいる先祖は、今アダムとエバの位置にいる子孫を後援することが原則になるというのです。ですから易しいのです。しかし、地上で築かなければなりません。霊界でするのではありません。心情圏は地上で築くようになっているのです。


過去にアダムとエバを守るべきだった天使は堕落させましたが、今や先祖はそのようなことをしないというのです。子孫はすべてその天使長の息子、娘です。そのような立場で、自分の先祖が来て後援できる基盤になるので、先祖が霊界において讒訴する条件を立てない生活をしなさいというのです。それが原理原則に出ているのです。原理原則に従って生きなさいというのです。生きながら実践しなければなりません。実践すれば霊界が協助するようになっていて、そうすれば必ず発展するようになっているのです。問題はそこにかかっています。


七百五十八
 
さあ、会ったので決断をしなければなりません。何を中心として決断しますか。韓国が生きるか、死ぬかという問題を中心として、神様が願う位置に立って生きるためです。それはこの民族に対する先祖が願う思いであり、神様が願うみ意であり、今日この四千万の民族が願う心であり、私たち後世の者が願う心です。このような歴史的な起点においてこの責任を果たせない時は、すべての先祖の怨声と、現時代の民族の怨声と、後代の子孫の怨声を避けることができません。

皆さんは、皆さんの先祖の中のいかなる先祖よりも、現在この時代の誰よりも、後代のいかなる子孫の誰よりももっと深刻な位置に立っています。そのような哲学をもって生きなければなりません。そのような生活哲学をもって生きて闘いながら身もだえするので、神様が協助するのです。そのようになれば相手が滅ぶのです。理由がありません。コーナーに行くのです。あなたが落ちるか、私が落ちるか。これほど追い込んできました。


文化圏がいくら違うといっても、生命の連結や愛を中心として連結する根本が一つなら、どのようにしようとそれを中心として「私たちは絶対的に一つだ」という概念をもつことが重要なのです。人は「絶対的に一つ」という概念が重要です。日本人も、韓国人も、中国人も、西洋人も、絶対的に一つです。それで、現世に生きている地上人も、霊界に行っている数多くの霊人たちも、すべて根本は一つです。出発して、結局は霊界に行ってとどまるというのです。


横的な面において自分の先祖がみな来て、先祖が橋を架けてくれるのです。先祖は天使長であるがゆえに、再創造するのに協助して真の父母の愛の因縁に従って上がっていくのです。地獄にも、門が開いて天上世界へ上がっていくことができる道があるがゆえに、自分たちが教育を受けて……。

自分の父母、先祖が天使長でしょう。しかし今は、神側を滅ぼす天使ではありません。堕落した世界を滅ぼす天使、蕩減復帰の原則によって反対の立場で、昔と違って天を滅ぼす位置ではない神側の天使長の使命を果たして、自らの子孫、アダムと同じ立場の者を協助してあげるのです。霊界にいる霊人たちが協助する、そのようなことが起きるのです。そのようにすることによって、その霊人たちも地上人のように越えていくことができるのです。


霊人たちは、現在の自己の位置で解放されようとするなら、地上人を通さずには苦痛を免れることができません。また犯した罪を脱ぐこともできないので、自分が生きた所に必ず訪ねていきます。自らの血縁や関係のある人に訪ねていって信号を送ります。


霊界に行っても来ることができなければなりません。しかし、地上に天国を成せなければ、地上に来ることができないのです。これは妄想ではありません。そのようになるのです。永遠にわたってしなければなりません。先祖がみな責任分担と蕩減条件に引っ掛かり、霊界に行って、行くべき道を行くことができずに、地上に再び降りて来て蕩減するのと同じように、その道を皆さんが残してはいけないというのです。原理のみ言が事実なら、皆さんはそこに引っ掛かるのです。


先生が皆さんに厳しい生活をさせ、苦労させることは皆さんが憎くてそうするのではなく、皆さんを生かしてあげるためにするのです。すべて皆さんを生かしてあげるためであることを知らなければなりません。皆さんを生かしてあげるために苦労させるということを知って、有り難く思わなければなりません。そうすれば天の心情世界、新しい心情世界が展開するのです。そのようにすることが順序

 


七百五十九

 


です。そのようにして心情的紐帯をもってこそ、天の命令ならばどこでも飛んでいくことができるのです。世界を引っ張っていく機関車のような責任を果たすといえば、霊界が協助します。そのような考えをすれば霊界が間違いなく協助します。


皆さんは霊界に行くのが良いですか。地上の皆さんが霊界に行くという心と、霊界の人が地上に再臨するという心のうち、どちらがより切実でしょうか。原理的に見ると、皆さんがもっと熱烈でなければならないでしょうか、霊界がもっと熱烈でなければならないでしょうか。霊界は天使長の世界で、ここはアダムとエバの世界、息子、娘の世界です。息子、娘がもっと熱烈でなければならないのであって、僕がもっと熱烈でなければならないのでしょうか。

皆さんが霊界を協助するようになっていますか、霊界が皆さんを協助するようになっていますか。霊人が協助しようと待っているのに、なぜ待つのですか。地上に天国を成すためのみ旨に協助しますか、皆さんが豊かに暮らそうとすることに協助しますか。地上に天国を成すためのみ旨に協助するのです。


霊界を中心として見れば、悪霊がいると同時に中間霊がいて、善霊がいます。蘇生、長成、完成の三段階にとどまるのです。三次七年路程が連結することによって、善霊が地上に連絡できる道が生じるというのです。そのようにする以外にはありません。蘇生、長成圏がサタンの主管圏内にとどまっているために、悪なる勢力の版図圏内にいる悪霊が主導的な役割をしながら世界をすべてこのようにしてきました。 これからは霊が交差し始めるのです。交差する時は、霊界が降りてくるのですが、悪霊から降りてきます。交差する時は、中間霊界を越えて善の霊界へと越えていく時です。これを越えていく日には、善霊と善人は上がっていき、悪霊と悪人は下りていくのです。今までは善悪がお互いに上がったり下がったり交差しながら、混ざって出てきましたが、これからは善と悪が完全に分かれることのできる新しい次元の時代へ入っていくと見るのです。


人間が知らない霊界の霊人を動員して証させることのできる基準が、「私」に立っているかが問題です。霊界もそのようなことを要求しています。霊界は神様の心情を知っているので、地上でそのような人が訴えれば、霊人たちを動員して天国理念の実現のための地上のみ旨に協助するようになるというのです。霊界の霊人たちがこの地上に来ることができない原因は、この地上が嘆きの垣根になっているからです。


これから皆さんは祈祷してください。「先生のみ言とともに、善霊は再臨して、この地上にいる悪の子孫を、善のあなたの懐を通して天国に導いてください」と命令すれば、その命令が可能な時代に入るというのです。私たちはアダム時代圏内で生き、霊人たちは天使世界圏内で生きるので、アダムのために天使が協助すべき原理原則があるので、動かざるを得ないという結論がしっかりと出てくるのです。


760 * 七百六十
 
早朝起きてその町内のために、自分が引き受けた責任地域のために祈祷しながら涙を流さなければなりません。その道は心情的でありながらも、また霊界と霊的な因縁を結ぶ道です。神様が町内を見下ろせば、みな地獄に行くしかない人間なので、涙を流さざるを得ないのではないかと思って、神様の代わりに自分が涙を流すということを自ら感じるというのです。神様の心情で涙を流せる共鳴力が生じれば、霊界が総動員するのです。


皆さんは伝道ができない時にも伝道をしなければなりません。石を海に投げるのと同じです。それで海水をすべて埋めて、山になるまで果てしなくするのです。そうすることによって、私が心情的に成長するというのです。体は何も変わらないけれども、心情が育つというのです。


今までの六千年の歴史は、アダム一人を探してきた歴史です。アダム一人を再創造する歴史です。それゆえに、皆さんは先生についてこなければならないのです。エバはアダムが出てこなければ創造できません。それゆえたった一人のアダム、たった一人の男性を創造するのです。その一人を創造するためには、復帰摂理の途上に生まれて逝った数多くの人々の血と肉が材料にならなければなりません。億千万の霊人たちの怨恨がここに一つにならなければならないのです。そして、この実体が登場する日に初めて、激しい迫害の中でも血を流して死んでいった殉教者は、苦労した甲斐を感じるようになるのです。

たとえ霊界にいるとしても、地上にいる実体と関係を結ぶことによって、自分たちにも解放が来るのです。このようになっています。それが観念的に漠然としていてはなりません。

この自覚をどのようにするかが問題です。 私たちは、横で誰が何をしようと、食べていようと、休んでいようと関係なく、その道を行かなければなりません。前には、数千名が一様にみな行っているというのです。ひもを引きながら休まずに精誠を尽くして苦闘しながら行けば、他の人もそのひもを巻き上げてくれるのです。そのようにしながら、多くの人々がそこから落ちることも感じるように

なるのです。


マラソン大会をするのと同じです。走ってみれば一等もあり、二等もあるのです。歴史がそうです。今まで数千年間、数多くの霊人がそのひもを結んできました。その中で一等であの世に行って、その巻く装置と因縁を結んで丸ごと巻き上げれば、霊界と肉界が復帰

されるのです。


四) 霊界の協助と確信

今や霊界がこの上なく近い距離に来たので、善の霊人たちが地上に定住する時代が来たのです。来て暮らすというのです。今まではサタン、悪魔が地上をすべて分轄して主管してきたのです。しかし、これからは善霊がその地域を奪って主管するのです。そのために統一教会の食口が涙を流して、血の汗を流して精誠を尽くさなければならないのです。キリスト教が精誠を尽くした以上、イスラム教、仏教、どんな宗教よりも、私たちは切実な心情をもって祈祷しなければならないのです。「あなた方を中心として地上に実体基盤が復帰されたので、霊的基盤を中心とした霊界圏を通して統一教会は前進しましょう」と祈祷するのです。

七百六十一
 

霊界に行っている人々も、私たちを通じてこそ救われるということは知っています。ですから、霊界に行った人々のために与えれば、霊界の恵みが皆さんを訪ねてくるのです。そのように霊界のために蕩減してあげ、悔い改める人になれば、その霊界が皆さんに従ってくるというのです。霊界が皆さんを中心としてすべて動いていくというのです。蕩減と悔い改めがこのように重要だということを知らなければなりません。


霊界は境界線がないので、霊界の領域は終わりがないのですが、どこに行ったとしても「私が協助した。あなたがそこの責任者だった時、その時代に行って協助した」と言うのです。みんな友人です。一つの時代圏内に立っている同僚者になるのです。先生が話すように霊界が動員されなければなりません。霊界が動員されなければ、どのように天国を形成するのでしょうか。形成できません。

天国は真の父母から始まるようになっているのであって、今までの堕落した子孫によって始めるようにはなっていません。アダムを創造する時、天使世界の協助を受けたのと同じように、再創造も霊界から降りてきてすべて地上に協助しなければなりません。そうでなければならないようになっているのです。原理がそうではないですか。復活原理がそうでしょう。復活原理がそのまま結果に現れてこそ「真」と言うのです。ですから、霊界が先生に対してどれほど喜ぶでしょうか。


強い信念だけしっかりともっていけば、皆さんの先祖がお母さんや、親戚の誰かを押さえてどうすることもできず、口がきけないように圧力を加えるというのです。「私の話を聞きなさい!」と言うのです。なぜでしょうか。堕落した悪霊は退いて、善の圏内の本然の氏族的基盤を中心として、父母と連結できる国家的基準まで連結した御父母様と世界的基準までサタンを押してきたすべての基盤の上に立ったので、サタンを退けて天使長型の霊界にいる皆さんのすべての先祖が協助するようになっています。

霊界にいる皆さんの先祖もこの世を見下ろしながら、誇らしい子孫に協助したくて地上に降りてきたいと思っているのです。それで、多くの先祖が皆さんの周囲に降りてきます。これが氏族を中心とする宗派を超越した宗教世界です。理解できますか。皆さんの先祖が皆さんを信じて、皆さんを愛しながら皆さんについていきたがるのです。それで、皆さんに協助するために献身したがるのです。


今日、地上では統一教会に入って祈祷すれば、一週間以内に先祖が現れてすべて教えてくれます。そのような位置に入ったのです。それはどういうことかといえば、今まで宗教が世界的な版図を築いて、心情的紐帯によって縦的な行路を築いてきたのですが、それを世界的な横的版図に広げておき、この世界の果てまで連結しておいたので、霊界に行った先祖が氏族を中心として初めて地上に再臨して協助できる時代になったのです。

七百六十二
 
ホーム・チャーチがそのような世界的な版図を縮小させた基盤です。それで、善霊がどのようになりますか。以前は来て協助して帰りましたが、今は地上に定住するのです。そのような時代に来たというのです。定住、分かりますか。定住といって先生の故郷の定州(注:韓国語で定住と定州の発音が同じ)ではありません。霊界に行った善霊が初めて定着して暮らすことのできる時代に入るという話です。それで、皆さんが統一教会に入って活動するのですが、善の先祖が皆さんと共に暮らしながら協助します。それゆえに氏族復帰が可能なのです。


世界的な時代に入った皆さんは、個人的な立場にあったとしても、世界高の聖人と連結しているので、必要とする時、彼と同じ心性をもって、彼と同じ心的な生活をした人には、どこでも縦横無尽に協助できる基盤が霊的にできてくるというのです。それで今、統一教会の動きに伴い、全世界の各国の愛国者は、統一教会の基盤を中心として、その背後に囲いを巡らしてすべてこの地上に再臨し、定住しています。

これは部隊でいえば、その国の民族の何十倍、何百倍にもなる人々が死んでいったのではなかったでしょうか。その人々が来て陣を張って拡大工作を待っているというのです。それゆえに、すべての宣教師は国家的な運動をして総動員し、霊界と共に全体を代表し、犠牲を覚悟して総進軍命令を下せば、その霊が協助するようになっています。


今までの宗教は霊界と肉界を連結させることができなかったので、霊的な精誠を尽くして縦的な面に拍子と波動が合って初めて接触できましたが、今はその放送局自体に入りました。振動盤のような位置に立ったというのです。波動ではなく、波動を起こす送信機自体だというのです。

ここで何千周波数にしようが、何十周波数にしようが、短波にしようが、くっつければ波長、電波をすべて出せます。私が放送局をもったので「霊界にいる私たちの先祖が来て、私に協助してください。善の先祖よ、来て協助してください。そのようなバイブレーションが必要です」と言えば、さーっと来て……。個人を呼んでも動かすことができ、家庭を呼んでも動かすことができ、氏族圏、民族圏、世界圏を中心として連結させ得る踏み台が地上にできてきたので、それが動いて降りてくるというのです。

このようになれば、今まで私の体は、このように行こうとしたのですが、我知らず回ってみんな引っ張られていくのです。二つの霊人体が来て一つをつかんで引っ張れば、自分自身はそのつかんだものが分からないので引っ張られていくのであって、仕方ないでしょう。一人で走って入っていくのです。皆さん、それを信じますか。これは空論ではありません。理論的です。


統一教会が動けばマホメットが協助し、儒教、仏教の代表者がみな協助し、神様も協助するという話は理論的だというのです。ですから、私は人類を代表し、霊界を代表し、神様を身代わりしているので、全体が協助する立場で動くという自負心をもたなければなりません。


今まで御父母様に対して霊界が支持できず、協助できない理由は、完成した父母の位置には堕落した霊界が協助できないというのです。本来、原理がそうでしょう。完成した父母の位置であるということは、神様と堕落しない天使長が後援するようになっているのであって、サタン圏内にある霊がいくら多くても父母を協助できないのです。

七百六十三
 
今霊界に行っている霊人は、真の父母を通して生まれずに偽りの父母を通して生まれたので、真の父母を協助できないのです。しかし、天使長が失敗したすべてのものを蕩減し、子女の位置でアダムとエバが育つそのような立場にはいくらでも後援できるようになっています。それゆえに、霊界が協助することによって、世の中がだんだんと遠からず崩れて

いくというのです。


五) 流離する霊たち

皆さん、霊界がどれほど大きいか知っていますか。霊界にどのくらい多くの人々がいるだろうかと、考えたことがありましたか。今霊通する人々が言うことを聞けば、一人当たりに三千三百二十余名ずつ霊人たちがくっついていると計算しています。私たちの側にそれほどいると考えると、世の中に負けるでしょうか、勝つでしょうか。


人は百年も生きられないことを考えると、五十億の人類の中で一年に五千万人が霊界へ行きます。地獄に行くのをどうしますか。サタンが蒔いた種をすべて天に収めることを神様が願うのに、これが遅れれば遅れるほど、どのようになるでしょうか。今まで四十年間にどのくらい地獄に行きましたか。数十億人が行ったのです。深刻なのです。あの世に行って霊に会い、「先生が在世当時に私たちに対して責任を果たせなかったではないか」と言われれば、何と言いますか。心からでもしなければなりません。心からでも食口に話して、未来に対しても責任を果たすという行いを中心としていけば、「あなたは驚くべき方です。私たちのことを考えてくださいました」と言うのです。 今も一日に六万名が死んでいます。今一年に二千万名が飢え死にしているので、一日に六万名です。六万名が死んでいくのを父母、子女、兄弟たちが見れば、胸を痛めて痛哭する事情が起こっています。ところが、真の父母が同情せず、それに対する対処をしなければ、地上で在世当時に自分たちと共に生きたという条件が怨恨になります。

飢え死にする人よりもっと哀れな者たちが、神様を否定する人々です。飢え死にする人は、あの世に行くようになっても、自分の善意の道理に従った級がありますが、神様がいないという人は、霊界を否定するので踏み台がありません。霊界で雲の塊のように漂います。さまよう霊になるのです。雲が集まって雨が降るのと同じように、集結してすべて悪い影響を及ぼすのです。ですから、みんな地獄に行って地獄を困らせるのです。そのようなことを十分に知って、彼らを生かしてあげなければならないのでこのことをするのです。


四 先祖と私たち 一) 私たちは先祖の結実体

皆さんはみな先祖の代わりとして生まれてきた歴史的な復活体です。その歴史がどのくらいになるでしょうか。何十万年になったと言います。そのように長い歴史過程を、結局は「私」一人をつくるために苦労したのです。金氏なら金氏という「私」一人を誕生させるために、多くの先祖が生まれて逝きました。ですから、私たちは歴史的な結実体です。


七百六十四
 
先生は人の顔を見れば、その先祖が良いのか、悪いのか大概分かります。ある人は良い先祖がいて福を受けるかと思えば、ある人は悪い先祖がいて実に苦労ばかりしているというのです。そのような人は伝道しようと任地に行っても、ひどく苦労ばかりします。


皆さんが基準を立てて統一教会と歩調を合わせていけば、霊界にいる国家的な運勢に従って動いた善の霊人や先祖が、皆さんのために仕事をすることでしょう。皆さんは外的に見ると顔が平たく、耳がぐっと入って不幸せに見えるけれども、霊界では皆さんを福を受ける人だと考えます。また、十代圏内にある先祖は気をもんでいます。なぜなら、復帰歴史は十代圏を中心として成されるからです。ところが、万一悪い子孫が現れれば、十代圏内にいる先祖が「こいつ!お前が私たちを

滅ぼそうとするんだな」と言って審判します。


イエス様が地上へ来られることによって、それ以前の善の先祖が霊形体級の霊界から生命体級の霊界に入っていくことができたように、皆さんの先祖も地上にいる皆さんを条件にして再臨できる特別な恵沢圏内に入りました。皆さんがこのようなみ旨を知って勝利の枝になれば、一つの生命体を成し遂げることのできる立場なので、皆さんの先祖が皆さんを協助するのです。このように皆さんは、数千代の善の先祖が再臨できる基盤にならなければなりません。


霊界に行くようになれば、多くの預言者、烈士たちと多くの先祖に会って討論するのです。「あなたはどこから来ましたか。地球のどこですか。どこの国ですか。どこですか」と聞いて回想して言うのです。友達同士が会えば自分の昔話をするでしょう。霊界に行くようになれば、皆さんの初のおじいさん、数千、数万の先祖に会うようになります。ところが、「この者たち、どのように生きたのか」とぞんざいな言葉遣いをすれば気分が良いでしょうか。考えてみなさい。


今は、私たちを協助してこそ自分たちが福を受けるようになっているのであって、反対すれば反対するほどますますどん底に落ちていくのです。天運が急変していきます。今後、家ごとに先生の写真を掛けようと大騒ぎするでしょう。霊界で自分の先祖が忠告するのです。それで旗を掲げ、先生の写真を掛けてその前で毎日のようにあいさつする人は、自分の先祖を復活させることができる役事が再び起こるのです。


今まで、入り乱れた数多くの霊界に通じる霊人たちは、「統一教会に行くな」と言いました。しかし、これからは釈迦、イエス様、孔子、マホメットも統一教会に行けと教えてあげなければ、天法に引っ掛かるのです。なぜでしょうか。先生が言う宗教は、父母の宗教だからです。


七百六十五
 
「私たちは、真の父母によって新しい血統の代を継ぐことのできる先祖になることによって、解放圏が広がる祝福を受けた氏族になったのです。この氏族は永遠不滅の神様の眷属であり、血族になりました」このようになれば、サタンと完全に決別です。それで、統一教会は先祖を祭ることを認めるのです。 キリスト教が祭祀を行うことを認めましたか。統一教会は、今やその伝統を引き継いで打ち立てなければなりません。これはこの世の伝統ではありません。天の父母、天国、天の先祖に侍ることによって、その継代を継ぐ氏族的メシヤ圏、伝統的な血族を千年、万年侍ることのできる王土になるのです。王に仕えて永遠な太平の世を導き得る国になるのです。その国で暮らしてこそ皆さんのお父さん、お母さん、一家、一族が天国に直行するのです。


皆さんが祈祷して霊界と通じてみれば分かると思いますが、霊界では子孫を天の前に近く立てるために、どれほど努力しているか分かりません。ところが、ここでは先祖にでも悪口を言って私だけ満足に生きようとしています。


二) 先祖の救いは私たちがする

先祖が住んでいたこの家の中に、自分のひいおじいさん、ひいおばあさんが暮らした部屋に、おじいさんを産み、お父さんを産み、私を産んだその部屋に、おじいさん、おばあさん、ひいおじいさん、ひいおばあさんが愛した愛より大きな愛を残すことによって、天が見れば、愛の光がぴかぴか光るというのです。百ボルト、千ボルト、一万ボルト、何億ボルトの光をずっと照らすというのです。その照らす光がどこに行くのかといえば、先祖、先祖、先祖に上がっていくのです。霊界に行くようになれば、神様を中心とした天国に行くのです。その天国が本来、私たちの本然の故郷です。私たちの本来のお父さんが神様でしょう。


あの世のすべての先祖が皆さんの生き方をすべて見ています。隠す所がどこにもありません。先祖がすべて見ているというのです。霊界に行くようになれば、壁もすべて通じるのです。地球もすべて通じるというのです。そのような世界に行って永遠に生きなければなりません。神様の愛の対象として創造された人間であるがゆえに、神様が永遠であられるので一つの愛の対象になる存在も永遠に必要だというのです。神様が永遠であられるように私たちも永遠だというのです。愛の相対がなくては永生がありません。


霊界が私の手に懸かっており、親戚が私の手に懸かっており、親戚だけでなく国が私の手に懸かっており、今後来る子孫の前に正しい伝統を立てておかなければならないということも私の手に懸かっています。これをいつも考えなければなりません。皆さん自身一人一人が正しくできるか、できないかによって、霊界に行った皆さんの先祖も解放でき、皆さんの親戚も解放でき、皆さんの子孫は解放の選民として策定されるのです。


皆さんはいつでも「三時代を代表した私だ」と考えなさいというのです。ですから、霊界が私の手に懸かっているというのです。皆さんの先祖が皆さん自身に懸かっているというのです。過去、現在、未来をすべてこのように集めて、二つを重ねて引っ張っていけば走ってくるのです。そのような使命を果たさなければなりません。


七百六十六
 
今から世の中が急変します。悪なる人が事故でたくさん死ぬというのです。我知らず死にます。今は蕩減がありません。即決処断時代が来るのです。しっかりしなさいというのです。誰がするのですか。悪魔に蕩減させません。自分の先祖が処理します。今現在祝福してあげたその基準は水平になっているのですが、ここから落ちていきそうになれば、霊界に入れば落ちないので、失わないためにも連れていかなければならないというのです。そのような時代が来るのです。先祖が薬をくれ、病気を与えます。先祖が「真の御父母様の写真を置いて侍りなさい」というのです。


天地が願う以上の切実な心をもって協助を受けなければならないのです。みんなそのように行くのです。三代です。三代なのです。自分の先祖が一代、それから自分が二代、息子、娘が三代です。そこに切実な心で縛っておけば、新しく生まれるこの地上の三代圏の子孫が、父母と天上の先祖にまで及ぶようになるというのです。そうでしょう。


この地上に来て協助しようとするなら、自分が先生の母として立つことのできる位置を整えて来なければならないので、今来たと言うのです。皆さんによって復活をするのです。皆さんの先祖までも皆さんによって救われるのです。ですから、積極的に後援しようとするのです。ですから、その部落で休まず仕事をしなければなりません。


皆さんが一つの鉄則として知らなければならないことは、その地方で生まれた忠臣、愛国者、孝子、教会の牧師たちが尽くした精誠以上に精誠を尽くさなければならないということです。それ以上精誠を尽くしさえすれば、彼らがみな協助するというのです。それが条件です。そうすれば、サタンの讒訴圏以上の位置に立つようになるのでサタンが反対せず、霊界の協助によって皆さんの先祖が、皆さんの子孫に「みんな統一教会に入れ」と霊的に追い込むのです。どのようなことが起きるかといえば、皆さんのおじいさんが協助しようと現れてみんな伝道するというのです。


お手洗いに行って座っていれば、霊界では「お前はきょう、何々をしなさい」とプログラムをすべて教えてくれるのです。そのようなすごい事実が起こってくるのです。ですから、街頭にいれば関連する人々は、あらかじめ霊的にすべて連絡がついていて、会う事実がいくらでもあるのです。ですから、霊界の協助を受けなければなりません。霊界の協助がなければなりません。皆さんも今や先祖が協助するようになっているのです。堕落していない圏内の世界において、アダム完成圏を天使が保護して育て、祝福の位置に行くことができるのです。霊界がそのような本然の使命をすることにより、天使長圏の霊界が復帰されて彼によって地上圏が復帰されるのです。

堕落は天使長がしたでしょう。それで、皆さんの先祖が来て善の天使長がなすべきことをすることによって、皆さんはアダムが堕落しない本然の位置に立って、神様の心情圏内に到達できるのです。皆さんは、そのような道を皆さんの先祖が協助する垣根の中で行くことができるので堕落圏ではありません。本然の心情圏の勝利圏に立ち、解脱圏に向かって前進するのだというのです。それゆえに、天国に直行できるのです。それが蕩減復帰原理にすべて合うのです。先生は適当に言うのではありません。


七百六十七
 
霊界が協助するのです。霊界が協助してその一族、親戚すべて、近い群れをすべて集めて皆さんの前に追い込むのです。このようにすることによって皆さんを中心として霊界が、神様を中心として霊界の霊が降りて来てアダムを取り囲むのです。そこは善霊が囲むために悪なるサタンが侵犯できない圏内となるというのです。それで、その基準を中心として、本然の真の先祖の位置を心情的因縁によって受け継ぎ、新しく植えた基盤ができたので、その基盤を中心として、皆さんの一族のおじいさん、おばあさん、誰彼なしに頭を下げることができます。


今や皆さんの先祖が協助するようになっています。以前は悪い先祖が子孫を利用したのです。しかし、今では善の先祖が降りて来て活躍できる時が来ました。それゆえに、皆さんはそれこそ十字架を背負わなければなりません。氏族圏の十字架を背負い民族の代わりに蕩減し、国家と世界の十字架を背負って、国家と世界のために蕩減するという人がいなければなりません。

世界的理念時代に身を置くことが、国家と民族の希望でしたが、霊人たちは今まで高い位置に立てずに、どん底に押さえられているのです。しかし、世界的恵沢圏内で皆さんが十字架を背負って闘うならば、皆さんによってさっとすべて復活できるというのです。そうすれば、平面的な立場で先祖代々に救援できる踏み台がすべて築かれるのです。それでこそ皆さんの一族の解放が起こるのです。私の話が分かりますか。何の話か理解できますか。


善霊が降りてきて皆さんを協助し、先祖がみな協助するというのです。それで、皆さんも、以前は誰かが統一教会に反対すれば、冷や冷やして震えたりしたことがすべてなくなるのです。今では天下が騒ぎ立てても、心は太平だというのです。心が動揺しないというのです。それはどういうことかといえば、既に時がそのようになったというのです。悪なる霊的な雰囲気が私たちと接することができないのです。善の先祖をもったすべての子孫は、じっと見ると、彼らの心は皆さんが自分の家に訪ねてくるのを喜ぶのです。また来れば何かを貴いものを与えたがるのです。

皆さんは分かりませんが、心にその先祖が協助することによって皆さんがかわいそうな人を助けたくなるそのような心をもてば、皆さんの先祖も恩恵を受けるのです。したがって、皆さんも発展して……。今は再創造時代なのでアダム圏を天使世界が協助したその道理によって、先祖が天使圏であり、アダムの子孫である皆さんを後援し、再創造するのに協助することによって、天のみ旨の前で成長していくことができるのと同じ位置に立つというのです。


おばあさん、おじいさんが死んだとしても私のためによみがえり、お父さん、お母さんが私のために生き返ることができます。真の愛によって、真の愛を中心として「生き返ってください」と言えば「よし」と言って、おばあさんが現れ、死んだお父さん、お母さんに会うことができます。そのような道が真の愛にあるので、おばあさん、おじいさん、私たちの先祖はみんな霊界にいるのですが、「私がこのような難しいことがあるので協助してください」と言えば、さっさっさっとするのです。そのような時代に入ります。教えてくれるのです。

七百六十八
 
神様は私たちの先祖であり、私たちは孫です。ですから「このように告げるので成し遂げてください」と言えば、「よし」と言うのであって「駄目だ」と言わないのです。神様はすべて通じるのです。 霊人たちは霊界で地上人の協助を受けるために、いろいろな方法を動員して地上の子孫を訪ねてきますが、地上の子孫が解決する方法を知らないために、だんだん家運が傾いて、行く道が厳しくなるなどの困難が繰り返されます。地上人の助けによって昇進する霊人たちは、現在の自己の位置からもっと良い位置に移っていくことで自らの生活が楽になり、地上にいる子孫の生活もまた平和になるのです。


三) 祝福家庭と祭祀

統一教会は先祖を祭ることを認めるのです。統一教会は今その伝統を引き継いでいかなければなりません。これが今後、真の父母を中心として反対の立場に立つのです。この世、世の中の伝統ではありません。天の父母、天国、天の先祖に侍ることにおいて、その継代を継ぐ主流思想的、伝統的な血族を千年、万年侍ることのできる王土になるのです。王に仕える永遠な太平の世を導き得る国になるのです。その国で暮らして行ってこそ皆さんのお父さん、お母さん、一家、一族が天国に直行するのです。


先祖が死んだ日になれば、みんな来るのです。そして、先祖のために祭壇を整えて祭祀を執り行います。先生の写真を置いた部屋で執り行えば、敬礼をしても罪にはなりません。餅を作って祭祀を執り行うからといって罪になるのではありません。


選民圏と血統を重要視しなければなりません。選民圏は長子権です。韓国は長子の国です。韓国が族譜(注:家系図)を愛する民族になったのも、すべて血統を受け継いでいくためなのです。先祖を崇拝して先祖に祭祀を執り行うのは悪いことではありません。今後、儒教思想以上に父母を尊敬する時が来るのです。何の話か分かりますか。


おじいさん、おばあさんが亡くなったら墓参りをしなければなりません。神様が墓に埋められたと思って墓参りをしなければなりません。そして、私の一代におばあさん、おじいさんに侍ることができなかった恨をその日に贖罪しなさいというのです。


長子はどのようになるのかといえば、根を深く打ち込まなければなりません。それは誰も抜くことができません。おじいさんも抜けません。叔父さんも抜けません。それゆえに、祭祀を執り行う時はいくら叔父さん、いとこ、八親等、ひいおじいさんがいたとしても長子を先に立てるのです。そのようなことを知っ

ていましたか。


韓国の伝統的な文化背景に先祖を尊重視することにおいて、長子を前面に立てたのを見ると、この民族は長子権を尊重視する民族であ

ったというのです。それは驚くべきことです。


今までキリスト教において、祭祀を行うことができなかったのも一理あります。祭祀は神様と全人類の真の父母が受けなければなりません。上の代の先祖が天でまず侍られなければなりません。ところが、堕落することによって今までは禁止してきましたが、今復帰時代において祝福を受けたので、今後先祖に侍らなければなりません。

 


七百六十九

 


祭祀の日が来れば、祭祀を執り行う時間は長子が決定するのです。ですから、明け方一時にしたのを朝五時にでもできます。朝五時にしようとしていたのを事情によって朝七時にでもでき、昼にでもすることができるのです。誰がそれを決定するかといえば、亡くなったおじいさん、先祖がするのではありません。長子が決定するのです。

亡くなったおじいさん、おばあさんたちも長子が決定した時間に来てこそ祭祀の膳に対することができるのであって、それが嫌ならば対することができないのです。地上が中心ではないですか。地で解けば天で解かれるというのと同じなのです。それゆえに二つが一つにならなければなりません。


先祖を愛しなさいというのです。先祖のために生きることは罪ではないというのです。サタン世界でも先祖のために生きるのに、キリスト教では「先祖のために生きるな」と言うでしょう。しかし、今後天の世界の先祖のために生きて、またさらに「ため」に生きなければならないのです。それで、統一教会は祭祀も認めるのです。キリスト教では「お、偶像なのに……」と大騒ぎするでしょう。しかし、堕落した世界にいる祝福を受けた家庭は、このような伝統を子孫に伝授してあげるべき責任があるというのです。


韓国の歴史は実に見事なのです。祭祀の時には長子の家で、叔父さんも長子に侍って祭祀を執り行うでしょう。神様の摂理の中で長子の民族をつくるための歴史的背景があるという事実を知らなければなりません。このように知っていれば、韓国民族の優越性がどんなものか、韓民族がどれほど偉大なのかが分かるので、皆さんの息子、娘が憶することがありません。このようなことをはっきりと知

らなければなりません。


「長子」と言えば、おじいさんも祭祀を執り行う時は、長子の前でその指揮下に入らなければなりません。尊敬しなければならないのです。長子の血統、その次は族譜(注:家系図)と血統を尊重視する事実、これは神様の復帰摂理におけるその心の根本の根本を忘れることができない記録的な歴史性に代わってきたという事実は驚くべきことです。


アダムの息子、娘がいくら多くても長子を中心として国が連結するのです。そうすれば、その長子を中心として横にいる兄弟たちは広がって氏族になり、国家になるのです。長子が系統を継ぐのです。韓国を見ると長子です。実に驚くべきことです。韓国が偉大で、神様の祝福を受けることができるのは、長子を守ってきたということです。初のおじいさんの息子が長子になれば、ひいおじいさんたちや、おじいさんの弟になる人たちは祭祀の時、長子を中心として侍らなければなりません。長子に仕えてきたことは驚くべきことです。

絶対服従しなければなりません。


770 * 七百七十
 
韓国民族がそうです。長子の歴史、ひいおじいさんも祭祀の時は長子を立てるのです。それは驚くべき歴史だというのです。この話がそうなのです。それより高い血族的な基準、より高い生命基準、より高い愛の基準が関連性をもつようになる時は、神様が願う高の基準として、天を中心とした影響圏を地上に合わせれば、その影響圏に必ず吸収されるので、地上天国に改善することが可能だというのです。これがすべて理論的なのです。妄想ではありません。理論的です。


聖子の道理とは何ですか。「聖子」と言えばこれは縦的です。垂直概念を言います。

「聖人」と言う時は東西南北の横的です。儒教思想もそうではありませんか。「天」といえば天子だけが関係を結ぶと考えませんか。ですから縦的なのです。韓国の礼法を見て驚くことは、叔父さんも祭祀の時には長子を前面に立てます。それはなぜですか。縦的です。

縦が先だというのです。


五 霊界を知らなければならない

私は彼らに、「今や科学が先端に来ているので、霊界と接触できる周波数を研究しなさい」と言いました。霊界の作用はすべて振動によって作用するというのです。振動数を通じて霊界と連絡できる、霊通する人の振動数を発見して霊界を科学的に証することができる時代に入っていくので、「それを研究しなさい」と言いました。霊界に対する内容をずっと説明してあげると、目を丸くしているのです。

それで、きのう心理学の作用が現象世界にどのように関係していて、霊界がどのように関係しているということを話してあげました。

心理学が絶対的な力の作用をするというのですが、なぜそうでなければならないのかという問題について一人しか知らないというのです。


それは電気がプラス・マイナスで作用するのですが、作用するサークル圏内でプラス・マイナスが力を現すのと同様の現象であるということを知りません。それゆえに、これに対する開拓をすれば、新しい次元の世界が… …。未知の霊界を合理的にすべて知ることのできる時代に行けば、宗教時代はすべて終わるのです。人類は「神様を信じるな」と言っても神様を信じることができる時代になります。これが大きな課題なのです。


六 審判 一) 神様には怨讐の概念がない

神様がなぜ人間を創造しましたか。神様が一人でいればよいでしょうか、寂しいでしょうか、喜ぶでしょうか。今日、宗教はそれも解決できずにいます。キリスト教では「神様は大審判主になり、裁判長になって、悪い者は地獄に送り、良い者は天国に送る」と言います。神様が裁判長になれば、神様の資格がありますか。それなら怖い神様でしょう。接したくない神様です。何の神様になりたいと思われるのかと言えば、人類に対して真の愛の神様になるということです。


「神様が審判主」という論理は神様にはないのです。もし、恨みを晴らすという概念があれば、今後神様の理想世界が出現しません。それゆえに、神様には火の審判という概念がありません。怨讐の概念がないので、アベルを立てカインを強制ではなく自然に屈服させるのです。


七百七十一
 
この世でも裁判長が死刑宣告を五回すれば、夜夢見が悪いというのです。もし、神様が億千万の人類をすべて審判して地獄に送ったとしたら、地獄に行ったその霊がじっとしているでしょうか。神様を殴り倒そうとするでしょう。夢見がどんなに悪いでしょうか。そんなことをするわけにはいかないかもしれませんが、それが理にかなった話です。


全知全能であられる神様が、思いのままに審判して、キリスト教を信じる人だけ天国に送り、そうでない人は地獄に送り、すべて思いどおりにすれば、そこでは理想論を探すことができません。理想というものは普遍、妥当でなければなりません。どこでも、過去、現在、未来いつでもすべて同じでなければなりません。海水が理想的なのは、深い所は埋めていつでも水平だからです。変わることがないのです。このようになれば二元論、三元論になります。


神様は誰も打つことができません。愛の理想をもって創造した神様が、愛の理想を実践しようという神様が、審判の鉄棒をもって打つことはできないのです。神様は打つことができません。なぜですか。創造する時に愛の理想をもって創造したので、その理想が実現されなくても打てないのです。もし、打つようなことが起こったとしたら、打つ伝統、打つ習慣を残しておいては、これを解く道がありません。今日、習慣性という言葉もあるでしょう。それゆえに、絶対的な神様は打たなく

ても絶対的な教化ができなければなりません。


神様は歴史始まって以来、闘いながら打たれて奪ってくる作戦をします。神様が先に打つことができません。神様が先に打つことができるという論理を立てれば、審判できるという原則を神様が立てたという論理が起こります。善と悪を分別すべき責任を神様が負っているという時、善悪の概念が神様自体内にあったという論理が展開されるために二元論に落ちるのです。それゆえに、神様は打つこ

とができないのです。


「神様は何をして生きているでしょうか」と聞けば、既成教徒は「玉座に座って悪人は地獄に送り、善人は天国に送る」と言っています。それが神様のすることですか。皆さん、高裁判所の判事を五年間だけやってみなさい、それができるでしょうか。

自分の息子、娘を審判し、自分の妻、自分のお母さんを判定することにおいて、死刑の宣告を下すと考えてみなさい。自分のお母さん、お父さんに死刑を宣告しておいて寝ることができるでしょうか。苦闘する心の世界の患難を誰が遮ることができますか。国も遮ることができず、世界も遮ることができません。そのような悲惨な位置にいる神様を、一方通行の論理をもって世界平和の主人だと侍ること自体が矛盾しているのです。ですから、既成教会は滅びなければなりません。


皆さんは霊界をよく知らないかもしれませんが、霊界に行くようになれば、神様が公義の裁判官になって「ガンガン(注:木槌でたたく音)、あなたは地獄行き!」と言うのではありません。絶対そのようには言いません。神様がそのような神様であり得ますか。人類の父であられ、善の王の中の善の王であられる神様が、地獄に行けと地獄をつくっておいたのでしょうか。予定論のようなことを言う人は狂った人です。

七百七十二
 
私は霊界をどれほどよく知っているでしょうか。イエス様の秘密のすべてまでみな知っているのです。ですから、聖書の秘密をすべて解き、今日誰も分からない漠然とした聖書体制を中心として一貫した思想体制をつくったのです。そのような大先生が誰でしょうか。ここに立っている悪口をたくさん言われる文総裁ではないですか。

親は自分の愛する子女が病気になった時は幸福ではありません。神様が、今日の世界人類が亡国の種となり、地獄の門に向かって垂直に落ちる実情を見ながら胸が痛まずに「お、お前は審判を受けて滅びていくのだなあ」と言って喜ぶ方ならば、そのような神様は雷に打たれなければなりません。父母の立場を代表した理想の神様であるがゆえに、その実情を見てじっとしていられないのです。国の法を無視してでも子女を助けたい父母の心情が隠れていることを考えると、神様も同じだというのです。


サタンさえいなければ、人間を許して助けてあげたいにもかかわらず、サタンの讒訴から抜け出すことができないので、切ない心情をもちながらもそれに順応せざるを得ないのです。そのような神様の苦痛を誰が知っているかというのです。それを解放してあげなければなりません。そのようにしようとするなら、サタンを処理して地獄に落ちた人を救ってあげることのできる息子、娘がいなければ

なりません。そうでなくては不可能なのです。


空の牛車を引っ張っていくのも大変なのに、神様はこの世界人類を逆に引っ張っていくのです。これは順路ではありません。逆に引っ張っていくのです。逆路の道を行くので、逆に引っ張っていかなければならないのです。今日宗教を信じる人々はそのようなことをしている神様だということを考えもしません。仏教思想で見ても、キリスト教の思想でも、神様は全知全能で思いのままに殺し、生かし、審判し、罰を与えたり福を与えたりできると思っているのです。とんでもないことです! このように見ると、宗教圏にあっても統一教会は、次元の高い世界の内容をもって解決方法を探そうと苦心する宗教に間違いないというのです。ですから、次元の高い宗教です。神様を解放するという宗教は、今統一教会以外にはありません。


今日キリスト教信者が「不義と正義を審判する公義の裁判長として生きていらっしゃる神様」と言いますが、そのような神様は心が平安ですか。ここに判事をしたことのある人はいますか。死刑囚を殺す時は、その刑場に判事が立ち会わなければならないのです。判事のように悲惨な人がいません。裁判長がよいですか。

皆さんは何を中心として生きたいですか。裁判長ですか。権力者になって号令をかければ、天下のすべてのものは私が願うとおりに無事通過できる環境で何日間生きられると思いますか。一カ月くらい生きてみれば、こうではないというのです。嫌になるのです。牛肉定食を毎日のように食べてみなさい。それを食べてから出るガスのにおいも違います。そのように生きてみなさい。人は高い低いによって、前後左右をすべて備えて生きるようになっているのです。


七百七十三
 
神様に「あなたは何をして生きたいですか」と聞いてみれば……。皆さん、私は直接聞いてみて返事を聞いた張本人です。裁判長ではありません。弁護士でもありません。検事でもありません。「愛に酔って生きたい」と言うのです。答弁は簡単です。何に酔って生きたいと言いましたか。愛に酔って生きたいというのです。愛に酔うようになる時は、目も一つの所へ行き、においをかぐ鼻もそちらへ行き、話す口もそちらへ行き、聞く耳もそちらへ行き、すべて一つの所へ行くのです。五官を完全に統一できる刺激的な要素が、私たち人間において何だというのですか。それが愛です。


今日キリスト教において「神様は神聖で全知全能であられる方で、公義の審判主として玉座に座って万民を審判する裁判長です」と言いますが、皆さん、裁判長がよいですか。裁判長を十年したら病気になって死にます。死ぬというより病気になって倒れます。病気にならなければそれは偽者です。

他人の生命を奪う死刑宣告を下すこともしたはずですが、自分が下した判決が絶対的ではあり得ないというのです。論法が、解説法が様々な方向があるのに、自分の判決によってその人の生死問題を決定づけたので、そうなるというのです。それは深刻な問題なのです。宇宙の公法に照らしてみれば、韓国の法が絶対的ではあり得ません。ですから、人は

「十年間判事」と言えば「病気になるはずだ」と言うのです。


キリスト教式に言えば「神様が天国の玉座に座って、公義の裁判長として善悪を判別し、よくやった者は天国に送り、できなかった者は地獄に送るのです。それが神様の趣味生活です!」。アーメンですか、ノーメンですか。死ぬことができないというのです。裁判長は判決を下したら、夜寝ることができないというのです。正しくても間違っていても苦痛を受けるのです。審判者は一つです。私たちがこのような人なのに、私たちが神様に似ているとしたら、神様は、裁判長をすることを好むのですか、嫌うのですか。


神様が悲しい神様で、苦痛の神様であることをキリスト教徒は知らなかったのです。神様が神聖な王として、審判主としていらっしゃいますか。神様が何が切なくて審判主ですか。審判主がいいですか。そのように生きることが神様の生活ですか。堕落によって仕方なくそれをするのであって、その清算方法を誰も知りません。宗教世界でも誰も知りません。統一教会以外には知っている所がありません。


二) 真の御父母様は愛の統治法で審判

救世主とはいったい何ですか。救世主が何をしに来るのかというのです。政治をしようとして来る方ではありません。救世主は何をするために来ますか。今日、キリスト教では、

「主が来ればすべて空中に上げられて自分たちはぽんぽんと上がり、地上の人々はすべて審判する」と言います。違います。そうではありません。「審判する」と言うのですが、救世主は、何かを審判しようとして来られる方ではありません。

七百七十四
 
その方は神様の息子、娘であると同時に、人類の父母として来るのです。人類の父母として父母の心をもって来られる方が、病気になって死ぬ場でうめいているこのような息子、娘を見て「おい、お前はあの地獄へ行きなさい!」と言って片づけることができますか。堕落したこの世の親でも自分の息子が死んでいく悲惨な姿を見れば、のどが詰まったり痛哭したり自分の生命を失うことがあったとしても、生かしてあげるためにはどんなこともしたいという心が先立つのです。それが堕落した世界の父母だと言うなら、本然の父母の心情をもって来られる救世主はいかばかりでしょうか。審判というものは考えられないというのです。そうでしょう。


聖書には「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)と叫びながら……。世の中をこのように愛していると言いました。世の中の救いのためにイエス様が来たのであって、キリスト教の救いのために来たのではありません。終わりの日に審判するのですか。それでは、神様が世の中をこのように愛するという定義とは違います。キリスト教徒だけ愛するのですか。いつも愛していることを知らないでいます。それを教えてあげて悔い改めさせなければならないのです。教派主義者たち、行ってみなさい。


今日、既成教会では、神様が審判してどのようにすると言いますが、神様が思いどおりにできるのなら、今までこのようにする必要はありません。堕落したその次の日にすべてしてしまったはずです。打って勝利したその基盤の上に神様の愛の理想を立てることができるという原理はないというのです。


今日、既成教会の哲学が間違っているのは何ですか。神様を公義の裁判長と言います。裁判長を五年やれば、腰が曲がり始めるというのです。なぜですか。腰を伸ばすことができないからです。キリスト教がこれを知らなかったというのです。ただ力の神様、全能の神様を追慕して、それとともに一つになれば何でもできると信じているのです。ここで人を殺してもかまわないという論理が出てくるのです。今日キリスト教を中心とした西洋文化が力の哲学を培養してきたがゆえに、西欧文明の背後には血が連結されています。


神様もそうなのです。この地上の悪なる人々を審判し整理するのは、神様がするのではありません。サタンを前面に立ててするのです。


神様がこの世界を審判しようとする時、

「少し待ってください。神様、これを見てください。実におもしろいことがあります」と言って、「それは何だ」と言われれば、「私の手のひらです。どんなにいい手相をしているでしょうか。あなたの手相より良いので、私がこれをしています」とこのように言えば、神様が何と言うでしょうか。

手相を比較しながら、このような者と話していれば、悔しいことがみんななくなるのではないですか。「神様、あなたが私の手を切って捨てますか。審判しますか」と聞けば、「ヒヒヒ、この者、この者」と言うのです。醜くても、そうすれば喜ぶのです。何の話か分かりますか。陰陽がなければなりません。傑作品になろうとするなら、バックグランドが立体性を成さなければならないのです。すべてのものがそうです。

七百七十五
 
人は日なたと日陰があって格位を備えてこそ人格者になるのです。神様がいくら怒ったとしても「神様そのように怒らないでください」と言うより、「神様、あれを見てください」と言って「なんだ」と聞かれれば、「あの鷲が鶏を捕まえて食べようとしています」と言うのです。「鶏を捕まえて食べようとして、食べてしまって……」と言えば「その鷲があなたのようです」それで、神様が引っ掛かるのです。「お、こいつなんだ。私が…

…」そのようにすれば、話すことができずに

「ふむ……」と言うのです。


神様に尋ねてみると、公義の審判主になるというのではありません。神様は審判しません。霊界を知らないのでそのようなことを言うのです。キリスト教で説教しているものをちょっと読んでみなさい。でたらめです。霊界をあまりにも知らないのです。そのようにして天国に行きますか。どうなるのか、行ってみなさいというのです。ですから、すべてからすの群れ、鷲の群れが食いついていきます。世の中の人たちより悪いのです。私はそのような人とは相対しません。犬がほえるのに一緒にほえれば、犬のようになるのです。相対しません。哀れなので、今後飢え死にするようになる時は、私が食べるものをもって訪ねていって食べさせてあげようと考えているのです。


全人類は、しっかりしなければなりません。統一教会の文総裁の教えは、救世の真理なのです。人類が永遠に必要とする真の愛と生命のみ言です。再臨主が世の中を救おうとして来られるならば、人類を鉄の杖で審判してはなりません。打ってはたったの一人でも完全に屈服させることができないのです。

自分のために生きて、手がひきがえるの背中のようにでこぼこにゆがんで開かないほどに苦労した母の犠牲的な愛は、親不孝者を悔い改めさせて帰ってくることができるようにする力があるのです。棒をもってはできません。審判の大王であり、天地を思いどおりに主導する神様でも真の愛なくしては、天宙統一は不可能なのです。真の愛はいかなる困難も問題になりません。自分の生命を投げてでも行くことのできる力が、真の愛にはあるのです。


怨讐を溶かすことができるものも愛です。高の親不孝者を孝行者につくることのできる力をもったものも愛です。逆賊だと主張する人を忠臣のように屈服させ得る力も愛にだけあるのです。それは可能なのです。それで、古くから人間は、優秀でも愚かでも愛を中心として命を懸けたり、生きたりしたがるものです。誰が「アーメン」と言いなさいと言いましたか。アーメンは私の特許品ですが。


長老派教会の教理は、神様は公義の審判長になって、予定して救援なさるというのですか。そのようなたぐいの狂った、ばかげた話がどこにありますか。それこそ詐欺師です。私が調べてみると神様はそうではありません。本来、人間が生まれる時、神様が天国に行くようにつくっておき、地獄に行く人をつくっておくなら、それがどうして善の神様ですか。理論として通じません。理論として通じてこそ常識に合うのです。常識に外れた真理はありませ

ん。常識にも合わないことをもって……。


七百七十六
 
考えてみなさい。裁判長が殺人犯を裁判して死刑を言い渡し、五人だけでも殺してみなさい。そのたびに行って検診しなければなりません。また考えてみなさい。大韓民国の法と北朝鮮の法は違います。ここで死刑宣告を受けた人が、向こうで愛国者にもなり得ます。天地の大道を中心として、公義の法を中心として考える時、弁護士の心が平安でしょうか。 審判の大王であり、天地を思いどおりに力をもって主導する神様ならば、天宙統一は不可能なのです。これはお金をもっていてもできず、知識があってもできず、権力をもってもできません。ただ一つできるものがあるならば愛しかありません。


悪魔でも神様は審判できないのです。ヨブ記を見てください。サタンがあのようについて回りながら支配するようになっても、なぜそれに応じてあげるのですか。応じてあげざるを得ません。サタンは「あなたが私を愛で消化せずには、愛で消化して本然の基準に合わせておかなくては、私を支配できないのがあなたの道理ではないですか。愛の道理を、原則的な愛のすべての完成的な道理を越えて私を主管するようになっているのに、その道理が満ちていないので私を主管することができない。私を主管しようとするなら、私を屈服させようとするなら、その道理の形態に合わせたその基準に……。個人基準ならば個人、家庭基準ならば家庭、氏族基準ならば氏族、民族基準ならば民族、ここで私が順応できるのであって、そうでなければならないのではないでしょうか」このように言うのです。これに身動きできずに引っ掛かっているのです。

これを知らなければなりません。


皆さん、そうでしょう。この世で「あなたは何をしたいのですか」と聞けば、「私は高裁判所の判事がしたい」と言います。「判事」と言えばみな喜ぶでしょう。今日、既成教会で信仰する人が「神様は天地の大主宰であると同時に、善悪を見分けて善人は天国に送り、悪人は地獄に送る、天地を公義の法を通して治める裁判長です」と言いますが、そのような裁判長が良いですか。今まで歴史始まって以来数千億の人を地獄に送ったとすれば、その神様の気分は良いでしょうか。そんなことはあり得ません。それゆえに、玉座に座って公義の審判長の権限をもって行使して暮らすことが、神様の生活目標ではないというのです。神様がそのようなことは嫌だというのです。


神様よりも自分が自分自身をよく知っています。それゆえに、私たちには審判主が必要ありません。事実、神様が必要ないというのです。自分の良心がよく知っているのです。このような原則について見てみると、解放的な基準を中心として私は何パーセントの解放の目的をもって参加したかという事実はパーセントで出てくるのです。私が本物なのか、偽物なのか分かっています。知らないですか、知っていますか。知らなければ望みがないでしょう。知らなければそれは共同墓地に行かなければなりません。そうでなければ、ごみ箱に入っていくか、そうでなければ、投げて太平洋にほうり込まなければなりません。それは処理困難なのです。

七百七十七
 
皆さんは善なることと悪なることを知っています。一言言うのも私が悪いことを分かっています。見る視線も悪いことを知っています。聞くこの音声も、感じるこの触覚もみな知っているのです。霊界に行くようになればそれがすべて現れます。頭をこのようにすれば、すぐに自分がどのような人なのかすべて現れます。その心の鏡、心の光彩がさっと現れるのです。説明が必要ありません。霊界を知らないのでそうでしょう。私はよく知っていますから、世の中の人に非難されてもじっとして耐えながら今まで来ました。 この世の中にはどのような人が生きているかと言えば、僕の僕が生き、僕が生き、養子が生き、庶子が生きています。このように混じっています。この秩序を立ててあげなければならないのです。何によって秩序を立てるのでしょうか。愛しかないというのです。そのような愛の伝統的な道理を受け継ぎ、引き継いできた宗教が、世界的宗教にならなければならないのに、その愛の道理に外れた宗教と、この愛を中心として従っていけない人は、歴史をかけ、時代を代表して審判されるようになるのです。

その愛が、天地を愛するその愛の伝統が、世界を愛するその伝統が、国を愛するその伝統が、民族を愛するその伝統が、自分の家庭を愛するその伝統が、父母と妻と兄弟を愛するその伝統が、自分が自分を愛するその伝統が世界を審判するのです。


神様は審判者であられ、イエス様は弁護士のようですが、今まで天の側の検事がいませんでした。今まで悪魔が検事をしていたのです。天の側の検事が生じなければならず、天の側の裁判長が生じなければならず、天の側の弁護士が生じなければなりません。このような意味から統一教会はすべてのものを備えているので、サタンを永遠に、人本主義を永遠に、淫乱主義を永遠に、破壊主義を永遠に地球において打破しなければならないのです。

これが統一教会の主義です。


神様が願うものはほかのものではありません。愛です。終わりの日になったら、何がも怨讐ですか。審判の第一の条件は何ですか。終わりの日には自分が愛するものが、審判の第一の条件です。学者には学者意識、学ぶというそれ自体が審判の要件になります。自分がも喜ぶことが審判の条件になります。お金を も喜ぶ人、お金を集めるためにすべてのものを犠牲にする人は、それが審判の条件になります。名誉を喜んで、権力を喜ぶ人はそれが審判の条件になります。女性なら女性のすべての素性によって、特定の素質によって喜ぶものがあります。それが審判の条件になるというのです。


悪口を言われながらも忘れて、むちで打たれても忘れて……。先生はそのような歴史の事情が多いのですが、私がそれをもって審判しようとするのではありません。愛をもってそれ以上のことまで消化しようとする道を行くので、それで神様が私を好きなようです。私もそのような人が恋しいです。少しやって代価をもらおうとするそのような人を、私は嫌う人です。誰か私の前で「代価をもらう」と言う人がいますか。顔を上げて出てみなさい。話を少ししましょう。


悔い改めなければ、皆さんは公義の審判を受けなければなりません。愛の統治法の前に立つ者がいないのです。その時に先生が弁護士になってあげて、先生の家族の一族が弁護士になってあげ、皆さんを指導する統一教会のすべての人々が弁護士になり、神様もそうであり、先生もそうであり、先生の家庭から指導者までそうすることができ、弁護の範囲が讒訴圏よりも多くあってこそ、善の天国の民族として入籍できるのであって、その讒訴圏より小さくては入籍できません。


七百七十八
 
法の道理を私も行っているのです。ですから皆さんは黙ってこの道について来なければなりません。黙ってこの道に従って行く日には、そこに共に参与した恩恵を受けることができますが、そこに自らの家を建てて自らの丘を造っておいては、審判の条件に引っ掛かるのです。刑務所に入った人が国家の法律の何条に引っ掛かったということと同じです。国家全体の法に引っ掛かったのではありません。ある条目に引っ掛かるというのです。同じように皆さんも審判の項目の何条かに引っ掛かれば、行くことができません。


共に滅びることがあっても、背信者の道を行くなというのです。滅びれば霊界に行って良い立場に立つのです。背信者にならなければ、その背信者にならないグループで今後いくらでも発展できますが、背信者は発展できません。それがいつも遮っているのです。それを消化して越えていくことのできる力が自分にはないのです。ですから、国に対する背信者や……。より大きな目的のための立場でついていかなければならないという決意をしたのにもかかわらず、裏切ればそこに大きな目的が私をいつも審判する位置で責任を追及するのです。そこから脱け出す道がないというのです。


今後、社会が一箇所に出て国を設定し入っていくようになる時は、皆さんの経路をすべて一つ残らず書いて、あの公義の審判場でパスしなければなりません。再審査を経ずしては国家祝福の位置に行けないのです。世界祝福まで行くべき道が残っているのです。統一教会がする祝福は教会祝福です。審判はどこから、統一家から、祝福を受けた息子、娘から、祝福を受けたお父さん、お母さんから、それから……。これをしておいてその秘法により比例する世界の審判圏に越えていくでしょう。はっきりと知らなければなりません。 祝福を受けたというこのでたらめな女たちからしっかりとしなさい。原理は後回しにしておいて自分勝手に生きて、原理の世界が、み旨の世界が皆さんと関係を結ぶことができると思いますか。とんでもないことです。そのようなことができるならば、私がこれほど苦労しません。


神様の愛と神様の生命と神様の血統を通して、鉄槌で審判するでしょう。そのような時が来るのです。その時にメシヤが来るのです。メシヤがどのような方か知っていますか。救世主がどのような方か知っていますか。本然的な愛の秩序を求め、本然的な神様の永遠な生命と愛と血統の本宮を求めて、幸福の基地を正しく立て直して、それと連結した家庭と一族を越えて、民族と国家、世界に一つの愛の主導権に立てるために来られる方であることを知らなければなりません。


神様の家庭とは何ですか。このような真の愛を中心として、神様の位置にいるこれは、下にもっていって合わせてもよく、これをすべて離してどこかにもっていって合わせてもすべて合うのです。おじいさんの肩に孫が上がっても、家法で審判しません。孫がおじいさんのふとんを持っていって、おじいさんが隅に体を曲げて寝るからといって、親不孝者だと審判しません。そこではすべてのものが

OKです。


「御父母様」と言葉ではよく言いますが、父母様に侍ったことがありますか。私が夜を明かせばさらに夜を明かしてこそ侍る位置に

 


七百七十九

 


立つのです。私が苦労すればもっと苦労してこそ侍る位置に立つのです。ついていきながらみな寄生虫になりました。寄生虫は寄生の虫というのです。この者たち、寄生虫という名前にぴったり合います。偽物を喜ぶこの者たち!統一教会の者はそのようなものが多いです。今粛清しなければなりません。

本当に怨恨をもった文総裁は、統一教会の遊んで食べて教会をむしり取って食べる食口を、ガソリンをかけて私の手で火をつけようと思います。世の中を審判する前に、この者たちを審判しなければならないのです。私が教えてあげた道理に一致しなければ、きれいに整備しなければならないでしょう。


この悪魔の世界が天国を成し遂げるのに提供するものは何もありません。それはすべて火で燃やしてしまわなければならないのです。それで、聖塩を作って聖別させてそれを代わりに使うというのです。堕落したこの人間まですべて火で燃やしてしまわなければならないのです。火の審判を受けるのです。それで、人を私の手で再創造しなければならないのです。心情を投入して生かして天国に連れて行くというのです。

今まで私の手で一人の生命も血を流すようにしませんでした。私が手をつける日は恐ろしいのです。どうかそのような結果をもたらさないように皆さんが肝に銘じてください。分かりますか。血を見る日には問題が大きいのです。原則がそうです。それで、金日成までも私が生かしてあげようとするのです。


私が酒を飲んでここに来て座っておしっこをもらしながら、「あなたたちなぜ来たのか」と追い出せば、残る人が何人になるか考えてみましたか。なぜ笑うのですか。そのような審判が天地の誰も分からずに引っ掛かり得る審判方法です。真の愛で愛するための参与者を探すためには、丸裸になって、半気違いになって横に行っておしっこをもらしても残る人が何人になるのか、そのような考えまでする人です。

なぜですか。私が経てきた道がどんなに驚く道か分かりません。それを皆さんは知りません。私の母も知りません。今ここのお母様も知りません。それゆえに、霊通したおばあさんたちが、先生がかわいそうだと大いに泣くそうです。話さなければそれを誰が知っていますか。難しい問題を今まで一人でぶつかってきて、内外共に倒れていることを誰も知りません。


三) 罪を犯せば家庭裁判に、一族が審判する

皆さんの父母は何かといえば、公義の法廷の裁判官です。それを知らなければなりません。皆さんの家庭では必ずお母さんが弁護士の役割をします。そして、兄弟が間違ったら、その兄弟がすべて検事の役割をします。「ああ、姉が先にそうしたのであって、私が先にそうしたのではありません」。それで、お母さんはただ聞いて「うんそうか、お前が正しかった。お前が正しかったのではない。この子が正しかった」と言うのです。


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ですから弁護士のようなものです。お母さんが弁護士の役割をするというのです。兄、姉、弟たちがけんかをしたら、検事は誰ですか。姉も検事になり、兄さんも検事になります。それを知らなければなりません。皆さんの家の中に判事、検事がいることを知らなければなりません。若い青年たち、そのように考えてみたことがありますか。


妻が見て恥ずかしい夫になるなというのです。妻は神様の特使です。息子、娘が神様の特使だというのです。私を監視して教育し正しい道へ行くようにするための一番の側近者としての特使だというのです。子女の前に恥ずかしい父親になるなというのです。その天の特使は盗んだ物を食べさせるなというのです。詐欺を働いて天に侍ることができますか。先祖に侍ることができますか。それなら、皆さんがあの世に行けば、先祖が瞬間的に審判します。神様は審判しません。先祖が審判して結局は世界的な公判廷まで引っ張り出すのです。


先祖がここで報告して公判廷に引っ張り出さなければ、その先祖は善人になれません。そのようになっているのです。その統治法を背後に置いて未来に希望の基盤を決定すべき、またそのような日々を迎えていくべきこの生

涯の路程というものは深刻だというのです。


今後、理想時代には法廷が必要ありません。この世で人生の過程は永生の基盤であり、あの世に行って生きるべき準備の過程であるがゆえに、一族の中で誰かが誤ったら一族が処理するのです。一番の裁判長が誰ですか。妻が誤れば夫が裁判長になるのです。子女が間違った時は父親が裁判長になるのです。それで公法により指導を受けてその一族が処理するのです。


今後、あの世に行けば誰が審判するようになるのでしょうか。自分の先祖が審判します。今後は国に裁判所がなくなります。一族が処断するのです。裁判長は誰がするのかといえば、自分の父母がなります。も近い人になるのです。エデンの園で誤った時、誰が裁判しましたか。神様がしたでしょう。お父さんがしたでしょう。自分の一族にとって恥ずかしい事実なので、そのようにするのです。検事は誰がするのでしょうか。も愛する人に

なるのです。夫が誤れば妻が讒訴するのです。


誰が審判しますか。も愛する人が審判するのです。アダムとエバを誰が審判しましたか。アダムとエバは兄さん、妹です。怨讐になりました。誰が怨讐に判決しましたか。アダムがエバを、エバがアダムを判決しました。

そのような時が来るのです。


天地と運命が左右され得る法を設定すべき仕事が、私たちが行く道の前に待っているということを知らなければなりません。その法が設定されるようになれば、今までむやみやたらに生きた人間は許しがありません。自分の一族で処理するのです。法廷に行きません。自分の氏族が中心になります。文氏ならば全国にいる文氏の宗族でその文氏の宗族法によって族長が審判するのです。そこには許しがありません。


七百八十一
 
今後、罪を誰が審判するのでしょうか。もちろん霊界でも審判するのですが、自分の周辺にいる人々が審判します。誤れば町内の人が審判するでしょう。町内より高い段階の郡ならば郡の人が審判します。郡の人が誤れば道の人が、道の人が誤れば国が、国が誤れば世界が審判するのです。それゆえに、その秩序的基準に合格できる制度がこの制度です。 今後、罪を犯すようになれば、法廷に引っ張っていって断罪するのではありません。自分の一家でするようになるというのです。そのような時代が来るのです。ですから、呪うこともできないでしょう。自分のお父さんとお母さんが審判し、妻が間違えば自分の夫が審判するのです。それゆえに、今後統一家の祝福家庭の二世が誤れば、誰が処断するのでしょうか。父母がするのです。


アダムとエバのお父さんは神様でしょう。それでは、アダムとエバが罪を犯したのですが、誰が審判しましたか。その次は誰ですか。その次は自分の相対です。夫を妻が審判しなければならず、妻を夫が審判しなければなりません。その次は誰ですか。息子、娘です。愛の源泉を中心としてすべてこのようになるのです。

も近い人がも嫌うのです。息子、娘がも嫌い、夫が も嫌い、妻が も嫌い、父母が も嫌うのです。それにもかかわらずそのような行動をしては、父母を欺き、相対を欺き、息子、娘を欺き、天地の前に「お父さんだ、お母さんだ、兄弟だ、父母だ」と言えないというのです。ここにもそのような男性、女性がいるとするなら、今後あなた方だけでみなブルドーザーで押し出してしまいなさいというのです。


統一教会の家庭に対する審判時代が来るというのです。みんなヨルダン川を渡っていくのに、こちらに立って見つめながら渡ることができないのです。モーセがピスガ山上でイスラエルの地を見つめながら入っていけなかったのとちょうど同じです。家庭もちょうど同じです。ですから警告するのです。 警察が必要ありません。刑務所が必要ありません。一族の責任者が集まって警察に代わり、判事に代わってその家庭を審判するのです。その部落の法に外れることがあれば、問題が起こるのです。


完成した子女、完成した兄弟、完成した夫婦、完成した父母はこうであるべきだという神様の公式的なモデルがあるでしょうか、ないでしょうか。それがあってこそ永遠な審判の基準になるのです。「君は天国の第一合格者、第二合格者、第三合格者……」という系列を定めることができ、位置を決定できるのです。そのようなものがあるでしょうか、ないでしょうか。なければならないのです。そのような愛の理想相対を地上に実践し完成しようというのが創造理想だというのです。それで、神様が子女を造られたのです。


今後、一族の中でもし犯罪者がいれば、なにがしの一族、その一族の族長を中心として統治するのです。氏族的メシヤが神様の代わりの裁判長になるのです。自分の一族に事件が起これば、雷が落ちるのです。その一族からそのような悪者を輩出したという事実は、一族の看板に泥を塗るのです。部落がこのように滅び腐敗していく国ではいけません。全体が一つになって一族を保護するのです。


七百八十二
 
若者の中で悪者が生じれば捕まえて「こいつ!」と張り飛ばすのです。一番後におじいさんが裁判長になり、お父さんが検事になり、お兄さんが弁護士にならなければなりません。天地原則の大道を明らかにするためには、私たちの家庭の検事になり、お兄さんが弁護士にならなければならないのです。 「天理原則の大道を明らかにするためには、私たちの家庭の血族ですが、血族になることができません」このようにして無慈悲に公的な審判をしてしまわなければなりません。それで、警察がなくなるのです。軍隊がなくなるのです。


今後は警察がすべてなくなるのです。罪を犯せば、家庭が絶対権限をもって家庭で解決するのです。その父母が責任を負うのです。夫が間違えば妻が審判するのです。も近い人が審判しなければならないのです。なぜですか。偽りの愛の種が残したものを真の愛の相対的基準が処理しなければならないために、も近い人々が審判しなければならないのです。


罪というものは何ですか。罪は私的な所で生じるのです。滅びるのも私的な基準で起こるのです。悪も同じです。私的なことが度数を越えれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があるのですが、その限界を越えれば悪になり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです。それでは、永遠に善であり得る、永遠に発展することができ、永遠に福を受けることのできる位置はどこでしょうか。滅びるのを避けることのできる位置、罪になることを避けることのできる位置、悪になることを避けることのできる位置はどこでしょうか。

それは正に公的な位置です。御飯を食べても公的な位置で食べなければなりません。仕事をしても公的なこととして、話をしても公的な話として消化しなければなりません。このように一切を公的なものと関連づけ生きなければなりません。そのような人は地獄に行こうと思っても行けないのです。


本来、天法の道理に従っていく人間には、自分自身が滅びることを防ごうとしたり保護したりしようという心があるのです。これは神様に本来そのような心があるので、人間にも本来あるようになったのです。自分が作った法ではないというのです。

「良心よ、私がこうなのでこのようにする」と言いますか。「私の考えがそうであるがゆえに、そうすべきだ」と命令するからといって良心が作用しますか。どこか分かりませんが、違う所で命令を受けるのです。そのような感情が自分を支配するのを見ると、これは公私問題を中心として支配するということが分かるのです。


罪をたくさん犯した人は、どんどん北極に送るのです。そのような時が来るのです。そのような人々に御飯をなぜ食べさせますか。熊の子を食べて生きるのです。何年間かその境界線にほうり込むのです。「何でも捕って食べて暮らして死ななければ、何年かあとに来い」と言うのです。そのような隔離時代が

来るのです。

その世界で死んだなら死に、死なないなら死ぬなというのです。虎を捕まえて食べるならそのようにしなさいというのです。氷の家を建てて生きるなら生き、建てないなら建てるなというのです。そのような隔離時代が来るというのです。伝染病患者は隔離するでしょう。そのように完全に隔離するのです。ですから予防薬として強調することが、罪を犯

すなということです。

七百八十三