人間の生と霊魂の世界(일본어 천성경 제6권)

무지개 | 20170703071917

Book 六: 人間の生と霊魂の世界

Our Life and the Spiritual Realm

はじめに


「人生の夕暮れは美しい。夕暮れの美しさは、日が昇る日の出の美しさよりももっと感激的である。人生が夕暮れにさしかかった時、うろたえることなく後の光を輝かせていくのが勝者の生き方だ」。


人間の死は、日が西の山に傾くように、神様が下さった精気と知恵と時間をすべて使い果たし、後をより美しく飾っていくことだということです。しかし、まだ多くの人々は、死に対する疑問と不安と恐怖から抜け出すことができず、死後の世界に対しても確信をもつことができずにいます。


死は「存在の終わりなのか」、そうでなければ「また別の何かの始まりなのか」、「死んだのち、来世はあるのか」、もしあるとすれば「その世界はどのような世界か」という疑問をめぐり、今まで多くの論争が続けられてきました。


このような人間大の関心事である死と死後の世界に対する究極的な疑問について、真の御父母様はそのみ言を通して明快に明らかにされました。それだけでなく、人間の根本と、霊界と肉界の調和する人生の生き方についても教示されました。 霊界は本質の世界です。地上よりもより深く、より広い世界であり、神様を中心として永遠に生きていく心情の世界です。その世界は、真の愛の成分で満ちあふれた世界であり、真の愛さえもつならば万事が通じる愛全能の世界です。


霊界は、人と調和して喜びと幸福を満喫しながら、お互いが「ために生きる」共生共栄

の世界です。


果てしなく広がる霊界は、神様と人間、そして人間と万物が自然な関係をもちながらも、天理法度がより厳格に適用される世界です。そして、そこは地上生活の延長線上にあるので、そこでは鏡に映るように地上での生活の姿がそのまま映し出されます。ゆえに、霊界を訪ねていく時は、自らが審判し、自らの霊的基準に合わせて訪ねていくのです。それゆえに、真の御父母様は、地上での生活がとても重要であるとおっしゃいました。


この本は、真の御父母様のみ言選集の中から霊界の実相に関する部分を抜粋したものであり、人間の正しい地上生活と永生の本体である霊人体の成長の秘法を明らかにしたものです。ゆえにこの本は、人間が真の人生を生きていく上でこれ以上ない貴重な本となるはずです。


どうか真の御父母様のこのみ言を通して真の生命の道を悟り、地上生活がより価値のある生活となることを切に望みます。


二〇〇一年三月

六百三十三
 

第一章 人生の行くべき道 一 私たちの人生の道 一) 一寸先も見通すことのできない人生

人々はしばしば、「人間は来ては逝くものだ」と言います。古来より、いくら立派な聖賢君子も来ては逝きました。このような歴史の動き、このような天倫の動きは、この瞬間、私にも続いているということを考えなければなりません。来ては逝くべき私たち自身です。何の因縁と関係しているのかは分かりませんが、この地に来て、この万象と、あるいはある理念的な形態の中で身もだえして逝くことをよく知っています。では、私たち人間は何のために来て、何の目的のために逝くのでしょうか。これを数多くの哲人たち、数多くの宗教人たちが心血を傾けて解決しようとしました。しかし、解決できないままに、人類歴史はそれによる寂しさとともに今まで動いてきました。また今も、ずっと動いていっています。


私がなぜ来て、なぜ生きなければならず、どこに行かなければならないのでしょうか。生まれたことを、皆さん自ら生まれたものと考えてはなりません。生まれはしましたが、何の動機で生まれ、何のために生まれたのか、私を生むようにした動機と目的が分からない私たちです。生まれることは生まれましたが、私が生まれようとして生まれたのではなく、生きるには生きますが、私が生きようとして生きるのではなく、死ぬには死にますが、私が死のうとして死ぬのではないというのです。

それなのに、自分をもち上げて何を誇るのでしょうか。自分自身が生まれたくて生まれることもできず、自分自身のその何かをもって生きることもできず、死の道を避けることもできない自らをもって何かを誇ってみても、哀れで物悲しいだけです。生まれたから生きなければならない運命であり、またそのように生き、逝かなければならない運命です。


今私たちは、知っていようがいまいが、ある所に向かって進んでいます。私が動く時間にも進んでいるのであり、休んでいる時間にも進んでいるのです。単に私だけではなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までもある所に向かって今、進んでいるのです。これは否定できない事実です。この一生をたどったのちに、私はどのような所に行くのでしょうか。これが、人間が解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身もこのような運勢に捕らわれ、引っ張られているということを否定できないのです。


行く歩みを捕まえておいて、動く心と傾く心情を阻んでおいて「お前はどこに行くか」と尋ね、これを解決するために闘ってきた人々が聖賢賢哲であり、あるいは数多くの道主たちだということを私たちは知ることができます。彼らはそれを解決するために現れましたが、この日まで「私の体と私の心、私の心情、私の生命と私の理念はこのような所に向かって走るものなり。ゆえに全天下にあるすべての万民、あるいは天地に存在するすべての存在物はこちらへ行け」と、自信をもって命令した人はいないのです。


六百三十四
 
今日、人間の生活というものは七十年、八十年しかありません。七、八十年しかないこの短い生涯路程において、歴史的にこんがらかった善の圏をすべて収拾しようとするなら、億千万年かかってもできないということを、心は知っているというのです。ですから、この短い七、八十年のこの期間において、善なる圏を因縁づけるべきことが、そのように膨大にあるということを知っているこの心、良心はどれほど催促するかというのです。

死んでは駄目だというのです。死ねばできないのです。生きている間、因縁を結んで地上で祖国光復をし、本郷の地を求めて天の主権者に侍り、その民とその国で生きて逝ってこそ、天上天国に行けるはずですが、その世界に行くことができず、その世界を見つめることができないこの心が、どれほどせわしいかというのです。


どうせ逝くべき私自身だとするなら、この体はどこに行こうとするのでしょうか。この心はどこに行こうとするのでしょうか。またこの生命はどこに向かって傾いていて、私の心情はどこに行こうとするのでしょうか、また私の願い、あるいは希望と理念はどこに行こうとするのでしょうか。


この問題を解決できないとしても、私たちはいずれ逝くべき運命に置かれているのです。私たちが生きたのちに死ぬ日、この体は土に埋められることによって終わるはずです。では、体が埋められるその日は、心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは願いまでも共に埋められてしまうのでしょうか。消えてしまうのでしょうか。ここにはっきりとした内容と、はっきりとした解決点と、はっきりとした目的観を立てておかない限り、人は不幸な人であらざるを得ないのです。 私たちは何を中心として生まれ、何を中心として行くべきであり、何を目的として行くべきでしょうか。これは神様を抜きにしては絶対に駄目なのです。神様を抜きにしては動機のない因縁になるのです。動機をもつことのできない人は、あることを成就しようとしても、その結果を収めることができないし、価値を認めてもらえないというのです。ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図によって建築をします。設計の原本もなく造られた建築物は、設計者が目的とした建物になり得ないのです。


出発を誤れば、とんでもない所へ行くのです。それゆえに船が大海を航海しても、出発した港から羅針盤を中心として、行くべき目的地に向かって方向性を描いておいてこそ行くのです。それでは、人間が出発した港はどこでしょうか。分からずにいます。羅針盤をもって彼岸の世界に到達できる、目的地を描いて行くことのできる方向性はどこにあるでしょうか。ないのです。これがくねくねと、自分勝手に行ったり来たりしました。このように考えると、人間はいくらやってみたとしても、人間として終わるのです。


二) 私たちはどこに進んでいるのか

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人生をこのように生きていく目的は何でしょうか。この問題を再び考えてみなければならないのです。動機が自分によるものではなかったので、目的も私だけのものではないに相違ないのです。暮らすことにおいて幸福な立場を嫌う者はいないし、豪華絢爛な立場で生きたくない者はいないと思いますが、思いのままにできないのが私です。しかし、また自分自身を誇ってみたいし、思いのままに生きたいし、思いのままに残りたい私です。このような心情の交差点をもった私だというのです。


秋の季節が来たという事実は、冬が迫っているということをいうのです。冬は、生命があるもののみが通過できる過程です。生命をもっていないものはすべて、ここで後退せざるを得ないのです。それで、冬が来る前に新しい生命を注入しろというのです。新しい生命は新しい愛を中心とした新しい主義と思想、そして、新しい人生観、新しい世界観、新しい宇宙観をもたなければならないのです。そうでなくては冬の季節を通過できません。冬の季節を通過できる生命力をもつようになれば、それを通過する過程は難しいけれど、行けば行くほど春が近づくのです。春が訪ねてくるというのです。統一教会はその道を行くのです。


私たちはこの世に生きていますが、この世だけではなくて霊界があることを知っています。この世と霊界は二つの世界ではなく、一つの世界として連結しています。私たちが行くべき所、私たちが行って住まなければならないその場所とはどこでしょうか。私たちは肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人々はこの世に生まれ、十代、二十代、三十代を過ぎて青春時代を過ぎて壮年時代に入っていくようになれば、どんどんと一つの峠を越えて、その次には老年時代に入っていくようになるのです。このように、沈む太陽のように一生を終えます。 霊界があるという事実を知っている人たちは、人生というものがわずかの間で、死んだのちに私たちが迎えなければならない世界が永遠だということを知っています。ゆえに一生の期間とは、永遠の世界を準備するための期間だというのです。世の中とはそのようなものではないですか。


人はどこへ行くのでしょうか。霊界に向かっていくのです。霊界は海と同じです。どうせ行かなければならないのです。海にも流れがあるのと同様に、そこには調和無双な変化があります。海には主流の流れを中心として、淡水にはない調和の存在があります。海に数多くの魚族がいるように、そこには数多くの新しい天地の家庭がいます。あの世に行くようになっても同じです。


人はどこへ行くのでしょうか。天国へ。このようになるのです。天使はどこへ行くのでしょうか。天国へ。父母はどこへ行くのでしょうか。天国へ。それだけでなく、育てた子犬はどこへ。地獄ではありません。昔避難する時、北韓でとても良い生活をする金持ちの家に、とても高い犬だと自慢していた人がいました。その人が避難するとき、犬をしっかり門に結んでおいて、「おい!元気でな。私だけ行ってくるから」と言うのです。私たち統一教会の食口たちは、それではいけないのです。今からは犬も天国へ。すべての万物も天国へ。主人が行く所には、どこでもついて行くことができるというのです。


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霊界と肉界、人間の混乱した思想界の複雑なことをすべて打開して、このように単調で簡単な一つの方向が設定されて、明確な一つの価値観を私が見つめていくようになったという驚くべき事実を知らなければなりません。その段階ごとで力が分散されるのではありません。段階が発展すれば発展しただけ、力が共にあるのです。愛の原動力が私の生活圏に反応するのです。ですから、愛から生じ、愛を受けて愛したのち、愛の世界へ行くのです。神様に帰っていくのです。結果は原因へ帰らなくてはならないでしょう。ですから、神様のような考え方をもたなければならないというのです。


私たちはどこへ行くべきでしょうか。死線を越えてでも行くべき所とはどこでしょうか。神様を求めて、その神様に仕え心から喜んで楽しむことのできる日、私の心の世界で「これ以上の願いはありません」と言うことのできる一時を迎えなければなりません。そのために、私たちは困難に耐えて、無念さに耐えて、悔しさに耐えながら、この世界を越えていかなければならないのです。このような世界を越えていく自分自身になっていない限り、世界と共に消えるのです。


人間は何も考えずに流れに任せて生きながらも、死ぬことを嫌い、「なぜ生きなければならないのか。根源がどのようになっていて」と、皆さん、疑問が多いでしょう。そのすべての疑問は、人間の哲学書だけでは解決できないのです。哲学というのは、今まで神様を求めて行く道を開発したのです。宗教は何ですか。神様を知って、共に生きる生活から始めることが宗教生活です。


霊界を無視しては駄目です。これが行く原則であるゆえに、いくら優秀な人もその原則に合うようにこの地上に生きて一体理想、均衡的な平準化を成し遂げなければならないのです。相対的平面です。均衡を取って、九〇度を中心として引っ掛からないで水平に回らなければならないのです。それで、三六〇度を回りながらも、ここで引っ掛かってはなりません。サタンが少しだけ口出ししても引っ掛かるのです。ですから、回っても、回っていないように見えるこのような歴史をもつ人が入っていかなければならないのです。家庭の本格的な再検討時代が来るのです。統一教会検討時代です。これからは教会がなくなるのです。神様に侍って暮らすことのできる本然の時代です。


生命圏、愛圏、血統圏の堕落、全世界が引っ掛かっているこのことが、同じ条件と同じ公式なのです。同じ公式の条件に引っ掛かっているのです。それゆえに、どんなことがあってもサタン圏の、自分の肉体が要求するすべてを放棄し、良心圏が願う所に一〇〇パーセント移動すれば地上天国圏に立つので、神の国、地上天国世界と天上天国世界を境界なしに無限に通じることができる自由圏を得ることができるのです。そちらへ越えていかなければならないという自覚をもたなければなりません。このような難しい問題があるということを、人間は知らずに生きているのです。人間は、このようにもつれた背後の内容があるということをみな知らずに生きて霊界に行くので、地獄に行くのです。


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私たち人間は、生まれると一度は死ぬようになっています。ところで、死ねばどこへ行くのでしょうか。煙が消えてしまうように消えてしまうのではありません。必ず霊界に行くようになっています。霊界に行くようになれば霊界の国があります。では、その霊界の主人は誰ですか。神様です。それゆえにその神様の息子、娘にならなければなりません。神様の息子、娘になることができなければ天国に入れないのです。


霊界があるならば、霊界はああしたりこうしたりと変わると思いますか。「人の心は朝夕に変わり、山の色は古今同じである」という言葉もありますが、霊界は変わりません。神様がいるならば、その神様は変わりますか。神様は変わりません。神様が統治する霊界の国があるならば、その国は変わりません。億千万世に定めた法に従って生きながらも、不平不満を感じないで順応と柔和の道理に従って、厳然と存続し生存するのです。そこには革命家は必要ないのです。革命をすれば、すべて滅びるのです。


皆さんはカナン福地に入らなければなりません。この地球星がカナン福地になっているために、天国の外的世界が近づいてきたがゆえに、地球村時代が来ます。人工衛星というものがあって、座っていても天上世界を旅行できる時代が来ました。相対圏の人工衛星時代が来るのです。その次にはコンピューター時代が来るのです。霊界にコンピューターがあって、一生のすべての記録が現れるのです。

人生の歴史やすべてのものをあっという間に知ることができる時代になったのと同じように、統一教会を中心として地上地獄膨脹主義時代から地上天国出発時代へと交代するのです。


アダムとエバがエデンの園で、食べ物のお金を払って食べたのでしょうか。すべてただです。このように見るとき、霊界に行って住むときも、すべての環境的条件をつくられた神様が、人間に無限な価値をただでくれたがゆえに、霊界に行っても無限な価値の存在がすべて自然に供給されるのです。その霊界は、神様が住まわれる本郷の地です。ここでは、お金を出して買って食べないのです。私たち人間の想像が及ばないほど、すべてのことが可能な補給地です。皆さんはその霊界を知らないから、分からないのです。本来の堕落しない後孫ならば霊界を知っているのです。


なぜ本郷を恋しがるのですか。父母に対する愛、兄弟に対する愛、夫婦に対する愛、その地に対する愛、故郷山河に対する愛と同じです。あの世でも真の愛という全く同じ公式になっています。本郷には父母がいて、夫婦がいて、兄弟がいます。すべてのものがそこにあります。立派な食べ物もあるのです。食べ物も、見える食べ物と見えない食べ物を合わせてこそ本当の食べ物になるのです。なぜ私たちがこのように苦労をするのですか。故郷に行くためです。そのような希望に満ちた

霊界の相続を受けようとしてそうなのです。


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故郷というのは、制限されたここだけのことをいうのではありません。どこに行っても、故郷で暮らすように生きなければならないのです。どこに行っても、一生を恋しい故郷で暮らすのと同じ心をもって生きなさいというのです。大韓民国の四千万を中心として和合し、そのように暮らすことのできる人は、あの世に行けば霊的な人格の価値が大きくなります。このようなことを知って、故郷を考える時は必ず霊界を思いながら愛の人格を備えて、父母のように、お兄さんのように、お姉さんのように「ため」に生きなさいというのです。それとともに、自らの愛と生命を投入し息子、娘を育てて、もっと立派な子孫を故郷の地に残すという心をもたなければなりません。そのような思想をもって暮らしてあの霊界に行くようになれば、すべてが私の故郷の地になるのです。


私たち統一教会の食口たちは、どのような道を行かなければならないのでしょうか。神様が願う道に従って行かなければならないのです。天意の道に従って行こうというのです。天意とは何ですか。天意には個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会が、国家が、世界が、霊界まで……。皆さんは霊界を知らないでしょう。その分野の専門家が文先生です。霊界は間違いなくあるのです。


三) 一生は霊界へ行く準備期間

いくら考えても自然世界の摂理はやむを得ないのです。皆さんも死なないことを願うでしょう。死なない自信がありますか。自然が調節するのです。霊界の法に従っていかなけ

ればならないのです。それと同じ道理です。


霊界が私たちの故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は本然の体の故郷の地であり、霊界は本然の心の故郷の地なのです。この次に行く所が心の世界、霊界です。それゆえに、ここであらかじめそこに合わせて訓練をしてこそ、そこに行っても支障がありません。アメリカの人々は、ハンバーガーを食べなければなりませんし、チーズを食べなければならないでしょう。韓国の人々は、キムチを食べ、唐辛子みそを食べなければなりません。霊界にもハンバーガーがあるのか、キムチがあるのか知りませんが……。ですからここで、そこに拍子を合わせるようにすること

によって、あの世に行って苦痛がないのです。


今まで一般の人々は死ねばすべてなくなると考えたのですが、そうではありません。霊界があるので、そのままつながるのです。その霊界に行くためには地上で準備をしなければなりません。霊界に行けば愛によって呼吸するために、地上で愛を中心として生活してこそ、そこでも自由に呼吸できるのです。地上で愛を中心として生活しなければ、そこで自由に呼吸できないのです。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛が空気のような世界だと自由に考えればいいのです。第二の新しい出発を「死」というのです。それゆえに、そのように怖がる必要はありません。死は新しい出発の門を開くのです。


霊界が故郷です。故郷に帰って永遠に暮らすことのできるその基準を、地上で合わせて逝かなければなりません。地上生活で自分の思いのままに、今までの世の中の何も知らない人々のようには生活できないのです。霊界を知って、そこに合わせて生きることによって、この世を離れるようになる時、神様の前に行って天国と関係を結ぶことができるのです。そうでなければ、不可能だというのです。それゆえに皆さんは、霊界に対する事実をはっきり知らなければなりません。


霊界は愛の空気でできていますが、皆さんの霊人体が準備をせずに天国に入っていけば、息ができないのです。ここは空気で成ってい



六百三十九



ますが、あの世界は愛の霊界です。皆さんの霊人体が愛を感じることができるように準備をしなければなりません。そのようにできなくて霊界に行けば、関係を結ぶことができないのです。これが問題です。問題が大きくなります。何千万年はかかるのです。


皆さんは、本然の愛で愛さなければならないのです。それゆえに霊界に行くようになれば、霊界は愛が空気になっています。細胞が愛化することを体験してこそ、すべてのものが自然らしくなるのです。細胞はすべて呼吸するでしょう。愛の細胞をすべてどこで育てていくかといえば、真の夫婦になって神様の愛を中心として育て、神様の世界に行き愛の空気を永遠に吸いながら暮らすのです。それでこそ死にません。愛が根本であるがゆえに、愛をもてば何でも自由に実践躬行できる世界だというのです。愛する人のために何でもつくり、何でも創造できるのです。そのような

霊界があるのです。私たちの本郷があります。


塩水と淡水は何が違いますか。味が違うのです。塩水は塩辛く、淡水は何の味もありません。同じです。この地上では味がありません。しかし、霊界に行けば味があるのです。水は生命を伴うことができる力をもっていますが、塩は生命を生産するために必要なものです。


水は、海深くまで行かなければならないのです。いくら大きい川を流れる淡水であっても、海に入っていけば塩水になります。いくらきれいだといわれる有名な河川水でも、海に入っていけば間髪を入れず、さっと変わるというのです。全く異なる色合いと味とに変わるというのです。これと同じように人間たちは、すべて霊界へ行くのです。淡水で生きたそれが、そのまま通じないのです。海水に

なるのです。

ですから、宗教人たちは、生きていきながら塩水を加えることができる資格をつくらなければならないというのです。そうすれば、霊界に行って相反しないのです。万一、淡水がそのまま入っていってしまえば問題が起こります。人間もそのまま霊界に入っていくようになれば、大変なことになるのです。


河川水はどこへ行きますか。海へ行くのです。海水と河川水は違うのです。地上は河川水と同じであり、霊界は海水と同じです。それゆえに人間はどのような者も、地上で生きた者は霊界にすべて入っていきます。淡水と塩水と混ざった場合には、淡水魚は塩水ではどのようになりますか。淡水魚は塩水では死んでしまいます。突然に入っていけば窒息します。それゆえに、慣れなければならないのです。

水の色合いも同じで温度も同じだった場合には、どこにある水を飲んでも何でもないのと同じです。地上世界と霊界の世界が突然に連結した場合には、淡水魚が塩水と出合って死ぬのと同じになるのです。どのように呼吸しますか。大変なのです。鮭が塩水から淡水へ上っていくのには二週間の期間を費やして、少しずつ慣らしながら上っていくというのです。呼吸が苦痛でないようにしながら、歩調を合わせて移動していきます。


海へ入っていく時の気分はどうでしょうか。

640 * 六百四十
 
「ああ、入っていきたくない!」と言うでしょうか。皆さん、そう思いますか。皆さんに、死んでしまってどこへ行くのかと尋ねると、みな「霊界へ行く」と、そのように言うでしょう。それでは、その霊界へはどうやって行くのですか。死んで行くのです。かといって、誰でも死んでみたくはないものなのです。 それでは、河川水が流れてついに海に入っていくようになれば、どのようになりますか。河川水が海水をかぶると、どのようになりますか。「ああ、気分いい!」そのように言うのですか。すべてのものが小さくなってしまったような衝撃を受けるのです。縮小されたとでもいいましょうか……。 も大きいものから も小さなものになってしまったような、大きい衝撃を受けるというのです。


霊界に行きたくないとしても、誰でも行かなければならないでしょう。ここで自分は絶対に死なないという人、手を挙げてみてください。いくら刀をテーブルの上に刺して誓っても、人間は死なざるを得ないのです。死ねばどこへ行きますか。霊界に行きます。そこは大きい川と同じです。いくら大きい川といっても、流れていってすべて海に行くのです。

「海に行くことができない。海に行きたくない」と言うのは、生きているけれど死んでいるというのです。それは存在の価値をもっていないことと同じです。


私たちが霊界に行く前に、私が何をして暮らしたのかと、私たちの生活を一度ずっと反省してみる時、それは深刻な問題です。皆さん、霊界は未知の世界です。霊界はどうせ行かなければならない世界ですが、未知の世界だというのです。無限拡大の世界です。そこに行くようになれば、皆さんの先祖にすべて会えるのです。数千、数万の先祖と一遍に会える所です。彼らが皆さんを迎えるようになる時、評価するのです。


準備といっても、易しい準備はありません。それゆえに一生を見る時に、少年時代は青年時代のための準備時代であることを知っている人は将来性があるのです。壮年時代は老年時代のために準備しているのであり、老年時代は霊界に行く準備をするのです。一生自体は大宇宙の人格を備えるために一つの訓練過程をたどっている修練期間であり、準備期間だということを私はよく知っています。


今はビザとか国境が問題になるためにできませんが、言語だけでも統一されれば、どこでも私の故郷のように、私の国のように暮らすことのできる時代になるというのです。どうせ、そのように行かなければならないのです。ですから、ソ連でもアメリカでも、みな一つの家族のように生活しなければなりません。今後はテレビのようなものも、財布のように小さいものを作るのです。今でもそうではないですか。ポケットに入る小さいテレビも出ているでしょう。ですから人工衛星を中心として、すべて見ることができる時代に入ったというのです。どこに行ってもです。そのように集約された小さな世界が、すべて入ってくるというのです。

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人間生活が便利に、どこでも移動できるようになるのです。そのような小さなものを車一つにすべて積んで、行き来しながら暮らすことのできる時代にならなければなりません。そうなれば、いいでしょう。韓国を離れて七十、八十歳まで世界一周をしながらですね。そのような時代が間違いなく来るのです。先生は、そこに対する準備をしているのです。

四) 生涯はあまりにも短い

人間の一生は短いのです。生涯において十年がいつ過ぎたのか知らないのです。結婚して三十年以内に、すべてのものが決定されるのです。それゆえに、人生の道はいつも待っていません。忙しいのです。そして、一回ずつみな死ななくてはなりません。死なないですか。死なない自信がありますか。死ななくてはなりませんね。死ねばどこへ行きますか。霊界があることを知っていますか。先生は霊界を知っているがゆえに一生をかけてこの仕事をしています。世界をすべて料理しながらです。この世はつかの間です。十カ月の腹中生活と同じです。


統一教会は、その霊界へ行くことができる準備をするのです。ですから統一教会は、霊界で合格するための準備をする所です。では、そこで完全に合格するか、不完全に合格するかというのです。また、落第生になって不合格になることもあるというのです。このように見る時、皆さんは霊界に行く準備を地上でしなければなりません。地上という所は、旅人の旅路のようなものです。いろいろな過程を通過します。女性としてある父母から生まれて育ち、今は年も取るだけ取ってどこで生まれたのかも分かりませんが、そのように育ち男性に出会い、共に道を歩んできながら愛を通して子供も生むようになります。そのようなことをしていきながら苦労するのです。ちょうど苦労して馬車を引っ張っていくように……。

ところが、その車がいつ故障するか分かりません。険しい岩の道を通ることもあるでしょう。そこで誤ってしまうと故障するのです。故障すればどのようになりますか。これ以上行くことができません。それを修理しなければなりません。修理する能力がないと大変です。それで、力や能力がない場合には一年もかかり、二年もかかり、十年もかかるのです。そこを抜け出てくることができなければ死ぬのです。そのような旅路を行くのです。時には旅館に入っていっていろいろな人に出会ったり、時には立ち寄る所もいろいろあるでしょう。人生は、一つの旅行の道のようなもの

です。そうして行く所が結局は霊界なのです。


一生というものは早いのです。一生は本当に早いのです。物事の分別がつき事情を知って、ああだこうだしているうちに四十を越えればすぐ五十であり、十年はつかの間です。五十ならば六十はつかの間で、六十になれば七十がつかの間で、私も静かに考えてみると

「一場春夢」という言葉を実感するのです。


私たちの人生の一代というのはつかの間です。この一代が永遠の尺度を上げたり下げたりするというのです。秤と同じように上がったり下がったりするのです。そのようになっているというのです。


皆さん、見てください。皆さんが八十年生きたとしましょう。その中で夜に寝る時間を除くと四十年に減ります。半分に減るのです。寝ることも生きていることですか。寝ることは死んだことと同じです。寝ることは死んだ命なのです。それゆえに、二十四時間の中で生きようとあくせくする時間は半分にしかなりません。

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またここで御飯を食べる時間を一時間ずつ抜いてしまうとどうですか。御飯を食べる時間を一時間と考えなければなりません。またその中で友人の祝宴の日、町内の人の還暦日、誰かが死んだ日、葬式を執り行う日、病んで横になっている日、あらゆる日を除くと、生涯において生きている日が半分にもなりますか。この前計算してみると、生きているということが七年と出てきます。その七年の中で「本当に生きた」と言うことのできる日が何日出てくるかです。何日にもなりません。


この肉身世界は短い期間なのです。長くないというのです。それを知れば眠る時間が惜しいのであり、御飯を食べる時間が惜しいのです。御飯を食べることも行きながら食べます。寝るのも行きながら寝て、遊ぶのも行きながら遊んで……。それはどれほど悲惨ですか。そうであればあるほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。これは歴史的な内容だということを、皆さんが知らなければなりません。


自分が運を百ぐらいもって生まれたのに、百二十ぐらい生きて逝く人は、子孫が滅ぶのです。人の運はゴムひもと同じで、縮められるのです。しかし、八十ぐらい生きて死ねば二十ぐらいの福を残し、その運勢を子孫の前に相続してあげて逝くことができるというのです。そうでなければなりません。


二 死に対する正しい理解 一) 死は人生必然の道
人々は七、八十年生きればよい、死んでしまえばそれまでだ、といいながら死ねばおしまいだと思って今まで生きてきた人々が多くいます。しかし歴史路程を通じ考え深い人々は、どのようにすれば人が死なないで永生できるだろうか、もっと生きることのできる道はないかと考えてきました。み旨を抱いた人であればあるほど「人生とは何か。人間はなぜやって来て旅人のように逝くのか」と言い、

「人生は苦海」とか「草露の人生」だという話をしてきましたが、永生することさえでき

るならば、そのように悩む必要がないのです。


歩みをとどめて、揺れ動く心と傾く心情を抑え、「お前はどこへ行くのか」と尋ねて、それを解決するために闘ってきた人々が聖賢賢哲であり、あるいは数多くの道主たちだということが分かります。彼らはそれを解決するために出てきましたが、今日まで「私の体はこのような所へ行って私の心と私の心情、私の生命と私の理念はこのような所に向かって走るのである。だから天下のもとにいるすべての万民、あるいは天地に存在するすべての存在物はこちらへ行きなさい」と自信をもって命令した人はいません。


皆さん、ここで永遠に生きますか、無形の愛の実体になったところで永遠に生きますか。神様が無限な創造世界を見せたいと思う時、皆さんはこの体で神様についていくことができますか。ですから霊人体が必要なのです。これは妄想ではなく、事実なのです。見えない精神の中心となる神がいるならば、その神が相対的存在を必要とするならば、人間を連れてきて自分が創造した永遠なそのすべての理想圏を見せてあげたいし、与えたいことでしょう。


六百四十三
 
一つしかない服を着たならば、それを誰かがはがそうとすると、死んでも脱がないようにするのです。春夏秋冬の季節の服をきちんとしておいて、今は春なのに冬服を着ていたならば「これは冬服だ、脱ぎなさい」、夏に春の服を着ている人には夏服を持っていってあげて「脱ぎなさい」と言わなければなりません。そのようなことを知らなかったというのです。人間の死の問題も同じだというのです。代替することができる、より価値のあるものが何かを知らなかったというのです。


天は人間的な希望を中心として生きている地上の人間をして、新しい希望をもって死の峠も越えることができ、永遠の世界を欽慕しながら暮らせるようにするために無限に心を砕かれたのです。それゆえに信仰生活をする人々は、地上の希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えることができる希望を抱いて、永遠なる希望の世界を夢見て生活しなけ

ればならないということを教えてきました。


皆さんは、すべて霊界に行かなければなりません。それが一つの国ですか、二つの国ですか。一つの世界です。それでは、その世界で生活する内容とは何でしょうか。それを考えてみましたか。水の世界の魚は水の世界を離れては生きられないのです。水が絶対的な生命です。河川水に暮らす魚が河川水にだけにいては駄目です。海水にも行ったり来たりしながら生きなければならないのです。

なぜそうあるべきですか。淡水の魚は海水と接するその水を味わうことなしに繁殖することができません。それを知らなければなりません。海に暮らすものは必ず淡水に来てその水を味わってこそ繁殖するようになっています。二つの世界に通じなければならないのです。心と体もそのようになるのと同様に通じなければなりません。 死の道は、友もいない道です。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただひたすら一人で行かなければならない道です。行ってみることもできず、行けば戻ってくることができない道、一度行けば永遠に帰ってくることのできない道ですが、この道を行くようになる時に、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着する瞬間、その死を越えて立つことができる希望がないとするならば、そこでおしまいです。


韓国語の中にどういう言葉があるでしょうか。年を取って死ねば、「帰られた」と言います。おじいさん、おばあさんがなぜいらっしゃらないのかと尋ねると、「帰られた」と言うでしょう。どこへ帰ったのでしょうか。

霊界へ帰ったのです。

本来、無形の神様から出発したがゆえに、本然の故郷は無形の世界です。無形の世界から有形の世界を経て地上で繁盛して暮らして、その次には再び無形の世界へ帰っていくのです。そのように帰るのです。無形の父から出発し、有形の父の体を借りて生まれて暮らして、有形世界の体を脱いで本然の形態へ帰ることが、霊界に行くということです。


六百四十四
 
人間の男性、女性は、すべて五官をもっています。その中で頭に四官があります。目、鼻、口、耳、手、これで五官ですね。ここで一番重要なものは頭にあります。この頭にある四官というものは、神様を中心とした霊界を象徴します。肉体とは別個の世界でしょう。その頭は思いのままに回ります。それはなぜ回るのかといえば、四方を見るために、四方を聞くために、四方のにおいをかぐために、四方に向かって話すためにです。それゆえに、もし頭が回らなければどのようになりますか。

とんでもなく不便だというのです。


この地上に生きている人間は、第三世界である本然の世界に帰らなければならないために、愛の世界に行って暮らすことのできる私になるため、愛の世界において呼吸器官のようなものを準備しなければなりません。この肉身を破裂させて出ていくのです。赤ん坊がみな、赤ん坊の家を破裂させ、破壊しておなかから出てくるのと同じです。それで、産みの苦痛を受けるでしょう。同じように第二の

産みの苦痛が死です。


肉身が生きている間には何を準備しなければならないのでしょうか。水の中で空気とすべてのものに合わせることができる呼吸器官を準備したように、この肉身の世の中で準備することは、霊界に行き愛の器官を中心として呼吸できる準備をしなければならないというのです。そうして、体をすべて破裂させて出ていくようになれば、愛の器官を中心として呼吸し、制限的環境に生きてきたことを越えて、無制限に自由奔放な人間として生きなければならないというのです。


私も神様に似てみたいし、神様も私が神様の息子、娘であるならば似るようにしてみたいという観念をもつことは必然的なのです。ですから、私は神様に似てみたいし、神様は私を連れていきたいということを可能にする道を模索するはずです。それで、人は再び神様と似ることができる体をつけて生まれるべきだという結論が出てくるのです。そのように生まれる日を神様も待ち焦がれるはずであり、人間も待ち焦がれるはずです。

そのような人として生まれる日、そのような体で生まれる日、それは必要ですか、必要ないですか。これが、死だというのです。それでは、人間は死を歓迎しなければならないでしょうか、歓迎してはならないでしょうか。死ぬにおいて何のために死ぬのかというときに「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから、肉身を脱ぐことは無限な神様の愛の活動圏に私が同参するためであり、神様の愛の世界のためだというのです。


神様の愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。それでは、神様はそれを見てゲラゲラ笑いますか、それとも「うー」と言うでしょうか。人間世界では泣いたりわめいたりしているのを神様が見るとき、悲しむでしょうか、喜ぶでしょうか。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内へ突入できる喜びを迎えることができる瞬間が、第二の出生の瞬間、死の道を通過するその瞬間ではない

でしょうか。

それなら神様が皆さんの肉身が死ぬ日を喜ぶでしょうか、第二の無限拡大世界の愛のために活動する息子として生まれるその時間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱しなければ神様と関係を結ぶことができないという事実を知らなければならないからです。


六百四十五
 
神様の息子として本当に生まれる日には… …。あの無限な星の中で、ダイヤモンドの星の世界があると思いますか、ないと思いますか。それを考えてみてください。ダイヤモンドが欲しいでしょう。「金だけでできている星はない」とは言えないのです。それはあり得ます。

私たちの父である神様が、どれほどお金持ちでしょうか。考えてみましたか。無限なこの宇宙をあっという間に往来できます。それに関心がありますか。本当に関心がありますか。そうしようとするならば、神様が「やってはいけない、やりなさい」というその法度を守ればよいのです。そうすればそれが可能であって、自分勝手にしては可能ではないということは理論的に正しいのです。皆さん、神様が「やってはいけない、やりなさい」ということを守ることができますか。「人は二重になっていて、心が主体で体は相対なので、心と体が一つになりなさい!」。これは正しいですか、間違いですか。


神様の恨とは何ですか。真の息子、娘を心情的完成者として教育できず、兄弟的心情を教育できず、夫婦の心情を教育できなかったことです。この地上において夫婦がこうでなければならないというその心情的基準で教育できず、夫婦になって母となるところにおいてはどのようにしなければならないかという教育をすることができなかったというのです。これが、人生の教本だったのに、その教本をすべて失ってしまい自分勝手に生きる人間像になってしまったので、霊界に行く時は地獄に行くのです。

地獄に行くにも、一つの所に行けないのです。地獄に行っても放浪するあらゆる群れがいるのです。これを収拾しなければならないのがアダムとエバですが、知らずに堕落したから完成がないのです。それゆえに、すべてのことを知っている神様が責任を負うのです。救援摂理を誰が主導するのかといえば、神様が主導し、復帰摂理も神様が主導しなければならず、再創造摂理も神様が主導しなければ

ならないのです。


二) 死は三世界を連結する過程

私たち人間の一生は腹中時代十カ月、肉身時代百年、そして霊魂時代の千年万年を永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば口、鼻、目、三段階になっていますが、これは人間が生きていく三時代の姿を見せてくれているのです。口は物質の世界である腹中時代を象徴し、鼻は人の世界である地上時代を、目は霊界の天上時代を表しています。


皆さん、人は初生まれる時、 も深い水の中で生まれるのです。腹中時代は水中時代です。赤ん坊が母の胎内にいる時は、水中にふわふわ浮いています。さっと考えれば、母の腹中時代には息が詰まって生きるのが難しいように感じられます。しかし赤ん坊は胎内が宇宙です。そこが水中でも、赤ん坊にはその世界が自由天地なのです。水中に生きているので当然、水を飲んだり出したりすることをしなければならないでしょう。そのために、腹中の子供たちはホースをおなかに連結して暮らすのです。

六百四十六
 
人は三世界、蘇生、長成、完成時代を経るのです。腹中での水世界、それから地上での地球星世界、その次には天上での空中世界で住みます。言い換えれば腹中水時代、地上に生まれて暮らす百年地上時代、それから飛び回る空中時代、このように三時代を経るのです。 腹中にいる時は外側の世界へ行こうとしますか、ここにくっついていようとするでしょうか。このくらいの穴から私が抜け出さなければならないならば「うー」と言いますか、「ああ、これはいい!」と言いますか。「そうするならば、あなたがいる家がすべて破壊されて、あなたが住んでいた所の栄養価値とすべてのものが壊れてしまい、あなたの頭も長くならなければならないし、体も伸ばさなければならないのに、それでも良いのですか」。そう言えば、その時すべて「ノー」と言いますか、「イエス」と言いますか。生まれる直前まで、母は死にそうになりながら、力を入れて子女が生まれるその時間まで「ノー、ノー、ノー」としつつ、ぐっと……。追い出すので出てくるのです。それで、一つの世界はなくなり、次の世界でまた「ふうふう」息をするのです。


この地球星が母親のおなかです。このことをはっきり知ってください。腹中時代には何によって食べて息をしますか。口で息を吸い、鼻で息を吸いますか。どこで息をしますか。食べるのもへそで食べて、息もへそで吸うでしょう。へそですべてするから食べる口も必要ないし、息を吸う鼻も必要ないのです。それでは、見ることができる五官が必要ですか、必要ではないですか。必要ないのになぜぶら下がっていますか。目があり、鼻があり、口がなぜありますか。外に出て使うためにあるのです。


腹中時代には五官を使いますか。五官が必要ないでしょう。おしっこもしないし、うんちもしないし、すべて死んだようになっています。十カ月そのようにしているということが不思議ではないですか。おしっこやうんちは真の愛より先んじることができないというのです。おしっこやうんち自体が人より先に出てくることができないのです。アダムが出てきた次にそれが始まるのであって、先になることはないのです。そのようになっているというのです。


人間を見ると腹中時代には水を飲まなくてはなりません。人間の四分の三は水です。人間の世界は空気の世界をいいます。それゆえに水中にいる時は目、耳、鼻など五官は必要ないでしょう。水で五官が必要ないから目を閉じて微動だにしないのです。腹中で十カ月育つとき、鼻で息を吸ってみましたか。鼻で息を吸っては死んでしまいます。五官が完全にふさがっているのです。ところが、鼻がなぜ必要ですか。次期の世界を準備するのです。 これが、順次に呼吸器に入っていくならば、このあらゆることを破壊して出てこなければならないのです。ただこれも切ってしまわなければなりませんし、母の子宮や水の家すべてを破壊して出てこなければなりません。それはどういうことかといえば、子宮と水の袋、その環境がすべて破壊されるのです。死ぬのです。水中世界に破壊と終末を告げて、新しい出発が始まるのと同じです。


へそに緒がついているのを再び使わなければなりませんか、切って捨てなければなりませんか。切って捨てなければなりません。

「その人の命綱であるのに、人と人との命綱を切ってしまうのですか」と言うかもしれません。それを見る時に赤ん坊は「死ぬ」と

「わーわー」泣くけれど、神様が見る時は笑いますか、泣きますか。全く同じです。

六百四十七
 
空気の世の中で今まで、霊人体が体にくっついて胎児のように肉身を吸い取っていましたが、肉身がすべて老いてしまったのでけ飛ばして出ていこうとしているのに、肉身が

「ああ死にたくない。死にたくない!」と言うとき、神様が見ればほほえみますか、「ああ」と同情しますか、「この娘め、こいつめ」と言うでしょうか。赤ん坊が生まれて父母の前に愛の対象になり、父母と愛の友になることができるのが地上世界です。そして、父母と愛を共にすることができる地上世界に生まれるのと同じように、霊的無限な世界に通じることができる父母であられる永遠な神様と愛を交わすことができる霊界に生まれなければならないのです。


地上で愛を呼吸する人は死んでいるのではなく、生きているのです。腹中で呼吸をするときは、未来の空気世界でのパイプを装置して生きています。生きていますが、へその緒に連結された胎を破壊させて死んで出てくるようになる時には、新しい次元、高い次元によってどれほど変化しますか。高い次元で供給を受けるのです。空気の供給を受けて出てくるというのです。ここで出てきてからはまた何によって発展させますか。愛です。愛の要素を受けるのです。御飯だけ食べていてはいけません!御飯を食べることは、死に向かって進んでいるのです。水を飲んでこのように暮らすことは、すべて死に向かって進んでいるのです。ここで何のために、この期間に何を満たせばよいのですか。この期間には、

新しい愛の人格を形成しなくてはなりません!


腹中から空気世界へ連結させて出てくる時は、腹中世界で生きたへその緒と水の袋をすべて破壊させて出てこなければなりません。その器官、腹中のへその緒と胎は破壊されて死ぬのです。死と同時に何が出てきますか。この宇宙、地球星の母のところに現れるのです。このようにして、口によって元素の補給を受けて生きているのです。


せみを知っていますね。せみが飛ぶ前の幼虫のとき、「私は幼虫として生きるぞ。ああ殻を脱ぐのは嫌だ!」と言っても、脱いでしまえば、パタパタと飛ぶようになるのです。幼虫からせみになるときに、それを脱ぎたいですか。「ああ、陸地も空気もみな嫌だ」と言うでしょうか、「いい。早く脱ぐようにしてください」と言うでしょうか。飛ぼうとは考えていないのです。とんぼも初めは幼虫になって水中で泳ぎ回っていますが、地上に上がってきて一時ははい回ります。その次には、パタパタと天下を自分の舞台として飛び回るのです。

昆虫類の中には三段階の世界を経るものが多いのです。昆虫といえば、羽のない昆虫がいないのです。大概羽があるでしょう。昆虫もこのように水で、陸地で、空中で生きるのに、万物の霊長である私たち人間が地上でだけ生きて良いですか。皆さんも「嫌だ」と言うけれど、死んで脱いでみると「ふう」と言うのです。それは嫌ですか。事実がそうなのです。うそではなく事実がそうであることを知らなければなりません。三段階の世界を経ることがそっくり同じだという事実を、皆さんは知らなければなりません。死が私たちにとって、第二の出生で、幸福になる関門だと

いうことを皆さんは知らなければなりません。


六百四十八
 
昆虫も飛び、小鳥も飛び回ることができるのに、人が飛び回ることができないのですか。植物の種も、風が吹けば飛び回ることができるのです。皆さん、あのたんぽぽの種は自然に飛ぶようになっています。飛び回るようになっているのです。このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのに、万物の霊長である人が飛べませんか。それなら神様を見てじっとしていられますか。「神様、みんな飛んでいるのに、私はなぜ飛ぶことができないのですか」と抗議したくないですか。神様が「まあまあ!じっとしていなさい。あなた方も何十年か過ぎればそのようになるはずだから、それまで待ちなさい」と言う時、

「ああそうですか。それならそうします」と言うのはかまわないのです。

それではその時まで何をすべきでしょうか。その世界に行って合うように、ここで訓練しなければならないのです。父母を見て愛してこそ、神様を愛せるのであり、新郎を愛してこそ、あの世に行って神様を愛することができるのです。訓練場が地上世界だというのです。それでは、死なないでそれを願うことが可能ですか。この体を脱がずに可能ですか。体を脱がなければなりませんか、脱がなくてもよいですか。


人は水の世界で一度生きてみたし、地上の世界で一度生きてみたでしょう。それでは、空中の世界で一度生きてみたいですか、生きてみたくないですか。皆さんが腹中から生まれるとき「私は陸地の世に出て口で蜂蜜も食べ、餅も食べ、御飯も食べ、牛肉も食べ、みんな食べる」と考えてみましたか。そういうことを考えてみたことがありますか。「ああ、ここから出れば死ぬ」と言いつつ、へそで息をしながら生きているのです。

そう考えると、どれほど苦しいでしょうか。窒息するほどでしょう。それでも腹中から外に出ていくのではないかと思って「ああ、出ていかなければいいのに」と言うのです。しかし「出ていかないほうがいい」と言うかもしれませんが、時になればすべて破裂してしまうのです。羊水がぱっと破裂し出ていくのに伴って外に出れば、安産になるのです。よく生まれたということです。


地上時代には、宇宙が母で、万物が母です。これが地上です。地球星が母なのです。元素を皆さんに供給してくれるでしょう。別の段階の元素を供給してくれる母なのです。母の腹中で育っている時には腹中で呼吸をするのですが、何によって呼吸しますか。へその緒で呼吸するでしょう。これが、母の体と連結されたホースなのです。よく知っておかなければなりません。しかし、第二の世界、空気の世界に連結されたことを知っています。腹中で暮らしていたのをけ飛ばして出てくれば破壊です。その時は、涙と同時に何に連結されるかといえば、息をする穴、鼻の穴によって息をするようになっている、空気の世界に連結されるのです。空気の世界に連結されて、鼻の穴が唯一の補給路となります。

水は腹中時代を象徴します。その次には上に上がっていくでしょう。鼻は空気の時代です。母の腹中から生まれて空気の時代です。その次には目の時代です。太陽の時代、太陽の光の時代です。「愛は光だ」と言います。明るくなるというでしょう。光の世界です。人生は三時代を経て暮らすというのです。とんぼも水中で暮らし、地上に来て暮らし、殻を脱いで飛び回りながら虫を捕まえて食べます。三時代を経るのです。

万物の霊長である人間も同じです。腹中時代。母の腹中から出てくる時は、自らの暮ら



六百四十九



していた所帯道具を抱き締めて出てきますか、すべて破壊させて切り捨てて出てきますか。一つでもつけたまま出てくれば大変なことになるのです。へその緒で食べたり息を吸ったりしていたのに、それを切って捨てれば死ぬでしょう。しかし、母の腹中から出てくる時はそれを切って捨てなければなりません。無慈悲に切って捨てなければなりません。すべてを破壊させて出てくるのです。


死ぬこととは何ですか。地上生活は、空気中で胎内にいた時のように泳ぎ回って暮らすことと同じです。空気のふろしきの中で生きています。そうではないですか。死ぬこととは何ですか。死ぬことは特別なことではなく、第三の人生として出生することです。その瞬間が死ぬ時です。そのように考えると気分が良いでしょう。


この体が今何をしなければなりませんか。腹中においてへその緒で息を吸う時と同じように空気のパイプである鼻の穴を準備し、破裂して出てきた時にへその緒に代わって息を吸うのです。それと同じように、生まれてしなければならないことは愛の体恤です。愛という空気を吸わなければなりません。父と母から愛という空気を吸い込まなくてはなりません。愛の空気の供給を受けて、すべて経ていかなくてはなりません。

一家庭に赤ん坊として生まれ、サインカーブと同じように上がっていってみな死んでいくのであり、赤ん坊として生まれ、大きくなって、その次には分解されていくのです。赤ん坊として生まれ、赤ん坊として帰っていくのです。そのようになる時は第二の腹中世界をけ飛ばして、第三の愛の呼吸器官に連結されなければならないのです。父母の愛、兄弟の愛をけ飛ばして、大宇宙の神様の本体に和する愛の世界へ入っていきます。


霊界は愛の空気です。愛の空気がぎゅっと詰まっているのです、愛の空気!それゆえに皆さんは、今この地上世界で愛の息をすることができるパイプを装置しなければならないというのです。ですから、霊界の体験が必要で、霊的な愛を感じることができて呼吸で

きる人になってこそ死なないというのです。


私たちは、いつかは肉身を脱いで霊界へ行かなければなりません。ですから、この世に生まれた私たちは、死を覚悟しなければならないのです。また、善の自我を永遠な世界で第二の私として立てるためには苦労をしなければなりません。母の腹中で胎教をよく受けてこそ健康で善なる赤ん坊として生まれることができるように、この地上世界の生活も腹中での生活と同じなのです。ゆえに神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の神聖な神性を見習って成長しなければなりません。成長し、また命を懸けて愛でもって越えていかなければならないのです。


三) 死はもっと良い世界へ移ること

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人間は、自分を中心として見る時は希望をもっているようですが、死の峠を越えることができる希望をもつことができずにいます。そのような希望をもてないまま消えています。これを人生のパターンだと思って死んでいくべきか、そうでなければ、死を嘲笑して越えることができる一つの希望を求めて、その希望を楽しみながら逝くのか。これが、今日地上で生きている人間たちが考えなければならない重要な問題だと思います。


私たちは、結局どこへ行かなければなりませんか。霊界です。それはどういうことですか。死後の世界だといいますが、死後の世界ではないのです。なぜ死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界であるために、死後の世界ではないのです。真の愛を中心として出発したために、私が真の愛の位置に立つようになる時は、今ここが霊界です。霊界肉界、二つの世界が一つのものです。それゆえに愛が偉大だというのです。


皆さんの第一の父母は皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。皆さんは、体が大きくなるように、地からすべての要素の供給を受けます。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入っていくことが死ぬことです。第三の父母の所に行く時は、そのまま入っていくのではありません。第三の父母の所に帰ろうと思えば、本来の父母だった神様の姿に似なければならないのです。

皆さんが「七十になっても、私はこのように逝く」ということを一度考えてみましたか。

「年齢が八十になって死ぬ瞬間でも、私はこのように逝く」ということを考えてみましたか。死ぬ場においても「私はこのように歴史を明らかにして、今までこの世代にこのようなことをして、今後もこのようなことをし得る証拠物を提示する」と言うことができなければなりません。言葉だけでは駄目です。そうしてこそ彼が死んだのちに、人々が彼をつかんで涙を流して「そうだとも、そうだとも」と言うのです。そのようにさせなければなりません。そのようなことができますか、皆さん。


人生の行くべき道とは、無限であられる愛の神様を探すことです。十回でも百回でも死の峠を経たとしても、また死んだとしても絶えず探していかなければならない神様の愛、その愛を探すことが人生の高の行くべき道です。


人が生きていくにおいては必ず達成しなければならない目的があります。その目的を中心として十年、二十年、三十年、七十年、一生の間行かなければならないのです。目的が大きければ大きいほど、内的により一層強く決意しなければなりません。そうでなくては、その目的に到達できないのです。時間という過程を通して、その目的を凌駕できる内的な決意を続けない限り、その目的を達成できないというのです。


心の終着点、すなわち欲望の終着点とはどこでしょうか。神様の愛を占領する所です。神様を占領したとしても、その中でもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自らの神様ではありません。ですから、神様の愛を占領しなければならないのです。その愛だけ占領すれば、神様はいらっしゃらなくてもかまわないというのです。その方のものが私のものであり、私のものがその方のものになるとき、初めて内外が一つになるのです。

六百五十一
 
そのような国が上下の等級がない理想の本国となるのです。そのような位置に横たわるようになれば天下にあるすべての存在が良く見え、天下にあるすべての存在は自分自身のためにあると感じられるのです。そのようなものが神様の愛ならば、今日人間の行くべき天上世界、すなわち天国はどのようになっているでしょうか。そこは愛によって充満している所です。


統一教会の先生はどのような位置で死ぬのでしょうか。民族と大韓民国まですべて抱いて、世界のために死ぬことでしょう。韓民族が一つになり世界のために死のうとするときは、世界と共に生きることのできる道があるので、その道を探し求めていくのです。


おじいさん、おばあさんも、千年万年後代の子孫も、霊界に行っている霊人たちも、永生へ行くその公式的路程は同じなのです。そこには「ため」に生きた人々だけがパスできる正門があり、そこを門番が守っている事実を知らなければなりません。そこにパスできる資格者をつくってあげるために先生がお願いするのだということを、よく理解してください。


四) 死は新しい次元への昇華である

堕落しなければ、人が死ぬことは幸福です。それで今日、統一教会は、死を悲しみで迎える教会になってはならないと教えるのです。それゆえに、死を「昇華式」と言います。


皆さんも肉身を脱いで死ぬことが嫌だというでしょうが、実際死んで肉身を脱いでみると、私たちは、霊人体として第二出生の幸福の関門を通過するために、さっと飛んでいくのです。私たちは、初めに母の胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくる時、すべてけって、切ってしまって生まれるのと同じように、私たちの霊人体に対して肉身はふろしきのようなものであるために、これを切ってしまって飛んでいくのです。ですから、人間は結局、水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠なる真の愛の世界で生きるようになるのです。


統一教会は、死んだのちの葬儀もそのようにしません。「昇華式なのです!」。どこかに行くと思って生きています。天下において怖いものがどこにありますか。罪悪の世界、混乱した世界において自主的な中心の形態を備えて、天地の度数を合わせて神様の愛の圏内の垂直の位置に入っていくようになります。なぜ垂直の位置に入っていくのでしょうか。その場には影がありません。垂直の位置に影がありますか。すべてのことが完成です。それからこれが回るようになるために、その回る環境全体が垂直化されます。

自らの死の一日を行くときに、私がどのように九〇度で天上に跳躍して昇華し、上がっていくかということが問題です。四五度で行っていては、そこにたどり着くことができません。ただ九〇度でのみ上がっていってこそ神様の愛の相対になれるのです。神様の愛は直短距離を通じるために、九〇度以外にはありません。垂直しかないのです。


六百五十二
 
統一教会では死んで葬儀をすることを「昇華式」と言います。死んだ人にすがりついて泣くのを見れば、死んだ霊が嘆息するというのです。「こんなに無知だから、私の行く道を綱で引っ張って行くことができないようにしている」と言うのです。そのようなことを知っているために、統一教会では「昇華」と言うのです。高潔に飛翔するというのです。愛の力をもって押してあげなければなりません。引っ張らず、押してあげなければなりません。昇華式とは何ですか。変化して一段階上がっていくということです。


今日、人間が死んでいくとはどういうことかを知らなかったのです。それは悲しみではないというのです。それは次元が低い世界から次元の高い世界へ、愛の橋を通じて移動することだと思うのです。ですから統一教会は死を「昇華式」と言います。次元高く昇華するということです。それは愛でのみ可能です、愛でのみ。


神様は誰のためにいらっしゃるのでしょうか。愛の主体である神様は愛の相対を探すために、立てるためにいらっしゃるというのです。何を中心として。真の愛を中心として。真の愛は「ため」に生きて投入して忘れてしまうのです。そこに永生があるというのです。世の中万事がそうです。私たちのような人はそうです。永生問題を知っているために、絞首台が問題ではありません。怖いものがありません。

それゆえに統一教会では死を「昇華」と言って、その式を「昇華式」と言うのです。統一教会員たちは、霊界に行っている妻と話しながら生きているのです。今この世ではそのようなことを理解できずにいるので、あきれかえります。それは、お金を払って買うことができますか。


昇華式は、私たちの興進が行った時から生じました。その時、成立したものなのです。病院で酸素マスクをしているのを先生が外さなければならなかったのです。霊界へ行く道をすべて整理しておかなければなりません。そうすれば、堕落圏がありません。それゆえに興進がこの前来て役事しながらも、「お父様に対する負債は返す道がない」という話をしたのです。真の父母の家庭で育った青少年として、霊界に行ったのは初めてです。興進が行くことにより、霊界の再臨主と同じように霊界のメシヤとして行ったのです。それで、彼と一つになることによって高い所に上がっていくのです。


霊界に行くことは、悲しいことではありません。解放のラッパの音とともに天国の旗を掲げて、足どりも堂々と百戦百勝し、天下の故郷に錦を飾る旗を掲げて、民族と人類の歓声を受けて堂々と入っていくことができる還故郷の道です。悲しいことではありません。統一教会では泣きません。それを何と言うのですか。「昇華式」と言います。

ゆえに興進君が行くことによってこの死亡の垣根を、死の垣根を壊してしまうのです。それで、「昇華式」と言うのです。死は落胆や気落ちではありません。落ちるのではなく、跳躍するのです。昇華するのです。統一教会の食口たちは死に対する恐怖をもってはいけないのです。死はこのような自然循環の法度によって来るものです。もっと良い世界に移してもらうための手順なのです。


六百五十三
 
愛ですべての死亡圏に勝ったのです。「真の愛は死亡圏に勝つのである!」。これが創造原理です。それで、「愛勝日」を宣布しました。今興進君がそのように霊界に行くことによって、私たち統一家のすべての息子、娘たちが昇華式を行うようになるとき、サタン

が讒訴する何らの条件もないというのです。あの世に行く船に乗るようになっても、義人たちがすべて迎えにくるのです。そのような歴史的で大革命的な次元に連結される時間です。


「愛勝日」という言葉は何ですか。皆さんはそれを知らなければなりません。先生は興進が死んでから送り届けるまで、涙を一滴も流しませんでした。死亡圏に勝たなければならないのです。愛をもって死亡に勝ったという、このような立て札を立てなくては昇華式がなされないのです。「昇華式」という言葉は興進君から出てきたでしょう。そうでしょう。その愛勝日という、その愛勝とは何ですか。死亡に勝つことです。

他の人々と同じならばお母様も身もだえして痛哭しかねないことですが、お母様が涙を流すといけないのです。三日以内にこの式をしてあげなければならないのです。死亡に勝ったのだと宣布しなければなりません。それゆえに、統一教会では昇華式が生じたのです。死亡を越えて喜びに向かっていくのです。昇華式を経ていく人々は、霊界のすべての谷間をひゅーと越えていくのです。もちろんそうでない者たちは、行って中間にとどまっています。それを知らなければなりません。昇華

式というものは、興進君から始まったのです。


統一教会で人が死ねば、昇華式をするでしょう。それは跳躍して別個の世界へ移動する瞬間です。それゆえに歓声を上げなければならないのです。死んでいく人は、霊界をよく見るのです。泣くような所へ行くのではないのです。楽しい所に移動していくのです。堕落したため、目がすべてめちゃくちゃになって分からなくなったので泣くのです。 痴呆が起こることもそうなのです。世の中で良心自体が麻痺して肉体に主管されれば、地獄の霊人体と対話しながら痴呆が起こるのです。そのような人は、善の霊人を通し天国の理想を記憶させて、順次浄化して昇華、昇

天するようにしてあげなければなりません。


すべての人々は生まれて、結婚して、死ぬ時に戸籍地に申告をするでしょう。私たちもそのようにしなければならないのに、私たちの国がありません。私たちの国があれば私たちも生まれて、結婚して、昇華する時に登録をしなければなりません。あの世に行けば、皆さんはアメリカ人として入っていくはずです。「どこから来たか」、「アメリカから来た」、「天国に入りたいか」と、そこの門番が尋ねてくるのです。「どこから来たか」、「真の父母に侍っていた地上天国から来た」と言えば、天国に入っていくのに何ら問題がないのです。これは事実です。コンセプトではなく、事実なのです。

五) 死の前での姿勢

人々が死ぬ時、初に誰を呼びますか。神様を呼びます。 も難しい立場で神様を求めることは、その個人にあっては 高の真実です。死ぬ時、本当に神様を呼んで死ぬ者には許される道が開きます。それはなぜでしょうか。死の道理がそのようになっているためです。その原則に近い立場で、その原則だけつかんで死ぬようになれば、回生できる道が開かれるのです。

六百五十四
 
それゆえに、すべての人々が死ぬ立場に行くと「ああ神様」と神様を求めるというのです。これは教訓中の真実の教訓です。人が死ぬ時は、それでも正しい言葉を残して死ぬのが普通でしょう。そのようなことを見る時、誰が教えたのか分かりませんが、よく教えたものです。それは正しい言葉の中の正しい言葉です。


死ぬ時も四位基台を備えなければなりません。四位基台を備えることができずに死ぬ人は、死への道も正しく行くことができません。それゆえに死んだのちも、霊魂が行ったり来たりするのです。それでは、このような原則を知っている皆さんは、死ぬ時には誰をつかんで死にますか。神様、その次には真の父母です。生まれる時もその方を通して生まれて、死ぬ時もその方を通して死んでこそ、霊界でも永遠に共に暮らすのです。その方を通して出て、その方を通して結末をつけるのです。すべてこの原則のもとで生きていくことが孝の道理であり、忠の道理なのです。このような孝と忠の道理を果たした人が、人生行路において果たすべき責任を全うしていく人だという結論が出てくるのです。生き方はこのようにしなければならないのです。


皆さんが死ぬ時、何を中心として死にますか。愛をすべて忘れてしまって死にますか、しっかり抱きかかえて死にますか。愛の中でも誰の愛をつかんで死にますか。父母の愛を先につかまなければなりません。それから夫婦の愛と子女の愛をつかまなければならないのです。死ぬことも四位基台の原則に符合しなければならないのです。


今後、皆さんの子女にどういう遺言を残すべきかというのです。どういう遺言をするのですか。父母がしていないのに子女に「しなさい」と言えますか。そのような父母は、子女を利用しようと思っている父母です。ですから、皆さんが先に実践してから、死ぬ前に息子、娘に「私はこのように恥ずべきことがないように生きたから、お前たちもこのように生きろ」と遺言をすれば、その遺言は神様が永遠に守ってくれるのです。皆さんは死ぬ時に、後孫にそのように遺言する自信がありますか。これは深刻な問題です。


普遍的に人は歴史をおいて、永生を中心として十年、百年だけではなく千年万年、億千万年を考えるようになるのです。人が死ねば動物と同じなのに、それを残してどうするのですか。

近ごろは宗教を信じず神様を知らない人も「ああ、名誉を残さなければならない」と言っていますが、その名誉を残してどうするのですか。アメリカの愛国者になって記念館に入ったとしても、アメリカが滅びる時は記念館がすべて壊れるのにです。知っているのはアメリカ国民ぐらいです。名前を残してどうするのですか。ですから滅びまた興隆する歴史時代にいくら残したところで、「良い」と言っていたものも悪く取り扱われるのです。 しかし、すべての主権者は百年も生きることができずにみな死に、国も何百年、何千年も経たないうちに滅びますが、永遠に死にもせず滅びない方がいるならばどうでしょう。そのような方がいるならば、名前、名誉を残したことをその方の前にすべて任せて依託したいものなのです。皆さん、そのように考えてみませんでしたか。


六百五十五
 
天国を中心として死ななければなりません。天国は世界のどの国よりも大きいでしょう。天上天下に一つしかない天国で死ぬのです。それでは、どこで死ぬのでしょうか。死ぬにも場所があるのです。これは、韓国的なつまらないことではいけません。韓国的にいくら死んでも駄目だというのです。高の位置、天上天下を通過した神様の心情の国を中心とした 高の位置で死ななければなりません。天国の真ん中で死ななければならないのです。その天国が も良いのです。それでは、世界がすべて反対するとき、どのようにしますか。逃げればいいですか。違います。平然と耐えて、天下がすべて旗を掲げて歓迎する立場で死ななければならないのです。


神様のみ旨を信奉して、神様のみ旨を立ててきた数多くの人々はどのような人々だったのかといえば、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私たちは歴史を通じてよく知っています。

皆さんは各自が死に逢着したとしても、これを越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えていけば、私は天の前に堂々と立つようになるはずだという希望と、心で憧憬した世界、その本郷に向けて喜んで走ることができなければなりません。神様の理想世界を願う心が切実であってこそ死に勝つことができる存在になる、ということを皆さんは悟らなければならないのです。


天の希望を抱いて暮らす人は、どのような人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も、喜びによって越えることができる人です。そのような人が天の希望を抱いて暮らす人だということを知らなければなりません。それゆえに皆さんは、死を前にして世の中万事を恨んで嘆息する人にならず、喜んで天の前に立って自らの死の価値を誇ることができる人にならなければならないのです。

天はこのような希望の息子、娘を探していらっしゃるという事実を私たちは知らなければなりません。このような立場に立って天の喜びを感じた人がいるとするなら、彼は神様が愛すまいとしても愛さざるを得ないのです。そのような立場で天に対して泣き叫ぶ群れがあるとするなら、天はその泣き叫ぶことにこたえまいとしても、こたえざるを得ないのです。


み旨のために死のうとする人は生き、生きようとする人は死ぬというのです。これはどういう話ですか。み旨のために死ぬべき立場では死ななければならないというのです。それでは、死ねばどうなるでしょうか。死ぬ前には私のものですが、死んだのちには神様のものになります。それは、私たちが堕落した血統を受けたからです。ですから、死ぬ前までは、私たちの生命すべてはサタン側の因縁から抜け出すことができないのです。しかし、死んだのちには神様と因縁が結ばれるのです。

生命と死を見てみるとき、どちらが強いですか。死より生命がもっと強いですか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。したがって、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬことを嫌がれば駄目なのです。


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劉孝元協会長がこの世を去る時、「先生に会って今までこのようにやってきたが、終わりをどのように結ぶのか」と私が尋ねたところ、劉協会長は「永遠に変わらない」という言葉を残して逝きました。そうでなければならないのです。サタン世界はいずれ死ななければならないのです。死ぬことなしに復活はできないのです。一つの時代を過ごさなければ、他の時代を迎えられないのです。


聖書でいう死とはどういうことですか。神様が永遠にもつことができる生命を殺せというのではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せということです。ですからみ旨のために死のうとする人は生きるというのです。この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ復帰ができないのです。これは復帰の正常な論法です。それゆえに、生命を差し出すことができるかということがも大きい問題です。先生がこの道を出発する時は、どうだったでしょうか。私は、生命

を差し出す覚悟ができているかを考えました。


私の生涯に何をするのでしょうか。愛の墓を残していこうというのです。これが結論なのです。「愛の墓を残していこう!」。愛の墓の中で生きれば恨がないというのです。墓のような、いくらうんざりするような所で生きても、愛の中で生きれば恨がないというのです。「私たちは生きながら愛の墓を残していこう!」。そうすれば、人生は永遠において成功するのです。

そのように皆さんが生きて死ぬ時は、神様が祝福してくれるでしょうし、霊界では神様が息子、娘を連れて歓迎に出てくることでしょう。その時には、指輪をはめることができなかった手ならば天国のダイヤモンドをはめてくれるでしょうし、服を着られなかったとすれば天国の皇族たちが着る高の服を着せてくれることでしょう。私の一生は何を残すのですか。愛の墓です。そのように理解して、それを忘れないでください。さあ、一度そのように生きてみるという人は手を挙げてみましょう。みんな挙げましたね。神様の祝福が皆さんと共にあることでしょう。


六) 祝福によって永生の道が開かれる ① も重要なことは永生問題

人は誰でも、自分なりの生の道を願って生活をしています。「生活」といえば一日一日暮らすことをいい、「生涯」といえば一生の生、一生を通して暮らすことをいうのです。さらに宗教をもった人々は、「永生」という言葉を使っています。永生とは一生ではないのであり、永遠な生活を送ることです。永生するためには、生涯路程をその永生にどのように連結させるかということが重要であり、それをすることが生涯の責任です。

皆さんは、どのくらい生きると思いますか。みんな「七十、八十までは生きる」と考えているでしょう。その前に死ぬとは考えませんか。皆さんは欲張りですね。私が一生を生きていくのに、八十で死ぬとか百歳になって死ぬはずだと絶対的に信じるとしても、あす死ぬかきょう死ぬか分からないのです。御飯を食べている途中で死ぬかもしれません。今夜、帰ってきて履き物を脱いで、眠っている途中で死ぬかもしれません。

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そうです、皆さんの考えでは「ああ、私は若いのでこれから少なくとも四十年、五十年は生きる」と、そのような欲をみんなもっているでしょう。神様に保証を受けていますか。皆さんはできるだけ短く、一年以内に死ぬと思いなさい。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。この観念をもって生きなさい。できるだけ短く計画するほど幸せだというのです。短く計画を立てるほど損害を見ないのです。その期間に真実に準備するその内容が、自らの永遠の生命の家を建てるのです。


夜に寝床に入る時、脱いでおいた履き物を翌朝再び履く自信があるのですか。いくら忙しいといっても、世の中に永生の問題以上に重要なことはありません。離れていく人々がいることは、この世で永生問題を決定づけるという深刻な感じが彼らにないためです。


信仰の道とは今生きている人生、肉身生活の準備ではなく、永遠な世界の生活のための準備であるに違いないという信念だけもつようになるならば、それはほっておいてもかまわないのです。人は時が過ぎていけばいくほど、四十を越え五十を越えるほど、死ぬ日が近づいてくるために永生概念が深刻化するというのです。年を取るほどますます深刻化す

るというのです。


愛というのは年を取るほど希薄になりますが、永生概念だけ入れると、年を取るほどますます深刻化するのです。それゆえに宗教理念だけが今後世界を主管できるのです。邪悪な環境、混乱した変化がどれほど頻繁に起こっていますか。頻繁に変わる環境を貫き越えて、いかなるところで悲喜劇がぶつかってきても、永生概念だけ徹底すれば、すべてのことが問題にならないのです。


神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値をもつことができる愛の対象者として造ったというのです。これは驚くべき事実です。このごろ、人間一人の生命の価値がどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではないというのです。神様の前では宇宙を与えても取り替えることができない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男性を造り女性を造ったという驚くべき事実、それはすてきでしょう。


私たち人間は、神様が造られた創造的な傑作品として神様に似て生まれたというのです。神様が永遠であられるので、私たちも永遠な性稟をもたなければならないために、私たちの心は老いないというのです。それゆえに、人は永生しなければならない、永生してこそその傑作品の存在的価値をもつことができる

というのです。


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人々は誰彼を問わず高を願っています。人間が 高の位置に行くようになれば、神様は私のものであり、また私は神様のものなのです。そして、そのようになれば私は神様の息子になって、神様御自身にもなるので、宇宙は誰のものになるのですか。神様がも愛して、 も貴く思う物があるならば、それを一日、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちにほうり投げるようにつくったでしょうか、永遠に共にいるようにつくったでしょうか。永遠に共にいるようにつくられたのです。人も同じです。人が生まれて死ねば、それまでとなるのがいいですか、永生しなければなりませんか。永生しなければならないのです。なぜでしょうか。絶対者、神様が絶対的な愛を中心として喜ぶことができる対象であるためです。 神様が永生なさる絶対者ならば、その方が愛することのできる対象も永生しなければなりません。それで、人々は古くから永生することを願うのです。これをはっきり知らなければなりません。それゆえに、絶対者である神様は永生する価値をもった愛する息子、娘を求めざるを得ないというのです。


愛すれば愛するほど共にいたいのです。愛する妻が死ねば、その妻のハンカチを持って独りで生きた人もいます。ネルーのような人は、自分の妻が若くて死んだのに、その妻がバラを好んだからといって一生の間バラの花をつけて行き来しながら過ごしたのです。それなら神様が一つしかない限りなく貴い息子、娘たちを造る時、百年くらい生き、その次に滅びるように造られたでしょうか。それゆえに、人は永生することが原則です。


人は愛で生まれ、愛で大きくなり、愛で生きて、愛で死にます。ところが、そのままなくなるのではないのです。神様、主体であられるその方が永遠、不変、唯一だから、その前に対象的愛の位置に立つようになる時は永生するのです。永生という理論がここから生じるのです。生命から始まるのではないのです。


愛のゆえに人間を造ったとするならば、永遠であられる神様、絶対的な神様、永生する神様であるために愛に一致した人間自体は永生を備えている、ということは自然的な論理です。それゆえに永生しようとするなら、その真の愛圏内に生きなければなりません。


「私たちは、永遠であり得る!永生を願う!」。永生を願う時に変わらないのは何ですか。愛です! このようになるのです。ほかのものはみな変わります。環境的に変わるのです。それでは、愛はなぜ変わらないのでしょうか。愛は、すべての生命力の中心であるがゆえに変わらないのです。愛がなぜ変わらないのでしょうか。愛は理想的な要件の中心の位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなる前にはなくならないというのです。愛は宇宙の中心になっているために愛と一つになることによって、その愛は神様を中心とした愛と一致しているために、神様がいらっしゃる限り残っているというのです。


永生、私は永生する人です。それから、真の愛を実践する人です。永生と真の愛を私はここで実践する人だというのです。ですから、私がここでしているすべての仕事、工場で仕事をして何かをするということが、永生を延長させることができる材料だというのです。「永生を訓練して永生を育てる、このような訓練材料を生産することが、今私がしている仕事だ」と考えなさいというのです。皆さんに永生と真の愛は、いつも必要なのです。永遠に必要なのです。


自分の体と心の完成とは、真の愛に属することにより根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、それから理想の結実を結ぶのは愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛によって、真の愛を中心として神様も永存しています。神様が永存するのは何を中心として永存しますか。永生は愛によって連結されるのです。それで、永生の環境をなすには愛の環境を中心として生活しなければならないのです。愛の実体圏をも



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つには、愛を中心として実体的な体恤をしなければならないのです。


「どのように永生するか」と尋ねれば、皆さんはどのように答えますか。イエス様を信じれば永生しますか。信じれば救われますか。とんでもないというのです。愛によってのみ救いを受けるのです。神様の創造原則の本質的原則から見るときに、真の人だけが神様の愛の同伴者であるので、真の愛をもてば永遠に生きるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で生きるときに、自分がどこに行って生きるべきか、すべて見

ながら生きるのです。


② 愛から永生概念が出てくる

神様の性稟がどういうものか、漠然としているというのです。神様は絶対的です、唯一、永遠、不変なのです。それは否定する道理がないのです。そのような愛をもった人は、絶対的な幸福者であり、唯一的な幸福者であり、永遠的な幸福者であり、不変的な幸福者です。そこに初めて永遠な自由があり、絶対的な自由があり、不変の自由、唯一の自由があるのです。そこで初めて幸福も、絶対、唯一、不変、永遠なものがあるというのです。そこに連結されてこそ、永生は自動的な結論だ、となるのです。


愛をもてば、食べても食べなくてもかまわないというのです。愛する人同士であれば寝ても疲れないし、食べなくても腹が減らないというのです。愛する人同士は、会って時空を克服するのです。神様もそのような愛する相対が来る時は、夜になれば寝なければならないですか。愛する相対が現れることにより、夜を克服できるというのです。ここから永生概念が出てくるのです。永遠な愛の力が続く限り永生できるのです。すべてのものを克服して愛化できるために、喜びの永生が連結されるのです。


神様は絶対的な愛であるというとき、その愛の前に絶対的な相対になって一つになるときは、神様が永存する限り人間も永生するという論理が理論的に決定されるのです。それを知らなかったのです。私たち人間が神様の前に絶対的に必要な、対象的な存在になったということを知らなかったのです。そうでなければ、神様は一人で生きなければならないという論理が成立します。それは違うというのです。

絶対的な価値の基準は神様です。絶対愛を中心として神様と絶対愛を探していく人は、相対主権を絶対否定できません。神様が絶対的な方であることを否定できないので、私が立てられた位置を絶対否定できないというのです。絶対安着が生じるのです。ですから神様の愛は永遠であり、神様は永遠な方なので、そのような愛の関係を結ぶことによって永生が論理的な、理論的な相対圏として着地できるのです。それゆえに、真の愛をもった人は地上世界から天上世界まで永生するというのです。この理論を否定できません。堕落した世界には真の愛の関係がないから、地獄へ行くのです。


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愛は永遠性をもっています。離れることを嫌います。真の愛は永遠な愛であるので、永遠に離れたくないというのです。それゆえに、真の愛に永生があるのです。別に離れるところには永生がないのです。それゆえに愛は偉大だというのです。愛は不変で、永遠なものだというのです。真の愛を中心として血統関係を結ぶとき、人間は永生するようになっています。神様は変わらない愛の主体ですが、その主体と一つになったので、神様が変わらず永遠であるように、その愛と一つになり一体なったその対象も不変で永遠だということは理論的です。


父母が子女のために無限に投入して犠牲になれば、真の愛が背後にある限り子女はその真の愛に無限に感謝するようになるのであり、父母は大きい喜びによってその犠牲の跡を埋めるのです。このように犠牲的な真の愛の力を授け受けする作用を発展させて、真の家庭で、そして真の世界で永遠な喜びと平和の関係を結ばせます。このようなところに永生の理想世界が顕現するのです。


この宇宙は、小さなところから大きくなってきました。そして、相対をもらって無限運動をすることで生成されてきたというのです。この空間に存在する慣性により、無限に運動してきたのです。言い換えれば、その相対的基準を中心として、この太陽系であれば太陽系において備えてぴったりと成熟した立場に立ち、無限運動をするというのです。

これと同じように、アダムとエバも愛を中心として完全に「ため」に生きる愛で一つになれば、無限運動をすることによって永遠、永生が始まるのです。直線には永遠がありません。永生圏がありません。回転するところに永遠が生じます。それゆえに、回転しながらだんだん大きくなっていくのが歴史発展の現象です。その中心は一つです。 宇宙の大原則の起源と和合できれば、永存できるのであり、そうでないものは永滅するのです。神様が永存するので、その対象、「ため」にあり得る対象は永存するのです。それは理論的であり、永生論理は自動的な結論です。明らかでしょう。


「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的神様の、主体的神様の対象の位置が正に私だというのです。神様の愛の相対だというのです。神様が自分自身よりもっと貴く思うものが、真の愛の概念です。神様は絶対的で永遠であられる生命の中心であり、その神様の理想はもっと永遠なものであって、その理想の中心が正に真の愛の理想です。その愛の相対が私です。そのような永遠な立場にどのように行きますか。「永遠のパートナーの立場がどれほど貴い立場ですか!」。それは主体と対象が一つになるのです。どの位置にでも同参でき、どこへ行こうがついて行くことができます。全財産をすべて相続することができます。神様の永生の位置、その心情までもすべて相続できるのです。


神様の愛の心、神様の被造万物と共にあるその心、神様が皆の心にとどまりたいという心まで、すべて相続できるのです。ですからどれほど貴いでしょうか。その高貴な価値を発見したので、どれほどうれしいことでしょう。どんなものとも取り替えることができない崇高で高貴な位置です。驚くべき恩賜なのです。


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大気が一〇〇パーセント絶対低気圧圏になれば高気圧圏が生じて、自動的に循環運動が起こるのです。神様は真の知恵の王です。なぜ投入して忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的に循環原理を通じて永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるというのです。投入して投入して、また投入するところで永生の論理が生まれるのです。「ため」に生きるところでは滅びません。小さなものから大きいものに移りながら、その次にはどこへ行くかといえば、中心へ入っていくのです。


神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を連れてきて立てるかというと、それは間違いなく人間だと結論づけることができます。それゆえに「万物之衆、唯人貴(注:あらゆる万物の中で、人間が も貴いの意)」という言葉が出てきたのです。これは、何ですか。創造主の永遠の愛のパートナー、創造主の愛のパートナーになることができるという論理的結論を出すようになるとき、その愛と一つになった愛のパートナーは永生するという論理が生まれるようになるのです。


永生というものは自動的な産物です。永遠である永生は、ここから生じるのです。愛の関係を中心として永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教では限りなく貴重な話です。男性に永生があり、女性に永生があるのではないのです。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるという結論が出てくるのです。


今から神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の位置に同参したのです。外の世界のどこへ行っても、この永生概念はないのです。自分が永遠の生命によって生まれたので、死んで霊界に行ってみなさいというのです。一瞬に飛躍するのです。この制限された地球上とは次元が違います。制限された所では自由に動くことはできませんが、あの世は次元が高い世界であるゆえに、何でもすることのできる所です。時間を跳び越えるのです。愛を中心として何でも願いさえすれば、いつ、どこでも、すべて得ることができるのです。

無窮無尽なのです。


永生、私は永生します。神様を中心とした真の愛が私と連結され、神様を中心とした真の生命が私と連結され、神様を中心とした真の血統が私と連結されるのです。結論がはっきりしています。私は永生する、神様のように真の愛を中心として。神様がこのように創造されたのです。皆さんもその責任分担を果たすようになれば、皆さんは成功したということです。


神様も息をするのです。愛の呼吸をしていらっしゃるのです。神様も宇宙の拍子に合わせているために、愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるというのです。ですから、皆さんがそこまで行かなければなりません。それでこそ、神様の呼吸圏内に入っていって、さっと越えていくのです。


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神様の摂理が生きて地上の歴史とともに動くのは、永遠の道を築くためだ、ということがしっかりと入れば、信仰化させやすいというのです。そうでなければ着陸させることができる、地上で信仰化させることができる基盤が、あいまいになるというのです。この時代的限界性をはっきり教えてあげることによって、地上に着陸できる信仰基盤が確定されるというのです。 神様のこのような仕事を私が地上で協助するので、神様のみ旨がなされたあの霊界が私たちの現在の実生活と関係をもつようになって、神様と共に永生できるという概念をもつことができるのです。それゆえに、この地上生活は永生する準備の生活だというのです。直結するのです。それが連結していないまま信仰生活をすることはできないのです。


③ 祝福と永生

堕落人間は、血統を転換しなければなりません。これが根本的な問題です。神様と人間の関係は父子の関係ですが、このようなことすべてが未知の事実として残ったので、歴史が解けず、今まで神様の摂理を知らなかったというのです。血統転換も個人圏、家庭圏、民族圏、国家圏、世界圏、すべてしなければなりません。これは、メシヤが来なくてはならないのです。父母が出てこなければ血統が転換されないのです。このようなすべての問題に個人が責任をもたなければなりません。個人がすべて、このようなことをして越えていかなければなりません。これを知らないので、知っているメシヤが来て身代わりしてあげるのです。


皆さんは、新しい血統を受け継がなければなりません。受け継ぐために、メシヤが父として来てサタン世界に勝ったという、サタンが干渉できない超世界的である基盤で、エバに侍り蕩減復帰しなければなりません。そして、夫婦の因縁を中心とした、家庭を中心とした息子、娘を立てて、横的に接ぎ木をすることが起こらなければなりません。それで、統一教会では祝福をしてあげるのです。統一教会は違います。統一教会は、血統がどこから始まったのでしょうか。神様から始まったというのです。それゆえに、サタン世界においていくら反対してみても、反対したほうが損害賠償を支払うようになるのです。


私たち人間は血統的にサタンの血統を受けたので、それ自体としては天の前に帰れないのです。ですからメシヤは、絶対に血統復帰をしてサタンが汚した血統を造り変えなければなりません。これを転換させなければなりません。それで、メシヤは必ず来なければならないのです。メシヤが来なければ血統復帰はできないのです。血統を復帰しなければなりません。


終わりの日には、どのような時代が来るのでしょうか。同族相姦関係が起こるのです。近親相姦関係が起こります。同族も近親も同じです。なぜそのようになるのでしょうか。イエス様の父は誰ですか。ザカリヤです。キリスト教ではみんな「聖霊によって妊娠した」と言いますが、うそなのです。無精卵を知っていますか。無精卵とは何ですか。卵は卵ですが、種が入っていなかったというのです。今日、堕落した人間は無精卵です。神様とは関係がないというのです。ですから永生がありません。


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真の父母は何をしなければなりませんか。サタン世界の根である誤った血統を正さなければなりません。また、誤った生命を元に戻さなければなりませんし、誤った愛の道を正しく開かなければならないのです。聖書に「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」とあるのですが、そのような逆説的な

論理がなぜ出てこなければならないのですか。サタン世界は死ななければならないからです。


血統的転換は誰がするのでしょうか。それは誰もができるのではないのです。先生がこのことをするために、涙ぐましい十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。このような基準があるので、皆さんは何の功労もなく、祝福という新しい伝統を継ぐようになりました。転換の勝利圏を立てるために、数千年に及ぶ神様の労苦と、実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これを基台として立った所が、正に皆さんが立っている位置です。祝福というものは接ぎ木することであり、接ぎ木することによって血統が変わるのです。


それで、真の愛を中心とした縦的な父母と横的な父母が合徳してこそ、そこに愛の定着地、生命の起源地、血統の因縁地が交錯するのです。そこで生まれたすべての人々は、神様の愛を受けて生まれた息子、娘であり、神様の生命をもって永生できる存在になるのです。ですから、永遠な天国に皇族的継代をつなぐことができる皇族になるのです。


愛に同居すれば永生が連結されるのです。真の愛が神様が願う愛だとするならば、神様が絶対不変の神様であり、永世の神様であるので、その愛の相対者である人間も永生するという結論が出てくるのです。これは理論的な結論なのです。何も疑問の余地がありません。


皆さん、祝福される時、血統転換式をしましたね。それを「私」の生命より、もっと信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だとして、ただ一般宗教儀式だと思ってはいけないのです。これは死んだ人に対する、回生という薬の注射と同じです。解毒注射です、解毒注射。


血統を転換することはメシヤがするかもしれませんが、転換されるように行動することは自分自身でしなければなりません。このような基準を成さない限り、私たちは救いの道に達することはできません。それは決して容易になされるのではなく、生きるか死ぬかの境地を通過しなければならないのです。四十日断食祈祷とか、血を吐く死の境地に至ってこそ血統転換が可能です。

まずは父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の希望の一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準をもって父母に侍らなくては、救いを受けることはできないのです。皆さんは、そのように侍ってみましたか。皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。それゆえに「私は真の父母と永遠に一つになることのできる息子、娘だ」という信念を、自身の存在意識を超越できるくらい堅くもたなければなりません。そうでなくてはならないのです。


六百六十四
 
エデンの園で結婚を間違ったことが堕落なので、今真の父母が正しく結婚させてあげることによって、再びひっくり返すのです。偽りの父母が犯したことを真の父母が清算することで、地獄を撤廃し、数百、数千億の霊界の先祖まで祝福結婚させてあげることが起きるのです。真の愛を中心とした地上の後孫の家庭基盤を通し、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つになるだけでなく、このような家庭基盤を起点にして東洋と西洋がお互いに連結されます。


皆さんは先生をどれだけ愛さなければならないのでしょうか。根本問題に帰っていくのです。サタン世界の愛の痕跡がある、その愛が染まった立場で愛しては駄目です。それ以上でなければなりません。それは何ですか。皆さんがサタン世界で生まれた父、母、妻子、その誰よりももっと愛さなければなりません。

それで、聖書では「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言ったのです。すべてそのような結論を下したのです。そののちには「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」(同一〇・三八)と言いました。「十字架を背負わなければならない」と言いました。反対に引っ張っていく力を押さえて越えていこうとするので「十字架だ」と言うのです。ここで悲痛な涙を流さなくてはなりません。


霊界に行けばそうです。そこには、影がない、永遠な朝の太陽の光があふれています。白い光があまりにも明るくて、紫色の光に変わるのです。銀の光、金の光に変わるのです。電気の光が何かというと、愛の光です。プラス電気とマイナス電気が一つになって現れるものが、電気の光です。同じように、神様の性相と形状も一つになって稲妻のように現れるのです。永遠なる真の愛の光です。それが永生の本質です。その後の目的点に到達しなければなりません。

三 地上生活の価値 一) 地上は愛の実を収める所

地上生活が絶対に重要です。地上がどれほど重要かということを知らなければなりません。キリスト教徒たちは「死んで天国に行く」と考えますが、妄想的です。地上で完成しなければならないのです。地上生活の重要さを知らなければなりません。地上生活の重要さに覚醒しようというのです。地上生活の重要さを忘れるなというのです。いつでも、千年万年霊界に行ってその生活に反映されるのです。これはすべて種です、種。ここで種を蒔いたことが天上世界で実を収めるために、完全な種をうまく蒔かなければならないということです。「地上世界の重要さに覚醒しよ

う!」。もう一度覚醒しなければなりません。


地上人は体をもっていますが、すべてのことが限定された生活です。霊人たちには体がありませんが、無限の世界で活動します。また地上人は体をもっていますが、永遠に定まる所をもてません。霊人たちに体はありませんが、永遠な所に落ち着いています。このように地上人と霊人との対比点を羅列すれば、

無限に多いのです。


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ここで地上人と霊人との一致点を調べてみましょう。地上生活や霊人たちの生活はみな半分ずつもっているだけなので、半分ずつしか成し遂げることができません。それでは、体と霊人の結実は各々どのようにしたら完全な実を結ぶことができるのでしょうか。地上生活で肉体と霊魂が分離する前に、地上での生をよく締めくくってこそ完全な実を結ぶようになります。ところが、霊魂がよく成熟できずに霊界に来るようになれば、問題が生じるのです。


種の結実は、すべての期間、時間圏や時空圏をすべて超越させ、圧縮させなければなりません。そこには種も存在し、根も存在し、枝も存在し、実も存在し、すべて存在するというのです。花もあって実もあるというのです。それで、そのようにして出発できる私たちにならなければならないのです。それでこそ、愛を中心として神様も私のものだということができるのです。そこには異議がないと

いうのです。


生涯の目的とは何ですか。愛の実を結ぶことです。その愛の実が天国の倉庫に入っていくとき、神様が「私は嫌だ!ぷうー」としなければならないですか。どこに行っても「ああ、私をこの宇宙のどこに置いても良い!」と言うことができるのが愛の実です。それを天国の秘密の倉庫に置いておいても、自分を中心として、すべての中心として立っていることができる愛の結実だと考える時、どれほど貴いかというのです。愛によって蒔いたので、愛によって刈り入れなければならないでしょう。


なぜ私が貴いのでしょうか。愛の伝統を受け継いだからです。この宇宙のすべての理想的力の核の伝統を受け継ぐことができる立場に立ったがゆえに、愛が貴いのであり、私が貴いのです。その愛によって私が生まれ連結されのであり、またそれによって拡大的な愛の実を結ぶことができるために貴いのです。それで、父母をなぜ尊敬しなければならず、父母をなぜあがめなければならないかが分かりますか。根を深くしなければならないのです。分かりますか。


神様の愛を中心とした男性、女性の心と体が、垂直線と均衡的九〇度を備えなければなりません。そのような正常な男性、女性が現れて、神様の愛を根っことした一つの生命体として東と西が互いに極となり、一度にぱっと火がついて、宇宙の本性に雷が落ちて稲妻が炸裂すれば、そこには男性、女性、神様を問わず、全体が一緒くたにくっつくようになるというのです。

それを誰が離すのですか。男性が離すことができますか。女性が離すことができますか。神様もそこから抜け出てくることができないのです。そうしておいて、人類の本性の基準である愛というものを中心として、男性、女性の心の根になって、その愛の花が咲き、実も愛によって結ばれ、循環法度を通した球形理想を通して螺旋形に発展し、世界へ前進するはずでした!アーメン! この話がどういう話か、みな研究してみなさい。


六百六十六
 
皆さん、生命を何によって伝授しますか。生命体ですか、血ですか。血統という言葉はありますが、生命統という言葉はないのです。愛統もありません。血統という言葉だけあるのです。血を合わせることによって生命が出てくるのです。男性、女性の血を一つにすることによって生命が一つになり、それが投入されて愛の実体である実を結ばせるのです。それで、どのようになりますか。母の血と母の生命と、父の血と父の生命がこの愛を通して実を結んだのが「私」です。ここのこの人の中に父母の血が入っていますか、入っていませんか。父母の生命が入っているのです。父と母の愛が入っているのです。それゆえ

「私」というものは、父母なしに主張することができないのです。


「私」は愛の結実ですが、その結実には千年の歴史を通じた中心の根、幹、枝、花、全体の芽を一つにしたすべてのものが入っています。ですから、その結実をもっていくようになれば歴史を運搬するのと同じです。また、それを植えれば、その歴史がどこでも継承されるのです。何によってそのようになりますか。愛を通してです。男性、女性の愛を通して、主体、対象の愛を通して、これが連結されるのです。それゆえに愛を侵犯する者は、宇宙秩序を破壊するも放縦な者であるゆえに、地獄へ行くのです。


父子関係の愛は、母の中に息子に対する実が熟すようになり、また息子の心に母に対する愛が熟し、熟した二つの愛が現れれば、神様がこれを摘み取りたく思うのです。愛の主人は神様であるので、母の中で子女を愛するその実、子女の中で母を愛する円熟したその実を結ばせるのです。完成した結実を摘み取って神様が食べるでしょうか、愛の完成のためにそれを摘み取ろうとするでしょうか。創造主もアダムとエバを造っておいて、自分の中に父母として子女に対する実を「私」がもつと同時に、子女が父母に対する実をもつことによって、二つとも完成させることができるのです。それゆえに、神様は二つとも摘み取ってもつことができるという言葉が成立します。


私たちは、神様の愛によって生まれ、その愛によって生きながら、息子、娘を生んで愛の目的地に到達し、永遠に神様と共に生きるために神様のもとに帰るのです。すなわち私たちの一生というものは、愛によって始まり、愛によって成熟して、愛の実として摘み取られるのです。人が死ぬというのは愛の実を摘み取るということです。私たちが父母の愛を受け、夫婦の愛を分かち合い、子女を愛したがゆえに、神様の愛が内的な愛の世界に蒔かれたすべてのものを、私が一生をかけて実を結び、摘み取ってあの世に行くのです。

ですから、私たちが完全に愛で一つになれば神様に似るようになります。夫婦が一つになって、このような三段階の愛を完全に成し、霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様の前に、永遠に相対的な神様になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになるのです。ですから、神様によって始まり、神様によって締めくくるのです。


愛の実を摘み取って倉庫に送っていたならば、天国が成され、天国の家庭と天国の国と天国の民になっていたはずですが、これが中間で腐って落ちて、すべて腐るようになったので、地獄の家庭になり、地獄の民になってしまったのです。そのようになったことを

「堕落」と言います。落ちたというのです。私たちが堕落し、地獄に生きているというこの二つのことは、嫌でも認めなければなりません。愛の実を結んで天国の倉庫、天国に行かなければならないのに、堕落したがゆえに地獄の倉庫で腐っているというのです。


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子女、兄弟、夫婦、父母がすべて一点に行って実が結ばれるのです。真の愛を中心として定着が始まるのです。子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情が真の愛を中心として連結されるのです。それが焦点なのです。神様と愛で一つになることによって霊肉が完成したので、ここで父母が出てきて息子、娘を生むのです。神様が創造当時に感じたことを再び感じるようにするために、私た

ちに贈り物としてくれたのが息子、娘です。


霊界というのは、真の愛の実を保管する倉庫です。今まで、真の愛の実が出てきませんでした。真の愛の言葉とその結実を今初めて話すので、それが霊界にあるはずがないというのです。ですから、「私」という存在はどれほど素晴らしい存在でしょうか。


家庭の隅々に手を付けるのは男性ではなく女性です。男性は中心に立っているために何も触りませんが、女性はすべて触るのです。それはどういうことですか。地を愛し、宇宙を愛するということです。ずっと手をかければかけるほど愛がしみ込み、宇宙の津液

(注:体内からしみ出る液)、核が集中するというのです。そうして、夫が絶対に愛してあげることで、女性に力を補充してあげるのです。このようになった家庭こそが、神様の天国の倉庫に入っていくことができるのです。天国の倉庫とは何ですか。神様が、よくできた実を入れておく倉庫が正に天国です。


愛も同じです。春夏秋冬があってこそ均衡が取れるようになるのです。暑いのが長くなれば寒いのも長くなります。それゆえに愛を中心として夫婦生活をするにおいて、秋もあって、夏もあって、春もあって、それから何ですか。冬もなければならないのです。それをすべて消化できてこそ、天上世界に行って顔を上げることができるのです。 お父さんがおじいさんを「お父さん」と呼ぶのは恥ずかしくなく、そのお父さんが息子、娘に「おい、何のなにがしや」と言うときに恥ずかしくなく、その息子がお父さん、おじいさんを呼ぶのは恥ずかしくないというようにならなければなりません。何を中心としてそうならなければなりませんか。お金をもうけることができなくて、おじいさんのお世話になったお父さんだからといって、責任を果たせなかったということではないのです。お金をもうけることができないからといって、知識がないからといって叱責できないのです。


なぜですか。血族とは、愛とは、生命とは、知識を通して、お金を通して、権力を通して伝授するものではないからです。何を通じてですか。「愛を通して!」。その愛を通して実を結ぶのです。その愛を通して生命の実を結び、その愛を通して血統が連結されるのです。お金ではないのです。


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神様はなぜ天地創造をしたのでしょうか。神様と人間と被造世界との関係を何を中心として結ぶかという問題を見てみるときに、それは知識でもなく、権力でもなく、お金でもないのです。それは愛の因縁を結ぶためだというのです。それゆえに、皆さんが生まれたのは、愛のために生まれたというのです。愛のために生まれて、愛を中心として暮らして、愛の結実の世界、愛の実の世界へ行くのです。愛の実の世界とは、どのような所ですか。そこが霊界なのです。その行く所が、愛の結実を収穫する所が霊界なのです。霊界は、真実に生きた愛の内容を中心として評価を受ける世界です。それでは、その評価する主人が誰かというと、神様というお方です。 愛の種になりなさいというのです。結論がそれです。愛の、真の愛の種になる時は、宗教を通じて歴史時代の統一圏を越えるのです。分かりますか。種には根がありますか、ありませんか。幹がありますか、ありませんか。枝がありますか、ありませんか。花がありますか、ありませんか。香りがありますか、ありませんか。蜜がありますか、ありませんか。実がありますか、ありませんか。生命がありますか、ありませんか。すべてあるのです。 それで、皆さん、種になりましたか。今見てください。気候学的に見るならば、古代は熱帯地方で、中世は温帯文明圏です。一時はシベリアの北風が……。これが、春夏秋冬を中心として一周回るその期間が六十年ないし七十年です。この期間に世界を飛び回るのです。


人間がどれほど素晴らしいかというと、愛のオーケストラを奏でている、愛がすべての脈拍を中心として宇宙をすべて生かしていくことのできる動物世界、植物世界を食べるということは、愛の結実を食べて生きるということです。実を食べて生きるということなのです。食堂で食事をするとき、パンが一つ残っていても「これが、世界的に数多くの手を経てここまで来るために、旅行手段がどれほど多く、どれほど多くの苦痛に勝ってきたのだろうか。すべての人の努力の結実、愛の結実としてつくられたものをもってきて私に進上されたので、愛の主人である私がパートナーのように思いながら食べてあげなければならない」と考えなければならないのです。 ところが、それを嫌がる人には病気がついてくるようになっています。好む人には病気が退くようになっています。どうですか。

「愛に満ちた世界の実を取って食べた神仙が人間たちだった!」。どうですか。愛の実として消化して食べて生きるという概念を中心として愛し、愛する神様の本質的愛の父母の内容と一致した立場で食べて、感謝する人は病気にもならないという、これは理論的な結論です。


二) 地上は天国の民の生産地

天国の民を生産できる生産工場が地球星です。霊界で人が生まれるのではありません。地球星です。では、神様の人を生産できる工場のように造ったのが私たち人間が暮らす地球星ですが、なぜアダムとエバを分けて置いて堕落するようにして、この姿、この有様になったのかというのです。神様の縦的位置では繁殖の場がありません。


神様はなぜ人間を創造したのでしょうか。横的基盤、面積が必要だったからです。面積と球形には無数の細胞が分かれて出てくることができるために、その面積が必要なので、人間世界にアダムとエバの体を通じて天国の民を製造していくのです。その民族製造工場が私たちの夫婦生活です。そのようなことも知らずに大口をたたく、そのようなでたらめな者がどこにいますか。とんでもないあきめくらになり、大口をたたいているのです。霊界に行けばそのような世界がすぐに展開するのです。文総裁が教えてあげた話が、事実として展開するのです。


なぜアダムとエバを実体として創造したのでしょうか。霊界というものは垂直の世界です。垂直とは面積がありません。霊界に行ってからは繁殖がありません。天国というもの



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は広大無辺な所です。その天国をつくっておいて天国の民を出産させるための基地がアダムとエバの家庭、後孫の家庭です。なぜ体を着たアダムとエバが必要だったのでしょうか。神様の直系の息子、娘は、垂直には一点しかないために面積はありません。生産できる基地がないのです。しかし、垂直を中心として、東西を中心として、前後を中心として分けて、球形になれば無限の宇宙になるのです。無限のスペースが生まれます。

アダムとエバは、神様がアダムの後孫の家庭を中心として天国を満たすための民を創造する工場として造ったのです。アダムは本工場で、皆さんの家庭が天国の民族をつくる分工場だというのです。分工場でも本工場でも生産品は同じなのです。価値は同じです。


霊界は膨大な天国です。故郷の地であり、本宮です。私たちが生きる本宮です。膨大な世界をつくりましたが、そこは神様の息子、娘を生む所ではないのです。垂直を中心として前後左右となり、球形をつくるようになれば無限な空間が生まれるのです。宇宙のような空間が生じるというのです。この空間が多いために莫大な民を生産し天国に移動していくのですが、この天国の民を生産するその分工場が何かというと、皆さんの家庭だというのです。


霊界では生産をしません。地上は天国の民の生産地です。なぜかというと、神様は垂直の位置では繁殖ができません。それゆえに神様は面積が必要なのです。アダムとエバを実体としてつくっておいたのは、神の国の民を繁殖するためなのです。天国の息子、娘でしょう。傍系的な次子圏になる三番目の息子と四番目の息子がすべて従うようになれば、彼らが天国の民になり、直系の主流は地上世界

の王権、天上世界の王権を受け継ぐのです。


この宇宙は愛の博物館です。その博物館で王にならなければならない存在が人間です。鉱物世界も、植物世界もすべて愛の因縁を中心として繁殖しています。愛がなければ歴史が停止してしまいます。繁殖があるために歴史が続くのです。それゆえに男性、女性が結婚して息子、娘を生まなければ、霊界に行って自分の位置を見いだすことができません。 赤ん坊が生まれれば、その赤ん坊が神様のもとに行くとき、贈り物になるのです。そのような贈り物がなければ、自らの体面を立てることができないのです。皆さんが故郷に帰るとき、父母の前に行って何を誇るでしょうか。そのときに息子、娘をよく育てて誇るように、霊界に行くときも同じです。神様の前に行くときにも神様の子女、天国の民を地上で育てて連れていく、それ以上の贈り物はありません。お金と権力と知識が重要なのではありません。


地上は何かというと天国の王孫を、天国の国民を生産する生産地です。それゆえに天国は無限な世界です。したがって、地上で息子、娘をたくさん生んで愛することができる訓練をし、東西南北、前後左右、上下でもって、ありとあらゆる人を愛によって消化し、一つにすることのできる体験をした人は、あの霊

界に行って活動できる範囲が広くなるのです。


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天国に行くようになれば生産地がありません。神様が人を何のために造ったのですか。垂直には繁殖がありません。垂直の位置には一点しかないのです。神様が一点、垂直の位置で愛を行うから、そこでは繁殖することができません。霊界では繁殖ができません。それゆえに横的な三六〇度が必要です。

横的世界には東西南北に繁殖できる場がいくらでもあるのです。それゆえに女性と男性が霊界に行くようになれば、一つの体になって神様に似ていくのです。のちには神様化するのです。神様に似なければならないのです。神様は二性性相だといったでしょう。二性性相は何から出発したかといえば、愛から出発しました。愛の結実によって、本然の神様に似て帰ってくるのです。ですから、神様も独りでは孤独なのです。


霊界では赤ん坊を生みますか、生みませんか。なぜ生みませんか。霊界は縦的な世界です。神様を中心として円形を成した世界です。それゆえに赤ん坊を生む必要がないのです。横的な基盤が必要なので、人間を、体を造ったのです。ところが、産児制限をなぜするのですか。それは天命によるのです。「悪なる血統をこれ以上繁殖させるな」と言うのです。考えてみてください。このごろは子供が誰の子か分からない人が多いでしょう。毎日、毎週、他の男性たちに会うのです。そんな汚いことを考えると、言葉でみな話すことができないのです。そのような人に息子や娘がいると考えてみてください。それゆえに、みな産児制限をするのです。


地上はどのような所ですか。霊界では繁殖がありません。行ってみてください。ないのです。息子、娘をもたずに行くようになれば、あの世に行っても息子、娘がいません。地上でこしらえて霊界に行ってこそ、神様の心情を中心として創造した理想を身代わりした心情圏に同参して、愛の刺激を感じて暮らすことができるのです。ですから、息子、娘をもつことができずに逝っては駄目です。また、相対を愛さずに逝っては駄目です。結婚は絶対的です。息子、娘を絶対的に出産することが原則になっています。


霊界という所は、どういう所でしょうか。霊界では出産をすることができません。霊界の国の民を生産する所は、地上です。なぜそうなのでしょうか。神様は縦的にいらっしゃる方です。縦を集めるのは一点しかないのです。面積がありません。この縦の価値が出てこようとするためには横を連結しなければならないのです。縦が必要とするのは横だというのです。横が必要とするのは縦です。これも「ため」にあるのです。縦はなぜありますか。横のためにあるのです。本来、創造理想がそうです。縦が生まれたのは横的相対のためです。このような論理の定着をもたらしてこそ、理論的体制において矛盾が起きないというのです。


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霊界に行けば出産できません。出産は横的な基盤を中心としてなされるのです。ですから数多くの横的な基盤を拡大させて、数多くの氏族を中心として数多くの民族、数多くの国家を通じて膨大なその世界を満たそうとするのですが、霊界は無限な世界です。一人、二人をもってしては駄目だというのです。ですから、世界的な横的家庭基盤を拡大させて生産したその人々を地上で完成させなければなりません。神様が願われる完成した個人、完成した家庭、完成した氏族、完成した国家、完成した世界編成をなして生きてきた人々が、全世界で神様の血族として生きてきた人々が地上で生涯を終えて還故郷する所が天国です。神様から始まったので、神様の傍らへ帰るのです。そこが霊界です。


三) あの世の所有権を地上で決定

神様が創造した目的とは何ですか。地上に生きている神様の息子、娘を残すことが神様の目的です。ですから、「私」が霊界で神様の前に行っても、地上に生きた神様の息子、娘を残す立場になるときは、「私」も神様と同じ立場に立つようになるというのです。それが聖書のみ言にある「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という意味ではないかというのです。皆さんは何を残そうとしますか。皆さん、妻とおもしろく生きて息子、娘を生むこと以外に残るものがありません。


これまで、皆さんは統一教会に入って何をしましたか。それは深刻な問題でしょう。五十を越えるまで何年間統一教会で仕事をしましたか。その時から何人伝道しましたか。一年に何人しましたか。それは深刻な問題です。今後霊界に行って、そこでの個人所有権は何かというと、天国の民をどれほど連れて入っていったかということです。それが自分の財産、永遠な財産です。これからはそれを問いたださなければなりません。そのような時が来ました。今からは一日に何百万と伝道できる時が来るのです。統一教会にそのようなすごい内容があるのです。世の中を見てください。今死ぬとか生きるとか、人生が何だとか、空しく放浪し落ち着く所がなくて、狂ったように歩き回って途中で自殺する人がどれほど多いでしょうか。 霊界に行けばそうです。愛の懐が大きければ大きいほど、その懐に入っていこうと列をなしているのです。そういう人は、あの世で尊敬を受ける人だというのです。千人万人に囲まれて「ああ!私はあの人と一緒に生きたい」という声を聞くようになれば、その人はそれだけ領土が大きい金持ちになるのです。ですから、ある家の門前を過ぎながら立ち寄らないというのはいけないのです。「立ち寄らなければいけない」と、「そのまま過ぎることができない」と言うほど愛の心をたくさん植えつけた人があの世の人格基準となり、愛を中心として関係しているその舞台があの世の所有権になるのです。


あの世の金持ちは特別なものではありません。それだけ愛のために投入した人が金持ちです。皆さんが福を与えてあげられる群れが、ソウルだけでも一千二百万も待っているのに、なぜ交流できないのですか。行って、「福を祈ってあげよう」と言って訪ねなければならないのです。犬がほえれば、「お前たちは福を受けることを知らない犬だ。お前たちの家にあるすべての福のふろしき包みは私が抱えて歩き回る。私は磁石だ。福をすべて引っ張ってくっつけることができる完全なプラスだ。マイナス要素はすべて切ってしまって、サタンのプラス要素だけすべて残していくが、そのプラス要素はサタン圏だけなので、地獄しか占有することができない」と、このように見るのです。福を集めに回るのです。


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霊界に行って十二真珠門を経ていくためには、地上でどれだけ天の民をサタンから再び復帰して帰ってくるかということが問題です。そのためには涙と血と汗を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心としてサタンの父母以上、サタンの夫、妻、息子、娘以上の心情を投入して涙とともに、血と汗とともに交差するその過程をたどることなくして、天国の自分の民を所有できません。この数の比例によってあの世の栄光の位置に、神様の前に近づくすべての条件の成立が識別

されるということを知らなければなりません。


今後、霊界に何をもって行くのかといえば、お金をもって行くのではありません。統一教会の名前をもって行くのでもありません。

「地区長をした」と言っても通じないというのです。ですから、今後皆さんがしなければならないことは、神様が愛することができる息子、娘をどれだけたくさんつくって行くかということです。人が赤ん坊を生もうとしても、何人しか生むことができないのです。しかし、それは誰でもすることができるのです。今復帰過程で経ていくべきこととは何かというと、皆さんがサタン世界において神様が愛することのできる多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功労は先祖と連結され、また先祖を解放させることのできる道が生まれるのです。これが、復帰路程において自分が受ける大の贈り物です。何の話か分かりますか。贈り物なのです。


御飯を食べて生き、息子、娘に食べさせて育てたことは、あの世に行って大したことにはなりません。それゆえに天国の民を復帰しなければならないのです。それが天国では自分の所有になるのです。ですから、私たちが早く五十億人類を、この世を消化しなければなりません。早く消化すれば、霊界のすべての霊たちも再臨復活していくようになっています。今、長子圏がサタンの基盤になっているのが逆さまになり、アダムが長子圏になれば、天使長はアダムの話を聞いてついてくるようになっているのです。そうではないですか。絶対服従する立場に至れば、神様の愛とともにアダムの愛の圏内にあるために、自然に天国についていくのです。原理がそうなのです。


私が教会に入ってから何年になったということを自慢するなというのです。何人を教区長にし、何人を祝福させ、何人を先生の一族と血縁関係を結ぶようにしたかが問題です。これは深刻な問題です。ここに先生の姻戚である朴普煕、郭錠煥、劉正玉がいますが、かといってこの人たちがそれですべて終わるのではありません。その背後に何千倍になり得る氏族メシヤ圏を早く拡張して、今後の歴史時代において恥ずかしくない天国の民を立てなければならないのです。


歳月をただ何となく送るなというのです。青春時代に息子、娘を生んで育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残せるのと同じです。また、その子女たちが立派な人になってこそ歴史に誇ることができるのです。そのような歴史に対して誇ることができる実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れますが、国には仲間入りできないのです。

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国に仲間入りするためには歴史の伝統に残り得る実績がなければなりません。それゆえに、どこの誰でもみな国に何かを残すことを願い、世界に何かを残すことを願い、天地に何かを残すことを願うのです。同じ道理です。ですから、自己の所有版図をどのように確定するかという問題が終生の目的だ、という観念をはっきりもたなければなりません。それゆえにみ旨の道で、「自分が嫌ならやめる」という考えはもつことができません。


神様がしていることとは何ですか。世の中を救う仕事です。あの世に行ってみれば、霊界に行ったすべての次元の高い人々の仕事は、地上での仕事です。地上とは、どのような所ですか。天国の国民を生産する生産工場です。広大無辺な天国です。無限大です。あまりにも広いのです。人々が数億年の間に来ては逝きましたが、どこにいるか分からないのです。

そのように広いのです。

一家庭で子女を百名ずつ生んでも、天国は広いので過剰生産ということがありません。あの世はいくらでも受け入れることができる世界です。ですから、産児制限をしなければなりませんか、してはなりませんか。あの世に行けば、天国の民をどれだけつくって率いてくるかということが問題になります。真の天国の息子、娘をたくさん率いてくるとき、それが自らの権益になって天上世界で表彰を受けることができる等級の等差を設定できる資料になるということを知らなければなりません。


御飯を食べることよりもっと重要なことは、天国の民を刈り入れることです。それが私たちにはうまくできなくなっているのです。考えてみてください。それが本職です。この地上に暮らす私たちの本業なのです。生涯にしなければならないことの中で、それ以上貴いことはないのです。この世で就職し、出世したりお金を集めたものは、すべて流れていくのです。あの世では、お金を集めても何の効果もないのです。あの世では物質が必要ないのです。知識が必要ないのです。学ばなくても心が先に知っているのです。一週間以内に何でも、すべて通じるのです。


皆さんが今後あの世に行き、復帰歴史をされる神様の前に、一人のアダムを取り戻すために今まで苦労した神様の前に行って何と言いますか。創世以後、今までアダム完成者を探してきたのではないですか。そして、皆さんは「原理」を知りました。これは数千数万の民族を救うことのできる武器です。今まで神様が人間に教えることができなかったため、分からない中で摂理なさる神様の切なさ、それを身代わりして地上で神様以上のことを私たちがするのです。私たちには「原理」で数百数千のアダムを教化させて連れていくことができる道があるのです。考えてみてください、これ以上にすべきことがどこにありますか。


皆さんは天国に連れていくことができる息子、娘を何人つくりましたか。皆さんがしなければならないことは、それしかないのです。いくら億千万金をもって良い生活をしてみても、すべて流れていくのです。そこには自らのすべての物質と知識と自分の生命まで、堕落した私の生命まで投入してもやらなければならないのです。それを別々に投入しなければならないのです。投入する全体が加重する

に従って、その価値は比例していくのです。


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天国は無限な世界ですが、そこでは愛の心情で連結され得る橋がなければならないのです。ですから、自分が伝道した人がこの世にたくさん広がっているならば、霊界に行くと、それだけ広く往来できる道が生じるのです。すべてが自分と関係を結んで因縁を結ぼうとするのです。それは地上において思想を武装し連結させたのと同じような体制が、自分を中心として連結されるというのです。


息子、娘をたくさん育てた人は、愛の内的な核が大きいのです。天国に行く時は、これが行くのです。他のものではありません。お金や名誉や良い暮らしをしているという、それが福ではないのです。息子、娘を育てるにおいて、春夏秋冬四方を中心として自分の世界になれば、地がそこに合わせて平面的な地になるのです。東西南北に私が思いのままに与えることができる立場になれば自分が満足するようになりますが、そのようにできない時は、いつでも一方的にしかなりません。


この地上が天国の民の無限な生産地であるというのです。これをどこの誰も知りませんでした。本来の夫婦は、息子、娘を天国民族として生み、完成した人間として育てていくことが、この地上で生きていく生涯路程だというのです。


多くの息子、娘をもった父母は、多くの愛の相対を迎えたので、天国に行っても四方八方誰でも思いのままに会えます。息子、娘をたくさん生んだ女性の中で、悪い女性はいません。なぜでしょうか。自らの息子、娘をかわいがる母の心をもって、自らの息子、娘と比較していつでも考えるようになるのです。ですから、生活圏内で自動的に愛の境地に高く上がっていくことができる立場に立つのです。ですから多くの息子、娘を育てた人は、霊界のも高い所にいます。 皆さんは氏族的メシヤとして、天国の民をたくさん繁殖してから逝かなければならないのです。それが自分の生涯においても貴重であり、人生の希望です。それが自らの非常に貴重な所有権です。今までそのような人が霊界にいなかったというのです。それゆえに、呼びさえすれば皆さんの周辺に多くの友人たちが現れることができるように、百名以上、

千名でも連れてこなければならないのです。


皆さんは地上で、子女を立派に育てて残していかなければならないのです。将来その子女たちすべてが霊界に行くのです。霊界に行って天国の国民になるのです。自分が何人を天国の国民として捧げたのかというとき、地上では苦しいことでしたが、永遠の世界ではそれが高貴な栄光の道になるのです。


四) 肉身をつけた地上生活が日ごとに記録される

皆さんは霊人体と肉体が水晶のように清く生きてこそ、のちに霊界に行って問題がないというのです。そこにいかなる汚点があっても天国に入れません。地上での生活がこのように重要だというのです。生きたそのままが霊界に行くのです。ここには誰も例外がありません。自分自身が透明に、すべて表れて見えるのです。分かりましたか。


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あの世に行けば、金なにがしならば金なにがしだと、ぽん、ぽん、ぽんとボタンを押せば、あっという間に生きてきた歴史が出てくるのです。その世界は時間と空間を超越するために、これを捕らえるのは直感のように速いのです。どうにも避ける道理がないというのです。それゆえに良心とは何かというと、永遠の世界に行くための地上生活の記録帳です。コンピューターと同じように一つ二つ、すべて入力されるというのです。間違いなく入力されるのです。


人の行動一つ、表情一つ、すべてのものがビデオ・テープに撮られるように映っているのに、霊界に行って隠すことができますか。自分の心を隠せないのと同じように隠せないのです。心よりも表面的な世界が、表れた世界が霊界です。弁解が必要ありません。弁解をすることができません。口を開けば開くほど宇宙の恥が迫るのです。それゆえにその世界へ前進できません。後退だけがあります。

怖い時代が尋ねてくるのです。


良心を知っていますか、知りませんか。良心が知っている良心世界の本宮が霊界であるので、霊界のコンピューターに入力されるのです。「なにがし」と言えば、ぱたぱたっとして何代前からずーっと出てくるのです。こいつの父母が何をしたかということ、良いのか悪いのかすべて出てきます。自分が一生の間何をしたかということが、あっという間に出てくるのです。何年もかかるのではありません。瞬時に分かります。それだけ拡大された人間世界に入るのです。


霊界に行けば自らの記録が一〇〇パーセント、コンピューターに入っています。すべて現れるのです。良心は永遠の世界に展示するコンピューターのディスクのようなものです。すべて入っているのです。ボタンを押せば、子供が母に抱かれてお乳を飲む時から一生の間ずーっと何をしてきたのか、すべて心の映像によって知ることができるようになっているのです。そのような世界が、皆さんの完全な感情のために日ごとに記録しているのです。その日がいつ来るのかといえば、死ぬ時です。万能になった感情コンピューターの前に立てば、誰もうそをつくことができません。霊界の映像が、影のような世界で現れるのです。

すべてが記録されているのです。


良心は、一生の間において自分がしたことを知らないことはありません。自己のすべてのことをみな知っています。このことが、そのまま天国のコンピューターに入るのです。間違いなく入るのです。霊界に行ってみてください。


優れているという人々は、浮気をし、ありとあらゆるばかげたことをするでしょう。天国に行けないのです。私が霊界に入ってひっくり返してみて、このような事実を知るようになって、「ああ!知らなければよかったのに」と思う時が、どれほどあると思いますか。行ってみると幾重にも重なった山また山です。サタンによって失ってしまった愛のために、永遠に包囲された監獄生活をしているというのです。


六百七十六
 
皆さんの心、堕落した心もそうでしょう。自分が一生の間どのような者だったか、よく知っていますか、知りませんか。だますことはできません、みな知っているのです。良く振る舞っていても、霊界に行けば一〇〇パーセント表れるのです。悪いのが先に表れます。悪いことを先に清算して霊界に入っていくのです。そうでなくては霊界に入っていくことができません。 目をつぶっているとしても、悪いのが表れて処断を願うようになるのです。それで、それがなくなる時まで教育を受けなければなりません。修練を受けなければなりません。猛訓練を受けなければなりません。霊界では今そのような教育体制をつくるために、興進君

を中心として全体的に修練しているのです。


良心は欺くことができません。皆さんは、すべてビデオ・テープと同じように記録されます。一生の間生きて、霊界に行くようになると、そこに自分の番号があります。心霊状態の光を既に知って、「誰それが来た」と言って連れてきます。連れてくれば「どのナンバーか」と言って、十八番ならば十八番をぐっと押せば、あっという間に分かります。生まれてからが、あっという間に分かるのです。やむを得ません。良心が痛哭するのです。その比例によって地獄と天国の境界線を行き来する、このようなことが連結されたということを皆さんは知らないのです。その世界が、そのままむやみに大ざっぱな計算で動いているのではありません。数理的な世界です。理論的に動くのです。科学者の王が神様だというのです。天国は自分勝手にはなっていないのです。


習慣性は永遠にそのままです。そのように難しいものなのです。しかし、地上では直すことができます。今まで習慣になったことよりも、もっと新しいことを習慣化させれば地上では清算できます。今しなければなりません。今しなければ霊界に行って問題になりま

す。霊界に行って引っ掛かってしまうのです。 殻を脱ごうとするとき、へびも通路にしっぽを入れて逆に死ぬほどの力を尽くして、木を巻いていって血を流して脱皮するのです。逆理的な過程を経なければ順理的な過程を行くことができないという、堕落を認める人間には不回避な非原理的公式的路程となっているというのです。それが順理の立場で私の個人の心と体が一つになり、順理の立場で夫婦になり、順理の立場で父母となって生きた人間は逆理的条件に引っ掛かりません。霊界は堕落した讒訴条件に逆に引っ張られ得る、木が逆に引っ張られるのと同じです。根が引っ張られれば順理になるはずですが、枝を引っ張っていけば逆理になって、すべてのものが行けば行くほど傷を受けるのです。もっと難しい路程が……。ぴったりとそのようになったのです。


そこでは許しがありません。偽りが通じません。皆さんはビデオ・テープを見るでしょう。笑えば笑ったとおりに、その実相を見せてくれるのです。ここではビデオの時間的観念圏内を抜け出すことはできませんが、そこは超時間的世界です。カチッといえば、千年の生活がすべて現れるのです。さっとつけて見れば、誰かが「行きなさい」とも言わないのですが、自分たちが霊界でいるべき所を探していくのです。我知らず押されていくのです。押されていけば、もっといい所に行こうと思っても、どんどん押されていくのです。行ってぴたっと三角地帯にとどまるのです。その時、行って嘆息しますか。私は霊界を知っているので、このようなことをするのです。霊界を中心としてこのようになるのです。皆さんは福が多いのです。分かりましたか。

六百七十七
 

見てください。霊界の輪郭がすべて表れるので、死後の世界がどれほど現世と連結されているか、その内容を知れば、むやみに生きられないのです。地上の生活が、どれほど怖いかということを知らなければなりません。地上の生活が永遠の自らの生涯圏を左右するという事実、それを知らないので自分勝手に暮らすのです。


地上生活を本当に良くしなければならないのです。精誠を尽くし、一日に何十回も原理基準を中心として反省しながら、このようにして朝、昼、夕、二十四時間、天上の法に引っ掛からないように生きなさいと懇切にお願いするのです。


天の前に行くときに、あらゆることを清算して行くときは、良くやったことから報告するのではありません。誤ったことから報告して良くやったことを話さなければなりません。世の中は反対でしょう。「君は何をしたか」と言えば、「私はこのようにしました」と悪いことはすべて隠すのです。しかし、霊界はそうではありません。霊界は悪いことから報告しなければなりません。順序がそうです。何をしたかというとき、さっと現れます、テレビのように。悪いことから報告するのです。なぜですか。カインが先です。悪いことが先に現れて、それから良いことは何か、となります。アベルは二番目に現れて、比較して善なるもの、アベル的基準が多くなる時は再教育し、そこから霊界を教えてあげるのです。


五) 肉身で犯した罪は地上で蕩減しなければならない 地上で結ばれたことは地上で解かなければなりません。そのまま霊界に行っては大変なことになるのです。自分自身が刺激を通し、そこから抜け出てこなければなりません。そ

うでなければ、永遠に地獄に落ちるのです。


私たちは好むと好まざるとにかかわらず、今から死んでも蕩減の峠を越えていくべき運命的な堕落の後孫だというのです。それを否定できません。この道を越えなければならないのです。それを自分の一生において越えずに霊界に行くならば、何百万年かかるかもしれないのです。あの霊界には蕩減がありません。そこは解放された完成圏なので、愛の波で充満した所です。蕩減や再創造はありません。再生産もありません。そのような刺激がないために、一度固着すればそれで終わりです。大変なことだというのです。それで、神様はそのようなことを知っていらっしゃるので、この地上にメシヤを送られたのです。


へびは脱皮すればするほど大きくなりますか、小さくなりますか。一日に十回脱ぐことができれば、十回脱ぎなさいというのです。霊界に行っては、そのような刺激がありません。そのような装置がないのです。再び地上に尋ねてきてそれを解怨成就できるようにといくら願っても、それは不可能です。一度行けば、勝手に来ることができないのです。


六百七十八
 
あの世、霊界には愛の刺激的な要素はありますが、罪悪を取り去ることのできる蕩減的な要素がないために、数多くの歳月がかかるというのです。そのようなことを知ったので、先生は四十年間にすべて築いて片づけたのです。昼夜を忘れて過ごしてきました。一日に夕方一食だけ食べ、あるいは朝一食だけ食べる生活が普通だったのです。そのように生きてきました。


地上で肉身があるときは大変ですが、共に抱き合い、痛哭しながら感動させることのできる道がいくらでもあるのです。しかし、霊界で肉身をもった地上の人間を感動させることはとても難しいのです。


この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか!一回しかないのです。瞬間ですが一回しかありません。地上生活を永生と比較すれば、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。これは重要ではありません。私の肉身生活を越えて、霊界のために準備をしなければならないのです。常にそのような主流思想をもってセンターに立って、一切をコントロールし、一切を征服することができなければなりません。そうでなければ、皆さんは完成することができないのです。


霊界でも嫌うことは堕落圏を中心とした風習、習慣性です。風習によって習慣性になってしまうのです。日本人は日本で生まれましたが、食べ物は何を も好みますか。汁と御飯なのです。アメリカ人はハンバーガー、韓国人はコチュジャンとキムチ!しかしこのようにだけ考えて生きれば、その習慣性は永遠になくすことができないのです。

それならその習慣性をどのようになくせばいいのでしょうか。自らの習慣性をなくすことがこのように難しいのに、固着した堕落性、頑固な習慣性をもって霊界に行くならば、どれほど難しい立場になるでしょうか。それを、この地上で整備しなければならないのです。霊界に行くとき、それがどれほど難しいでしょうか。ですから夫が問題ではありません。息子、娘が問題ではありません。夫と妻、息子、娘は、自らの習慣性をみな解決したのちにもたなければならないのです。


地上で結ばれたそれは、地上で解いて逝かなければなりません。霊界に行って解こうとしても、そのような刺激的な環境がないのです。反対する悪役が、善に反対する世界がありません。それが悪かった場合にはそれに反対するのではなく、悪い方向に押しやってし

まうのです。それに決別させてしまうのです。


皆さんは霊界に行き、保護館での生活をしなければなりません。何千年も待たなければならないのです。祝福を受けた人々も今後… …。息子、娘たちがみな「お母さん、私をなぜこのように生んだのか。なぜここに引っ張ってきたのか」と言わないと思いますか。皆さんの息子、娘たちがじっとしていると思いますか。皆さんの家庭のレベルはみな異なっています。ですから、行くにもすべて自分の級に合う所に行って、長い間とどまるのです。

そうなれば、皆さんの先祖が、息子、娘たちが、「どうしたのか。なぜそのように良くすることができなかったのか。何だそれは」と言いながら讒訴します。そうなれば、皆さんはそれに該当するだけの長い時間、そこにとどまらなければならないのです。そんなに易しくありません。ですから、地上でしなければならないのです。先生が「しなさい」と言うことを、みなしなければなりません。


皆さん、まだ真の家庭になっていないでしょう。霊界に行けばすべて別れます。霊界は



六百七十九



永遠に堕落せず、天国の家庭を成して生きた人々が入るようになっているのです。いずれ永遠をおいて皆さんは帰らなければなりません。地上においては七、八十年以内に解決できる問題が起こりますが、霊界に行けば永遠をおいて、何千万年かかったとしても、その解決の道は難しいのです。皆さんは地上で清算しなければなりません。地上で解決しなければならないのです。地上で解けば天で解かれ、地上で結ばれれば天で結ばれる、とあります。地上で失ってしまったので、地上で取り戻さなければならないのです。


体をたたいて三年間制裁すれば、三年ないし五年制裁するようになれば、その世界に行くものなのです。そうではないですか。肉的なことを大きくすれば、霊的なことは小さくなるのです。肉的なことをなくしてしまえば、これが高まるのです。同じです。ですから、外的なものを無視して縦的なものを重視するようになれば霊界が近づいて、本然的良心的基準に接ぎ木をすれば電気線のプラス・マイナスが、発電所の電気が通じるように爆発するというのです。それゆえに天地の変化の作用が起こるのです。そのような霊的体験がなければならないということを知らなければなりません。


聖書の「地で結べば天でも結ばれ、地で解けば天でも解かれる」という論理も、このような二重構造の一体性を知ることによって解明できるという結論が出てくるのです。きょう、私たち人間は肉身をもったこの期間が本当に、どれほど貴重なのかを知らなければなりません。神様も復活させることができ、宇宙も復活させることができ、全天下を統一させることのできる期間は、肉身をもっているこの期間しかないという結論になるのです。神様と万物を合わせても、この肉身世界と取り替えることができないのです。

なぜそうなのでしょうか。神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ完成できないためです。それゆえ、今日私たち人間の体がどれほど貴重なのかを知らなけ

ればなりません。それは素晴らしいでしょう。


天国に行き、地獄へ行く二つの道があるとすれば、天国を訪ねてくる人と地獄へ行く人とでは、どちらがより多いでしょうか。地獄へ行く人々が、より多いことでしょう。それを見つめる神様の心情はどうでしょうか。どれほどあぜんとするでしょうか。地獄とは関係なく天国に来て、膨大なこの国の民になって、愛を中心として神様とともに生きなければならない息子、娘たちが、みな地獄へ行くのを見るとき、どれほどあぜんとするかというのです。皆さんの息子、娘が死の地に行くと考えてみてください。このようなことはいずれ霊界に行けば、皆さんすべてが知ることです。


680 * 六百八十
 
霊界でみんな尋ねるというのです。「先生の教えはこうだったが、この基準に対してあなたは合格者か、不合格者か。霊的五感と肉的五感が一つになり、この基準に合わせようと努力したか」と聞くのです。皆さんはどのように考えますか。「天国はどうあってもいい」と考えて、ただで通過できる所ではありません。祝福を受けても、でたらめに生活した人が集まる所ではありません。深刻な人が集まる所です。皆さんは、先生よりもっと深刻でなければなりません。 霊界に行けば、まず誰に一番に会えるかというのです。誰に会ってみたいですか。そのようなことも考えたことがないでしょう。自分の母親に会おうと思っても会えません。真の父母が解放させる前には会えないのです。いくら愛する人だといっても会うことができません。少し離れた場所から見ることはできますが、近くでは会えないのです。


人間は霊界に入籍する時、地上生活を証明する証明書をもっていかなければなりません。

「私はこのように生きた。このようなことをした」と言うことのできる生涯の証明書のことです。そのような証明書は、自分自身で書くことができないのです。初めはサタンが書きます。先にサタンから証明書をもらってから、イエス様の証明書をもらわなければならないのです。それから神様の証明書をもらわなければなりません。


今後、皆さんは自叙伝を書かなければなりません。自叙伝を書きなさい。統一教会に入ってからの生き方を、一つのうそもなく自叙伝を書かなければなりません。そうすれば、霊界に入っていく時、その自叙伝を前において「私がこのような役事をすることができたのか!」と痛哭をすることができなければなりません。これを地上で書き天国に行って、百六十名、二百四十名、三百六十名に該当する霊通人たちが前に立っている列をたどっていく時、うそをつけばそこで雷が起こるのです。欺くことはできないというのです。


皆さんが行動したすべてが、あの世に行ってスイッチだけ押せば、あっという間に一生がテープにすべて現れるのです。それは悲惨なことでしょう。ここで先生がすべて許してあげるようになれば、そのテープがすべて消えてしまうのです。そのようなことを知っていますか。


六) 自然の中への順応的生き方が貴い

自然に向かい合う人は、宗教的な人です。宗教の世界は貸しのない世界です。大地は、自然はうそをつきません。一〇〇パーセント私が努力すれば、そこに対する結果をもたらすのです。そこには投機性がありません。一獲千金がありません。また、そこには賭博性がありません。年齢が五十になれば自然に帰り、自然の土とともに生きながら信仰生活をすれば、霊界に行く準備としてこれ以上良いことはありません。


先生は将来ここに農場をつくって、世界の食口たちを連れてこようと思います。皆さんが年を取って六十歳、七十歳になれば、自然の中で万物を育てながら、子供を育てるのと同じような心情を体恤し、神様の創造の心情圏を体恤するのです。そうしてから霊界に行けば、高い霊界に行くことができるのです。ですから統一教会で苦労した人は、晩年に農場に連れていって別荘で自給自足させる計画なのです。それが理想郷です。先生はそのような大きい構想をもっています。


六百八十一
 
六十を越えれば下野し、故郷の農村に帰って土地を耕し、霊界に行く準備しなければなりませんが、その準備が忙しいのです。ですから精誠を尽くして先生のように農村に埋もれながら、農村を指導できる、このような責任を果たさなければなりません。ですから、趣味産業、趣味生活をやり終えて霊界に行ってこそ、高い霊界に行くことができ、情緒的な人になって霊界の舞台を活用できる皆さんとなるのです。どうですか。


満六十歳まで仕事をしますが、その後は公的活動時代から解放されます。しかし、三年間は公的に無報酬で仕事をするのです。霊界に行くためには報酬を願ってはならないのです。霊界に行くための訓練をするのです。実績があれば七年まで延長するかもしれません。それでは、何歳まで。六十七歳、六十歳で終わって七年もできるというです。霊界に行くことができる基盤を中心にして……。そのようになれば、どこに行っても誇ることができるのです。統一教会の基盤をもって逝けば

「ああ功臣様が来られたのですね」と言って、先生の代わりに接待を受けるかもしれないのです。「ため」に生きるその基盤を通して霊界に行くと考えるとき、そのような年輪が必要だというのです。「アーメン」と言わなければならないでしょう。


陸地旅行、水中旅行、宇宙旅行をしながら暮らしてから霊界に行ってこそ良いのです。それで、海にも入って暮らせるようにするのです。五人が入っていって、いくらでも暮らすことのできる潜水艦を研究しているのです。ですから、地上で定着生活をしながら旅行をするというのです。陸地旅行、水中旅行、宇宙旅行をしながら暮らしてから霊界に行かなければならないのです。


鹿みたいな獣も育ててあげ、魚も育ててあげ、それから穀物も自然に人工を入れて育て、すべて育てるというのです。それがどれほど素晴らしいでしょうか!神様が創造したすべてのものは何であっても再生させ、それを願いながら神様を考えて、自然と調和を成し、このすべてのものがお互いに助け合って生き、趣味をもって暮らしてから霊界に行くのです。このようにすることによって、都市集中の世界をすべて分散できるのです。何の話か分かりましたか。


神様が願う未来の家庭システムはどのようなものでしょうか。それで、先生は趣味産業、趣味世界を考えたのです。今後各国にどのような組織をつくるべきでしょうか。建築をするのですが、コンドミニアム・システム建築、四つの家庭が一つになって暮らすことのできるそのようなシステムで訓練しなければならないというのです。お金をもうけて、食べるのも一緒に食べて、息子の教育も一緒にさせて、一つの家族のように暮らさなければなりません。一緒に暮らせず、和合することができなければ、霊界に行って制限された環境に押し出されるというのです。一緒に和合できないのです。


六百八十二
 
このおもしろみ、趣味文化というのはどこにもあるのです。創造の時から復帰の時、完成の時、地上生活、天上世界までおもしろくなっているのです。アメリカ人だけ良い生活をしなさいという法はないのです!アフリカも良い生活をすることを願いますか。「アメリカ人の中で も良い生活をしている人の家で、アフリカで も良くない暮らしをしている人を一カ月住まわせてあげなさい」と言えば、どうですか。それをすることができなければ、レバレンド・ムーンがします。 故郷に定着する時はどのようになりますか。天地のすべてのものが故郷になり、天地のすべてのものがそこに連結されているので、何ももって行く必要がなく、置いておかなければならないのです。それを置いておいて霊界に行けば、これを連結させることができるというのです。世界のものをここに移すことができ、また私がそこに行けば自分の家も引っ張ってくることができ、私のものになるというのです。もって行く必要がありますか、ありませんか。


ボートさえあれば一人で行って瞑想をすることもでき、小さい天幕だけ張っておけば、そこで寝ることもできるのです。天国のような観光をすることができるのです。人がいない所でです。自然に埋もれてこのような観光をするためには船が必要です。絶対必要だというのです。そのようになると思いますか、思いませんか。駄目ならそのようにさせるのです。


霊界に行けば、寝ることもなく食べることもせず行動できる世界なのです。考えてみなさい。千里万里をあっという間に行き来するというのです。この宇宙をすべて行動半径圏内に消化させることができるというのです。ここの自然において、南米にどのような木があり、どのような鳥がいてという、関心事がどれほど多いでしょうか。この前、大蛇で八メートル近いその抜け殻があったのです。やー、それを一度捕まえたいです。それ以上の大蛇を捕まえたらいいというのです。


一生の間の生活の中で、人生の趣味生活が人間の歴史とともに、人間の理想生活とともに和合し、霊界と連結されなければならないのです。自然的幸福の世界と連結することができなければならないというのです。


地上世界でいつも晴れたり雲がかかったり、ありとあらゆる気候の変化を見るとき、それが芸術的なのです。その環境で愛することを感じれば、あの霊界の澄んだ世界に行き、自分が雲がかかるようにしてみたければ雲をかけることができ、霧がかかるようにしてみたければ霧をかけることができる、愛によってそのすべての多様な感応圏をつくることができる特性をもった、そのような人間になることができるのです。ですから、すべての霊界が関心をもっているのです。「ああ、その人

のところに行けばおもしろい」と言うのです。


私は、山に行って草を見れば、どれが食べられるものか、みな分かります。芽が出てくるときは、すべてのものを食べます。子牛たちや子羊たちは、芽をみなかじって食べるのです。毒草を食べても毒がないのです。その時は毒がないのです。そのようなことをみな学んだのです。山に行けば食べるものがどれほど多いでしょうか。また、茂みに入れば昼寝をするのにどれほど良いでしょうか。蒸し暑い夏には腹を出して涼しくごろごろして過ごせれば、どれほど良いでしょうか。雨が降ったとしても、どれほど涼しくていいでしょうか。

六百八十三
 
腹を出して藤の下で大の字になって寝て、おならもぶーぶー鳴らしながら、いびきをかいて寝る男の姿を過ぎゆく尼なら尼が見て、南無阿彌陀仏……。それはなぜですか。あまりにも立派なのです。石仏ではありません。何の話か分かりますか。それを知らない女性は木石です。それは息子、娘も生むこともできず嫁ぐこともできません。しかしそれを見つめて南無阿彌陀仏する時、胸がどきどきし、おしりが突き出る時は、僧侶たちも一次元上がっていくのです。本当なのです。霊界に行ってみればそうです。愛を知らない僧侶たちは落第です。キリスト教徒たちがよく信じて天国に行こうといくらしてみても……。私がくまなく、すべてかき回して見ました。金活蘭がどこに行っているか知っていますか。患乱世界に行っています。


四 天国に入る秘訣 一) 天国は皇族の名誉をもって入る所

度数を合わせることができなければ天国に入れないのです。天国にそのまま行くことはできないのです。公式があるでしょう。メートルの原器はフランスのセーブルの国際度量衡局にありますが、それは気候や温度に対しても変化しません。数多くのメートルの物差しがあったとしても勝手気ままなものです。勝手気ままでは、それが正しいか間違っているかということは話になりません。必ず原器に合わせてみて判断するのです。そのような公式があるということを知らなければなりません。

天国に誰でも行くものと思っていますか。


皆さん、天国に行きたいでしょう。天国に行きたいならば、天国に行くことができる内容をもたなければならないのです。同じことです。天国に入る時、チケットが必要でしょうか。そのまま無事に通行できるでしょうか、何かの条件をもってチェックするでしょうか。無事通行ではありません。すぐに分かるというのです。霊界にコンピューターがあると思

いますか、ないと思いますか。人間が造ったものもすごいけれど、霊界のコンピューターはさっと押すだけで一分の間に生涯全体を知ることができるのです。うそをつくことはできません。このような息子、娘として生まれてこのような生活をしたということが、悪いいたずらをして、良くない年輪をたくさん残した女性ならば、それがすっと出てくるのです。


堕落しなければ、神様の血族をもって神様の直系の息子、娘が天国に入るようになっていました。その家庭が天国に入るようになっていたのに、堕落し、怨讐の血統を受けたのです。愛の怨讐となり、怨讐の血統を受けたその怨讐の子女だということを忘れてしまい、堕落しない直系の子女のように考えることができるその立場をもたなくては、本然の神の国に入ることのできる基準が立たないのです。神様の息子、娘、神様の血族である自分の息子、娘を直接愛した人が天国に入るようになっていますが、サタン世界の怨讐の子女をそれ以上に愛することができる基盤をもつことができなければ、天国に入れません。それゆえに、怨讐の子女を自分の子女よりも愛さなくては、天国に入る基盤がないのです。


六百八十四
 
サタン、怨讐の血統を受けた、そのことが問題です。神様の血統を受けて霊界に直通しなければならなかったのです。神様の愛をなした心と体が一つになり、夫婦が一つになり、子女が一つになって天国生活をし、地上天国で暮らして天上天国に入っていくのが創造の原則です。神様の直系の血統として、直系の一〇〇パーセント真の愛の因縁を結んで、統一的個人と、統一的夫婦と、統一的家庭の枠組みを中心として、彼らが地上で生きてから入る所が天国なのです。それが原理原則の基

準となっています。

堕落したのちに地獄が生じたでしょう。それゆえに天上世界と地上世界、すべて真の父母の愛の門を経て入っていくその世界が天国です。アダムとエバが堕落せずに真の父母の愛を通じて天国に入ったならば、万民の家庭のモデルになったはずです。一つの本然的モデルの家庭形態が天国に入るのです。そうすることによって、その伝統的歴史を受け継いだ皇族圏の愛を連結したすべての家庭は、一つの中心的幹の前に東西南北の枝と同じです。それゆえに、同じ圏統合の原則によって天国に入るのです。それでこそ統一世界になるのではないですか。これをはっきり知らなければなりません。


皆さんの家庭におじいさんがいますか、いませんか。ですから真の父母がおじいさんの位置にいるのです。皆さんの家庭に真の父母がいれば、皆さん祝福家庭は父母の位置以上だというのです。皆さんも真の子女として生まれたでしょう。そして、皆さん、子女をたくさん生んだでしょう。彼らが未来には王族たちになるのです。神様が初に王家をつくり、完成して霊界まで連れていくのです。そうではありませんか。理想的 高の家庭です。それが天の王族です。本然のアダムとエバが完成するのです。真の愛を中心とした王家だというのです。そののちに完成して行く所が天国なのです。

先生が皆さんの家に行って暮らせれば良いと思います。なぜですか。一生を喜んで父母様に仕えるようになれば、自動的に天国に行くのです。それが伝統です。真の父母は一生をそのように生きたがゆえに、自動的に天国

に連結されます。それゆえに皆さんとも連結されるのです。このことがどれほど驚くべきことで、楽しく、価値があって、貴いことです

か。誰とも取り替えることができないのです。


蕩減復帰原則についてもう一つお話ししましょう。蕩減復帰の原則は不変の真理だというのです。エデンでエバが犯した罪を後代のエバの世界において蕩減しなければ、復帰していくことができないのです。これはみんな知っているでしょう。それを復帰することによりサタン世界は消えていくのです。ですから、真の父母を中心として本然的基準のこれが、全世界的に成されるようになる時は堕落しない本然的天国、理想世界が成されるのです。その世界が人類の願うたった一つの方向へと訪ねていく、平和の世界以外にないとい

うことをはっきり知らなければなりません。


真の父母と一つになり伝統の相続を受けて、皆さんの家庭が主体的伝統で万国を統治できる基盤となり、主体性をもつことができる家庭になるとき、天国の皇族圏内に入籍するのです。このようにして入る所が天国です。天国は誰でも入れる所ではないのです。その道を行こうと三代が決心しなければなりません。おばあさん・おじいさんから母・父、夫婦、息子・娘まで段階は四段階で、系列は、夫婦を備えたものは三代です。


六百八十五
 
本来堕落しなければ、私たち人類の先祖は神様の息子、娘で、地上天国、天上天国の王子、王女になるはずでした。それは世界的です。根源と同時に一番終わりです。アルファとオメガです。アルファから善の父母が出てくることができず悪なる父母が出てきたので、これをすべて抜き取ってしまわなければなりません。そして、悪なる父母で始まったすべてのことを消化させることのできる真の父母が出てこなければならないのです。


本来アダムとエバは神様の息子、娘でしょう。神様の息子、娘なので天国の王子であり、この地上の王子なのです。天国の王子であると同時に、大きくなれば地上の王になるのです。王孫です。それゆえに天国の王宮での法度を守り、その道理のすべてを実践して神様の愛を中心として縦横、前後、左右に一つの理想的なモデルになるのです。

東方に行くとしても、西方に行くとしても、南の方に行くとしても、北方に行くとしても、前の方に行くとしても、裏側に行くとしても、どこへ行くとしても理想的モデルになるのです。なぜそうなのかというと、この中心位置に立っているためです。その位置というものは、中心を中心として東方、西方、南方、北方、上下関係どこでもすべて核です。そのような立場を考えてみるとき、どこに行こうが、皆さんが見本にならなければなりません。


愛の所有を中心とするならば故郷が私の故郷となり、家庭が私の家庭となり得るのです。そこで子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成がなされるのです。神様の教本に提示されたすべての内容をなせなかったことを、今日真の父母を通じて再現し知るようになり、それを再度実行することによって、堕落しない本然的立場で神様が完全に恨の峠を越えて教育に対する定義を下すことができるのです。そのようにすることによって、天国の民として合格者、合格家庭となるのです。霊界はこの地上の愛の大海が連結された世界で、そこが天上天国です。それゆえに、あの世では愛の体恤的心情をもたなければ生き残ることができないのです。


五十億人類は長子権、直系王権を受け継いだ王家の親族たちです。その皇族圏の心情を体恤した人たちが天国に入るようになっているのです。それゆえに、全世界的に平面化された王族圏を中心として、それを実体化させた世界の統一心情圏を体恤する生活をしなければならないというのです。そこから真の父母も、長子の上の真の父母です。真の父母の王権なのです。このような王権を中心として周辺の王族を率いていかなければなりません。天国はこのような家庭の兄弟はもちろん、父母を中心として、王権を中心として、王族を率いて、王権に仕えて入っていく所です。そのような心情を体恤して入る所が天国です。


天国というものは何ですか。アダムとエバが双子で生まれて、暮らして成長し、結婚して二人が父母になったのと同じように、その心情圏を体恤し、王権をなしてその権限をもって王族を率いる人々が入る所です。そのように王が入ったのちに、王族を連れて入るようになっています。そのようにして平面的に四大王権になるのです。


六百八十六
 
今から地上天国時代に入るので、私たちの家庭が王の一家だということなのです。ですから、どれほど模範的にならなければなりませんか。王が勝手気ままに暮らせますか。女王が勝手気ままに暮らせますか。その息子、娘が勝手気ままに暮らせますか。王と王妃、王子、王女たちは、その国の法をすべて守らなければなりません。それだけでなく、王宮の法があります。法の中には王宮の法があるのです。


宮で貴族たちが暮らす法があるでしょう。英国でも韓国でもみな、王孫が生きることがどれほど難しいでしょうか。先生がその道、復帰の道をすべて歩んできたのです。そのようにしてみなければ天国を意識できないのです。皆さんが天国を治める王の位置に上がることはできません。女王に仕えることができないのに、どうして男性の王になれるでしょうか。そうではありませんか。


今、皆さんは真の愛を中心とした皇族にならなければなりません。皇族、アダムがそのようになれば、アダムが直系の子女ならば傍系の子女であるその兄弟姉妹たちは、すべて民になるのです。それゆえに天国に入るには、天国の王子、王女の愛を備えて、その権威と威信をもって入るのです。そこが本郷の国、天国であることを知るべきです!


二) 四大心情圏の愛の実体が天国に行く

天国はどのような人たちが入るのでしょうか。四大心情圏を完成した愛の実体が入るのです。自分より何千倍も優れたことを願う愛の対象者として、天の国と地の国と未来の三王権を身代わりした中心家庭が私の家庭だということを知らなければならないのです。これを失ってしまったがゆえに、復帰された家庭でこのような概念と、このような内容を実践して結実させなければならないのです。それを息子、娘を通して繁殖させなければならない責任があるのです。 このように本然の道を失ってしまったので、これを完成して帰らなければならないのです。

「それが復帰の道であり、再創造の道であることを知らなければなりません。アーメン!」。これは文総裁の話ではありません。

神様が語られたみ言なのです。


皆さん、このような話は初めて聞いたでしょう。四大心情圏と三大王権を復帰し、皇族の愛をもっていくべき祖国が天国です。死んでみてください。いくら優秀な人でもここにすべて引っ掛かります。その時になって「文総裁の話を聞いていればよかったものを!」と後悔せず、早く決定して祝福を受けなさい。

それが も早い解決方法です。


それとともに学ぶのです。男性、女性が和合し、天国の失ってしまった家庭を取り戻して、神様を王として侍らなければなりません。ですから、おじいさんは神様の身代わりです。おじいさんを神様の身代わりとして侍らなければなりません。自分の父母は、五十億人類の家庭を中心とした王です。その息子、娘には未来の王のように侍らなければなりません。神様のように、現代家庭を代表した王のように侍る父母の道理を受け継いで、千年万年にその道理を残していく世界が地上天国となるのです、アーメン!


六百八十七
 
四大心情圏と三大王権を完成した家庭が理想的な家庭です。それで、おじいさんは神様と同じで、父母は世界の家庭の王で、自分自身は天上と地上の王権を継承する未来の王です。これは天国の王権であり、これは地上でしょう。これを相続する王なのです。このような三大王権が結実しなければならない所が私たちの理想家庭です。


父母権復帰の目的は王権復帰であり、王権復帰の目的は皇族圏復帰です。それが四大心情圏です。おじいさん、父、自分の夫婦が三大王権を象徴します。おじいさんは過去を象徴し、自分の父母は現在を象徴し、自分たち夫婦は未来を象徴するでしょう。おじいさんは霊界の特権大使として自らの家に送られたお方なので、おじいさんの言葉に絶対服従する家庭は繁盛します。


私たちの地上生活がそのまま霊界に移るのです。それを知らなければなりません。それでは、霊界に行きどのように横的に連結されるでしょうか。私の家庭で感じたことが宇宙の家庭で感じる、その世界に入るのです。世の中では縦的父母を中心として、もちろん神様圏を中心として縦的父母になっていますが、横的父母を中心として家庭で暮らして、永遠な縦的世界、父母の世界へ行くのです。

その世界が天国であるので、それは一代ではなく、数千代がすべて入ると考えるのです。神様を中心として世の中でおじいさん、父母、自分の息子、娘と暮らしたのを拡大させた世界なので、そこに入って暮らせば、この地上で姉として、妹として、それから妻として、母としての責任、また兄として、弟として、夫として、父として一つの家庭で感じた責任を横的に感じることができる因縁ができてこそ和するのです。


男性は絶対に女性と一つにならなければなりません。女性は男性と絶対的に一つにならなければなりません。また、父と息子、娘が、神様と息子、娘が絶対的に一つになり、兄弟が絶対的に一つにならなければならないのです。神様の愛を中心として神様のように一つの家庭で暮らし、死んでそのまま移る所が霊界です。


アダムは神様御自身です。家庭の主人ですが神様御自身の体です。国の中心も神様御自身です。世界の中心も神様御自身です。それで、人は生まれてこのような家庭において、家庭が一つになり、国が一つになり、霊界が一つになる三つの段階を越えていかなければならないのです。


アダムは神様の愛を受けましたが、アダムの息子、娘は、神様の愛とアダムの愛、二つの愛を受けることができるのです。霊界の王権と地上の王権を受け継ぐのです。地上天国から天上天国に入っていくので、このカテゴリーは分けることができないのです。


おじいさん、おばあさんが絶対必要で、父母が絶対必要で、夫婦が絶対必要で、子女が絶対必要だという心をもち、国は自分の家庭よりもっと愛さなければなりません。世界はそのように四段階の人類が分布していることを知って、自分の国よりもっと愛するのです。過去、現在、未来が一つになった霊界に行って暮らそうとすれば、そこは四段階のすべてを愛した人々が行く所なので、それを愛さなければなりません。そのような世の中を地上に成し遂げたのが地上天国であり、天上天国は地上天国によって自動的に形成されるのです。


六百八十八
 
四大心情圏は夫婦によって愛一体を成したところで結実し、三大王権はアダムとエバが息子、娘を生んでこそ完成するのです。息子、娘を生んでこそ三大王権が完成するというのです。霊界を代表するのはおじいさんを代表した神様であり、アダムとエバは現在を代表します。過去、現在、未来です。現在を代表したアダムとエバを中心として未来を代表した息子、娘が出てきますが、「正」から

「分」になったのが、合わさらなければならないのです。


霊界においても、神様が過去に感じたすべての現れなかったことをアダムとエバが感じることによって、結婚時においてアダムとエバが一つになることによって、神様とぴたっと上下左右が合わさるのです。ここから兄弟が発生するのです。それで、円形的球形を成していきます。この球形を成していくのが皇族圏であり、夫婦を成したのが王権です、王権。三代一体圏が生じるのです。三代が一つになるということです。


おじいさんは過去の王です。神様の位置であり霊界を代表する、天国から派遣した特権大使です。そして、父母、アダム・エバ圏は、この世の国の王と王妃だというのです。おじいさん、おばあさんは天国の王と王妃の位置で、父母はこの世の家庭を中心として家庭世界の王と王妃だというのです。霊界を代表したおじいさんの王権と現在のこの地上天国を代表した王権、この二つの王権が一つになったその継代を受けるのが後孫です。それゆえにいつもこの息子、娘は父母と一つにならなければならず、おじいさんと一つにならなければならないというのです。また、おじいさんはいつも父母を中心として孫と一つにならなければならず、父母もやはりおじいさんと一つにならなければならないというのです。これを離れては天国の基台が崩れるのです。


天地がいくら高低の差があり、広狭の差があったとしても、天地にとどまる者たちは四段階になっているというのです。霊界にもおじいさん、おばあさんがいるのです。父母のような年齢、青年のような年齢、少年のような年齢がいます。これをもう少し集約すれば二人です。 二人 !


四大心情圏、三大王権を知っているでしょう。皆さん夫婦は、これを成さなければなりません。そのようになれば、思いのままに霊界から地上までいつでも来臨できるというのです。四大心情圏の完成は、結婚して愛を中心として一つになることによって可能です。もしこれが壊れれば、子女心情圏の未完成、兄弟心情圏の未完成、夫婦心情圏の未完成、父母心情圏の未完成になるのです。霊界にはこのような心情圏を完成して行くべきですが、堕落したので、その心情圏を今まで成したことがありません。それゆえに蕩減復帰をしなければならないのです。


三) 心に同化された生活をしなければならない

良心が神様の代わりに私に植えつけられた第二の神様、私の中心存在であることを知らなかったというのです。神様以上に仕えなさいというのです。道主以上、イエス様以上に仕えなさいというのです。そうすれば、イエス様を信じた以上の位置に行くことができるのです。統一教会の文総裁を信じないでください。統一教会の文総裁の教えを受けて良心



六百八十九



と完全に一つになるならば、統一教会の文総裁についていかなくても天国に行くことができます。教材を買って勉強をしなければならないのです。


良心を解放し、解放的自我を確立させて統一圏をもたなければなりませんが、それができない人は天国に行けないのです。天国をすべて探してみましたが、そのようにして天国に行った人がいません。今でも修養過程にとどまってだだをこねて、牧師や長老や優れているという人々の中に、みな逆さにされて串刺しにされている人が多いのです。


良心を解放しなさいというのです。皆さんの心は天国の監視所であり、皆さんの体は地獄の監視所だというのです。皆さんの体が心を引っ張り回しますか、心が体を引っ張り回しますか。宗教を信じる人々は心が体を引っ張り回し、宗教を信じない人は百発百中、体が心を引っ張り回します。自分を中心として生活します。それが違うのです。それゆえに地獄の出発地が私であり、天国の出発地も私です。心のとおりにすれば天国に行くのであり、体のとおりにすれば地獄に行くのです。他のために生きれば天国に行くのであり、自分のために生きれば地獄に行くのです。きょう帰れば、良心の解放を宣言しなければなりません。


心と体はどのようなものですか。それは主体と対象です。相対のために存在しなければならないというのです。心は体のために生き、体は心のために生きるのです。一つになれば、皆さんは五官ではなく、十官になるのです、十官。天の霊界もすべて見えて分かるのです。天国から聞こえてくる音楽の音もすべて聞くことができます。


今後は天国へ入っていくとき、霊通人たちが現れて、イエス様の横腹をローマの兵士が槍で刺したように、萩の茎で良くない行いをした人を、刺すのです。無慈悲な時代が来るということを知らなければなりません。人民裁判があったでしょう。そこまではいかないでしょうが、それは自分が願うからといってやらないわけにいかず、絶対うそをつけません。そのような時代が来るということを知っ

て、心と体が一つにならなければなりません。


神様は一つになっていらっしゃるということになれば、堕落して争う存在は、神様の反対の所に行くしかありません。そのような所を指して、霊界でも地上でも地獄というのです。悪いものは地獄に行くしかないのです。これを論理的に整理しておかなければなりません。はっきり分かりますか。良心と体がずっと闘って一体になることができなければ、地獄に収納されますか、天国に収納されますか。地獄!死ぬ前に、いつかはそれを一つにしなければならないのです。それを一つにせずして天国に行こうと考える者は、とんでもない者だというのです。そのような結論が出ました。


690 * 六百九十
 
サタンは遠くにいるのではありません。自分と共に連結されています。自分というのは、天国と地獄の境界になるというのです。自分に地獄があり、天国があります。良心は天国、地獄は肉身なのです。良心は主体であるにもかかわらず、堕落したので……。愛によって良心が愛と一つになって、完全に霊的、地的、地上天国、天上天国の永遠なプラスの立場に立たなければならないのです。


体は何かというと、地獄の中心核です。核心の中の核なのです。それでは、良心は何ですか。天国の中心の核です。この二つが闘うのです。ずーっと毎日闘うのです。これが問題なのです。どのようにこれを解決するかということが私たち一生一代の課題です。ですから、体を打って弱めることを趣味と考えなくてはなりません。その反対領域をどんどん占領して広めて自分の所有をつくらなければならないのです。そうすれば、肉身はだんだん小さくなるのです。

それで、制限領域を無限な世界へと広げるのです。永遠な世界のために生きること、ですから、肉身をずっと征服して霊界まで行くのです。水平になるまで行かなければなりません。このようにしなければ、地上天国を成すことができません。堕落しない本然の真の愛を中心として、平面上で心と体が一つになることのできる起源的位置を復帰することができないのです。


悪魔が支配する地獄があり、善の神が支配する天国があります。天国はどのようなものでしょうか。天国は建設するものであり、地獄は破壊するものです。これが違うのです。それで、この建設と破壊が私の一身においてぶつかるのが、心と体の闘争です。


神様は心と体が一つになっているために、心と体が一つになった理想的な息子、娘として生まれた人々が、地上で一つになって暮らしてから天国に移されるようになっているのであって、闘う者は絶対にあり得ないのです。神様はそのような存在形態を見るのも嫌うというのです。では、人類が願うこととは何ですか。このような闘いを停止させることのできる主人が、父母が来なければならないというのです。偽りの父母で始まって分かれたがゆえに、真の父母が来てこのような事実をはっきり理論的に教えてあげなければなりません。故障したがゆえに、その故障した箇所を取ってしまい、け飛ばすことができる、このような運動が地上で起こらなければ、地上天国は永遠に遼遠なものです。


良心が体のために、どれほど犠牲になったでしょうか。一生の間蹂躙される良心の事情を、皆さんは知っていますか。昼夜私を管理するのに疲れているのが良心です。それでも、へたばらずに体が悪い行動をしようとすると防ぐのです。「それだけすればもういいではないか、私の話をちょっと聞かないといけないじゃないか」と、そうでしょう。自分の前にも近い、父母の代身、神様の代身、先生の代身の存在が良心です。心自体には教育が必要ありません。しかし体には教育が絶対必要です。


六百九十一
 
すべての人間は各々自分自身の中に、も大切な先生を一生の間終始大事に保管しています。それにもかかわらず、その先生を誤って待遇し、踏みつぶして乱用します。その先生が正に人間の良心です。私たちの良心は、常に私たち自身にも助けになるように語り、私たちを真の愛と連結させてあげようとします。父母のように私たちの良心は、私たちをして善なる非利己的な人になれと促し、神のみ旨に従って行動するように導いてくれます。しかし各自の心の中にはまた、良心の声を常に拒む反乱者がいます。その反乱者は正に肉体なのです。


皆さんの体と心の統一も、真の愛でなければできません。それゆえに心は体のために犠牲になりながら忘れに忘れ、また忘れてしまうのです。心とは、神様を身代わりした立場であるので、皆さんの先生の中の先生です。その心は、神様が御自身の代わりに派遣してくれた私の中心です。縦的な私です。


先生は若い時、自分の体を制御するためにありとあらゆることをしました。一週間、目を開けて寝るのです。いくら千万の美人たちの中で寝ても、男性のそのスティックが美人たちの三角地帯に接しても動いてはならないのです。自分の体をコントロールできない人は、天国へ行くことができません。


地獄の根、天国の根がどこかといえば、世界ではありません。終わりの日の世界が地獄と天国ではありません。地獄と天国の根はどこにあるのでしょうか。あくまでも皆さんの心と体にあるということを知らなければなりません。今までそれが分かりませんでした。数多くの聖人たちが来て教えてくれ、相対的世界に適応しようとはしましたが、自体において闘うこの根拠地を爆破させることができなかったのです。この統一はここから始めなければなりません。ここから始めなくては駄目なのです。


サタン世界は地獄へ行くのであり、神様の世界は天国に行くのです。そうなれば、自主的な、自分のために生きる世界は悪なる世界へ行き、公的な世界、全体のために生きる世界は天国に行くというのです。善悪の分岐点が自分から始まります、皆さん、ここに、一つは公的に行こうとする心と、もう一つは私的に行こうとする肉体があるのです。心は公的であり、体は私的な立場で闘争するのです。

偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統によって生まれたことを否定し、ここで切ってしまい、真の愛を中心とした真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木をして再び生きる、このような道を行くことが人類の行くべき道であり、個人全体が行くべき道です。これが結論なのです。宗教が出てきたのは体を征服させて一つにするためです。このような立場で真の愛と一つになって、この地上に暮らして天国に行くことのできる息子、娘を皆さんが生まなければなりません。宗教を信じないで天国に行くことのできる真の息子、娘を生むことができる人にはなれずにいます。


それゆえに宗教が出てきて体を征服し、一つにし、真の父母と一つになって接ぎ木をし、偽りのオリーブの木が真のオリーブの木となり、真の息子、娘を生んで、この地上で暮らしてから永遠にあの世に上がっていく、天国

に入っていけるのが創造理想だというのです。


皆さんの体において、この戦争を早いうちに解決しなければなりません。この戦争を終えて生きることなしに天国に行くことはできません。永遠にあの世で引っ掛かるのです。深刻な問題なのです。父母が問題ではなく、家庭が問題ではなく、一族が問題ではありません。一遍にこれが引っ掛かるのです。


六百九十二
 
心身が統一されていない人は天国へ行くことはできません!偽物です、それは! 国が成立しても再び家庭を中心とした七年路程があるということを知らなければなりません。無慈悲なこのような過程を経なければなりません。へびが殻を脱ぐために岩のすき間を抜け出るのに、大きいへびであればあるほど、どれほど難しいでしょうか!小さいものはたやすいけれど、大きいものは難しいというのです。大きいものが抜け出ながら皮をはがすことができる、そのような狭間がありますか。ですから平たくこのように行きながら、すべてはがれなければならないというのです。ですから、大きければ大きいほど難しいのです。世界の統一が難しいですか。霊界の統一がどうなのか考えてみなさい!


皆さんがいつも考えるべきことは、サタンの血統が自分の体で蠢動しているという事実です。これをどのように停止させるか、どのようにこの根源を清算するかということが、私たちの日々の生活から始まって、生涯路程の使命です。これを清算することができずに逝けば、永遠な世界で引っ掛かるのです。天国に入るためには、モデルがなければなりません。天国に入るためには、神様が創造なさった公式に従わなければならないのです。そうでしょう。公式です。皆さんが学校を卒業しようとするなら、みなその学課を経て、単位を取って、卒業証書を受けるのと同じような過程があるのです。「これで終わる」という過程があるというのです。同じなのです。天国に入るにも公式がなければなりません。


霊界に行けば良心が霊界の体のようになり、その体に対する良心の立場に神様が現れるのです。自分の良心は神様の体になるのです。皆さんが神秘的な世界に入って、「神様、どこにいらっしゃいますか」と言えば、自分の中から「ここだ、ここだ」と言うのです。

人々はそのような体験を多くします。それで、人間はすなわち天だという話が出てくるのです。

神秘的な霊界の世界に入って、「神様はどこにいるのか」と祈祷すれば、腹の中から

「どうしたのだ」と答えるというのです。そのようなことを体験するのです。自分も知らないうちに話をするというのです。「そこに行ってはいけない」と、そのように言うのに、そこに行けば事故が起こるのです。それは誰が言うのですか。神様が言うのです。熱心に祈祷すれば、そのような神秘的な体験をする

境地に入るのです。


四) 絶対「性」を中心として天国、地獄が分かれる

六百九十三
 
男女の初愛とは神様に出会う時間です。結婚して初愛を交わす瞬間は、男性として完成する場なのです。すべての神様のプラス世界、すべての男性型、右弦型を代表するそのアンテナとして君臨するのです。アンテナのてっぺんで陰電気と陽電気が出合う正にその場と同じなのです。女性と男性が愛し合うその場は男性完成、女性完成をする場なのです。また、初めて天地の中心として地上に定着できる愛の王宮がそこから始まるのです。初めて愛の本源地が出発するのであり、また生命がそこから連結されるのです。そうではありませんか。血統がそこに連結されるのです。それと同時に、そこから国が生まれるようになります。地上天国、天上天国は、初愛の門を開くその場から、愛から始まるのです。これを知らなかったというのです。 本宮、分かりますか。その愛の出発地は地上天国の出発地であり、天上天国の出発地です。男性と女性が絶対的に一つになる位置です。その絶対的な位置で神様が見えない性相と形状を分立して人を創造し始めたのと同じように、女性と男性が愛で一つになって息子、娘を生むのです。見えない神様が創造したのを、見える実体になって成し遂げるのです。血を混ぜることのできる力は愛です。血を混ぜることができるその軸はどこでしょうか。どこが発電所かといえば、女性と男性の凹凸が初愛を交わす所です。そこで初めて初愛によって発電し始めるのです。真の愛の発電、真の生命の発電、真の血統の発電、真の地上家庭と共に地上天国の発電、天上天国の発電の震源地がそこです。これを無視する者はあり得ないのです。いれば、地獄しか行かないのです。とんでもないというのです。


男性と女性のその器官がどれほど貴いか分かりましたか。神様が降りてくるのです。神様の解放がここから始まり、神様の歌と踊りもその上から生まれるのです。それが愛の王宮、永遠な王宮と通じるのです。地上天国、天上天国の初愛の門がそこから始まるのです。そうだと思いますか、うそだと思いますか。皆さん、独身のとき、そのように貴く思っていましたか。

初愛がどれほど怖いでしょうか。初愛を間違えれば、天下がすべて地獄へ行くのです。ここで愛の王宮を失い、生命の王宮を、血統の歴史とすべてを失ってしまい、地上天国と天上天国の起源を失ってしまいました。その人はどこに行くでしょうか。原理原則があるのにどこに行きますか。存続する所がないのです。ごみ箱に入るのです。永遠に暮らせるようになっていた人間ですが、逆さまになっ

てごみ箱に入っていかざるを得ないのです。


男性完成、女性完成、神様まで完成させることのできるその本郷はどこでしょうか。どこで神様の愛を完成させることができ、どこで男性、女性を完成させることができるのでしょうか。その中心の定着地はどこでしょうか。これが問題なのです。これを知らなければ、地上に愛の理想天国を拡張、拡大できません。それが目ですか、鼻ですか、手ですか、足ですか。どこですか。(凹凸です)。


男性、女性が、凹凸が一つになることは、神様が完成し、半分である女性、半分である男性が完成する立場です。男女が結婚し初愛の関係を結ぶその場から、神様の愛的理想が完成する定着地が生まれるのです。男性、女性の愛を中心とした神様の相対的位置としての完成の位置が決定するのです。これは宇宙の核です。これが動けば、宇宙全体が行ったり来たりします。地上天国の本拠地であり、天上天国の本拠地だというのです。


六百九十四
 
ここは愛の本然の地ですから、愛の本宮といいます。多くの王宮の中で中心宮を本宮といいます。これが愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮であり、それから天上天国と地上天国の出発地であり、人間が願っている自由と幸福と平和がここから始まるのです。そこは愛、生命、血統すべてのものの王宮であり、個人、家庭、氏族、民族がそこから連結されるのです。天上天国と地上天国の本然の地であり、出発地だということを知らなければなりません。それから、自由と幸福と平和の起源です。女性にとって男性がいなければ絶対に暗黒であり、男性にとって女性がいなければ絶対に暗黒です。


男性が崇拝できる高の場所とはどこでしょうか。女性の顔ですか。女性の胸ですか。女性の体ですか。どこですか。凹凸を合わせることのできる所は一つしかないのです。そのために準備的環境が、社会が連結され、国家が連結され、世界が連結され、地上・天上天国、宇宙がすべて連結されるのです。これが、存在世界の鉄則であり公式です。


平和の基地もそうであり、地上天国、天上天国、すべてのものが愛から始まります。どのような愛ですか。男性の愛ですか、女性の愛ですか、男性と女性が一つになった愛ですか。一つになった愛です。その男女の愛のどこで一つになりますか。顔で一つになりますか、指先で一つになりますか。凹凸で一つになるのです。


神様の結婚式がアダムとエバの結婚式です。それゆえに、地上天国と天上天国が同時に生じるのです。愛の巣から出発するのです。男性、女性の生殖器を中心として、堕落せずに出会うその時間が、地上天国、天上天国出発の起源地なのです。三大王圏を樹立しなければならないその基地が、そこです。その場で

なければ愛の巣をつくることはできません。


愛が理想的な天国をなすことのできる出発地なので、愛の中心です。王宮だというのです。生殖器は愛の中心だというのです。それが王宮になるためには結婚しなければなりません。夫婦生活によって愛の王宮がなされるというのです。何がそれを連結しますか。男性と女性がキスして唇が連結しますか。何が連結しますか。凹凸が連結するのです。これは偉大な偉業です。この愛によって男性のすべてと女性のすべてが混ざるのです。一つになるのです。それから、そこから男性と女性の血統が連結されます。血統が連結され、渦巻きの中で、その中央で初めて新しい生命を中心として歴史が創建され、歴史が連結されるのです。一代で終わるのではありません。永遠な歴史が連結されるのです。地上天国、天上天国がその場から出発するのです。


女性は、男性の愛の器官のために暮らすのです。愛のために生き、生命のために生き、息子、娘のために暮らすのです。女性は子供が好きなのです。女性の胸が大きく、おしりが大きいのは、赤ん坊のためにそのようになったのです。それを満たさなければならないのです。それゆえに、三代の本宮がどこにあるのでしょうか。人間の根本問題です。これが、家庭の根本であり、社会の根本であり、国家の根本であり、地上と霊界、天国世界の根本出源地です。


愛の本宮は、神様まで完成させて安息させることができる王宮です。これが、どこで一つになるのかといえば、凹凸一箇所です。アダムとエバの生殖器、その場が偉大だというのです。それゆえに、その生殖器は愛の本宮といいます。驚くべき言葉です。天地創造の全体、神様まで完成させて安息させることができる王宮ですが、本宮です。天国も初ではなく、地上の国も 初ではありません。この家庭から始まるのです。これが本宮です。

六百九十五
 
驚くべき言葉です。 それからその場は真の愛を中心とした本宮ですが、真の生命を中心とした本宮でもあります。それからまた、血統を中心とした本宮であり、地上天国の出発地であり、天上天国の出発地だというのです。それがなければ地上天国と天上天国、天国と人間の国が成り立たないのです。真の愛のこの驚くべき所が、下品な言葉になりました。天地を滅ぼす亡国の種になったがゆえに、今までも悪いものとして取り扱われました。本来は神聖なものです。先生方、お分かりですか。朝起きてあいさつをする時、生殖器に「よくお休みになりましたか」と言わなければならないというのです。先祖よりも、先祖の愛に仕えることができる場がその場であることを知らなければなりません。


愛の器官をむやみに扱えば罰を受けるようになっています。それが愛の王宮であり、愛の先祖の園です。愛はそこから出発しました。生命がそこから出発しました。歴史がそこから出発しました。地上天国の起源であり、天上天国の起源であり、神様の幸福の出発の起源がそこから形成されるというのです。神様の笑いの基台がそこから出発するのです。愛を求めて神様が踊ることのできる場がその場です。その場を訪ねていかなければなりません。それは正しいですか、正しくありませんか。このように貴いのです。


神様の花が愛から、人間の花が愛から、地上天国、天上天国はこの花が愛で咲くことによって始まるのです。ゆえに「真の愛はすべての完成の花だ」という、このような言葉が通じるのです。このように見るとき、夫婦の因縁を通じて神様が創造した第二の創造を私に与え、神様が感じた喜びを感じ、永遠に実存的な神様の存在を実体的に体恤できるようにした栄光の場が、どれほど偉大かというのです。

天国において美しい人になろうとするなら、愛の花がぱーっと咲いて、そこに和合し相対的世界で花の美しさを現し、花の香りを現して、その花を通じて新しい種をもつことができる、このような姿をもって地上で生きなければならないのです。そのように暮らして霊界に行くようになれば、永遠なるその世界でもそのような姿で現れるのです。


女性の生殖器が宇宙的な本源なのです。愛の関係を交わすその場が愛の本宮となっているのです。本然の宮中なのです。愛はそこから始まるのです。結婚初夜の愛が愛の本宮の出発なのです。女性の生命、男性の生命が初めて一つになるのです。それゆえに理想的な生命の本宮がそこであり、血統がそこから始まるので、血統の本宮がそこだというのです。そして、天国がそこから始まるので、そこが地上天国の本宮であり、天上天国の本宮であり、人間完成の本宮であり、神様の完成の本宮なのです。


人間が堕落する時、愛のために堕落したので、この性器がも怖いのです。宗教では姦淫することを も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか。地獄です。地上地獄であり、天

上地獄です。これはすべて滅亡するのです。


六百九十六
 
文総裁がすべての真理を探求して、霊界、肉界を探査し、あらゆる経典を探査しても、これは解決する道がありません。神様がいるかいないか。神様がいるならば、世界をこのようにさせた神様を私がそのままにしておかないのです。決着をつけるために闘ったのです。人間が生まれた根本原則が何であり、なぜ生まれたのでしょうか。男性は女性のためにです。それが真理全体の中で高の真理です。女性の前に理想的な男性は 高の真理です。宇宙全体を完成した以上の真理の本体だということを知らなければなりません。男性の前にそのような女性も、宇宙の真理の本体の中の本体です。絶対的な真理体です。


今まで人間が悩んだ根本問題がこのように簡単で、こんなに易しいものだとは、私は本当に知りませんでした。大変な苦労をしました。まさかこうなっているとは知らずに、正しいもの間違ったもの、霊界に入って、使い道のないものまでくまなく探し、あらゆることをしました。ところが、気がついてみると自分がすべてもっています。「ああ、これを知らなかったのだなあ!」と思いました。大概すべてあるのです。気分が良いでしょう。宇宙がすべて私の中にあります。宇宙がすべて私に入っています。


真理が他の所にあるのではありません。私自身にすべて備わっています。学ぶべきものはありません。先生もそれを尋ね求めてきましたが、真理の世界が宇宙の他の所にあるのではありません。霊界だとか何だとか世の中をすべて調べ、苦労して、すべて探ってみると、結局、神様がすべて与えてくれていました。あぜんとしました。すべて私にあったということを知らなかったのです。このことを知らなかったというのです。

五) 夫婦愛が愛の理想の中心の花

神様は縦的二性性相をもった方であり、人間は横的二性性相をもった実体として、二つが一つとなって、完全な丸いりんごの形をなして、四つの性相形態をもった東西南北に愛の理想を引っ張ってくっつけることができる

母体にしようというのが、夫婦の理想です。


結婚をしたとするなら既に平面的ではありません。平面的な基盤しかありませんが、高いものが低いものと連結される時は、垂直的概念が生じるのです。平面的な歴史は宇宙を収拾したり、天宙を収拾できないのです。垂直と水平が出合って九〇度を成す時、それは天を地にしても、地を天にしても、前を後ろに、後ろを前にしても、右弦左弦、上弦下弦、前弦後弦どの面を付けてもぴったり合うのです。地上完成基準は、霊界のすべての完成につながるのです。


六百九十七
 
絶対的な夫婦の理想を描いて、芸術的な夫婦を地に築き、今までの地上にない愛の絵を描くのです。その絵をもって天上世界の永遠な世界で旅行しようとするのが、霊界に行くことです。霊界は無限世界へ旅行することです。そこはお金も必要ありません。御飯も必要ありません。服も必要ないのです。愛する相対に与えたければ、すべて特権的に、すべて与えるようになっています。金のような服、世の中にない想像だけしていた服を着せてみたければ、愛する心が切実になって与えたい気持ちがあれば、相対が現れるのです。どこでも旅行でき、どこでも自由です。 家庭を芸術化させなければなりません。おもしろい夫、芸術的な夫にならなければなりません。何かの雑誌に良いことが載っていれば、さっと抜き出して、寝ようとする夫人の前ですてきな声で読んであげるのです。感動を受けて寝る妻の姿を夢に描けば、それが再現されるのです。霊界と連結されるのです。それがどれほど素晴らしいでしょうか。そのように生きたいですか。そのままおもしろ味のない夫婦として生きたいですか。素晴らしく生きようとするならば、素晴らしくあり得る姿勢、素晴らしくあり得る方向をとらなければなりません。それが第一条件です。


霊界に行けば農作業もせず、食べて遊ぶばかりなのに、どのようにしておもしろく生きますか。これを考えてみてください。退屈で、どうやって生きますか。けんかもできずに暮らすのに、どのようにおもしろく生きるかというのです。千年見ても嫌でなく、千年触っても良く、万年聞いても良く、億万年良いというものがなくて、どのように生きますか。御飯は毎日のように食べるのです。思いのままに食べることができるし、思いのままに得られる所です。何でも思いどおりにできる所です。その時は旅行をして暮らすのです。


この世の生活は、一カ月だけテレビを見ればすべて分かります。見るべきものはありません。それはみな飽きます。ですから霊界を知らなければなりません。祈祷と精誠を捧げるならば、霊界の幻想が広がるのです。それはどれほど素晴らしいでしょうか!天使たちが降りてきて踊りも踊るのです。どれほど素晴らしいでしょうか! 何百年前の有名な人々も集まって踊るのです。どれほど素晴ら

しいでしょうか! 私は妄想家ではありません。


本然の地にすべての元素が連結されています。根と同じです。根が同じならば津液

(注:体内からしみ出る液)も同じで、葉も同じで、花も同じではないですか。本質の元素が一体化し得るその期間だけ和するようになれば、学ぶ必要もありません。人は、自らの顔を一〇〇パーセント描けないではないですか。絵以上のものを自分がもっているのに絵が必要でしょうか。違いますか。男性、女性、二人を中心として美しい愛の理想的夫婦の花が咲いているのに、絵を描いてどうするのですか。そのように貴いというのです。絵が慕うことができ、称賛できる主題をもっているのに、それを分からずにいるというのです。しかし、人は服を着るとき、様々な柄で、季節によってこれが環境的調和をつくり出すように着ます。環境に合わせるために、様々な文化芸術だとかいうものが必要になったのです。


六百九十八
 
霊界に入っていき、霊人体が永遠に生きていくならば、誰を訪ねていきますか。父母?兄さん、姉さん?子女? それは子女でもないのです。兄さん、姉さんでもなく、父母でもありません。自分の相対者なのです。なぜですか。子女を生んで育てる喜びというものは、途方もないものです。夫婦生活をしながら初めて赤ん坊を生んだ喜びは、も刺激的です。その中でも 初の男の子に も情がいき、夫も夫人も一心に心情を投入するのです。それで、初めて生んだ子女を も愛します。長男と次男の差というのは、長男は愛をよりたくさん受けたということです。長女もそうです。その長男、長女とは何かというと、父の延長、母の延長なのです。間違いないのです。


人間が完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入るのです。アダムとエバの実体の結婚式は、神様の結婚式だというのです。霊界に行ってみれば、それがはっきり分かります。知り得ないこのような理論がみなぴったりと合うのです。それで、神様はどこにいるのか、夫婦を中心としてもどこにいるのかというとき、それは子宮です。そこにいるというのです。愛の根っこがそこだというのです。歴史始まって以来、文総裁によって、霊界がこのように構成されていて、このような内容によって成っているということが明らかにされたのです。


皆さんが夫婦関係を交わすのを神様が見ていないと思いますか。公開的なのです。これは宇宙的に公開するのです。それを知らないのは大きな過ちです。皆さんの先祖がみな見ているのです。霊界でもすぐ目の前に見えています。手のひらに立ってしているように見えるのです。ですから、それを恥ずかしいと思えば大きな過ちです。


愛によってなされるすべての調和と万象は、神様にとっては香りのようなものです。神様は、このような美しい香りの中で生きたくて訪ねてこられるというのです。神様の愛が尋ねることができる基盤が夫婦の愛の場だというのです。その場は、すべての万物と宇宙が和動する場になることでしょう。 愛を中心とした王宮といえば霊界の王宮と地上の王宮がありますが、これらがどこで接触するようになるか、それが問題だというのです。人間と神様がどこで合わさるかという話です。それゆえに真の愛と一体となったその生殖器というものは本源地です。それが本源地なので、宮と見れば本宮になるのです。それは神様が出発した宮、初に始まった宮であり、それが本宮です。


夫とそのようにむつまじく暮らして、死ぬ時には何を考えるかといえば、いつも愛の器官を考えるようになるのです。彼の顔、キスを考えるようになるのです。あの霊界に行って残る記憶というのは、愛する夫、妻とキスして愛し合う、その生殖器を合わせた、それ以外にはないというのです。それをつかんで、キスしながら死んでいきたいですか。


愛によって神様の代わりに生まれて、愛によって生きて愛の目的地に到達するために息子、娘を生んで、永遠に神様と共に生きるために神様のところに帰っていくのです。それゆえに皆さんが完全に愛で一つになれば、のちには神様に似るのです。夫婦二人が一つになり、このような三段階の愛を完全に成して霊界に行く人々は、永遠な主体である神様の前に、相対的な神様になるのです。そうではないですか。愛を中心として夫婦が共に死ねば、そのようになるのです。ですから、神様から始まり、神様に帰るのです。


男性、女性たちは、愛し合う夫婦の愛に酔って生きなければなりません。これが課題です。父母に侍っているならば、父母の愛の中で、家庭の愛の中で生きたいと思わなければ



六百九十九



なりません。それが理想であり幸福です。幸福がほかにあるのではありません。霊界に行って、霊界がいくら良いからといって独りで何をしますか。文総裁で言うなら、気分が良ければお母さんを求めます。お母さん、母を求めます。母も二人の母がいます。自分を生んでくれた母と、息子、娘を生んだ母。一家に二人の母が暮らしています。そうではないですか。自分を生んでくれた母、それから?息子、娘の母がいます。それから父の母、おばあさんがいます。母はいいものなのです。

そうではありませんか。


私は神様に似たし、完成したアダムとエバに似たというのです。二つの父母に似たというのです。これが一つになっているために心と体が闘いません。男性、女性が闘いません。完全に一つです。霊界と肉界と神様と、創造主と創造物が一つになることのできる完全な位置において、新しい泉がわき出てくるのです。これが平和の起点です。平和の出発です。幸福の出発です。理想の出発です。希望の出発だということを知らなければなりません。しかし、これを失ってしまったので、再び復帰しなければなりません。


霊界に行って、男性に生まれて一人で生きてそのまま行った者たちを見ると、良い所に行っていません。良い所に行けません。神様を見つめる時も視線を下げます。「こいつ、なぜ視線を下げるのか」と言うのです。男性で生まれて天地調和の、陰陽の合徳を知らず、愛を知らずして来た僧に、天地大道の中心である愛の道理がどうして分かるでしょうか。 息子、娘を生むことができずに霊界に行けば、片側だけにいなければならないのであって、思いのままに行き来できないのです。恥ずかしいのです。それゆえに独身生活を強調する者たちは悪魔の直系です。終わりの日に追い出される群れは悪魔、サタンしかないのに、彼らはサタンのあとをついていく者たちです。悪魔は天使長であったため相対理想がないのです。それゆえにその世界になってみると、青少年たちは淪落に陥り、年を取った男女は愛に疲れて、悪魔の愛に失敗して独身生活をするのです。独身生活をする者たちはすべて、地獄行きで終わるのです。


独身生活をする人は、神様の本意のみ旨の前に犯罪者の立場です。赤ん坊を生まないで産児制限をした人は、あの世に行って、「あなたの息子、娘を通して天下を統治できる王子、王女を送ろうとしたのに、この有様は何ですか」と審判されます。霊界に行けばすぐに分かります。すぐに分かるというのです。千年万年の恨の歴史の中で苦労した先祖の功を自分一代、一族を通して福を与えようとしたのに、その首を切ったというのです。


乙女で暮らして一人で逝った人々、男性も一人で逝った人々、そのような者を何というのですか。死んだのちにモンダル鬼神(注:独身のまま死んだ男の鬼神)と言いますが、死ぬ前だと何と言いますか。モンダル鬼神は死んだのちに言うではないですか。そんな言葉はないのですか。それは何というのですか。

独身女性。これでは困るのです。


700 * 七百
 
どこに行っても和合できません。女性の世界に行ってもこのように立ち、男性たちの世界に行ってもこのように立ち、行く所がありません。方向は陰になった所、陰の世界、かといって自分は振り返ることができないのです。和合は愛を中心として東西南北に通じるようになっているのに、方向がぴたっと固着されているために振り返れないのです。私は分からないので、死んでみてください。


祝福を受けた血統を汚してはなりません。それを皆さんはよく知らなければなりません。天国を受け継ぐことができる、相続を受けることができる財産です。それは血族の文書、血統の家の権利書と同じです。族譜と同じなのです。純潔をどのように守るかというのです。


六) 天国は家庭単位で入る

私たちの家庭と天国は類型のようです。我が家には父母がいて、夫婦がいて、子女がいて、兄弟がいます。我が家は愛で一つにすることができます。ここでは統一がなされ、生命が連結され、理想を実現させることができます。ですから、皆さんは夫婦の愛を尊重でき、父母の愛を尊重できてこそ天国に行くことのできる資格者になれるのです。

祖父母は父母の前に愛を相続してあげたのであり、父母は夫婦の前に愛を相続してあげたのであり、夫婦は子女の前に愛を相続してあげています。ここで、どの愛を否定しても天国はなされません。自分たち夫婦の間で愛し合う以上に父母を愛し、自分の父と母を愛する以上におじいさん、おばあさんを愛さなければならないという結論です。これが、すべての天国の核心になって、理想的モットーになるというのです。 神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体になります。父母は神様を身代わりした生きている神様であり、夫と妻はお互いに他の片方の神様であり、息子、娘はまた一つの小さな神様です。このように三代が真の愛を中心として成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さなくては天国が成されません。家庭というものは宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。こういう場合神様は、全宇宙の父母として、愛の複合的な中心の位置にいらっしゃいます。


統一教会の「原理」でいう四位基台は、三代愛圏をいうのです。三代が一つの家に暮らしながら愛によって和睦して幸福になるとき、天地創造の理想が実現されるのです。夫婦が愛し合わなければならないということはもちろんですが、子女たちを愛で祈祷してあげて精誠の心で見守ってこそ、家庭が和睦して幸福になるのです。これが縦的に成って横的に連結されるとき、完全な愛が成されるのです。いとこと、またいとこ、兄弟たちまで愛で一つになってこそ、初めて愛の円形になって完全になります。


七百一
 
家庭は天国完成の基本単位です。天国は一度行ってみると戻りたくなく、十回、百回会ってもまた会いたい、その方がいらっしゃる所です。万民が共通にそこに行きたいと思い、その方に会いたいと思い、その方のように生きたいと思うならば、世界は統一されるはずです。そこに向けて進んでいるのが統一教会です。しかし、それは一度になされるのではありません。先に個人の基台が立ち、それから家庭の基台が立ち、それから民族、国家、世界へと伸びていくのです。


天国生活はどこからですか。家庭からです。他の所から始まるのではありません。天国は家庭を立体的に拡大させたにすぎないのであって、家庭圏を外れたものではないというのです。それゆえに皆さんが自らの妻や夫を抱くときに、これは世界の男性と女性が一つになるのだと考えなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立てることのできる位置が、正にこの家庭です。


神様の創造理想世界とはどのような世界ですか。真の父母圏を通じ、地上天国と天上天国が成された世界です。天国は愛の基盤を通じてのみ成されます。堕落した世界には、真の父母の愛を受けたことのある人が一人もいないし、現れた痕跡もありません。霊界も同じです。真の父母の愛を受けて逝った者がいないからです。神様を中心とした創造本然の家庭的基台には男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、神様の愛がすべて入っています。このような消化された位置で父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば、誰でも天国生活をするのです。


統一教会の使命は何ですか。統一教会は過去の宗教とは違い、個人的な救いだけを願う宗教ではありません。堕落しない本然の理想世界を願う宗教です。本然の理想世界は、完成した人間が神様の愛の中で夫婦の因縁を結んでその息子、娘を生んで天国に行く所をいうのです。父は地獄に行って母が天国へ行けば、それが天国でしょうか。父母は天国へ行って子女が地獄に行けば、それが天国かというのです。天国は父母と子女、氏族、民族、国家がすべて入っていくところです。


家庭天国を成す所で、初めて神様が理想とする地上天国が定着するようになるのです。これが、四位基台にならなければなりません。

「統一原理」では「創造理想完成は四位基台完成だ」と言います。それはなぜですか。神様とアダムとエバを中心として三段階を経て、縦的世界と横的世界が生まれれば四位基台が成されるからです。アダムとエバの息子、娘がいてこそ横的な世界が生まれます。このようになれば縦的な世界が自然に生じるのです。体を中心とした体の横的基準が息子、娘であり、心の横的基準が霊界だというのです。そこで初めて神様が臨在なさることができるので、地上に天国が実現されるのです。


統一教会の救援観というのは、夫が天国に行って夫人は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというものです。父母を地獄に送るのではなく、父母に侍り、息子、娘も連れて天国に行こうというのです。

統一教会は自分が愛する家庭、自分が愛する氏族まで一切を連れて天国に行くことのできる道理を教えてあげる宗教なので、他の宗教とは次元が違います。それゆえに今までの宗教は独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は世界のための家庭であり、神様のための家庭です。これが、統一教会の食口たちが行くべき道です。


七百二
 
統一教会では、個人としては絶対に救いを受けることができないと考えます。個人として天国へ行けないのです。一人では行くことができません。原則がそうです。エデンの園のアダムとエバの二人が一緒に天国へ行くようになっているのであって、夫または妻だけ天国へ行くようになっていますか。夫婦が一つになり、家庭が一つにならなければ、天国へは行けないのです。それが理想であって、父は地獄に行って母は天国へ行けば、それが天国ですか。天国は夫婦が行かなければならないのであり、家庭が行かなければならないのであり、家庭だけでなく、一族が行かなければならないのであり、国家全体が行かなければならないのです。


おじいさんに神様のように侍り、父母に天下統一させることのできる父母として侍らなければなりません。おじいさんは天上世界の特派員です。全権大使です。お父さんはこの世の全権大使です。自分は二つの国、地上天国と天上天国の全権大使として、息子、娘として、後継者として育っていると考えなさいというのです。そうすれば、間違いなく霊界に直行するのです。霊界へは、本来そのような人々が入っていかなければならないのです。ところが、今日キリスト教では「信じれば天国に行く」と言いますが、いい加減な話はやめなさいというのです。行ってみなさいというのです、どうなるのか。あぜんとすることでしょう。


「こういうことになっていようとは。こんなはずではなかったのに」と言うことでしょう。こんなはずでは、とは何ですか。原則と異なればすべてそのようになるのです。原則があります。数万数千いるとしても、誤ったならばすべて肥だめに入るのです。火で燃やして捨てるでしょう。同じです。原則的な基準を探さなければならないのです。


自らの祖父は天の特権大使です。万一アダム家庭が堕落しなかったとすれば、おじいさんに神様に対するように侍るのです。歴史を通じて霊界に行った先祖の中で、一番後の人として残された主人がおじいさんです。ですから神様の身代わりです。そして、お父さんはこの世界の家庭の王です。皆さんの父母

はみな、現代の六十億人類の家庭の王なのです。


おじいさんは、天国である霊的世界を象徴するのです。ですから、おじいさんに神様に対するように侍らなければなりません。天国の全権大使です。それから父母は、現在を象徴するので、世の中のすべての人類家庭を代表した王と王妃です。父母は、人類を代表した王と王妃だというのです。そして、息子、娘は未来です。未来において霊界と地上世界、二つの世界の王権を受け継ぐことができる王子、王女だというのです。


おじいさんは過去を表徴するのであり、過ぎた時代の主体は天国、霊界です。おじいさんは霊界と地上を連結した代表者だと言うことができます。神様と善なる天国のすべてのものを、地上にある自らの家庭に連結させる神様の大使です。神の国の大使とは誰ですか。

おじいさんです。


七百三
 
国を形成するには家庭がモデルになります。家庭が第一段階です。家庭から始まるのです。それを知らなければなりません。そこを見れば、おじいさん、おばあさん、父と母、子女の三段階がありますが、これを拡張するときは三つ、四つ……。これをくっつけるのです。これを中心としてこの世にも通じますが、霊界にもそのまま通じるのです。世界を見れば世界にもおじいさんレベル、それから父母レベル、その次には自分のレベルがみなあるのです。ここで練習するすべてを世界へ拡張すれば、どこでもすべて合います。


家庭を見れば、そこにはおじいさん・おばあさん、父母、息子・娘がいます。これが三代ですが、歴史をおいて過去からつながってきたのです。おじいさんは、先祖から今まで霊界に行っている天国の私たちの先祖を代表し、我が家の中に派遣された全権大使なのです。ですからおばあさん、おじいさんに誰に対するように侍らなければならないかといえば、神様に対するように侍らなければなりません。そのように侍ることによって、天国の出発を見るようになるのです。


霊界には、家庭を連れて入らなければならないという原則があるのです。なぜ息子、娘がいなければ駄目なのですか。子孫というものは本来、縦的な神様の愛と横的な父母の愛、神様と父母の血が縦横に混ざり合って生まれたものです。したがって、後孫をもつことができなかった人は、霊界に行って天地の調和を成すことができず、東西南北に拍子を合わせられないというのです。後孫をもたなければ、あの世に行っても、遊んで休むことのできる場がないというのです。


息子、娘を生んで正統的な家庭訓練をすることができなければならないし、また一族を率いた長になって霊界に入らなければなりません。霊界に入っていくときは、子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成をみな成さなければならないのです。

家庭では父母を中心として孝子になれというのです。その次には、国を中心として忠臣になれといいます。また、世界を中心としては聖人になれといいます。聖人とは世界を愛する人です。聖子は神様の息子になるために、神様と天国の宮法と天国の宮に暮らす人まで愛するのです。

このような人は、愛を中心として暮らす人なので、愛の生命を尊重視し、愛の血統を尊重視するのです。このようなことを尊重視しながら、世界のどこでも、故郷のように暮らすことのできるそのような所が人間の求めていくべき理想郷です。このように暮らす人が霊界に行くようになるときは、神様の前に躊躇することなく直行できるということを、皆さんが記憶してくださるようお願いします。


七) 「ため」に生きれば天国に行く

天国は犠牲になった者が主人となるのです。家庭は氏族のために、氏族は民族のために、民族は国家のために、国家は世界のために、世界は天宙のために、天宙は神様のために犠牲になるのです。結局、目的は神様に到達することです。神様を占領するのです。生命をもったすべての存在の高理想は、神様の愛を占領することです。それを 高の目標とするというのです。その特権をもっているのが人間です。


七百四
 
霊界に行けば、相対を重要視し、全体のために奉仕し、犠牲になった人が高い所に行くのです。それが天国民の共通した性格です。どのような人が高い霊界に行くかといえば、すべてのものを投入して、神様のように投入し、投入して忘れてしまう人です。人類救援のために多くの人々を神側に引き寄せた人が天国に行くのです。天国の国民をどれほどたくさん連結させるかによって、霊界での自らの立場、位置が決定されるのです。


「ため」に生きる経験ができず、愛をもって生きられなかった男性、女性がどれほどかわいそうか、霊界に行ってみればはっきり分かるようになります。あの世はすべて、「ため」に生きる人だけです。ここでそのように生きれば、そのまま神様のところにひゅっと上がっていきます。それを知っているために文総裁は、今まで現れることを嫌いました。弟子たちをみな前面に出して、栄光ある立場をみな譲ったのです。


真を求めて行くならば、心は絶対「ため」に生きることができ、体もそうならなければなりません。これが一つになって天地に神様を中心として九〇度で連結されれば、東西南北、上下、高低どこに行こうが分かります。自動的に霊界が通じます。学ばなくてもみな分かります。文総裁のような人がどのようにして天地の秘密をすべて知ったのでしょうか。その境地に入ると、みな分かるようになります。真の愛を中心として心と体が共鳴する境地にぴたっと入ると、みな見えたというのです。神様も見え、天上世界がすべて見え、歴史が見え、すべて見えます。


なぜですか。真の愛を通して関係を結び、因縁を結び、理想的生活をすることのできる環境的要件が、本来、神様の創造理想の原則であったため、その境地に入ると、通じないところがありません。霊界の先祖も、呼べばさっと出てきて、会って何かを尋ねてみるこ

ともできるのです。


宇宙を造った神様は、宇宙の法度を立てた神様は、どのようなお方なのでしょうか。全宇宙を通じて誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。それゆえに、その方に会おうとするなら「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、「知識をもって神様の前に来い」とは言わないのです。能力の大王ですが、「能力をもって来い」とは言わないのです。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、「それをもって来い」とは言わないというのです。

「ため」に生きて来れば、すべてが来ることができるというのです。


私たちの本郷は、神様のために存在する者たちだけが入る所であり、「ため」に生まれ、

七百五
 
「ため」に生き、「ため」に死んでいった人々が入る所です。これが、私たちの本郷の理想的構造であるがゆえに、神様は本郷に訪ねるようにするために歴史過程に数多くの宗教を立てて訓練させてきたのです。宗教が柔和謙遜にし、犠牲にならなければならないと教える理由は、霊界の法度がそうであるがゆえに、宗教が霊界に帰らなければならない人間たちを地上生活の過程でその霊界にふさわしくなるように訓練せざるを得なかったのです。それゆえに、高次的な宗教であるほどより次元の高い犠牲を強調し、奉仕を強調したのです。それは、普段の生活を通してその世界に一致させようというところに、その原因があるのです。 お金についていきたい人は、永生の道を行くことはできません。知識についていく人も、永生の道を行くことはできません。知識に、学問に、永生がどこにありますか。知識は多いほど、知れば知るほど驕慢になるのです。驕慢の主人が、驕慢の親分がサタンです。サタン世界の近くへ行くのです。教授の方々、済みません。私が知っている真理はそうです。死んでみてください。私が間違ったことを言ったでしょうか。霊界へ行ってみてください。行ってみて、その時私に抗議してください。正しく教えてあげるので、正しい先生でしょう。そこでも先生で、ここでも先生です。取るに足りない先生ではありません。


霊界に行けば、固執というものが大きい怨讐です。国会議員をしていた人々が霊界に行けば、本当に困るのです。それをはっきり知らなければなりません。教授たちを再教育すべきですが、皮をはいで労働者の立場から汗を流させるのです。汗を流して、地も耕してみなければなりません。そうしなくてはなりません。そのような意味で私が教授をすべて結び合わせましたが、今まではこの人たちを厚遇しました。そのようにしていては、霊界に行って讒訴します。「先生はこのことを全部知りながら、なぜそうしたのですか。なぜ正しく教えてくれなかったのですか」と言うのです。これは事実の話です。行ってみてください、私の話が正しいか正しくないか。


霊界に行ってみれば分かりますが、すべて

「ため」に生きる人が行くのであって、

「『ため』に生きろ」と言う人は行くことができません。ですから、学者になり、世の中で大統領になり、王になった人々は地獄へ行くのです。「ため」に生きなかったからです。牧師たちの心情を見ると、自分が恵んでもらうことを考えるのであって、与えて生きようとしないのです。父母というものは、いくら子女に与えても、また別の何かを準備し与えようとするのです。与えたい心が連結されるそのような基盤には、発展があるのです。


霊界と人間が関係を結べば隠すことができないのです。水を見れば、水は必ず上から下へ流れ落ち、空気は空間があれば満たそうとするのです。これと同じように、霊界が動く所には空の所がありません。満たされるというのです。水を受けようとするなら器が空でなければなりません。器がいっぱいであれば、空いている残りの所にしか満たされないというのです。同じように、空気も空いている部分にはみな入りますが、ふさがっていれば、そのふさがった部分には空気を満たすことができないのです。


霊界にさっと行ってみると、千年万年になる人々が、すべて自分を中心として集まろうとするのです。自分が動くと、群れをつくってすべて集まってくるのです。皆さんも先生と近い所で生きたいでしょう。近い所で「このように見ながら生きたい」と、そう思うのです。それは誰がそのようにしますか。自分ではないのです。天運が、宇宙の法則がそのような人を中心として、みな集まって一つになるようにしようとするのです。それが原則です。いくら「離れなさい」と言っても、離れることができません。


七百六
 
「ため」に生きる人になりなさい。これが、天宙生成、形成の根本なのです。神様も「ため」に存在するのです。このように見れば、平和の世界が目前に展開するのです。天宙のすべてのものの中で、これに逆らうものはありません。このように主体的、生成の根源、エキス的、核心的な立場に立ったその人は、天宙、神様までも歓迎するのです。先生のような人がそうなのです。今、皆さんは、そのようなことを知らないために実感できません。霊界も先生を中心として動いているのです。そのような世界を知らないでしょう。それゆえに、いい加減にしているのです。


真の愛を中心として「ため」に生きる人は、夜でも昼でも天宙万宙どこに行こうが歓迎を受けるのです。皆さんは、いずれ霊界の展示場に展示されるのです。人間の博覧会をする所が霊界です。霊界では、地上でどのような生涯を生きた人間なのか、すぐ展示されるのです。そこでびりになりたいですか、皆が称賛する人になりたいですか。どちらですか。高に称賛を受ける人になりたいでしょう。そのようになるためには、先生が話すとおりに生きなければならないというのです。高に称賛を受けようとする前に、 高に「ため」に生きなさいというのです。そのような人は、間違いなく中心者になるのです。


青年たちはそれを知らないのです。二十人の友人たちがいるとするならば、友人たちの中心として残る人は誰ですか。「お前たち、すべて私のためにしろ」と言えば、すべて逃げてしまうのです。二十年、十年、一生を終える時まで、死んでもその友人のために生きた場合には、霊界があるならばそこに行き、すべて彼を中心として集まるのです。それは間違いない真理です。「ため」に生きる、より「ため」に生きる、より犠牲になる人が中心者になるのです。


「ため」に生きる人は滅びません。また、「ため」に生きる人は霊界でどんどんコーチしてあげます。どんどん新しいものと関係を結ぶようにしてあげるというのです。新しいものと関係を結ぶから、その人は自然に有名になり、世界的に知られるのです。


父母は苦労する息子、娘を先に考えるのです。それゆえに心情の潮流というものは何でしょうか。かわいそうな人々を訪ねて、いかにして自分のようにさせるか、ということを実践できなければならないのです。そのようになれば、世の中はすべて私に反対して冷遇しますが、神様と天国は私を擁護するというのです。神様を中心として、霊界の霊人たちが私を擁護し、保護して回るのです。雲のように私を擁護してくれるのです。

それゆえに、そのような人々は滅びません。それが過ぎるようになれば、雲が環境をすべて巻き込んで整理するのです。ですから投入して苦労した代価ぐらい、創造することができるというのです。私は苦労して迫害されましたが、天運があとから来て、その基盤を築いてくれるのです。聖人たちは当代では迫害を受けますが、後代において名を残すのは、霊界が、天が、天運がそうしてくれるので、そのような現象が起こるのです。


七百七
 
天国に行こうとする人は悲惨に生きろ、悲惨に死ね、悲惨に逝けというのです。その言葉が良い言葉ですか、悪い言葉ですか。良いというのです。それなら、死ぬほど出ていって伝道しろという言葉も良い言葉です。他人のために命を捨てろというのです。自分のためにではなく、他の人のために、世界のために、天下のために命を捨てれば、大宇宙の主人として立ててくれるのです。


永遠に残るものがあるならば、それは公的な苦労です。公的な苦労をして霊界に行ったのに、そこで滅びたなら先生に抗議してもかまわないのです。民族と世界、天地のために

働いている途中で打たれる人が賢い人です。


悟りの道に入った人は、死ぬ時まで死の道を行かなければなりません。死んでする苦労を生きて蕩減するので、そのような道を行かなければならないというのです。死んで億千万年苦労するのを縮小させ、生前に蕩減してしまおうというのです。このように悟りの道は、永遠に行くべき受難の路程を、この地上で苦難の道を歩いていくことで蕩減しようというものです。


統一教会に来るようになれば、「地上で良い生活をしなさい」とは言いません。この上なく貧しく、この上なく苦労して死んで道端に倒れ、犬もかみつかない死骸を残したとしても、その場には花が咲く日が来ることでしょう。そこには、すべての神聖な人々が集まって都をつくることでしょう。統一教会の群れを国のために、世界のためにうんざりするほど苦労をさせて、孝子、忠臣にしてみようというのが先生の考えです。「行かない」と言うならば、張り飛ばさなければならないのです。足でけ飛ばしてでも現在の悲惨さを、現在の難しさを克服させるのが愛です。第二章 霊界はどのような所か一 霊界の実相と法度

一) 霊界は時空を超越した無限の世界

霊界がどれぐらい広大無辺な世界か知っていますか。今日、この宇宙だけで見てもそうです。二百二十億光年以上になる宇宙です。これがどれほど大きいかといえば、光が一秒間に三億メートル、一秒間に地球を七回り半回ることのできる速度で一年間進む距離を一光年と言いますが、それが二百二十億年かかるというのです。二百日ではありません。ですから、宇宙がどれほど大きいでしょうか。そ

れがすべて私たちの活動舞台だというのです。


神様は、時空を超越して存在するお方であられます。今日の時間や空間世界を超越して存在するのです。霊界に行けば、一年という年がありません。一年、二年、一日などというものがないのです。それは便利なことでしょう。寝もしないのです。霊界に行けば寝ないで暮らすことができます。食べないで暮らすことができます。思いのうちで食べて生きていくことができるのです。例えば、目である物を一度見て「いいなあ」と思えば、千年も万年も忘れられないというのです。そうであったら本当にいいでしょう。


七百八
 
天国は太陽系のように一年を三百六十五日として地球のように軌道を回って、一日は二十四時間でという、そういうものはありません。私たちの言う一年、二年というのは、地球での話です。太陽系を中心とする惑星の立場から一年を定め、地球が一回り自転することを一日と定めているのです。霊界は、地球が一回り自転するように回ったり、太陽を中心としてその軌道に従って一年を回るという決まりがありません。朝なら永遠に朝です。

そこには日や年の概念がありません。


霊界は時間と空間を超越しているので、一秒間に何億万里も行くことができます。広大な世界が時空を超越しているので、一秒間でも何億万里も行くことができるのです。広大な世界が時空を超越しています。千年前が見え、何万年前が見えるのです。見えるのですが、何を見ようとするのでしょうか。他のものは見ません。誰に会いたがるかと言えば、男性であれば女性に会いたがるのです。そして、会ってからは、その人の心中にある本然の愛の大きさがどれくらいなのか、その人のもっている愛の量がどれくらい多いのか。これが測定基準となるのです。


霊界の中心は何ですか。それは絶対的な神様を中心として構成された世界です。その絶対的な神様がいるなら、その神様は天地創造の時の宇宙の起源になられる方です。彼によらないものがないというのです。それに属しているために、それに属した全体はそれとともに感じ、それとともに因縁をもっているのです。例を挙げれば、私たち人間は約百兆個になる細胞をもっていますが、すべての細胞自体がどのような分野であろうと感じさえすれば、直接頭脳に連絡されるのです。


天地創造の創造主を中心として連結されるすべての存在もそれと同じだというのです。しかも、人間として生まれ、善でより次元の高い価値のものを追求しながら生きることは、神様を根源として始まったものです。それゆえ過程を経て根源と通じることのできる結果の世界にあるのが人生であると、このように見るのです。


神様はどのようなお方なのでしょうか。神様は宇宙の存在世界の心のような方です。神様は宇宙の心のような方です。皆さんは心を見ることができますか。霊界は心のような生活の世界ですが、これは時間と空間を超越した所です。そこでは御飯を思いのままに食べることができます。御飯の心配をする必要がありません。水の心配をする必要がありません。飲み物の心配をする必要がありません。服の心配をする必要がありません。衣食住すべてのものを超越しています。そこでは億千万里をあっという間に往来するのです。何の力をもってでしょうか。愛の力をもってそのようにします。愛する人に会いたいと思えば、さっと現れます。


動物がそうなのに、万物の霊長である人間は飛んでみたいでしょうか、飛んでみたくないでしょうか。ですから人間は飛び回るようになっています。霊界は飛行機なしに何百光年になる世界をあっという間に行ったり来たりします。一度行ってみたくないですか。


七百九
 
神様に「あらゆる昆虫までも飛び、鳩のような鳥も飛んでいるのに、人はなぜ飛べないのですか」と聞けば、神様が何と言うでしょうか。神様があの霊界の高い所から尋ねてくる時に歩いてくるでしょうか、さっと飛んでくるでしょうか。霊界は無限大の世界なのです。このごろは人工衛星が金星に行くのに、十四年間かけて飛びながら、キャッチして写真を撮って送ってくる時代ですが、この霊界は十四年ではありません。一瞬のうちです。霊人体は稲妻より速いというのです。それゆえ、霊人のように活動する神様についていきながら、共に愛の主体の対象になって生きようとするならば、飛び回らなければならないでしょうか、歩き回らなければならないでしょうか。この体では何歩も歩けません。


あの世の広大な大宇宙を見つめる時、ダイヤモンドの星がないと思いますか。黄金の星がないと思いますか。それがすべて自分の所有だというのであり、その楽しさで暮らすのです。神様がつくってくださった驚くべきものを自分が見て……。愛するすべての群れが、神様の愛する群れ全体が一つになって、大移動しながら暮らせる理想世界だというのです。そこに同伴者になり、同参者になってみたいですか。


霊界があるということを知っていますか。どのくらいはっきり知っていますか。この世界よりももっと確かなものです。その世界はどのような世界ですか。神様が「良し」と言える構想でもってすべてのことが可能な世界です。


考えてみてください。数多くの人が行っているのですが、一瞬のうちに彼らに祝宴を催しても余りがある理想世界です。霊界に行っているあらゆる国の人、何百億になるその人々を集めて、瞬く間に祝宴を催しても余りがあるのがそのような理想世界です。そのような世界、レバレンド・ムーンはそのような世界に向かっていくのです。この世を見つめていくのではありません。ここで、そこに合わせていくのです。 霊界に行ってみれば、男性、女性が一人の大きな人に見えるというのです。人は何ですか。皆さんはみんな一つの細胞のようなものになります。全宇宙がみな、男性、女性のように見えます。そのように見えるというのです。それは合わせたものです。このように歩けば、宇宙が歩くのです。その中に入った人は神様の細胞と同じです。一つの体になっているのです。


霊界では説明が必要なく、弁解が必要ありません。ちらっと見ればすぐに分かります。あの人が私の下なのか、横なのか、高い位置なのかすぐに分かります。何億年前のおじいさんであった人にも会えば、愛のその位階というものはすぐに……。その位階は絶対的です。その位階が高い人は自然にその位階に合わせて自分が立つ位置に立つようになっているのであって、いい加減ではいけません。世の中とは違うのです。中傷、謀略して出世したり、そのような人はそれがすべて逆になっているのです。その反対になるのです。ですから正道を見なさいというのです。


七百十
 
霊界に行っている人間は何を願うのでしょうか。霊界は自分が置かれている基準ですべてのものを補給できる世界です。願えばすぐです。主体的な能力がある人なら不可能がない世界です。もし、百万人の祝宴を催すなら、考えると同時に百万人が広場に現れ、すべての準備が可能なので、百万人の祝宴を一瞬のうちにできるのです。そのような世界です。何が可能にするのでしょうか。原子力が分裂作用において熱が出るのと同じように、皆さんが愛の分裂作用をすれば、瞬く間に可能になります。それはありそうな気がしませんか。 霊界がそうです。私が「どこかに行く」と言う時は既に行っているのです。あの大宇宙が自分の活動舞台になると考えてみなさい。愛が先んじなければなりません。「ああ、会いたい。会いたい」と、こうでなければなりません。自分の相対のように、自分の愛する人のように、会いたければさっと行くのです。あの世で芸術家に会えば、自分が芸術的なあらゆる素質を一瞬のうちに啓発してついていくのです。万事が可能な世界です。ですからあの世に行けば、歌う所では歌い踊るのです。みな喜んで心と体が和動して踊ったり歌ったりするというのです。どれほど美しいでしょうか。神様が絵を描くにも一等ではないですか。そうでしょう。神様が傑作品の絵をはって眺めるでしょうか、傑作として行動する創造物を眺めるでしょうか。どちらを喜ぶでしょうか。傑作品は必要ありません。そして、その世界は愛の心に酔う高の場であるがゆえに、年を取りません。年を取らないというのです。お母様も年を取りましたが、私が見るにはいつも も美しい時の姿なのです。


いつもかんかんに晴れた日だけあれば、どれほど退屈するでしょうか。そこに霧もかかったり、月に雲のかさをかけたり、このように月も見えなくて……。ありとあらゆる気候の変化を見れば、どんなに芸術的でしょうか。考えてみなさい。一つの美術世界です。芸術世界です。あの霊界の澄んだ世界に自分が雲をかけたければ雲をかけることができ、霧がかかるようにしたければ、霧がかかるようにできる、愛によってそのすべての多様な感応圏をつくることのできる特性をもったそのような人間になれるというのです。ですからすべての霊界が関心をおきます。「ああ、あの

人の所に行けばおもしろい」と言うのです。


霊界では距離と時間を超越します。時間がありません。何でも見たいと思えばすぐに現れます。膨大な天国がすぐに通じるのです。この地上で電話も距離の問題がないでしょう。そのようにどこでも通話ができるようになっています。そのような世界が背後の動機地、発電所のようになっているのです。


霊界に行けば夜があるでしょうか、ないでしょうか。霊界に行けば、この地球星にも通じることができ、この物質世界にも思いのままに通じることができます。水中にも行くことができ、大地を垂直に通ることもできるのです。宇宙には星が無数にありますが、真の愛の相対として神様の愛をもって行く所は道がぽんぽんと通じるのです。愛の速度がも速いです。 も速いのです。光の速度は一秒間に三億メートルという距離を進み、地球を七回り半を回ることができると言います。これは、それより何千倍も速いのです。億千万里でも、真の愛ならば瞬時に行くのです。膨大な霊界でも一瞬のうちに活動できます。


七百十一
 
皆さんが霊界に行ってすることは何だと思いますか。あの世ですることとは何でしょうか。考えてみなさい。そこで金もうけをするのでしょうか。服が必要で、家が必要でしょうか。皆さんが願うことは瞬間的にすべてかなえられます。霊界では私のために現れなさいと、いくら死ぬと大声を出して騒いでも駄目です。これを知らなければなりません。反対に、私が神様を愛し、世界を愛し、天国の王子の立場で、王に仕える中で「あらゆるものが必要だから現れなさい」と言えば瞬間的です。瞬く間にもてなかったものを……。想像が及ぶことはすべて可能な世界が霊界であるということを知らなければなりません。


愛は熱に例えて表現されます。熱で例えるでしょう。「胸が熱い」と言うでしょう。霊界に行けば、神様は愛の本体であるゆえに光と熱で現れるのです。霊眼で見れば、皆さんの愛の光がどれだけ出るか、どんな光が出るか、まだらな光が出るか、虹の光が出るかということがみな分かるようになっているのです。家庭が一つになって光る星にならなければなりません。太陽のように星もすべて衛星のようになっていて、星を率いる星もあるのです。


神様が創造する時、も好きな色を先につくったのでしょうか、 も嫌う色を先につくったのでしょうか。早春に咲く花の色は何色でしょうか。紫色です。紫色は赤色も入っていて、ピンクも入っていて、それから何色が入っているでしょうか。すべて入っているのです。紫色が好きでしょう。ですから高尚な物はすべて紫色です。あの世に行ってみれば、も良い色は紫色なのです。


霊界に行けば色がありません。あまりにも明るくて銀色のように見えます。銀色のように見えながらも、あまりにも明るくてきらびやかなので紫色に見えるのです。フィラメントに電気が入れば、本来黒だったものが明るい白に光るのです。同じです。霊界に行けば黒人はいません。地上にいる時は黒人に見えた人が、霊界ではそのように見えないのです。真なる良心をもって生きた善人は、高い級の霊界に行くのです。障害者も霊界にはいません。足の不自由な人、病を患っていた人も、肉身を脱げばいかなる障害もありません。


霊界ではどのような年齢で暮らすのでしょうか。も美しい年齢の時の姿で暮らします。天国に行けばそうです。そして、永遠に暮らすのです。そして、その人が考えるすべてのものが変われば変わるほど、その容貌がさらに美しく見えるのです。霊界を知れば、ただそのままそれがすべて連結するのです。


霊界に行けば、地上のことは思い出しません。窮屈なこの手のひらほどの地上で何をするのでしょうか。大宇宙があるのに、一つの砂粒のようなものを思い出しますか。しかし、霊界の民族を生産する工場はここしかありません。宇宙に一つしかありません。何ですか、金星にも人が暮らしているというのですか。人は、この宇宙でここにしかいないのです。


二) 霊界は愛全能の世界

真の愛の概念でぎっしり詰まっている所が霊界です。真の愛を五官によって感じるように、まんべんなくすべて体験してから行く所が天国です。その場に立てば、あらゆることがすべてできます。理想的な生活環境がそこで展開するというのです。どれほど驚異的なのか皆さんは知りません。


七百十二
 
霊界はどのような所でしょうか。すべてのものが愛で充満した、愛でいっぱいの調和の世界です。皆さん、スイッチさえ押せば、このスイッチ一つでニューヨーク市の何百万世帯に電気がぱっとつくとすれば、これは信じられますか。それでは、愛のボタンを一度押せば、この宇宙が作動するということがうそのように思えますか、本当のように思えますか。 地上天国は、すべての愛の電球に明かりがつく所が地上天国です。そして、天上天国とは何ですか。愛の電球に明かりが完全にともることのできる所が天上天国です。それゆえに、皆さんが愛の心だけ抱き、愛のひもだけ引けば、すべて引っ張られてくるのです。後ろに引けば後ろに行き、横に引けば横へ行き、このように引くとこのように入っていこうとして、このように引けば上がっていこうとするのです。思いどおりに操縦できるのです。無理やりそのようにするのではなく、自動的にそのようにするのです。自動的にそのようになるのです。それを理解できますか。


皆さん、一度考えてみてください。霊界に行けばうらやましいものがありません。皆さんのその愛の化身体をダイヤモンドと比較しますか、黄金の塊と比較しますか、真珠と比較しますか。宝石が問題ではありません。もっときらきら輝くのです。愛と化した化身体はもっと美しいのです。ダイヤモンドに愛のダイヤモンドがありますか。生命のダイヤモンドがありますか。しかし、私たちはダイヤモンドも感動させることができ、すべてのものに影響を及ぼすことのできる価値的存在だというのです。貴い愛のダイヤモンドなのです。貴い生命のダイモンドなのです。それが私なのです。ですから私はどんなに素晴らしいでしょうか。


霊界という所は、愛の電気で充満した所です!事実がそうなのです。私が知っている霊界はそうだというのです。ですから、今日人間は、何でもすべて愛と関係を結ぼうとします。なぜ、愛と関係を結ぼうとしますか。霊界に拍子を合わせるためです。これが理論にぴったり合うのです。そのようになっているために、そこに応じざるを得ないのが私たち存在物です。その立場を離れることができないということを皆さんは知らなければなりません。


霊界に行けば夢の鉱山がいくらでもたくさんあります。金、銀、宝石がいくらでもあります。花も好きな人が来れば、愛する人が来れば、眠っていても突然ぽかりと口を開け、目を開けて歓迎するのです。「少し待ちなさい」と言ったのに、ただそのまま行ってしま

えば「ああ」と言って枯れてしまうのです。


神様が笑えば全体が共に笑います。霊界に行けばそうです。霊界に行けば直感の世界と同じです。神様が喜んでいるのか、そうでないのか、きょうは気分が悪いのか、良いのか、すぐに分かります。地上世界に何かあって喜ぶのを見ると、全体がふわっと膨らむというのです。ぽんと浮かぶというのです。


七百十三
 
霊界に行って何をするのでしょうか。愛の歌、愛の話をするのです。霊界では、オペラ式に話せば、私がオペラ式に答えなければなりません。踊りで表現すれば踊りで答えなければなりません。永遠に喜び、踊りを踊っても永遠に飽きません。一箇所で踊れば天国がすべて踊り、一箇所で歌えばすべて歌うのです。その時は自分の愛する妻と踊るのです。他の女性と踊るなら「ああ、私の愛する妻をあなたより百倍愛するために私があなたと踊るのです」とこのように考えるのです。他の女性と手を取って踊るなら、それはすべて自分の愛する対象を千倍、万倍、もっと刺激的

に愛するためにこうするのだというのです。


霊界から神様が見れば、皆さんの心は愛の鐘の音が聞こえる所に行けば、灯がますます大きくなるというのです。この光は五色燦然と輝くのです。神様の目にはダイヤモンドの光よりもっと美しく見えるというのです。そして、光だけが良いのではなく、その光の中には味があるというのです。それは見れば見るほど良いというのです。何度も見れば見るほど酔ってしまいます。

それゆえに、神様は愛という話をするのです。皆さんの心の愛の鐘を鳴らせば天地を動かし、すべての万民を動かすのです。そのようにすれば、神様も「あ!」と言って動かすことのできる鐘があるということを知らなければなりません。それゆえに、愛の涙をどれほど流したか、愛の切なさをどれほど味わっ

たか、それが皆さんの財産だというのです。


今後私たちが真の愛の力をもって霊界に行くようになれば、いくら遠い所にいる人でも一瞬のうちに会うことができ、愛ゆえに訪ねていく時は瞬く間に故郷へ帰ることができるというのです。霊界という世界は無限に膨大な世界であるので、何百万里、何千万里の距離も一瞬のうちに愛を中心として行き来することができる世界であるというのです。愛は高の速度をもっているのです。皆さんの心と体が統一された愛の基台をもてなくなる時には、その世界と私は関係がないというのです。ですから、統一の起源が相対世界から起こるのではなく、私から始まるということをはっきりと知らなければなりません。 神様がいくら高いといっても「神様!」と愛の心で呼べば、すぐに「なんだ」と自分の心の中で答えます。「神様、どこにいらっしゃいますか」、「どこにいるかって、お前の心の根本にいるではないか」と答えるのです。神様が本来根本ではないでしょうか。心の根の根本にいるでしょう。このようになっているのです。


あの世で必要なことは、世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子よりも神様をもっと愛さなければならないということです。それが原則です。お父さん、お母さん、子供たちみんな……。お母さんが言うには「あ、あなたは私を愛するより神様をもっと愛してから私を愛してください」それでこそ夫から高い次元の神様の愛を受けることができるようになるのです。父母に対しても「どうか私たちは置いておいて、本来の父母の愛を先に受けてください。その父母の愛を受けたお父さん、お母さんを私は愛したい」と、そのようにすがりついて哀願しなければならないのです。


七百十四
 
愛の理想を中心として神様の前に相対になれる人が、考えるすべてのものを瞬間的に実現化させ得る世界です。何億、何千万名も一瞬のうちにバンケット(祝宴)を準備できる世界です。私が服を豪華絢爛に着て、愛の対象として神様を一度楽しくさせてさしあげようという時は、豪華絢爛になります。こうこうこのように想像できる以上のことを想像しても、それが可能な世界です。そのような世界を知っている人は、地上では生きる楽しみがありません。ですから、私は監獄にほうり込まれても、何の問題もありません。この世でのわずかな生活は、永遠な世界で息を一度止めるのと同じです。


神様の心情、天国の心情に通じたならば、どこでもすべて一つになることができ、どこでもすべて和合できるからです。そうなれば、その門を通ることのできる階級に暮らす人は「わあ!万歳! 神様好きです!」と言うのです。ただついて行きたがり、皆が喜ぶのです。食べたいものがあれば何でも食べることができ、着たいものがあれば着て、遊びたければ遊んで、したいことを思いどおりにできます。この地球上で百年生きても感じられないあらゆる幸福を、有り難さを、一瞬のうちに感じられるというのです。


霊界はどのような世界ですか。神様の心情と同等に立てる心情をもてば、何でも可能な、そのような所なのです。今後ムーニーが何千万人になっても「皆さん、全員このような新しい服に着替えなさい」と言えば、さっと新しい服にみな着替えることができます。それから「バンケットの場所、これこれこういう場所に現れなさい」と言えば、すぐにそのようになるのです。テーブルは、金の装飾や銀の装飾で五色きらびやかに飾られ、またそこにあるいすもそうですし、そこに座ったすべての人々は歓喜に、喜びに、愛に酔って踊ることでしょう。千年踊っても喜ぶことのできる所です。


何億万里の距離にある世界の人でも、愛の心が強くなって「会いたい」と思えばさっと現れるのです。「何の用ですか」と聞けば、「あなたが呼んだので現れました」と言うのです。「どのくらい遠くから来たのですか」と聞けば、「何億万里から来た」と言うのです。距離を超越します。宇宙が私の活動基地です。

それなのに、その世界にない物質でもって首を絞め、お金、知識、権力でもって首を絞めているのですか。あの世ではそのようなものは一つもありません。そのようなものは、残るものが一つもありません。皆さん、この世ではお金、知識、権力が必要ですが、あの世ではそのようなものは必要ありません。霊界のどんなものも皆さんを歓迎せず、霊界がいくら皆さんに関心をもって一つになろうとしても、皆さんは何ももてないのです。本質とは反対のこと、反対的なこと、それでは一つになれないというのです。霊界が関心をもてる位置と連結できません。


七百十五
 
私が「このような人に会いたい」と言えば、すぐ前に現れるのです。「あなたがこれこれこういう人ですか」、「はい、数百、数千年前に私は地上のどんな所で暮らしていた。私に会いたいですか。私に尋ねてみたいことがありますか」、「はい、あります。私はこのように教えました。私とあなたがどんなに違いますか!分かりますか」と言いながら、話をぴいぴいと交わすことができます。時間がかかりません。始めるや否やすぐに分かるようになるのです。この世に住むというのはどんなに不便でしょうか!車が必要ありません。愛の感情は、あらゆるものをつくることができます。観念をもってあらゆるものをつくることができます。真の愛の観念を中心として何でもみなつくることができます。 今から何百年前、八百年前、一千万年前に生きた人間も来てあいさつするのです。聖書では人類歴史が六千年となっていますが、とんでもないことです。何千年前と今の時がどれほど変わったかというのです。その時の人々は、今生きている人よりも心では神様をよく感じることができたというのです。しかし、文化生活の面では反対なのです。霊的世界の啓発は文化生活とともになされてくるものです。そうでしょう。

知識に通じれば知識の尺度によって理解し、すべてのものを分析するにおいて鋭敏だというのです。したがって、霊感を感得できる基盤がもっと拡大していくというのです。ですから今後は、自然にそのような知識があり、世界の行く末を憂慮する人にはあらかじめ霊界から教えてくれるのです。霊波を通じてどのようになるのか分かるのです。高の位置に行けば、終わりは一つしかないでしょう。

同じなのです。


「誰に会いたい」と言えば、何億万里、何百万里離れていたとしてもすぐに現れます。広い天国にいたとして、「自分が会いたい人、自分が愛した人に会いたい」とぴたっと情緒を整えて言えば、その場で相手が現れるのです。それはどんなにいいですか。そうでしょう。さっと現れれば既に自分がどの級にいるということが分かります。「私はどのような級だ」と知っています。自分が高いか低いか分かります。いくら親しい友人でも、自分のほうが天の前に愛の級が高ければ、来るや否やあいさつするのです。いくらお母さんでも、それよりもっと先祖でもあいさつするのです。

そのような世界なのです。


考えてみなさい。ここでは御飯を食べて暮らすことが心配でしょう。ですから、自動車工場、肥料工場、服の工場、食べ物を作る工場など、工場が必要でしょう。家でも食べ物ゆえに大騒ぎするでしょう。霊界に行けばそれはすべてありません。自動車が必要なく、飛行機が必要ありません。一瞬のうちに億万里でも行けるのです。太陽の光よりもっと速いのが霊力です。神様が造った太陽の光だけでも一秒間に三億メートルを走ります。電気もそうでしょう。光の速度も同じです。ところが、神様の本然的な愛の力、生命の力というものは、それより何千倍もさらに速いというのです。


霊界に行って、ある家に暮らす人の級が自分より低い時は、その家が良い家であればその良い家を私の家にできます。さっと訪ねていけば、主人は既にちらっと見れば分かるのです。額をちらっと見れば、顔をちらっと見れば分かるのです。さっと見て自分より高い人なら自分の茶の間に案内するのです。「い

らっしゃいませ」と言って案内するのです。


神様の息子、娘になれば、その膨大な宇宙がすべて自分のものになるのです。皆さん、霊界に行けば先生についていきたいでしょう。ついていけません。先生が行く所に皆さんはついてくることができません。皆さんは心情の門が狭いのです。真の愛は大きな門でも小さな門でも自由自在に行けます。真の愛でなければそれはできません。この位置は全体を代表した位置です。それゆえに、どこにでも入っていくことができ、どこにでも出掛けることができます。


七百十六
 
どれほど人類を愛したのか、神様が愛を中心として創造した被造物に接する時、神様のようにどのように愛したのかということがすべての測定基準です。すぐに分かります。コンピューター以上です。嫁に行った女性は、自分の夫がどれくらい愛しているかということについて誇るでしょう。あの世では、神様の愛を中心として、神様の愛をどれだけ受けた人なのかということが誇りです。本然の真の愛、これが高い級の愛なのです。これによって等級が決定するのです。


天国に神様の心情の架け橋があれば、どのように上がっていくのでしょうか。ヘリコプターのようなものに乗って行ったり来たりしながら上がっていくのでしょうか。エレベーター式に直線で上がっていくのでしょうか。ヘリコプター式ですか。エレベーター式です。万年エレベーターです。垂直です。神様の愛に接するためには垂直線に入っていかなければなりません。

聖書に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」

(マタイ二二・三七)と記されています。それは何だと思いますか。すべてのものの中心は愛だというのです。それで、あらゆる作用と意識のすべてを一つにして「主なるあなたの神様を愛することしかない」と言う時、ここでエレベーターに乗って垂直圏に上がっていくのです。そのような驚くべき世界を知らなければなりません。


あの世、霊界に行けばそうです。誰でも九〇度になれば、東西南北のどこに行ってもきちっと合います。ある社会、数多くのクラブになっている社会、千態万状の社会……。皆さん、ここに何名いますか。およそ五百名集まったとすれば、五百のタイプがあるのです。各々みな違うでしょう。似たグループにみんな集まります。それはコンピューター以上に分析されています。さっと行けば、さっと過ぎれば既に自分の角度が分かります。一週間以内にすべての背後まで、あの秘密世界の倉庫の底までのぞきます。言葉が必要ありません。心で言おうとすることを感じるのです。コンピューターのおじいさんのような世界なのです。


神様も愛のために創造したということは知っているでしょう。神様に「一番好きなものは何か」と聞いてみれば、どのように答えるでしょうか。神様は好きなものはありません。お金も必要なく、知識も必要なく、権力も必要ありません。何が必要ですか。愛の中にはお金もあり、知識もあり、権力もあります。愛の権力が万年権力です。本当に愛を知っている人は天上世界に行って学ぶことがありません。そのような人はいつでも神様の心の中を出たり入ったりします。神様の体を通して東西南北思いどおりに行き来できます。これが中央停留所のようになっています。そこに入って出てくる時は、東西南北の力が集中するために強力な力で出てきます。低い国も、その中央を通って出てくる時は、高い神様と対等な位置に上がっていくのです。愛にはこのような偉大な力があります。


七百十七
 
私は、今日世界で電気とか、宇宙とか、何だといって大騒ぎすることが、愛の理想世界を成し遂げるための一つの内的な潤滑剤のようなものだと考えます。このような時、皆さんは「アーメン」と言わなければなりません。そうだとすれば、その世界は愛の電気で充満した世界という結論が出てくるのです。霊界という所が愛の電気で充満した世界ではないかというのです。そうだとすれば、この世でも愛の電気でできないことがなく、調和が起こるのです。愛の電気ならばできないことが

ないというのです。


ここで私たちは、今私たちの意識構造をもって処理できる可能圏が霊界だということを、決定づけることができるのではないかと思うのです。それでは、霊界とは何ですか。永遠な要素を願う永遠な所です。それゆえにここで愛を体験した霊人体は、間違いなく自動的に磁石に引かれてその世界へ行くはずです。

それを自分が感じた霊界に行くというのです。


三) 霊界の空気は愛である

霊界はどのような組織からなっているかといえば、あの世は空気が愛です。愛が空気になっています。心と体が愛の感触を受けて和することのできる要素として、この地上で体恤されなければなりません。体恤圏をつくっておけば、そのまま通じない所がないというのです。木の樹液が木の芽と根に通じるように通じるのです。神様が喜ぶのを自然に感じます。東方で神様の祝宴が催されるのが分かるのです。そこに行こうとすればさっと行けます。自由天地です。


霊界で呼吸する空気は愛からなっています。愛によりすべてのものが生まれ、愛によって生き、愛によって「ため」に生き、愛の道理で和してその内容を満たしてこそ、神様が今まで歴史時代に願った希望の実体を完成したという格位を備えるようになり、天国のどこに行っても歓迎されるのです。 霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は、地上では空気を吸ってガスを吐き出すのですが、霊界は愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日のような人間の世俗的な愛を中心として授け受けするようにはなっていません。霊界で与え受ける愛は真の愛なのです。


皆さんをたたいて純金をつくらなければなりません。純金をつくらなければなりません。そして、犠牲になりなさいというのです。自分を犠牲にしなさいというのです。自分がなくなるように死になさいというのです。自分をなくしなさい、自分を犠牲にしなさい、犠牲にしなさい、なくしなさい、ゼロになりなさいというのです。このごろ、なぜ宇宙時代に入り、電気時代に入ったのでしょうか。このような時代が近いからそうなのです。「原理」で言えば、真が来る前に外的なもの、カイン的なものが先に来るというのです。この世がカイン的なのです。このように見ると、神様の愛の電気学を語ることにおいては、レ

バレンド・ムーンが先祖になることでしょう。


七百十八
 
霊界に行けば、原則にどれだけ同化し、どれだけ一致にしたかということが地獄から中間霊界、楽園、天国まですべて連結されるのです。そのような原則がなければならないのではないでしょうか。だからといって、アメリカ大統領をし、世界的なノーベル賞ももらい、世界的に有名な学者だといって霊界に行けば、天国に行けるのでしょうか。行くことができないのです。通ることができますか。 それゆえに、宗教界はすべてのものを捨てて行きなさいと教えるのです。すべて捨てていかなければなりません。それでは、何がも貴いのでしょうか。天のためにどれほど苦痛を受け、この世界のためにどれほど苦痛を受け、どれほど涙を流したか、それがあの世をパスするチケットです。これは間違いありません。絶対的だというのです。これは理論に合うのです。


霊界で、永遠の世界に拍子を合わせるために、再生のために息が詰まり、窒息して注射を打ち、酸素呼吸する皆さんになりますか、自由に活動できる、自由な神様の愛の圏で暮らすことのできる皆さんになりますか。ここは世界のために生きなければならないので、これが生涯の行く道です。将来のために行くことが、生涯において行くべき必然的な道だということを皆さんは知らなければなりません。


四) 霊人たちの生、霊人たちの相互関係

神様は、天地を創造なさった方であり、この世の存在の起源となる一番の母体となられる方です。その方は存在価値の起源です。その方がいらっしゃるので、今日この現象世界が始まったのです。そのような絶対的な方は、ある時代に変化があるといって変わる方ではありません。絶対的なものは変わることはありません。また、時間や空間に制限されることもありません。すべての制限を超越した位置で、すべての制限を主管される方です。 そのような方が誰ですか。「神様」とだけ言うのではありません。その方は「お父様」です。皆さんは「父なる神様」と呼ばなければなりません。神様を何と呼ばなければなりませんか。そのお父様は皆さんを生んでくれたお父さんです。人間が堕落したがゆえに、「再び産む」という言葉が必要なのであって、その方は本来皆さんを産んだお父さんです。肉身のお父さんは皆さんを仲介するお父さんです。そのお父さんは霊界に行けば、お父さんというのではなくお兄さんと呼ぶようになっているというのです。お母さんもお母さんと呼ぶようになっていないというのです。


霊界に行けば、アダムとエバも神様に対して「お父様」と言い、数千万代の子孫である皆さんも神様に対して「お父様」と言うでしょう。「兄なる神様」と祈祷しますか、「父なる神様」と祈祷しますか。それでは、自分のお父さんは何になりますか。霊界に行けば、お父様が何になりますか。お兄さんです。お兄さんとは何ですか。私より先に生まれたのがお兄さんです。私より先に生まれたのがお兄さんだというのです。それで、内的なお兄さんが神様で、外的なお兄さんが自分のお父さんだというのです。それ以上の理論を立てることができないことを知らなければなりません。


七百十九
 
父母の根をもった人々が、神様を何と呼びますか。キリスト教で呼ぶようにみんなが神様を「お父様」と呼びます。一軒の中でおじいさんも神様を「お父様」と呼び、お父さんも神様を「お父様」と呼びます。孫もやはり神様を「お父様」と呼びます。家族みんなが神様を「お父様」と呼びます。このように神様は、すべての人間にとってお父様になられる方です。したがって、神様は人間にとってお父様になり、人間はお互い兄弟になるのです。先生は時々、本当にそのようになるなら、霊界に行けば実におもしろいだろうと思うのです。

私たちの初の先祖まで私が見ることができるのに、先祖を造られた神様は見ることができないのでしょうか。神様も見ることができるのです。それは何の話か分かりますか。ですから、家庭というものは何かというと、見えない神様の愛の表現場所です。愛を中心として歴史時代に生きたすべての先祖は、愛の統治をあの世で受けているのです。同じ愛です。


すべての家庭が真の愛で一つになって霊界に入っていけば、神様の血肉を食べて永遠に生きるのです。そこに入っていけば農作業もなく仕事がありません。真の愛の食べ物はにおいをかいでも永遠に生きることができ、見るだけでもおいしいというのです。愛の食べ物を分けて食べるのです。神様の体、血肉と愛を分けてもらって生きるのです。


神様とは誰ですか。あなたの友人です!も高い友人だというのです。そして、お兄さん、お父さん、王であり、創造主です。ですから、皆さんが膨大な霊界の天国世界に入っていくようになって、そこでそれ以上のものを神様に願ったとしても神様がつくってくれるというのです。それは問題ないというのです。それはどんなに誇らしいでしょうか。その位置は神様の代わりの位置です。その位置に行った人間を神様が憎むでしょうか。いいえ、「私の息子、ナンバーワン、私の息子!」と歓迎するというのです。これが父母が願う高の望みです。


地上世界で親子関係の愛を貴く思うように、愛をもって生きていけば、天上世界でも神様を父母として侍って息子、娘のような立場で生きることになるのです。これが堕落しない家庭で生きる生活と同じであり、性格、性稟が似たのであらゆる方面で会うのです。


堕落しない家庭は、霊界と肉界のすべてに通じることができます。「おじいさんのお父さんは誰ですか」と言えば、見ることができるというのです。また、そのおじいさんのおじいさんが誰なのか、四代の先祖が誰なのか、五代の先祖、百代の先祖、千代の先祖、その次の先祖まで見ることができるのです。 そして、「アダムとエバがどんな顔つきか」と考えれば「こんな顔だ」と現れるのです。「私の目もアダム、エバに似たなあ、私の鼻も似ているなあ、私の口も似ているなあ」と言うのです。輪郭が似ているでしょう。顔にあるものの種類は四種類しかありません。もっとありますか。目、鼻、耳、口の四種類でしょう。「ああ、手足も同じだ!私のように目もぱちぱちしますね! 言葉も話しますね! 似ている! ああ、こんなに似ているんだなあ!」と言うのです。


あの世では、しわくちゃのおばあさん、おじいさんが皆さんよりもっと美しいのです。もっときれいなのです。愛があればそのような世界にとどまることができるのです。そこは統一された世界で、とても美しい世界です。それで、おばあさん、おじいさんに会って昔のおじいさん、おばあさんのように思って行動できますか。美しいおじいさん、おばあさんを見ればどんなにいいでしょうか。

さあ、それではその時に見るものが……。孫娘が来て、おばあさん、おじいさんに会おうと叫んでいるのが霊界では見ものです。そのおじいさんの上のおじいさんは誰ですか。



七百二十



自分の先祖のおじいさんは誰ですか。一番初のおじいさんが誰かといえば神様です。それで、おじいさんが喜んで「神様、ああ、とっても良いです」と言えば、神様が「ウェルカム」と言うのです。大声で「ハハハハ!」と言えば、神様が「うん、そうだとも!」と言うのです。


皆さんが霊界に行って見れば、この地で生きた皆さんのおじいさんやお父さんを見分けられません。なぜなら、そのおじいさんとお父さんが若くてすてきな姿に変わっているからです。年老いた姿ではありません。そのように若いおじいさんだから、初めは見分けられないけれども、徐々に徐々に話をしてみれば、「そうだ、それは合っている。だから私のおじいさんだ」と言って抱き締めるのです。

そのような世界なのです。


霊界に行けば、皆さんの顔はも美しい二十代の青春に帰るのです。愛の花を咲かせることができ、香りを漂わせることのできる時期が創造の原則であるゆえに、その本郷である天国に入っていくようになれば、そのような顔で帰るのです。それで、世の中で年老いた人があの世に行けば会っても分からないのです。二十代の青年の顔に戻るからです。知っているのは八十になった老人として知っているのに、その老人はいないのです。ですから分かりません。世界の有名な歴史的な人物もあの世に行っているのに分からないのです。写真を見てその時死んでいった年齢を知っているけれども、も美しい時に戻っていくので分からないのです。

霊界でも近い兄弟は誰でしょうか。霊界で も近い兄弟は横的な兄弟ではありません。この世で親子の関係と兄弟の関係の中でどのような関係がもっと近いですか。兄弟の関係より親子の関係がより近いので霊界に行っても私のお父さんがも近く、その次はおじいさん、その次はおじいさんのおじいさん、またその上のおじいさんになるでしょう。そのように上がっていけば 後のおじいさんが誰でしょうか。その方が正に神様です。

したがって皆さんは、この世に友人がいないと寂しく思うこともなく、一人暮らしをしていて死んだとしても悲しむこともありません。霊界に行けば上を見ても、横を見ても近い兄弟が無尽蔵にいます。しかし、兄弟にただそのままなるのではありません。神様を父として侍ることのできる特権を備えてこそ、このあらゆる人と兄弟になれるのです。

お父さんをお兄さんとし、おじいさんをお兄さんとしたからといって、気分が悪いことがあるでしょうか。気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。考え方によれば気分が悪いのです。世の中ではお父さんと呼ぶのに、霊界に来たからといってお兄さんと呼ぶのですから、お父さんはどれほど気分が悪いでしょうか。しかし、そのように呼ばなければなりません。


七百二十一
 
霊界に行けば黒人はどうでしょうか。黒人は黒人でしょうか、どうでしょうか。自分の願いどおりに、黒人が白人の姿になろうとするならいくらでもなれるのです。人間の世界で成し遂げられるただ一つの問題は何ですか。光が明るくなければなりません。何の光がですか。愛の光です。愛の光が明るくなるためには、内的にも外的にも燃えなければなりません。愛するための発動力によって燃えなければなりません。東西にたくさん吹き出さなければなりません。そのようにできる愛だというのです。そのようなことをすべて知って見ると、世の中の万事は過ぎゆく一つの旅行集です。


天国において美しい人になろうとするなら、愛の花がぱっと咲いてそこに和合し、相対的世界で花の美しさを現し、花の香りを漂わせ、その花を通じた新しい種をもつことができる、このような姿で地上で生きなければならないのです。そのように生きて霊界に行けば、永

遠の世界でもそのような姿で現れるのです。


霊界に行って、自分の夫と地上で愛した愛より拡大したい、より刺激したいと思うようになるのです。霊界に行けば、愛する女性がいればその中に男性がいるのです。


夫婦の愛はどの境地まで入っていくのでしょうか。霊界に行けばこうです。私は座っていても夫が歩けば、私も心で歩きます。帰ってくれば、心で既に帰ってくるのが分かるのです。心の中で夫と一緒に歩いているのです。どこから来るのかをすべて知っていて、どこへ行くのかをすべて知っています。この世では、男性が酒場に行ってどこに行くか、女性は知らないからえんえんと泣いてだまされるではないですか。しかし、霊界に行けばすべて分かるのです。


皆さんは、あの世、霊界に行って神様に似なければなりません。神様に帰るのです。神様の二性性相、性相と形状がぴたっと一つになっているように、男性、女性が完全に一つになってその殻を覆うようになる時、この二人が一つになったその基盤の上で神様に帰るのです。


霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、いつでも男性が女性になり、女性が男性になることができるのです。「愛は一体」と言うでしょう。女性の心をのぞいてみれば男性が入っています。夫が入っているのです。神様の二性性相とちょうど同じです。性相と形状、それが分かれて出てきたのですから、その本体に帰るには愛の架け橋を渡らなければいけないでしょう。創造の基準が愛から始まったので、この架け橋を渡って帰らなければなりません。結局、終着点では神様のようになるのです。


男性が地上で楽しく生きて霊界に行き、さっと見れば、男性の中に女性がいるというのです。「あの女性は誰ですか」と聞けば「私の妻です」と答えるのです。また、女性の中に男性が見えるというのです。このようにして二人が一つになれば、東西南北の方数になるというのです。男性、女性、二人でしょう。男性と女性のプラス・マイナスで東西南北になれば、神様にしっかりと侍るというのです。

神様が垣根になるというのです。


そうすることができれば、神様が私の神様です。共に生きるのです。父母が年を取って百歳を越えれば、八十歳になった息子と友達になるのを知っていますか。「や、息子や!」とそのように言いません。「おい、君」と呼ぶのです。友人として呼ぶのです。

七百二十二
 
神様に帰らなければなりません。 真の愛を実践する夫婦は、神様が本性相と本形状としてあられるように、霊界に行けば神様の本然的な基準に入っていくようになるのです。本然的で絶対的な神様も真の愛には絶対服従されるので、彼ら夫婦も本然的な基準に達するようになり、その点は一点であるから彼らは神様化するのです。神様に帰るのです。アルファとオメガです。

それを何が可能にするかと言えば、真の愛です。世の中に生まれた息子、娘は父母に帰るでしょう。同じ理屈です。それゆえに霊界に行ってこの地上で仲良く生きた人をちらっと見れば、男性に見えるのに、じっとよく見れば女性が笑顔でその中にいます。それが愛した妻だというのです。それが高の理想です。そうすれば神様の友人になるのです。それでこそ共に生きるのです。愛ゆえに生まれたのです。


霊界では、愛を中心として神様が私たち人間と和し、人間は神様と愛で一つになるのです。神様化するというのです。神様の二性性相が分立されたことを見ると、完全に愛によって一つになれば、霊界に行ってみれば二人が一つになっているのです。ただ見れば明らかに男性ですが、じっとよく見ればその中に女性が座っているというのです。愛の目はすべて統一です。憎い人もきれいに見え、きれいな人も憎く見えますか。きれいに見えるのです。


真の愛の相対になろうとすれば、零の位置に立たなければなりません。そのようになる時、神様が「良し良し」と言い、地上世界を見る時は地上の太陽のように光るのです。その二つが爆発する瞬間、霊界の神様の目もあっと驚くというのです。神様が「良し」と言うのです。それが信号弾なのです。神様がその信号弾を受けて零の位置で完全に開き、太陽のように光る愛の火がぼうぼうと勢いよく燃える所にお出ましになり、その中に入って

いき初めての夜を過ごしたいというのです。


霊界がそうです。何千、何億万里離れていた人が、ここに来て心情基準が合うので離れることを嫌がるのです。「ああ、早く行ってくれたら!」とは思わないのです。その世界では、御飯のようなものが必要ありません。すべてのものが自らの直感で解決するのです。それは愛の直感です。このようなあらゆる愛の体恤を中心として万国に拡大していくのです。そうして神様の代わりの心情さえもつようになれば、その下にすべての必要な存在が集まり、そこに千万人を一度に満たせる演壇ができるのです。


神様は、他の所にいるのではありません。神様はどこにいらっしゃるのでしょうか。

「在らざる所無し」という言葉は、神様はどこにでもいるのではないというのです。愛がある所にいるということです。これを知らなければなりません。愛を中心としては「在らざる所無し」ということです。私も愛を中心としては「在らざる所無し」と言えます。特権です。それゆえに愛がある所には主人がいます。よく主人を知っているから主客は転倒できません。あの世はそのようになっているのです。愛を基調に、すべてのものが操縦されるようになっているのです。


七百二十三
 
それでは、男性とは何ですか。これは半分だけです。女性は何ですか。これも半分です。また、いくら至高な神様であっても神様にも対象がいなければなりません。それゆえに、上は下が必要であり、下は上が必要なのです。霊界とは何ですか。霊界は半分の世界です。

肉界も半分の世界です。


霊界に行ってもそうです。霊界に行ってどのようにするのでしょうか。歴史時代のすべての人、今後全世界的な版図を越えてみんなに会ってどのように生きるのでしょうか。お互い「ため」に生きるのです。霊界に行ってもやはり理想的な愛を中心として、これを再現する生活をするのです。ですから同じようにもっと高い、価値あるものに私が投入するのです。それがうれしいというのです。

霊界は肉界の延長です。平面的な面の愛の理想を地上で追求したとすれば、霊界に行ったら楽しく、天のより深い立体的な外郭的な球形だけではなく、外郭的な球形と内角の核心まで通じなければなりません。ですから、結局は深く、浅く、高く、低く、すべての面に愛を投入できるそのような行動をしなければならないというのです。神様の代わりに再創造するそのような生活をしなければならないというのです。


霊界を動かせる代表者になりたいですか。人種主義者は力を発揮できないのです。また、人本主義者も力を出せず、物本主義者も力を出せず、教派主義者も力を発揮できません。ひとえに統一主義だけが力を発揮できるのです。霊界に行ったと考えてみましょう。霊界では食べるものの心配がなく、着るものも心配ありません。暮らすことも心配がありません。そこでは趣味が何でしょうか。神様を中心としてバンケット(宴会)に参加すること、神様を中心として喜べる集いに参加すること以外には希望がないことを知らなければなりません。神様を中心とした祝宴に参加することだけが高の理想です。そこに愛があり、そこに喜びがあり、そこから幸福の起源が生ずるのです。


霊界に行けば何百里、何千万里から一瞬のうちに来るのです。さっと会えば、額を見れば分かるのです。どこから来たのか、見てから頭を下げ……。これが通じません。何百年前の人でも、愛の人格基準が高ければ、会うと、相手が先に頭を下げるのです。何をもって感動するのかといえば愛です。愛でもってどれほど人類を愛し、神様が愛を中心として創造した被造物に接する時、神様のようにどのように愛するかということがすべて測定基準です。すぐに分かります。コンピューター以上です。


嫁いでいった女性が、自分の夫がどれほど愛するかということについてを誇るでしょう。あの世では、神様の愛を中心として神様の愛をどれだけ受けた人かということが誇りです。本然の真の愛、これが高い級の愛なのです。

これによって等級が決定するのです。


七百二十四
 
本質的な本然の愛を実践すれば、年老いた人にでも花が咲くのです。ですから、霊界に行けばすべて青春です。思春期のもかわいかったその時の姿で行って、とどまります。ですから愛が偉大です。それが信じられなければ、きょうにでも腹を切って死んでみなさい。うそか、本当か。若くなれば本当にいいでしょう。

五) 霊界での衣食住問題は自由自在

あの世の生活はどうでしょうか。食べるものも心配ありません。住むのも心配ありません。着るものも心配ありません。なぜでしょうか。自らの心霊状態のままに願うすべてのものが可能だからです。あの世でも食べます。あの世でも自分を触ってみれば血管が、脈拍が走るのが分かります。同じです。霊的な体ですが同じなのです。私が「何々を食べたい」と言えばすぐに現れます。「このような物を食べたい」と言えばすぐに現れます。それはどこから来るのでしょうか。根源世界を動員できる能動的な自主性を行使できる世界が霊界です。ですから、全体を動員できる主体的な能動権をもったものとは何ですか。権力でもなく、知識でもなく、お金をもった勢力でもありません。愛です。


神様が創造したこの巨大な宇宙!そこには自動車もなく、飲食店もありません。しかし、私たちは、霊界でまるで創造主であられる神様のようにあらゆる種類のものを、真の愛の概念を中心として創出することができるように、愛を中心として本来の力を発揮してすべてのものをつくることができるのです。私が愛を中心としてこのようなもの、あのようなものなどを指摘すれば、実在物が完全に姿を現すことができるのです。「どのような工具、現れなさい!」と言えば、正にその工具が生じるのです。どんなにすごいでしょうか。


また、晩餐会場に数十、数百万名参加した時「このような食べ物を準備しなければ」と願いさえすれば、食事が問題なく出てくるのです。金色の正装を願えば、すぐにそのような正装が出てくるのです。どんなに素晴らしく、すごいことでしょうか!それは本当に良いのです!


考えてみてください。あの世に自動車工場があるでしょうか、ないでしょうか。このような物に乗って一瞬のうちに、一秒間に何億万キロを行くことができます。先生がそのようなことをはっきりと知っているので、地上で生きたいと思わないのです。その膨大な世界が、愛を中心としてすべて編成されているというのです。その愛に和した神様の心情圏をしっかりと所持すればすべて終わります。創造歴史は永遠に続くのです。そのような愛の心に和して、自分が構想したすべてのことをしなければなりません。瞬時にしっかりと決心して命令すれば、すぐに展開します。


霊界に行けば小便をするでしょうか、しないでしょうか。今度行ってみなさい。私は小便をすると思いますが、しないと思う人は、小便をするか、しないか、行ってみなさい。それでは、大便をするでしょうか、しないでしょうか。みんなします。みんなするけれど、すぐ元素に帰ります。宇宙の根本元素が百七個だと言いますが、どんどん増えていますね。その元素に帰ります。したがって、掃除する必要がありません。愛の心をもって手入れをすれば、きれいに本故郷へ帰るのです。それから愛の心で「何々出てこい、何々出てこい、何々出てこい」と言えば、すーっと出てきます。愛の心で言えば、すべてのものが出動可能です。


七百二十五
 
あの世にパン工場があるでしょうか、ないでしょうか。コーラとかジュースを作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。どうしてないのですか。分からないでしょう。そこに自動車を造る工場があるでしょうか、ないでしょうか。あの世に行って「私は、いい車に乗り回るんだ」と言って、こうして乗りますか。ここではベンツに乗って、何がどうだこうだと誇りますが、そこではそれはすべて必要ありません。


永遠に目を開けることができ、永遠に聞くことができ、永遠に食べないでいることができるのに御飯など……。ああ、今が良いのに、御飯を食べなさいと言われて食べるでしょうか。御飯を食べなさいと言えば食べますか。私は食べません。服を着るのも、私の思いどおりに服を着ることができるのです。

「けさは、すべて黄金の服を着なさい。さあ、ダイヤモンドの何カラットをつけなさい。英国の王妃は五百十七カラットをもちましたが、それ以上の一万七千カラットのものをつけなさい」と言えば、さっと!そのようなものは、みんなもつことができます。あらゆるのものをつくることができます。そのように見ると、レバレンド・ムーンは妄想家なのです。しかし、可能な理論圏内で話しているということを皆さんは知らなければなりません。


霊界という所は愛の空気で充満した所であるという概念を、私たちがこの地上にある認識構造をもって見つけることができるというのです。愛の神様が愛の心をもって、世界人類を一度にすべて食べさせたくて、喜ばせたくて「御飯よ出てきなさい」と言えば出てくるのです。霊界でも食べさせなければならないので、そのようにするというのです。それゆえに、愛の食べ物を食べるのです。お互いに見るのも愛の目で見て、すべてそのようにするというのです。

みんなたたかれてけがをしても、またたたかれようとするのです。形容し難いほど不思議な所です。聞いても、もっと何度も聞きたくて、眠いとか、疲労だとか、何だという観念はあり得ないのです。疲れる余裕があり、興奮する何かがなければならないでしょう。退屈で妨害する何かがなければらないでしょう。それがないのに、どうして疲れるでしょうか。


霊界では、衣食住は問題になりません。衣食住は完全に自由自在です。愛の一体圏、神様の相対圏に立てば、神様ができることもできます。何でもできるのです。何億万年の歳月も一瞬にして超越できます。愛の速度は超スピードです。愛する人がいる所に行って来る時、時間がかからないのです。すぐ行って来ることができます。ですから、愛の相対者に会うことは瞬間です。そこは絶対圏なので何の障害もありません。そのような限界を越えた世界、時空を超越した世界なのです。そのような無限の世界が人間のために準備されているということを知っている人はいません。真の父母によってそのようなことを知るようになりました。


七百二十六
 
霊界に行けば何を中心として生きているか知っていますか。霊界には工場があるでしょうか、ないでしょうか。霊界に自動車があるでしょうか、ないでしょうか。消耗品工場があるでしょうか、ないでしょうか。霊界で御飯を食べるでしょうか、食べないでしょうか。服を着るでしょうか、着ないでしょうか。このようなものは霊界にはありませんが、自分の人格構造が神様の対象的価値基準をもてば、神様ができる能力を受け継ぐことができるのです。

霊界では百万名が一瞬のうちにバンケット(宴会)を行うことができます。自分が真の愛の心をもって「彼らをこのように食べさせなければならない」という、神様のように本当に愛する心がしっかりとできていれば、万事が不可能ではありません。それゆえに愛の園で、愛の世界で泳ぎ、愛の世界でそのすべての波長に拍子を合わせることのできる生活の訓練をした人は、神様の心の中にも入っていくことができるのです。なぜですか。真の愛の波長は同じなので、相いれないことは起こらないのです。


霊界に行けば食べることだけでも「今日はこのような食べ物で……」と言えば願いどおりにすぐ現れ、愛する人に会いたければ「さっ」と一体化してこのように頼めばすぐに現れるのです。そして、一瞬にして何万、何十万のバンケット・ルームを造ることもできるのです。これは虚構ではなく、理論自体がそのようになっています。そして、そこでは食べて残ったものは原形に戻ります。元の状態の元素に戻るのです。そのように便利な所です。ですから、先生が行く所は、天宙すべてが慕って従っていこうとする、そのような所です。


創造理想世界では天国が我が家です。そのように膨大な天国ですが、それが私の生活圏の舞台になっているのです。私の国ではありません。国には制度も多く、職種も多いでしょう。しかし、霊界はそうではありません。単純です。考えてみなさい。霊界に経済支援する工場があるでしょうか、ないでしょうか。服を作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。御飯を作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。

生活必需品やこの世で必要な物は一つも必要ありません。ですから工場があるでしょうか、ないでしょうか。花だけ咲く理想的な社会だというのです。食べるものはいつでも食べられるようになっています。自分の考えるものがぴたりと現れるのです。食べて余れば ……。そこにはごみ箱があるでしょうか、ないでしょうか。ごみ箱がありません。手ぶりさえすれば元素に帰る世界です。


天の永遠な世界、あの世に行けば政治体制はあるのです。経済体制は必要もないのです。いつでも自分が必要とする物はすべて供給できるようになっています。経済的なことは副次的な問題です。霊界に行く時、米を入れるひさごを持って入っていくと思っていますか。人から食べ物を恵んでもらって生活をしていくと思いますか。霊界は食べたければすぐ御飯が現れるというのです。それを食べ残しても「零に帰れ」と言えば帰るのです。ですから、すべて人格的な能力をもって活用できる対象にすぎないのであって、それが主体的な影響は何にも及ばないのです。


七百二十七
 
霊界がどんなにいいかは、言葉ではすべてを言い表せません。そこは衣食住が心配ない所です。家もみんなあり、服もすべてあり、食べる物もすべてあって自分が願うとおりにできます。愛の心情の価値内容によって相対的基準を自由に供給できるのです。愛を中心として完成した人格基準によって、その相対的環境要件を自由に補給できるというのです。私が寝ていても朝御飯、夕御飯を食べることのできる場所に体が引っ張られていくというのです。霊界を見ればそうだというのです。そのように自由だというのです。寝ながらも食べたり寝たり、また、思いどおりに訪ねていくのです。体がそのようになっているというのです。


霊界に行けばどのようになりますか。そこでは食べることが心配ありません。稼ぎません。あの世に行けば稼ぐ必要がありません。食べたい時はいつでも食べることができます。実におもしろいことに、食べたあと、そのかすはどのようにするのでしょうか。「帰れ」と言えば元素に帰ります。根本の世界、元素に帰ってしまいます。そのようなことが可能な世界で、四方八方に起動することのできる人とはどんな人ですか。神様の愛を中心として酔いしれる生活をする人です。全知全能な神様の愛を中心とした理想が、あらゆる方面に実現される所が霊界なので、神様の愛を中心として酔いしれて生きた人間が主導的な立場に立つのです。


霊界では元素を吸います。水であれば水の元素を飲みます。元素のようなものを知っていますか。そして、思う存分食べて手ぶりさえ

すれば元素に帰ります。ごみ箱がありません。


霊界に行けば仕事が必要ですか。そこでも八時間仕事をしなければなりませんか。夜がありますか。夜がないのです。いつも目覚めているのです。いつもこのすべての器官が働いているのに、何をするのですか。どんなことをしますか。永遠に目を開けていても、永遠に寝なくても喜べるようなものとは何ですか。愛です。そのような愛の理想だけしっかりともっていれば「や、何々出てきなさい!」と言えば、すぐに出てくるのです。ここに一万名が集まれば「一万名の食堂と食卓

準備!」と言えばすぐに準備できるのです。


霊界にも空気がなければならないでしょうか、あってはならないでしょうか。なぜ空気が必要ですか。呼吸をしないで暮らせばどんなにいいですか。なぜですか。どうしてですか。呼吸をしないで生きれば大きくなることができません。二つの世界を連結させることができません。二つの世界を連結させなければなりません。肉身と霊魂を連結させなければならないのです。霊人体も大きくなろうとするなら、体が大きくならなければなりません。固着してはなりません。それならどのようにしなければなりませんか。見えないものも、神様が見えない愛の空気で呼吸するのと同じように、生命の源泉となる元素の供給をするのです。


この目がぱちぱち瞬きするのは、この世の空気中にあるほこりが入るのではないかとそのように瞬きするのです。霊界にはほこりがありますか、ないですか。霊界では神様が目を千年万年開けている、それは気分が良いですか。地上では、習慣性でぱちぱち瞬きしたので、霊界にほこりがなくても瞬きしなければならないのです。なぜですか。私たちに似たからです。


七百二十八
 
霊界に行ってみたいですか、行ってみたくないですか。文総裁がうそをついているかもしれないでしょう。うそでも神様の言葉のように信じれば、神様は創造の能力があるので、彼が願う以上のものをつくることができる主体であることを知らなければなりません。悪魔が「や、神様がこのように言った」と言うならば、悪魔が言う以上のことまで信じて行動すれば、神様は創造して成し遂げることのできる道がいくらでもあるというのです。


六) 霊界の権力は愛の権力である

霊界に行ってみれば、お金が必要ありません。知識が必要ありません。私が行ってみるとそうです。権力が必要ありません。お金を創造して余りあり、ダイヤモンドも創造できる神様です。絶対者です。知識の大王です。権力の大王です。それをいつも春夏秋冬、四季を超えて永遠に自由自在に行使できる方です。その方に何が必要でしょうか。


霊界に行けば天上世界に、無限なる世界に数百億の人類が生きています。そこに行けば会えない人がいないのです。皆さんは歴史を学ぶ必要がありません。そこで「誰に会いたい」と言って誰かを呼び出す時、彼を愛する尺度があって呼んでこそ現れるのであって、私が欲をもって、その人が立派な博士だから「知識を得るために私が会う」と考えれば絶対に現れません。会えないのです。愛がなければならないのです。彼がそのように有名な人になるまでの過去に苦労した、その苦労の代価を認めて彼を愛する心で呼べば、東西四方、誰でもみんな接することができます。


お金、お金はいくらでも作ることができるのです。知識、神様は知識の王様です。権力、大韓民国の大統領になってみても……。このような話をして失礼になるかもしれませんが、小さい国、ソ連の百分の一にしかならない国の大統領が……。知識とお金と権力は、一生において追求する価値的なものの一部分にしかなりません。

教授の知識を千年万年誇ることができるでしょうか。もって歩きながら誇りますか。一生にとどまるのです。それが自分とともにあるのは一生だけです。お金もそうであり、知識もそうです。優れているという人を見れば、知識をもって優れているということであり、お金をもって優れているというではありませんか。権力をもって優秀だというではありませんか。この世界ではそうかもしれませんが、神様はそれを何の価値もないと思うのです。

霊界ではすべて無価値なのです。


人間と歴史が何を中心として解決して完成しますか。神様を知らなければなりません。神様は、人格的な神様でなければなりません。神様が漠然としていてはいけないのです。私たち自身が具体的であり、知・情・意を備えた人格的な人ならば、その主体であられる神様も知・情・意を備えた人格的な神であるというのです。そのように考えるのです。それでは、神様がもっている多くの属性の中で一番の中心とは何ですか。情だというのです。愛だというのです。神様も生きることにおいて、愛がも必要なのです。

天国では知識だけもって生きるのではありません。皆さんが霊界を知らないのでそう思わないのであって、霊界に行って知るということは一週間以内ですべて終わります。心を鏡のように見ることのできる世界が霊界です。霊界はいくら優秀で、いくら立派な知識人がいるとしても、彼がもっている知識を一週間以内に凌駕できる直感の世界です。心の光を



七百二十九



通じて見るので、そこに関連している因縁の世界は、自動的に分かるのです。それは情の心情を通して見てこそ、私と相対的関係をもち、主体的関係をもつのであって、知識であるとか他の属性をもっては駄目だというのです。


知識とは何ですか。知識があることによって、知ることによってすべての環境的条件を所有することになります。知識の中に高の知識である愛さえもてば、天下がすべて連結します。知っている人が支配します。「知ることは力なり」と言ったでしょう。力のある人が支配するという論理です。ですから、愛をもった人は知識が必要ありません。あの世では、学ばなくてもすべて分かります。


宇宙が私の活動基地です。ところが、その世界にない物質でもって首を絞めており、お金、知識、権力でもって首を絞めています。その世界には、そのようなものは一つもありません。それによって残るものが一つもないのです。皆さん、この世界ではお金、知識、権力が必要だけれども、あの世にはそのようなものが必要ありません。今まで、サタン世界の人がそれを願っていたのです。


霊界でお金が必要ですか。食べる物、知識、権力が必要ですか。それが必要ならば、願えば一瞬のうちに生じるのです。そこには食べ物の工場がありません。学校もありません。権力者もいません。ただ神様が力の根源であられます。そこが私たちの永遠の故郷です。その安息の場が待っているのです。皆さんは誰しも願おうと願うまいとその場に行くのです。私はそれをよく知っています。 あの世では権力が必要ありません。霊界は愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。その世界はそのような世界です。したがって、愛を中心とした感化力をもてない人は、愛でもって感化できる本然の世界に行ったら、本質的に和合ができずに反発するのです。それは地獄に行くのです。これは深刻な問題です。


愛を嫌う人は手を挙げてみなさい。お金はなければ稼げばいいのです。勉強は今しなくても霊界に行ってすればいいのです。霊界では東大を卒業するのに、三日もかかりません。東大を卒業した基準を備えるのに三日もかかりません。心の中を見ながら、本心を話そうとすれば、先に聞くことができるのです。それゆえに、そこでは隠すことができません。便利でしょう。高の能力をもって分析できる力をもったコンピューターでもついていけないというのです。


この宇宙のすべてのものは愛で連結されています。霊界も、万物もすべて愛によって連結されているのです。真の愛を中心としてそのように連結しています。ですから、真の愛さえもっていれば、どこでも連結することができます。真の愛さえもっていれば、みんな頭を下げるのです。霊界に行けば教育が必要ありません。誰でも一週間以内に、東大を卒業した人より数十倍たくさん知ることができるのです。東大を卒業したことを強調しないでください。良心的な人は一瞬にしてすべて通じるのです。説明が必要ありません。


730 * 七百三十
 
霊界に行けば言葉は学ぶ必要がありません。一週間以内にあらゆることを知るのです。心の中で考えることが、すべて分かるのです。話す前にすべて分かるのです。ですから、だますことができません。そのような世界で皆さんは、サーチライトで照らしながら見守っているのです。その光の中で何の問題もなく無事通過して本来の位置に接することができるかということが、人生の路程においての課

題だということを知らなければなりません。


どれほどこの世は不便でしょうか!稼ぎが必要でしょうか、必要ないでしょうか。勉強が必要でしょうか、必要ないでしょうか。勉強をしなくてもみんな分かります。言う前に心で、既に分かっています。あの世に行けば、高い、低いということがすべて表示されているのです。ちらりと接すれば、すぐに分かります。ちらっと測定し、レベルを測るのです。東西南北がどのようになっているということを知っています。またこのようにじっとしていても、誰かが私を呼ぶのが分かります。そのような時には、私は無に入って相手を主体として立てるのです。愛の力を育ててつくられるのがあの世です。


霊界の組織とは何かといえば、生活を中心としてすべて系列になっているのであって、政治というものはないというのです。神様の直属の愛を中心としていて、強力に軍事拡張であるとか政治的目的のために、この世では手段、方法を選ばないのですが、そのようなことがないのです。経済の平準化運動を中心として、どのように豊かな生活をするかということです。地上もそのようにならなければなりません。 神様も愛ゆえに創造したということは知っているでしょう。神様に「一番好きなものは何ですか」と聞いてみれば、どのように答えるでしょうか。神様は好きなものはありません。お金も必要なく、知識も必要なく、権力も必要ありません。統一教会の食口は何が必要ですか。同じです。愛の中にはお金もあり、知識もあり、権力もあります。愛の権力が万

年権力です。

本当に愛を知っている人は、天上世界に行って学ぶことがありません。そのような人はいつでも神様の心の中を出たり入ったりします。神様の体を通して東西南北を思いのままに行き来することができます。これが中央停留所のようになっています。何の話か分かりますか。それがなぜ必要ですか。そこに入って出てくる時は、東西南北の力が集中するために、強力な力によって出ます。低かった国もその中央を通じて出てくる時は、高い神様と対等な位置に上がるのです。愛にはこのような偉大な力があります。


七) 霊界は神様の法則と秩序の世界

この地球自体がそうですが、太陽自体も自転しています。地球の百三十万倍にもなる質量をもった太陽が休みなしに動いているというのです。宇宙ではこのような太陽系の質量の二千億倍にもなる広大な銀河系があります。このような銀河系を小宇宙と言いますが、宇宙には銀河系のような星雲が数えきれないほどたくさんあります。これをまとめて大宇宙

と言います。

七百三十一
 
私たちはこのような広大無辺な大宇宙の世界を、心を広げて考えなければなりません。半径だけでも数千億光年にもなるものすごい大宇宙を創造された神様は、その大宇宙を変わらない法則に基づいて数億千万年を動かしていらっしゃいます。私たちが考えることができず、感じることもできないほどに偉大な力をもって、このすべての天体を動かすというのです。

このような宇宙を創造された神様を考えれば考えるほど、私たちは、その雄壮さと偉大さに自然に頭を下げざるを得ません。このような大宇宙を創造なさったその方が私たちを見守ってくださるお父様であり、私たちを保護してくださる神様、実存なさる偉大な主人公であられるという事実を、私たちは心を広くして考えなければならないでしょう。


人が精密に計算してレールをつくっていくことは、汽車の速度が少しだけ違っても脱線して大騒ぎするのですが、大宇宙は自然の法則に一致してぴったりと合い、自然に帰ります。この太陽系だけでも、太陽が広大な九個の惑星を抱えてこのようにみんな回転しているのに、そのような太陽系が一千億個も入っている大宇宙が、今でもあらゆるコースをたどりながら活動していると考えてみなさい。一千億個が入っているそのような宇宙があるというのです。それがすべて動いているというのです。これが「ただそのままできた」と言って、「自然だ」と言っています。


根本を明らかにしなければなりません。本然の神様がいるなら、その神様は絶対的な方でなければなりません。唯一、不変、永遠でなければならないのです。そうでなければなりません。神様が定めた法則は絶対的でなければなりません。それゆえに、この宇宙はその法則によって千年万年、何億万年運動を続けるのです。動物世界や植物の世界もそのような科学的公式の法則による基盤の上で存続するのです。ですから、数学ですべて解くことができるのです。


人が死ねば霊界へ行かなければなりません。霊界に行けばどうですか。霊界はすべての秩序が構成された世界です。霊界を知らなければなりません。霊界はどのような世界ですか。理想世界であると同時にしっかりと秩序が構成された世界ですが、愛を中心とした世界です。呼吸は愛でするのです。ここでは空気で呼吸するでしょう。魚は水で呼吸するでしょう。では、霊界では何によって呼吸するのです

か。愛の呼吸です。愛によって呼吸するのです。


神様は天地を何で主管するのでしょうか。法で主管するのですが、法も愛で主管する法です。そして、主管の方向を後援するために、宇宙の法則も存続するというのです。それで、神様がどうして人間を創造したのかといえば、愛が慕わしいからです。一人じっとしていればいいのに、何のためですか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。


七百三十二
 
多くの人々が霊界を体験しています。その霊界は特別な世界です。それがどのような原則が起源になり、どのような結果で運行するというそのような膨大な背景を悟るということは極めて難しいということを知りました。皆さんが統一教会の主張している「原理」の内容を見れば、霊界は、公式的な法則で私たちが認識できる圏内に入るという原則を知るようになるでしょう。その原則を明らかにしたという事実は、今後の歴史時代に大きな問題になるだろうと考えています。 全宇宙が動くすべての法則を主管し、一方では人間を再創造し、その人間を神様の代わりに全宇宙を主管する価値的な存在として立てられるために、摂理なさったということが、どれほど驚くべきことであり、かつ有り難い事実かを、皆さんは骨身にしみるほど感じた

ことがありますか。


二 天国と地獄 一) 天国は愛の理想の世界

天国とは、どのような所ですか。神様の愛が中心になっている所です。神様の愛を中心とした環境圏を設定した所が天国です。それでは、その圏に行ってとどまる人は、どんな人でなければならないのでしょうか。神様の愛の本質と和合できる人にならなければなりません。そのような人以外には行くことはできません。


天国は「ため」に生きる世界であるので、「ため」に生きようという観念のみを中心として行かなければなりません。「自分が受ける」という考えをもてば壊れていくのです。天国は、神様の愛が充満した世界です。愛の本質は受けるというのではなく、全体のために生きるということです。したがって、天国は世の中と違います。宗教の教えは「ため」に生き、絶対服従し、自分を犠牲にしなさい、奉仕しなさいというのですが、世の中にはこのようなことはありません。これは、世の中の何も知らない乞食の群れがするようなことですが、天法を知らなくても福を受けることができるようにするための、サタン世界に対する神様の暗号作戦でした。 天国へは愛の軌道に乗って行くのです。このように話せば実感がわくでしょう。ゴムのひもは引けば引くほど細くなりますが、愛のひもは引けば引くほど反対に太くなります。ですからみ旨のためには苦労の王になることが、世界を占領できる秘法なのです。苦労の王が天国の栄光を独占するのです。


天国とは、どのような世界でしょうか。お互いに反目、嫉視しながら、他人がうまくいけば嫉妬し、他人が喜ぶとたまらないという、そのような世界ではありません。一人がうまくいくことは、全体を代表してうまくいくことです。また、一人が喜ぶことは全体の代わりに喜ぶことなので、一人が喜べば全体が喜ぶのであり、一人がうれしがれば全体が共に喜ぶ所が天国なのです。


天国とはどのような世界かといえば、神様の愛の世界です。愛の空気を吸う世界です。そこには生命がぎっしり詰まっています。どこに行っても生命が躍動しない所がありません。そして、すべて血縁的な因縁によって結ばれています。神様の一つの血筋であるがゆえに、神様が悲しむそのような何かがあれば、全霊界が一つの細胞のように、一つの体のように悲しみを感じるのです。また、神様が喜べばすべてが喜ぶのです。そのような世界です。それで、神様の愛が膨大な大天国を動かしているのです。

七百三十三
 
生命圏がそこに呼応して、すべての万物の主体・対象を中心として、芸術的な美化の対象になっているのです。血筋のように連結していて、神様が喜べば私もうれしく、神様が悲しければ私も悲しくなります。やむなくそのようになっています。 天国では闘いがあるでしょうか。闘いのない永遠な世界で何をして生きるのでしょうか。その世界が一年生きて終わるのではなく、永遠に続くというのです。それなら、退屈ではないでしょうか。そこで何をして生きるのでしょうか。一人で生きますか、霊界にいるあらゆる存在と関係を結んで生きますか。何をもって関係を結びますか。真の愛です。


それゆえに、その世界の本質は何ですか。食べることも、愛を感じながら食べなければなりません。着ることも、愛を感じながら着なければなりません。生きるのも、愛を感じて生きなければなりません。旅行することも、愛の神様が母体となって旅行しなければなりません。そうでなければ、和動できないというのです。その愛というものは、神様の本質的な愛でなければなりません。神様の本質的な愛に近い内容を備えた人格があの世で高い位置を占め、そのような人格を中心として、すべての霊界の万有の存在が和動して生きるというのです。そのような人々が和動する世界だというのです。


人間を中心とした真の愛、それが絶対価値の花です。神様がなぜ生きているかといえば、真の愛ゆえに生まれ、真の愛ゆえに生きるのです。人もなぜ生まれ、なぜ生きているかといえば、真の愛ゆえに生まれ、真の愛ゆえに生きるというのです。そのような時は神様も不平なく、人も不平なく宇宙の花のように咲いて香りが漂うというのです。真の愛をセンターとして両側が一つになるのです。右側も左側も「万歳!」、両手を挙げて「万歳!」、真の人も「万歳!」、霊界も見下ろして「万歳!」、こちらもあの上も「万歳!」と言うのです。すべて一つになって香りが漂うのに酔って ……。


霊界がそうです。気が合う兄弟同士が集まって暮らします。ここでそのように暮らす訓練ができていなければ、あの世に行ってぶつかります。あの世に行けば問題が大きいのです。人の心に合わせるとは、どういうことですか。神様に侍る訓練の中で、人の心に合わせること以上に正しい道はありません。神様がどれほど気難しい方だと思いますか。原則に外れれば許しがありません。それゆえに、人の心に合わせることができ、人と和合することができなければなりません。神様に侍る

訓練の中で、それ以上早い訓練はありません。


完成した人が霊界に入っていけば、どこに行っても友人です。子女の位置に行っても友人、兄弟の位置に行っても友人、夫婦の位置に行っても友人、父母の位置に行っても友人で、すべて通じるというのです。神様の玉座でもどこでも通じることができるというのです。


どのようにして天国へ行くのですか。神様の愛に狂って生きなければなりません。アダムとエバ以上に神様を愛さなければならず、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上にイエス様を愛さなければなりません。そうでなければ、神様が私を愛し得る真の愛の相対圏を復帰できません。これさえ復帰すれば、万事思いどおりになります。


七百三十四
 
お金がないといって心配せず、息子、娘がいないと心配せず、十年、二十年その道を続けて行くと、大きな山にも、険しい峰にも上がるようになります。自分では少しずつ下りていきながら苦労だけしているように思いますが、だんだん高くなるのです。統一教会は打たれながら大きくなります。一つの家に十人が住んでいるなら、公的目的のために十人の反対を受けながらも我慢する人が、その家庭の主人になるのです。すなわち、天国の主人になるのです。


天国は、愛の世界であり、中心者である神様のためにある世界、神様のために生きる世界です。


天国には誰が先に入っていかなければならないかといえば、真の父母が先に入っていかなければなりません。「天国が空いている」と言えば、「レバレンド・ムーンはばかげたことを言う」と思うかもしれませんが、イエス様も天国に入れませんでした。天国へは一人では入れません。人間の先祖が思春期を過ぎて、神様を中心とした愛の理想を成して生活し、真の愛の種を残して父母になって先に入るべき所が天国です。ところが、まだ神様の愛を中心とした父母として、この地に愛の種を残した父母がいません。また、そのような子孫を残した基盤を成せなかったがゆえに、天国は空いているのです。


皆さんは世界天国に向かって行きますか、個人天国に向かって行きますか。「世界天国に向かって行く」と言うでしょう。先生も欲が深く、世界天国へ行く愛の綱をぎゅっとつかむために、四十年間迫害されながらもこのことをしたのです。個人の愛の綱を越えて、家庭の愛の綱、氏族の愛の綱、民族の愛の綱、国家の愛の綱、世界の愛の綱をぎゅっとつかむためです。ぎゅっとつかんでどこに行くのでしょうか。世界の愛の綱を探してからは、恵みを受け出世したので還故郷するのです。故郷に行って、かわいそうな人々を助けてあげるべきではないでしょうか。


天国に行く道は、兄弟を神様のように愛することから開かれます。皆さんは先生に従って行こうとするのですが、その心で兄弟を伴って一緒に行こうと努力しなければなりません。天国にも高く、早く、良く導く者は、神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すことができます。


今日、宗教を信じる人々が「天国へ行こう」と言うのですが、天国へただそのまま行けますか。まず地上で天国を迎えて行かなければなりません。地上で天国を迎えるためには愛の規則を経なければなりません。皆さんの家庭に子女がたくさん生まれれば生まれるほど、神様の国をより一層愛さなければならない十字架が加重されるということを感じなければなりません。その家庭に息子、娘をたくさん送ることは、担う十字架が多いということなので、国のために捧げるべき責任が多いという意味です。そのような内容を知って、責任を全うする人にならなければなりません。そのような家庭であればこそ、その家庭に後代を相続できる運勢をもった息子、娘が生まれるのです。


七百三十五
 
天国に入っていける人とはどのような人ですか。まず神様の心に合う人にならなければなりません。どれくらい合わなければならないのでしょうか。神様が永遠な目的を中心として永遠な理想を描いていく方なら、永遠に心が合わなければなりません。十年ぐらい合わせて途中で合わなくなれば駄目です。永遠であられる神様に、永遠に心を合わせなければなりません。そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。永遠にお互いに喜べる息子にならなければなりません。そのような息子になろうとするなら、悲しみの対象として現れてはなりません。


天国という概念は、サタンを克服した位置で、サタンが相対できる一切の要因を否定した位置で、否定するだけでなく清算した位置で成立できます。サタンの否定的条件が残っている歴史的な遺物や生活のすべての内容を否定して清算した土台の上で天国が肯定できるのであって、それを残しては天国の内容を提示できません。


天国に行こうとするなら、罪を犯さず、神様の愛を直接受けることができ、イエス様を信じる必要がなく、救い主が必要ないという息子、娘の資格を獲得し得る過程を経なければなりません。そのように生きた人間が天国

に行ってこそ、神様の理想天国が成されます。


宇宙の高のおじいさんとは誰かといえば、神様です。それから、この世界を一つ造るのに、全天地を一つ造るのにおいて、その 後の子孫とは誰かといえば、未来の後孫です。これを連結しなければなりません。何によって連結するかといえば、家庭です。国ではありません。天国へ行くのに「アメリカ人だ」と言っても認めてくれません。「発展途上国の人だ」と言って排斥しません。この主流、家庭組織を中心として神様のみ旨とともに過去、現在、未来を連結させることのできるモデル型だけを認めます。これが公式だということを知らなければなりません。そのようにしてできた実をもってきて貯蔵する倉庫が天国です。


侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経てから、侍る生活をする必要があるのです。侍るための準備の過程を経て、侍義の生活を経て初めて行く所が天国です。心情で侍る人が行く所が天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を称賛し、高くとどろかせる世界が天国です。私たちは、このような目的の世界に向かうべき運命に置かれているのです。


天国という所は、心情を通さずには行くことができない所です。天国は全体を主管できる本然の国であり、本性の国だというのです。その国は、いかなる事情をもってしても所有できません。深くしみ入る心情の因縁を備えてこそ所有できる国です。それゆえに、キリスト教は究極的に事情を通す教会ではなく、心情を通す教会です。事情の因縁を越えて心情を謳うことのできる基盤を築くのに、地に対して摂理なさる天の目的があるというのです。


七百三十六
 
天国とは、どのような所ですか。準備したことをもって誇る所であり、侍る生活をしたことを誇る所です。それではその天国とは、どのような人が行く所ですか。主を信じて恵みを受けるといって、恵みを前面に立てていく者が行く所ですか。違います。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした人が行く所です。準備する期間に死んだとしても、侍義の生活を残して喜んでいくことのできる者が行く所です。そこに復活があるのです。生活の内幕は現れません。どのように生活するのかということが、今私たちがこの侍る生活の中で考えるべき重大な問題です。


天国がそうです。天国に行けばどこも明るいのです。李相軒氏が言う霊界の実相がそうでしょう。間違いありません。神様の愛の光がこの宇宙の四方を照らして、その懐の万物は万歳しているようです。何の万歳ですか。万万歳ではありません。「解放万歳!」、解放したならすべて「解怨万歳!」、恨みを解かなければなりません。


神様の愛を中心とした本然の父母の因縁の中で、真の愛の家庭基準を代表できる位置に立つことによって初めて天国に入っていけるのです。天国に入っていこうとすれば、真の神様と真の父母の真の愛と一つにならなければなりません。その血統的な関係において生まれた息子、娘と共にこの地で生きてから行く所が天国ですが、今までそのように生きてから行った人は一人もいません。それゆえに天国は空いているのです。


教会に何百年通うとしても、自分を中心とした心をもって通えば天国に行けません。救いを受けることができません。真の宗教がどのような宗教かということを知らなければならず、真の人がどのような人かということを知らなければならず、真の国がどのような国かということを知らなければなりません。


神様の愛の本質と和合できる人とは、どのような人ですか。自分を中心としていく人は価値がありません。相手のために自らの生命を投入して、自らのすべての精誠を投入して、自らのすべてのものを投入しながら与えようとする人だけが、神様の愛の圏内に存続できるのです。歴史上の偉人もそうでしたし、聖

人もそうでした。


二) 天国はお互いのために生きる世界

自分自身を投入して忘れなければなりません。食口が全部で百人ならば、百人の食口の中で自分の息子、娘よりも良くない服を着ている人がいれば、寝ることができずにいなければなりません。与えなさいというのです。神様の心情、父母の心情がそうです。統一教会の主流思想は何ですか。父母の心情で僕の体を使い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流しなさいというのです。天とは何ですか。息子、娘を連れていく愛の世界なのです。愛をもって全宇宙の前に与えるのです。先生は神様を愛しました。霊界からここまで、そのすべてをよく知っているのです。

霊界は今まで未知の世界でした。その世界は、神様の存在原則のために生きた人間だけが行く所です。そのような内容によって形成された世界が理想天国です。


七百三十七
 
発展しようとすれば、どのようにしなければなりませんか。利他主義でなければなりません。統一教会は絶対に利他主義、「ため」に生きるのです。ここで分かれるのです。一方は地獄に落ち、もう一方は天国に行くのです。霊界に行けばそうです。霊界に行けばすぐに分かるのです。「ため」に生きた人間は、行く所を知っているのです。ですから、より「ため」に生き、「ため」に生きる聖人の思想を受け入れなければなりません。救世主の思想を受け入れなければなりません。神様の思想を受けなければなりません。神様の思想とは何ですか。絶対に「ため」に生きることです。


小さなものは大きなもののために投入しなければなりません。それゆえに、家庭は氏族のために犠牲になりなさいという論理です。氏族は民族のために犠牲になり、民族は国家のために犠牲になり、国家は世界のために犠牲にならなければなりません。国家財産を取って自分の家庭のものにする者は、みんな地獄に逆さまに差し込まれるのです。滅びるのです。ここで滅びなければ、霊界に行って逆さまに差し込まれるのです。


地上生活と天上生活は反対です。堕落した人々は、地上で自分のために生きていますが、霊界は全体のために生きるようになっています。堕落を否定して全体のために生きる人になることによって、神様の相対になることができるのです!永遠に「アーメン!」と言わなければならないのです。


霊界は、自分のために生きていく人には行くことができない所です。悪なる人とはどのような人ですか。一から十まですべて自分を中心として一元化するという人です。そのような人が独裁者、悪党なのです。そのような人は地獄に直行だというのです。統一教会では、それはいけないことです。個人は家庭のために生き、家庭は氏族のために生き、氏族は民族のために生き、民族は国家のために生き、国家は世界のために生き、世界は宇宙のために生き、宇宙は天宙のために生き、天宙は神様のために生きなければならないのですが、神様は誰のために生きるのでしょうか。

私のために生きるのです。


本郷の地に導かなければならない宗教であるゆえに、宗教は何を教えるのでしょうか。「ため」に生きなさいということを教えざるを得ないということを知らなければなりません。高次的な宗教であるほど、「ため」に生きなければならないという原則を強調しなければならないので、柔和、謙遜になりなさいというのです。なぜですか。多くの人を高めて、彼らのために生きる立場に立てというのです。犠牲、奉仕しなさいと教えるのです。なぜですか。それは、その国の法に合うことのできる人を訓練しなければならないからです。


地上で暮らしてから霊界へ行くのですが、高い所に行く人はみな他人のために生きた人です。世界の四十カ国ならば四十カ国を回りながら、そこと自分の母と家庭を拡大したという心情をもって「ため」に生き、世界の人々をすべて悪から救ってあげる聖人の心をもった人が高い所に行くのです。先生はそのように考えます。

「私は一人の男性として、歴史時代の孝子を代表した総帥であり、愛国者の総帥であり、聖人の総帥である。神様の息子として名づけられたすべての人々は失敗したが、私は勝利した息子、娘として生まれた」というのです。そのように言うことができるようにしてあげることがたった一つあるのですが、それが絶対に「ため」に生きることです。与えて忘れ、

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「ため」に生きて、それを忘れて生きる人だけが、その世界を消化できるというのが結論です。簡単なのです。 死を避けることのできる人は一人もいません。死を避けることはできないのです。ここで生きて死ぬのですが、自分のために生きる人は、この世界へ行ってぐるっと回って地獄へ行くのであり、他人のために生きた人間は、ぐるっと回って天国に行くのです。この二つの世界が死を境に分かれるのです。


今後は自分の財産を天のものとして捧げるための綱が、世の中でも長い綱になると考えるのです。ですから、すべて無一文の乞食になりなさいというのです。すべて捧げました。捧げるものは鼻水と涙と血しかありません。先生自身がそうです。捧げるものがないのです。生命と財産をすべて捧げました。皆さんに息子、娘のための預金通帳があれば、それは自分の息子、娘のために使わなければならないでしょうか、世界の救いの道のために使わなければならないでしょうか。そのような考えをし、そのような行動をしてこそメシヤと同等の立場に同席できるのです。

「ため」に生きなさいというのです。全体のために生き、より大きいもののために生きなさいというのです。世界のために生き、神様のために生き、人類解放のために生きなさいというのです。自分によって新しい血統に転換しなければなりません。


今後どのような競争が起こるでしょうか。お互いが「ため」に生きるということです。なぜですか。天国では「ため」に生きる人が高い位置に行くので、その高い人のために私が生きるようになれば、その人に乗ってジャンピングできるというのです。ケープ・ケネディに行けば、人工衛星の発射台があるのですが、ここで人工衛星が発射されて天に飛んでいくのと同じように、そのようになるというのです。


人のために生きることは、神様が創造して相対をつくったのと同じなので、その人の愛の対象圏に立つということです。そうでしょう。誰かに従って「ため」に生きることも、すべてそのためです。皆さんも先生のために生きるでしょう。先生のために生きることは、先生の愛の対象になってジャンピングして、神様を占領しようというのではありませんか。そうですか、そうではありませんか。人工衛星は目標物に向かって飛ばさなければならないでしょう。同じです。人工衛星が出てきたのは、今日、信仰者が跳躍して天国にどのように行くのか、何千万里、何万里をどのように行くのかということを前もって示すためなのです。


霊界はどのような世の中ですか。真の愛を中心として他の人のために生きる所が霊界です。自分のために生きるのではなく、全体のために生きるのです。この地上でも人のために生きる人は、一〇〇パーセント「ため」に生きる人は「私を踏んで越えていきなさい!」と言うのです。いくらアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領よりもっとその国の民族のために生きる人がいれば、その人が大統領を踏んで越えていってもみな歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを取るときは、みんな怨讐になるのです。


霊界に行っても同じです。より大きいもののために生きるときは、自然に通過するのです。より大きいもののために生きるようになれば、自然に通じるのです。ですから、世界



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のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれるのです。韓国も同じです。すべての国が含まれるのです。それでは、行くにおいて、家庭もただそのまま過ぎ、すべてが歓迎できる方向の内容とは何ですか。それは真の愛を中心として「ため」に生きていく愛の道しかないという結論が出てくるのです。


皆さんが五十年の生涯の中で、二十五年以上をこの宇宙のために生き、天倫に従って生きたとすれば天国に行くのです。そうすれば、あの世に行っていい霊界にとどまることができますが、自分を中心として生きたことが多かったとしたら、残念ですが善なる本郷の世界に行くのではなく、自分だけのために生きようとする悪なる本郷、地獄に行くというのです。そのような事実を知って、これから皆さんは、自分のために生きた過去の生活を清算して、余生を全体のために生き、国のために生き、世界のために生き、天地のために生き、神様のために生きなければなりません。そうすれば、ここから地獄ではなく天上の理想世界へと向かって進むことは間違いありません。


イエス様は死を目前にしても「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いました。死んでいきながらも神様に抗議するのではなく、お父様のみ旨がもっと大きいので、もっと大きい犠牲でも当然捧げるという姿勢でした。このような位置では、より一層深く入っていくことができるので、神様ともっと近い位置に入っていくのです。そのような人の前では、神様もどうすることもできません。そのような人を打つ人は、すぐ

に滅びます。神様が自ら制裁をなさるのです。


霊界(天国)とは、どのような所か知っていますか。「ため」に生きる人が行く世界が霊界です。自分のために生きる人は絶対に行けません。そのような人は地獄に行くというのです。有名な牧師だといってそこに行けるのかどうか、行ってみれば分かります。統一教会は怨讐まで救ってあげ、共産党まで救おうとするのですが、共産党はすべての首を切って統一教会をなくそうとします。これが違います。ですから、どのような愛がこの世界を支配しなければならないのでしょうか。私たちは共産党よりもっと強くなければなりません。悪なる人になって強くなってはいけません。「ため」に生きる愛を中心として強くなれば、世界を救っても残るというのです。

天国は与えて生きる所です。神様も、与えさえすればよいのです。親は、子女に与えさえすればよいのです。良いものを与えてからも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいのが親の心です。


百を与えて忘れることのできる神様の前に、私は千を与えても忘れることができるようになれば、神様が私の相対になってくださるというのです。このようなことを知っていますか。これは素晴らしいでしょう。主体と対象の関係が交換できるというのです。それでは、

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「私が一度善のために、神様以上にやってみて生きる」と言った人が地獄に行くでしようか、天国に行くでしょうか。天国に行って神様が暮らしている朝の食卓の召使になりますか、一緒に座って愛の御飯をお互いに分け合って食べながら生きることのできる位置に行ってとどまりますか。どちらですか。


霊界がどのようになっているかという事実に対しては、誰にも劣らない体験をしましたし、また霊界は私の専門的な分野です。霊界の秩序的な起源を調べてみれば、どのようになっていたでしょうか。「ため」に存在するようになっている世界が天国です。そこが私

たちの本郷です。


三) 天国は地上天国を経ていく所

今までの歴史上に神様の前に呼ばれた人々は、みんな五十代以上、六十代以上でした。年老いてやつれ、遠からず共同墓地に行くしかない人々、葬送曲を聞く日が近い者たちだったのです。そのような背後で神様は、今日このようにやつれてしまった老年層をつかんで摂理するのですが、今後は壮年層をつかんで摂理しなければならないので、彼らをつかんでどのように摂理を展開させるかを心配なさったのです。神様はそのような事情を抱えて歴史路程を歩いてこられたのです。


釈迦も神秘な境地に入って「天上天下唯我独尊」と言いました。修道しながら精神を統一して、霊的世界に入って神様の前に完全な対象の位置に入っていけば、「天上天下唯我独尊」という言葉が可能だというのです。先生が世の中をしっかりとつかめば、世の中がこの握りこぶしの中で溶け出すような思いが生じるのです。そのような境地に入っていくようになれば、奇跡が自動的に起こります。病気を治すことは信仰の付属物として自然についてくるのです。


今日大部分の人を見れば、一日の生活圏内で朝起きて御飯を食べるという習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じている人が多いのです。そのような人々は天国を所有できません。堂々とすることはできません。私を公認する相対的な要因がなくては、絶対的な信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服したのちにこそ成される天国が成し遂げられるでしょうか。とんでもないことです。なぜでしょうか。その場にはサタンがとどまっているからです。


今日、数多くの宗教人は、「天国は自分の宗教を通じてのみ成される」と言います。それはすべて妄想的な話です。多くの宗教がそれぞれ、「我が教主が教える教理を通じて天国が成される」と言います。キリスト教だけ見ても数十の宗派に分かれています。自分の宗派でなければ異端視してサタン視するのが現実です。その教団が神様から公証を受けてそのようなことを話すなら分かりませんが、ただ単に自分の宗派を立てて、自分の宗派を残すための欲からそのようにするなら動機が純粋ではありません。そのような宗団は、すべて滅びるようになります。もし統一教会がそうならば、統一教会から滅びなければなりません。


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霊的世界も塀ですべて遮られています。仏教圏があり、儒教圏があり、すべて塀でふさがれています。これをより高い神様の心情を通じてすべて取り除かなければなりません。天上世界の高い玉座から塀を壊して逆に下りてこなければなりません。何万年の私たちの先祖の塀から何千年の私たちの先祖の塀、何百年のこの時代の塀、何年前に亡くなったすべての人々の塀をすべて壊して、地上のすべての塀を壊して、これを地獄まで連結させ得る道を築かなければ、開天門が成されないのです。


統一教会の食口はどの水準にまでならなければならないのでしょうか。釈迦よりも立派な人にならなければならず、イエス様や孔子よりも立派な人にならなければなりません。今までの宗教の目的は、個人を救うことでした。しかし、統一教会は個人の救いよりも家庭を目的とするのです。統一教会が一般宗教と違う点がこれです。救うけれども家庭を救い、天国に行くにも自分一人で行かないというのです。


天国という所は一人では行けません。天国という所は必ず相対理想を決定してこそ入っていけるようになっているので、堕落人間が天国に入っていくためには、復帰の歴史、復活の歴史、再創造の歴史を経なければならないのです。皆さんを祝福してあげることは、天国の門をぱっと開けておくことです。「祝福」という名詞を立てて閉まっている天国の門を開けてあげることです。


「天国はあなたの心にある」と言われましたが、「天国はあなたの家庭にある」と言えなかったイエス様がどれほど哀れで孤独であられたかを考えてみなさい。それでも皆さんは家庭をもって幸福を謳歌しています。私たちには、そのようにできる瞬間もあるのですが、天下を救うための求道者の主人であり、神様のひとり子であられるイエス様が、このような環境天国の基地を夢にも見ることができず、「天国はあなたの心にある」と言いながら、心で天国をよみがえらせようとしている途中で、三年もたたずに十字架で亡くなったので、その方の生涯がどんなに孤独で悲惨かというのです。


地上天国と天上天国は、レールが同じで二つが合うのです。国境を越えれば、この世のレールとあの世のレールと合わなければなりません。それでこそ貨物列車が走ることができるのと同じように、地上と天上世界のレールが合うようになります。ここで走る愛の機関車を担った家庭が、ただそのまま天国まで、天の玉座の前まで直行できるレールを連結させるための道というものは、真の愛で「ため」に生きる道です。個人が行く道と家庭が行く道を、すべて連結しなければなりません。

方向が一致するのです。


七百四十二
 
私たちは、好きでも嫌いでも、いずれそこへ行くべき運命に置かれています。それが私たちの人生の道です。私たちは、そこに向かって旅人の道を行っているのです。それでは、ここで問題になることは、自分のために生きたのか、人のために生きる生活をしたのかということです。その差によって、すなわち人のために生きたことが多ければ天国に行くことができるのであり、その反対になるときには地獄に行くというのです。この原則はこの場では信じられませんが、死んでみれば分かります。 霊界に行ってみれば、人々がいろいろな段階の所にとどまっているのですが、その人々がどのようにしてそのようになったのでしょうか。愛の道理に従ってどれくらい孝行を果たしたか、どれくらい国に忠誠を尽くしたか、どれくらい世界で聖人の道理を果たしたかという度数の差によって該当する位置にとどまっているのです。人間がこの地で行くべき道は正道です。正道には、個人の正道があり、家庭の正道があり、氏族の正道があり、民族の正道があり、国家の正道があり、世界の正道があり、宇宙の正道がなければならず、神様御自身にも正道があります。このような、ただ一つの道がなければならないのです。その道がどのような道ですか。本然の愛の道です。


後にはどのような世界へ行くのでしょうか。地獄へ行くのでしょうか、天国に行くのでしょうか。皆さんは行きながら「先生!助けてください」と言う人になるのでしょうか、「先生!いらっしゃいませ」と言う人になるのでしょうか。死ぬか生きるかというのです。皆さんが結婚して仲良く暮らすというのですが、先生が仲良く暮らしなさいということは、変わらない夫婦になりなさいということです。変わらない夫婦になろうとするなら、変わる世界に行って一緒に修練を受けて、南北が分かれ、四方に分かれて暮らす世界に行っても分かれてはなりません。このように訓練された位置に立たなければなりません。


真の父母が生んだ息子、娘は偽りの息子、娘ではなく、真の息子、娘です。そこから真の家庭が出てくるのです。真の家庭が出てきて、真の氏族が出てきて、真の民族が出てきて、真の国が出てきて、真の国が出てくることによって真の世界になります。その世界では、神様を中心として家庭で天国生活をして、氏族で天国生活をして、民族で天国生活をして、世界で天国生活をしなければなりません。そうしてこそ、この地が地上天国になるのです。この地上でそのように暮らしてから肉身を脱いで永遠なる天国に入っていけば、そこが霊界の天国だというのです。これが神様の摂理の概観です。


皆さんは、「天国に行こう」と考えてはなりません。地上に天国を建設しようと考えなければなりません。天国を建設する前に皆さん自身が先に天国人にならなければなりません。天国人になろうとするなら、「お父様の心が私の心であり、私の心がお父様の心だ」と自信をもって言える程度にお父様と心情一体を成さなければなりません。それで、地上でお父様の心に代わり、主と先祖の心に代わらなければなりません。そうしてこそ、歴史

的なあらゆる問題を解決できるというのです。


七百四十三
 
死にながら「神様、私は今まで神様のみ意のままにできませんでしたが、私の心では天国に行こうとしました。ですから私を蕩減条件を立てたものとしてください」と言えば、神様も公平であるので、そのような人は天国へ行こうとする位置に置いておくというのです。どのような位置に置いておくのでしょうか。行こうとしたので、天国へ行こうとする位置に置いておくのです。言ったとおり返してくれます。行くことは行くのですが、天国へ行こうとする位置へ行きます。その場は楽園以下の位置であり得るのです。地獄にいる人も天国へ行こうとするというのです。 「統一教会は、ただこのように集まって別れる所だ」と言うでしょうが、そうではありません。ここで線を引けば、永遠に引かれるのです。この門を閉めれば永遠に開ける者がいないし、開ければ再び閉める者がいません。地で結んだことは地で解かなければならないがゆえに、皆さん自身が結んだことは、皆さん自身が解かなければなりません。これが問題です。それゆえに、皆さんが伝道をするにおいて、これからは他の所に行って伝道するなというのです。


「二十億の人類の愛の結実である実体を、私を生んでくれたお父さん、お母さんよりももっと愛し、四十億の人類を私のお父さん、お母さんよりもっと愛する」と言えば、神様の愛の圏を中心として一つになったという立場で人類を愛することができるために、私は

サタン世界とは無関係な立場に立つのです。


堕落しない本然の人間として、サタンと関係がない人間として、理想的夫婦の愛を中心として家庭を築き、暮らしてから天国に直行できるようになっているのが本然の人間です。それで地上天国というのです。地上天国は天上天国を受け継ぐのです。それゆえに、ペテロに天国の門の鍵を与えたとはどういうことかといえば、天国を成すことのできる道が地上にあるというのです。はっきりと知らなけ

ればなりません。


四) イエス様と楽園

堕落がなかったならば、天国はひとり子、ひとり娘が神様の愛を中心として神様の家庭を築き、神様の愛で暮らして引っ越して行く所です。天国は家庭が入っていくようになっています。個人は天国に入っていけないというのです。イエス様は家庭を成せないことによって天国に入れず、天国の待合室に行って待っているのです。それが楽園です。楽園は、天国に入る準備をするための待合室のような所です。


イエス様は、血族を通してそれを成し遂げることができませんでした。それゆえに、イエス様が再び来てこれを解怨成就しなければなりません。そうでなければ天国に入れません。天国を開ける条件とはどこにありますか。地にあります。したがって、イエス様が天国の鍵を地に残していきました。イエス様と十二弟子が家庭を成し遂げることができなかったので、今日、統一教会で祝福家庭を通して七十門徒、百二十門徒の家庭を再び探し立てなければならないのです。それでこそ天国が開きます。


キリスト教で言うように、イエス様を信じて天国へ行けると思いますか。イエス様御自身も相対理想を成せなければ行けないのです。神様も成せなかったのに、イエス様一人で真の愛を成すことができますか。ですから再び来なければなりません。それなら、雲に乗って来るのでしょうか。今では、現実的内容をすべて目で推し量ることができ、測ることができるこの民族が私についてくるようになっています。


七百四十四
 
今日のキリスト教を信じる人々は、「イエス様を信じれば救われて天国へ行く」と言います。「天国へ行くのも自分一人で行く」と言うのであって、「自分のお父さん、お母さんと一緒に行く」と言う人は多くありません。今後、宗教は個人のみの救いであってはなりません。神様が立てておいた真の宗教ならば、宇宙的で後まで残り得る宗教にならなければなりません。人類が望む 後の宗教があるならば、その宗教は「個人のみ天国へ行くことがみ意」とは言わないでしょう。天国を個人にだけ紹介してはなりません。お父さん、お母さんにも紹介しなければなりません。そのように紹介して族長までその内容を知るようになれば、一度についていくようになるのです。


イエス様がどうして天国に入れなかったのでしょうか。天国は堕落せずに生きた者が入っていけるように、神様が人間に対して造ってくれたのです。人間は、本来の原則的な基準に立ってこそ天国に入っていけます。したがって、イエス様御自身も堕落した人間を救って、堕落しない人類の父母であるアダムとエバの位置で息子、娘を率いて入らなければならないのです。しかし、イエス様は一人で来たので子孫がいません。いないので楽園に行くようになったのです。天国に入ることができず楽園にいるというのです。天国に行くための待合室のような所に行っているというのです。


天国は空いています。これを考えれば神様の復帰摂理が、悲しい復帰摂理の歴史であるというのです。神様がアダムとエバを失ってしまいました。二人を失ってしまっただけで終わるのではありません。アダムとエバを失ってしまったということは、アダムとエバの一族を失ってしまったのです。その一族が拡大して民族になり、一つの国家を成し、一つの世界へ拡大されたはずですが、失ってしまったのです。ですからアダム一人を失うことによって、天国の王権を中心とした王国を失うようになり、天国の民族を失い、天国の氏族を失い、天国の男性、女性、ひとり子、ひとり娘まで失ってしまったのです。


本来、霊界は家庭が入っていかなければならないのですが、家庭がありません。イエス様も夫婦生活をしていない独身です。聖人の孔子、釈迦、マホメット、王たちはどうだったのでしょうか。すべて天使長圏の子孫なので、独身生活です。相対理想がありません。このようなことを話して、無知で知らない人がどんどん知って、自分が王のようになるという非法的なことが起こってはなりません。王になるなら真の愛でならなければなりません。自分が人のために生きなければならないのです。


神様は人類を救うために宗教を立てて摂理してこられます。それゆえに、高次的な宗教であるほど、その本郷のみ旨と本郷の原則に一致する教訓を言わなければならず、「犠牲になりさい、奉仕しなさい」という勧告をせざるを得ないというのです。このように、神様が歴史と宗教の背後で摂理しているという事実を否定できません。このような原則について見ると、「ため」に生きようという宗教は発展できますが、自分を中心にして世界に問題を起こしながら主体的な立場に立とうという宗教は下がっていくという結論も、ここで出せるのです。


七百四十五
 
聖書に「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)と記されています。ここに引っ掛かる人は天国に入れません。二つ目の戒めは何ですか。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同二二・三九)と言いました。神様を第一に愛し、

隣り人を第二に愛する人が孝子になるのです。


イエス様に従う弟子たちは、イエス様がローマ帝国を一時に占領してイスラエルの王に君臨すれば、自分たちは一席ずつ占領することができると思っていたのです。そのようなことが問題ではありません。まず私の心の中で天国の基盤を築かなければなりません。その心を中心として体が神様と一つになり得る基盤を築かなければなりません。これがも大きい問題なのです。結局は、私自身から始まるのです。したがって、天国の拠点は私の心だというのです。


神様は仲むつまじくすることを喜ぶのですが、荒々しく激しくてはいけません。神様が仲むつまじくする時は仲むつまじくしなければなりません。内外が合わなければならないのです。このように内外だけ合えば、それでよいのでしょうか。その次は、神様のみ旨と一致することをしなければなりません。そうするならば心に何もないことがあり得るでしょうか。体が嫌がることがあり得るでしょうか。心と体が喜ぶことをしなければならないのです。神様が存在するなら、神様が喜ばれることがあるというのです。またイエス様が神様の息子ならば、イエス様もそのようなことを喜ばなければなりません。 神様を愛さずにはサタン圏内を抜け出すことができないのです。それゆえに、自分の妻よりも、自分の夫よりも神様をもっと愛さなければなりません。堕落した人類がサタン圏内の愛のわなから家庭の位置まで出てきましたが、まだ完全に出てくることはできませんでした。ゆえに自分のお父さん、お母さんを

神様よりも愛してはいけないというのです。


霊界に行ってみれば、昔殉教した信徒の中で「私がこのように殉教してこそ天国に行くことができるだろう」と言った人は、天国に行けなかったというのです。反面「父なる神様が私を探すために受難の道を歩んで来られ、血を流された。主の恩に報いるためにはどのような道でも行く」と言って、「その恩に報いることのできる位置に私が共に参席できる栄光の一時を迎えられたことがどんなに有り難いことでしょうか」と言って死んだ人は、間違いなく天国に行ったのです。そのような人は自分のために生きて死んだのではなく、天地のために死んだのです。「私がこのように信じて死んでこそ天国に行く」と言って死んだとすれば、それは自分のために生きて死んだのです。堕落した人間は、自分の主張をしては絶対に天国に行けません。


五) 地獄は神様の愛と関係ない所

七百四十六
 
堕落とは何ですか。堕落したがゆえに、真っ暗な夜中になってしまったという結論が出てくるのです。天国へ行くことのできるチケットをもらうべきなのに、地獄へ行くチケットをもらったというのです。それを実感するでしょう。天国へ行けるチケットが地獄行きのチケットに変わってしまったのは、堕落のためだというのです。


地獄とは何ですか。神様の愛と血統と生命、神様との因縁がない所が地獄です。


地獄は、すべて遮られてしまって自分一人でいるのです。すべてのものを慕いながらも、何もできないのです。直感的にこの宇宙の膨大な幸福圏をすべて見て感じることができるのに、全然身動きができないでいるのです。それで、レバレンド・ムーンがすることとは何ですか。このような世界的な思想を中心として天地を愛し、神様を愛する運動をするのです。これは、皆さんが未来に霊界にもって行くべき道を今から準備させるのです。このような準備をするということは偉大なことなのです。


霊界は無限の世界です。私たちを包容する故郷は、そのように大きいというのです。永遠な故郷、霊界は本当に巨大な所です。霊界が好きですか。どんなに大きいか分からないというのです。その世界を活動舞台とするのです。その心が世界的になって、宇宙的であればそこに拍子が合うのであって、個人主義では駄目だというのです。個人主義は全体と通じることができないので、どれほど地獄でしょうか。鷲を捕まえて、汚い穴に動くこともできないように閉じ込めておいて、えさだけ与えるのと同じだというのです。鷲はアメリカを象徴する鳥でしょう。食べるものだけ食べて生きるとすれば、どんなに悲惨でしょうか!それが幸福ですか、不幸ですか。悲惨なのです。

自殺することは罪の中の罪です。宇宙を破綻させるための邪悪な行動です。そのような人

は地獄の中の地獄に行かなければなりません。


皆さん十分の一の鼻の穴、十分の一の口で息を吸って生きると考えてみなさい。それが地獄なのです。地獄はそれと変わりません。変わらないというのです。受けたい時に受けることができず、与えたい時に与えることができないのが地獄です。皆さん、息を吸いたいとき、空気を吸いたいとき一度我慢してみなさい。何分我慢できるでしょうか。息を吐きたいとき吐くことができず、吸いたいとき吸い込むことができなければ、どれほど我慢できますか。それが地獄です。


霊界では神様の愛がなければ食べることができません。食べる権利がないというのです。地獄は見ながらも食べることができない所であり、知っていながらも行くことのできない所だということを知らなければなりません。それゆえに、神様の愛を中心として霊界と肉界が一つになり得るこのような価値的な中心を立てておいて、地上で霊肉が一つになった天国生活をした人以外には永遠な理想的世界をもつことができないのであり、天国を所有できないということを知らなければなりません。


七百四十七
 
あの世に行って何をするのでしょうか。食べるでしょうか、食べないでしょうか。食べれば良いでしょうか、食べなければ良いと思うでしょうか。それでは食べるのに何を中心として食べますか。愛を中心として食べるようになっているために、愛をもっていない人は行って食べようとしても口が開かないのです。それが罰です。 世界も混乱しています。それでは、霊界はどうですか。混乱した人間像が霊界に行って集まっているので、霊界は混乱せざるを得ないのです。盗みも習慣になれば、いつも盗みをするものです。ですから、地上で盗みをしていたならば、天上世界に行ってもただを願います。それで、処置が困難なので地獄というものが生じました。地獄は神様がつくったのではありません。ごみ箱を作っておいてから家を建てるのではありません。家を建てて暮らしてみると、ごみ箱が生じました。同じ

です。既成教徒はみんな根本を知りません。


地獄とは何かというと、廃物収集場所です。廃品収集場所なのです。神様の愛とは関係がなく、すべて偽りの愛で出発した全人類は、みな地獄へ行きます。それで、天国に行く人は、神様の愛と心と体が一つになり、夫婦が一つになり、子女が一つになって神様の愛を中心として神様のように生きた人間です。神様も心と体が絶対的に一つになっているのと同じように、男性や女性やその家庭全体の家族が心と体が絶対的に一つになることによって、主体なる神様の前に、その家族が対象として一緒に暮らし、この地を離れて霊界へと移動していくのです。


地獄に送る神様が絶対ではありません。霊界に行けば、自分で地獄に行きます。邪悪に生きた人は、善なる所に行けば呼吸が合いません。呼吸できなくなります。ですから、仕方なく自分に合う所を探さなければなりません。地獄の暗い所に行って「おお、ここだな」と言うのです。そこが地獄です。私のような人は、「地獄へ行っていなさい」と言われても、いることができません。呼吸が合いません。私がかぐにおいが違い、味を知っているのに……。地獄に誰が送りますか。そのような神様ではありません。地獄は自分が訪ねていくのです。


天国に行けば、地獄にも思いのままに行ったり来たりできます。皆さん、霊界で制限される人になりますか、自由天地に解放された人になりますか。皆さんの横にいる人を「ああ、この人は天国の門番だ。番人だ」と言いながら、その門を通過するために訓練しなければなりません。「その門を通過しなければならないのですが、あなたが門番ですね。あなたの心をとろけさせ、あなたを感動させ、私が入っていく時、案内してもらえるようにします」と言わなければならないというのです。


地獄とは何かといえば、未来がないというのです。天国には未来があるのであり、地獄には未来がありません。天国に入ったならば未来があるのです。堕落はどこから始まったのでしょうか。堕落とは公的な意味の未来をもたない位置から、自分だけが中心となったところから始まったということを皆さんは知らなければなりません。「私のために生きなさい」という道は地獄であり、「人のために生きなさい」という道は天国です。このような概念がはっきりと生じるのです。


七百四十八
 
気球があるでしょう。水素を入れれば、ゆっくりすっと上がっていきます。上がっていくのですが、それがどのくらい上がっていくでしょうか。初に上がっていく時は、無制限に上がっていくようですが、上がっていくには限界があるのです。自らの重さと均衡が取れる所にとどまるのです。自分と同じ同類の空気圏内にとどまるのです。霊界も同じです。欲深い人は下がっていくのです。重いというのです。ですから、地獄という所は重い者たちが集まってぶつかるのです。そのようになっています。


もし霊界に白人と黒人が行って、白人が天国に入っていく時、黒人の番人を立て、黒人が天国へ入っていくとき、白人の番人を立てたとすればどうするでしょうか。後ろに戻りますか。では、どうしますか。行けないと悪口を言って殴れば「私を殺してください。昔は分からなかった」と言いながら、ただ取りすがって「助けてください!」と、このように頼みますか、逃げますか。自分が生前、黒人たちに反対したことの何千倍、何百倍生き地獄でしょう。私が神様でもそのように番人を立てます。


皆さんは、宇宙からどこにも行くことができないのです。どこかへ逃げる、そのような所はないというのです。自分の思いどおりに逃げることができないのです。宇宙の法と秩序圏内から抜け出せない人間だということを知らなければなりません。道に従って行かなければならないというのです。

皆さんは愛の秩序、人倫、家庭、社会、国家、世界、天宙、神様、全体を通じることのできる公式的な憲法基準を中心とした、宇宙法の治下に生きている自分自身だということを知らなければなりません。自然をはじめとするすべての法が支持し、擁護して、解放圏をもてる道は、愛して「ため」に生きる道しかないという事実を知らなければなりません。地獄までも……。統一教会の食口は地獄の観念がありません。地獄があるという事実を知らなければなりません。愛のバーナーをもって行くその道を行くことができなければ、もっとひどい、もっと怖い地獄があるという事実を知らなければなりません。それを分かったでしょう。法廷に立って勝利する皆さんになるように願います。


「私的なこと」と「公的なこと」という言葉は、はっきりしているのです。公的なことは、大きなもののために生きることです。私的なことは、自分を中心にするのです。自分を中心にすることは地獄と通じるのであり、公的なことは天国と通じるのです。


統一教会の食口は安物ではありません。聖書を抱えて礼拝に行けば天国へ行き、いくら献金すれば天国へ行くと考える、そのようなつまらない群れではありません。それはつまらない群れです。そのようなひどい群れではありません。信じたなら、ひたすら後まで信じるのです。どのくらいすごいかといえば、自分が死のうと生きようと、夫がつかんで行けないようにしても離婚も辞さずに信じるというのです。そのようにものすごいのです。 神様がそれを見て、「おい、お前は離婚して私についてくれば、お前を地獄に送る!」と言われますか。離婚をしてでも、け飛ばしてでも正しい道を行くという時、神様が「お前は離婚することをよく決心したな」と言われるでしょうか。どのように言われるでしょうか。一度答えてみてください。


今苦労するのは天国の自由を求めるためです。地獄までも天国につくるためです。地獄に行って裁判長のようなことをしても、地獄で懲役生活をした人たちがみな「あなたはす



七百四十九



べて経たので讒訴することができない」と言うでしょう。この位置に降りてくる時、高い位置から一段階降りてくる時、世の中ならどんなに大騒ぎするでしょうか。「私がなぜそこに行くのか。私がなぜ行くのか」と言うでしょう。それは兄弟社会ではあり得ないことですが、父母の心情圏でのみ可能なのです。この上なく高い神様が、地獄のどん底まで降りてくることができるというのです。これが父母であり、真の父母です。自分の顔に傷ができ、体がどのようになってもそのようにするのです。


目をむいて「酒を飲んではいけない。この者たち、滅びなさい!」とこのように言うならば、どれほどいい加減な者たちでしょうか。そこには余裕がありません。こうしたキリスト教徒たちを見れば、ばからしくて私はうんざりします。「聖句のマタイ福音書何章に引っ掛かった。あなたは地獄に行きます」と言うのを見れば、えい、この者たち……。人を殺しても、国を生かすことができれば、国を生かすことのできる道のために人殺しを釈放する法がないと思いますか。この者たち!


あなた方はそれを考えるのです……。このように成長すると……。あの尾根にある大理石の間に根を下ろしたあの小さい松、そこには通りすがりの犬が来てもおしっこもできないのです。陰があってこそおしっこをします。おしっこをするのは恥ずかしいので、犬もどこかに行ってくっついてするのです。それは人間よりましです。そうなのです。陰に行ってするのです。なぜですか。人が見るといけないからです。 天国へ入っていくのに一番の問題とは何ですか。自分が怨讐だというのです。地獄やサタン世界は自我覚醒から生じたのです。天使長が自分を中心として考えたというのです。深刻に考えたというのです。逆賊とは何ですか。自分を中心として国と主権者を越えて考える人を「逆賊」と言うのです。自分を中心として上がっていくその頂上は、すべて逆賊の道と通じるのです。地獄の道と通じるのです。人間自体において敗亡の道と通じるのです。自分を中心とするこの基盤は、死亡と通じるのです。


自分が愛を受けるということは地獄へ行く道であり、サタン側です。私が愛するということは天国へ行く道であり、神側です。確かだというのです。そのような愛が世の中には一つしかありません。父母の愛一つしかないというのです。子女が「受ける」と言わなくても、しきりに愛するのが父母の愛です。堕落したけれども、父母の愛を通じたその道だけは残っているというのです。神様がそうですから、神様が父母になるので、そのような愛が人間にも残っているというのです。


750 * 七百五十
 
皆さん、終着点とはどこですか。どこに行ってとどまるのでしょうか。レバレンド・ムーンは、あの世の霊界に行ってすべての愛の極点にいるでしょう。北極、南極と同じように愛の極点に……。中間でいくら探しても、いくら歩き回ってもレバレンド・ムーンはいないでしょう。いないから「レバレンド・ムーンは地獄へ行った」と言うでしょう。それが易しいことでしょうか。「愛の火だるまのように北極でも凍え死なない」これが素晴らしい理想であり、素晴らしい思想ですか。それならば、すべて成し遂げました。神様も私の中にいます。また世界の人も私の中にみんないます。愛の相続を受けるという人は、私の一族です。それは気分が悪いですか。


神様が地獄に行けば、地獄の悪魔まで頭を下げるのです。神様の前には頭を下げるのです。サタンも絶対的な愛には反対できません。神様は地獄に行っても地獄が順応しなければなりません。地獄も神様の所有なのです。神様が行けば、地獄が門を全部公開しなければならないのです。簡単な内容ですが、このすべての存在の作用の原則がこのようになって

いるということを知らなければなりません。


心には境界線がありません。神様を考えてみなさい。神様の心には境界線がありません。それゆえに、神様はどこにでも行けます。神様が天国に行きたければ、天国に行くのです。神様が地獄に行きたければ、地獄に行けるのです。どこにでも行けるのです。それは神様の心の中に境界線がないという意味です。


服がいくら良くても、死刑場に行く時に着る服はこの上なく嫌なのです。しかし、いくら良くない服でも、妻が愛のみ手を通して作ってくれた服は、限りなく光るのです。愛という内容を中心としたすべてのものは、神様がどこでも歓迎するという結論が出てくるのです。地獄に行っても愛のために地獄に行ったとすれば、神様もそこに共に行くことができるのです。ここに愛の地獄をぴたっとつけておけば、どうですか。気分が良いですか、悪いですか。地獄でも、愛の地獄ならどうですか。地獄に行っている人が「この!」と、このようにしていても、「愛の地獄!」とこう言えば、「ほう」と言うのです。それ、分かりますか。そうなると思いますか。


愛する人のために監獄に入っているのであれば、そこは監獄ではありません。愛する人をもっと光らせ、もっと深く因縁を結ぶようにしてあげる場所になるのです。それゆえに、真の愛というものは、高さは神様まで、深さは地獄まですべてコントロールできるというのです。それでは、この愛は人の世界でのみできるのでしょうか。違います。万物世界、すべての動物世界もそうであり、地もそうであり、植物もそうであり、すべて愛の歌は好むのです。

皆さんが朝起きた時、鳥がお互いに愛する歌がいいですか、闘う歌がいいですか。愛する歌がいいのです。この宇宙では、真の愛をもった所には境界線がありません。境界線がなくどこにでも通じることのできる内容があり、神様と地獄までもコントロールできる内容があるために、どこでも境界線を押し倒していけるそのような力があるという事実を皆さんは知らなければなりません。


愛が宇宙を存在させる柱になったのと同じように、これが地獄を成す柱になっているという事実を知らなければなりません。このようになったのを直すのは、どれほど大変でしょうか。何百パーセント強い漂白剤で細胞をすべて洗っても、これが根源になっているので、また染まるのです。


七百五十一
 
真の愛の力だけが一〇〇パーセント一つにできます。「真の愛」と言えば、神様も「うん」と、地獄にいるサタンも「うん」と、世の中もすべて「うん」と言うのです。何の力が一つにさせるかといえば、真の愛の力が一つにさせるのです。「先生のその話は違います」と言う人がいますか。


高の頂上の神様がいらっしゃる所と、地獄のもどん底にいる人間世界の間に、ケーブルカーを置こうというのです。そのケーブルカーの綱は何の綱ですか。お金の綱はすぐに全部切れてしまうというのです。お金の綱では駄目です。では、知識の綱でできますか。権力の綱でもできません。上下を超越した愛の綱をもって、その綱にケーブルカーを連結しなければなりません。


クァンデノルゥム(注:陰暦一月十五日にする全羅道の民族祭り)とは何ですか。クァンデは遊んだり踊ったりするのです。その時に行って踊ることができなくても、リズムは取らなければなりません。「ああ、統一教会の教主としてそれにリズムを取れば地獄に行く」というそんなつまらない神様ではありません。神様は、とても傑作な神様なのです。神様がそのような犬の足のつめより小さく、ありの前足のように心が狭い神様ではありません。口を開ければ空気をすべて吸い込んでも余るほどの偉大な神様であることを知らずにいたのです。


神様の摂理から見ると、霊界に行っているこの人たちはみんな地獄に送って、その残りの人だけ救援摂理をするでしょうか。神様が真の意味の愛であられるならば、その愛の限界はどこでしょうか。このように反問すれば、その地獄の限界線まで越えた救援摂理の完成を願う神様ではないでしょうか。このような答えが出てくるようになるのです。 人間の心は固い石ではなく、氷なのです。そこにはありとあらゆるがらくたが一つになって凍りついたというのです。これを溶かして、がらくたはみんな片づけてきれいな氷の塊を作ろうというのです。きれいな水で氷の塊を作って神様が召し上がることのできる氷にしようというのです。「氷の中にはサタンが好むことのできる氷があり、神様が好むことのできる氷があるが、神様が好むことのできる氷になってみよう」と、そのような考えをしてこそ、地獄の氷の塊から天国の氷の塊

に復帰できるのです。


六) 天国と地獄は自らが選択する

天国へ行くか、地獄へ行くかは自分自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのでなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言いたい時に感謝していけば天国だというのです。


神様は猜疑心や嫉妬が深くて地獄をつくったのではありません。偽物が生じたので、偽物を処理する処理倉庫として地獄をつくったのです。誰がごみ箱を先に作って家を建てるでしょうか。キムチを漬けようと良い白菜を買ってきたのに、漬けてみると虫の食ったくず葉のようなものが出てきたので、ごみ箱に入れるようになるのです。堕落は人間始祖が犯しました。それゆえに、これを蕩減して罪を清算するためには、真の父母の資格をもってこそ可能です。


七百五十二
 
今まで人間世界に生まれた人には、神様が救うことのできる条件が一つもなかったので、みな地獄行きでした。虫が食べてうじがくっついたので、豚にでも食べさせて、ほかに使おうかと思って仕方なくもっていって保存した所が地獄です。地獄と楽園があるのです。このように言えば、天国は空いているという話を実感できます。


堕落の血統を受けて生まれたその日から今日まで、全世界の人類が心を尽くして神様に侍った一日があったのかといえば、ありませんでした。堕落する前に私たちの先祖アダムとエバは、創造理想を通して育ちましたが、心情の因縁を立てて神様に侍ったことがなかったというのです。


地獄とは何ですか。神様の愛と血統と生命、神様との因縁がないことが地獄です。いくら地上でよくやり、いくら地上で努力したとしても、神様を中心とした天国とは関係を結べない地上世界になりました。これが地上の悲惨さであり、悲痛だというのです。


神様の恨とは何ですか。心情を中心として神様に侍るべき人間が、侍ることのできない位置に落ちたことです。心情を中心として侍られるべき神様が、侍ってもらえないのです。信じる者がいないことが恨ではありません。神様を知る者がいないことが恨ではありません。心情を通して神様に侍り、心情を通して神様に対することのできる人がいないことが天と地の恨です。


自分を憎まなければならないのです。この体を憎まなければなりません。私の体に怨讐の血が蠢動するのですが、これを刀で切ることもできず、燃やすこともできない私自身で

あることを知らなければなりません。神様の保護を受けることのできない位置に立って、万物を消化して消耗する消耗工場になっているという悲痛な事実を知らなければなりません。


天国と地獄がどこから分かれるかといえば、聖書をよく知り、弁がよく立つことによって天国と地獄が決定するのではありません。実績と心情が問題になるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線に左右されるのです。


あの世に行くようになれば、愛の理想に符合できる素性を訓練して備えることができなかった時には、反発作用が及んできます。誰かが「地獄に行け」とは言いません。それゆえに、聖書では「怨讐を愛しなさい」と言いました。真の愛は、怨讐にその愛が及んで一次、二次、三次、四次さえ過ぎるようになれば、怨讐は必ずなくなります。このような偉大な力をもっているので、イエス様も「怨讐を愛しなさい」と言ったのです。


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人間が地獄で死んでいくのを見れば、神様は永遠に生かしてあげようととても気をもむのです。そうであってこそ天の父母の立場で責任を全うするのであって、「えい!みな掃き捨てよう」と言えば、父母の立場に立てないのです。それゆえに、地獄まで解放しなければならないという論理が成立します。 息子が自分を生かすために気をもむ父母の情景を見れば「私のお父さん、お母さんが私のためにあのようにしているんだなあ」と思い、計り知れない罪をすべて悔い改めるようになります。そのようなお母さんがいて、お父さんがいるならば、その子女は骨が溶けてやせるほど悔い改めるようになるのです。父母によってそのようにすることができる道が生じるというのです。


サタンも人類を救援しようという神様の愛の前では讒訴できません。父母の愛を通して悔い改める者を許せないという道理はありません。そのような心情を通して地獄までも解放しなければなりません。それが真なる孝子として行くべき道ではないでしょうか。それで、統一教会では地獄までも救援してあげると主張するのです。なぜでしょうか。それは神様がそのような方であられるからです。


地獄という所は、一度はまれば永遠に脱け出せない所です。それでも、皆さんは自分のお父さん、お母さん、そして親戚が地獄に行くということを実感できません。ただ「どうにかなるだろう」と思って、それでおしまいです。しかし、愛する父母が本当に地獄に行くと考えてみなさい。この世の監獄にさえ入るとなると、泣いたりわめいたりしながらありとあらゆることをしてでも引っ張り出そうとするのが人情であるならば、まして天情によって結ばれた息子、娘が、自らの父母と親戚、兄弟と姉妹が永遠に出てくることのできない監獄に行くということを知れば、そのような考えをするでしょうか。


三 霊人と地上人の関係
一) 霊界は善の霊界と悪の霊界に分かれている


今まで霊界に行った霊人たちは、みな分かれています。霊界では横的には通じません。

縦的にはこの程度で通じるのです。 霊界は二つの群れになっています。霊界はサタン世界と神様の世界になっています。霊界のサタン世界から善なる神の世界へ早く行ける道さえできれば、地上は自然に解決するのです。その道はどのようなものですか。霊界のサタン世界に行ってサタンの個人、サタンの家庭、サタンの氏族、サタンの国をすべて神側に引き継ぐ秘法さえもてば、それが可能だというのです。霊界にそのような時が来れば、地上にもそれが反映されるので、すべての変遷が速く、その世界へ転がって越えていくというのです。


霊界がどのように発展し、どのように動いてこの地上と関係を結んでいくのかという全般的な内容を知らなくては、霊界をはっきりと知ることができません。霊界といえば、善の霊界と悪の霊界、このように二つに分けることができます。その世界は実在する世界です。地上世界の人には分かりませんが、そこは確実にある世界だというのです。


霊界は、様々な部類の役事をもっています。ところが、その霊人たちは思いのままにここに来て仕事をすることができません。遮られているというのです。それで、宗教によって橋を架けないと特定の人以外には再臨できません。ユダヤ教の中でも派閥が生じました。霊界から降りて来る時、その主流が直線ではありません。ユダヤ教の別の系統が精誠を尽くせば、その主流が移されて行ったり来たりするというのです。

七百五十四
 
ですから、霊界にいる人が降りて来るには、直線に該当する人以外には降りて来ることができないというのです。再臨の役事の協助ができないというのです。そして一世紀がたてば、その人も霊界に行くのです。霊界に行って次の時代に来ようとすれば、やはりこのような原則で降りてくるのですが、特定の霊人

以外には降りてくることができないのです。


霊界の塀はだんだん多くなります。ますます複雑になります。その次の世代がみな霊界に行くのです。それで、ますますこれが大きくなるのです。これがすべて壁です。今の時は世界的時代です。どんなに複雑か考えてみなさい。ここでこれを探してこようとすれば、どんなに回りに回ってこなければならないのか考えてみなさいというのです。ですから時になったら塀を押し倒さなければならないのです。霊界から降りてくる道と入る道をつくっておこうというのです。これを統一教会がするというのです。


神様の本然の理想世界、本然の人間が行くことができる理想的な善の圏に向かって行くにおいて、善霊はそこに前進しようとし、悪霊はそこをふさいでいるのです。悪の霊界と悪の世界というのは、いつでも通じるのです。いつでも連絡がつきます。善霊は悪の世界で対立して反対される位置で生きた霊です。それは宗教を信じて逝った霊人です。


霊界でも、善の霊人と悪の霊人が闘争しているのです。霊界にも闘争があるというのです。善霊は悪霊を先導して、良い所に行けないようにするのを遮ろうという闘いを続けています。サタンを中心として悪霊が連結しているのですが、その悪霊の統治圏内に今日地球の人間が生きているのです。なぜでしょうか。今まで逝った先祖は善霊でも悪霊でもすべて霊界に行っているために、その善霊も堕落した世界と区別されたという条件をこの地上で立てて善の方に立っているだけなのであって、神様が御覧になる時、完全な善の位置に立っていないというのです。


あの世に行けば人を殺した者、殺された者、もろもろの人が一箇所に集まっているので、そこでは刃物で相手を脅かしたり、復讐しようとすることも起こるのです。ですから、数多くの塀でふさがっているのです。それゆえに、悪霊が怨讐の子女を訪ねていって事故に遭わせて連れていったりするようなことが起こるのです。これをすべて解かなければなりません。これを解くためにはまず地上世界で解かなければなりません。解くにはもっと良いものを与えなければなりません。死ぬことよりもっと良いもの、怨讐関係になったことよりもっと良いものを与えなければ解くことができません。


イエス様は、この地上において十字架で死んだことだけでも無念なのに、死んで三日間地獄に行きました。それが試験です。人間には死が高の恐怖ですが、イエス様には地獄に行くことが 高の恐怖であるというのです。それでは、イエス様はその地獄で恐怖の主人になったのでしょうか、でなければ幸福の主人になったのでしょうか。イエス様には地獄に行って三日間苦痛を克服するための試練がありました。


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何をもって霊界を解放して、神様を解放するのでしょうか。このような関係は人間の先祖が成し、天上世界までめちゃくちゃにしたので、子孫は先祖の過ちを償わなければなりません。真の孝子になろうという子女なら、父母が負った負債を返さなければならないのです。そのような意味で霊界にいる先祖のふさがった塀を崩す運動をしなければなりません。そうすることによって先祖が訪ねてきて皆さんに教えてくれるようになります。これは夢のような事実です。


二) 霊人たちの霊界での立場

肉的世界はサタンの活動舞台であり、霊的世界は神様の活動舞台になって、いつも行き違いになってきました。これが復帰摂理時代に恨の要件として残っていることは間違いない事実です。これが行き違いになるようにしてはいけないのです。神様を中心とした心の圏と神様を中心として統治を受ける体の圏を準備しなければなりません。生活圏内でこれをどのように発展させるかで、統一基盤の基準が確立されるのです。


統一教会が統一するためには、霊界から統一しなければなりません。皆さん、霊界を知っていますか。私たち統一教会の群れは霊界を知らなければなりません。霊界を統一しなければなりません。霊界を統一することは易しいと思いますか。霊界の統一なしに地上の統一はありません。今日、この地上の闘いは、本当に大変でしょう。地上の闘いが大変です。しかし、霊界の闘いは地上の闘いよりもっと大変です。このようなことを考えると、今日統一教会の食口は、難しいという形容詞を口を開けて言うことができません。


理想を探し求めていく過程で、霊的なものと肉的なものが一つになるのは何によってでしょうか。霊的な世界は霊界で、肉的な世界は地上世界ですが、霊的世界と地上世界を一つにするには、入れ変えなければならないのです。自分の物をもっていてはいけません。すべて与えてこそあちらが来て、また向こうからすべて与えてこそ、こちらがあちらへ行くのです。失った位置へ行くのです。


私たちが今後霊界と肉界を連結させるには、まず世界的な信念の自覚、統一的な理念の自覚をし、世界的に打開するための受難の道を甘受していかなければなりません。このようにするならば霊界と肉界が自動的に一つになり、ここから統一が展開するのです。統一の道を行く方向が決定するというのです。


霊界を統一する前に肉界を統一できますか。できません。それが原則です。それゆえに、先生は霊界を統一するために、肉界にある統一教会の群れを死地に追い詰めるのであり、無慈悲に打ちのめすのです。そのようになれば、霊界は皆さんに協助せざるを得ないというのです。皆さんが悲惨な位置に入っていけば入っていくほど、それを中心として、霊界は霊界なりに団結するようになるのです。皆さんが深い位置に入っていくようになれば、三千万の民族の中に天国圏が展開するというのです。この圏は、以前から地獄に行っている者までも含まれるのです。


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この世界は悪魔の世界です。悪魔の世界を訪ねなければなりません。皆さんは、いつ死ぬか分からないでしょう。誰でも死ぬのです。死の峠を越えて往来できる基盤を地上に築いていかなければ、地上天国ができないのです。地上天国ができなければ、天上天国はできません。皆さんが霊界に行っても、この地上に思いどおりに来ることができるようにしておかなければなりません。それでこそ地上天国で暮らし、天上天国が成し遂げられてそこで暮らすようになるのです。


あの世は物質世界を超越した世界です。あの世は知識の世界を超越した世界です。時間と空間を超越している世界なので、きのうの喜びがきょうの喜びになり、きょうの喜びがあすの喜びになり得るのです。このように見ると、その本質の世界は、今日、人間世界に生きている私たちが必要とし、重要視する内容を中心としては動かないということです。すべての霊界生活における価値的な中心とは何かということが重要なのです。


私たちは、三時代の使命を完結しなければなりません。霊界に行っている霊人を解放し、今日この罪悪の世に生きている人々を解放し、今後来る後代の人もここから解放しようというのです。このように三時代の解放圏をもってくるのです。これは膨大で途方もないことです。このように夢のような内容が事実として現れれば、どのようになるでしょうか。目がまん丸くなり、口はとめどなく開き、耳はそばだつかもしれませんが、頭は下げるようになるのです。


今日、地上に生きている人が、好きでも嫌いでも誰彼を問わず、みな帰ってとどまる所が霊界です。そこには未開人から文明人まで、歴史時代に生まれて逝った千態万状の多くの人間が集結しているというのです。今までの人類歴史が平和を中心とした人類歴史にできず、幸福を中心とした人類歴史にできず、理想を中心とした人類歴史にできなかったとすれば、霊界に行っている人々はどのようになるでしょうか。どのように統治されるのでしょうか。ここで生きた人があの世に行って突然変わることはできません。「三つ子の魂百まで」という言葉があるでしょう。もって生まれた性格は直すのが難しいのです。


あの世に行っている霊人体は、私たちの今までの生き方と特別に違うのでしょうか。突然に変わるのでしょうか。そのようなことはないのです。ここで生きた、その姿どおりに収穫されていくのです。霊界に行っているすべての霊人体は、結局は地上で生きた人々の霊人体です。そのように見ると、今日この人たちが生きている世の中と、別に違わない世界だというのです。


あの世は、どのように連結していくのでしょうか。あの世においても、現在の立場よりあすの立場が良くなることを願うのは同じです。地上で暮らす人間が生活する中で、きのうよりきょうが良いことを願い、きょうよりあすが良いことを願うのは共通心理です。西洋人でも東洋人でも、過去の人でも今の人でも未来の人でも、誰彼を問わず、現在生きていることよりも良くなることを願うのは共通心理なのです。これは変わりません。霊界に行っているすべての霊人体も、それと同じなのです。現在よりも良くなればよいというのです。地上生活した時よりも良くなることを

願うというのです。


三) 霊人たちの完成も地上人を通さなければならない
七百五十七
 

今まで世界はサタン世界だったので、悪人が国を動かすのに先頭的立場に立ったのです。しかし、善人はその反対にいるので、霊的な天使世界が先祖の善の実績をもった子孫を訪ねてきて協助しようとするのですが、協助しようとするその対象は高い位置の人ではありません。反対の位置にいる人だということを知っているために、高位層だけを考えてはいけないのです。


先生も同じです。生涯へとへとになりながら世界を見回り、家に行けば何も残っているものがありません。そうして見ると、一つだけ彼らの前に植えつけたこととは何かというと、夜が来ても、季節が変わっても、先生を思慕する心だけが大きくなっていくということです。どの国に行ってもその村に真の愛の心を、思慕の心を中心として生活すれば、天使が来て活動でき、善の先祖が来て堕落と関係ない遊び場となって、希望の峰になるというのです。

霊界にいる霊人たちが地上に来るとしても、いつでも来ることができるのではありません。みな一年中の一節気に従って、自分の心の門が合うのです。ある時は皆さんの友達にも良い時があり、悪い時があるのです。心の門が合えば、この地上に霊人たちが来て協助できるようになるというのです。


主流宗教は、すべてイスラエル民族圏を通して行くのではないのです。主流圏をすべて変えて、このように出てくるのです。その霊を通して協助し、再臨の役事をしてきましたが、これから統一教会を信じていく皆さんにおいては、主流宗教圏のすべての権限を平準化させたので、皆さんの先祖がみな、これからは統一教会を信じる人を中心として一つになります。


先祖は、皆さんより先に生まれたから天上天使です。先に造ったのは天使と同じで、私はアダムと同じなので、自然に天上の位置にいる先祖は、今アダムとエバの位置にいる子孫を後援することが原則になるというのです。ですから易しいのです。しかし、地上で築かなければなりません。霊界でするのではありません。心情圏は地上で築くようになっているのです。


過去にアダムとエバを守るべきだった天使は堕落させましたが、今や先祖はそのようなことをしないというのです。子孫はすべてその天使長の息子、娘です。そのような立場で、自分の先祖が来て後援できる基盤になるので、先祖が霊界において讒訴する条件を立てない生活をしなさいというのです。それが原理原則に出ているのです。原理原則に従って生きなさいというのです。生きながら実践しなければなりません。実践すれば霊界が協助するようになっていて、そうすれば必ず発展するようになっているのです。問題はそこにかかっています。


七百五十八
 
さあ、会ったので決断をしなければなりません。何を中心として決断しますか。韓国が生きるか、死ぬかという問題を中心として、神様が願う位置に立って生きるためです。それはこの民族に対する先祖が願う思いであり、神様が願うみ意であり、今日この四千万の民族が願う心であり、私たち後世の者が願う心です。このような歴史的な起点においてこの責任を果たせない時は、すべての先祖の怨声と、現時代の民族の怨声と、後代の子孫の怨声を避けることができません。

皆さんは、皆さんの先祖の中のいかなる先祖よりも、現在この時代の誰よりも、後代のいかなる子孫の誰よりももっと深刻な位置に立っています。そのような哲学をもって生きなければなりません。そのような生活哲学をもって生きて闘いながら身もだえするので、神様が協助するのです。そのようになれば相手が滅ぶのです。理由がありません。コーナーに行くのです。あなたが落ちるか、私が落ちるか。これほど追い込んできました。


文化圏がいくら違うといっても、生命の連結や愛を中心として連結する根本が一つなら、どのようにしようとそれを中心として「私たちは絶対的に一つだ」という概念をもつことが重要なのです。人は「絶対的に一つ」という概念が重要です。日本人も、韓国人も、中国人も、西洋人も、絶対的に一つです。それで、現世に生きている地上人も、霊界に行っている数多くの霊人たちも、すべて根本は一つです。出発して、結局は霊界に行ってとどまるというのです。


横的な面において自分の先祖がみな来て、先祖が橋を架けてくれるのです。先祖は天使長であるがゆえに、再創造するのに協助して真の父母の愛の因縁に従って上がっていくのです。地獄にも、門が開いて天上世界へ上がっていくことができる道があるがゆえに、自分たちが教育を受けて……。

自分の父母、先祖が天使長でしょう。しかし今は、神側を滅ぼす天使ではありません。堕落した世界を滅ぼす天使、蕩減復帰の原則によって反対の立場で、昔と違って天を滅ぼす位置ではない神側の天使長の使命を果たして、自らの子孫、アダムと同じ立場の者を協助してあげるのです。霊界にいる霊人たちが協助する、そのようなことが起きるのです。そのようにすることによって、その霊人たちも地上人のように越えていくことができるのです。


霊人たちは、現在の自己の位置で解放されようとするなら、地上人を通さずには苦痛を免れることができません。また犯した罪を脱ぐこともできないので、自分が生きた所に必ず訪ねていきます。自らの血縁や関係のある人に訪ねていって信号を送ります。


霊界に行っても来ることができなければなりません。しかし、地上に天国を成せなければ、地上に来ることができないのです。これは妄想ではありません。そのようになるのです。永遠にわたってしなければなりません。先祖がみな責任分担と蕩減条件に引っ掛かり、霊界に行って、行くべき道を行くことができずに、地上に再び降りて来て蕩減するのと同じように、その道を皆さんが残してはいけないというのです。原理のみ言が事実なら、皆さんはそこに引っ掛かるのです。


先生が皆さんに厳しい生活をさせ、苦労させることは皆さんが憎くてそうするのではなく、皆さんを生かしてあげるためにするのです。すべて皆さんを生かしてあげるためであることを知らなければなりません。皆さんを生かしてあげるために苦労させるということを知って、有り難く思わなければなりません。そうすれば天の心情世界、新しい心情世界が展開するのです。そのようにすることが順序



七百五十九



です。そのようにして心情的紐帯をもってこそ、天の命令ならばどこでも飛んでいくことができるのです。世界を引っ張っていく機関車のような責任を果たすといえば、霊界が協助します。そのような考えをすれば霊界が間違いなく協助します。


皆さんは霊界に行くのが良いですか。地上の皆さんが霊界に行くという心と、霊界の人が地上に再臨するという心のうち、どちらがより切実でしょうか。原理的に見ると、皆さんがもっと熱烈でなければならないでしょうか、霊界がもっと熱烈でなければならないでしょうか。霊界は天使長の世界で、ここはアダムとエバの世界、息子、娘の世界です。息子、娘がもっと熱烈でなければならないのであって、僕がもっと熱烈でなければならないのでしょうか。

皆さんが霊界を協助するようになっていますか、霊界が皆さんを協助するようになっていますか。霊人が協助しようと待っているのに、なぜ待つのですか。地上に天国を成すためのみ旨に協助しますか、皆さんが豊かに暮らそうとすることに協助しますか。地上に天国を成すためのみ旨に協助するのです。


霊界を中心として見れば、悪霊がいると同時に中間霊がいて、善霊がいます。蘇生、長成、完成の三段階にとどまるのです。三次七年路程が連結することによって、善霊が地上に連絡できる道が生じるというのです。そのようにする以外にはありません。蘇生、長成圏がサタンの主管圏内にとどまっているために、悪なる勢力の版図圏内にいる悪霊が主導的な役割をしながら世界をすべてこのようにしてきました。 これからは霊が交差し始めるのです。交差する時は、霊界が降りてくるのですが、悪霊から降りてきます。交差する時は、中間霊界を越えて善の霊界へと越えていく時です。これを越えていく日には、善霊と善人は上がっていき、悪霊と悪人は下りていくのです。今までは善悪がお互いに上がったり下がったり交差しながら、混ざって出てきましたが、これからは善と悪が完全に分かれることのできる新しい次元の時代へ入っていくと見るのです。


人間が知らない霊界の霊人を動員して証させることのできる基準が、「私」に立っているかが問題です。霊界もそのようなことを要求しています。霊界は神様の心情を知っているので、地上でそのような人が訴えれば、霊人たちを動員して天国理念の実現のための地上のみ旨に協助するようになるというのです。霊界の霊人たちがこの地上に来ることができない原因は、この地上が嘆きの垣根になっているからです。


これから皆さんは祈祷してください。「先生のみ言とともに、善霊は再臨して、この地上にいる悪の子孫を、善のあなたの懐を通して天国に導いてください」と命令すれば、その命令が可能な時代に入るというのです。私たちはアダム時代圏内で生き、霊人たちは天使世界圏内で生きるので、アダムのために天使が協助すべき原理原則があるので、動かざるを得ないという結論がしっかりと出てくるのです。


760 * 七百六十
 
早朝起きてその町内のために、自分が引き受けた責任地域のために祈祷しながら涙を流さなければなりません。その道は心情的でありながらも、また霊界と霊的な因縁を結ぶ道です。神様が町内を見下ろせば、みな地獄に行くしかない人間なので、涙を流さざるを得ないのではないかと思って、神様の代わりに自分が涙を流すということを自ら感じるというのです。神様の心情で涙を流せる共鳴力が生じれば、霊界が総動員するのです。


皆さんは伝道ができない時にも伝道をしなければなりません。石を海に投げるのと同じです。それで海水をすべて埋めて、山になるまで果てしなくするのです。そうすることによって、私が心情的に成長するというのです。体は何も変わらないけれども、心情が育つというのです。


今までの六千年の歴史は、アダム一人を探してきた歴史です。アダム一人を再創造する歴史です。それゆえに、皆さんは先生についてこなければならないのです。エバはアダムが出てこなければ創造できません。それゆえたった一人のアダム、たった一人の男性を創造するのです。その一人を創造するためには、復帰摂理の途上に生まれて逝った数多くの人々の血と肉が材料にならなければなりません。億千万の霊人たちの怨恨がここに一つにならなければならないのです。そして、この実体が登場する日に初めて、激しい迫害の中でも血を流して死んでいった殉教者は、苦労した甲斐を感じるようになるのです。

たとえ霊界にいるとしても、地上にいる実体と関係を結ぶことによって、自分たちにも解放が来るのです。このようになっています。それが観念的に漠然としていてはなりません。

この自覚をどのようにするかが問題です。 私たちは、横で誰が何をしようと、食べていようと、休んでいようと関係なく、その道を行かなければなりません。前には、数千名が一様にみな行っているというのです。ひもを引きながら休まずに精誠を尽くして苦闘しながら行けば、他の人もそのひもを巻き上げてくれるのです。そのようにしながら、多くの人々がそこから落ちることも感じるように

なるのです。


マラソン大会をするのと同じです。走ってみれば一等もあり、二等もあるのです。歴史がそうです。今まで数千年間、数多くの霊人がそのひもを結んできました。その中で一等であの世に行って、その巻く装置と因縁を結んで丸ごと巻き上げれば、霊界と肉界が復帰

されるのです。


四) 霊界の協助と確信

今や霊界がこの上なく近い距離に来たので、善の霊人たちが地上に定住する時代が来たのです。来て暮らすというのです。今まではサタン、悪魔が地上をすべて分轄して主管してきたのです。しかし、これからは善霊がその地域を奪って主管するのです。そのために統一教会の食口が涙を流して、血の汗を流して精誠を尽くさなければならないのです。キリスト教が精誠を尽くした以上、イスラム教、仏教、どんな宗教よりも、私たちは切実な心情をもって祈祷しなければならないのです。「あなた方を中心として地上に実体基盤が復帰されたので、霊的基盤を中心とした霊界圏を通して統一教会は前進しましょう」と祈祷するのです。

七百六十一
 

霊界に行っている人々も、私たちを通じてこそ救われるということは知っています。ですから、霊界に行った人々のために与えれば、霊界の恵みが皆さんを訪ねてくるのです。そのように霊界のために蕩減してあげ、悔い改める人になれば、その霊界が皆さんに従ってくるというのです。霊界が皆さんを中心としてすべて動いていくというのです。蕩減と悔い改めがこのように重要だということを知らなければなりません。


霊界は境界線がないので、霊界の領域は終わりがないのですが、どこに行ったとしても「私が協助した。あなたがそこの責任者だった時、その時代に行って協助した」と言うのです。みんな友人です。一つの時代圏内に立っている同僚者になるのです。先生が話すように霊界が動員されなければなりません。霊界が動員されなければ、どのように天国を形成するのでしょうか。形成できません。

天国は真の父母から始まるようになっているのであって、今までの堕落した子孫によって始めるようにはなっていません。アダムを創造する時、天使世界の協助を受けたのと同じように、再創造も霊界から降りてきてすべて地上に協助しなければなりません。そうでなければならないようになっているのです。原理がそうではないですか。復活原理がそうでしょう。復活原理がそのまま結果に現れてこそ「真」と言うのです。ですから、霊界が先生に対してどれほど喜ぶでしょうか。


強い信念だけしっかりともっていけば、皆さんの先祖がお母さんや、親戚の誰かを押さえてどうすることもできず、口がきけないように圧力を加えるというのです。「私の話を聞きなさい!」と言うのです。なぜでしょうか。堕落した悪霊は退いて、善の圏内の本然の氏族的基盤を中心として、父母と連結できる国家的基準まで連結した御父母様と世界的基準までサタンを押してきたすべての基盤の上に立ったので、サタンを退けて天使長型の霊界にいる皆さんのすべての先祖が協助するようになっています。

霊界にいる皆さんの先祖もこの世を見下ろしながら、誇らしい子孫に協助したくて地上に降りてきたいと思っているのです。それで、多くの先祖が皆さんの周囲に降りてきます。これが氏族を中心とする宗派を超越した宗教世界です。理解できますか。皆さんの先祖が皆さんを信じて、皆さんを愛しながら皆さんについていきたがるのです。それで、皆さんに協助するために献身したがるのです。


今日、地上では統一教会に入って祈祷すれば、一週間以内に先祖が現れてすべて教えてくれます。そのような位置に入ったのです。それはどういうことかといえば、今まで宗教が世界的な版図を築いて、心情的紐帯によって縦的な行路を築いてきたのですが、それを世界的な横的版図に広げておき、この世界の果てまで連結しておいたので、霊界に行った先祖が氏族を中心として初めて地上に再臨して協助できる時代になったのです。

七百六十二
 
ホーム・チャーチがそのような世界的な版図を縮小させた基盤です。それで、善霊がどのようになりますか。以前は来て協助して帰りましたが、今は地上に定住するのです。そのような時代に来たというのです。定住、分かりますか。定住といって先生の故郷の定州(注:韓国語で定住と定州の発音が同じ)ではありません。霊界に行った善霊が初めて定着して暮らすことのできる時代に入るという話です。それで、皆さんが統一教会に入って活動するのですが、善の先祖が皆さんと共に暮らしながら協助します。それゆえに氏族復帰が可能なのです。


世界的な時代に入った皆さんは、個人的な立場にあったとしても、世界高の聖人と連結しているので、必要とする時、彼と同じ心性をもって、彼と同じ心的な生活をした人には、どこでも縦横無尽に協助できる基盤が霊的にできてくるというのです。それで今、統一教会の動きに伴い、全世界の各国の愛国者は、統一教会の基盤を中心として、その背後に囲いを巡らしてすべてこの地上に再臨し、定住しています。

これは部隊でいえば、その国の民族の何十倍、何百倍にもなる人々が死んでいったのではなかったでしょうか。その人々が来て陣を張って拡大工作を待っているというのです。それゆえに、すべての宣教師は国家的な運動をして総動員し、霊界と共に全体を代表し、犠牲を覚悟して総進軍命令を下せば、その霊が協助するようになっています。


今までの宗教は霊界と肉界を連結させることができなかったので、霊的な精誠を尽くして縦的な面に拍子と波動が合って初めて接触できましたが、今はその放送局自体に入りました。振動盤のような位置に立ったというのです。波動ではなく、波動を起こす送信機自体だというのです。

ここで何千周波数にしようが、何十周波数にしようが、短波にしようが、くっつければ波長、電波をすべて出せます。私が放送局をもったので「霊界にいる私たちの先祖が来て、私に協助してください。善の先祖よ、来て協助してください。そのようなバイブレーションが必要です」と言えば、さーっと来て……。個人を呼んでも動かすことができ、家庭を呼んでも動かすことができ、氏族圏、民族圏、世界圏を中心として連結させ得る踏み台が地上にできてきたので、それが動いて降りてくるというのです。

このようになれば、今まで私の体は、このように行こうとしたのですが、我知らず回ってみんな引っ張られていくのです。二つの霊人体が来て一つをつかんで引っ張れば、自分自身はそのつかんだものが分からないので引っ張られていくのであって、仕方ないでしょう。一人で走って入っていくのです。皆さん、それを信じますか。これは空論ではありません。理論的です。


統一教会が動けばマホメットが協助し、儒教、仏教の代表者がみな協助し、神様も協助するという話は理論的だというのです。ですから、私は人類を代表し、霊界を代表し、神様を身代わりしているので、全体が協助する立場で動くという自負心をもたなければなりません。


今まで御父母様に対して霊界が支持できず、協助できない理由は、完成した父母の位置には堕落した霊界が協助できないというのです。本来、原理がそうでしょう。完成した父母の位置であるということは、神様と堕落しない天使長が後援するようになっているのであって、サタン圏内にある霊がいくら多くても父母を協助できないのです。

七百六十三
 
今霊界に行っている霊人は、真の父母を通して生まれずに偽りの父母を通して生まれたので、真の父母を協助できないのです。しかし、天使長が失敗したすべてのものを蕩減し、子女の位置でアダムとエバが育つそのような立場にはいくらでも後援できるようになっています。それゆえに、霊界が協助することによって、世の中がだんだんと遠からず崩れて

いくというのです。


五) 流離する霊たち

皆さん、霊界がどれほど大きいか知っていますか。霊界にどのくらい多くの人々がいるだろうかと、考えたことがありましたか。今霊通する人々が言うことを聞けば、一人当たりに三千三百二十余名ずつ霊人たちがくっついていると計算しています。私たちの側にそれほどいると考えると、世の中に負けるでしょうか、勝つでしょうか。


人は百年も生きられないことを考えると、五十億の人類の中で一年に五千万人が霊界へ行きます。地獄に行くのをどうしますか。サタンが蒔いた種をすべて天に収めることを神様が願うのに、これが遅れれば遅れるほど、どのようになるでしょうか。今まで四十年間にどのくらい地獄に行きましたか。数十億人が行ったのです。深刻なのです。あの世に行って霊に会い、「先生が在世当時に私たちに対して責任を果たせなかったではないか」と言われれば、何と言いますか。心からでもしなければなりません。心からでも食口に話して、未来に対しても責任を果たすという行いを中心としていけば、「あなたは驚くべき方です。私たちのことを考えてくださいました」と言うのです。 今も一日に六万名が死んでいます。今一年に二千万名が飢え死にしているので、一日に六万名です。六万名が死んでいくのを父母、子女、兄弟たちが見れば、胸を痛めて痛哭する事情が起こっています。ところが、真の父母が同情せず、それに対する対処をしなければ、地上で在世当時に自分たちと共に生きたという条件が怨恨になります。

飢え死にする人よりもっと哀れな者たちが、神様を否定する人々です。飢え死にする人は、あの世に行くようになっても、自分の善意の道理に従った級がありますが、神様がいないという人は、霊界を否定するので踏み台がありません。霊界で雲の塊のように漂います。さまよう霊になるのです。雲が集まって雨が降るのと同じように、集結してすべて悪い影響を及ぼすのです。ですから、みんな地獄に行って地獄を困らせるのです。そのようなことを十分に知って、彼らを生かしてあげなければならないのでこのことをするのです。


四 先祖と私たち 一) 私たちは先祖の結実体

皆さんはみな先祖の代わりとして生まれてきた歴史的な復活体です。その歴史がどのくらいになるでしょうか。何十万年になったと言います。そのように長い歴史過程を、結局は「私」一人をつくるために苦労したのです。金氏なら金氏という「私」一人を誕生させるために、多くの先祖が生まれて逝きました。ですから、私たちは歴史的な結実体です。


七百六十四
 
先生は人の顔を見れば、その先祖が良いのか、悪いのか大概分かります。ある人は良い先祖がいて福を受けるかと思えば、ある人は悪い先祖がいて実に苦労ばかりしているというのです。そのような人は伝道しようと任地に行っても、ひどく苦労ばかりします。


皆さんが基準を立てて統一教会と歩調を合わせていけば、霊界にいる国家的な運勢に従って動いた善の霊人や先祖が、皆さんのために仕事をすることでしょう。皆さんは外的に見ると顔が平たく、耳がぐっと入って不幸せに見えるけれども、霊界では皆さんを福を受ける人だと考えます。また、十代圏内にある先祖は気をもんでいます。なぜなら、復帰歴史は十代圏を中心として成されるからです。ところが、万一悪い子孫が現れれば、十代圏内にいる先祖が「こいつ!お前が私たちを

滅ぼそうとするんだな」と言って審判します。


イエス様が地上へ来られることによって、それ以前の善の先祖が霊形体級の霊界から生命体級の霊界に入っていくことができたように、皆さんの先祖も地上にいる皆さんを条件にして再臨できる特別な恵沢圏内に入りました。皆さんがこのようなみ旨を知って勝利の枝になれば、一つの生命体を成し遂げることのできる立場なので、皆さんの先祖が皆さんを協助するのです。このように皆さんは、数千代の善の先祖が再臨できる基盤にならなければなりません。


霊界に行くようになれば、多くの預言者、烈士たちと多くの先祖に会って討論するのです。「あなたはどこから来ましたか。地球のどこですか。どこの国ですか。どこですか」と聞いて回想して言うのです。友達同士が会えば自分の昔話をするでしょう。霊界に行くようになれば、皆さんの初のおじいさん、数千、数万の先祖に会うようになります。ところが、「この者たち、どのように生きたのか」とぞんざいな言葉遣いをすれば気分が良いでしょうか。考えてみなさい。


今は、私たちを協助してこそ自分たちが福を受けるようになっているのであって、反対すれば反対するほどますますどん底に落ちていくのです。天運が急変していきます。今後、家ごとに先生の写真を掛けようと大騒ぎするでしょう。霊界で自分の先祖が忠告するのです。それで旗を掲げ、先生の写真を掛けてその前で毎日のようにあいさつする人は、自分の先祖を復活させることができる役事が再び起こるのです。


今まで、入り乱れた数多くの霊界に通じる霊人たちは、「統一教会に行くな」と言いました。しかし、これからは釈迦、イエス様、孔子、マホメットも統一教会に行けと教えてあげなければ、天法に引っ掛かるのです。なぜでしょうか。先生が言う宗教は、父母の宗教だからです。


七百六十五
 
「私たちは、真の父母によって新しい血統の代を継ぐことのできる先祖になることによって、解放圏が広がる祝福を受けた氏族になったのです。この氏族は永遠不滅の神様の眷属であり、血族になりました」このようになれば、サタンと完全に決別です。それで、統一教会は先祖を祭ることを認めるのです。 キリスト教が祭祀を行うことを認めましたか。統一教会は、今やその伝統を引き継いで打ち立てなければなりません。これはこの世の伝統ではありません。天の父母、天国、天の先祖に侍ることによって、その継代を継ぐ氏族的メシヤ圏、伝統的な血族を千年、万年侍ることのできる王土になるのです。王に仕えて永遠な太平の世を導き得る国になるのです。その国で暮らしてこそ皆さんのお父さん、お母さん、一家、一族が天国に直行するのです。


皆さんが祈祷して霊界と通じてみれば分かると思いますが、霊界では子孫を天の前に近く立てるために、どれほど努力しているか分かりません。ところが、ここでは先祖にでも悪口を言って私だけ満足に生きようとしています。


二) 先祖の救いは私たちがする

先祖が住んでいたこの家の中に、自分のひいおじいさん、ひいおばあさんが暮らした部屋に、おじいさんを産み、お父さんを産み、私を産んだその部屋に、おじいさん、おばあさん、ひいおじいさん、ひいおばあさんが愛した愛より大きな愛を残すことによって、天が見れば、愛の光がぴかぴか光るというのです。百ボルト、千ボルト、一万ボルト、何億ボルトの光をずっと照らすというのです。その照らす光がどこに行くのかといえば、先祖、先祖、先祖に上がっていくのです。霊界に行くようになれば、神様を中心とした天国に行くのです。その天国が本来、私たちの本然の故郷です。私たちの本来のお父さんが神様でしょう。


あの世のすべての先祖が皆さんの生き方をすべて見ています。隠す所がどこにもありません。先祖がすべて見ているというのです。霊界に行くようになれば、壁もすべて通じるのです。地球もすべて通じるというのです。そのような世界に行って永遠に生きなければなりません。神様の愛の対象として創造された人間であるがゆえに、神様が永遠であられるので一つの愛の対象になる存在も永遠に必要だというのです。神様が永遠であられるように私たちも永遠だというのです。愛の相対がなくては永生がありません。


霊界が私の手に懸かっており、親戚が私の手に懸かっており、親戚だけでなく国が私の手に懸かっており、今後来る子孫の前に正しい伝統を立てておかなければならないということも私の手に懸かっています。これをいつも考えなければなりません。皆さん自身一人一人が正しくできるか、できないかによって、霊界に行った皆さんの先祖も解放でき、皆さんの親戚も解放でき、皆さんの子孫は解放の選民として策定されるのです。


皆さんはいつでも「三時代を代表した私だ」と考えなさいというのです。ですから、霊界が私の手に懸かっているというのです。皆さんの先祖が皆さん自身に懸かっているというのです。過去、現在、未来をすべてこのように集めて、二つを重ねて引っ張っていけば走ってくるのです。そのような使命を果たさなければなりません。


七百六十六
 
今から世の中が急変します。悪なる人が事故でたくさん死ぬというのです。我知らず死にます。今は蕩減がありません。即決処断時代が来るのです。しっかりしなさいというのです。誰がするのですか。悪魔に蕩減させません。自分の先祖が処理します。今現在祝福してあげたその基準は水平になっているのですが、ここから落ちていきそうになれば、霊界に入れば落ちないので、失わないためにも連れていかなければならないというのです。そのような時代が来るのです。先祖が薬をくれ、病気を与えます。先祖が「真の御父母様の写真を置いて侍りなさい」というのです。


天地が願う以上の切実な心をもって協助を受けなければならないのです。みんなそのように行くのです。三代です。三代なのです。自分の先祖が一代、それから自分が二代、息子、娘が三代です。そこに切実な心で縛っておけば、新しく生まれるこの地上の三代圏の子孫が、父母と天上の先祖にまで及ぶようになるというのです。そうでしょう。


この地上に来て協助しようとするなら、自分が先生の母として立つことのできる位置を整えて来なければならないので、今来たと言うのです。皆さんによって復活をするのです。皆さんの先祖までも皆さんによって救われるのです。ですから、積極的に後援しようとするのです。ですから、その部落で休まず仕事をしなければなりません。


皆さんが一つの鉄則として知らなければならないことは、その地方で生まれた忠臣、愛国者、孝子、教会の牧師たちが尽くした精誠以上に精誠を尽くさなければならないということです。それ以上精誠を尽くしさえすれば、彼らがみな協助するというのです。それが条件です。そうすれば、サタンの讒訴圏以上の位置に立つようになるのでサタンが反対せず、霊界の協助によって皆さんの先祖が、皆さんの子孫に「みんな統一教会に入れ」と霊的に追い込むのです。どのようなことが起きるかといえば、皆さんのおじいさんが協助しようと現れてみんな伝道するというのです。


お手洗いに行って座っていれば、霊界では「お前はきょう、何々をしなさい」とプログラムをすべて教えてくれるのです。そのようなすごい事実が起こってくるのです。ですから、街頭にいれば関連する人々は、あらかじめ霊的にすべて連絡がついていて、会う事実がいくらでもあるのです。ですから、霊界の協助を受けなければなりません。霊界の協助がなければなりません。皆さんも今や先祖が協助するようになっているのです。堕落していない圏内の世界において、アダム完成圏を天使が保護して育て、祝福の位置に行くことができるのです。霊界がそのような本然の使命をすることにより、天使長圏の霊界が復帰されて彼によって地上圏が復帰されるのです。

堕落は天使長がしたでしょう。それで、皆さんの先祖が来て善の天使長がなすべきことをすることによって、皆さんはアダムが堕落しない本然の位置に立って、神様の心情圏内に到達できるのです。皆さんは、そのような道を皆さんの先祖が協助する垣根の中で行くことができるので堕落圏ではありません。本然の心情圏の勝利圏に立ち、解脱圏に向かって前進するのだというのです。それゆえに、天国に直行できるのです。それが蕩減復帰原理にすべて合うのです。先生は適当に言うのではありません。


七百六十七
 
霊界が協助するのです。霊界が協助してその一族、親戚すべて、近い群れをすべて集めて皆さんの前に追い込むのです。このようにすることによって皆さんを中心として霊界が、神様を中心として霊界の霊が降りて来てアダムを取り囲むのです。そこは善霊が囲むために悪なるサタンが侵犯できない圏内となるというのです。それで、その基準を中心として、本然の真の先祖の位置を心情的因縁によって受け継ぎ、新しく植えた基盤ができたので、その基盤を中心として、皆さんの一族のおじいさん、おばあさん、誰彼なしに頭を下げることができます。


今や皆さんの先祖が協助するようになっています。以前は悪い先祖が子孫を利用したのです。しかし、今では善の先祖が降りて来て活躍できる時が来ました。それゆえに、皆さんはそれこそ十字架を背負わなければなりません。氏族圏の十字架を背負い民族の代わりに蕩減し、国家と世界の十字架を背負って、国家と世界のために蕩減するという人がいなければなりません。

世界的理念時代に身を置くことが、国家と民族の希望でしたが、霊人たちは今まで高い位置に立てずに、どん底に押さえられているのです。しかし、世界的恵沢圏内で皆さんが十字架を背負って闘うならば、皆さんによってさっとすべて復活できるというのです。そうすれば、平面的な立場で先祖代々に救援できる踏み台がすべて築かれるのです。それでこそ皆さんの一族の解放が起こるのです。私の話が分かりますか。何の話か理解できますか。


善霊が降りてきて皆さんを協助し、先祖がみな協助するというのです。それで、皆さんも、以前は誰かが統一教会に反対すれば、冷や冷やして震えたりしたことがすべてなくなるのです。今では天下が騒ぎ立てても、心は太平だというのです。心が動揺しないというのです。それはどういうことかといえば、既に時がそのようになったというのです。悪なる霊的な雰囲気が私たちと接することができないのです。善の先祖をもったすべての子孫は、じっと見ると、彼らの心は皆さんが自分の家に訪ねてくるのを喜ぶのです。また来れば何かを貴いものを与えたがるのです。

皆さんは分かりませんが、心にその先祖が協助することによって皆さんがかわいそうな人を助けたくなるそのような心をもてば、皆さんの先祖も恩恵を受けるのです。したがって、皆さんも発展して……。今は再創造時代なのでアダム圏を天使世界が協助したその道理によって、先祖が天使圏であり、アダムの子孫である皆さんを後援し、再創造するのに協助することによって、天のみ旨の前で成長していくことができるのと同じ位置に立つというのです。


おばあさん、おじいさんが死んだとしても私のためによみがえり、お父さん、お母さんが私のために生き返ることができます。真の愛によって、真の愛を中心として「生き返ってください」と言えば「よし」と言って、おばあさんが現れ、死んだお父さん、お母さんに会うことができます。そのような道が真の愛にあるので、おばあさん、おじいさん、私たちの先祖はみんな霊界にいるのですが、「私がこのような難しいことがあるので協助してください」と言えば、さっさっさっとするのです。そのような時代に入ります。教えてくれるのです。

七百六十八
 
神様は私たちの先祖であり、私たちは孫です。ですから「このように告げるので成し遂げてください」と言えば、「よし」と言うのであって「駄目だ」と言わないのです。神様はすべて通じるのです。 霊人たちは霊界で地上人の協助を受けるために、いろいろな方法を動員して地上の子孫を訪ねてきますが、地上の子孫が解決する方法を知らないために、だんだん家運が傾いて、行く道が厳しくなるなどの困難が繰り返されます。地上人の助けによって昇進する霊人たちは、現在の自己の位置からもっと良い位置に移っていくことで自らの生活が楽になり、地上にいる子孫の生活もまた平和になるのです。


三) 祝福家庭と祭祀

統一教会は先祖を祭ることを認めるのです。統一教会は今その伝統を引き継いでいかなければなりません。これが今後、真の父母を中心として反対の立場に立つのです。この世、世の中の伝統ではありません。天の父母、天国、天の先祖に侍ることにおいて、その継代を継ぐ主流思想的、伝統的な血族を千年、万年侍ることのできる王土になるのです。王に仕える永遠な太平の世を導き得る国になるのです。その国で暮らして行ってこそ皆さんのお父さん、お母さん、一家、一族が天国に直行するのです。


先祖が死んだ日になれば、みんな来るのです。そして、先祖のために祭壇を整えて祭祀を執り行います。先生の写真を置いた部屋で執り行えば、敬礼をしても罪にはなりません。餅を作って祭祀を執り行うからといって罪になるのではありません。


選民圏と血統を重要視しなければなりません。選民圏は長子権です。韓国は長子の国です。韓国が族譜(注:家系図)を愛する民族になったのも、すべて血統を受け継いでいくためなのです。先祖を崇拝して先祖に祭祀を執り行うのは悪いことではありません。今後、儒教思想以上に父母を尊敬する時が来るのです。何の話か分かりますか。


おじいさん、おばあさんが亡くなったら墓参りをしなければなりません。神様が墓に埋められたと思って墓参りをしなければなりません。そして、私の一代におばあさん、おじいさんに侍ることができなかった恨をその日に贖罪しなさいというのです。


長子はどのようになるのかといえば、根を深く打ち込まなければなりません。それは誰も抜くことができません。おじいさんも抜けません。叔父さんも抜けません。それゆえに、祭祀を執り行う時はいくら叔父さん、いとこ、八親等、ひいおじいさんがいたとしても長子を先に立てるのです。そのようなことを知っ

ていましたか。


韓国の伝統的な文化背景に先祖を尊重視することにおいて、長子を前面に立てたのを見ると、この民族は長子権を尊重視する民族であ

ったというのです。それは驚くべきことです。


今までキリスト教において、祭祀を行うことができなかったのも一理あります。祭祀は神様と全人類の真の父母が受けなければなりません。上の代の先祖が天でまず侍られなければなりません。ところが、堕落することによって今までは禁止してきましたが、今復帰時代において祝福を受けたので、今後先祖に侍らなければなりません。



七百六十九



祭祀の日が来れば、祭祀を執り行う時間は長子が決定するのです。ですから、明け方一時にしたのを朝五時にでもできます。朝五時にしようとしていたのを事情によって朝七時にでもでき、昼にでもすることができるのです。誰がそれを決定するかといえば、亡くなったおじいさん、先祖がするのではありません。長子が決定するのです。

亡くなったおじいさん、おばあさんたちも長子が決定した時間に来てこそ祭祀の膳に対することができるのであって、それが嫌ならば対することができないのです。地上が中心ではないですか。地で解けば天で解かれるというのと同じなのです。それゆえに二つが一つにならなければなりません。


先祖を愛しなさいというのです。先祖のために生きることは罪ではないというのです。サタン世界でも先祖のために生きるのに、キリスト教では「先祖のために生きるな」と言うでしょう。しかし、今後天の世界の先祖のために生きて、またさらに「ため」に生きなければならないのです。それで、統一教会は祭祀も認めるのです。キリスト教では「お、偶像なのに……」と大騒ぎするでしょう。しかし、堕落した世界にいる祝福を受けた家庭は、このような伝統を子孫に伝授してあげるべき責任があるというのです。


韓国の歴史は実に見事なのです。祭祀の時には長子の家で、叔父さんも長子に侍って祭祀を執り行うでしょう。神様の摂理の中で長子の民族をつくるための歴史的背景があるという事実を知らなければなりません。このように知っていれば、韓国民族の優越性がどんなものか、韓民族がどれほど偉大なのかが分かるので、皆さんの息子、娘が憶することがありません。このようなことをはっきりと知

らなければなりません。


「長子」と言えば、おじいさんも祭祀を執り行う時は、長子の前でその指揮下に入らなければなりません。尊敬しなければならないのです。長子の血統、その次は族譜(注:家系図)と血統を尊重視する事実、これは神様の復帰摂理におけるその心の根本の根本を忘れることができない記録的な歴史性に代わってきたという事実は驚くべきことです。


アダムの息子、娘がいくら多くても長子を中心として国が連結するのです。そうすれば、その長子を中心として横にいる兄弟たちは広がって氏族になり、国家になるのです。長子が系統を継ぐのです。韓国を見ると長子です。実に驚くべきことです。韓国が偉大で、神様の祝福を受けることができるのは、長子を守ってきたということです。初のおじいさんの息子が長子になれば、ひいおじいさんたちや、おじいさんの弟になる人たちは祭祀の時、長子を中心として侍らなければなりません。長子に仕えてきたことは驚くべきことです。

絶対服従しなければなりません。


770 * 七百七十
 
韓国民族がそうです。長子の歴史、ひいおじいさんも祭祀の時は長子を立てるのです。それは驚くべき歴史だというのです。この話がそうなのです。それより高い血族的な基準、より高い生命基準、より高い愛の基準が関連性をもつようになる時は、神様が願う高の基準として、天を中心とした影響圏を地上に合わせれば、その影響圏に必ず吸収されるので、地上天国に改善することが可能だというのです。これがすべて理論的なのです。妄想ではありません。理論的です。


聖子の道理とは何ですか。「聖子」と言えばこれは縦的です。垂直概念を言います。

「聖人」と言う時は東西南北の横的です。儒教思想もそうではありませんか。「天」といえば天子だけが関係を結ぶと考えませんか。ですから縦的なのです。韓国の礼法を見て驚くことは、叔父さんも祭祀の時には長子を前面に立てます。それはなぜですか。縦的です。

縦が先だというのです。


五 霊界を知らなければならない

私は彼らに、「今や科学が先端に来ているので、霊界と接触できる周波数を研究しなさい」と言いました。霊界の作用はすべて振動によって作用するというのです。振動数を通じて霊界と連絡できる、霊通する人の振動数を発見して霊界を科学的に証することができる時代に入っていくので、「それを研究しなさい」と言いました。霊界に対する内容をずっと説明してあげると、目を丸くしているのです。

それで、きのう心理学の作用が現象世界にどのように関係していて、霊界がどのように関係しているということを話してあげました。

心理学が絶対的な力の作用をするというのですが、なぜそうでなければならないのかという問題について一人しか知らないというのです。


それは電気がプラス・マイナスで作用するのですが、作用するサークル圏内でプラス・マイナスが力を現すのと同様の現象であるということを知りません。それゆえに、これに対する開拓をすれば、新しい次元の世界が… …。未知の霊界を合理的にすべて知ることのできる時代に行けば、宗教時代はすべて終わるのです。人類は「神様を信じるな」と言っても神様を信じることができる時代になります。これが大きな課題なのです。


六 審判 一) 神様には怨讐の概念がない

神様がなぜ人間を創造しましたか。神様が一人でいればよいでしょうか、寂しいでしょうか、喜ぶでしょうか。今日、宗教はそれも解決できずにいます。キリスト教では「神様は大審判主になり、裁判長になって、悪い者は地獄に送り、良い者は天国に送る」と言います。神様が裁判長になれば、神様の資格がありますか。それなら怖い神様でしょう。接したくない神様です。何の神様になりたいと思われるのかと言えば、人類に対して真の愛の神様になるということです。


「神様が審判主」という論理は神様にはないのです。もし、恨みを晴らすという概念があれば、今後神様の理想世界が出現しません。それゆえに、神様には火の審判という概念がありません。怨讐の概念がないので、アベルを立てカインを強制ではなく自然に屈服させるのです。


七百七十一
 
この世でも裁判長が死刑宣告を五回すれば、夜夢見が悪いというのです。もし、神様が億千万の人類をすべて審判して地獄に送ったとしたら、地獄に行ったその霊がじっとしているでしょうか。神様を殴り倒そうとするでしょう。夢見がどんなに悪いでしょうか。そんなことをするわけにはいかないかもしれませんが、それが理にかなった話です。


全知全能であられる神様が、思いのままに審判して、キリスト教を信じる人だけ天国に送り、そうでない人は地獄に送り、すべて思いどおりにすれば、そこでは理想論を探すことができません。理想というものは普遍、妥当でなければなりません。どこでも、過去、現在、未来いつでもすべて同じでなければなりません。海水が理想的なのは、深い所は埋めていつでも水平だからです。変わることがないのです。このようになれば二元論、三元論になります。


神様は誰も打つことができません。愛の理想をもって創造した神様が、愛の理想を実践しようという神様が、審判の鉄棒をもって打つことはできないのです。神様は打つことができません。なぜですか。創造する時に愛の理想をもって創造したので、その理想が実現されなくても打てないのです。もし、打つようなことが起こったとしたら、打つ伝統、打つ習慣を残しておいては、これを解く道がありません。今日、習慣性という言葉もあるでしょう。それゆえに、絶対的な神様は打たなく

ても絶対的な教化ができなければなりません。


神様は歴史始まって以来、闘いながら打たれて奪ってくる作戦をします。神様が先に打つことができません。神様が先に打つことができるという論理を立てれば、審判できるという原則を神様が立てたという論理が起こります。善と悪を分別すべき責任を神様が負っているという時、善悪の概念が神様自体内にあったという論理が展開されるために二元論に落ちるのです。それゆえに、神様は打つこ

とができないのです。


「神様は何をして生きているでしょうか」と聞けば、既成教徒は「玉座に座って悪人は地獄に送り、善人は天国に送る」と言っています。それが神様のすることですか。皆さん、高裁判所の判事を五年間だけやってみなさい、それができるでしょうか。

自分の息子、娘を審判し、自分の妻、自分のお母さんを判定することにおいて、死刑の宣告を下すと考えてみなさい。自分のお母さん、お父さんに死刑を宣告しておいて寝ることができるでしょうか。苦闘する心の世界の患難を誰が遮ることができますか。国も遮ることができず、世界も遮ることができません。そのような悲惨な位置にいる神様を、一方通行の論理をもって世界平和の主人だと侍ること自体が矛盾しているのです。ですから、既成教会は滅びなければなりません。


皆さんは霊界をよく知らないかもしれませんが、霊界に行くようになれば、神様が公義の裁判官になって「ガンガン(注:木槌でたたく音)、あなたは地獄行き!」と言うのではありません。絶対そのようには言いません。神様がそのような神様であり得ますか。人類の父であられ、善の王の中の善の王であられる神様が、地獄に行けと地獄をつくっておいたのでしょうか。予定論のようなことを言う人は狂った人です。

七百七十二
 
私は霊界をどれほどよく知っているでしょうか。イエス様の秘密のすべてまでみな知っているのです。ですから、聖書の秘密をすべて解き、今日誰も分からない漠然とした聖書体制を中心として一貫した思想体制をつくったのです。そのような大先生が誰でしょうか。ここに立っている悪口をたくさん言われる文総裁ではないですか。

親は自分の愛する子女が病気になった時は幸福ではありません。神様が、今日の世界人類が亡国の種となり、地獄の門に向かって垂直に落ちる実情を見ながら胸が痛まずに「お、お前は審判を受けて滅びていくのだなあ」と言って喜ぶ方ならば、そのような神様は雷に打たれなければなりません。父母の立場を代表した理想の神様であるがゆえに、その実情を見てじっとしていられないのです。国の法を無視してでも子女を助けたい父母の心情が隠れていることを考えると、神様も同じだというのです。


サタンさえいなければ、人間を許して助けてあげたいにもかかわらず、サタンの讒訴から抜け出すことができないので、切ない心情をもちながらもそれに順応せざるを得ないのです。そのような神様の苦痛を誰が知っているかというのです。それを解放してあげなければなりません。そのようにしようとするなら、サタンを処理して地獄に落ちた人を救ってあげることのできる息子、娘がいなければ

なりません。そうでなくては不可能なのです。


空の牛車を引っ張っていくのも大変なのに、神様はこの世界人類を逆に引っ張っていくのです。これは順路ではありません。逆に引っ張っていくのです。逆路の道を行くので、逆に引っ張っていかなければならないのです。今日宗教を信じる人々はそのようなことをしている神様だということを考えもしません。仏教思想で見ても、キリスト教の思想でも、神様は全知全能で思いのままに殺し、生かし、審判し、罰を与えたり福を与えたりできると思っているのです。とんでもないことです! このように見ると、宗教圏にあっても統一教会は、次元の高い世界の内容をもって解決方法を探そうと苦心する宗教に間違いないというのです。ですから、次元の高い宗教です。神様を解放するという宗教は、今統一教会以外にはありません。


今日キリスト教信者が「不義と正義を審判する公義の裁判長として生きていらっしゃる神様」と言いますが、そのような神様は心が平安ですか。ここに判事をしたことのある人はいますか。死刑囚を殺す時は、その刑場に判事が立ち会わなければならないのです。判事のように悲惨な人がいません。裁判長がよいですか。

皆さんは何を中心として生きたいですか。裁判長ですか。権力者になって号令をかければ、天下のすべてのものは私が願うとおりに無事通過できる環境で何日間生きられると思いますか。一カ月くらい生きてみれば、こうではないというのです。嫌になるのです。牛肉定食を毎日のように食べてみなさい。それを食べてから出るガスのにおいも違います。そのように生きてみなさい。人は高い低いによって、前後左右をすべて備えて生きるようになっているのです。


七百七十三
 
神様に「あなたは何をして生きたいですか」と聞いてみれば……。皆さん、私は直接聞いてみて返事を聞いた張本人です。裁判長ではありません。弁護士でもありません。検事でもありません。「愛に酔って生きたい」と言うのです。答弁は簡単です。何に酔って生きたいと言いましたか。愛に酔って生きたいというのです。愛に酔うようになる時は、目も一つの所へ行き、においをかぐ鼻もそちらへ行き、話す口もそちらへ行き、聞く耳もそちらへ行き、すべて一つの所へ行くのです。五官を完全に統一できる刺激的な要素が、私たち人間において何だというのですか。それが愛です。


今日キリスト教において「神様は神聖で全知全能であられる方で、公義の審判主として玉座に座って万民を審判する裁判長です」と言いますが、皆さん、裁判長がよいですか。裁判長を十年したら病気になって死にます。死ぬというより病気になって倒れます。病気にならなければそれは偽者です。

他人の生命を奪う死刑宣告を下すこともしたはずですが、自分が下した判決が絶対的ではあり得ないというのです。論法が、解説法が様々な方向があるのに、自分の判決によってその人の生死問題を決定づけたので、そうなるというのです。それは深刻な問題なのです。宇宙の公法に照らしてみれば、韓国の法が絶対的ではあり得ません。ですから、人は

「十年間判事」と言えば「病気になるはずだ」と言うのです。


キリスト教式に言えば「神様が天国の玉座に座って、公義の裁判長として善悪を判別し、よくやった者は天国に送り、できなかった者は地獄に送るのです。それが神様の趣味生活です!」。アーメンですか、ノーメンですか。死ぬことができないというのです。裁判長は判決を下したら、夜寝ることができないというのです。正しくても間違っていても苦痛を受けるのです。審判者は一つです。私たちがこのような人なのに、私たちが神様に似ているとしたら、神様は、裁判長をすることを好むのですか、嫌うのですか。


神様が悲しい神様で、苦痛の神様であることをキリスト教徒は知らなかったのです。神様が神聖な王として、審判主としていらっしゃいますか。神様が何が切なくて審判主ですか。審判主がいいですか。そのように生きることが神様の生活ですか。堕落によって仕方なくそれをするのであって、その清算方法を誰も知りません。宗教世界でも誰も知りません。統一教会以外には知っている所がありません。


二) 真の御父母様は愛の統治法で審判

救世主とはいったい何ですか。救世主が何をしに来るのかというのです。政治をしようとして来る方ではありません。救世主は何をするために来ますか。今日、キリスト教では、

「主が来ればすべて空中に上げられて自分たちはぽんぽんと上がり、地上の人々はすべて審判する」と言います。違います。そうではありません。「審判する」と言うのですが、救世主は、何かを審判しようとして来られる方ではありません。

七百七十四
 
その方は神様の息子、娘であると同時に、人類の父母として来るのです。人類の父母として父母の心をもって来られる方が、病気になって死ぬ場でうめいているこのような息子、娘を見て「おい、お前はあの地獄へ行きなさい!」と言って片づけることができますか。堕落したこの世の親でも自分の息子が死んでいく悲惨な姿を見れば、のどが詰まったり痛哭したり自分の生命を失うことがあったとしても、生かしてあげるためにはどんなこともしたいという心が先立つのです。それが堕落した世界の父母だと言うなら、本然の父母の心情をもって来られる救世主はいかばかりでしょうか。審判というものは考えられないというのです。そうでしょう。


聖書には「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)と叫びながら……。世の中をこのように愛していると言いました。世の中の救いのためにイエス様が来たのであって、キリスト教の救いのために来たのではありません。終わりの日に審判するのですか。それでは、神様が世の中をこのように愛するという定義とは違います。キリスト教徒だけ愛するのですか。いつも愛していることを知らないでいます。それを教えてあげて悔い改めさせなければならないのです。教派主義者たち、行ってみなさい。


今日、既成教会では、神様が審判してどのようにすると言いますが、神様が思いどおりにできるのなら、今までこのようにする必要はありません。堕落したその次の日にすべてしてしまったはずです。打って勝利したその基盤の上に神様の愛の理想を立てることができるという原理はないというのです。


今日、既成教会の哲学が間違っているのは何ですか。神様を公義の裁判長と言います。裁判長を五年やれば、腰が曲がり始めるというのです。なぜですか。腰を伸ばすことができないからです。キリスト教がこれを知らなかったというのです。ただ力の神様、全能の神様を追慕して、それとともに一つになれば何でもできると信じているのです。ここで人を殺してもかまわないという論理が出てくるのです。今日キリスト教を中心とした西洋文化が力の哲学を培養してきたがゆえに、西欧文明の背後には血が連結されています。


神様もそうなのです。この地上の悪なる人々を審判し整理するのは、神様がするのではありません。サタンを前面に立ててするのです。


神様がこの世界を審判しようとする時、

「少し待ってください。神様、これを見てください。実におもしろいことがあります」と言って、「それは何だ」と言われれば、「私の手のひらです。どんなにいい手相をしているでしょうか。あなたの手相より良いので、私がこれをしています」とこのように言えば、神様が何と言うでしょうか。

手相を比較しながら、このような者と話していれば、悔しいことがみんななくなるのではないですか。「神様、あなたが私の手を切って捨てますか。審判しますか」と聞けば、「ヒヒヒ、この者、この者」と言うのです。醜くても、そうすれば喜ぶのです。何の話か分かりますか。陰陽がなければなりません。傑作品になろうとするなら、バックグランドが立体性を成さなければならないのです。すべてのものがそうです。

七百七十五
 
人は日なたと日陰があって格位を備えてこそ人格者になるのです。神様がいくら怒ったとしても「神様そのように怒らないでください」と言うより、「神様、あれを見てください」と言って「なんだ」と聞かれれば、「あの鷲が鶏を捕まえて食べようとしています」と言うのです。「鶏を捕まえて食べようとして、食べてしまって……」と言えば「その鷲があなたのようです」それで、神様が引っ掛かるのです。「お、こいつなんだ。私が…

…」そのようにすれば、話すことができずに

「ふむ……」と言うのです。


神様に尋ねてみると、公義の審判主になるというのではありません。神様は審判しません。霊界を知らないのでそのようなことを言うのです。キリスト教で説教しているものをちょっと読んでみなさい。でたらめです。霊界をあまりにも知らないのです。そのようにして天国に行きますか。どうなるのか、行ってみなさいというのです。ですから、すべてからすの群れ、鷲の群れが食いついていきます。世の中の人たちより悪いのです。私はそのような人とは相対しません。犬がほえるのに一緒にほえれば、犬のようになるのです。相対しません。哀れなので、今後飢え死にするようになる時は、私が食べるものをもって訪ねていって食べさせてあげようと考えているのです。


全人類は、しっかりしなければなりません。統一教会の文総裁の教えは、救世の真理なのです。人類が永遠に必要とする真の愛と生命のみ言です。再臨主が世の中を救おうとして来られるならば、人類を鉄の杖で審判してはなりません。打ってはたったの一人でも完全に屈服させることができないのです。

自分のために生きて、手がひきがえるの背中のようにでこぼこにゆがんで開かないほどに苦労した母の犠牲的な愛は、親不孝者を悔い改めさせて帰ってくることができるようにする力があるのです。棒をもってはできません。審判の大王であり、天地を思いどおりに主導する神様でも真の愛なくしては、天宙統一は不可能なのです。真の愛はいかなる困難も問題になりません。自分の生命を投げてでも行くことのできる力が、真の愛にはあるのです。


怨讐を溶かすことができるものも愛です。高の親不孝者を孝行者につくることのできる力をもったものも愛です。逆賊だと主張する人を忠臣のように屈服させ得る力も愛にだけあるのです。それは可能なのです。それで、古くから人間は、優秀でも愚かでも愛を中心として命を懸けたり、生きたりしたがるものです。誰が「アーメン」と言いなさいと言いましたか。アーメンは私の特許品ですが。


長老派教会の教理は、神様は公義の審判長になって、予定して救援なさるというのですか。そのようなたぐいの狂った、ばかげた話がどこにありますか。それこそ詐欺師です。私が調べてみると神様はそうではありません。本来、人間が生まれる時、神様が天国に行くようにつくっておき、地獄に行く人をつくっておくなら、それがどうして善の神様ですか。理論として通じません。理論として通じてこそ常識に合うのです。常識に外れた真理はありませ

ん。常識にも合わないことをもって……。


七百七十六
 
考えてみなさい。裁判長が殺人犯を裁判して死刑を言い渡し、五人だけでも殺してみなさい。そのたびに行って検診しなければなりません。また考えてみなさい。大韓民国の法と北朝鮮の法は違います。ここで死刑宣告を受けた人が、向こうで愛国者にもなり得ます。天地の大道を中心として、公義の法を中心として考える時、弁護士の心が平安でしょうか。 審判の大王であり、天地を思いどおりに力をもって主導する神様ならば、天宙統一は不可能なのです。これはお金をもっていてもできず、知識があってもできず、権力をもってもできません。ただ一つできるものがあるならば愛しかありません。


悪魔でも神様は審判できないのです。ヨブ記を見てください。サタンがあのようについて回りながら支配するようになっても、なぜそれに応じてあげるのですか。応じてあげざるを得ません。サタンは「あなたが私を愛で消化せずには、愛で消化して本然の基準に合わせておかなくては、私を支配できないのがあなたの道理ではないですか。愛の道理を、原則的な愛のすべての完成的な道理を越えて私を主管するようになっているのに、その道理が満ちていないので私を主管することができない。私を主管しようとするなら、私を屈服させようとするなら、その道理の形態に合わせたその基準に……。個人基準ならば個人、家庭基準ならば家庭、氏族基準ならば氏族、民族基準ならば民族、ここで私が順応できるのであって、そうでなければならないのではないでしょうか」このように言うのです。これに身動きできずに引っ掛かっているのです。

これを知らなければなりません。


皆さん、そうでしょう。この世で「あなたは何をしたいのですか」と聞けば、「私は高裁判所の判事がしたい」と言います。「判事」と言えばみな喜ぶでしょう。今日、既成教会で信仰する人が「神様は天地の大主宰であると同時に、善悪を見分けて善人は天国に送り、悪人は地獄に送る、天地を公義の法を通して治める裁判長です」と言いますが、そのような裁判長が良いですか。今まで歴史始まって以来数千億の人を地獄に送ったとすれば、その神様の気分は良いでしょうか。そんなことはあり得ません。それゆえに、玉座に座って公義の審判長の権限をもって行使して暮らすことが、神様の生活目標ではないというのです。神様がそのようなことは嫌だというのです。


神様よりも自分が自分自身をよく知っています。それゆえに、私たちには審判主が必要ありません。事実、神様が必要ないというのです。自分の良心がよく知っているのです。このような原則について見てみると、解放的な基準を中心として私は何パーセントの解放の目的をもって参加したかという事実はパーセントで出てくるのです。私が本物なのか、偽物なのか分かっています。知らないですか、知っていますか。知らなければ望みがないでしょう。知らなければそれは共同墓地に行かなければなりません。そうでなければ、ごみ箱に入っていくか、そうでなければ、投げて太平洋にほうり込まなければなりません。それは処理困難なのです。

七百七十七
 
皆さんは善なることと悪なることを知っています。一言言うのも私が悪いことを分かっています。見る視線も悪いことを知っています。聞くこの音声も、感じるこの触覚もみな知っているのです。霊界に行くようになればそれがすべて現れます。頭をこのようにすれば、すぐに自分がどのような人なのかすべて現れます。その心の鏡、心の光彩がさっと現れるのです。説明が必要ありません。霊界を知らないのでそうでしょう。私はよく知っていますから、世の中の人に非難されてもじっとして耐えながら今まで来ました。 この世の中にはどのような人が生きているかと言えば、僕の僕が生き、僕が生き、養子が生き、庶子が生きています。このように混じっています。この秩序を立ててあげなければならないのです。何によって秩序を立てるのでしょうか。愛しかないというのです。そのような愛の伝統的な道理を受け継ぎ、引き継いできた宗教が、世界的宗教にならなければならないのに、その愛の道理に外れた宗教と、この愛を中心として従っていけない人は、歴史をかけ、時代を代表して審判されるようになるのです。

その愛が、天地を愛するその愛の伝統が、世界を愛するその伝統が、国を愛するその伝統が、民族を愛するその伝統が、自分の家庭を愛するその伝統が、父母と妻と兄弟を愛するその伝統が、自分が自分を愛するその伝統が世界を審判するのです。


神様は審判者であられ、イエス様は弁護士のようですが、今まで天の側の検事がいませんでした。今まで悪魔が検事をしていたのです。天の側の検事が生じなければならず、天の側の裁判長が生じなければならず、天の側の弁護士が生じなければなりません。このような意味から統一教会はすべてのものを備えているので、サタンを永遠に、人本主義を永遠に、淫乱主義を永遠に、破壊主義を永遠に地球において打破しなければならないのです。

これが統一教会の主義です。


神様が願うものはほかのものではありません。愛です。終わりの日になったら、何がも怨讐ですか。審判の第一の条件は何ですか。終わりの日には自分が愛するものが、審判の第一の条件です。学者には学者意識、学ぶというそれ自体が審判の要件になります。自分がも喜ぶことが審判の条件になります。お金を も喜ぶ人、お金を集めるためにすべてのものを犠牲にする人は、それが審判の条件になります。名誉を喜んで、権力を喜ぶ人はそれが審判の条件になります。女性なら女性のすべての素性によって、特定の素質によって喜ぶものがあります。それが審判の条件になるというのです。


悪口を言われながらも忘れて、むちで打たれても忘れて……。先生はそのような歴史の事情が多いのですが、私がそれをもって審判しようとするのではありません。愛をもってそれ以上のことまで消化しようとする道を行くので、それで神様が私を好きなようです。私もそのような人が恋しいです。少しやって代価をもらおうとするそのような人を、私は嫌う人です。誰か私の前で「代価をもらう」と言う人がいますか。顔を上げて出てみなさい。話を少ししましょう。


悔い改めなければ、皆さんは公義の審判を受けなければなりません。愛の統治法の前に立つ者がいないのです。その時に先生が弁護士になってあげて、先生の家族の一族が弁護士になってあげ、皆さんを指導する統一教会のすべての人々が弁護士になり、神様もそうであり、先生もそうであり、先生の家庭から指導者までそうすることができ、弁護の範囲が讒訴圏よりも多くあってこそ、善の天国の民族として入籍できるのであって、その讒訴圏より小さくては入籍できません。


七百七十八
 
法の道理を私も行っているのです。ですから皆さんは黙ってこの道について来なければなりません。黙ってこの道に従って行く日には、そこに共に参与した恩恵を受けることができますが、そこに自らの家を建てて自らの丘を造っておいては、審判の条件に引っ掛かるのです。刑務所に入った人が国家の法律の何条に引っ掛かったということと同じです。国家全体の法に引っ掛かったのではありません。ある条目に引っ掛かるというのです。同じように皆さんも審判の項目の何条かに引っ掛かれば、行くことができません。


共に滅びることがあっても、背信者の道を行くなというのです。滅びれば霊界に行って良い立場に立つのです。背信者にならなければ、その背信者にならないグループで今後いくらでも発展できますが、背信者は発展できません。それがいつも遮っているのです。それを消化して越えていくことのできる力が自分にはないのです。ですから、国に対する背信者や……。より大きな目的のための立場でついていかなければならないという決意をしたのにもかかわらず、裏切ればそこに大きな目的が私をいつも審判する位置で責任を追及するのです。そこから脱け出す道がないというのです。


今後、社会が一箇所に出て国を設定し入っていくようになる時は、皆さんの経路をすべて一つ残らず書いて、あの公義の審判場でパスしなければなりません。再審査を経ずしては国家祝福の位置に行けないのです。世界祝福まで行くべき道が残っているのです。統一教会がする祝福は教会祝福です。審判はどこから、統一家から、祝福を受けた息子、娘から、祝福を受けたお父さん、お母さんから、それから……。これをしておいてその秘法により比例する世界の審判圏に越えていくでしょう。はっきりと知らなければなりません。 祝福を受けたというこのでたらめな女たちからしっかりとしなさい。原理は後回しにしておいて自分勝手に生きて、原理の世界が、み旨の世界が皆さんと関係を結ぶことができると思いますか。とんでもないことです。そのようなことができるならば、私がこれほど苦労しません。


神様の愛と神様の生命と神様の血統を通して、鉄槌で審判するでしょう。そのような時が来るのです。その時にメシヤが来るのです。メシヤがどのような方か知っていますか。救世主がどのような方か知っていますか。本然的な愛の秩序を求め、本然的な神様の永遠な生命と愛と血統の本宮を求めて、幸福の基地を正しく立て直して、それと連結した家庭と一族を越えて、民族と国家、世界に一つの愛の主導権に立てるために来られる方であることを知らなければなりません。


神様の家庭とは何ですか。このような真の愛を中心として、神様の位置にいるこれは、下にもっていって合わせてもよく、これをすべて離してどこかにもっていって合わせてもすべて合うのです。おじいさんの肩に孫が上がっても、家法で審判しません。孫がおじいさんのふとんを持っていって、おじいさんが隅に体を曲げて寝るからといって、親不孝者だと審判しません。そこではすべてのものが

OKです。


「御父母様」と言葉ではよく言いますが、父母様に侍ったことがありますか。私が夜を明かせばさらに夜を明かしてこそ侍る位置に



七百七十九



立つのです。私が苦労すればもっと苦労してこそ侍る位置に立つのです。ついていきながらみな寄生虫になりました。寄生虫は寄生の虫というのです。この者たち、寄生虫という名前にぴったり合います。偽物を喜ぶこの者たち!統一教会の者はそのようなものが多いです。今粛清しなければなりません。

本当に怨恨をもった文総裁は、統一教会の遊んで食べて教会をむしり取って食べる食口を、ガソリンをかけて私の手で火をつけようと思います。世の中を審判する前に、この者たちを審判しなければならないのです。私が教えてあげた道理に一致しなければ、きれいに整備しなければならないでしょう。


この悪魔の世界が天国を成し遂げるのに提供するものは何もありません。それはすべて火で燃やしてしまわなければならないのです。それで、聖塩を作って聖別させてそれを代わりに使うというのです。堕落したこの人間まですべて火で燃やしてしまわなければならないのです。火の審判を受けるのです。それで、人を私の手で再創造しなければならないのです。心情を投入して生かして天国に連れて行くというのです。

今まで私の手で一人の生命も血を流すようにしませんでした。私が手をつける日は恐ろしいのです。どうかそのような結果をもたらさないように皆さんが肝に銘じてください。分かりますか。血を見る日には問題が大きいのです。原則がそうです。それで、金日成までも私が生かしてあげようとするのです。


私が酒を飲んでここに来て座っておしっこをもらしながら、「あなたたちなぜ来たのか」と追い出せば、残る人が何人になるか考えてみましたか。なぜ笑うのですか。そのような審判が天地の誰も分からずに引っ掛かり得る審判方法です。真の愛で愛するための参与者を探すためには、丸裸になって、半気違いになって横に行っておしっこをもらしても残る人が何人になるのか、そのような考えまでする人です。

なぜですか。私が経てきた道がどんなに驚く道か分かりません。それを皆さんは知りません。私の母も知りません。今ここのお母様も知りません。それゆえに、霊通したおばあさんたちが、先生がかわいそうだと大いに泣くそうです。話さなければそれを誰が知っていますか。難しい問題を今まで一人でぶつかってきて、内外共に倒れていることを誰も知りません。


三) 罪を犯せば家庭裁判に、一族が審判する

皆さんの父母は何かといえば、公義の法廷の裁判官です。それを知らなければなりません。皆さんの家庭では必ずお母さんが弁護士の役割をします。そして、兄弟が間違ったら、その兄弟がすべて検事の役割をします。「ああ、姉が先にそうしたのであって、私が先にそうしたのではありません」。それで、お母さんはただ聞いて「うんそうか、お前が正しかった。お前が正しかったのではない。この子が正しかった」と言うのです。


780 * 七百八十
 
ですから弁護士のようなものです。お母さんが弁護士の役割をするというのです。兄、姉、弟たちがけんかをしたら、検事は誰ですか。姉も検事になり、兄さんも検事になります。それを知らなければなりません。皆さんの家の中に判事、検事がいることを知らなければなりません。若い青年たち、そのように考えてみたことがありますか。


妻が見て恥ずかしい夫になるなというのです。妻は神様の特使です。息子、娘が神様の特使だというのです。私を監視して教育し正しい道へ行くようにするための一番の側近者としての特使だというのです。子女の前に恥ずかしい父親になるなというのです。その天の特使は盗んだ物を食べさせるなというのです。詐欺を働いて天に侍ることができますか。先祖に侍ることができますか。それなら、皆さんがあの世に行けば、先祖が瞬間的に審判します。神様は審判しません。先祖が審判して結局は世界的な公判廷まで引っ張り出すのです。


先祖がここで報告して公判廷に引っ張り出さなければ、その先祖は善人になれません。そのようになっているのです。その統治法を背後に置いて未来に希望の基盤を決定すべき、またそのような日々を迎えていくべきこの生

涯の路程というものは深刻だというのです。


今後、理想時代には法廷が必要ありません。この世で人生の過程は永生の基盤であり、あの世に行って生きるべき準備の過程であるがゆえに、一族の中で誰かが誤ったら一族が処理するのです。一番の裁判長が誰ですか。妻が誤れば夫が裁判長になるのです。子女が間違った時は父親が裁判長になるのです。それで公法により指導を受けてその一族が処理するのです。


今後、あの世に行けば誰が審判するようになるのでしょうか。自分の先祖が審判します。今後は国に裁判所がなくなります。一族が処断するのです。裁判長は誰がするのかといえば、自分の父母がなります。も近い人になるのです。エデンの園で誤った時、誰が裁判しましたか。神様がしたでしょう。お父さんがしたでしょう。自分の一族にとって恥ずかしい事実なので、そのようにするのです。検事は誰がするのでしょうか。も愛する人に

なるのです。夫が誤れば妻が讒訴するのです。


誰が審判しますか。も愛する人が審判するのです。アダムとエバを誰が審判しましたか。アダムとエバは兄さん、妹です。怨讐になりました。誰が怨讐に判決しましたか。アダムがエバを、エバがアダムを判決しました。

そのような時が来るのです。


天地と運命が左右され得る法を設定すべき仕事が、私たちが行く道の前に待っているということを知らなければなりません。その法が設定されるようになれば、今までむやみやたらに生きた人間は許しがありません。自分の一族で処理するのです。法廷に行きません。自分の氏族が中心になります。文氏ならば全国にいる文氏の宗族でその文氏の宗族法によって族長が審判するのです。そこには許しがありません。


七百八十一
 
今後、罪を誰が審判するのでしょうか。もちろん霊界でも審判するのですが、自分の周辺にいる人々が審判します。誤れば町内の人が審判するでしょう。町内より高い段階の郡ならば郡の人が審判します。郡の人が誤れば道の人が、道の人が誤れば国が、国が誤れば世界が審判するのです。それゆえに、その秩序的基準に合格できる制度がこの制度です。 今後、罪を犯すようになれば、法廷に引っ張っていって断罪するのではありません。自分の一家でするようになるというのです。そのような時代が来るのです。ですから、呪うこともできないでしょう。自分のお父さんとお母さんが審判し、妻が間違えば自分の夫が審判するのです。それゆえに、今後統一家の祝福家庭の二世が誤れば、誰が処断するのでしょうか。父母がするのです。


アダムとエバのお父さんは神様でしょう。それでは、アダムとエバが罪を犯したのですが、誰が審判しましたか。その次は誰ですか。その次は自分の相対です。夫を妻が審判しなければならず、妻を夫が審判しなければなりません。その次は誰ですか。息子、娘です。愛の源泉を中心としてすべてこのようになるのです。

も近い人がも嫌うのです。息子、娘がも嫌い、夫が も嫌い、妻が も嫌い、父母が も嫌うのです。それにもかかわらずそのような行動をしては、父母を欺き、相対を欺き、息子、娘を欺き、天地の前に「お父さんだ、お母さんだ、兄弟だ、父母だ」と言えないというのです。ここにもそのような男性、女性がいるとするなら、今後あなた方だけでみなブルドーザーで押し出してしまいなさいというのです。


統一教会の家庭に対する審判時代が来るというのです。みんなヨルダン川を渡っていくのに、こちらに立って見つめながら渡ることができないのです。モーセがピスガ山上でイスラエルの地を見つめながら入っていけなかったのとちょうど同じです。家庭もちょうど同じです。ですから警告するのです。 警察が必要ありません。刑務所が必要ありません。一族の責任者が集まって警察に代わり、判事に代わってその家庭を審判するのです。その部落の法に外れることがあれば、問題が起こるのです。


完成した子女、完成した兄弟、完成した夫婦、完成した父母はこうであるべきだという神様の公式的なモデルがあるでしょうか、ないでしょうか。それがあってこそ永遠な審判の基準になるのです。「君は天国の第一合格者、第二合格者、第三合格者……」という系列を定めることができ、位置を決定できるのです。そのようなものがあるでしょうか、ないでしょうか。なければならないのです。そのような愛の理想相対を地上に実践し完成しようというのが創造理想だというのです。それで、神様が子女を造られたのです。


今後、一族の中でもし犯罪者がいれば、なにがしの一族、その一族の族長を中心として統治するのです。氏族的メシヤが神様の代わりの裁判長になるのです。自分の一族に事件が起これば、雷が落ちるのです。その一族からそのような悪者を輩出したという事実は、一族の看板に泥を塗るのです。部落がこのように滅び腐敗していく国ではいけません。全体が一つになって一族を保護するのです。


七百八十二
 
若者の中で悪者が生じれば捕まえて「こいつ!」と張り飛ばすのです。一番後におじいさんが裁判長になり、お父さんが検事になり、お兄さんが弁護士にならなければなりません。天地原則の大道を明らかにするためには、私たちの家庭の検事になり、お兄さんが弁護士にならなければならないのです。 「天理原則の大道を明らかにするためには、私たちの家庭の血族ですが、血族になることができません」このようにして無慈悲に公的な審判をしてしまわなければなりません。それで、警察がなくなるのです。軍隊がなくなるのです。


今後は警察がすべてなくなるのです。罪を犯せば、家庭が絶対権限をもって家庭で解決するのです。その父母が責任を負うのです。夫が間違えば妻が審判するのです。も近い人が審判しなければならないのです。なぜですか。偽りの愛の種が残したものを真の愛の相対的基準が処理しなければならないために、も近い人々が審判しなければならないのです。


罪というものは何ですか。罪は私的な所で生じるのです。滅びるのも私的な基準で起こるのです。悪も同じです。私的なことが度数を越えれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があるのですが、その限界を越えれば悪になり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです。それでは、永遠に善であり得る、永遠に発展することができ、永遠に福を受けることのできる位置はどこでしょうか。滅びるのを避けることのできる位置、罪になることを避けることのできる位置、悪になることを避けることのできる位置はどこでしょうか。

それは正に公的な位置です。御飯を食べても公的な位置で食べなければなりません。仕事をしても公的なこととして、話をしても公的な話として消化しなければなりません。このように一切を公的なものと関連づけ生きなければなりません。そのような人は地獄に行こうと思っても行けないのです。


本来、天法の道理に従っていく人間には、自分自身が滅びることを防ごうとしたり保護したりしようという心があるのです。これは神様に本来そのような心があるので、人間にも本来あるようになったのです。自分が作った法ではないというのです。

「良心よ、私がこうなのでこのようにする」と言いますか。「私の考えがそうであるがゆえに、そうすべきだ」と命令するからといって良心が作用しますか。どこか分かりませんが、違う所で命令を受けるのです。そのような感情が自分を支配するのを見ると、これは公私問題を中心として支配するということが分かるのです。


罪をたくさん犯した人は、どんどん北極に送るのです。そのような時が来るのです。そのような人々に御飯をなぜ食べさせますか。熊の子を食べて生きるのです。何年間かその境界線にほうり込むのです。「何でも捕って食べて暮らして死ななければ、何年かあとに来い」と言うのです。そのような隔離時代が

来るのです。

その世界で死んだなら死に、死なないなら死ぬなというのです。虎を捕まえて食べるならそのようにしなさいというのです。氷の家を建てて生きるなら生き、建てないなら建てるなというのです。そのような隔離時代が来るというのです。伝染病患者は隔離するでしょう。そのように完全に隔離するのです。ですから予防薬として強調することが、罪を犯

すなということです。

七百八十三
 

第三章 真の御父母様と霊界 一 真の御父母様の権限と使命 一) 真の御父母様は肉体をつけられた神様

神様は無形でいらっしゃるので霊界に行っても見えません。それゆえに神様は体をもった父にならなければならないのです。体をもった父になることによって、無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。神様は体をもつためにアダムとエバを造りました。体をもつには愛だけが可能です。愛があってこそ神様の形状に似た体を備えるようになります。アダムとエバが神様の体を備えれば、彼らの心の中に神様がいらっしゃって、地上世界と無形世界を統治するというのです。神様の王国をつくるのです。神様の王国は愛の王国だというのです。愛を中心としてこそ霊と肉が一つになるのであって、他のものでは一つになることができないのです。


神様は、神様と人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標とされたのではありませんでした。縦的な愛を完成してアダムとエバの横的愛の結実をもたらそうとされたのです。その瞬間が正に内的父母であられる神様が外的父母であるアダムとエバと完全一体を成すために臨在される愛の理想成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状をかぶって有形世界に永存なさる父母になるのです。この時アダムとエバは真の父母、真の先祖になるのです。


神様が体をもった父になることによって、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。それゆえに神様の形状に似た体を備えることができる姿としてアダムとエバを造ったというのです。そしてアダムとエバを天国の王宮に、王座に上がるようにして、その王と王妃の心の中に神様の王国をつくるのです。王国は愛の王国だというのです。愛の王国。愛を中心としてのみ霊と肉が一つになるのであって、他のものでは一つになることができないのです。


神様が心と体に入った愛をもった男女が結婚すれば、それは誰の結婚になりますか。誰の結婚になるのかというのです。人間の結婚であると同時に神様の結婚です。驚くべき話です。既成教会の信徒たちは驚き倒れる話です。「あんなことを言うから異端だと言うのだ」というのです。異端は誰ですか。本当の

異端は誰なのか霊界に行ってみてください。


本来アダムとエバは何ですか。神様の長男、長女です。神様は天宙すべてを創造した万能の王であり、アダムとエバはその王の子女なのです。王の息子と王の娘が絶対者である神様の愛を中心として一つになって、神様と一つになったその基準に立たなければなりません。それがアダムとエバの位置です。言い換えれば、アダムとエバは地上天国と天上天国の王にならなければならないというのです。皆さん、神様の姿は霊界に行っても見えません。姿が見えないのです。神様の創造目的は何ですか。自身の形をもつことです。姿をもちたかったというのです。


七百八十四
 
無形の神様は実体がないので、その形態を身代わりしたものが真の父母だというのです。真の父母は個人的な父母であり、家庭的な父母であり、氏族的な父母であり、民族的な父母であり、国家的な父母であり、霊界に行っても、今後、真の父母の形状で神様が現れるのです。統一教会の偉大なことがそれです。レバレンド・ムーンの偉大なこととは何かというと、レバレンド・ムーンの形状を神様がかぶられるということです。何の話か分かりますか。


先生が監獄に行って、悪いうわさが立ち、すべて滅んでなくなると思っていたのですが、今でも生きて堂々と大口をたたいています。アンテナを張ってすべて見聞きして分かっていて、大声をあげているのです。神様も先生のサインが出ているか、出ていないかを見てそれから決裁するはずです。先生のサインがあるかないかを見て、先生のサインがあれば「OK」、ない時は「ノー」と言われるのです。言葉は簡単ですが、そのようになることがどれほど難しいかを考えてみてください。今後の世界、霊界はすべて先生の手中で動くはずであり、この肉界はいずれ一つの谷間へ行くしかないという結論が出てきます。


自然世界は真理でぎっしり詰まっているというのです。皆さんは霊界に対してよく分かりませんが、先生は霊界の専門家です。そこは二十一世紀ではなく二十二世紀、三十世紀になったとしても、先生がいなければ開門することができません。理論的に霊界を教示して霊界を開門する時、体系的内容を明らかにしてくれた元祖が文先生だという名声が永遠に残るのです。


霊界を結束させなければならないのに、霊界を収拾できない人は天下を統一できないのです。天運の根が天であるのに天を収拾できないのです。天運の根が天であるのに天を収拾できない人がどうしてその結果をこの世の道理として世界を統一できますか。それゆえに地上を統一する前に霊界を統一しなければなりません。


天国に王宮がありますか、ありませんか。そこの王は民主主義の王でしょうか。どのような王でしょうか。霊界は真の愛を中心とした所なので、霊界の王は一度中心になれば永遠です。それゆえに、高い所、低い所を一つと見るのです。全体を球形と見るのであって、分離されたものとしては見ないというのです。


二) 宇宙の中心軸、地上・天上の統治者

霊界に行けばアダムとエバが家庭の王であり、氏族の王であり、民族の王であり、国家の王であり、世界の王であり、天宙の王なのです。ですから、霊界に行っては神様の代身者となるのです。神様は無形の神であるので見えません。あの世に行っても神様は見えないのです。しかし神様も体が必要です。それで、神様が造った万物世界は体をもっています。無形の神が体をもつことのできる相対的な存在を必要として万物を創造したがゆえに、完成したアダムとエバは神様の体になるのです。


七百八十五
 
アダム家庭とは何かというと、将来アダム一族の族長になり得る立場であり、アダム一国の王になる人であり、世界の王の中の王になる人です。神様の代身と一体となることができる世界です。神様がなぜ創造をしたのでしょうか。地上で人間アダムの後孫を通じ天国の民を育てることがアダムを造った目的です。ですから、地上でアダムとエバに通じることなしに子女を……。

霊界で子女繁殖はできません。縦的であるために霊界に行っては息子、娘を生むことができないのです。ここは縦的ですから縦的なものは一点の上に立つのです。面積がありません。それゆえにアダムとエバが縦的な基準の前に三六〇度で……。これは無限であり、無限の面積が必要なその中で生まれた無限な息子、娘を天国の民とするためのものだというのです。そうなれば天国で王になることができる方が誰かといえば、神様です。神様が王にならなければならず、神様と一つの体となり得る、体をもつことのできる人が必要です。

その体が誰かといえば、アダムとエバです。


堕落しなければアダムが誰ですか。霊界に行くようになれば神様になるのです。霊界で体をもつ主人になるのです。神様はあの世に行っても見えません。なぜ人を創造しましたか。この宇宙は実体があるので、実体の主人であるアダムとエバを中心として管理主導できる立場に立つためです。


神様が霊界で無形でいらっしゃるので、支配できないから、実体の仮面をかぶって実体の体をもつことによって、あの世において、地球星で生産されてくる自分の息子、娘たる後孫を、実体をもって支配することのできる王になるために実体の人を造ったのです。その王の顔が誰の顔ですか。アダムの顔です。王をつくったから王妃が必要なのです。王妃とは誰ですか。エバが皇后にならなければならないのです。地上の先祖であると同時に、天上世界の先祖になるのです。 霊界に行けば先生がすべて統治しているのです。先生ではなく、神様です。神様の体なのです。皆さん、体のあるところに心があるでしょう。心と体が一つです。もう少し深い話をすれば良いのですが、ひっくり返る人々がいるために話をしてあげることができません。ひっくり返るようになっています。「ああ!そんなことがあるものか」と、このようになるのです。本当にそのようなことがいくらでもあるというのです。神様は遠方にいるのではありません。そのようなことがある、限りなく近い所にいらっしゃる方であるのを知らなかったのです。


霊界に行けば神様が見えるのではありません。神様がアダムとエバを造ったのは、実体的万物世界を、今後後孫にすべて管理させるためです。神様も形状が必要だというのです。アダムとエバの形状をもち、あの世に行ってお父様の役割、すべての中心存在の役割をするのです。父母様があの世に行けば、神様が心にあって一つの体になって、全霊界とこの地が一つになるのです。神様が心に入り、父母様が神様の身代わりに入っているのです。私たちの体と心の関係のようなものです。そのような原則になっているので、地上の皆さんの家庭は、霊界の中心家庭である父母様の家庭と神様が一つになったその形態を、小さいけれど皆さんの家庭に一単位として実を結ばせたのと同じだというのです。


七百八十六
 
アダムとエバが堕落しないで完成し、人間の責任分担を果たせば、この地上世界と天上世界に地上天国と天上天国が成されて、愛を中心として一つの世界になるというのです、真の愛を中心として。結局は初であると同時に 後になる日は何ですか。「真の父母の日」です。「真の父母」と言えば、神様は縦的な父母をいい、真の父母は横的な父母をいうのです。縦的な神様は霊界を代表し、横的な真の父母は地上世界を代表して一つになるのです。真の愛によって一つになる世界です。その二つの核心的な内容が真の父母です。真の父母の中に縦的父母と横的父母があることを知らなければなりません。


三) 真の御父母様を通して天国に行く

宇宙の中心が何かというと、霊肉の真の父母です。その基準を中心としてそこから東西南北が生じ、家庭が生じ、氏族が生じ、民族が生じ、国家が生じ、世界が生じるのです。これが、宇宙の根本です。これを中心として霊界が生じるのです。これが、九〇度、三六〇度になってこの中に宇宙が入るのです。


先生が幼い時から霊界問題に当面しながら、このようなすべてのものを探し出してくる中での伝承的な記録が、「原理」のみ言だということを知らなければなりません。漠然とした話ではありません。それで、李相軒氏もこの地上に生きているとき、先生を一〇〇パーセント信じられませんでした。先生が「右手は霊界をつかみ左手は地上をつかんで、反対に引き抜かなければならない責任が真の父母にある」と話したのですが、それが何のことか分からなかったのです。


今私が神様に「神様、私は堕落したこの世界と霊界を見たくありません。新しい、これよりももっと良い天国を再びつくれば良いです」と言っても、それが可能だというのです。まだサタンが解放されていないのが問題だというのです。サタンを底無し地獄に押し込んで、影も見たくないし、恨みの声も聞きたくないというのです。解放されたとしてもまだ処理すべきことが残っています。


皆さんは霊界についてよく知らないでしょう。私は霊界の専門家です。おそらく歴史の中で霊界を開門することにおいて、理論的基盤と体系的内容によって霊界を教示し明らかにした元祖が文総裁だという名が残るでしょう。元祖を知っているでしょう。貧しくて助けるという意味の援助(注:韓国語読みでは元祖と同じウォンヂョ)ではありません。

「根本の意味の元」と「先祖の祖」です。 皆さん、文総裁に対して「真の父母」と言いますが、私はその「真の父母」という言葉を も嫌う人間です。それがどれほど怖い言葉でしょうか、真の父母になったならば、真の家庭を率いなければならないのです。ここに一門がくっつけば真の一門を率いなければなりません。また世界へ拡張される時は世界を率いなければなりません。天地の前に、霊界と肉界に人類がいっぱいに拡張された時には、それを率いることができる能力がなければならないのです。途方もないことです。そのようなことをみな知っている人です。


七百八十七
 
堕落しない本然の真の父母が来て初めて、神様の垂直と人間の水平の九〇度を合わせられるようになるのです。真の父母が来て九〇度に合わせることができる教育をするのです。霊界へ行ってみてください。私が言っていることが間違っていれば首を切ってしまうのです。真の父母が来て水平垂直を九〇度で合わせられるようになるのです。九〇度で合わせられるように教育をするのです。この教育に絶対服従しなければなりません。体をつかんで打ち、九〇度にしなければなりません。


真の父母は宇宙的な真の愛の中心基盤です。ですから、そのような真の父母が現れれば、朝にすべての山川草木が昇る太陽に向かうように、すべての被造世界が真の父母に向かうようになります。すべての被造物が葉や枝と同じです。霊界ではすべてのものが神様に向かっています。同じように統一教会でも先生が韓国へ行けば食口たちのすべての神経が自動的に先生についていくのです。同じことです。


博士の学位を受けようとするなら指導教授のおしりもふいてあげ、その教授に足でけられても「ああ、ありがとうございます」と言ってこそサインしてくれるのであって、そうでなければしてくれないのです。「私が鼻を見ても顔を見ても体つきを見ても何を見ても優れていて、相撲をしても勝つし、御飯を食べてもたくさん食べ、何でも一等になることができ、十箇所、百箇所良いところがあるのに、一つくらい知らないからといって博士学位をくれないのですか」と言っても通じません。先生がそのような霊界の特許権をもつかもしれないというのです。


天地を与えても取り替えることができない高貴な価値の存在である人間が、なぜこのように脱落してしまったのでしょうか。堕落のためです。それを解放しようとするなら、レバレンド・ムーンを通じなければなりません。レバレンド・ムーンを通じることなしに、この原則を知ることはできません。いくら学者であり、いくら世の中でずばぬけているといっても、霊界に行く時はレバレンド・ムーンのサインを受けて入っていってこそパスするのです。


考えてください。先生を中心として霊界が協助する、それが普通のことですか。霊界もそうですが、今からは私が深刻にしなければなりません。先生が血を見るようになれば恐ろしいのです。無慈悲なのです。歴史的なすべての蕩減を何倍もかけて打ってしまうのです。血を御覧になった神様を、歴史過程のその神様を慰労する道がないのです。それを涙でふさいであげようというのが先生の考えです。


霊界でも関心は先生以外にはありません。父母様以外にはいないのです。それが生命の根源であり、愛の根源であり、良心の根源であり、すべてのものの根源です。そこを通じなければ大きくなりません。


この地上世界だけが真の父母を必要とするのではなく、霊界も同じです。どうしてですか。そこでは地上で愛をもって生きた人が行って宮殿をつくるべきですが、そのような人がいないからです。愛の宮殿は神様もつくることができず、霊界の人もつくれません。真の父母がつくらなければならないのです。霊界で愛の宮殿が真の父母から始まります。霊界に宮殿があっても、真の父母が行って「ここを宮殿とします」と宣布してこそ、それを中心としてすべての霊界が落ち着くのです。そのような責任が残っているので、霊界でも真の父母を絶対に必要としています。


七百八十八
 
先生は常にいる人ではありません。歴史始まって以来、二百年の間に一世紀前にもなく、あとにもない、永遠に一回しかないこの期間に生まれた人です。いつでも生まれることのできる人ではないのです。そのような期間に皆さんが先生から直接秘密の内容を学ぶということは、無限の価値があるのです。そのまま実践して霊界に行けば、間違いなく天国に行くのです。その未来の国が皆さんを待っているのです。その天国は今まで空いていました。真の父母が本来入るべきはずでしたが、真の父母が現れなかったというのです。


統一教会の先生の誇りは、神様を知っていることです。霊界で知っている以上に知っているというのです。人がいくら多いといっても、神様の心情を知っている人をも喜びます。宗教人たちが涙に濡れて膝までへこむほど一生の間祈祷をしても、イエス様に出会い導きを受けるかどうかくらいです。にもかかわらず皆さんがここに来て先生に会い、このような話を聞くことができるというのは歴史的な事件です。


復帰の真理だとか、死だとか、霊界などを知るにおいては、何もせずに分かるのではありません。先生は何も食べないで十七時間ずっと祈祷だけをしたことがあります。十時間、十二時間は普通です。ですから、ここがすべて固まってしまいました。今は祈祷を長くしなくても神様が近くにいらっしゃるために、すぐ通じます。この膝にもそのような痕跡があります。


先生が祈祷する時は、冬でも綿ズボンが濡れるほど痛哭したのです。そのような功績を立てて探した「原理」を、皆さんはどのように取り扱いましたか。霊界に行ってそのような事実を知れば、先生の近くにどうやって来るのでしょうか。お母様も先生に対しては用心するのです。分からないことが多いのです。知ればその道に同参しなければなりません。そのような恨の峠を越えるとしても、ここで自分が死んでいきながらも、愛をプラスして死のうとしてこそ、天の死として扱ってくれるということを知らなければなりません。ここは死亡に勝つことができる位置です。死亡が干渉しない位置です。


先生を知っていて損をした人は手を挙げてみてください。いますか、いませんか。いるという者はどろぼうです。誰が損害を受けましたか。私が損害を受けましたか、皆さんが損害を受けましたか。私が一生の間損をしたでしょう。かといって、それを取り返そうとは思いません。代わりに皆さんの後孫の前に返してあげなさいというのです。皆さんの息子、娘にすべて、先生の代わりに父母として侍ってもらえというのです。それをすることができなければ、先生の功をすべて再び蕩減しなければならないのです。霊界に行き、がちっと引っ掛かってしまいます。許しがないのです。


「真の父母」という言葉は驚くべき言葉です。皆さんの中で霊界に通じる人は祈祷してみてください。「神様が高いですか、文総裁が高いですか」と祈祷すれば、文総裁が高いと答えるのです。このような話をするから異端でないはずがないでしょう。


悟りの世界においては、霊界に行って神様にまで認められなければなりません。なぜそうなのでしょうか。「原理」の勉強をすれば



七百八十九



みんな分かるでしょう。そのように難しいのです。それをすべて暴き体系を作らなければならないのです。私たちのような人はしぶとい者なので、そのような体系を作ったのです。その世界があまりに膨大なので手を付けることができません。継ぎはぎのふろしき包みをくまなくすべて解いて一つの服を作るとするならば、君王が着て出掛けることのできる服を作ることができなければならないのです。そして、神様をして「お前は歴史始まって以来において私より勝っている」と言わせなければならないのです。


真の愛を中心として生涯を投入し霊界に行けば、どこででも「先生!」と言うと、すぐに会えるのです。すぐ会えます。心配することはありません。愛の心情に合わせれば同参、同位、同居権をもつことができるので、先生を呼べばすぐに会えます。それはいいでしょう。そのような人々には先生が全霊界を見物させてあげることでしょう。ダイヤモンドの星もあり黄金の星もあります。その時、先生の特権で一つぐらいあげるかもしれません。

先生にはそのような特権があるのです。


分かりますか、分かりませんか、この者たち。この者たちと言うのは、私が条件を残してあげることなのです。「文総裁、どうしてそのように悪口を言うのですか。文総裁に私が初めて会うのに、そのように非難されてはすべて信じることができません」と言うかもしれませんが、その時になって許してあげようと悪口を言うのです。そして、あの世に行き「あなたが悪口を言うので、統一教会を信じることができなかった」。それは理にかなった話なのです。 それで、霊界に行って許す条件を立ててあげるために悪口も言うのです。非難されても心が痛くないのです。帰ってみてください。「ああ、悔しい!」そう思っていたのに、故郷へ行く前にすべて忘れてしまうというのです。心がそのようになるのです。分かりますか、分かりませんか。「分かります!」と言う人は手を挙げてください。ぼーっとしなくなりましたね。


神様は負債を負われる方ではありません。千倍万倍返そうとされるので、文総裁はしがない一人の兵士として監獄に行き来しながらも、先生の所有版図は国を越え、世界を越え、天地を越えて、霊界と肉界の統一的な一つの位置をつかむことができるこの時が来ました。ですから、アダム家庭の天地に統一的な家庭的基盤形態を万民の前に付与できる、このような特権時代を得た先生の権威がどれほど偉大かというのです。全体全般です。一つも欠けることなく全体全般です。その次には全権全能の時代に向かうことができる結果が、先

生の未来の世界に待っているというのです。


790 * 七百九十
 
天宙は霊肉の世界ですが、天上世界の中間霊界にとどまっている霊たちと地獄に行った霊たちをすべて解放し、門をすべて開いてあげてこそ、神様が解放の立場に立つことができるというのです。神様が解放された立場に立ってこそ、全人類が呼吸を共にして太平の時代に入っていくことができるのです。それが統一教会の行く道です。それゆえに、神様が解放される日まで統一教会は行かなければならないのです。偉大な事実です。大ざっぱなのではありません。 今霊界は形態をもっていないのです。真の父母によって形態をもつようになるのです。霊界祝福とともに天地総合地上天国統一の愛の主権世界宣布をするようになれば、先生が霊界に行かなくても、神様は先生の父母の形態をもって霊界を主管できるようになるのです。それゆえにそれを待つのです。別れてしまったものが結合するのを待っているというのです。先生が早く霊界に来ることを待っているというのです。ですから、地上の仕事が終われば霊界の仕事を始めなければなりません。皆、待っているのです。霊界の王として立つのです。地上の王がそのまま霊界の王になって、原理原則に一致した故郷の地に帰るのです。


文総裁の願いは何かというと、教主の中で真の愛のための代表的な教主になろうと考えています。歓迎しますか。皆さんは霊界をよく知らないのです。私は霊界の専門家です。死んでどのようになるかということをはっきり知っているので、世の中の万事がいくら騒々しく反対しても、それが私の目にはとまりません。なぜですか。それよりあの世界を見るからです。あの世に拍子を合わせて暮らすのです。

それゆえに、今後世界の霊通人たちは私のところに来て教育を受けなければなりません。僧侶でもどんな人でも……。天地の秘密を知っている人がいなかったのです。初めてこの時代に文総裁という人が出てきて発表することによって、天国の博物館にもなかった記録の蔵書になり、それを見て数多くの善霊たちが知って、地上の自分の後孫に夢での啓示を通じて、あるいは啓示を通じて教えるようになる時、地上の図書館にぎっしりいっぱいになることでしょう。今ここで言うことは、どのような図書館にもないのです。


神様の心情世界までも発見したレバレンド・ムーンが、偽物でないということを知らなければなりません。このようなすべてのことを聞いてみてください。世の中にないのです。先生が教える内容は世界のどんな図書館の本にもなく、霊界の図書館にもありません!初めてなのです、初めて! このような内容は地上のどこにもなく、霊界のどこにもない新しい真理のみ言です。これは神様と霊界と地上の人間が求めることのできない宝の倉庫にある記録だということを知らなければなりません。


地上で先生を見ただけでも霊界に行っては自慢の種になることでしょう。「私は先生に侍った」と言ってです。草木を見てください。植物たちの芽はすべて太陽の光に向かっているのと同様に、皆さんの本性こそ愛の太陽の光に向かうのです。神様は愛の太陽です。霊界に行けばそうなのです。


七百九十一
 
総結論は何ですか。アダム完成です。アダム完成とは何ですか。アダムができなかったことが何かというと、責任分担の完成ができなかったのです。責任分担とは何ですか。祝福家庭世界の伝統的、世界の礎石的基準が、家庭的礎石であり、氏族的礎石であり、民族的礎石であり、国家的礎石であり、地上天国の礎石であり、天上天国の礎石になることのできるすべてです。その礎石が汚されてしまいました。それを清算しなければなりません。ですから霊界の清掃、地上の清掃、すべてのことをしなければなりません。

二 真の御父母様と天国建設 一) 真の父母になるためにみ印を受けなければならない

再臨主になるためにはどのようにしなければならないでしょうか。霊界に入っていってイエス様を中心としてすべての宗教関係にある原理の内容、天地はこうですべての原則がこのようになったという道理を解いて霊界で承認を受けなければならないのです。その内容を発表しなければなりません。

これは霊界でも分からない話なのです。神様とサタンだけが知っている内容ですが、これをすべて発表するので霊界で反対が起こるのです。それで、四十日間霊界の混乱時代が来ます。サタンが神様を否定する条件を立てて反対するので……。そこで霊界の半分が別れて反対しました。ですから混乱が起こるのです。 後に至っては神様が「どれが真なのか」ということで判決しなければなりません。それで、真の父母が霊界を完全に屈服させて、

神様のみ印を受けて地上に降りてくるのです。


天下を統一するためには霊界を統一しなければなりません。霊界の先祖から「文総裁は異端者だ、反逆者だ!」と言われます。のちには神様までも「そうだ。捨ててしまいなさい」と言うのです。蕩減原則がそうです。アダムとエバが神様を否定したので、神様もアダムとエバを条件的に否定しなければならないのです。否定する立場から肯定し、私の神様として取り戻さなければなりませんし、私の天国として取り戻し、神様のみ印を受けなければなりません。そうして神様がここに共に立って讒訴してから、あとではすべて……。 先生の性格は、一度始めれば 後を見届けるまでやめません。死ぬ前には後退をしないのです。この「原理」がどうだということを私がはっきりよく知っていて、自信満々なので、食ってかかるのです。イエスだとか孔子とか、何を知っていますか。彼らは「ああ、私が学んだのはこのようなものでしたが…

…」と言うのです。彼らは自分たちが教えた教理にはないと否定的事実を質問するのです。

また、「そうではない!」と言うのです。 四十三日間霊界全体に対して闘争の役事をしたのです。ですから 後には何かというと、四十日目は神様までも「レバレンド・ムーン、こいつめ。なぜこの天上世界に来て平穏な天の世界を混乱させるのだ、このどろぼうめが」と言うのです。皆「わっ!」と言いまし

た。かといって私は後退しなかったのです。


私の話を聞いてみてください。再臨主になろうとするなら、霊界に入っていって神様のみ印を受けて来なければならないのです。文総裁が霊界に入っていくことによって、四十三日間霊界で闘いが生じました。地獄の底から天上まですべてが「文総裁は異端者だ!」と言うのです。それを下から整理していかなければなりません。

七百九十二
 
一番あとは聖賢たちです。彼らと神様の前で談判して、正義の主人が誰かという勝敗を決める闘いをしなければなりません。その時の題目は何ですか。霊界に来たすべての人々は血統が変わったというのです。血統転換をしなければならないことを知っていたのかというのです。二つ目は何ですか。所有権転換です。「地上で生きながら個人の所有権をもつことは天国の背信者だ!」と言うのです。道主たちがいくら優れているとしても、ここに引っ掛かっているのです。

ですから、先生が霊界で闘う時、自信満々に「異端が何だ」と対抗して闘ったのです。今後は、霊界に大混乱が起きるので神様が審判長として判決を下さなければなりません。ところが、神様まで反対するのです。「文総裁はお前たちが言うように異端者だ!」と言うのです。なぜですか。アダムが天を裏切ったがゆえに、蕩減復帰の原則によって神様もアダム完成者を裏切らなければならないのです。それでこそ神様の心にわだかまった塀が崩れるのです。そして、全体がみな反対し、神様まであちら側に立っていて、ただ一人文

総裁が残ったのです。


かといって混乱の渦中にある霊界を、そのままにしておくことはできないのです。神様が後の判決を下さなければならないのです。

「文なにがしが言う血統転換、所有権転換、心情圏転換が事実である!」と言うのです。そのような勝利の覇権者として、み印を受けて降りて来なければならないのです。


皆さん、世の中を収拾するためには、霊界を収拾しなくてはなりません。それをせずには世の中が収拾できないのです。先生がこのような真理のみ言を探求し「こうでなければならない!」と主張する時、サタンも反対し神様も反対したのです。人が神様を捨てたので、神様も人間を捨てなければならないのです。蕩減法則です。それで、霊界で四十日間闘いが生じるというのです。四大聖人たちがすべて来て、「レバレンド・ムーン、異端だ!」と言うのです。霊界のすべての宗教指導者たちが私に反対したのです。 このようにして神様のみ前で大会をし、誰が正しいか攻防戦をしました。四十日間、全霊界が大騒ぎしました。「レバレンド・ムーン、異端だ!」と言いながら大騒ぎしたのです。「霊界が複雑だ。私たちは、それは嫌いだ。追い出しなさい!」と言いながら騒いだのです。しかし、神様もこのみ旨でなければならず、このようにしなければすべての世の中を理論的に収拾する道がないというのです。

孔子は神様の人格体を知らないではありませんか。神様をよく知らなかったのです。人格的な神様は分かりませんでした。「天」とは言いましたが漠然としています。質問戦でノックダウンするのです。イエス様に対しては「あなたは再臨論に対してなぜこれこれこういう問題を言わなかったのですか」と言うので、ノックダウンするのです。空中に千年王国を成すですって?霊界に行けばみな間違っていることが分かるのです。私が質問する時、相手は口を開くことができないのです。あとで神様に対しても「あなたが判定しなさい、誰が正しいのか」と言うと、神様があとで「レバレンド・ムーンが正しい!」と言ったのです。


七百九十三
 
霊界に入っていき、四十三日間一番下からぞんざいな扱いを受けるのです。「お前がなんだ」と言ってです。僕、朴氏おばあさんの親類の詐欺師、異端者の魁首だというのです。霊界に入っていって全宗教を中心として、選民たちを中心として、一番あとには四大聖人たちを中心として面談し……。すべて反対するのです。神様まで一緒になって「この逆賊め、たたき殺せ」と言うのです。「歯には歯、目には目」です。四十日期間、霊界全体が反対するのです。 ここで後退しては駄目です。四十三日間を闘うのです。 後には神様までもみな反対したのです。先生が後退できますか。後退すれば大変なことになるでしょう。それで、あとではすべて神様まで屈服させるのです。ですから、神様が霊界に対して「気をつけ!」をするのです。このようにして、「霊界の闘いに対して私が判定しなければならないようだが、実は、すべて当たっている証人は文鮮明だ」と発表をするのです。


それで、神様の前に答弁するのですが、後ろを振り返れというのです。振り返って答弁するのですが、文鮮明の話が合っているとして「気をつけ!」と言い、神様御自身とともに全霊界が先生を証するのです。ですから霊界まですべて終わりました。み印を受け公認を受けて地上に来るのです。


世の中を統一するには、天上世界に入っていって統一しなければなりません。どのように統一をするのでしょうか。歓迎するのではありません。天上世界に行って「天理の道理は私が言うように、このように解かなければなりません」と言えば、サタンも知り神様も知っているといえども答弁できません。すべての道主たちは初めて聞くのです。血統転換、所有権転換、心情圏転換、そのような言葉がどこにあるかというのです。イエス様さえも日ごとにそのように言うのです。聖人たちがすべて反対します。これで四十三日間大霊界の混乱の役事が起きるのです。「あの異端の魁首レバレンド・ムーンを追い出せ!」と言うのです。「追い出せ」と言うからといって、追い出したとしたらどのようになっていたでしょうか。統一教会は出てきません。これでその試験の中で四十三日をすべて押しまくらなければなりません。

先生はそのようなところにおいては専門家です。正しいことと間違っていることの分別については専門家です。それで、サタンなのか神様なのかすぐに分かります。すべて見たところ、違っているのです。ですから押しまくるのです。すると後に神様も大騒ぎするのです。霊界が混乱して、レバレンド・ムーン一人を中心として、霊界がすべて動揺して大変なことになったというのです。神様は審判の主人なので、 後に主人が責任を負わなければなりません。全霊界がレバレンド・ムーンを前に立て神様に讒訴する局面なのです。それで、神様が定義を立て審判しなければならないというのです。二つの闘いを停止させるためには、正しいことと間違っていることを明らかにしなくてはなりません。二つの輩になっているというのです。

先生は一人であり、霊界はすべてが反対です。神様まで反対するのです。「こいつ、悪いやつ。そんな話がどこにあるのか」というのです。アダムが反対して堕落したがゆえに、神様が反対しなければなりません。父母がたたかなくてはならないでしょう。罪を犯した子女ならば踏んでけって、このように許してあげるのと同じように、一番あとで文総裁を立てておいて「前を見なさい」と言って神様が判断するのです。「今まで数多くあれこれ言い立てていたが、文総裁が主張することが正しい」と言ったのです。


統一教会にもがらくたがたくさんいます。たまに「自分がメシヤだ」と言う人がいます。

七百九十四
 
「レバレンド・ムーンは洗礼ヨハネで、私がイエスだ!」と言うのです。レバレンド・ムーンがただでそのようになったのではありません。天国に行って、み印を受けなければならないのです。天上世界の霊界を統一したがゆえに、霊界が先生を後援するのです。全体がそうです。混沌となった霊界が先生によって収拾されるのです。

今まで仏教であれば仏教圏、儒教であれば儒教圏が垣根になって様々な派が多いのです。これがすべて一つの方向をとらえました。二つの方向ではなく一つの方向です。霊界がそうであるがゆえに、一つの方向の権限をもって地上に来て……。地上にも様々な方向があります。五十億人類であれば、五十億の方向があるのです。すべて成して一つの方向をつくるのです。サタン世界が反対してレバレンド・ムーンを殺そうとありとあらゆることをしましたが、レバレンド・ムーンを中心として、だんだんと一つの方向の世界が広がるのです。一つの方向に進んでいます。「世界平和のための平和主義者は文先生だ」と、このように今言っているのです。それゆえに先生に対して関心が高いのです。それは知っていますか。

霊界の混乱をすべて収拾すれば、地上で混乱したこともすべて一つの方向にしなければならないのです。それで、世の中の政治家たち、世界で高に有名な学者、言論人、経済人、有名な人々をすべて連結するのです。その人々が先生を尊敬しますか、しませんか。みな自分なりに様々な試験をして、あらゆるチェックをしたのです。ですから霊界の混乱を収拾したので地上の混乱を収拾する段階が今見えているのです。どうですか。見ることができますか。目前に一歩だけ越えていけばどのようになるか、みんな分かります。ここに集まった人々はばかではないでしょう。賢い輩である皆さんが見る時、「世界は私たちの手にある」と思いますか、思いませんか。真の父母は永遠に一つです。誰でもないのです。ですから霊界がすべて順応しなければならず、地上がすべて順応しなくてはなりません。二つではなくてただ一つです。終着点は真の父母です。


宗教もいろいろなものがあります。文化背景が違うのでそうなるしかありません。五十億人類がキリスト教文化圏と同じではないのです。キリスト教は何も知らないのです。イエス様を信じないとすべて地獄ですか、とんでもありません。霊界に行ってみてください。孔子様とイエス様は友達です。釈迦とマホメットも友達です。キリスト教の名をもつ聖人たちや仏教を信じた高僧たちも、みんな友達です。とばり一つだけ違うのであって、すべて神様の一族なのです。このとばりを開け放たなければならないのです。

宗教が統一される時、とばりがすべてはがれて、一つの家族として大声を出して激しく泣くことのできる、そのようなことが起こるのです。その天上世界の一日を待つのです。歴史時代に宗教の背景に無知であり、このような闘いをしたという事実を知らなければなりません。それゆえに歴史的なすべての恨みに対して各宗団者、教主、全歴史的指導者たちが集まって悔い改めをしなければなりません。悔い改めさせることのできる人が誰かと言えば、真の父母です。


七百九十五
 
「孝子」とは何ですか。愛を中心として命懸けで父母に侍る息子のことをいうのではないですか。では「忠臣」とは何ですか。愛を基台として、天の代わりに君主のために生命を捧げて犠牲になりながら行く人を「愛国者」と言います。「聖人」とは何ですか。聖人は世界の人のために生きる人のことです。文化背景が違い、国境が違い、人種が違っても、万民を愛することに生命を捧げようという人です。一時的にではなく永遠に愛することのできる道に導こうという人が聖人です。一段階さらに上がって「聖子」とは何ですか。世界だけではなくあの霊界、無限な世界のためにまで、神様のためにまで、愛を中心として自分の生命以上に「ため」に生きようとするお方が聖子ではないかというのです。すべて愛です。


霊界に行ってみなさい。統一教会の文先生はどのようになっているでしょうか。「釈迦や孔子、マホメットはレバレンド・ムーンの弟子だと言った」と言って、ホメイニのような人はレバレンド・ムーンを死刑にすると大声をあげていましたが、みな死んでいきました。行ってみなさいというのです。その聖人たちをすべて祝福してあげたではないですか。祝福してあげたでしょう。ですから、霊界から送ってきた相軒氏の手紙によれば、有り難いというあいさつをどれほどしているでしょうか。

生きて祝福を受けた皆さんは、霊界に行って復活した数百万、数千万、数億の人々やその教主たちよりも高い位置にいるということを知っていますか。今までむやみに生きてきました。それを知らなければなりません。先生は自分勝手に暮らしているようですが、どこに行って座ろうが、どこに行って何をしようが、神様の法度を守って霊的に整理して座っています。法を守るからそうだというのです。皆さんはむやみに生きているでしょう。

二) 天国建設と地上、天上世界の統一

一国を見れば、国が形成されるためには、その国の主権がなければならないのです。民がいなければならないのです。国土がなければならないのです。そのような観点から地上に天国を実現するという問題を見てみる時、天国の主人は誰ですか。主権者は誰ですか。間違いなく神様が主権者です。そして、民とは誰ですか。民とは万民です。では、国土はどこでしょうか。地球星です。


アダムとエバが堕落しなければ、神様が何をしてあげようとしたのでしょうか。神様が祝福によって結婚式をしてくださり、神様が喜ぶことのできる息子、娘を生むようにし、神様が喜ぶことのできる家庭を編成して、これを繁殖させて氏族と民族を編成しようとしました。これが、もっと広がればその世界は何主義の世界ですか。神主義の世界であると同時にアダム主義の世界です。


七百九十六
 
その世界に理念があるとすれば、これはアダム主義理念であり、そこに宇宙観があるとすればアダム主義宇宙観であり、天宙観があるとすればアダム主義天宙観であり、生活観があるとすればアダム主義生活観だというのです。そして、五色人種がまだらになってそうするのはかまわないというのです。それは環境によって変わったことなので、数多くの民族の皮膚の色合いが異なってもかまわないというのです。では、どうして数多くの民族の言語が異なってしまったのですか。人類始祖が堕落することによって、天は分立させたというのです。 私が行き来するのも、その国を取り戻すための、祖国光復のための、建国の功臣になるためにそのような使命を担い、あるいは天の密使としての指令を受けて、今日の悪なる世に来て、このことをしているという事実を思いながら生きていかなければならないのです。そうでなくては皆さんが今後復帰する国の国民として、その威信と体面を立てることがで

きないということを知らなければなりません。


人間の力、人間の知恵、人間の文化、その何をもってしても、真の意味の平和の世界や一つの統一された世界を願うことのできない時点にあるということを、私たちは知っています。このような立場で世界文化を解決するにおいて、も中心問題とは何ですか。神がいるか、いないかという問題をはっきり解明することが、何よりも重要な問題だと思います。万一神様がいるということを全人類が知るようになった場合には、神様のみ旨がどのような所を指向するのかということがはっきり分かるようになるはずであり、その指向するみ旨を知るようになる時は、その世界こそ一つの世界であり、平和の世界であり、理想の世界であらざるを得ないのです。


祝福結婚と永生は真の父母から始まります。真の父母でなければできないのです。真の父母がこのような膨大な内容を解決して、霊界と肉界の統一、地上世界の統一をしなければなりません。見てください。世界が私に反対していたのが、すべて従ってくるようになっているのです。神様の前に行ってみ印を受けることなしに、霊界を統一し、地上を統一することはできないのです。いくら地上が反対しても文総裁の行く道を妨げることはできません。天使世界と霊界が動員し、先祖が動員しても「行かない」と言うなら、悪夢を見させ、首を押さえてサタンの行動を代わりにす

る時が来るというのです。怖い時が来ます。


今や霊界の解放圏まで成し遂げました。霊界と地上の平準化運動を今しているというのです。春がやって来るのです。天国の春、地上の春が訪れるのです。今までは天国には春が来ましたが、地上は夏であったのです。今は地上において、夏が去り冬が去って、天国の永遠に続く幸福の理想、すべてを消化して新しい生命を復活させることができる春の季節が訪ねてきます。ゆえに地上の時代には平和がやって来ます。それで、統一教会の先生が今選んだ言葉は何ですか。世界平和統一家庭連合をはじめとして、すべて「平和」という言葉が入っているのです。


霊界、肉界が上に上がっていっても、下に降りてきても、左右になってもかまわないのです。前後左右がいくら入れ替わっても同等な価値をもっているので、天上世界と地上世界を完成した理想愛の圏時代、天宙的愛の圏時代が出発するというのです。それを私たちは、地上天国、天上天国というのです。全体解放圏です。何の話か分かりますか。


七百九十七
 
過去の人、現在の人、未来の人、霊界に行った人も、祖国光復のために協助できる時が来ました。ですから、多くの人々が、先祖が入ってきて、統一教会に行かなければ良くないことが起こるのです。文総裁の力でそのようになるのではありません。神様と先祖が、天使世界と先祖が一つになって、地上をすべてコーナーに追い込むのです。家庭問題を中心として、コーナーで手をつけることができないのです。ただ文総裁だけが全権をもって行使することができる、驚くべき事実をこの民族が希望峰として、その国の、祖国の基盤として歓迎する時は、天下無敵の国になるのです。


霊界が今までお兄さんの立場で地上を蹂躙してきましたが、今からはそのお兄さんが地上を助けることのできる環境に入ることによって、地上のアベル圏は今のように、これ以上利用されません。欺き一方通行はできないのです。この方向を越えることはできません。東西南北において東方は侵犯できませんが、西方、南方、北方を行ったり来たりしながら、地上でそのことをしているのです。それによって多くの霊的な犠牲が地球星で続いてきましたが、今からはそれが解消されていくというのです。ですから、今地上と天上が統一圏へ近づいてきたというのです。


歴史を通じた全般的な自分に対する根本問題を解決する道は、先生の教え以外にはありません。永遠にありません。霊界に行ってみなさい、先生がうそをついているか。先生はすべて知って教えるのではなく、成して勝利してから教えているのです。良心はそれを知っています。それゆえに、真の父母と成約時代を宣布したということは、それを成したということです。

サタンと対決して屈服させ、先生が向かう世界、展望する世界には、サタンがその姿を現すことができないのです。それを平面圏において個人、家庭、氏族、民族、国家、天宙、霊界の天国まで平面化させています。それを平面化して連結すれば地上天国です。地上天国で生きた人間とその一族がそのまま天上天国に移行するようになっているのです。天上天国とは何かというと本家です。


今時が来たがゆえに李相軒先生が霊界に行ったのです。霊界の事実をすべて地上に知らせるために摂理のみ旨の中で逝ったと見るのです。霊界全体を知るためには神様の指示を受けることができなければならないし、接ぎ木をしなければなりません。これをすべて体系化できなければならないはずですが、今まで霊界はそのようなことのできる基準に到達できていなかったというのです。


それゆえに、数多くの宗教が現れて霊界の事実を紹介したといっても、それは一部分であり、その宗教の内容を中心として教えたのであって、全体を把握できなかったというのです。しかし今、成約時代を迎えたがゆえに、神様の許諾を受けて、霊界全体の様相を地上に説明できる時代になったのです。それを知らなければなりません。それゆえに霊界の事実を知らなければならないというのです。


七百九十八
 
霊界が完成しましたか。霊界は未完成でした。なぜ未完成だったのですか。本来、霊界のヒエラルキー・システム(hierachy system : 階級体系)とは何かというと、神様と真の父母を中心として、真の子女を中心として全霊界が連結されなければならないのに、そうなっていないというのです。地上もやはりそうなっていません。この内容だけ地上にもってきてくっつけておけば、霊界は自動的です。言い換えれば、堕落していないアダム主義、神様を中心としたアダム主義、アダム主義であると同時に真の父母を中心としたヒエラルキー組織が霊界ですが、そうなっていないのです。

今までその中心には、仏教を中心とした釈迦クラブができていて、孔子クラブができていて、イスラムクラブができているというのです。ですから、霊界は真の父母主義とアダム主義が現れることをイスラムの輩、孔子の輩、釈迦の輩、すべてが願っているというのです。ですから統一的な方向をたどらなければならないので、地上にも真の父母の役事が世界的な基準に上がっていく時、すべての宗教の境界線はなくなり、統合運動が霊界の動きに従って自動的にその結果が地上で現れるようになるというのです。

ですから、統一教会が世界主義になることによって、どのようなことが起こるのかと言えば、霊界の霊人たちがすべて霊界にいなくなります。目的が地上で完成し、逆に入っていかなければならないので、すべて再臨するようになります。すべて再臨するのです。すべて活動します。世界に散在している統一教会の食口たちが先端になり「動け!動け!動け! 動け!」と言われることを願っているのが、数千億になる霊界の霊人たちです。ですから、ここに合わせて霊界で一つにしておけば、神様が主管される世界になるのです。真の父母の名のもとに一つの統一された世界が永遠に続くのです。


今から国家、民族的なグループが連合できる時代に入るのです。ですから、地上の国と氏族と家庭が連合し、統一圏に越えていくのです。このように越えていくことによって、世界は急速に変わるのです。ここで反対している人々は、サタンたちが来て黙っていないというのです。サタンが今まで地獄に連れていこうとしましたが、天国に連れていくというのです。そうやって協助して先祖まで天国に連れていこうとするために、天国に行くことを妨害する者がいないので、解放圏になり、それによって急速に未来の世界化時代へと越えていくというのです。


先生が霊界と地上世界を清算でき、理想的な地上天国・天上天国を完成できる実力があると見ますか、ないと見ますか。それが可能だと見ますか、不可能だと見ますか。どうですか。ですから、そのような全体、全般、全権、全能の時代、それを行使することができる時代が来ました。世の中の組織が、いろいろな国の全体組織が一般化されるというのです。全体、全般的にすべての能力をもったサタン世界は、完全に天の権限の前に無能になり、神様の全権時代、全能時代へ越えていくというのです。そうすることのできる人は真の父母です。真の父母から始まるのです。


霊界からすべて出動すれば、良いことがたくさんあることでしょう。抱き合うことも多いでしょうし、喜ぶ人もいるでしょうし、統一教会を呪って逃げた人々が地をたたきながらこう言うでしょう。「全く、こんなはずでは!」と。


三 真の御父母様と愛の役事 一) 聖人と殺人鬼も同席で祝福

考えてください。先生が聖人と殺人鬼まで許してあげたでしょう。では、自分の息子、娘が罪を犯したことは許してあげることができますか、できませんか。スターリンやヒトラーは人を何百万名、何千万名も殺したので



七百九十九



す。そのような悪魔の中の悪魔までも許してあげ、祝福してあげました。それをしてあげなければ地獄の門を開くことができません。それはよくやったのですか、よくやらなかったのですか。仏教では「ああ、私たちの釈迦を連れていって結婚させる。そのようなことができるだって」、そして「ああ、イエス様を結婚させるだって!」と言っています。 行ってみるとすべて楽園です。中間霊界にいます。彼らに「あなた方の願うことは何ですか」と聞くと、「先生が願うことですから、私たちの願うことは簡単でしょう。祝福していただきたいです」と言うのです。「祝福してあげればどうしますか」と言うと、「地獄の門が開き、天国へ行くことができる道がなかったので、私たちが生前世界を一つにしようとした時の十倍以上努力する力があり、自信があります。聖人たちを後ろにつけて引っ張っていきます」と、そのように言うというのです。

このような決心をして自信満々に改心するようになるならば、使徒パウロをも反対している途中で改心するようにしてキリスト教の忠臣にされた神様ですから、反対の悪党たちが霊界に行ったとしても引き抜いて、神様がうまく使うことができる忠臣の王になることができるというのです。


聖人と殺人鬼を解放してあげたので、その原則において、統一教会に猛反対していた夫であれ自分が願う人を引っ張って、地獄にいる人までも連れてきて解放させ、祝福できるのです。そのようなことが起こっているのです。聖人と悪人をすべて一つにする、このような原則があったがゆえに、そのようなことが可能なのです。そして、霊肉祝福一体圏をなして三日儀式までするようになっているので、残りの霊界において、地上で生きられず結婚することができずに死んだ哀魂たち、十六歳以上の年齢になったすべての人々まで、今解放してあげるのです。その人々まで祝福してあげるのです。

地獄の門を開けて、霊界に行ったすべての人々の前に祝福をしてあげ、神様の血族的権限を認めることによって、サタンは完全に後退せざるを得ないということを知らなければなりません。これは革命です。革命の中でもこのような革命はないのです。堕落によってすべての死んだものが天国に行くことができるという、その環境をつくっておいたのです。アダムとエバが堕落して以後、結婚することができずに死んだ子供たちも、結婚して天国へ入って暮らすことのできるすべての基盤、すべての先祖が祝福を受けた圏内において霊界に入ることのできる環境をつくり、天国に行くことのできる高速道路を築いておいたのです。そのような基盤をすべて蕩減復帰したというのです。


800 * 八百
 
先生が霊界を知らなければこの道を行くことはできません。霊界のお父様が私のお父様です。ですから、霊界の秘密を誰よりもよく知っているのです。避難の渦中においておなかがすいている時は先祖を動員するのです。道端の過ぎ行く人のために宴のお膳を準備させたものもたくさんもらって食べました。そのような話をすればうそのようなことが多いので話をしません。私たちのように優秀な人が科学を学んだのに信じられない話をなぜしますか。皆、理論的に考えるので、これらは信じられない話ですが、先生の話を聞けばすべて信じるでしょう。 神様がお造りになった霊界には堕落した人間は暮らしていないというのです。その霊界は完成した祝福家庭たちだけが暮らすことのできる所です。そこはアダムが完成した以後に生活すべき天国のような環境です。ですから神様が全権をもって、世の中のすべての小さなものから大きなものまで思いどおりにできるのです。祝福を受けて「真の祝福天宙化とサタンの血統根絶」です。打ち砕くのです。ですから、八十代に入り、すべての地上の一族たちは天国行きです。出エジプトのように地上世界の出発が始まるのです。モーセが八十歳に出エジプトしたのと同じように、これからは真の父母、家庭の王として世界地球星の出発をするのです。


先生は世界高速道路プロジェクトをまだ発表していないというのです。どこへ行かなければならないかということをはっきり明らかにして、すべて道を開けておいたのです。それで、霊界の地獄まで降りていって地獄の門をぱっと開けたのです。殺人鬼まで祝福してあげたのです。李相軒氏が、霊界の実相を見て一人で泣いて祈祷していると、その使者が「一緒に帰ろう」と言って神様のもとに帰ってきたというのです。神様のところに行くと「悲しいのか」と言うのです。痛哭すると神様は、そのようなすべての者を救わなければならないが、どのようにするつもりかというのです。神様が話されるには、「お前の息子、娘たちは良い生活をしなければならない」と言われたのです。

それと同じように、全人類は神様の息子、娘なので良い生活をしなければならないが、その道を解放してあげたくとも神様御自身ではできないので、お前が責任を負わなければならないというのです。それが『霊界の実相と地上生活』に出てきます。あなたが責任を負えというのは、なぜかというのです。統一教会に反対して死んだので文総裁に対して、教えてくれること、解放してくれることを願うのです。それで、私が痛哭をしたのです。「神様がなぜこのようになったのですか。私のような者に頼まれる神様、なぜこのようになったのですか」と言ったのです。それで、昨年五月十三日から十五日まで、霊界すべてをひっくり返して私が責任をもったというのです。度胸も良いでしょう。「私が責任をもって断行します」と、このようにして祝福をしてあげました。


一次アダム失敗、二次アダム失敗、三次父母も失敗して、荒野路程でこれをすべて蕩減して解放され、第四次アダム圏祝福時代は地上天国出発時代です。この理論がすべて合わなければなりません。大ざっぱな計算でくっつけてはならないのです。それが霊界や地上で先生が「原理」を中心として解明した結果的基準で評価する時、右手と左手がぴったり合わなければなりません。こうしてこそ音がするでしょう。それを合わせるのが愛です。

絶対愛を中心としてです。

八百一
 
地上世界、天上世界がカイン・アベルに分かれたものが、初めて兄弟の因縁、真の父母の愛、真の血統の因縁によって一つになることができるので、同じ祝福を中心として死んでも共に死に、生きても共に生きようというのです。ですから、死なんとする者は生き、生きんとする者は?(死ぬ)。違います。真の父母がいる時は、生きようとする者は生きるのです。真の父母に従って生きようとする者は生きるのであり、真の父母がいないために、すべてを反対にしなければならなかったのです。

逆説的に死のうとすることなしに、真の父母の行く道を、侍ることのできる位置を探すことができないのです。霊界も解放であり、地上も解放です。アダムとエバの歴史始まって以来、神様の胸に打ち込まれた大きな釘を抜く者がいなかったのです。そして、歴史時代の善の先祖たちがみな血を流してきました。彼らの恨を解くことができなかったのです。


先生が八十歳を越えれば天地が合徳する時代です。先生が八十歳まで一代ですべてのことを、霊界を完全に解放するのです。地上天上、夫妻なら夫妻、家庭が天国に入るのです。夫婦で天国に入るべきであって、一人では入れません。地獄の門、天国の門をすべて開いておいたのです。すべて回りながら上がっていくのです。自分の先祖が列をつくって見張りになり、案内してくれるのです。

昔はサタンたちが自分の欲望を中心として穴を掘っておき、千年万年行けないようにしたのです。使いをさせていたのです。今それをすべて撤廃してしまいました。うそのようでしょう。そのようになるのです。見ていてください。なぜですか。霊界の事実がすべてどのようになっているかよく知っているためです。それをしなければ後代に行って引っ掛かるのです。


二) 真の祝福の天宙化、霊界・肉界平準化

真の祝福天宙化とその次が何ですか。サタンの血統根絶です!根を切るのです。偽りの結婚をして地獄へ行ったので、真の父母が結婚で正さなければならないのです。ですから、霊界の天使長が地上にいるエバを愛して堕落させたことを蕩減復帰するためには、霊界にある家庭的天使長の立場が地上に来て、地上にいるアダムとエバの家庭と同じなので、アダム家庭を再編成するところにおいて開拓者になるのです。そのようにすることによって、この家庭が皆さんの家庭の周辺に来てサタン追放運動をするのです。これが原理観により、きちんと理論的に整理されるのです。 これからどのようなことが残っているのかといえば、地上において霊界の人たちと愛し合うことができる愛の門が開く時になったというのです。夫が死んでいったとしても、地上で共に暮らすのです。今そのように暮らす家庭もあるのです。それで、今回統一教会に通うことに反対されていた人たちを中心として、反対した自分の夫を許し祝福してあげたのです。祝福しただけでなく、私がアメリカに行く前に、四億組祝福を行う前に霊的な祝福をしてあげた人たちは、実体の三日儀式までするようにしたのです。


三日儀式までして霊界に本格的な家庭出動命令を下したがゆえに、残りは何ですか。今まで結婚できずに死んだ哀魂を中心として、霊界で大きくなって結婚を待つ数千億の霊がいるので、この門を開けてあげ、四億双の四

倍である十六億双を結婚させてあげました。


八百二
 
先生がそうです。私がみ旨の道で誇ろう思ったことは一度もありません。私が世界的にしたことは多いのですが、まだすることも多いというのです。霊界が残りました。地上でしたならば地上で整備して逝かなければならないのです。それで、今回一人暮らして結婚せずに死んだ男女、父母の愛を受けたが地上で嫁をもらえず、嫁ぐこともできなかった人を……。

また、生まれてすぐ死んだ赤ん坊たちです。赤ん坊たちが霊界で成長するのです。そのままではありません。母が泣いたりわめいたりして思ってあげることにより、その心が大きくするのです。父母が子女の死んだことを悲しむのは悪いことではありません。知ってみれば死んだ相対が霊界で大きくなるのです。夫が死んだと妻が気にして悲しく考えれば、その恩恵を受けるのです。


地上で生まれたすべての人間たちで、真の父母を通じて生まれた人は一人もいません。真の母、真の父、真の父母の血統を受けないで生まれた者は、天国に入る道がないのです。神様の創造理想によると、真の父母の血統を受け継いで、真の父母に天上天国、地上天国の王権の主人として仕え、親族圏内で愛を中心として真の御父母様と共に暮らし自分も結婚して後孫を残し、そのまま移る所が天国です。ですから皇族圏の愛を中心として、体恤的な経験をもたない人は、天国に入ることができないのです。明らかだというのです。


私は私の責任を果たしました。何かやることがあるでしょうか。霊界まで統一圏によって祝福してあげて怨讐まで生かしたので、サタンが私の前で讒訴できる何らの条件もないのに、何をもっとするのでしょうか。今では蕩減がありません。


霊界に水平をつくっておかなければなりません。今まで地上に来て霊界に行った人々はどんな人たちですか。自分勝手に愛の関係を交わして生きた人たちです。浮気をし、男性も女性も自分勝手に生きた人たちです。女性も姦婦たちが多いでしょう。浮気をしてです。そのようにして地獄に行くのです。地獄のど

ん底に行くのです。

近では法的な契約夫婦がいます。それは知っていますか。彼らは赤ん坊を生むことを嫌います。家庭をもつことを嫌うのです。天使長時代にはそうなのです。赤ん坊のいない人が父母の愛を知っていますか。子女を愛することができますか。契約では永遠に愛することができないのです。これは流れ者です。霊界に行けば流れ者になります。定着できる根拠がありません。このような者たちも先生を通して結婚させてあげればどれほど喜ぶでしょうか。


霊界は何ですか。霊界は天使長世界であり、地上はアダム世界です。息子の世界と僕の世界は違うのです。では、霊界が一生懸命しなければなりませんか、この地上が一生懸命しなければなりませんか。そうするためには、この地上の四万双というものが……。今私たち祝福家庭が四万双出てきているのです。四万と五千組ほどになるのです。いや、四億を越えるのです。それゆえに一つの家庭で一双ずつだけ未婚の男女を駆り出せばよいということなのです。

八百三
 
そのためには霊界も同じです。霊界にいる霊人たちはみなアダムの後孫ですが、堕落することによって天使長の血統が霊界に行っているのです。これはあってはならない事実なのです。カイン形態が広がった霊界をそのままにしておいてはなりません。すべて祝福してあげなければならないのです。祝福をしてあげて、これがすべて水平にならなければなりません。それゆえに、結婚できずに死んだ霊たちをすべて集めて祝福させたのです。また、生まれて赤ん坊のうちに死んだ霊たちが育つというのです。十六歳以上で、結婚もすることができなくて霊界に行った人々を、すべて祝福してあげるのです。それは全部で数千億にはなることでしょう。それで、祝福を今しているのです。すべて。


潮水が出ていく時は悪いものが出ていきます。入ってくる時は一番後に出ていったものが先に入るのです。蕩減復帰するので同じ水、同じ月を見れば、中間に立ち、この二つが入ってきて一つになる時、そこにぴたっと合うというのです。歴史的にこれが、ぴたっと一代で水平になる時、プラス・マイナスのように祝福してあげることによって、サタンを完全に追放することができるのです。偽りの父母は追い出し、真の父母と一つになるのです。それをしたがゆえに地獄を撤廃し、霊界にいる先祖を結婚させてあげるということが起こるのです。

今数億、数百億、数千億が結婚するのです。霊界を天国にリードするのが私たちの先祖です。地上で後孫はお父様の位置、息子の位置を、縦的に真の愛を中心として一つにするのです。東洋と西洋を連結させることができる

始点が、真の愛を中心とした家庭基盤です。


祝福とは神様の真の生命の血統が連結され得る基盤を相続することです。祝福を通し神様の血統を相続した人が霊界や肉界にいるために、神様が思いのままに主管することができるのです。ですから、神様の思いのままに再創造、復帰歴史を今でも蕩減条件なく全権をもって押し出すのです。ですから、皆さんがそのような信念をもった相対的立場に立つか立たないかということが問題なのです。決心のされたそのような絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準と一つになる時には、一遍にすべてのものが水平世界に線を引くことができるというのです。


父を愛の主人にしてあげるのは息子であり、夫を愛の主人にしてあげるのは妻であり、お兄さんを愛の主人にしてあげるのは弟なのです。反対に子女に父母がいなければ、妻に夫がいなければ、お兄さんに弟がいなければ各々愛の主人の位置を見いだせないのです。真の愛の主人になるには、相対を自分よりも敬い、「ため」に生きなければならないのです。ですから、個人では心と体の一体、家庭では夫婦一体、兄弟一体、国家一体圏を形成して、八段階の理想モデルである愛の圏を完成するのです。

すなわち、腹中時代、乳児時代、兄弟時代、思春期時代(婚約時代)、夫婦時代、父母時代、真の祖父母時代、真の王と王妃の時代を経て、永遠に変わらない真の愛の伝統を立てて、父子関係である真の愛のモデルが完成するのです。そして父母と子女、夫婦、そして兄弟(姉妹)、国家などがすべてこのような真の愛を中心として、八段階のモデルである主人になることを願う所が、私たちの理想家庭と国家です。ここで永遠な世界的平準化が始まることにより、地上天国が出発するのであり、

また天上天国も自動的になされるのです。


三) 地上・天上地獄、真の愛による解放

八百四
 
地上世界と天上世界の地獄まで平準化させなければなりません。その道を開拓し平和の天国基地まで、地獄の門を打破してしまって天国の門を開門することができなければならないのです。神様が自由自在に往来できるようにしなければならないのです。地上世界と霊界どこでも……。地獄という恨のその敷居は、神様にはいらないというのです。それをみな押し倒しておかなければなりません。それを誰が知っていますか。では、文総裁がしたことは何ですか。個人的門を、地上世界と天上世界の地獄までふさがっていたものを「キック!」して壊してしまったのです。ですから、ハイウェイを築いておかなければなりません。平準化させなければならないのです。 それは地上だけではありません。霊界をすべて平準化しなければならないのです。それで、家庭的平準化、氏族的平準化、民族的平準化、国家的平準化、世界的平準化、天宙的平準化ができなければなりません。それは何によってできますか。男性と女性の家庭形成によってできるようになっています。


今、祝福が可能なのでいくらでも祝福するのです。一人も残さず、すべて祝福してあげなければなりません。先生が行く前に、霊界では祝福しない人々がいないようにしなければなりません。祝福がなかったものが生じるようになったのです。地上でも天上世界でも、先生が逝く前に祝福を受けた人が霊界でも地上でもぎっしりいっぱいにならなければなりません。そうでなくては、今までアダムがばらまいた堕落のすべての血統が根絶されないというのです。

それゆえに今年の標語が何ですか。「真の祝福天宙化とサタンの血統根絶」です。完全に霊界を祝福してあげなければならないのです。先生が逝く前にそれを残しておいてはいけないのです。逝く前に、霊界をすべてクリーンにしなければならないのです。サタンを根絶することを考えていますか。先生が霊界を既に整備しました。皆さんは分かりませんが、すべてそういうことをしているのです。霊界をすべて祝福してあげ、先祖を解怨し祝福できるペースに入り、赤ん坊で死んだり結婚できなくて霊界に行った人々をすべて解怨してあげることにより、祝福圏内にみな入るのです。このようにしてサタンの根を根絶するのです。

それで、肉界で三日儀式をするのと同じように、私が二十日前、ここに帰ってくる前に、霊界の霊人たちにも三日儀式ができるということを、すべて指示したのです。それは複雑です。地上のことと同じです。ここで青少年を中心として結婚するので、霊界でも未婚男女を中心として同じ立場で祝福してあげるのです。


今赤ん坊たち以上のすべての人々を祝福してあげたので、全霊界が来て……。祝福とは「原理」で見れば何ですか。人間の責任分担です。責任分担が何かというと祝福を受けることです。人間の責任分担を果たしたなら、神様の息子として完成の立場に立つのです。天使世界を支配できる圏内に立つというのです。それゆえに、祝福の因縁をもったということは、既に戸籍が違うのです。韓国人もアメリカの市民権を得ればアメリカの法に統治されるのと同じです。今そのような世界にはなっていないのです。

八百五
 
それをえり分けるためには、天地を中心として平準化させ、個人の長孫、氏族の長孫、これを反対にひっくり返すのです。個人長孫圏、氏族長孫圏、民族長孫圏、国家長孫圏、世界長孫圏、天宙長孫圏、霊界がそのようになっています。反対に今、先生が合わせていくのです。


愛の道は分けることができないというのです。水平です。愛は水平なので、息子が逝ったからといってなくなりません。霊界に行って水平的な相対圏をもって育つというのです。ですから、赤ん坊たちが生まれてから死んでも、霊界で育っているというのです。それを知らないでしょう。私たち統一教会は知らなければなりません。

それゆえに、今後霊界に行った子供たちが堕落せずにいれば、再び来て生活するのです。霊界と祝福した人々の三日儀式まで許したので、これから統一教会を信じて逝った人は、夫でも妻でも地上に来て共に暮らせます。四十九歳を越えたならば、慰労祝福をしてあげるなというのです。今までそうなっていないのです。慰労祝福をしました。四十九日という言葉があるでしょう。それで、今からは五十歳前の人々からは、慰安祝福もしてあげるなというのです。なぜですか。霊人祝福して

あげた人々にも三日儀式を許したからです。


再臨主は条件的な蕩減復帰ではなく実体蕩減復帰です。そのような闘いを経てきたので ……。この世で勝利するためには、霊界で闘うのと同じようにそれを中心として、すべて実体圏を蕩減復帰していかなければならないのです。それが今まで、キリスト教文化圏で一つになって先生を信奉すべき理由でした。キリスト教が信奉したならば、そのような迫害もされなかったのです。すぐに天が立てた何人かを探して復帰したはずなのです。新婦は一人です。霊的な複雑な内容を中心として、ハンダづけができませんでした。そのような式を踏まえなければ、今後国家基準を越えるために全世界的にそれを再びしなければなら

ないのです。

祝福は教会祝福、国家祝福、世界祝福です。これを受けることができずに霊界に行けば引っ掛かるので、受けなければならないというのです。これを受けるためには千年万年かかるかもしれません。受けることができなければ、皆さんが霊界に入っても活動をすることができず、すべて待合所で待たなければならないのです。ですから、地上がどれほど貴いかということを知らなければなりません。 それゆえにおじいさんの立場が孫の立場になり、父の立場が息子の立場になり、息子の立場が父の立場になって、逆さまになるというのです。ですから、再臨主を軸としてアダムが第一の父、イエス様が第二の父、再臨主が第三の父になるのです。今、再臨主が、第一の父、第二の父の失敗を蕩減して完成圏に上ることによって……。この三人の子女の息子、娘がこの世だけに生きているのではなく、霊界でも生きているのです。


八百六
 
先生がこの世にいるので皆さんは先生を見つめていきますが、先生が霊界に行ったあとはどうしますか。今後、後代の統一教会はどこへ行くでしょう。後代の統一教会は先生の過ぎし日の歴史をそのままついてこようとするでしょう。ヤコブが行った道をイスラエルの一族が行かなければならないし、モーセが行った道をイスラエルの国が行かなければなりません。イエス様が行った道をキリスト教が行かなければならなかったように、今日、統一教会において文先生が行った道を統一教会の食口たちが行かなければなりません。行かなければならないというのです。行かなければ渡り鳥と同じように、大洋を渡り南極と北極を通じさせることができないのです。飛んで行かなければなりません。


今回もすべて婚約をしてあげるのに、写真を送った女性を、私は一度も見ることができませんでした。婚約をしてみると女性が足りないのです。女性が足らないので、日本の女性一千名の写真が貼ってあるアルバムの中から選んであげたのです。そして「君の夫です」と渡してあげるのです。かといって日本の女性は「見ることもせず婚約する法がどこにあるか」とは言わないのです。その写真について行って暮らしているのです。それがどれほど素晴らしいことでしょうか。ですから、統一教会は世界を正すことができるのです、世界を!それが偉大なのです。また、そして、皆さんが先生を通し……。

先生のような人がいつもこの地に来るわけではありません。過去にもなかったし、未来にもないのです。過去にもなかったし未来にもあり得ないのです。ただ、今日先生が在世している時、先生が地上に暮らしているこの時しかないのです。その方を通し、皆さんが結婚したという事実を考えてみてください。霊界に行けばそれを売りものにするのです。

「私は先生に祝福された」と。


地上で自分の愛する妻が今霊界に行くようになれば、みんな別れていくのです。今までは別れて行きました。霊界に行けば霊界の基準に合う度数に従って入っていくのです。霊界にさっと入っていけば、ビデオのようなボタンだけ押すと、自分がどのようにしたのかすべて出てくるのです。すべて記録されているのです。そして、「何番です!」と言えば、何番かに自分を連れていく人が来ていて、そこに行くのです。家庭に十人がいても心霊基準が違うために、みんな別れなければなりません。会うことができないのです。今それが解放されるのです。分かりましたか。

地上に愛する人がいれば、また霊界に行っている愛する人がいれば、その人を祝福してあげることができるのです。大母様もそうで大兄様もそのように祝福してあげたのです。忠母様も祝福してあげました。霊界の人を祝福してあげたのです。その門が開くのです。そうしてこそ地獄の解放が可能です。それでこそエデンの園の堕落しない本然の世界、天国に入っていく一方的な通行として、天国編成を完成したということのできる基準を、地上で分かれたすべての個人、家庭を広げて世界的に編成するというのです。これを一時でもって合わせることにより、地上・天上天国の統一圏が広がり、神様が解放を受けることのできる時代が来たのです。


真の御父母様は実体世界において、超民族的な祝福の因縁を中心として祝福をしています。これが連結されることにより、地上で個人解放、家庭解放、氏族解放、民族解放、国家の解放圏がなされます。その解放圏は霊界でなされるのではありません。このような天国の愛の国、天宙の愛の国まで連結させることのできる基盤が地上にあるので、真の父母を中心としたすべての霊界と肉界が一つになって、統括的な面において総清算をし、個人祝福、家庭祝福、氏族祝福、民族祝福、国家祝福、世界祝福、天宙まで祝福の完成をなさなければなりません。

八百七
 
それで、霊界と肉界の祝福家庭一体化圏が展開することによって、堕落しないアダムを中心とした天国理念の基盤が、歴史始まって以来のすべての家庭を中心として、同一的な価値の立場で成立して地上天国と天上天国が顕現するところに神様が臨在するのです。神様は縦的な父母であり、真の父母は地上を平準化できる横的な父母です。ですから、

「七・八節」を中心として天地父母天宙安息圏を宣布して新しい時代が出発し、「九・九節」を中心として完全に越えていかなければならないのです。


皆さんが今、「九・九節」を中心として「総蕩減献金」をしなければなりません。

「総蕩減献金」は何をするかと言えば、怨恨と解放式です。解放式をしなければなりません。神様の怨恨を解いてさしあげ、解放をしてさしあげなければなりません。のみならず天宙を解放し、皆さんを解放させることができるのが「総蕩減献金」だということを知らなければなりません。

今解放時代を迎えたということを考える時、この地球を中心とした宇宙が、どれほど称賛しているか知れないのです。どれほどきょうを喜んでいるか知れないのです。それで、今年に入って今日まで祝いの雰囲気一色になっ

たと見るのです。


今、私たちがしようとするすべてのことに、天運が付いて回りながら手助けをするのです。天運に追いつこうと苦労しますが、天運が私たちのあとを付いて回りながら助けるというのです。どういうことかと言うと、神様と霊界が数多くの先祖と数多くの善なる人々を動員し、この地を助けることのできる時が来たというのです。解放圏をなすことができ、変革できる時代が来たというのです。 今からは皆さんの家庭が理想的家庭になって、父母様と神様に直接侍り、父母様の身代わりにならなければなりません。皆さんは旧約時代、新約時代に来たメシヤ、新約時代を越えて成約時代に来たメシヤ、一次アダム、二次アダム、三次アダムの代身家庭になることにより、神様に侍るようになって、万民が天国に直行できるようになるのです。そのようになることで、第四次アダム圏解放祝福時代に入るのです。


万国に聖酒を配布しなければなりません。聖酒を飲ませて生き返るでしょう。堕落圏解放が加重されるのです。万物にまで飲ませてあげなければならないのです。すべて神側へ帰っていかなければならないのです。

ですから、今から全世界、地球星に聖酒を配布しながら祈祷するのです。父母様が祈祷することがどれほど怖いかということを知ら

なければなりません。


四) 天国入籍と祝福家庭の霊界 ① 入籍をするためには

今まで天の国に入籍がありませんでした。天国に国がありませんでした。家庭もなく国もなかったのです。霊界に行けば、父母であれ何であれ、十人家族であれば十人家族がみな別れてしまいました。しかしこれからはそうではありません。本来堕落しなければ父母と一族が共に入っていくようになっているのが天国だということを知らなければなりません。

八百八
 
真の愛を中心として、祖父から父母、自分たち夫婦、息子、娘が一つになって、「ため」に生きる神様の真の愛をもつようになれば、そこには神様も絶対服従するのです。そのような愛の伝統に服従しながら、「ため」に生きる愛だけをもって動くその世界、「ため」に生きようとするその世界には、平和の基地が生まれまいとしても生まれざるを得ないというのです。


真の父母を中心として入籍する人が今後先祖になるのです。あの世の先祖になってそれがすべて主流氏族を中心として、主流民族を中心として、そこに傍系になるすべての人を中心としてこれを編成するようになっているのです。

ですから入籍しなければなりません。入籍はそのままするようにはなっていません。百六十家庭、あるいは百八十家庭を完了しなければならないのです。これをすることができなかった人は脱落するのです。三十六家庭であってもそれを主張する時代は過ぎ去るのです。平等化時代に入ったので、ここではその数に誰が先に至るかが問題なのです。統一教

会でその氏族が多ければ恩恵を受けるのです。


血統が変わったがゆえに、血統を転換しなければ神の国に連結されて入籍できないのです。血統の主人は神様でいらっしゃいます。堕落の血統を受け継いで、すべて盗んで神様の所有権をめちゃくちゃにしてしまったので、神様の愛により血統を連結することによって、これが整理されます。それゆえに血統転換をしなければなりません。堕落の愛の関係によって血が異なってしまったのです。血統が逆さまになったので、血統転換しなければ神様のもとに帰る道がないのです。 祝福の日も教会の祝福、国の祝福がなければなりません。世界の祝福、天国へ行って永遠な祝福の礼式を経てこそ、本然の世界に帰ることのできる道があるということを知らなければなりません。皆さん、統一教会の祝福を受けたといって、「簡単に、便宜的に、さっと先生に分からずに祝福を受けた」と言っても通じません。国の祝福を経なければなりません。そこでは経歴がすべて出るのです。それから世界祝福を経なければなりません。それで、天上に行って大入会式とともに入籍式を経て、十二支派の編成を終えて、神様を中心として真の父母があの世に行ってお座りになってこそ、場を定めて座られてこそ、すべての万民は順次に場を定めて座るようになるということを知らないでしょう。


血統転換、所有権転換、心情圏転換です。心情圏が氏族です。これを転換しなければなりません。ですから、氏族を復帰しなければなりません。イエス様は国を復帰するために来ましたが、入籍できませんでした。戸籍を作っておくことができませんでした。それを蕩減復帰しなければなりません。

それゆえに、統一教会では結婚しても三十三歳が過ぎる前には生活できませんでした。次には三十歳です。イエス様が出家する前の三十歳から生活する立場になりました。南北が統一される日には、そのような受難の道をすべて越えるのです。ですから、統一教会の祝福は教会祝福、南北統一時代祝福、世界統一時代祝福です。三大祝福を経てこそ解放の立場に進むことができるということを知らなければなりません。

八百九
 

国家がなければ入籍できないのです。教会には入籍できたのですが、国家に入籍できていないのです。南北統一をすることで入籍時代に入るようになるのです。その時が来るので、先生が「氏族メシヤを中心として百六十家庭を早く収拾しなさい」と言ったのです。そうなれば、南北統一がなされた場合には、先生が第一代として入籍して第一の先祖になり、それから誰が来るのかと言えば、百六十家庭を祝福した人が続くのです。先祖の順序が入籍によって違ってくるというのです。ここに千六百名を越える人が座って祝福を受けたとしても、千六百代の差が出るのです。


今後、十二支派を中心として世界がすべて入籍をしなければなりません。それをする時は皆さんの一生、統一教会に入ってきてから今までのすべてのことを一つ残らず記録しなければならないのです。ここの教会から何か一つ、ふろしき一つでも持っていけば、それをすべて記録しなければなりません。それが霊界に記録されたコンピューターの記録と合わ

ない時、皆さんは入ることができないのです。


王族心情圏を中心としたそこには歓待だけであって、丘とか壁になるものは何もないのです。平地なのです。全体が歓迎し、万年の愛の世界が連結されるのです。そこの主人として立つのです。自分の一族がそのようになるというのです。一族がすべて集まったその霊界の価値をもって入籍し、天国に入っていくのです。入籍するでしょう。新しく入籍し天国に入れるように、清い解放の氏族長として、メシヤとして、父母として、自らが一族を引き寄せてあげましょう。 霊界に行ってみなさい、私の話が合っているかいないか。女性はすべて私に差し出せというのです。かといって売り飛ばしたりしません。天に入籍させるのです。それから息子、娘を入籍させれば、その夫も入籍できるのです。そのようにして本然的峠を越え、三十八度線を越えて、統一のみ旨の世界で家庭が再祝福を受けて、天国の堕落しない本然的基準で出発するようになるのです。そうすることによって、罪を犯さない天国の民を生んで、天国に直行できる道を行くのです。メシヤが必要ないその立場にまで道を築いてここに案内しようとするのに、ここで行動しなければ、それは滅びるのです。


入籍をしなければなりません。入籍のためにどこへ行こうというのですか。故郷の地へ帰らなければならない運命は避けられません。生前にできなければ、霊界に行って反対に億千万代をぐるぐる巡りながら、涙と嘆息とともに越えていくべき堕落圏の支配を逃れる道がないのです。ですから、そのために直行することを願い詳細に語りましたから、それを忘れず肝に銘じて勝利の天国の門を入っていくことのできる王権を受け継ぎ、このような相続を受け継ぐことのできる、天国と故郷の地の本籍を立てて入籍できる皆さんになるよう願うものです。そうしようという人は両手を挙げて宣誓しましょう。手を下ろさないでください。


② 統一圏霊界も中間霊界、監獄がある

八百十
 
地上で祝福を受けた夫婦は永遠の世界である霊界に行っても共にいるのです。この世の夫婦、息子、娘はいくらたくさんいても、霊界に行けば散り散りになって別れるのです。別れて、みなどこに行ったのかも分からないというのです。会うのが大変なのです。相対的な関係がなければ会うこともできません。心霊状態の基準によって、すべて霊界で別れるというのです。それは途方もないことでしょう!しかし今先生が言ったように、愛を中心として一つになればそのまま一族が霊界に入っていくのです。それは幸福なことですか、不幸なことですか。


霊界に行っても誰かが「地獄に行きなさい」と言うのではありません。自分が訪ねていくのです。自らの程度に合う所を訪ねていくのです。統一教会だけ考えても、すべて同じ圏に行くことが目的ですが、自分の心霊状態の基準によってとどまるのです。それで、祝福を受けた家庭はどのような面において違いますか。祝福を受けた家庭は離れようとしてもお互いに離れることはできません。霊界に行くようになった時、自分の妻が責任を果たせなかったなら、共同責任を負って夫が解怨してあげなければならないのです。妻が間違っても引っ掛かり、夫が間違っても引っ掛かり、息子、娘が間違っても引っ掛かるというのです。


天上世界の霊界に行けば、その階級によってとどまる所が決まります。そして、長い期間そこで教育を受けるのです。その世界は堕落圏ではありません。神様の原理圏です。一国家の国民が罪を犯しても、その国の民として罪を犯したのです。天国の民として天国の法に抵触したので、その法に従って処理を受けて、天国を侵害したすべてのものを、全体の前に手助けできる内容を提示することによって……。

これから天国に楽園が生じます。ここで待たなければならないというのです。天国に中間霊界が生まれるのです。天国に地獄が生まれたのです。監獄が生じるということを知らなければなりません。それを知ることによって、皆さんがどこに行くのかがはっきりと分かるのです。分かるようになっています。分かるようになっていますか、分からないようになっていますか。はっきり教えてあげるのです。


祝福されて編成したのに入れない人は、アダム家庭が堕落したのと同じです。霊界に入って何が生じるかと言えば、天の側の監獄が生じます。中間霊界が生まれるのです。祝福家庭の楽園が生じることを知らなければなりません。このごろ相軒氏の証言が代表となっていますが、そこでも罪を犯した人は名札を付けて行き来しなければなりません。角度が異なる分だけ、九〇度に合わないその度数の差に対して制裁を受けなければなりません。

一切許されないのです。

強制的にでもひねり出すのです。角張ったものは削ってしまわなければなりません。それが駄目になった時は隔離しなければならないのです。北極へ、南極へと隔離するのです。そのような時が来るというのです。見ていて

ください。霊界がそのようになっています。


八百十一
 
霊界に行った三十六家庭たちは霊界の栄えある所に行っているのです。李相軒氏が霊界の実相に対してすべてを話しませんでしたか。祝福を受けた三十六家庭は栄えある所にいるというのです。しかし、誤れば名札を付けて行き来するというのです。そこに地獄が生じます。楽園があるのです。それが今後サタン世界が除去されれば……。天国は天国ですが、天国ではないというのです。中間霊界、霊界の監獄に閉じ込められているのです。地獄のような国が遠くにあるのではなく、一日生活圏にあるというのです。地上は時間圏内で生活するのですが、そこは一年を一単位にして生活するような理念をもって暮らすことがで

きるのです。そのような差が生じるのです。


地獄にいるすべての人々も解放の恩恵を受け、家庭を備えると同時に息子、娘に再び会うことができ、孫をみな集めて天国の門に入っていく時は、堕落しないアダム家庭と同じ位置に至らなければならないというのです。ここはサタン世界圏から抜け出した世界、サタンの讒訴がない所なので復帰が早いのです。霊界で見れば、相軒氏が祝福家庭の高の位置に行っていると言ったでしょう。この 高の位置がこれから生まれる霊界のモデルです。

霊界のモデルだというのです。

天国があり、家庭的楽園が生じるのです。家庭的中間霊界が生まれ、家庭的地獄が生まれるというのです。皆さんが現在の暮らしの中で良心の影として残っているものが、白昼にすべて底までのぞき見ることができる時代なのです。そこでは弁明が通じないのです。そこにも監獄があるというでしょう。監獄があります。祝福家庭も霊界、天国に入っていって家庭が神様に近い所へ行き、父母様の近くに行くことのできる階層が生じたというのです。


四 真の御父母様の家庭と霊界役事
一) 興進様の霊界長子権成立 興進が霊界に行くことによって、地上と天で別れたアベルと天使が双子のように一つに結ばれるようになりました。その一つになった基盤の上に父母が出動するのです。これが、統一原理観です。


興進は息子格のアベルですが、その息子は真の父母の愛によって原理主管圏の蕩減条件を立てた基盤で霊界に行きました。サタン主管圏で勝利し、直接主管圏をなした立場で霊界に行ったのです。それゆえに、堕落以後初めて、完成した資格を備えた息子として天上世界に行ったという条件をもっているのです。本来堕落しなければ、霊界に行った人々が真の父母の心情圏を中心として原理結果主管圏と直接主管圏が一つになった家庭的基盤において、愛を中心とした主人や息子の資格をもつというのです。これをもたなければ天上世界に行けなくなっているのが原理です。


興進が逝く前に統一式をしたのです。このすべてのことを準備しておき、先生が医師に酸素マスクを取ることをOKしたのです。このように道をすべて築いておいて送ったのです。この世ならば、息子が死んでいくのにそうしているので、「狂った人だ」と言うことでしょう。天の前に捧げるのです。このような歴史時代の三角地帯において、人類と韓国と統一教会の輩たちと世界のために、また霊界のために捧げるのです。イエス様が昇天し再び来られるのと同様に、そのようなことが起こるのです。

八百十二
 
それゆえに霊界で見るならば興進が再臨主です。霊界の救世主なのです。そのようになっているのです。真の父母から愛のメシヤとして送られたのが興進様だというのです、霊界で見る時。その興進が地上の父母様を協助しているので、この地上に再臨時代と統一世界が展開されるのです。それで、二世が祝福される時が来たのです。分かりますか、何の話か。


統一式をしてあげるのにどのようにしますか。何でもつかまえて式をしてあげるのではないのです。生殖器を中心として式をしてあげるのです。愛のみ旨を成し遂げられずに逝ってしまう息子の前に、愛の統一式をしてあげてこそイエス様と直結され得るのです。お母様もすべては知らないのです。そのように死んでいく環境で統一式をしてあげることによって、悪魔たちが見つめる立場のすべてを越えるのです。息子が死ぬのが問題ではなく、泣くことが問題ではないのです。神様の愛する家庭がどうなっているのだと、皆が恨めしく思うそのような場面で、それをすべて退け、父として息子の行く道を収拾してあげなければならないのです。


興進を生きた祭物として送ったので、それが橋になったのです。それは愛を中心として家庭的背景を中心とした天上世界の橋なので、イエス様も興進君についていかなければならないのです。家庭の橋を経なければならないでしょう。初めてこの地上で真の父母の子女として、真の父母の愛を受けて、祭物の勝利者として天上世界に行ったのが、興進ただ一人であるので、天上の全権をもって統治できるのです。


興進君が青少年で逝くことによって、真の父母の愛を受けた後孫が行くことによって、興進君と霊界が一つになる立場に立つようになって、これが真の父母の家庭と連結されるのです。霊的世界の長男になるのです。お兄さんになるのです。それゆえに真の御父母様の愛の圏が霊界に移されるのです。それによって、地上と関係を結ぶことのできなかった霊界のキリスト教から始まって、すべての宗教が興進によってみな……。

イエスが興進をお兄さんとして侍らなければなりません。そうして連結されるのです。そして、地上再臨をすることによって、地上に霊的な後援が激しく押し寄せることによって、サタン世界は崩れ始めます。急進的に下降してしまうようになるというのです。堕落後に生じた霊界と肉界の境界線がすべて崩れるという話です。興進が逝くことによって、真の父母の愛の圏を中心として霊界と連結されるので、地上世界と天上世界の塀が崩れて交流できる時代に入ったのです。


この時代において直系の子女と養子圏がどのように交代するのでしょうか。ここで興進に重要な責任があるのです。この時が来る前に霊界を収拾してあげなければなりません。イエス様から今まで霊界に行ったすべての霊たちは真の父母と関係がなく、真の父母の血肉となんら関係がないのです。また真の父母の愛と関係を結ぶことができなかったというのです。ですから、あの世に行った人々は、みな未婚の男女と同じです。イエス様御自身もそうなのです。再び来て関係を結ばなければなりません。


八百十三
 
興進君を結婚させたでしょう。霊界家庭総司令官という立場なので、結婚をしなければならないのです。その下にみなぶら下がっているのです。そして、霊界で大母様と忠母様を中心として……。霊界に行けば大母様から祝福を受けなければなりません。多くの教派、イスラム教とかキリスト教などの宗教が一つになって……。大移動が始まるのです。この地で父母様を通じてこそ、それを中心として連結されるのです。そうするためには、孝子にならなければなりません。忠臣にならなければならず、聖人にならなければなりません。

それが伝統だというのです。


今回、イエス様の家庭と興進の家庭を、一軒の家で過ごすことができるようにしてあげました。興進君とイエス様とは、一軒の家で生活しなければならないのです。イエス様に養子を託してあげなければなりません。これは天ができません。真の父母がしなければなりません。神様ができないことを真の父母がするというのです。神様が「アダムが名づけたとおりになるであろう」と、言ったでしょう。何の話か分かりますか。


先生が今、清平に行ってイエス様の家庭をよくしてあげ、興進君と兄弟の関係を結んであげて、キリスト教のすべての使徒を祝福してあげなければなりません。統一教会はアベルの立場であり、キリスト教がカインの立場だというのです。これをどのようにして一つにしますか。霊的な観点からでも肉的な観点からでもすべて一つにしなければなりません。 真の子女である興進君はアベルの立場です。長子の立場です。カイン側の長子はイエス様です。地上世界と霊界を連結し、統一教会とキリスト教世界を一度に祝福してあげるのです。また、白人も黒人もすべて祝福し、未来にはすべて混ざり合うのです。そうすれば、闘うことがないのです。アメリカの悩みの種である白人と黒人の問題を誰が解決しますか。その闘いを誰がやめさせることができますか。それはアメリカの誰もすることができません。どのような団体もできないのです。宗教圏もできません。ただレバレンド・ムーンだけが可能なのです。


キリスト教文化圏の長子権の国であるアメリカに発表したのです。興進君とイエス様が一つになって……。興進君は統一教会を中心とした父母様を中心として、キリスト教を中心としたイエス様を中心として、彼らが主体、対象の関係だというのです。これがカインです。反対してきたのが今からは統一教会に屈服することによって弟の立場に立ち、弟が兄の立場に立つというのです。弟の立場に立つには、興進君と統一教会が一つになった立場に立ったがゆえに……。

長子権とはアメリカだけではありません。父母様に侍ってから、統一教会に侍ってから、興進君に侍ってから、統一教会の食口たちのために侍ってから一つになったので、二人が一つになって長子になるのです。天上世界、地上世界の長子の立場に立ち、統一天下、地上天国完結、統一圏に越えていくのです!アーメン!

八百十四
 
霊界では興進を迎える日が歴史始まって以来もうれしい日です。興進は愛のメシヤとして霊界の門を開き、地上では標本的な殉教の道を開いたのです。ですから、統一教会員たちは興進を愛さなければならないのです。ですから、興進が長子圏の福を次子圏に相続してあげることができるというのです。サタンは相続してあげないようにしたのです。サタンは相続をしてあげないで自分が強奪するのですが、長子圏の興進は地上で受けた福をすべて譲り渡すというのです。ですから連結できるのです。今までサタン世界は譲り渡そうとしませんでしたが、興進はどんどん譲り渡そうとするというのです。


霊界では興進がいるので、興進が垣根になって責任をもって教育をし、地上でできなかった恥ずかしさを逃れるために努力することを決心し、霊人たちが訓練を受けるのです。父母様は中身のない殻だけではないというのです。霊界を中心としたすべての実体的権限を中心としてやっているのです。それゆえに霊界を祝福できるのです。霊界に父母の実体圏があることによって、地上と霊界に統一的な祝福をして、祝福を受けた人々が天国に行くようになっているのです。天国は空いています。天国を満たすためには、地上で祝福がなされなければなりません。地上の祝福なしに天上に祝福があるということはあり得ないのです。


霊界でも今、教育体験館を立てようとしています。信仰世界、宗教世界の伝統を教えてあげ、その次には傍系である世の中の思想も教えなければなりません。「統一思想」を教えなければなりません。そのような教育部署をつくり……。霊界ですべて別れているために分からないのです。神様が自分の父母で、自分は愛する息子、娘となり、理想的家庭を

成すという教育をしなければならないのです。


先生の家庭に今回、信春が生まれることによって、家族が四十人になりました。ぴたっと四十を満たしました。それで、信春です。信春とは何ですか。新しい「新」という字ではなく、信じる「信」という字です。信仰において統一教会に春が来るのです。今からは蕩減数で見ても、すべてのものを見てもそうだというのです。先生の家庭には今後、息子、娘がたくさん生まれることでしょう。孫たちがたくさん生まれることでしょう。

私たちの息子、娘は何人ですか。なぜ十二ですか。十三でしたね。惠進は生まれて八日目に逝ってしまったのです。今後、興進も養子をとってこのようになれば……。産児制限しなければなりませんか、してはなりませんか。サタン世界では産児制限をしなければなりませんが、私たち祝福を受けた者たちは産児制限をしてはいけないのです。汚れた体になって「私はこうであっては息子、娘を生むことができない」という時は、生んではいけないのです。


歴史的全体勝利圏を身代わりした真の父母の家庭がこのようになったのは、根まで浄化するための歴史を経てきたからです。惠進様はエデンの園の堕落した女性の血統を切ってしまって犠牲になったとすれば、喜進君は旧約時代です。すべて母が違います。それで、喜進君は旧約時代に該当し、興進は新約時代です。結婚できなかったのです。イエス様と全く同じなのです。結婚をしたので、地上で霊界と連結して、キリスト教の祝福を受けていない霊的な完成を広げてきた歴史に、肉的な完成のキリスト教の基盤を連結させるのです。家庭的な祝福が連結されるのです。


二) 先祖解怨式と清平役事

八百十五
 
清平に行くのはなぜですか。自分自体において霊的に引っ掛かったことを清算しなければならないし、自分の先祖をすべて解怨しなければなりません。検証を受けなければならないのです。興進君が行っています、興進君が霊界の高の長子です。興進は誰の弟ですか。興進の兄が孝進でしょう。ところが、興進は孝進よりもお兄さんの立場にあります。興進が 高のお兄さんの立場にあるというのです。すべて王として侍らなければならないのです。


今は国家時代に入ったのです。焦点を合わせなければなりません。それで、霊界解放と祝福をするでしょう。百二十代まで祝福するつもりです。過去には四代です。四代であれば何親等ですか。八親等までいくのです。七代まですればもっと多くなるのです。数百家庭、たくさん栄えた家庭は数千家庭になるのです。四代祝福、それから七代祝福をするのです。七代やれば一族を越えるでしょう。その次には世界版図である百二十代です。清平でそのことをするために、すべての祝福家庭たちは競争して、自分の先祖をすべて解怨してあげなければならず、祝福の門を開けてあげなければならない責任があるということを知らなければなりません。


先祖解怨式をみなしましたか。七代を解放しなければなりません。七代が解放されれば百二十代まで、七代からどんどん上がっていき、百二十代までしなければなりません。その先祖を中心として解放すれば、分別して、一度に百二十代を祝福できるのです。それゆえに完全にすべて祝福を受けます。

では、地獄の門が壊れていきますか、壊れていきませんか。イエス様がいる楽園、その楽園だとか中間霊界は堕落ゆえに生まれました。霊界もペア・システムになっています。それをしなければ自分たちが霊界に行って困るというのです。霊界で引っ掛かれば駄目です。霊界を整理しておき、地上はいつでも霊界を通して解決しなければなりません。


自分の先祖、百二十代を解怨するために清平に行って修練しなさい。「四代を解怨しなさい」と言ったところ、清平で大騒ぎでしたが四代をしました。それから、「七代をしなさい」と言ったので七代をするのです。今回は「百二十代をしなさい」と言ったところ

「ああ!」。「ああ」が何ですか。死にかねないことをしなさいというのです、霊界に行って。興進やおばあさんがそこにうつ伏せになり、霊界に行ってからは死ぬようなことをしなさいというのです。祭物になれというのです。それで、百二十代を解怨すればみな、興進やおばあさんが先祖を引っ張り出してく

れるのです。

アダムが天国に入っていく時、中間霊界に夫婦たちが暮らし、地獄に行っている人たちの泣き声を聞けば、アダムの心は安らかでしょうか、安らかではないでしょうか。そのようなことは、あってはならないことではありませんか。原理がそうでしょう。ですから解放するのです。「四・四節」をコディアックで宣布しましたが、宇宙的な「四・四節」をプンタ・デル・エステで一月八日に宣布しました。


八百十六
 
大母様以外に忠母様もいるのです。大兄様もいるのです。先生の一家の人たちは今、先生が命令すれば、どこに行ったとしても大母様がしていた仕事をすることができるのです。興進は大母様の教育を受けなくても大母様をリードしています。先生の息子、娘がたくさんいて、孫まで合わせれば四十名以上になりますが、それを準備し、受け入れることのできる人々がいません。どうですか。関心ありますか、ありませんか。先生が冗談半分に言うから、全部そのように聞いているでしょう、この者たち!深刻な話です。


孝南氏!各州に清平のような修練所をつくらなければなりません。自分が六大州を二カ月に一回ずつ行って、巡回しながら支部をつくらなければなりません。一つの所に引っ張ってきていると費用が多くかかってしまいます。清平に行くのに費用がたくさんかかります。そのような必要はありません。六大州に支部をつくり、自分が一人で行って何千名も一度にできれば、費用も節約でき、神霊の役事も霊界を動員し、アフリカの人々も動員できるのです。

清平のような所を六大州につくり、その六大州につくったものを各国で立ち上げれば、均衡的な霊的教育の場が生まれるのです。そうすることができなければ、私が清平から追い出すのです。「清平ではこのくらいにして、誰かを代わりに立てて、あなたはヨーロッパへ行け」と言えば、興進君から大母様、忠母様が一緒に行って、三カ月だけすれば支部が生まれるのです。今後、霊界に通じる人がた

くさん生じるのです。


五 ただ一つの願いが残っているとすれば

堕落した世界で迫害を受ければ受けるほど、より理想的な、より高い所に行くのです。霊界に行けば高貴な天国人になるのです。神様が見下ろして「これは私の愛する息子だ!」と言われるのです。その時は五官が神様の愛に酔うのです。全宇宙が頭を下げて称賛するのです。そのような世界が待っているのです。聖子が来るのを待っているのです。それが私たちの究極の目標です。分かりましたか。すっきりしましたか。


文総裁は闘いませんでした。後まで耐えに耐え、また耐えて頭を下げて行ってみると、その道は、闘わずに 高の立場、神様の相続権を受けることのできる立場まで行くことのできる道だったというのです。そうしてみると、滅びずに、「滅びろ」と言う世の中の前に勝利の覇権を握って、国を越え、世界を越えて歓迎を受けることのできる環境をつくりました。地上世界と霊界まで平準化できるこのようなことをすべて終えたのです。アーメンです。アーメン!


私が韓国に対して血肉を削って奉仕した時代は過ぎたというのです。国家を中心として、時は来ているのです。私が立てた手本を見せてあげたならば、「先生以上に死ぬ前に仕事をして自らの生涯に残さなければならない」と言わなければなりません。これをしなくては、天上世界の父母様のあとをついていけないのです。


八百十七
 
今や、相続権を受けたので、父母様の影のような姿でも、その国、その地で家庭周辺に影響を及ぼすことができなければならないのです。幹になれないなら枝にならなければならず、枝になれないなら葉にでもならなければならないという、木の存在に所属するのです。自らの霊界と接近できるというのです。 私が手に力を入れて夜に寝ると、これが固まるから、天が私の手を握って広げてくれます。そのようにするなといわれるのです。そうすれば、解けていくのです。そのような神様を信じて暮らす人にとって何が心配でしょう。統一教会の背後にはそのような奇跡がいくらでもあるのです。霊界に対して相軒氏が証したことは何でもないのです。私はそれを知っています。世の中は信じようとしませんが、私は一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント知っている人です。信じるのではなく、知っている人なのです。


人類はそのようなことを信じないので、天が支援しません。霊界に行けば、先生に対して有り難いと思うのです。李相軒氏も統一教会を信じて霊界に行けば苦労すると思ったのですが、上の立場で仕事をしているというのです。驚くべき事実で、こうであるとは思わなかったというのです。かといって笑って過ごさないでください。深刻な問題です。それを信じることができなかったなら、そばに刀を刺しておき、うとうとすれば死ぬと決心して祈祷してみてください。そのような談判祈祷をしなければなりません。適当では駄目です。


先生はおかしな人です。一度しっかりと記憶すれば忘れてしまわないのです。それが心配なのです。何も知らないで、今……。何、痴呆? 八十になったのですが、まだそうなっていないのです。おじいさんでも賢くてはっきりとしたおじいさんです。コンピューターが私に来てあいさつをするおじいさんだと思えば間違いないのです。私の頭に入れれば永遠に忘れません。霊界まで行っても記憶するのです。地上で自分が誤ったことがあれば解かなければなりません。


先生は一九六〇年以後に、山に行ってハンティングをしたりします。国のためのすべての責任を全うするために、動物世界を経て水産事業まで、六三年から準備したのです。海を占領しなければならず、陸地を占領しなければなりません。それから占領する場合は祭事を捧げます。祭物を捧げてアベル的基盤に立ち、カインを愛したというそのような因縁を結ぶことができる人は、真の父母以外にはないのです。誰もできないのです。統一教会の食口たちはすることはできません。

偽りの父母によって分かれたすべてのものを、真の父母によって成さなければならないので、雨が降っても雪が降っても海を中心としてすべて……。その海で犠牲になったすべての霊人たち、地獄の、地上に生きて死んでいった霊人たちの霊界解放が展開されるでしょう。それと同じです。海で死んだ霊人たちをみな祝福してあげるのも、すべてそのためなのです。ですから、真の神様という言葉を主張したということが、どれほど深刻なことであったかを知らなければなりません。何の話か、分かりましたか。


皆さんのような、そのような闘いも知らない純潔な人たちの前に、王の座をすべて譲ってあげて、ふろしき包み一つもなしに気楽に霊界に行こうと思うのです。霊界も準備されているので地上でもっていくべき何かがあり

ますか。もっと良い天国が願っているのに。


八百十八
 
今は大体すべて終わりました。先生がすべて教えてあげました。複雑な世界で疲れ果て、いじめられ、責められ、今ではそのようなことは嫌です。嫌いになるのです。ですから、静かな所で松一つを見て十年も生き、岩を見つめて十年を生き、このようにしながら霊界に行く準備をしなければならないのです。霊界の複雑なすべてのことを収拾しなければならないのではないですか。それは知っていますか。


先生は万人に道を開いてあげなければならないので、死刑囚とも友になり、窃盗犯と手錠を一緒にかけられ、共に御飯を食べながら彼らを慰労してあげました。この前はラスベガスにまで行って刑務所に収監されている人々のために祈祷してあげてきました。ニューヨークのニューヨーカー・ホテルを買ったのも、今後ニューヨークで一番のサタンの巣窟から掃討して新しく基盤を築こうとしたからです。

そこに行って、付き合ってあげ、慰労してあげなければなりません。それでこそ各界各層、サタン世界の滅びゆく人にまでも道を開き、道を築いてあげることができます。それとともに地上で道を築いてあげれば、霊界のふさがったものが開き、世界が一つになることができます。それゆえに超民族的に黒人も結婚させてあげ、白人も結婚させてあげ、白人にも家を買ってあげるし、黒人にも家を買ってあげます。このように先生は世界にないことをしている人です。


この国の扱いを考えれば悔しく思います。おじいさんが使って捨てた杖のように考えて、肥だめをつっつこうとする統一教会の群れがたくさんいます。どのようになるか霊界に行ってみてください。烈祖の審判台の前に、千年万年の恨を抱き痛哭の涙を止めることができない悲運が宿っていることを知らないでいるというのです。レバレンド・ムーンはそれを知っているためにここまで来ました。


気楽に寝る者は、誰かが夜に毒薬をばらまくかもしれません。これは千万年の道を汚すことです。ですから先生は生涯をかけ、針の座布団に座ったような気分で生きているのです。気楽に座ったこともなく寝ることもできないのです。横になって体を曲げて寝るのです。使命を果たす前には自らの肢体を天に向けることができないのです。先生はそのような生活をしています。皆さんはみんなネクタイを結んでいますが、私はこのように着ています。いつでも走っていくというのです。ですから誰よりも先に行くというのです。

家にいる時は靴下を脱ぎ捨てて裸足で過ごしています。できるだけ服を脱いで暮らすのです。なぜですか。そのようなことがすべて預金です。飢えた人のために与えるのです。それがくせになってしまい、靴下をはいただけで煩わしいのです。どこに行っても脱いでしまうのです。一生の間でいくらになるかを計算するのです。私が霊界に行けば、これが何千ドルになるならば、預金し、アフリカのかわいそうな人を生かしてあげなさいというのです。基金をつくっておいて逝こうとするのです。


八百十九
 
本来、神様の創造理想とは何ですか。真の父母の名前を通して天国の王国と地上王国を成すのです。真の父母の名前をもたずに地上天国と天上天国は生じません。今日キリスト教徒たちに「イエス様が神様の愛する長子であり息子ですが、どうして天国に行っていなくて楽園に行っているのですか」と尋ねてみると、返事ができないのです。天上天国と地上天国は真の父母の完成と愛の基盤を通じてのみ成されるというのです。霊界に行って王国を統一することが真の父母の使命であって、他の人の使命ではないのです。


先生は生涯の間、命を懸けて闘ってきました。世の中で苦しい仕事は避けることができますが、この仕事は避けることもできないのです。腕力や暴力をもってしてもできることではないのです。原理原則によってしなければ、四方から打ち込まれる矢を避けることができません。このような闘いは神様が天地を創造なさることよりも、もっと難しいことではないかとも思います。そのようなことをしながら、蕩減条件を立てて内的基盤を築いてきたとは、皆さんは夢にも思わなかったことでしょう。そのような基盤を土台として転換点をなしたというのは、「天宙的な勝利だ」と言うことができます。


文先生がこの道を探すために死の道を何百回も越えてきたことを、皆さんは知らなければなりません。神様を数百回も泣かせた人が文先生です。歴史始まって以来、誰も文先生くらい神様を愛した人がいないのです。それゆえに、いくら世の中が私をなくそうとしても、文先生は絶対滅びません。神様が保護してくださるからです。皆さんも文先生が教える真理圏内に入れば、神様が共に保護してくださいます。


新しい開拓精神で生きていけば年を取りません。私が性格のゆえに横になって死なないし、死ななければいつも動くのです。はって

でも動き、そうやって見ればいばらの道でしょう。年を取って周辺の注目を浴びてお世話になりかねない、このような立場で生きるというのは、恥辱の中でもこのような恥辱はないのです。私たちは、霊界を知っているために、体を脱ぎ捨てればどれほど自由でしょうか。


今後は海、水を占領するというそのような主張、そのような思想をもてば世界を主管できます。水が一番重要なのです。それで、私が霊界に行く前に、大きい地域を中心として着手しておいて逝かなければならないのです。ですからせっせとみ言も多く語り、すべて語っておけば、後世の人たちがなすと考えています。


先生は性格的に、霊界に行って静かに玉座に座って命令できる先生にはなれません。レバレンド・ムーンが霊界へ行くようになれば、今まで霊界に行っているすべての人々が開拓することができなかった神様の心の世界、次元の高いその世界を、考えることもできなかった世界を、また開拓する勇士になることでしょう。


ある霊通人は、文先生が偽物か本物かと祈祷をしている途中で痛哭をするのです。我知らず痛哭するというのです。一日、二日、毎日痛哭するのです。彼らは不思議に思うのです。文先生を知るためには痛哭する心情を知らなければなりません。それを知らずして文先生が分からないのです。

誰かが私に対して一言だけ言えば、私が千年の恨を抱いて痛哭できる事情をもっていることを、誰が知っていますか。私が神様を知らなかったならそのように非難されはしない



八百二十



のです。神様をあまりに知った罪で……。私だけを信じるしかない神様がどれほどかわいそうですか。二千年間誤った歴史を二十年間で蕩減復帰しなければならないのです。ですか

ら易しいですか。言うことがたやすいですか。


私が霊界に行った時、高の希望とは何でしょうか。私が慕い、私が愛した 高のクライマックスの時に考えたその心情圏内でお父様を呼んで、お父様の愛を受けたその基準を願うのです。涙で分かれたので痛哭したあとにすすり泣くその息子をつかんで、「お前の願いがこれではなかったのか」と、祝福のみ言を伝授されてこそ、永遠の勝利の真の父母の覇権が伝授されることを知っている人なのです。深刻です。その一日のために一生を捧げているのです。


霊界に行く時、神様の前にどういう贈り物をもって行くのか、それが先生の問題なのです。神様が願う国と世界のために働いたし、今後来る理想的な社会と理想的な世界を成すことのできる二世のために生きてきました。神様のように愛しました。それゆえに霊界に行っても不自然ではありません。そのままの延長です。ほかのことではありません。そのことをするのです。神様がそのことをしているので、私も神様に近い所へ行き、そのことを共にせざるを得ないという結論が出てくるのです。

ですから、お父様におかれても「私の国はお前の国だ」と言われるのです。なぜですか。

「変わらない愛をもって、お前が私を知ったのちにも変わらなかった」、これが理由でしょう。「お前は私が愛する愛をもって変わらない立場で、台風が来て暴風が吹いても、監獄にほうり込まれ、どんなに蔑まれても、個人の反対、家庭の反対、社会の反対、国家の反対、世界の反対、全霊界の反対を受けても変わらないで、私のような不変の姿勢をもち、その愛と理想を追求したので、お前が成した国は私の国であり、お前が人類のために探した

ものは私の国に違いない」と言われるのです。


ただ一つの願いとは何でしょうか。私が霊界に入る時、神様が私にどのように対するかということが問題です。私がそのみ前に立つ時、神様が王座に座っていて、御自身でも知らずに矢のように駆け降りてきて、「御苦労だった」と抱き締めてキスをされながら「永遠の祝福がお前にあるよう祈る!」と言ってくださるその一日が願いです。そのことを地上に残さないでは死のうとしても死ぬことができないのが真の父母の事情であることを知らなければなりません。


家庭を救ったならば国家を救わなければならないし、国家を救ったならば世界を救わなければならないし、世界を救ったならば天宙を救わなければなりません。そののちには神様まで解放しなければならないのです。すべてのサタンまでも、神様までも解放しなければならないのです。そのような立場にはまだなっていないのです。その立場にまで行かなければならないのです。先生がそのような立場で仕事をすることができなければ、霊界に行って罪人の生活をしなければなりません。自己の責任を果たせなかったという恥ずかしさ、ですから冒険をしているのです。

八百二十一
 
霊界をすべて解放してあげるのです。解放してあげ、「私があなた方を解放させてあげたから私のために生きなさい」というのではありません。「霊界では神様のために生き、私がつくった基盤の上で、世界のために生きなさい、生かしなさい」と言うのです。それが孝子の心であり、忠臣の心です。自分というものが中心になり得ないのです。


アダムが責任を果たさなかったことで地獄の谷間に入っていったのを、逆に立って、羞恥と謀略と恨の心情をもって再び生命の道を開拓しなければならない道がどれほど悲惨なものか、誰も知らないのです。神様だけは知っていることでしょう。霊界に通じる人が文総裁のことを誰であるか祈祷する時、痛哭でしか答えられないという天の心情を聞くたびに、私が「お父様、何でもありませんでした」と答えると、神様は感謝の涙をどれほど流されるだろうかと考えました。 そのような心情をもって出ていって、このようなことを宣布することによって、神様が捕らわれの身から解放されるのです。そしてそのことによって、私が霊界に帰る時、神様がアダムの千倍万倍の価値的存在として私を迎え、何千倍の喜びをもって私を歓迎したいと思われるような自らにいかになるかということが、先生の生涯の目標だったということを皆さんは知らなければなりません。