地上生活と霊界 (일본어 천성경 제5권)

무지개 | 20170703070754

地上生活と霊界

Earthly Life and the Spirit World


はじめに


真の御父母様が訓読会を定めてくださったのは、天国家庭の伝統として家庭に神様を迎えて暮らすためだと思います。訓読とは、み言を通して神様の深いみ意を悟り、真の御父母様の勝利の聖業と役事を知ることによって、み言の内容と一致させようとするところにあります。み言は真の御父母様が一生の間、千辛万苦によって探し出されたダイヤモンドの鉱山のようなものです。真の御父母様は、一つしかない貴い宝物、億千万のお金を払っても買うことのできない貴い宝物がたくさん埋められているとおっしゃいました。


真の御父母様は生涯を通じて珠玉のような生命のみ言を私たちに身に余るほどにたくさん下さいました。そのみ言の中でも、特に神様の実在性と霊界の実相、真の愛と真の父母、罪と蕩減復帰についてはっきりと知る人は罪を犯すことがなく、善なる人になるだろう、とおっしゃいながら、機会があるごとに、この部分をたくさん教育されました。


このような真の御父母様のみ意に従いながら、さらにみ言の中から、蕩減復帰時代に私たちが実践しなければならない信仰的内容、そして成約時代を迎えた私たちが永遠に実践しなければならない生活的な内容を探し出し、教育教材として使用する必要性を深く感じてきました。 今回、愛する日本食口のために、これらのみ言を選び出し、訓読教材用として『真の神様』、『真の父母』、『真の愛』、『地上生活と霊界』、『罪と蕩減復帰』、『礼節と儀式』、『成約人への道』など、七巻として発刊しました。このうち、『真の父母』と『地上生活と霊界』の二巻は、韓国で既に発刊され、訓読教材として使われているものを、日本の事情に合うように、またすべての人に読みやすく編集し翻訳したものです。


これらの書籍は完璧に編纂されたものだとは言うことができませんが、少なくとも真の御父母様の内的なみ意を体系化したものですので、訓読を通して本然の道理を理解するにおいて、必要な教材になるものと思われます。


この本によって、神様の正しいみ意を受け継ぎ、真の御父母様が願われる真の子女となり、天的な理想家庭をつくることで、この地上に創造本然の理想世界を立てるのに大きく貢献されんことを切に願うものです。

み言を下さった真の御父母様の愛に心から感謝するものです。


一九九九年十月


日本語版発刊によせて

 

四百四十一
 
歴史を通して洋の東西を問わず「人間は死後どうなるのか?」という素朴な疑問は、多くの人々の心を悩ませてきました。この疑問にどう結論をつけるかで、その人の人生観が大きく変わってきます。 霊界を否定する思想のもとでは、人間は一個の動物と理解され、人間の尊厳性を認めることができず、人生観も表層的となり、やがては刹那的快楽主義に陥ってしまうのです。一方、逆に霊界の存在を受け入れる人生では、人間としての尊厳性や価値の永遠性を認めて、豊かな霊的・精神的文化を生み出すこととなります。一時的な肉体的享楽に溺れる人生は虚しいものとして退けられます。


文鮮明先生は、御自身の豊かな霊的体験を土台として「霊界と共に暮らす生活」を教えてこられました。教えられる霊界の事実は驚愕する内容が多いとともに、一貫した原理によって説明されています。


この本によって霊界の実相に関して理解を深め、希望ある新しい人生を出発される契機としていただければ幸いです。


一九九九年十月


第一章 有形、無形世界での人間の存在

第一節 人生路程

一 人生路程に対する祈祷文

愛するお父様 7 天が屈辱を受けるその恥ずかしさを恐れながら、幼い時から今まで戦ってきた小さな者を守ってくださったお父様の恩賜に感謝申し上げます。

この地に何が良いといっても、お父様が運行される本然の心情につながったもの以上に貴い基準がないことを思うとき、その立場を無限に恋しがらなければなりません。お父様のその愛に接する人は、世の中の万事をみな放棄しても未練の残らない立場にあるということを、私たちは知るべきです。


今私たちは、お父様の愛で暮らす理想世界、本然を訪ねていかなければなりません。第三の生の自由権限をもち得る解放児として出生するその日を、今日この地上世界で準備しなければなりません。


赤ん坊が胎中にいるとき健全であってこそ、地上に生まれてからのその一生が健全であり得るのと同様に、地上生活が健全であってこそ、天国の生活が健全であり得る、ということを知らなければなりません。天と地が協助し、万宇宙の動的な運勢に拍子を合わせることができる立場に立つためには、今日の世の中とは相いれず、悪が主管する世の中であるために、死を覚悟しなければいけないという事実を、私たちは知るべきです。私たちの後孫たちは私たちと同じ立場に立てられては絶対いけない、ということを悟らなければなりません。(四九―三〇八)


愛するお父様、今まで春の環境を開拓するために、絶えず苦労されたお父様がいらっしゃるという事実を思うとき、私たちはお父様に無限に感謝し、無限に歓迎しながら、自分の生命と愛全体を、そっくり移してさしあげられる自らになれなかったことを嘆息し得る息子、娘になるべきです。私たちが新しい春を迎えるためには、私の生命が同化することができる因縁をもって、そこに完全に吸収されなければならないということを知るべきでございます

 

四百四十二
 
そうしてこそ、初めて春を迎えて花を咲かせることができるという事実を知るべきでございます。「一生で、どのひと時に春を迎えたことがあるのか」と聞かれるとき、いつだと答えられない、春を迎えられずに逝ったかわいそうな霊になってはいけません。一つの花が咲いて実を結ぶためには、夏と秋を経なければならないように、私たちも一つの実を結ぶためには、そのような過程を経なければならないのでございます。


一つの生命が投入され、実が結ばれるまでには、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝の全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力をもって第二の生を出発できるという事実を思うものでございます。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に、新しい世界に再び生まれ得る生命の気運が膨れ上がり得るかという問題を、自ら推し量ることのできる息子、娘になるべきです。


いくら歳月が過ぎていき、暴風雨が激しく吹き荒れても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再び蒔かれ得る、第二の生命の母体である種になれることを知るのでございます。


同様に、私たちの外的な姿はみすぼらしいものですが、無限の生命力を集約できる母体、あるいは結実体として再び無限の世界に植えられ得る価値ある人がいるならば、いくら外的に悲惨であっても、悲惨な人ではないということを思うのでございます。その外的な姿が悲惨になれば悲惨になるほど、内的な価値はより充実するということが保障されるという事実を、私たちが知るようにお許しくださることを切にお願い申し上げます。(三二―三七)

 

お父様 7 お父様に侍り、謙遜に敬礼を捧げたい心のない人は、永遠のあの世でお父様と因縁を結ぶことはできない、ということを知るべきなのでございます。

今、私たちが、心の門を開いてお父様の心情を感じさせてくださいまして、今日我々の心から聞こえてくるあなたの音声を聞き、失った自分の体を探すことができ、お父様が私一人を探すために、私の背後において艱難と苦労の歴史過程を経てきたことを感じて、自ら頭を下げることのできる私たちになるようにお許しください。(四―二八〇)


二 人が願う目的

神様には体がありません。それで、すべての万物を神様の体として、アダムを神様の顔で表したのです。それが創造理想です。

神様は、本来の霊的な焦点であり、アダムは本来の肉的な焦点です。その二つの焦点が九〇度をつくるのです。それが神様の創造目的であり、人が願う目的です。

アダム・エバが堕落しなかったなら、あの世に行ってお父さん、お母さんとして永遠に現れることができるのに、堕落したためにそうできないのです。堕落しなかったなら、自分の父母に神様のように侍れば、誰でもみな天国に行くようになるのです。(一一九―一〇九)


三 生まれた理由

 

四百四十三
 
今日、この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地球も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どんなものでも、みなそのようになっています。それゆえ、宇宙は丸く丸く回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっていても個別的に存在するのではなく、全体に連関性を結んでいます。

では、なぜ自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれました。大宇宙と拍子を合わせるために生まれたということです。

それで海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、自分の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放てるというのです。(一〇四―一二二)


愛から生まれ、愛から育って、愛から生きて、愛から死ぬようになるときは、生むのも有り難いことであり、生きるのも有り難いことであり、死ぬのも有り難いことです。

皆さんは、母、父がこの上なく愛する場に同参して生まれたというのです。同参者であるということです。

皆さんは、父母の愛から生まれたために、父母様の愛が差してある旗だと思いなさい。それゆえ、旗が動くのは愛を表示するためなのです。一生の間、愛のために生きるのです。それで、母のためにも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちのためにも愛の旗を振ってあげるのです。(一

〇三―二五八)


四 瞬間(一日)と一生の関係

皆さんの生活全体が栄養素を吸収し得る基盤にならなくては、生命体を完成することができません。これが、自然の現象世界で繰り広げられるのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬間にあるのです。 瞬間を無視する人は、貴いものをもつことができません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐこともできません。それゆえ、瞬間を輝かせるために、皆さんは言葉一言、行動一つにも注意すべきであり、考えることも注意すべきです。自分の生活で繰り広げられるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念で解決できる所でのみ、勝利圏が決定されるのです。

このように、勝利圏が決定されるのは瞬間です。したがって、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせることのできる無限の価値を感じて生活する人は、偉大な人になることができるのです。聖人にもなることができ、神様の息子、娘にもなることができるのです。このように、生死の分岐点は瞬間にかかっています。(三一―二一八)


今日、我々の姿勢が問題です。まず、み旨にかなった国が来ることを願い、そのみ旨が成されることを願うのも必要でしょうが、それより、自体がどのようにすればみ旨と一致していくかということが重要です。

一時間なら一時間を、どのようにすればみ旨と一つになるかということが、み旨の国が成されるのを願うことより重要だということです。それゆえ、まずみ旨を継承し得る個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を成してこそ、み旨の国と関係を結ぶことができるために、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間をどのようにみ旨と関係を結ぶかということが、重要な問題であらざるを得ません。

 

四百四十四
 
復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭とイエス家庭まで、四千年の歴史が下ってきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある一年を中心としたものではありません。 アダム家庭において、アダム・エバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が、億千万年続いてきたということを考えるときに、その瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかを知ることができます。

その一瞬の失敗で歴史時代に修行の道を行った数多くの人たちが、受難の応報を受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、とてつもない蕩減の祭物の起源になったというのです。このような事実を考えるとき、一時間、カチカチという瞬間が恐ろしいのです。それゆえ、永遠の天国も一瞬を離れてはあり得ないのです。

永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに一日のうちの瞬間でも、時間の関係において飛躍があったり、どん底が生じれば、永遠は中断されるのです。

それゆえ、我々が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行きと、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていくなら、彼は、一生をみ旨と一つになった一日の生活をもってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたなら、その人は天国に行けません。

いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてなければ天国に行くことができず、一年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入ることができないのです。それゆえ、信仰者は永遠を夢見ていくことも重要でしょうが、それより重要なことは、現実においてどのように悪を清算して善の旗手になるかということです。このような問題が何よりも重要です。

このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が億千万年の恨を残してきたのです。アダム家庭で、カイン・アベルが父母の恨を解いて、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源をつくらなければなりませんでした。このように、復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。 百二十年かかって箱舟を造ったノアの苦労の路程でも、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗れ」と言われた命令も、一瞬に下されました。この命令に同調した人は、永遠の神様の祝福を受けることができましたが、そうできなかった人は、永遠の審判圏内に埋葬されたというのです。

 

四百四十五
 
アブラハムも同様です。神様が「あなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のする。……もろももの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(創世記二二・一七、一八)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチカチという一瞬に下されたというのです。アブラハムが供え物をした時間も、何十年間供え物をしたのではなく、たった一日でした。祭物を裂いて供え物をする時間は、一時間未満でしたが、ここで歴史的なすべての生死禍福の起源が組まれてくるのです。

今日、信仰者たちが恐れるべきことは、終わりの日に訪ねてくる審判ではなく、一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間です。それを、どのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨と交差路を形成していくかという問題です。(三七―二一九)


五 幼児期と三段階秩序

アダム・エバを神様が造ったのなら、それをどのように造ったのでしょうか。土でこねて造ったなら、どのような土で造ったのでしょうか。どこで出発したのでしょうか。どこから始まったのでしょうか。アダム・エバを、成人になった人として造ったとは考えられません。

赤ん坊から造りました。神様が、赤ん坊をはらんだ母が、抱いて育てるのと同様な、そのような過程を経て造ったという論理を立てなくては、このすべての三段階の秩序を通じた存在の形成というものは、説明する道理がありません。それで、アダム・エバに幼児期があったというのです。その次に、成人期がありました。これは天理です。その次に完成期がありました。

幼児期とは、どのよう期間だったのでしょうか。無形の神様が、無形の世界から有形の過程を経てくることができる、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。(二二五―一九八)


六 我々の人生の道

我々が暮らしている社会、国家、世界は、自分の意志に符合する環境になっていないので、すべての苦衷が生じており、善悪の分岐点が重なり合っています。百人なら百人、各々自分なりの一日の生活を営むために環境と闘争しており、その環境を押して進んでいます。それゆえ、朝に計画した一日の仕事に対して誰も自信をもつことができないということを、我々は一日の生活の中でよく体験します。その上に、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自身の一日の生活を勝利として結果づけるためには、それに比例した決意と推進力をもたなければなりません。そうでなくては、その日が勝利の日になり得ないのです。そのような一日一日が加わってひと月になり、ひと月ひと月が加わって一年になります。

そのひと月も、我々が計画したとおりに暮らせる環境になっていません。我々がひと月の勝利をもたらすためには、そのひと月の環境に備わった複雑なすべての事情、すべての与件を打破することができる推進力と決意がなければなりません。それがなくては、ひと月の計画を勝利したものとして終えることができないのです。

一年を押し進めるためには、三百六十日を克服することができる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなくては、一年を勝利で飾ることはできません。このような一年に十年が加わって、二十年、あるいは三十年が加わった日々を過ごしているのが、我々の人生の道です。(三一―三〇)


四百四十六
 
今日、この地に暮らしている人間たちは、時間性を外れることができません。人類歴史について見ても同様です。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界もそのような時間圏内で動いていっています。

人が生きていく所には、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、十年、二十年、三十年、七十年、一生の間行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く誓わなければなりません。そうでなくては、その目的に到達することはできません。時間という過程を通じて、その目的を凌駕し得る内的な決意を続けない限り、その目的を達成することはできないのです。(三一―一四九)


七 我々が訪ねるべき本郷

皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。

その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、神様の天地原則の世界であるために、生きた人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が、理想天国です。

そこが、我々人間が訪ねるべき本郷です。今日、我々は堕落した人生として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかしそこへは、その人間自体としては入ることができないために、神様は、人間が入ることができる道を歴史過程に設定せざるを得ません。

それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統が異なることによって、数多くの宗教を立てて収拾していきました。そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入ることができる資格者を錬磨させる訓練場です。東西四方の文化背景によって、高い所に前進することができる一つの統一された宗教世界を率いてきています。

そのような本郷の所へ導くべき宗教であるために、宗教は何を教えているのでしょうか。

「ため」に生きなさいということを教えていると言わざるを得ません。そして、高次的な宗教であるほど、「ため」に生きるべきだという原則を強調しなければならず、「温柔謙遜」であれと言うのです。数多くの人を高め、彼らのためにする立場に立てというのです。「犠牲奉仕せよ」と教えるのです。なぜでしょうか。その国の法度に合う訓練をしなければならないからです。(七八―一一七)


八 人生 高の行くべき道

人生の行くべき道とはどのようなものでしょうか。神様の愛を占領することが、人生の行くべき道です。神様の愛を占領することが、人生の行くべき高の終着点です。この道は、男も女もみな行かなければなりません。すべての人が行くべきなのです。

人生の行くべき道は、無限であられる愛の神様を探すことです。十回でも百回でも、死の峠を経てでも、死んでも絶えず探していくべき、神様の愛を探すのが人生の高の行くべき道です。

 

四百四十七
 
欲望の終わりとはどこでしょうか。神様の愛を占領する所です。神様を占領したといっても、その中にもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自分の神様ではありません。それゆえ、神様の愛を占領しなければなりません。愛だけ占領すれば、神様はいらっしゃらなくても大丈夫なのです。彼のものが私のものであり、私のものが彼のものになるとき、初めて内外が一つになるのです。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。

そのような場に横たわるようになれば、天下にある存在の中で、良く見えないものがなく、天下にいる存在の中で、自身のために存在しないものはないと感じるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で充満した所なのです。(三九―二一〇)


九 出生の基準と生涯の基準

一) 過った出生の基準

今日、世の中の人は、自分自身は高貴な人だと言っている人でも、いくら博士だと言っている人でも、自分の出生が間違ったということを知りません。神様の怨讐であるサタンの愛と、生命と、血筋をもって生まれたということを知らないというのです。重要な問題です。

堕落によって人間は、サタンの愛により生まれたのです。サタンの愛がその父母にまでつながってきました。母の生命、父の生命にその血が流れていて、その血が今日、自分につながってきたというのです。そのような三種類の結実が、正に自分です。

ですから皆さんは、サタンに属したのです。いわば皆さんの血管に乗ってサタンの血が流れているのす。したがって、自動的にサタンは自分の理想的な結実を結んだのであり、神様は、そのような男女を本然の純粋な完成人間として救おうとされるのです。

皆さんは、サタンの愛から出発したのです。皆さんは、サタンの血統をもって生まれたのです。それゆえ、出発が過ってしまいました。 出発が過ったので、再び帰らなければなりません。帰るには帰るのですが、どこに帰るのでしょうか。原点に帰らなければなりません。偽りの父母として始まったので、帰って「真の父母」として再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか。自分が、神様の愛と、神様の生命と、神様の血筋を再び引き継がなければなりません。

それで、出発するとき、血統転換式をします。それを、自分の生命よりもっと信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式として考えてはいけないのです。これは、死んだ立場から回生させる注射の薬と同じです。解毒注射です。

我々の先祖が過ったのです。これのために、歴史を経ながら多くの人々が犠牲になりました。これを知る私たちは、再びその道を行くことはできません。絶対行けないのです。堕落天地に不倫の愛を残すことによって、歴史を通して受けたその代価が、とてつもなく大きかったのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、とてつもなく大きかったというのです。(二一六―一〇九)


二) 生涯の基準

ここで、生涯とは、永遠の生涯を言います。地上界だけを言うのではありません。それは生きている永遠の暮らしです。

 

四百四十八
 
「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的であり、主体的な神様の対象が、正に自分です。神様の愛の相対が私というものです。神様が自分より、もっと貴く考えるものが、真の愛の概念です。神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そして神様の理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が自分です。

愛の属性は、主体と対象が一つにすることです。それは、国家を一つにします。それゆえ、どんな場でも同参することができ、どこにでもついていくことができます。全財産を、みな相続することができます。神様の心情までも、みな相続するのです。先生が悲惨な過程を経てこれを発見することによって、その基盤の上に立つようになりました。これは何とも換えられないし、崇高で高貴なものなのです。驚くべき恩賜です。

それゆえ、神様と同じ立場に立つのです。永遠の真の愛の場に同参するのです。あの世界は、制限された地球星とは次元が違います。制限された所では自由に動くことができませんが、あの世界は次元が高い世界であるために、何でもできる所です。時間を飛び越えられるのです。愛を中心として何でも願いさえすば、いつでもどこでも、みな得ることができるのです。

我々は元来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である自分は、永遠の生命体なのです。だから、霊界に行けば自由なのです。

それで、生涯の基準として、第一が善悪の基準です。皆さんは、それを知るべきです。善悪の基準が第一であり、第二が本然の出発点であり、三番目は永生です。(二一六―一一五)


第二節 人間の位格

一 神様が人間を創造した目的

神様は、人間をなぜ造ったのでしょうか。第一は、神様自身が父母の立場に立つためです。その父母は、霊界でも無形です。形がありません。それで、形をもった人間の父母になるためには、形をもたなければなりません。そうでなければ、中心になり得ないのです。 二番目は何かというと、垂直線は一点にとどまります。面積がありません。すなわち、霊界では繁殖をすることができないのです。垂直の次元で、それを横的に展開して三六〇度の球体になってこそ、多くの空間が生じるようになります。

三番目は、愛の相対圏の永遠性を維持するためです。神様の相対になるのは、アダムとエバだけではないということです。アダム・エバが相対の位置に立つのと同時に、その子女たちも相対の位置に立つようになるのです。ですから、神様の相対の位置を永続的に保存するため、人間を創造したのです。

アダムもエバも神様をお父さんと呼びます。では、その子女たちは神様を、おじさんと呼びますか、おじいさんと呼びますか。お父さんと呼びます。

相対というのは、平等なものです。神様の愛を横的に繁殖し、その愛の価値を完成しなければなりません。完成した愛の価値は、一つです。平等なのです。

そこには、三つの理由があります。一番目は、形が必要なのです。形態が必要です。父母としての形が必要です。アダムの父のような顔で、霊的にその形態を得るということです。 二番目は、天国の国民の生産地が必要です。ですから、夫婦は生産工場です。生産工場なら、大量生産するのがいいでしょうか、少量生産するのがいいでしょうか。大量生産するのがいいのです。

生産工場が自動化され明確に大量生産するようになれば、天国はいっぱいになるのです。


四百四十九


ですから、女性は多くの赤ん坊を産むようになっています。(二二二―三三八)


二 人間は、霊界と肉界の媒介体

本来、神様の創造過程を考えてみれば、神様は万物を造って、人間を造ったのです。神様を中心としてすべてが始まりました。人を造ったことによって、神様と人間と万物が平行的な立場で統一を見るのを願われました。これが神様の創造のみ旨です。神様がいて、この被造世界があり、その中に人がいます。このような中間的立場に立ったのが人間であるために、人間は霊界と肉界を接触させることができる媒介体であるです。(六七―一四三)


三 体と心、そして霊人体

今日、我々が暮らしているこの被造世界には軸があります。その軸にも、二つのものがあります。見える軸と見えない軸、二重構造になっています。

一つの主体を中心として回るのに、その主体自身も回ります。体と心が授け受ければ、回るようになるのと同じことです。

すべての存在物は、このような原則によって存在します。同様に、今日堕落した人間世界からの復帰の道も、軸を直さなければいけません。


人間において、体の中心とは何でしょうか? 心です。心を中心として、体がつながっているために、体は霊を中心として回るのです。心の命令に体が動きます。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体は勝手にできません。(一三六―一四)


人間には、体と心があり、心の上に霊があり、霊の上に神様がいらっしゃいます。それゆえ人間は、神様と完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体であっても、全体の歴史に代わった存在であり、未来のすべての因縁に代わる存在であるために、天宙的な価値をもっています。

人は、自分の生涯の因縁を訪ねていくのにおいて、自分の心を前に侍っていかなければなりません。これが天倫です。心の命令に服従しない者は、天がたたきます。今まで天は、歴史路程で人間に良心のとおりに生き、物質的な悪の条件に引っ掛かるなと言いました。 では、人間の良心は、天倫に一〇〇パーセント似たのでしょうか。そのようになっておらず、数多くの障壁で遮られているのです。天国の関門の前に、曲折の門が横たわるようになるというのです。これがキリスト教で言われる審判の関門です。今日の思潮は、恐怖と不安と混乱の時期を迎えています。中心をつかもうとしてもつかむことのできない時代ということです。

今日、我々は、物質を多くもっていてもいけません。なぜなら、神様が人を造るとき、体と霊人体を造りましたが、霊が中心であるからです。(四―二六八)


四 完全作動と共鳴

 

450 * 四百五十 
 
共鳴とは、振動するときの周波数が同じことをいいます。 人間は、永遠に生きることができる我々の内的人と、地上天国に暮らすことができる外的人が、愛を中心として共鳴することができなければなりません。共鳴するときは、音波が同じであってこそつづられるのです。そうしながら回ります。回るには、そのまま回るのではなく、核を中心として回るのです。 同様です。霊人体と肉身が神様の愛を中心として調和するようになるときは、霊的細胞、肉的細胞が完全に作動するのです。

それゆえ、目が完全作動するときは、目を開くようになれば、天上天下、地上天下がみな見えるのです。完全作動をするためです。マイクもそうではないですか。性能が良ければ、一〇〇パーセント響きわたります。

同様に、愛の力で肉身と霊人体が一致して、爆発し得る境地になれば、天上世界、地上世界が、神様がすることなく、みな共鳴するようになるのです。(一七一―一〇三)


人間を見ると、心と体が二重構造になっています。男もそうであり、女もそうです。男も女も心の人と体の人から成っています。それで、男女を合わせれば四人だと言うことができます。分けておけば四人ですが、これがどのように一つになるでしょうか。

神様は、なぜこのように四人に造られたでしょうか。神様の真の愛を中心としては、完全に一つになるのです。真の愛で完全に一つになるのです。

皆さんには、霊的人、統一教会で言う霊人体があり、肉身があります。霊人体は我々の目に見えませんが、存在するのです。

では、霊人体と肉身はいつ一つになるのでしょうか。これが問題です。これは、音叉と同じです。音叉の一つを鳴らせば、他の側も振動数が同じように共鳴するのと同じ道理で、神様の愛の作用が我々の心に来れば、自動的に体に反応するということです。

それゆえ、体と心を一〇〇パーセント共鳴させ得る圏内に追い込むことができるのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、ただ愛です。(一三八―二五四)


第三節 人間の生命の本質

一  霊的なものが人間の本質

ある一つの核心があれば、それを中心としても相対的な存在が必ずあります。陽子を中心として電子が回っているのと同じように、神様と人間との関係もこれと同じです。電子のような我々人間の心が、陽子のような神様の心の核心と関係を結んで作用しているため、神様が人間に対して復帰摂理をなさることができるのです。

我々が真理のみ言を探せば、神様の生命が躍動すること、神様の愛が和動するのを感じることができす。このように、真理の道を経て、神様の生命と愛を探していくのが、価値あることです。

パウロが言ったのと同様に、世の中の光になることができる自分になったのも、中にある神様の愛のためです。

真理は、永遠不変です。では、我々はこの悪なる世の中で、どのように善悪を分別しながら真理を探していくべきなのでしょうか。自分を中心とした心を捨てて、いつも低い位置に下りなければなりません。聖書でも、

 

四百五十一
 
「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)と言いました。 人間の本質は、霊的なものです。それゆえ、あの世に行けば、そのような人間の本質が人のためになるようになっていることを、もっと実感するようになるでしょう。ところで人間は、どうして自分だけのためにという心で万事に臨んでいるのでしょうか。

これは、すべての人間が、天倫に背いた天使、言い換えれば、サタンと血統的な因縁をもっているためです。(二―一三七)


今我々は、霊的な御飯を食べなければなりません。皆さんは、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがおいしくなければならないでしょうか。自分が生き残って神様の側に立つためには、霊的な御飯の味が、肉的な御飯の味よりももっと良くなければなりません。霊的な力を中心として暮らす生活の味が、肉的な力をもって暮らす生活の味よりも、もっとおいしくなければならないのです。(一三一―二一一)


二 万物の霊長であるという意味

万物の霊長という言葉は、何を意味しているのでしょうか。万物の霊長とは誰でしょうか。「人だ」と言っていますが、万物の根本となった霊長は神様です。皆さんは、霊があるということが分かるでしょう。人間には、霊があります。人間は、その霊の中の長であるために、結局神様と直結させて霊長だと言うのです。

万物の霊長だというのは、人間自体だけではなり得ません。人間も被造物であるのに、どのように万物の霊長になるかということです。被造物とは、相対的な結果体です。被造物だけでは、原因に通じることができず、原因を占領することができないのです。被造物は、原因に占領されるようになっています。 皆さんは、結果的存在であることは間違いありません。霊長と言えば、長は霊の中で中心であるという言葉です。この言葉は、本来、神様と人間が一つになった関係について言う言葉です。

それゆえ、霊長は、神様と通じるのです。しかし、人間が万物の霊長だといって、すべてが霊長ではありません。霊長になり得る人は、別にいます。その霊長になり得るクラブに加入できる資格者は、少なくとも個人のために生きる人ではありません。全体のために生きる人です。神様は、そのような人を中心として願いを成そうとされるのです。そうなれば、誰の天国になるのでしょうか。神様の天国ではなく、その人の天国になるのです。(三二―一三六)


人は、どのようにすべきでしょうか。永生しなければなりません。悪なる世の中で、八十年ほど暮らしますが、犬が死ぬことや、人が死ぬことには、違いはないと考えるかもしれませんが、それは違います。人は霊長であるために違います。

万物の霊長になり得るのは、何のためでしょうか。年を取らない心のためにそうだというのです。万物は、みな変わり得ます。純金も変わります。風化作用により、減少します。ですが、心だけはそうではありません。変わらないところにおいて、高の権威をもっています。(一五九―二七八)


四百五十二
 
万物の霊長だということは、何を中心として言うのでしょうか。お金を中心として、知識を中心として、権力を中心として言う言葉ではありません。それは、神様の 高の愛を中心として言うことです。(二一〇―三〇九)


三 内の人と外の人

人間の本然の因縁とは何でしょうか。神様の絶対的な愛の圏内で、互いに完成した愛を楽しむことができ、褒めたたえることと尊敬の価値を現すことが、本然の因縁です。そうする中で、天の因縁と地の因縁が、すっかり和合して、一つに調和して現れたのが人間です。それゆえ、見えない心があり、見える体があるのです。

本来の因縁をもって生まれたなら、体と心が分かれて一つになるのです。

皆さんも、内の人と外の人が互いに闘っています。この闘いは、いつ終わるでしょうか。約十年ほど過ぎれば終わるでしょうか、死んでも終わらないのでしょうか。神様が人間をそのように造ったなら、その神様は一つの目的をもった神様ではなく、二つの目的をもった神様です。そのような神様は、混沌とした神様だというのです。

宇宙のすべての法則は、前後左右が行き違いなく秩序整然と一つのはっきりとした目的があります。これを見るとき、人は本来このように創造されたのではないのです。それで、体をほうり投げて、本然の心を探さなければなりません。(四四―一九四)

我々人間の肉身と霊人体の中で、より重要なものとは何でしょうか。肉でなく霊なのです。肉は七十、八十年の時間圏、限界圏内で生きては去ってしまいますが、霊は時間圏を超越し、空間まで超越する権限をもっています。したがって、歴史的な責任を悟って、責任を果たすことが人間の本務です。 皆さんがいくら肉身を中心として豊かに暮らしても、結局は死ぬようになるのです。どうせ肉身は死ぬようになっているのです。そのようになっているのです。では、霊的な基準と肉的な基準のうちで、どちらがより重要なものでしょうか。我々は、肉的な基準を中心として生きていくのではありません。肉は霊のために、霊は肉のために存在するのです。皆さんは、世の中の人たちが生きていくのと同じ立場にすがってはいけません。

皆さんは、肉を救ったという立場で、霊肉が合わさった実体を備えて、より甲斐のある立場から出発しなければなりません。(二〇―三二六)


四 地上生活の目的は霊肉完成

み旨とは何でしょうか。結局、人間の霊肉を完成させることです。自分自身を中心として、過去は霊的であり、今日は肉的です。過去は霊的であり、現在は肉的であるということです。二つの世界の侵犯を受けました。現在の立場がサタン世界だから、サタン世界に勝った肉になるべきであり、過去のサタン世界に勝った、霊的基盤を築かなければならないのです。過去と現在に勝利すれば、霊肉をもつことができる基準が、未来に対する祝福に広がるのです。(七三―九六)


我々が知るべきことは、霊界が主体ではなく、肉界が主体だということです。完成させるのには、霊界が主体でなく、肉界が主体です。肉界の完成は、霊界と肉界の完成なのです。ですから、肉身生活が貴いというのです。(九一―一七八)

 

四百五十三
 
第四節 肉身生活の高貴性

一 肉身生活は霊界生活のための準備

神様が、万物と人間を造られ、良しとされたのは、互いに闘うなということです。体を打って心の前に屈服させることが、宗教の教えです。悪から善に越えられなければいけません。

自分の体が完全に勝利したということは、サタンまでも完全にその根を抜いて征服したということです。天国へは、サタンを征服してこそ行くことができます。サタンに勝つことは、肉身を脱いではできません。なぜなら、肉身が地で事故になったので、直すのも肉身を使って、地で直さなければならないのです。地上ですべきことをみなできなければ、永遠に地獄に行きます。

それゆえ、地で勝利して天の側の善なる立場に立つようになれば、永遠に天国に行くのです。(六五―二九四)

この肉身世界は、短い期間です。長くありません。それを知るようになれば、寝る時間が惜しいのです。御飯を食べる時間が惜しいというのです。そうなると御飯を歩きながら食べ、寝るのも、歩きながら寝て、遊ぶのも、歩きながら遊ぶのです。そうであるほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。

(八〇―二二六)


私がたとえ制限されたこの地で八十年くらいはいるといっても、我々の舞台は世界の祭壇です。それゆえ、ここにある万物は、世界の万物であり、自分の体は、世界人類の体であり、自分の心は、世界人類の心です。そのような心情は、神様と一つになっています。これが全部一つの祭壇です。(七五―一六六)

偶然に物事が起きるのではありません。準備というものは、たやすいものではありません。それゆえ、一生について見るときに、少年時代は青年時代のための準備です。壮年時代は、老年時代のために準備しているのであり、老年時代は、霊界に行く準備をするのです。一生は、大宇宙の人格を備えるために、一つの訓練過程を経ている修練期間です。準備期間であるというのです。(一四七―一八八)


我々は、この世に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界があります。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界につながるべきです。

では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべき所とはどこでしょうか。もちろん、我々は肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人たちは、世の中に生まれ、青春時代を過ぎて、壮年時代を過ぎて、老年時代を経て、沈む日のように人生を終えます。しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生というものがしばらくの間であり、死んだ次に迎えるべき世界が永遠だということを知り、準備するのです。ゆえに、一生の期間は、永遠の世界に入るための準備する期間です。


学生を例に挙げて言えば、一学年に単位を取るべき、学校で制定する単位の基準があるのです。その基準にどれくらい到達したかという対照によって、学校で認められる学生になるのです。

 

四百五十四
 
しかし、単位に達しなければ、学校が立てた価値基準から遠ざかるのです。それゆえ、ある標準を中心として、すべてを測定するようになります。 我々が肉身世界で暮らすのは、まるで学校で定めた単位基準に合わせようとして準備する期間と同じです。我々は、一生の間に積むべき実績を追求しているというのです。言い換えれば、責任を追及するある基準の前に、どれほど一致するかという、その基準値を中心として生涯路程を行っているのです。(一四〇―一二一)


皆さんは、すべてを自分のために消化してはいけません。神様のために、天地のために消化し、自分の国と自分の氏族と、自分の家庭と、自分の相対のために消化するということを考えるべきであって、自分のためにしてはいけないのです。

一生の間、自分を中心として暮らせば、全部が心配です。しかしながら、「ため」に暮らすようになれば、すべてが自分の友達になるのです。絶えず「ため」にしてみれば、自分は真空状態になるために、真が訪ねて入ってきます。

我々統一教会の誇りとは何でしょうか。第一が真の愛であり、第二が「真の父母」です。これは、統一教会にだけある言葉です。辞書にもありません。第三が真の子女であり、第四が真の氏族です。これが我々の四大目標です。(二〇三―一〇一)


二 肉身生活の貴重性

自分が解放されれば、神様が解放されます。家庭が解放されれば、天国の家庭がそうなり、この地上がそうなら、天国がそうなるのです。それゆえ、聖書に「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)とあるのです。このような二重構造の一体性で解明されます。

皆さんは、肉身を使ったこの期間が、どれほど貴いかを知るべきです。神様も復活させることができ、宇宙も復活させることができ、すべての天下を統一させることができるのは、肉身を使っているこの期間しかありません。 神様と万物を合わせても、この肉身世界と換えることができません。なぜでしょうか。神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ、完成されないからです。人間の体がどれほど貴いかを知るべきです。我々の肉身は、宇宙とも換えることができません。聖書の「全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ一六・二六)という言葉も、それで成立するのです。(九一―一九一)


肉身生活は八十年ほどにしかならない短い生涯路程で、歴史的に絡んだすべての善の圏を収拾しなければならないのです。

この短い肉身生活に因縁を結ぶべき善の圏が膨大だということを知るこの心、良心は、どれほどせきたてるでしょうか。死ねばできないのです。生きている間に本郷の地を訪ねて、祖国の主権回復をすべきです。そのようにして天の主権者に侍り、その国で生きていってこそ、天上天国に行くのです。(一五五

―二七)


四百五十五
 
霊界、無限の世界は永遠です。そのような世界に行くためには自分自体をどのように収拾すべきでしょうか。そんなことを考えてみましたか。肉身生活をする間に収拾しなければなりません。これを正すことができるのは、この時しかないのです。それを正すのは、絶対自分のためにしては正す方法はありません。自分のためにして正す方法があるなら、統一教会の文先生が、今まで絶対苦労しなかったのです。(五九―五〇)


統一教会が提示する原理の道は、千年、万年過ぎても行くべきです。生きている間に行けなければ、億千万年の永遠の霊界に行ってからでも行かなければなりません。(一三五―二九七)


三 習慣性が重要である

今日、我々はサタン世界の習慣を捨てて、神様の新しい秩序を確立しようというのです。(二一三―一九)


皆さんは、キムチとコチュヂャン(注:とうがらしみそ)が好きでしょう? (はい)。西洋人たちは、キムチとコチュヂャンが好きですか? 見ただけでも逃げるのです。(笑い)このごろも、優れているという輩のアメリカ研修を続けていますが、今回も二百三十名ほどが行きました。行って、ホテルでキムチを出しておいて食べるから、西洋人たちが、「ああ 7 これは何のにおいだ。何かのにおいより、もっとひどい」と、こう言っては逃げていくのです。しかし、韓国の輩はどうですか? 「ああ 7 蜜の味よりいい」と言って、舌なめずりをするのです。

習慣性を打破するということは、とても大変です。その言葉は、今まで皆さんがサタン世界で自分を中心とした習慣性をもって生きてきましたが、その習慣性が固着したものです。そのように固着してしまったその習慣性は、韓国人たちがキムチ、味噌、コチュヂャンを食べる習慣性よりももっとひどいのです。

これは歴史性をもっているのです。悪魔が出発したその日から、根が刺さった習慣性をもっているますが、これをどのように抜いてしまいますか。

穴を掘って根まで埋めようとしても、埋められないのです。深刻な問題です。天国に行くには、神様を中心とした習慣性もたなければなりません。(二一三―二〇)


四 肉身生活の標準

先生の生活は、神様のために生きる生活です。この世界のために生きる生活です。自分のために生きるという考えをしてはいけません。それで皆さんは、神様と「真の父母」と人類のためにしなければなりまん。

神様と「真の父母」と人類を結ぶためには、自分を中心として四位基台をつくるためには、真の愛がなければなりません。神様も真の愛を願い、「真の父母」も真の愛を願い、人類も真の愛を願います。真の愛を中心として、真なるこの宇宙を相続することができる人になければなりません。これをいつでも考えなければななりません。

 

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それゆえ、今まで皆さんがどれほど天が願う生活と一致したかということを、比較しなければなりません。そして、人類を代表した自分になるべきです。父母を代表した自分になり、神様を代表した自分になるべきです。そのように生きた人は、霊界に行っても、地上のどこへ行っても、境界線がないのです。 自分が千名の友達と共に食物を食べたい場合、そのような環境も、愛を通じた世界でだけ可能なのです。神様が創造主の能力を行使するとき、その愛を中心として造ったのです。

霊界の世界では、真の愛がつながれば、すべてを調節することができ、すべてを創造することができます。それが我々の理想郷です。真の愛と関係を結ばなければ、みな不可能なことなのです。(一四七―一一五)


五 肉身を使って記録される

皆さんの生涯の中で、もし三分の二以上が口で言えない悲惨な生活をしたとするなら、その三分の二の生活をすべて取り除いてしまうことができますか? 取り除くことができません。必ずついて回るのす。(三四―一三九)


蕩減、なぜ必要ですか。復帰するためです。復帰とは、再創造でもあります。それゆえ、皆さんは価値のある生涯を残さなければなりません。ある人は、「ああ、年を取ったらイエス様を信じて、死んだら天国に行こう」と、このように言っています。しかし、年を取れば、何かを正すことは難しいのです。

それゆえ、若い人でなければならないのです。それで、二十歳に入ってくるより、十五歳に入ってくるのが良く、十五歳のときよりも、赤ん坊のときから知って大きくなったというのが、もっと価値があるのです。

皆さんの中に、水がいっぱいになっていれば、それは清い水ですか、泥水ですか。そこに砂粒が混じっているし、小石が混じっています。大雨が過ぎたのちに、川辺にありとあらゆる汚いものが引っ掛かっているのと同じで、皆さんの中にもありとあらゆる汚いものが混じっているのです。 ですから、振り回して、みな排泄しなければなりません。濾過装置を経なければならないのです。したがって自分があってはいけないのです。自分があれば、引っ掛かります。水自体に砂粒のように汚い塊 が混じっていれば、流れることもできず、引っ掛かるようになっています。

霊界に行くようになれば、そのような装置、レントゲン写真のようなものに照らされるだろうと考えてみませんでしたか。神様も、そのような濾過装置を経た人たちを必要とします。(九七―六〇)


六 地での暮らしがあまりにも重要である

皆さんは、霊界に行って、保護官生活をしなければなりません。何千年も待たなければならないのです。

皆さんの家庭の基準がみな違います。それで、行くのにも、みな自分の級に合う所に行って、長い間とどまるのです。では、皆さんの先祖たちが、息子、娘たちが、「なぜそうしたの? なぜ、そのようにうまくできなかったの? それは何?」と言いながら讒訴します。皆さんは、そこに該当するほどの長い時間、そこにとどまらなければなりません。そのように易しいことではありません。それで、地ですべきなのす。先生が「しなさい」と言うことをみなしなければなりません。

ボルトがあれば、これに合うナットを作って満たさなければなりません。ナットが合ってこそ、満たされるのです。分かりますか。

それが合わなければいけません。

 

四百五十七
 
この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか。一度しかありません。瞬間ですが、一度しかありません。地上生活を永生に例えれば、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。これは重要ではありません。肉身生活を越えて、霊界のために準備をしなければならないのです。

いつもそのような主流思想をもって、センターに立って一切を調節し、一切を征服することができなければなりません。そうでなければ、個性完成をなすことができません。(二〇七―九九)


七 肉身を使って責任分担遂行

皆さんは暮らしながら、神様を思い、「真の父母」を思わなければいけません。そうすることで、愛によって心身が円満で、安全な、満足な圏内に暮らすようになるのです。

そのような生活をした人は、霊界に行けば、そのままになるのです。地上には内面的に拡大した生活がありますが、内面的に拡大したその基準は、霊界に行けば表面化されるのです。愛が内面化されているために、神様と人類が一つの体の細胞と同じです。自分自身が、その細胞のうちの一つになる世界が霊界です。そのような境地に入れば、神様が間違いなく自分の心の中に入ってくるのです。「神様 7」と呼べば、自分の心の中で「誰が私を呼ぶのか。何だ?」と言うのです。すなわち、神様と共に暮らしていく世界です。

責任分担は、それほど重要なのです。それで先生が責任分担という原則を立てたのです。皆さんが毎朝鏡を見るとき、男として女として生まれて、責任分担をどのように果たすかを考えなければなりません。それは深刻な問題です。五官が、責任分担を完成した愛に酔っていると思うのです。感覚のすべては、愛の実体圏に立つためのものです。(二一八― 一二八)


責任分担を遂行するには、皆さんはどのようにしなければならないでしょうか。責任分担を果たすことができる人になるためには、どのようにすべきでしょうか。サタンの情、サタンの血筋を受けて、生まれたすべてを否定する立場に立つべきです。(一三九―二五六)


人間が霊界に行けば、どのようになるでしょうか。神様の体になります。アダムは、神様の体になるのです。コリント人への第一の手紙に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(三・一六)と記録されているのと同様に、神様が臨在し得る聖殿、家です。 では、神様とどのように似るのでしょうか。責任分担完成段階に至って、神様が臨んで一体化がなされるのです。(一三〇―二二)


第五節 祝福と永生

一 永生問題を知るべき理由

なぜ今、世の中の家庭が壊れていっているでしょうか。また、お母さん、お父さん、子女が、怨讐になるでしょうか。真の愛がないためです。

一番重要なものは永生です。しかし、霊界があるか、ないかということを知らずにいます。

 

四百五十八
 
間違いなく永生するということを知るようになれば、他の人が「罪を犯せ」と言っても犯さないのです。「自分のために生きろ」と言っても生きません。これを知らなければ、既成教会を信じても、何かの宗教を信じても、絶対に天国に行けません。神様の理想世界に行けないのです。真の愛、生命を投入せずには、駄目なのです。(二〇五―二六一)


我々の教会が原理で武装しておけば、永生問題が確実になります。この永生問題とつながらなければ、社会革命も不可能です。現在の立場で暮らしていることよりも、もっと疲弊して没落した環境に陥るなら、誰もがその場に行かないのです。

しかし、永生問題、永遠の生命の問題となると、環境的与件をすべて克服することができるのです。宗教は、それで偉大なのです。永生問題が懸かっているのです。永生の概念だけしっかりと立てておけばできます。

今まで宗教は、習慣性で結ばれた文化背景を消化できませんでした。越えられませんでした。なぜそうでしたか。永生という概念をつくっておけなかったからです。

キリスト教は、環境が変われば変わるほど、なぜ揺らぐのでしょうか。永生という概念がないからです。永生問題に自信がないのです。生命を差し出して、環境を越えていくことができるかという問題について見るとき、皆そこに所属して、四方を見回しながら現在の生活に落ちていっているのです。

その人たちに永生の概念を入れなければ、中間に落ちるのです。では、永生の概念を入れるのは何でしょうか。人です。これは、統一教会だけが完全に入れることができるのです。


信仰の道は肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備です。このような信念さえもつようになれば、それはほっておいてもいいのです。人は、四十を越え、五十を越え、死ぬ日が近づくと、永生に対し、深刻になるのです。年を取るほどに、だんだん深刻になるのです。

愛というものは、年を取るほど希薄になりますが、永生の概念を入れれば、年を取るほど、だんだん深刻になるのです。それゆえ、宗教理念だけが、これから世界を料理することができるのです。環境が頻繁に変わっても、悲喜劇がぶつかってこようとも、永生の概念さえ徹底すれば問題にならないのです。

それゆえ、問題は、永生という概念をどのように入れるかということです。

神様はアダム・エバを、愛の対象として造りました。それは間違いありません。そのために、愛の対象となって生きるべきなのです。それを言葉だけでなく、実感しなければなりません。また、体恤しなければなりません。 真の愛の力が偉大だということを知れば、「行くな」と言っても、行くようになっています。

それゆえ、永生の概念だけ入れれば、みな終わるのです。これを入れるにも、理論的に一致し得るとき、心にどかんと響き、体まで一番近い級で一つになり得る時が、青少年期だというのです。

そして、十五歳以前は、堕落前の本性基準を一〇〇パーセント活用し得る時です。十五歳以前は、アダム・エバが堕落する以前だから、本性基準が生きているのです。それゆえ、青少年の時に、神様を知らなければなりません。神様を知ることによって、自分と神様との不可避の関係を知るのです。その関係が不可避だということを分からせるためには、永生概念を入れなければならないのです。

これさえ入れれば、我々統一教会の二世たちに、「他の道を行け」と言っても行きません。それゆえ、世の中を早く救い、すべて天


四百五十九


国に連れていかなければなりません。それが自分の所有になるのす。その持っていったすべてで、あの世での等級が決定されるのです。

ですから天国は、今完全に空いています。(一九九二・四・一五)


二 永生の道

一) 一生と永生問題

皆さんは、どれくらい生きそうですか。全部「七十年、八十は生きるだろう」と、このように考えているでしょう。その前には死ぬと思いません。皆さんは、欲張りです。一生を生きるのに、八十歳に死ぬとか、百歳に死ぬだろうと信じるとしても、あす死ぬか、きょう死ぬか分からないのです。皆さんの考えには、「ああ、私は若いので、今後少なくとも四十年、五十年は生きる」と、そんな欲をみなもっているでしょう。それが神様に保障されましたか。皆さんは、できるだけ一年以内に死ぬものと思いなさいというのです。この短い時間にみな準備すべきです。このような観念をもって生きなければなりません。できるだけ短くつかむほど、幸福です。短くつかむほど、損害を見ないのです。その期間に真になるように、準備するその内容が、自分の永遠の生命の家を建てるのです。

では、その短い期間に、神様を愛してみましたか。神様と一つになって愛したいのに、愛することができないのです。神様は、「愛せよ」と言われるのです。そのように生きて死ねば、それが永遠の生命の主体になるのです。

皆さんが、二年後に死ぬと思うならば、どれほど深刻ですか。共同墓地にも、葬式をする所にも行ってみるのです。これは、信仰生活に絶対必要です。それゆえ、「生きよう」と言う人たちは死ぬのであり、「死のう」と言う人は生きるのです。その短い期間にみ旨のため死のうと、天のため死のうと思えば、永遠に生きるのです。同様な道理です。独身のときに死ぬと思って、愛する妻を迎えるようになれば、どれほど有り難く思うでしょうか。結婚できずに死んだ男が、復活して結婚することができる日をもつようになれば、どれほど喜ぶでしょうか。

さあ、皆さんは、何歳まで生きて逝きますか。神様の命令によって、すぐに死ぬ立場に進むならどうしますか。天が自分を褒めることができる何かを残すべきです。そうなれば寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しく思われます。心配しようにも、心配する間がないのです。


一生と永遠の問題で、一生を短くつかむほど価値があるのです。個人を愛し、家庭を愛し、氏族を愛することとは何でしょうか。全人類を愛するための教材なのです。彼らを愛するのは、全体を愛するための教材なのです。そして、時間と空間を超越したあの世界へ行って、すべての人を愛するための教材だというのです。(一〇二―一二二)


二) 人間は永遠の生命を追求


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永遠の生命の世界を追求するのが、信仰生活です。永遠な神様の愛を追求するのが、信仰です。永遠の生命とともに永遠の愛と一致するために、神様の喜びを自分の喜びとして感じられる決着点を探していくのが、信仰の道です。それゆえ、信仰生活をする我々の個体が、どれほど前進的愛と生命力をもって生きるかというのが、何よりも重要な問題です。

五官を通じて感じる感覚の一切が、生命、愛とどの程度の関係を結んで生きるかということによって、人間としてどれほど価値をもっているかという問題が左右されるのです。それゆえ我々は、我々自身が生命力と加重された愛の心で社会生活をしてきたかという問題を考えなければなりません。もし、そのような立場に立っていられないならば、それは停止したり、でなければ後退するのです。(三二―一九)


三) 永生と宗教

人は永生するのです。宗教は、今まで地球星でなくならず、文化背景と風習が異なるすべての環境を経てきながら、世界的な版図を拡大させてきました。それは、人の一生が問題ではなく、永生すべきであるためです。 人が生きるには、宇宙と共に生活しなければなりません。一生は百年くらいの短い生涯ですが、生涯の限界でそのままなくなるのではありません。その限界線を克服すれば、限界としていた地球村を越え、超越した場で生存を続けることができるのです。

それゆえ、厳然と永生しますが、そうでないとしても今まで苦痛の中でうめいて生きてきた人類に同情し、助けるためには、仮想的な永生論であっても主張すべきであり、仮想的な神を中心とした理想国家形態を推理し抜かなければならないのです。そのような面でも、宗教が必要なのです。

それで、皆さんの永生問題とともに、神様の問題まで解決しなければなりません。このような諸般の問題がつながっているのです。(一六二―二六四)


四) 永生しなければならない理由


神様は人をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対唯一の価値になり得る、愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。このごろ、一人の人間の生命の価値がどれほどになりますか。何文にもなりません。本来、そのような無価値な人間ではありませんでした。宇宙とも換えることができない高貴な価値がありました。

今日、すべての文学世界について見ても、その骨子は愛です。人は、愛から出て、愛で生きて、死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられる神様が、永遠、不変、唯一なので、その前に対象の愛の立場に立つようになるときは、永生するのです。永生という理論が、ここから出発するのです。生命から始まるのではありません。(一四二―一四三)


真なる人とは、どんな人でしょうか。神様と内外で一つの体になって、子女の立場で完全に愛されることができる人が、真なる人です。そのような人が暮らしていく生活を、真の人生の道だというのです。

人は、誰彼を問わず高を願っています。人間が 高の立場に行くようになれば、神様は自分のものです。また、自分は、神様のものです。そのようになれば、自分は神様の息子になり、神様自身にもなるので、宇宙も私になるのです。

 

四百六十一
 
神様が一番愛して、貴く考える物があるなら、それを一日、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちに、ほうり投げるように造りましたか、永遠に共にいるように造りましたか。永遠に共にいるように造りました。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。

人は永生すべきです。なぜでしょうか。絶対者の神様が、絶対的な愛を中心として、喜ぶことができる対象であるためです。一日や二日、あるいは十年、百年喜んで、投げてしまうなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたがるのです。愛する妻が死んだので、その妻のハンカチを持って独身で生きた人もいませんか。インドのネルーのような方は、自分の妻が若くして死にましたが、その妻がバラを好んだといって、一生の間バラの花を身に着けて歩きながら暮らしたといいます。

それなら神様が、一人しかいないこの上なく貴い息子、娘を造るとき、百年ぐらい生きたのちに滅びるように造られたのでしょうか。違います。それゆえ、人は永生するのが原則です。永生するには、より強い力が排出され得る作用の基盤の上に立たなければなりません。それゆえ、愛の力は、時日が過ぎれば過ぎるほど、授け受けすれば授け受けするほど、消耗するのではなく、もっと強くなり、もっと大きくなるのです。そこでは、うれしかったらうれしいものとして終わるのではなく、その喜びが拡張して、無限の喜びとして発展し得るのです。そのような世界が、我々が理想とする国であり、神様がいらっしゃる天国です。

では皆さんは、永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分に貴いものがあれば、避難する時それを持っていきますか、持っていきませんか。持っていきます。それを誇りたがりますか、誇りたがらないですか。誇りたがります。では、それを一日、二日誇ってやめますか。やめません。自分が死ぬようになれば、それを自分の後代に永遠に残したがるのです。

それは、神様も同様です。神様が永生される絶対者なら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。それで人々は、昔から永生するのを願うのです。それゆえ、絶対者である神様は、永生の価値をもった愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。(三九― 四二)


我々人間は、神様が造られた傑作品として、神様に似ました。神様が永遠であられるので、我々も永遠の性稟をもたなければいけないために、我々の心は老けないのです。

それゆえ、人は永生すべきです。永生してこそ、その傑作品の存在価値をもつことができるのです。それで万物の霊長なのです。ここで、霊が出てくるのです。人は、永生しなければなりません。ですから、我々が八十年ほど生きて、死ねば終わりだとは考えられません。(一五九―二八一)


五) 永生のための人生

人は誰でも、各自自分なりに生活しています。「生活」するとは、一日一日暮らすことを言い、「生涯」は、一生の人生、一生を生きることを言います。さらには、宗教をもった人たちは、永生という言葉を使っています。永生というものは、一生ではなく、永遠の人生を生きることです。

 

四百六十二
 
生涯路程を永生にどのようにつなげるかということが重要ですが、それをすべきなのが、生涯の責任です。また、永生ということは、一日一日の生活をつなげてこそ決定されるのです。皆さんの一生というものは、日々がつながったものです。

生涯の価値的な内容は、どこから決定されるのでしょうか。生涯をみな生きて、決定されるのではありません。一日一日の暮らしの日々が、決定するようになっています。それゆえ、うまく暮らさなければならないのです。

では、いったい、うまく暮らすこととはどういうことでしょうか。うまく暮らすのは、生涯のすべての路程を代表し得る日々を、意味深く送る生活です。きょうをうまく暮らしたというのは、自分の一生で誇らしくあり得る記憶の日です。「うまく暮らす」ようになれば、生涯路程において、必ず一番価値があるように暮らす日でしょう。価値があるように暮らした日があれば、生涯の中でその日は、忘れられない日になるでしょう。(一九七― 一八六)


六) 永生論理とは

それで、永生の論理をどのように探しますか。神様は、知恵深いお方です。もし、神様が愛の理念を立てなかったら、神様は孤独単身です。喜怒哀楽を感じることができない神様だというのです。

絶対的なこの愛を失われた神様は、歴史始まって以来、誰も体験することができない、深刻で、あきれる、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も永遠に慰められないのです。本然の願いだった息子、娘を犠牲にして、御本人が夢見た希望の理想形態を再現させたものとして満足するのではなく、それを抱いて、千里、万里移動しながら、もっと輝くように装って、もっと美しく表示することができなければならないのです。万宇宙をそのように造ったのです。(二〇四―一〇一)


大気が一〇〇パーセント絶対低気圧圏になれば、高気圧圏が自動的に生じ、循環運動が起こるのです。神様は、知恵の王です。そのように自動的循環原理を通じて、永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるのです。

投入して、投入して、また投入するところから、永生の論理が繰り広げられるのです。「ため」にするところは、滅びません。(二〇四―一〇七)


神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすると、それは間違いなく人間です。それゆえ、「万物之衆、唯人貴」という言葉が出てくるのです。これは何でしょうか。創造主の永遠な愛と一つになった愛のパートナーも、永生するという論理が生じるようになるのです。永生というのは、自動的な産物です。永生は、ここから繰り広げられるのです。愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて貴重な話です。男に永生があり、女に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるというのです。(二一八―二一一)


七) 一番重要な永生問題

 

四百六十三
 
今日、キリスト教徒たちは、「イエスを信じれば永生する」と言います。永生は、継続的な作用を続けていかなければなりません。人生の道を永遠に行こうとすれば、心臓の動脈と静脈のような、循環器官が恒常的に動かなければならず、神経系が恒常的に動かなければならず、大脳、小脳のすべての作用が恒常的に動かなければならないのです。そうするには、莫大な消耗が繰り広げられます。(一二一―一七二)


寝床に就くとき、脱いでおいた靴を、次の日の朝に再び履く自信がありますか。いくら忙しいといっても、永生問題以上に重要なものは、この世にありません。それで、この世の中で永生問題を決定づけること以上に深刻なことはありません。(一〇―二四九)


八) 結局人間は永生に帰結すべし


新しい潮流の波である「真の父母」の愛の道理を植えて、堕落の恨を解消し、神様が君臨することができる真の愛の家庭を築いてこそ、天国に直行し得るようになるのです。 地上天国と天上天国のレールは同じでなければなりません。レールが同じでこそ貨車が走ることができるのと同様に、地上と天上の世界のレールが合わなければなりません。地上天国から天上天国をつなぐための道が、真の愛の道です。それゆえ、個人が行く道、家庭が行く道、全部つながらなければなりません。方向が一致しなければならないというのです。

それゆえ、一生の間、自分がするすべてのことは、全部真の愛のための実績として、自分の後ろに永遠に固着されるために、あの世に行くようになれば、一生の間残された功績にふさわしいその級に自然にとどまるのです。(二一一―二八八)


九) 信仰と永生問題

どのように永生するでしょうか。キリスト教徒たちは「イエス様を信じれば永生する、救われる」と言うが、とんでもないというのです。愛でだけ救いを受けるのです。神様の創造原則から見るとき、真なる人だけが神様の愛の同伴者であるために、真の愛をもてば永遠に暮らすことができるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上に暮らすようになるときに、自分がどこで暮らすべきか分かるようになります。

大洋を通う大きな船が破損する危険が生じれば、その船の中に暮らしていたねずみたちは全部陸地に逃げるというのです。微々たるものにすぎない動物も、自分の生死圏をわきまえていくすべを知るのに、ましてや万物の霊長である人間はどうでしょうか。

なぜ、そうなったのでしょうか。堕落のためです。この堕落の仮面を悪魔の愛と、悪魔の生命と、悪魔の血筋をどのように解脱するでしょうか。この解脱という言葉は、抜け出すという意味です。完全に抜け出して、関係ない立場に、自主的な立場に立つという言葉です。(二一五―五三)


四百六十四
 
九十歳を超えた母親は、七十歳を超えた息子がどこかに出掛けるとき、「車に気をつけて、いってらっしゃい」と言います。九十の老年になるほど、そのように毎日のように繰り返しても、疲れません。それは、永遠に続いても疲れません。そのようにさせる原動力とは何でしょうか。愛です。堕落した世界の父母の愛もそうなのに、本然の世界である神様の愛に属していればどうでしょうか。 このようになるとき初めて、真なる神様の対象圏を確定づけることができます。神様の愛が永遠不変なことを知るようになるとき、我々人間の愛を中心として、永生の論理を妥当化させることができるのです。愛を中心として永生するのです。(一四三―二三〇)


十) 統一教会と永生

先生は、統一教会の教徒たちに、苦労をたくさんさせようとします。苦労させても逃げません。なぜ逃げていかないのでしょうか。永生があるために逃げないのです。統一教会で離れられないのは、永生があるためです。(二〇四―八二)


人々にはみな欲望があります。全部神様の息子、娘になろうとします。孫も嫌で、神様の婿も嫌で、神様の息子、娘になりたいのです。誰でも欲望を成就、完成する所は、家庭なのです。(二二一―二五)


十一) 永生に必要な観念

皆さん、「自分は永生する人だ。真の愛を実践する人だ」という姿勢で生きるべきです。ですから何をするのでしょうか。「永世のためだ」と「永世を訓練することだ」と、考えなさいというのです。皆さんには、永生と真の愛との観念は、いつも必要です。永遠に必要なのです。(二一六―一二七)


三 愛と永生
一) 愛と直結した永生 我々は、永生を願っています。永生を願うのに、変わらないものとは何でしょうか。愛です。他のものはみな変わります。環境的に変わるのです。では、愛はなぜ変わらないのでしょうか。

愛は、すべての生命力の中心であるために、変わらないのです。愛は理想的な与件の中心に位置を占めるためです。中心は、その周囲が全部なくなる前には、なくならないということです。愛は宇宙の中心になっているために、愛と一つになれば、神様が残っている限り残っているのです。(一五七―二六七)


二) 真の愛と永生

真の愛とは何でしょうか。結婚するとき、結婚相手が自分より良い人を願います。自分の息子、娘が、自分より良いことをを願わない父母はいません。それは誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。神様が愛の相対が自分よりより良いのを願うのです。

絶対的な神様が我々人類の父なら、その父は絶対的に行わないで、その息子、娘にだけ、絶対的に行えと命令できるでしょうか。できません。神様が愛の相対を自分よりより良いのを願われる原則から見るときに、人間の価値が大の価値です。愛は中心として神様より高い価値があるということです。

それゆえ、皆さんの心は、高のものを願っているのです。それが不可能なことではありません。万人平等に可能なことです。堕落しなかったなら可能なのです。

 

四百六十五
 
高く貴い立場で、この宇宙を眺めて管理して主導するようになっているのであって、引かれて回り、服従するようになっていませんでした。皆さんの心がそうでしょう? 解放された心です。誰の支配も受けたがりません。これは、万民が共通です。真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国の宝座に自由に行くことができます。神様の友達になることができるのです。

愛のために人間を造ったというときは、神様が永遠で、絶対的であるがゆえに、人間自体も永生をもつというのです。これは、自然的な論理です。それゆえ、真の愛は永遠です。永生するには、その真の愛の圏内で暮らさなければなりません。(二一一―二七二)


真の愛により、永生が可能です。なぜでしょうか。創造の出発、動機、過程、目的などすべてのことが、愛を中心として完成するからです。過程を通じて結果が出てくるのです。

自分の体と心の完成は、真の愛によって、根本的に可能になっています。理想の結実を結ぶものは、愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛により、神様も永存しています。

永生は、愛によりつながるのです。それで、永生の環境を成すには、愛の環境を中心として生活しなければいけません。愛の実体圏をもつには、愛を中心として、実体的な体恤をしなければいけないのです。(二一八―一三四)


三) 絶対必要な真の愛

神様は霊界のどこにいらっしゃるでしょうか。絶対的な中心、愛の中心にいらっしゃいます。その愛は真の愛であり、直短距離を通じます。

皆さんは第一に、神様を知らなければならず、第二に、永生を知らなければならず、第三に、真の愛を知らなければなりません。これは投入です。一〇〇パーセント以上投入します。一〇〇パーセント以上投入するところに永生があります。真の愛をもたなくては永生がありません。永生しない人は、神様に会うことができません。(二〇五―一二九)


これから、世界をどのように収拾するのでしょうか。第一は利他主義、第二は真の愛、第三は永生に世界が収拾されるのです。

真の愛とは、何でしょうか。自分の生命以上の投入をしなければなりません。生命以上を投入しない所には、真の愛はありません。生命以上に投入するところから真の愛が成立します。「真の父母」が成立しなければ、永生はないのです。

なぜそうなのでしょうか。皆さんがサタンの血を、サタンの血統を受け継いで生まれたからです。それで、聖書には、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)とあります。この言葉の意味は何でしょうか。心を尽くして、思いを尽くせと言ったのは、生命まで懸けなさいということです。これが第一の戒めです。

 

四百六十六
 
第二の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)ということです。「隣り人を自分を愛するように愛せよ」というのはどういうことでしょうか。生命を懸けて愛しなさいということです。生命を投入しなければいけません。なぜ、生命を懸けなければいけないのでしょうか。第一は、サタンを屈服させることができず、第二は、サタンの環境から抜け出すことができず、第三は、サタンの血統から抜け出すことができないからです。 サタンの環境からは抜け出すことができるとしても、サタンの血統は仕方がありません。

しかし、真の愛は生命を超越するのです。 男女が生まれたのも、利他主義です。男が生まれたのも女のためです。これは、絶対的な真理です。永遠の真理です。なぜ、そのように生まれたのでしょうか。真の愛のためです。

男もそうであり、女もそうです。世の中では、「二人で永遠に一つになりたい」と言いますが、二人が一つになって何をするでしょうか。神様を占領しようというのです。真の愛でなければ、神様を占領できません。

皆さんの家の中で、主人には誰がなるでしょうか。その家の全体のために、一生を生きていく人が、中心者になるのです。神様の代わり、父母の代わりに中心者になるのです。 百名の友達がいるとき、その百名のために一生の間を生きれば、その友達百人からあがめられる中心になるのです。ですから、永遠の世界で、永遠に「ため」にする主人がいれば、永遠の主人になるのです。その方とは誰でしょうか。神様です。ところで、その方は我々の父であるために、すべての宇宙が「私」と共にいるというのです。そこに永生があります。そうでなかった所には、永生がありません。

それで、聖書に、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とあります。それはどんな言葉でしょうか。死を越えるべきで、越えなければ生きることができないという言葉です。(二〇五―二五八)


四) 愛と関係した死後の世界

皆さん、考えてみなさい。神様がおられますか。(はい)。神様には時間があるでしょうか、ないでしょうか。(ありません)。なぜありませんか。時間がなければ、永遠に終わると同時に永遠に始まるという、そういう言葉ではないですか。過去も、現在も、未来も、同じだということです。そのようになっても、嫌であり得ない作用を引き起こすことができる、神様が安息され得る本来の基礎とは何でしょうか。そのようなことが問題になります。

それは何でしょうか。全知全能であられる能力をもって可能でしょうか。駄目なのです。神様の知恵、全知全能、分からないことがないことをもってしては、駄目だということです。何にもならないのです。愛の力だけが可能なのです。神様も、「愛」と言えば「そうか 7」と言うのです。それ以外は、神様に必要ではないのです。

我々は結局、どこへ行くのでしょうか。霊界です。「死後の世界」と言いますが、死後の世界ではありません。なぜ、死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界であるためです。愛と関係している世界であるために、死後の世界ではありません。真なる愛を中心として出発したものであるために、自分が真なる愛の立場に立つようになるときは、今ここが霊界です。それゆえ、愛は偉大なのです。

四百六十七
 
球形運動をしてこそ、上下、前後、左右が和合することができます。縦は縦で、横は横になって和合ができなければ、上下、前後、左右全体が和合できないのです。統一が繰り広げられません。愛だけが統一することができるのです。 それゆえ、統一教会が、真の愛を中心とした統一理想世界を論ずるのも、原理観において一致した結論です。(一四四―一九九)


神様は、人間を率いてくださろうとします。神様も息をするのです。愛の呼吸をされるのです。愛を中心として、宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるのです。

愛も息をするのです。宇宙の脈拍がこのようになっているために、男や女が「ああ 7 私、嫌だ」と言えません。拍子が合えば、互いが愛さなければならないのです。一方向です。全部神様を中心とした一方向だというのです。(二〇一―一九一)


五) 「ため」に生きてこそ永生する

おじいさん、おばあさんも、千年、万年後代の後孫も、霊界に行っている霊人たちも、永生できるその公式的路程は同じです。

永世へは、「ため」に生きた人たちだけがパスすることができるます。(二〇三―一九三)


四 祝福と霊界一) 愛の威力

霊界も肉界も、愛によって動きます。真なる愛を中心として、環境的与件は拍子を自動的に合わせるのです。(一八五―二〇)


過去の人も、現在の人も、永遠にできる資格とは何でしょうか。我々人間世界で必要とするそのすべての欲求の要因とは何でしょうか。それは愛です。つまらない愛ではく、真の愛です。 では、真の愛とは何でしょうか。縦横を通じて、どこでも九〇度に合うのです。東洋の家にも合い、西洋の家にも合い、南型の家にも合い、北型の家にも合い、五色人種、文化背景、すべての宗教背景が全部違ったとしても、合わなければなりません。それが何でしょうか。真の愛です。(一八〇―八六)


今日、この世には、多くの人たちが暮らしています。その人々の中で、統一教会で言う祝福という意味を知る人は、多くありません。この祝福という言葉は、統一教会で初めて始まった言葉であり、その言葉を中心として、今まで祝福行事をしてきました。

これから、人類はどこに行くのでしょうか。すべての人類は、祝福の門を通らずしては、天国に行くことができません。数多くの人たちが、既成教会を信じますが、その既成教会自体も祝福という門を通らずには、天に行くことができないのです。

このように言うと、既成教会では、「統一教会のレバレンド・ムーンは独善的な言葉をたくさん言う」と言うでしょう。統一教会で言う祝福は堕落した人類が、必ず行くべき道です。いくら反対したとしても、霊界と肉界をつなげて入らなければならない、非常に重大な問題になるのが、この祝福です。


四百六十八
 
今日、一般の宗教を信じる人は、「救い」と言うと、個人の救いだけを考えます。自分がよく信じれば、天国に行くと信じるというのです。しかし、本来の神様の理想について見るとき、天国は一人で行くようになっていません。愛する夫婦、愛する家族が共に入るようになっています。(一四三―二三五)

二) 夫婦の霊人体

我々は、愛の理想を探していく群れです。ですから、霊界の代弁者として立つために、愛の理想を横的な世界に扶植させるべきです。種として蒔くべきです。ここで愛の心を授け受けしながら育つのです。大きくなるのです。

こうして、愛の実を結んで、その夫婦が霊界に入るようになるとき、神様の永遠の愛の圏内に抱かれ、神様と一つの体になるのです。神様と一つになるのです。(一四四―二二四)


皆さんは、真の愛の論理をたくさん習わなければなりません。我々統一教会の霊神

(注:草創期からいるおばあさん)たちは、五十になったのに、顔を見れば四十代のようです。五十歳を越えたのに、人々でいえば大体三十代しかならないように見えます。ですから愛するほど若返るのです。

人はこの地上で、殻(体)は老けていきますが、夫婦生活をして愛すれば愛するほど、霊人体は若くなるのです。どういう意味かというと、人間が長く生きれば生きるほど、内的人間である霊人体は、高の円熟した美男、美女になるのです。その殻は服のように脱がなければなりませんが、若返ってくっついた

らどうしますか。


ですから、外的な殻は、老ければ全部駄目になりますが、内的な中身は、丈夫になって未来の相続者になり、美人になるのです。それゆえ、秋の栗のいがのようになるのです。秋になり、丈夫だった栗のいがが、熟れれば、殻はぶよぶよになって割れ、栗の実が落ちるようになっています。それと同じです。(一六四―一〇二)

三) 結婚と霊界

キリスト教では、神様を愛すると言いますが、漠然としているのです。聖書で言うには、

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」(マタイ二二・三七~三九)とあります。そうなればいいのです。

神様を愛する前に、皆さんが食べる食物を愛さなければなりません。万物を愛し、体を愛さなければならないのです。

皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。この地です。皆さんは地から、皆さんの体が大きくなれるよう、その要素を供給してもらうのです。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入るのが死ぬことです。第三の父母に行くには、そのまま入るのではありません。第三の父母に帰るには、本来の父母だった神様の形に似なければなりません。

したがって、結婚はなぜするのでしょうか。神様の形に似るためです。神様は、二性性相が合体化した一律的な存在であり、その神様の分性自体が男女であるために、彼らも合性一体化して種のようになって、神様の本性の位置に帰らなければならないのです。

しかし、その種をつなげるためには、愛の道を通じなくてはいけないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、行きながらも愛に帰るために行かなければならないのです。



四百六十九



その道は、「ため」にする目標を中心として訪ねていかなければ、方向が異なってしまいます。(一三八―九八)


四) 祝福家庭の霊界の立場

我々統一教会の信者たちは、霊界が確実にあるということを知っています。信じているのではなく、知っているのです。多くの体験を通じて、否定しようとしても否定できないのです。今日、統一教会が世界的な基盤を形成するまで、多くの体験過程を経てきました。それゆえ、霊界がないと言うことのできない立場にいる人たちが、統一教会の信者です。 では、霊界の中心とは何でしょうか。霊界は絶対的神を中心として構成された世界です。その絶対的神がいるなら、その神は、宇宙の起源になる方です。彼によらないものがありません。彼に属しているために、彼に属した全体は、彼と共に感じ、彼と共に因縁をもって過ごしているのです。

そのような愛の圏が成される所には、サタンはいません。それゆえ、サタン世界は、自分を中心として愛するのです。天が一番ではなく、自分が一番です。天を否定し、地を否定して始まるのです。

しかし、その反対に、天を認めて地を認め父母の平均的愛のもとで一つになれば、サタンが主管することができないと見るのです。それが本然のアダムの位置です。その基準を回復しなければなりません。

ある町内に、統一教会の夫妻が住めば、その町内で話題になければなりません。先生がどこへ行っても話題になるのと同じです。

「あの夫婦は、この町内に実によく来た。あの奥さんは、この町内のすべての男たちが好み、おばさんたちがみな好む。子供たちまで好む」と、そうでなければなりません。

それができなければ、霊界に行って再び帰ってこなければならないのです。帰ってくるには、先生がサインをしてあげなければいけないのです。祝福を受けた家庭たちが、地に勝手に来ることができますか。先生が祈祷をしてあげてこそ、可能なのです。それで、まず行った人たちが、みな縛られています。今まで統一教会の祝福家庭は、みな縛られているのです。

それゆえ、地が問題です。(一四〇―一二三)


五) 祝福は約束

統一教会の祝福家庭は祝福を受けたとき、永遠の家庭として暮らすと約束しました。先生は、永遠の家庭を治める人です。永遠の国を治める人です。永遠の国の家庭を設定するのです。その約束を守る人が、家庭はもちろん、永遠の国を引き継ぐのです。(二〇五― 三五九)


六) 祝福の栄光

真なる女は、どうあるべきでしょうか。真なる男を中心として、男がしようというとおりにしてあげなければなりません。家庭のために奉仕して、氏族のために奉仕するようになれば、その周囲が全部拍手するようになります。

470 * 四百七十
 
皆さんは、先生が好きです。なぜ好きでしょうか。苦労しながらも皆さんを生かしてあげようと、人類を解放させてあげようとするからです。先生が苦労しなければ、皆さんが霊界に行って、億万年待っても祝福を受けられないのです。不可能なことなのに、先生が苦労して、価値ある祝福の版図が繰り広げられたというのです。これは天の霊界とこの地上世界に、栄光なもので、華やかなことです。

(一六二―六八)


第二章 死と霊界第一節 人生必然の道一 永生と距離が遠い体


地球も息をして運動をするのです。皆さんの細胞も息をします。

皆さんは、地上で永遠に暮らしますか、無形の愛の実体になった所で永遠に暮らしますか。無形の愛の実体になった世界で永遠に暮らさなければなりません。神様が御自身を見せてあげたいと思われても、皆さんの体では神様を見ることはできません。ですから、霊人体が必要なのです。

見えない精神の中心になる神様ゆえに、神様は相対的存在である人間に、自分の永遠の理想圏を全部与えたいのです。(一一一―一一二)


二 大部分の生涯

今、我々は、知る知らないにかかわらず、あるところに向かって行っています。私が動いている時間にも行っていて、休んでいる時間にも行っているのです。単に私だけでなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までも、あるところに向かって今行っているのです。これは、否定することのできない事実です。

一生を経たのちに、自分はある所へ行くのでしょうか。これが、人間たちが解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身も、このような運勢に引きつけられ、率いられていっているということを、否定することができないのです。

では、どうせ行くべき自分自身だというのに、この体はどこへ行こうとし、この心はどこへ行こうとするのでしょうか。また、この生命はどこに向かって傾いていて、自分の心情はどこに行こうとするのか、自分の願い、あるいは希望と理念は、どこへ行こうとするのでしょうか。この問題を解決できなかったとしても、我々はどうせ行くべき運命に置かれているのです。

我々が生きて死ぬ日、この体は土に埋められて終わるのです。それなら、体が埋められるその日、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは希望までも共に埋められてしまうのでしょうか。ここに、内容と、解決点と、目的観を提示しておかなければなりません。

四百七十一
 
それで、行く歩みをつかまえて、動く心と傾く心情を妨げておいて、「お前はどこへ行くのか」と聞いてみて、これを解決しようと闘ってきた人たちが、聖賢、賢哲であり、数多くの道主たちです。彼らはそれを解決するために出てきたのですが、今まで「私の体はこのような所に行き、私の心と私の心情、私の生命と私の理念は、このような所に向かって走っていく。ゆえに、全天下に存在するすべての存在物は、ここに向かって行け 7」と、自信をもって命令した人はいないのです。

(八―一九四)


宗教は、私的な欲望から出発したこの世の中が滅びるのを願います。公的な世界を、一つに統一された平和の世界を、数千年前から待ち望んできたのが宗教です。


では、宗教人は、どのように生きるべきでしょうか。自分の夫婦だけでおもしろく生きることより、もっとおもしろく生きることができるのは、この歴史的距離を短縮させ、世界とつなげて、天宙とつなげて生きることです。そのような家庭が、解放された家庭なのです。また、その家庭は、絶対的な家庭にならざるを得ないのです。

明洞の街を過ぎてみると、若い男女たちは仲むつまじいのです。それは誰のためにそうなのでしょうか。一度しかない若い青春時代なので、楽しむためにそうだと言うのですが、それでいいというのです。では、その楽しむことにおいて、主人は誰でしょうか。これが深刻だというのです。皆さんは、いつまでも楽しむことができますか。二十代から楽しく六十、七十、八十歳と過ぎるようになれば、楽しいはずはないのです。


しかし、統一教会式は違います。食べるのも何のために食べますか。世界のために食べるのです。悪なる世界をなくすために食べるのです。見るのも、悪なる世界を討ち払うために見るのです。悪の側になるために見るのではなく、悪を討ち払うために見るのです。聞くのも、考えるのも、歩くのも、行動するのも、全部世の中と違います。(三六―七二) もし、人を、何日間かいてなくなる、そのような存在として創造したなら、神様は絶対者ではありません。神様は、人間を永遠に見ていたい、貴い存在として創造したのです。 人間が神様の喜び得る対象なのに、神様が永遠であるなら、人間も永遠であるしかありません。そして、永遠な神様は、永遠の世の中を相手にするのです。

ところで、人々は「八十年生きればいいのであって、死んでしまえば終わりだ」という考えで、今まで生きてきた人たちがたくさんいます。しかし、歴史路程を通じて考えを深める人たちは、「どのようにすれば人が死なずに永生することができるのか、もっと生きることができる道はないか」という考えをもちました。志を抱いたことがある人であればあるほど、「人生とは何か? 人間はなぜ生まれて旅人のように行くか」と言い、「人生は苦海」とか、「草露の人生」とかと言いました。しかし、永生できるなら、そのように悩む必要はないのです。(三九―二二九)


三 死は人生必然の道

四百七十二
 
皆さんは、いつかは霊界に行かなければなりません。間違いなく霊界に行くのです。 大韓民国に訪ねてくるのに、金浦空港に降りるといって金浦空港に来たのではありません。金浦空港からどこへ行くのでしょうか。全羅南道に行くか、慶尚南道に行くか、平安道に行くのか。平安道に行って、またどこに行くのでしょうか。郡を訪ねなければなりません。また郡でもどこへ行くでしょうか。面を訪ねていかなければなりません。また面に行って、どこを訪ねていきますか。里です。里でも、ある班を訪ねていかなければなりません。簡単ではありません。

自分の居所を確定づけられない人間たちが出世して、何をするのでしょうか。問題です。

神様が霊界から呼び出し命令をすれば、文先生もきょう偉いとしても、あすの夜に連れていけば行くのであって、他に方法がありません。どんなに大きな声を出しても、行くのです。私が声を大にしながら行くときには、正しい言葉を言って行くのです。国が行くべき道を提示しなければならず、世界が行くべき道を提示しなければなりません。過ってやれば死ぬのです。(一七七―四二)


四 生命の主人は神様

先生の起源は何でしょうか。私ではありません。先生の起源も自分を超越したものでなければならず、目的も自分を超越したものでなければなりません。自分の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者である神様から始まったと言うべきです。動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出することができるのです。


自分の生命を超越的な動機に結びつけなければなりません。自分の生命の出発は、自分から始まったのではありません。絶対者であられる神様から出発したのです。自分を超越的な動機に結びつけるようになれば、死んでも超越的な過程で、神様のみ旨によって死ぬようになるのです。(三六―六四)


五 生涯はあまりにも短い

人間は、何千年、何百年生きるのではありません。百年ほど生きて、みな死にます。 数多くの歴史時代を経てきながら、多くの我々の先祖たちが死んでいきましたが、全体に良いこと、全体の利益を考えたなら、百年生きたことが、千年たってもそのまま残されたことでしょう。ところで、個人を中心として現れたなら、全部滅びました。全体を滅ぼしてしまうのです。

そのような人生の暮らしをしてきたために、問題が起きたのです。ここで一番問題になるのは何でしょうか。自分を中心としたすべての測定方向を、どのように全体測定方向に代替するか、自分第一主義を強調したのを、全体に利益になり得る面で、どのように投入するかということです。

それで、個人主義、自体の利益を追求する人生行路の出発を、ひっくり返えさなければなりません。ひっくり返すには、ただそのまま、何もなくひっくり返してはいけません。 一着しかない服を着ているのに、これを誰かが脱がそうとすれば、死んでも脱ぐまいとするのです。春夏秋冬の服を持って、春に冬の服を着れば、春服を持っていき「これは冬の服だ、脱ぎなさい」と言い、夏に春服を着れば、夏の服を持っていって「脱ぎなさい」と言うべきなのです。そのようなことを知らなかったのです。代替し得る、より価値があるものが何かを知らなかったのです。(二〇〇―九一)

四百七十三
 

この地上には父母がいて、師がいて、親戚たちがいます。この地には、そのような因縁を結んでいくことができる道がありますが、霊界にはそのようなものがありません。霊界では、全部神様を中心として全体のために暮らすのです。位置が全部区別されています。それゆえ、上にいる人が下に来ることもできず、下にいる人が上に行くことも難しいのです。本来は、地上で完成してこそ霊界に行くことができるようになっています。一度あの世に入れば終わりです。どちらにせよ人間は死にます。

生涯の路程は、あまりにも短いのです。一生はあまりにも短いのです。人の寿命が八十年だとすると、あまりにも短いのです。霊界の時間では八時間にもなりません。永遠の世界の時間で考えれば、八時間にもならないのです。

ですから、真の愛の力は偉大なのです。早いのです。真の愛の速度は、我々が認識できないくらいです。(二〇五―六五)


第二節 死に対する理解一 「亡くなる」という言葉の意味

間違いなく霊界はあります。間違いなく霊界はあり、我々人間は、どうせ霊界から生まれたために、霊界に帰らざるを得ません。 我々韓国の言葉の中で、おもしろい言葉は「トラガンダ(帰る、亡くなる)」という言葉です。どこに帰るのでしょうか。共同墓地に行くのは、帰ることではありません。出発した本処に帰るということです。その出発が共同墓地ではないというのです。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰るということです。 人間が帰る(亡くなる)ということは、韓国人として生まれて、韓国人として帰る(亡くなる)ということを言うのではありません。韓国人として死にましたが、韓国人として帰るというその道ではないのです。我々人類の先祖の根源の世界に帰るのです。

それは何を言うのでしょうか。創造主がおられるなら、その創造主がおられる所に帰るということです。そこから出発したので、そこに帰るのです。

宇宙は、循環作用をします。山に積もっている雪が解けるようになれば、小さな渓谷を通じて流れていき、多くの支流を通じて大海に流れ込みます。大海に入るようになれば、それが水蒸気になって、再び帰るのです。 循環運動をします。帰ろうとすれば、どこに帰るのでしょうか。高くあり得る所に、もっと良くあり得る所に帰るのを願います。 誰も小さくなるのを願いません。しかし、すべての自然界の運動法則というものは、作用すれば小さくなるようになっています。作用すれば、だんだん小さくなるのです。我々が何かを転がしてみても、それが永遠に転がらないのです。早く転がって、だんだん遅くなり停止するようになります。(一一四―二六九)


二 我々が行くべき所

四百七十四
 
我々は、この世の中に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界もあります。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界としてつながっています。 では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべきその所とはどこでしょうか。もちろん我々は、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人たちは、世の中に生まれれば、十代、二十代、三十代、中年、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ごして、壮年時代に入るようになれば、だんだん一つの峠を越えて、その次には老年時代に入るようになるのです。このように沈む日のように、一生を終えます。

しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生はちょっとの間であり、死んだのちに我々が迎えるべき世界が永遠だということを知っています。ゆえに、一生は、永遠の世界への準備するための期間です。(一四〇

―一二一)


三 亡くなる日は貴い日

アダムが生まれた日と成婚の日、そして、亡くなった日を記念する、世界的な統一圏が形成されていたなら、そのような日々を記念する人類は、一つの兄弟になり、一つの民になったでしょう。すなわち、一つの世界に暮らす人間になることができたということです。

そのようになっていたなら、アダムが生活したすべての風習は、人類歴史に継承されたであろうし、その時に形成された文化は、永遠に継承

されたことでしょう。(三一―二三一)


四 二つの死

皆さんがいくら「死なない」と言っても、死ぬ時になれば死ぬのです。

霊界に行く人にも種類があります。自分の寿命どおりに生きて行く人と、自分の寿命どおりに生きられずに行く人がいます。自分の寿命どおりに生きられずに行く人にも、罰を受けて早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減するために早く死ぬ人がいます。

もしある町内で、屈指の若者が三人だけ死ぬようになれば、その町内には福が来るというのです。ある一族を例に挙げるなら、その一族から期待を受けた若者が、三人だけ死ぬようになれば、その一族には福が来るというのです。すなわち、蕩減を払わなければならないということです。どこでもそうなのです。

因果法則はどこでも作用します。


神様が、千人の価値をもった一つの存在を中心的な立場に立てて、代わって死の道を行かせたとき、千人がその人の恩徳の前に感動して、その人を慈しみ、その人の生涯を見習い、その人のように生きるというようになれば、その民族はその人のような恵沢圏内に入ってくるのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の思想を見習おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入るためにそうするのです。

昨年も何人かが霊界に行きましたが、今年も何人かが霊界に行くでしょう。言いはしませんでしたが、先生は既にみな知っています。これはなぜそうなのでしょうか。一段階越えていくときには、必ず蕩減を払わなければならないためです。(三三―一〇)


この地上に生まれた人間たちの中には、希望をもって生きる人たちがいて、希望をもてずに生きる人たちがいます。しかし、希望は人間を中心とした希望と、天を中心とした希望の二つがあります。

四百七十五
 
我々は、生まれたその日から、母の懐の中が何よりも自分に一番いいものと思って育ちますが、母の懐を離れ友達と付き合って、友達が一番いいものと思って過ごします。しかし、結局は友達とも別れてしまうのです。

それで、人間たちは、だんだん育ちながら、愛する父母も自分の希望の全体になれず、愛する夫婦も自分の希望の全体になれず、さらには、愛する子女も自分の希望の全体になれないのです。

人間たちが多くのことを希望しますが、その心が薄れてなくなってしまうのです。家庭に対する希望、あるいは国家に対する希望、さらには世界に対する希望をもっていますが、年齢が多くなるに従って、その希望する心がだんだん弱くなっていくのです。

地上に生きている人間たちの中に、その希望を自分の全体の希望として誇り、自分の生命を失う恨があっても、それを離れては生きられないという確固たる信念をもって生きていく人は多くありません。人間は、そのように生きて、後には死と戦って越えなければいけない運命に逢着するようになります。 人間は、一生の間、すべての希望を抱いて生きますが、のちには死にぶつかり、自分が抱いていた希望をみな捨てたまま行ってしまうのです。きょうも生きるのを願い、あすも生きるのを願い、新しい希望を探してさまよっていますが、死にぶつかるようになるときには、希望をもてなかったまま、絶望しながら後の道を行くのです。


人間が自分を中心として見るときは、希望をもったようですが、死の峠を越えることができる希望をもてずにいます。そのような希望をもてなかったまま、消えています。これを人生の手本と思って死んでいくのでしょうか。そうでなければ、死もあざ笑って、一つの希望を探して行くのでしょうか。これが今日、地上に生きている人間たちが考えなければならない、重要な問題です。

今日、世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、世界あるいはある主義も、みな過ぎ去ってしまいますが、後に残されるものとは何でしょうか。死と戦って勝利することができる一つの希望です。我々にそのような希望がなければ、人生の敗北者です。

反面に、生まれながら世の中の人たちが願う一切の希望を拒否し、人間的なものを一切拒否し、天の希望、永遠の希望を抱いて生きる群れがあります。

天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間をして、新しい希望をもって死の峠を越えることができ、永遠の世界を欽慕しながら生きることができるようにするために、無限に苦労されました。それゆえ、信仰生活をする人たちは、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えて立つことができる永遠の希望の世界を夢見て生活すべきなのです。(六―四四)


五 死の意味

「死」という単語を使った目的は、人生の意味を知るためです。では、人生の価値は誰がよく知っているのでしょうか。生きると言う人は分かりません。死の窮地に入って、生死の岐路で、天にしがみついて人生の価値を打診してみた人でなければ分からないのです。

(七四―二四三)

四百七十六
 
今日世の中には、睡眠薬のようなものを飲んで自殺する人がたくさんいます。それは、女が多いですか、男が多いですか。女が多いのです。なぜ女が多いのですか。女は一方的

にしか考えるすべを知りません。男はどんなに不細工でも、ああだこうだと考えるすべを知っています。女は決心が一つしかありませんが、男はああだこうだと引っ掛けて、死に得る道を避けていくのです。ですから、女より男

に自殺が少ないのです。(二二二―七〇)


六 死は三世界を連結する過程

自分も神様に似ようとし、そして自分が神様の息子、娘であるなら、神様も似させたいという観念をもつのは必然的です。ですから、自分は神様に似たいし、神様は自分を連れていきたいのです。これを可能にし得る道を模索するでしょう。それで人は、再び神様と似ることのできる体を着て生まれなければなりません。そのように生まれる日を神様も待ち望むのであり、人間も待ち望むでしょう。そのような人として生まれる日が必要です。それが何ですか。死です。

では人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはいけませんか。歓迎すべきです。死ぬのに、何のために死ぬのかというときに、

「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。それゆえ肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参するためであり、神様の愛の世界のためにそうするのです。

神様の愛の中で生まれることが、死ぬことですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。制限された愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入し得る喜びを迎えることができる瞬間が、死ぬ瞬間です。ゆえに死ぬ瞬間が、第二の出生の瞬間です。

そうであるなら、神様は、皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第二の無限の世界の愛のために活動する息子として生まれるその瞬間を喜ぶでしょうか。なぜこんな話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱せずには、神様と関係を結ぶことができないないためです。

人は、蘇生、長成、完成時代を経ます。腹中の水の世界、地上の地球星世界、その次には天上の空中世界で暮らします。言い換えれば、腹中の水の時代、地上に生まれて生きる百年の地の時代、飛んでいく空中時代、このように三時代を経ます。

人は生まれるとき、一番深い水の中から生まれるのです。腹中時代は水の中の時代です。赤ん坊がお母さんの胎中にいるときは、水の中に浮いています。水の中に暮らすために、水を吸って送り出さなければならないため、赤ん坊はホースをおなかにつなげて生きるのです。

赤ん坊は、栄養分をどこから供給されますか。へそから供給されます。へそが入り口なのです。ですから、それをばかにしてはいけません。「へそや、お前は昔苦労した」と言い、たたいてやれというのです。へそをたくさんたたいてやれば、健康になるのです。そのように運動しろというのです。へその運動をたくさんすれば、健康になるのです。いくら寒い部屋で寝たとしても、へそだけよく覆い被せて寝れば下痢になりません。

腹中では、皆さんの口はへそです。この息をする器官が、へそを踏んで上がるのです。その次の口は何ですか。この口です。絶えず上がるのです。

四百七十七
 
では、へそに緒をつけたのを、どのようにすべきでしょうか。切ってしまうべきです。 同じです。空気の世の中で、霊人体が体にくっついて、胎児のように肉身をすすっているのです。そうして、肉身が老いれば、捨てていくのです。胎児が生まれて、お母さん、お父さんの前に愛の対象になるように、霊人体が、霊的父である永遠の神様と相対することができる人として、再び生まれなければならないのは、原理原則です。

胎児が生まれて、お母さん、お父さんと友達になることができる所が、地上世界です。お母さん、お父さんと、愛を共にすることができる地上世界に生まれるのと同様に、霊的に無限の世界に通じることができる父母の代わりの神様と、愛を分かち合うことができる霊界に生まれなければなりません。

水の中の時代があり、陸地の時代があり、飛んでいく時代があります。今日、人間が飛んでいくのをどれほど待ちましたか。飛んでいくというなら、世界で一番の注目の的になります。

地上で愛を呼吸する人は、死んだのではなく、生きたのです。腹中で呼吸するときは、パイプの仕掛けを通じていました。生きていますが、へそにつながった胎盤を破壊して生まれ出るようになるときは、新しい次元、高い次元に上っていきます。高い次元で供給されるのです。空気を供給されて出てくるのです。

腹中から出て何を発展させるのでしょうか。空気ではなく愛です。愛の要素を受けるということです。御飯だけを食べていてはいけません。御飯だけを食べていれば、死んでいくのです。水を飲んで、皆このように生きるのは、全部袋、水袋です。全部死んでいくのです。それは、第二の存在です。地上生活では何を満たすべきでしょうか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。

この地上で、皆さんに必要なものとは愛です。お母さんとお父さんの愛を受けられない子供を、なぜ「孤児」と言うのでしょうか。あの霊界と永遠につながり得る愛がないためです。それで、一人で独身暮らしをするを、

「かわいそうだ」と言います。

死ぬということは、第二の呼吸をしていた肉体につながった器官を壊して愛の要素を受け継ぐのです。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛、愛を中心として、一つの内的な構造が育っているのです。

それで、神様の法則のとおりに胎内で正常的な赤ん坊として育つのと同様に、地でよく育つべきです。

とんぼの卵が初め幼虫になって、水の中で泳ぎ回って、地上に上がってきてしばらくの間、はい回ります。その次には、ひらひらと飛び回り、地ではい回っているときには食べるだろうと思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として、飛び回るのです。

昆虫類の中には、三段階の世界を経るものがたくさんいます。昆虫といえば、大概羽があります。昆虫も水で、陸地で、空中で暮らすのに、万物の霊長という我々人間に羽があるでしょうか。次元の高い羽があるのです。 死が第二の出生の、幸福なる関門です。

死ぬということはどういうことでしょうか。地上生活は空気中で、胎内のように泳ぎ回って暮らすのと同じです。空気のおくるみの中で、生きているのです。死ぬということは、別に変わったことではなく、第三の人生へと出生することです。その瞬間が、死ぬ瞬間です。(一一六―一七二、四九―二八五、一三

九―二一四)


七 死ぬ前にすべきこと
四百七十八
 
一) 後の境界線を越えよ どうせ一生に一度は死にます。ですから、いくら恐ろしい暴風雨がたたきつけても、後の峠を越えなければなりません。うまく進んで、境界線の前で倒れてはいけません。皆さんは、このような境界線に立って何をするのでしょうか。皆さんは統一教会に入ってくるのは、うまく入ってきました。皆さんの姿は、各自で自分勝手にできていますが、よく入ってきました。しかし、気をしっかりして走っていっても終わりまで行くか分からないのに、慌てたなら、行って途中で終わってしまうのです。後の決勝点まで行き、境界線を突破しなければ勝利者になることはできないのです。

人として生まれるのは、価値のあることです。後ろから反対し迫害したとしても、自分の行くべき道を行けばいいのです。人が反対しても、関与する余地がありません。一歩一歩運命の道を経ていく人が、後の境界線を越えることができるのです。皆さんは、そのように行かなければなりません。(二四―七七)


二) 形状と心情と神性に見習え

我々は、いつか肉身を脱いで霊界に行かなければなりません。それゆえ、この世に生まれた我々は、死を覚悟しなければなりません。また、善なる自己を永遠の世界に第二の自分として立てるためには、苦労をしなければなりません。お母さんの腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善なる赤ん坊として生まれるのと同様に、この地上世界での生活は、腹中での生活と同様なのです。

それゆえ、神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖なる神性を見習って育たなければなりません。育って、また生命を懸けて越えていかなければなりません。(一四―一七)


三) 罪を犯すな

皆さんは「心がまっすぐだ」という話をします。電信柱がまっすぐだというとき、一直線に立っていることを言います。心がまっすぐだというのも同様です。それで、人は立って歩くのです。垂直にならなければなりません。 自分の心を完全に垂直になるようにすべきです。そして体が水平線になるのです。遠心力、求心力があるべきです。垂直から引いてくれる力と、回る力が均衡を取らなければならないのです。それゆえ、自分を探さなければなりません。

自分が「自分だ」というときは、神様が

「そうだ」と言うべきであり、「真の父母」が「そうだ」と言うべきなのです。その次に、親戚、一族、一国が正しいと言わなければならないのです。糾弾される者は、問題になります。

これからは、大陸を中心として、寒帯地方と温帯地方を分けるのです。罪をたくさん犯した人は、北極に送るという時が来るでしょう。 伝染病患者を隔離するようにするのです。

(二〇二―二八〇)


四) 世界のために生きて死ぬべし


先生は、アジア情勢や韓国民族を中心として苦労したのではありません。世界的な分野で、どのように責任を果たすでしょうか。そのために、死ぬことができなければなりません。



四百七十九



このようなことを考えてみるとき、皆さんは世界のために生きて死ななければなりません。世界的でなければなりません。では、どんな立場で死ななければならないのでしょうか。世界的な場に立って、愛する妻を抱き、家庭を抱き、氏族を抱き、民族を抱いて死ななければなりません。統一教会は、今、氏族を編成して、民族を編成していっています。 それゆえ統一教会の先生は、死んでも、どんな立場で死ぬのでしょうか。民族と大韓民国までそっくり抱いて、世界のために死ぬでしょう。韓民族が一つになって、世界のために死のうとするときは、世界と共に生き得る道があるために、その道を探していくのです。

(三四―一九三三)


五) 多くの仕事をせよ

皆さんは、どの版図で働くでしょうか。お金が必要なら、お金をかせいで、人がいなければ、人を育てるために寝ずに、食べずにしなさいというのです。誰かに助けてくれと、絶対言うなというのです。本部にも絶対そうせず、助けてあげなければなりません。普通の人の三倍以上をすべきです。

それゆえ、私が七十年を生きたとしても二百十年生きるのと同じです。皆さんも百歳まで生きると思わずに、七十歳まで生きても三倍働くようになれば、二百十歳まで生きることになります。十倍するようになれば、七百年を生きるのです。二十倍するようになれば、千四百年を生きるのです。一生の間、二十四時間を働くのです。そうしてこそ、霊界に行って実を結び、愛の所有が多くなるのです。愛の財産が多くなるのです。自分の所有が多くなって、活動舞台が広くなるのです。(一

〇二―三八)


六) 公的な仕事をせよ

天の法度とは何でしょうか。公儀を優先することです。私的なことはサタンのものであり、公的なことは神様のものです。皆さんは、公儀のために行くべきです。そのような路程で、すべての人たちがいくら反対したとしても、自分に損害を受けずに、難しい道も生命力をもって行く人がいるなら、彼は春を迎える天国人になるでしょう。(四七―二七二)


皆さんが市場に行って見ても、店の主人が自分の欲ばかり張るようになれば、お客が物を買いに来ないのです。自分の欲ばかり張れば、誰でも嫌がります。公的な仕事や、私的な仕事を中心として見ても、治め得る方法と秘訣を知らない人は、一人もいません。それゆえ、「知らなかったので天国に行けなくなった」と言い訳をすることはできないのです。なぜでしょうか。公的か、私的かということは、教えてあげなくても分かるのです。

480 * 四百八十
 
例えば、皆さんのお母さんが、皆さんのお姉さんや皆さんにおいしいもちを全く同じに分けてくれたのに、皆さんは皆さんの分をみな食べて、お姉さんは食べずに真心込めて保管しておいたとします。それを、寝てからそっと起きて、一人で食べようとすれば、「こいつ 7」と言うでしょう。そのような気がしないなら、人ではありません。そうなるべきなのです。なぜでしょうか。皆さんの心は、公的なものを追求するためです。私的なことについていけば、滅びるのです。 本来、天法に従っていけば、自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してくれようとする心があるのです。本来あるものとは何でしょうか。これは、神様に本来からそのような心があるので、人間にも本来からあるようになったのです。自分が作った法でないということです。「良心よ、私がこのようなためにこうだ」と、そう言いますか。「私の考えがそうであるために、そうであるべきだ」と命令するとして、良心が作用しますか。どこだか分かりませんが、他の所から命令を受けるのです。そのような感情が、自分を支配することを見るとき、これは公私問題を中心として支配するということが分かるのです。

(三一―二四一)


今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、内外にひっくり返って行ったり来たりして、結局は私的におぼれる場合がたくさんあります。しかし、そのようになれば、滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び公的な生活のためにこれを歯を食いしばってやらなければなりません。そうして行ったり来たりして私的な側に入り込むときが多くなり、そうしてみると公的な善とは遠ざかる生活をします。これが今までの信仰生活です。それゆえ、私的な生活をするすべての人たちは、悔い改めなければなりません。(三一― 二四一)


皆さん、福を受けるのを願いますか。永生するのを願いますか。そうするには、公的な人にならなければなりません。子供を教育するのに、自分の息子、娘だけ愛するなというのです。世界の人のための、祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子供を懐に抱いてお乳を飲ませるときは、この地球星の人類を代表した母の立場で、人類を代表した幼い赤ん坊にお乳をやるという心で飲ませなければなりません。そして、自分の子供だけかわいいというように対そうとするのではなく、人の子も自分の子のようだという心情で対する母になるべきです。そのような母のお乳を飲んで育つ赤ん坊たちは、必ず偉大な人になるでしょう。すぐには駄目でも、一代、二代を経ていく間、必ずその後孫の中に、世界を支配し得る人物が誕生するでしょう。これは公式です。(三一―一六八)

では皆さんは、私的な蕩減のために自分の一生を投入しますか。そうでなければ、公的な蕩減のために自分の一生を投入しますか。一生を投入するのは同じですが、公的な蕩減のために公的な環境に一生を投入すると生命を懸けて立ち上がる人は、偉大な人物になるのです。そのような群れによって、新しい歴史は創建されるでしょう。


四百八十一
 
では、そのような主管を前にしている我々は、残った時をどのように埋めればいいのでしょうか。これが今から皆さんが行くべき試練の路程です。それで、自体の生活で、個人的な生活をするのか、公的な生活をするのかということが問題になります。自分自身の生活で、自分が何を食べて、何を買って売ってというすべてが、誰のためのものでしょうか。自分のためのものでしょうか、神様のためのものでしょうか。また、問題になるのは、それが公的な生活か、私的な生活かということです。そして、皆さんの感情が私的な感情か、公的な感情かということも問題になるのです。 公的な道を行くために誓うべきです。歴史を蕩減させるべき使命を負った人なら、誰でも願う立場まで進まなければなりません。それゆえに、生活の中で私的な感情を超越して、公的な感情をどのように体得するかという問題が、信仰者が重要視すべき問題です。

罪とは何でしょうか。罪は、私的な所で生まれるのです。滅びるのも、私的な基準で繰り広げられるのです。悪も同様です。私的なことが度数を超えるようになれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があり、その限界を超えれば、悪くなり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです。

では、永遠に善であり得、永遠に繁栄することができ、永遠に福を受けることができる立場とはどこでしょうか。滅びることを避け得る立場、罪となることを避け得る立場、悪くなることを避け得る立場とはどこでしょうか。それは、正に公的な立場です。御飯を食べても、公的な立場で食べなければなりません。仕事をしても、公的な仕事で、言葉を話しても公的な言葉で消化しなければなりません。このように、一切を公的なことと関連づけて暮らさなければなりません。そのような人は、地獄に行こうとしても行くことができないのです。(三一―一六四)


七) 愛を体恤すべし

皆さんは、自らが「私だけだ 7」と、自分だけを考えればいいのでしょうか。皆さんは、皆さん自身だけで存在しているのでしょうか。皆さんから、お母さん、お父さんの要素を抜き出して、供給されたすべての万物の元素を抜いていけば、皆さんはなくなります。それゆえ、「私」という存在とは何でしょうか。お母さん、お父さんに代わる立場です。お母さん、お父さんを通じて生じた腹中時代を経て、お母さん、お父さんの血と肉を受け継ぎ、供給されて生きるのです。

それで、今日地上時代には、「宇宙の母、万物の母」です。これが地です。地球星が母なのです。元素を皆さんに供給してくれます。他の段階の元素を供給してくれる母なのです。母の腹中で育つようになるときに、腹中で呼吸するのに、何で呼吸するでしょうか。へそで呼吸します。へそが母の体とつながったホースです。

しかしながら、第二世界、空気の世界につながったことを知っています。腹中で暮らしてから、けってしまって出てくれば破壊です。そのときは、泣くのと同時に何につながるのかというと、ひよめき、鼻の穴で息をするようになっている、空気の世界につながるのです。鼻の穴が絶対補給路です。では鼻の穴をふさいで生きることができるでしょうか。息ができなければ死にます。二重構造になっています。

腹で空気の世界に出てくるときは、腹中世界で暮らしたへその緒と水袋をみな破壊して出てこなければなりません。その器官、腹中のへそと胎盤は破壊されて死ぬのです。死ぬのと同時に、何が出てくるのでしょうか。この宇宙、地球星の母に現れるのです。こうして、口で元素を補給されて生きているのです。

四百八十二
 
腹中から出て、この体は何をすべきでしょうか。腹中でへその緒で息をするのと同様に、空気のパイプである鼻の穴を準備して、どっと出てくるときに取り替えて息をするのです。そして、今この世界ですべきこととは何でしょうか。生まれてすべきことは、愛というものを体恤することです。愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。愛の空気を供給され、経ていかなければなりません。一家庭に赤ん坊として生まれて、サインカーブと同様に、上がれば下がらなければなりません。赤ん坊として生まれて成長して、年を取って死ねば分解されていくのです。赤ん坊として生まれて、赤ん坊に帰るのです。

そのようになるときは、どのようになるのでしょうか。第二の腹中世界をけってしまい、第三の愛の呼吸器官につながらなければなりません。父母の愛、兄弟の愛をけってしまい、大宇宙の神様の本体に和した愛の世界に入ります。霊界は愛の空気です。愛の空気でいっぱいに満ちています。それゆえ、皆さんは、今この地上世界で愛の息をすることができるパイプ装置をしなければなりません。それで、霊界の体験が必要で、霊的愛を感じることができて、呼吸することができる人になってこそ、死なないというのです。

この地球星の母の腹の中をけってしまって立ち上がるとき、皆さんは愛の呼吸器官で息をするのです。第三の愛を受け継いでこそ、永生を得るというのです。それで、愛をつなげてどこに帰るのでしょうか。神様に帰るのです。愛の呼吸器官につながって、霊界に帰りますが、神様の本体に帰る道が残っているのです。種が出てきたなら、それは本体から出てきたために、結果を結んで本体に帰るべきです。

それで、人生行路は、旅人の行路ですが、ここで備えるべきものとは何でしょうか。愛の体恤をして行かなければならないのです。母と父の愛をよく受けられなかったのが堕落だから、真の父母の愛、真の兄弟の愛、真の夫婦の愛、真の息子、娘の愛を中心として、縦的な家庭をなして、横的な環境を、東西南北に多くの家庭たちを並べておかなければなりません。それで、彼らが縦横をつなげることができる真の家庭の形態をなして、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏につながるようにするとき、愛でつながったその世界を天国というのです。(一三九―二一二)


八 霊界に行く前に残すべきこと一) 愛の墓を残すべし

普遍的に人は永生を中心として十年、百年だけでなく、千年、万年、億千万年を考えるようになります。人が死ねば、動物と同様ですが、それを残して何をするでしょうか。このごろは、宗教を信じないで、神様を知らない人も、「ああ、名誉を残さなければならない」と言いますが、その名誉を残して何をするでしょうか。アメリカの愛国者になって、記念館に入っていても、アメリカが滅びるようになるときは、消えるのです。名前を残して何をするのでしょうか。ですから、滅びたり繁栄したりする歴史時代に残ったとしても、良いというものも、悪く扱われるのです。

(一〇三―一六)


四百八十三
 
地上に生きている神様の息子、娘を残すためのものが、神様の目的です。それゆえ、自分が霊界の神様の前に行っても、地上に生きた神様の息子、娘を残す立場になるときは、自分も神様と同じ立場に立つようになるのです。それが聖書の「うめよ、ふえよ、地に満ちよ」というみ言の意味です。(一四六―二二三) 生涯に何をすべきなのでしょうか。愛の墓を残すべきです。愛の墓を残していこう 7 愛の墓の中で暮らせば、恨がありません。墓のような所で、いくらじっと暮らしても、愛の中で暮らせば恨がないのです。我々が暮らしながら愛の墓を残せば、人生は永遠において成功するのです。そのように皆さんが暮らして死ぬときは、霊界で神様が息子、娘を連れて歓迎に出てくるでしょう。そのときには、指輪をはめられなかった手なら、天国のダイヤモンドをはめてくれるだろうし、服を着れなかったなら、天国の皇族たちが着る高の服を着せてくれるでしょう。(九七―一六九)


二) 霊界の所有権は伝道で決定


霊界での自分の所有権とは何かというと、天国の民をどれほど連れていったかということです。それが自分の財産です。永遠の財産です。今からは、それを問いただすべき時が来ました。一日に何百万が伝道される時が来ます。統一教会には、そのようなすごい内容があるのです。世の中を見てください。今死ぬか生きるか、人生とは何か、空中にさまよい歩きながら、落ち着くことができず、狂ったように回って自殺する人がどれほどたくさんいますか。(二一八―二二七)


霊界に行けば、愛の懐が大きいほど、その懐に入ろうと列をなすようになります。その人は、あの世で尊敬されるのです。千人、万人に囲まれて、「あ 7 この人と一緒に暮らしたい」という声を聞くようになれば、その人はそれほど領土が大きい金持ちになるのです。

あの世の金持ちは、どんな人でしょうか。愛のために投入した人が金持ちなのです。 伝道とは福を集めることです。愛の福を集めるのです。天のものを奪っていったサタン世界のどろぼうたちに、主人が愛で探すのです。お前のお母さん、お父さんを私がもっと愛するという、愛の心で訪ねていき、愛に因縁づけられたすべての福を取り入れるということです。

冷遇を受けるとしても滅びるのではありません。その後ろには数限りない聖徒が従い、万物がついてくるのです。ついてくるから、自然に金持ちになるのです。(二〇五―三四七)


霊界に入っていくとき、お金を持って行くのではありません。サタンの息子、娘を収拾すべきです。一人が百二十名以上収拾しなければなりません。天国の民をみな失いました。それを接ぎ木して、失わなかったという条件を立てなければならないのです。

霊界の十二の真珠門を経ていくためには、地上でサタンから天の民を探さなければなりません。そうするためには、涙と血と汗を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心として、サタンの父母以上、サタンの夫と妻以上、息子、娘以上の心情を投入して、涙とともに交差する過程を経ずしては、天国の自分の民を所有することはできません。この数の比例に従って、あの世の栄光の立場に、神様の前に近づく条件が成立します。

(二一一―三五二)

四百八十四
 
これから、霊界に行くとき、何をもっていくかというと、お金をもっていくのではありません。統一教会の名前をもっていくのでもありません。これから皆さんがすべきこととは何でしょうか。神様が愛することのできる息子、娘を、どれくらいたくさんつくるかということが問題です。人々が赤ん坊を産むとしても、何人かしか産むことができません。

それは、誰もができることです。

復帰過程で経ていくべきこととは何でしょうか。皆さんがサタン世界で、神様が愛することができる多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功労は先祖とつながって、また、先祖を解放させることができる道が繰り広げられるのです。これが復帰路程において、自分が取ることができる大の贈り物です。 いくら教区長をしたといっても、信仰の息子、娘がいなければ、あの世に行くとき、空き缶を持って行くのです。自分を中心として一人もぶら下がっていないために、そうなのです。

天国は、無限の世界なのに、そこでは愛の心情でつながることができる橋がなければならないのです。それゆえ、自分が伝道した人が世の中にたくさん広がっていれば、霊界に行っては、それほど広く往来することができる道が生じるのです。全部が自分と因縁を結

ぼうとします。


地で解いてあの世に行くようになれば、霊界で解くことができる相対的関係になっているから、膨大な活動基盤になるのです。それが全部、自分の所有になるのです。それゆえ、自分が活動する舞台は、その基準を中心として全霊界に通じることができるのです。それがなくなれば、コーナーに追われて活動しにくいのです。ですから、歳月を送って休む間がありません。

御飯を食べて暮らし、息子、娘を食べさせて育てることは、あの世に行くようになれば大したことではありません。それゆえ、天国の民を訪ねていかなければならないのです。それが天国では自分の所有になるのです。 それゆえ我々が、早く世界人類を、この世を消化しなければなりません。早く消化すれば、霊界のすべての霊たちも再臨復活していくようになっています。今、長子権がサタンの基盤ですが、神様の基盤として逆さまになれば、アダムが長子権をもてば、天使長はアダムの言うことを聞いて、ついてくるようになっています。絶対服従する位置に行くようになれば、神様の愛とともに、アダムの愛の圏内にあるために、自然に天国に入るのです。

原理がそうなのです。

地上で人間が、この責任を果たせないことによって、裏返しになったために、人間がすべきことは、裏返したものを再び解かなければならないのです。蕩減復帰して、道を開いてあげなければなりません。ですから、伝道という仕事がどれほどとてつもないことかを知るべきです。それゆえ、自分が何人を永生圏内に受け付けさせるかが問題です。統一教会という看板をつけては、何の役にも立ちません。

イエス様がエルサレムに上ったとき、いちじくの木に実があると思って行ってみたのに、実がなくて、それを呪うことによって、いちじくの木が枯れて死んだのです。ちょうどそのようになるのです。うわべだけ良くてどうしますか。それゆえ、自分が祝福家庭を何家庭つくったかということが、皆さんに収穫と

なるのです。

四百八十五
 
百二十名、何百名を伝道しなければなりません。それもできずに、自分の息子、娘を愛するというのはあり得ません。原理を見ると、百二十名を伝道しなければなりません。百二十家庭は、イエス様の世界国家を代表したのです。四百三十家庭は、一国を中心として、その中にある名字と同じです。四千三百年を中心とした四百三十家庭です。それは名字と同じように、国民が天国に入ることができる門を開いておいたのです。門を開いておいたのであって、入ったのではありません。

これは、空論ではありません。理論です。歳月をそのまま送るなというのです。青春時代に息子、娘を産んで、育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残すのと同じです。また、その子供たちが、立派な人になってこそ、歴史に誇ることができるのです。そのような歴史に対して、誇り得る実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れますが、国には入れないのです。国に入るためには、歴史の伝統に残り得る実績がなければなりません。 それゆえ、誰でも国に何かを残すのを願い、世界に何かを残すのを願い、天地に何かを残すのを願うのです。同様な道理です。それゆえ、自分の所有版図をどのように確定するかという問題が、終生の目的だという観念を確実にもたなければなりません。それゆえ、み旨の道で「嫌だから辞める」と考えることはできません。

先生が監獄に入って苦労を一人でしたとしても、その責任をもつということは何のためでしょうか。その環境で、苦労する人たちを救ってあげるということです。苦労する環境で、自分たちが利益になり得るなら、ついてくるのです。ついてくることによって、収穫になるのです。霊界に行くとき、これを全部公的なものとしてもてなされるために、その人は天国の一番高い位置に行くのです。

国民教育をよくすれば、その国が繁栄するのです。同様の道理です。天国の生命圏を中心として、これをどれほど悟らせて、精神を正して、自分以上の実績を残し得るかということが問題です。そのようになるとき、世界は早いうちに復帰されます。それゆえ、精誠を尽くして育てなければなりません。

先生もそうです。先生が今までみ言を語るようになれば、五時間、六時間ずつしますが、そのようにしたくてするのではありません。その骨子は簡単です。十五分話す内容にもなりません。しかし、それを中心として多方面の人たちに、来たすべての人たちに、いろいろな例を挙げて分かりやすく説明して、その人たちをその圏内に共に同参させようとしてそうするのです。目的は、春が来るようになれば、何としてでも種をたくさん蒔こうということです。種をたくさん蒔いておけば、たくさん生えるのです。

では、種を蒔くには、どこに蒔かなければならないのでしょうか。汚れない場に蒔こうとすべきです。汚れない場とはどこでしょうか。青少年たちです。分かりますか。その時一度植えておけば、一生もつのです。その時一度植えておけば、抜いてしまうことができません。

人は、どの時が一番鋭敏でしょうか。小学校の時が一番そうなのです。中高等学校に行けば、だんだん希薄になるのです。大学に行くようになれば、その隣町を経ていくのと同じです。旅をしてきて何かをするようになるのです。一番難しいのが小学校の時です。その次に中高等学校の時です。時がたつほど、だんだん薄らぐようになります。ですから、その時に生命の種を蒔かなければならないのです。

四百八十六
 
子供たちと遊びながら、童謡も教えてやり、話もしてやれば、それが自分の将来のための永遠な財産を積むのです。年取った人たちも、会いさえすればみ言を証すのです。統一教会の指導者たちは、このようなことがよくできていません。

バスに乗るようになれば、十人に、どこに行くのかと聞きながら、親しくなればもう一度会って話をしようと言って、また会えば原理のみ言を伝えるのです。いくらでも伝道することができるのです。材料はいくらでもあるのです。伝道しようとするなら、自家用車に乗って回ることより、バスや地下鉄に乗って回るのが良いのです。通勤時間に一つのコースだけ行っても一年十二カ月を毎日通ってみると、顔が分かるようになります。ですから、あいさつするようになれば、互いが受け答えすることのできる人脈がつながり得るのです。そのような道が通じているのに、なぜ歳月だけ送るのかというのです。


御飯を食べることよりもっと重要なことが、天国の民を取り入れることです。それが我々には、うまくいっていないのです。それが本職です。この地上に生きる我々の本業です。生涯にすべきことの中で、それ以上貴いものはありません。就職して出世したり、お金を集めたりしたものは、みな流れていくのです。あの世で、お金は何の役にも立ちません。あの世では、物質が必要でなく、知識が必要ありません。習わなくても、心が先に分かるのです。

一週間以内に、何でもみな通じるのです。

そして、あの世では、権力が必要ありません。霊界で必要なのは愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。それゆえ、愛を中心として感化力をもてなかった人は、愛で感化され得る本然の世界に行っては、本質的に和合をせず、反発するのです。それは地獄に行くのです。 皆さんが、今まで統一教会に入ってきて、暮らしながら働くと言いますが、どの立場で働いたかを考えなければなりません。方向がどこで、位置がどんな場なのかをいつも考えなければなりません。そのようになって、祈祷すれば、神様が自分と共にされるというのです。そのようになって、目をつぶりさえすれば分かります。祈祷をしなくても分かるのです。どこかに行って話せば、言葉がすらすらと出てきます。良心のある人に行けば、自分がずっと引かれて入っていくのです。

全部が相対的です。花も、自分と相対し得るものを引っ張る力があるのです。自分の主体や対象になれば、引っ張るのです。初めて会ったと言って、相手にならないのではありません。磁石がそうです。その本質は、永遠に不変です。それと同じように、そのような所に行くようになれば、心がうれしく、言いたくなるのです。その境地に入れば、話すまいとしても口が開くのです。

四百八十七
 
皆さんが、これからあの世に行って、復帰歴史をされる神様の前に、一人のアダムを探すために、今まで苦労した神様の前に行って、何と言うでしょうか。神様は創世以後、今までアダム完成者を探してきました。そして皆さんは、原理を知りました。これは数千、数万の民を救うことができる武器です。今まで神様が人間に教えることができず、知らないうちに摂理されました。それに代わって、地上で神様の理想の仕事を我々がするのです。我々には原理で数百、数千のアダムを教化して連れていくことができる道があります。 ですから、生命とつなげなければなりません。永生問題は、深刻なことです。春になれば、娘たちが山菜を摘みに探し回るのと同様に、自分が要求するものがどこにあるかを探し回るのと同様に、皆さんは一生をそのように生きていかなければなりません。そうして、相手が現れれば、夜通しで彼のために原理のみ言を伝えてやるという心をもたなければならないのです。一度会って感動を与えるためには、精誠を尽くさなければなりません。 皆さんがすべきことは、天国に連れていくことができる息子、娘を探すことしかありません。いくら億千万の金をもって、豊かに暮らしても、そのようにみな流れていくのです。自分のすべての物質と知識と生命まで、投入してでも、しなければなりません。それを別々に投入するのではなく、「一遍に投入して天国の民をつくる」と言うべきなのです。投入する全体が加重するに従って、その価値は比例していくのです。

ここの統一教会の長という人たち、肩に力を入れて誇り、そのように考えるかもしれませんが、恥ずかしいことです。自分を中心として、いくつの生命を救ったかが問題です。 皆さんが、どれほど永遠に天の前に功績を褒めたたえられるかということは、どれほど天国の民を収穫して取り入れたかという問題にかかっているのです。それを取り入れる鋤が今まではありませんでした。知らないからできなかったのです。ですが、皆さんには背負子があります。熱烈にみ言を伝えるようになれば、爆発的な収穫を収めることができるのです。しかし、そのような内的な実力をもって歳月を送っているので、神様が雷を落としたいはずです。

夜十二時が問題ではありません。明け方が問題ではありません。夜も昼もそれが問題ではないのです。天は、それを受け入れるのを願いますが、「ああ、私は眠りたいです」と、そう言えません。その立場は直行する立場です。

永生問題を教えてあげなければなりません。これからは、皆さんが責任をもたなければなりません。それゆえ、今まで私は、統一教会に反対する人を呪うことができませんでした。天は、自分と関係を結び、決定づけるのを願うのに、その人が落ちれば、我々の統一教会の責任だというのです。先生が責任を取らなければなりません。サタンによって、世の中が反対するようになりましたが、その反対される環境を早く克服すべきことが、我々の責任なのです。それができないことによって、被害を受けるすべての環境は悲惨なのです。


それは、赤ん坊にお乳を飲ませるのと同じです。赤ん坊を産めば、お乳を飲ませなければなりません。それゆえ、会いに訪ねてくるのです。訪ねてくれば、絶対冷遇してはいけません。先生も一生をそのように暮らしています。誰が夜十二時にここに入ってきても、その人が行きたがらなければ、自分が座り続けるのであって、「行け」とは言いません。その人は、必要なものがあるために行きたくないのです。それなら、み言を語ってあげなければなりません。先生は一生をそのように暮らすのです。絶対事務的ではありません。

霊界はいつも覚めています。

四百八十八
 
皆さん、統一教会員たち同士けんかをし、一人でも落ちれば、その被害は大きいのです。その人がこれからみ旨を知って、天の前に自分の責任を果たすとき、何千名、何万名を救うことができる、自分よりましであり得る、驚くべきこともあり得るのです。ですから、人事措置を誤れば、全部引っ掛かるのです。それゆえ、自分が低い所にいて、みな高い所に置こうとすれば、引っ掛かる所がありません。それが謙遜だというのです。 しかし、誤れば下がります。夜に妻と子供たちがいる部屋に入るとき、父として責任をもって、夫として責任をもたなければなりません。夫がうまくすれば、あの世で妻が自分についてくるのです。もちろん、その父の家に入るためには、訓練過程がありますが、ただそのまま行くことができれば早いのです。あの世は、許しのない世界です。その世界に拍子を合わせるために、今準備をするのです。

そのことのためには、飢えてもしなければならないのです。「御飯を食べてきて、しよう」と言ってはいけません。今ダイナマイトの導火線に火がついて、爆発するはめになったのに、御飯を食べてはできないのです。深刻なのです。それゆえ、永生問題をどのようにつなげるかということが問題です。

電気で言えば、全部送電所を経て、配線器具につながってこそ明かりがつくのと同じです。発電所の電気がここに来ているのです。

つながってこそ残ります。

それで、信仰の息子、娘を自分の息子、娘よりももっと愛し、信仰の息子、娘は、信仰の父母に、自分を産んだ母よりももっと「ため」にしなければならないのです。自分を産んでくれたのは、サタン世界の父母ですが、信仰の父母は天の世界の父母のために、自分を産んでくれた母よりももっと「ため」にしなければならなりません。そして、信仰の息子、娘たちは、全部自分を救ってくれた人の子供たちを精誠を込めて育てて、結婚させてあげるべき責任があるのです。み旨がそうなのです。ですから、その子供たちを全部育ててあげなければなりません。

それゆえ、永生問題とつなげなければ、すべてが無駄です。彼らがみ言を聞いたとして終わるのではありません。催促し、催促して、祝福の場にまで出させなければなりません。祝福を受けなければならないのです。それで、祝福を受けて伝道するようになれば、それは自然につながるのです。難しい環境のサタン世界で、迫害を超えていくことができれば、その人は、既に生命の道に入るのです。祝福を受けるところまで行けば、終わるのです。 そして説教をしても、「私」というものが生きていてはいけないのです。血と汗を流しながら、話さなければならないのです。出産の苦労をしなければなりません。涙を流しながらしなければなりません。皆さんの目から涙が乾くようになれば、それは偽者です。

(一九九二・四・一五)


三) 息子、娘をたくさん生むべき理由

統一教会の人たちは、神様を知らない人がいません。霊界を信じます。愛から始まって、神様から分かれて出てきて、結局は神様に帰

る路程です。

霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、いつでも男が女になり、女が男になることができるのです。愛は一体だと言います。女の中をのぞいてみれば、男が入っています。その夫が入っているのです。神様の二性性相と全く同じです。性相と形状、それが分かれて出てきたために、その本体に帰るには、愛のはしごに乗らなければなりません。創造の基準が愛から始まったために、このはしごに乗って入らなければなりません。結局終着点は、神様と共にするのです。

霊界では赤ん坊を産みません。霊界は縦的な世界です。神様を中心として円形を成した世界なので、赤ん坊を産む必要がないのです。横的な基盤が必要であるために、人間を、体



四百八十九



として造ったのです。繁殖する畑です。霊界の民は、全部この地球から行くのです。このように考えてみれば、今産児制限をなぜすべきなのか分かりますか。それは、天命によるものです。悪なる血統をこれ以上繁殖させるなというのです。

統一教会の祝福家庭は、どれほど天国の国民を繁殖させるかということが財産です。信仰の息子、娘より、自分が生んだ息子、娘がもっと価値があるのです。信仰の息子、娘は、祝福という関係を知りません。そのような息子、娘をどれほど残していくかによって、天国で自分の位置が決定されるのです。(二〇五―九九)


完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上で「真の父母」を中心として、可能なのです。霊界ではありません。それゆえ息子、娘を生まなければなりません。息子、娘が正に天国の民になるのです。皆さんの息子、娘が、理想的な天国の民になるのです。ですから、皆さんが息子、娘をたくさん産まなければなりません。本来は十二方向以上にならなければなりません。それで、先生が十二方向以上を願います。(二一七― 一三〇)


息子、娘がいなければ、天国が繁栄しません。ですから祝福家庭たちは、地上で産児制限してはいけません。飢えて死んでも、全部霊界に行きます。飢えて死んでも、愛の中で飢えて死ねば、天国に行くのです。それゆえ、サタン世界は産児制限しますが、統一教会では産児制限をしてはいけません。

先生がみ旨のために苦労しましたが、飢え死にはしませんでした。我々は飢えて死ぬよ

うな場に行っても、生きることができるのです。そのような訓練が、みなできているのです。

絶対的な愛のために、すべてを犠牲にするようになるとき、神様も調節することができ、サタン世界も調節することができ、天運も調節することができるのです。調節するのは何でしょうか。神様がついてくるということです。神様がついてきて、この世界がついてきて、天運がついてくるのです。(二〇一―一三三)

皆さんは、地上で子女を立派によく育てて残していかなければなりません。将来、その子女はすべて霊界に行くのです。霊界に行って、天国の国民になるのです。自分が何人を天国の国民として捧げたかというとき、地上ではつらいことでしたが、永遠の世界では、それが高貴な栄光の道になるのです。

地上では、教育とか、食べさせることの問題で、とても苦労します。しかし、霊界では、食べるものは問題ありません。着ることは問題ありません。暮らすことは問題ありません。できるだけたくさん、たくさんいればいいと思うのです。(二一八―三一九)


霊界に行けば、繁殖がないのです。神様は、縦的な父母の立場でいるために、一点しかないのです。(二二一―二〇四)


490 * 四百九十
 
神様がすることとは何でしょうか。世の中を救うことです。霊界に行ったすべての次元の高い人たちの仕事とは、地の仕事です。地とはどんな所でしょうか。天国の国民を生産する生産工場です。広大無辺な天国です。 一人が子供を約百人ずつ産んでも、天国は広いので過剰生産ということはありません。あの世は、いくらでも収容することのできる世界です。産児制限してはいけません。あの世に行けば、天国の民を、どれくらいつくって率いてくるかということが問題になります。真なる天国の息子、娘をたくさん率いてくるとき、それが自分の権益になり、天上世界で表彰され得る等級の等差を設定し得る資料になるというのです。(二〇二―四〇)


九) 死の前での姿勢

イエス様がみな教えてくれました。「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と教えてくれました。世の中に、そのようなでたらめな言葉がどこにあるでしょうか。そのような言葉はありません。しかし、その言葉は事実です。

では、死ぬのはなぜ死ぬのでしょうか。死ぬ目的とは何でしょうか。生きるためにです。生きることには何かの目的があるのです。生きていく人間の目的は、全部違います。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)というのは、何のためでしょうか。神様の息子になるためです。神様を愛するために、首を差し出せということです。その首が一つしかないのに、差し出せというのです。どこに行って死ぬべきでしょうか。あのどん底に行って死ぬのではなく、高の立場で死ななければなりません。

それゆえ、天国を中心として死ぬべきです。天国は世界のどの国よりも大きいのです。天上天下の、一つしかない天国で死ぬのです。 では、どこで死にますか。これが問題です。死ぬのにも方法があるのです。死ぬのにも場所があるのです。つまらない韓国的なものをもってしてはいけません。韓国的なものをもってしては、いくら死んでも駄目なのです。高の立場、神様の心情の国を中心とした、高の立場で死ぬべきです。天国の真ん中で死ぬべきなのです。その天国が一番です。天下が、旗を掲げて歓迎する立場で死ぬべきで

す。(三四―一八四)


今日、我々は後の復活の一日、希望の一日を願っています。すべての人が願っている、その希望の時は、万民が楽しむことができる希望の時とはいえ、その時はたやすく近づいてくるものではありません。そして、その希望は、死に勝った者だけが所有することができます。その希望は、神様と共に、サタンと戦った者だけが占有するでしょう。その希望は、天のために、神様と共に迫害を受けた者であってこそ、占有するでしょう。

このような時が、我々の前に来るということを考えるとき、この生活環境を乗り越え、死の恐怖までも乗り越えることができる切なる心をもたなければなりません。そのような切なる心が、皆さんからわき出なければ、その希望の一日を皆さんの生活圏内に引き込んで暮らしていくことができないのです。 それゆえ、真の生活をするという人は、

「私がどんな姿で死ぬのか」ということを考えるのです。八十年生きて死ぬその時間になってやっと、「私はどんな姿で 後の一日を飾るだろうか」と言ってはいけないのです。イエスは死の場に行って「すべてが終わった」、「父よ、私の霊をお受けください」と言いました。やはりその方は、人生行路に勝利された方でした。

四百九十一
 
皆さんは、これからある一日に死ぬようになります。そして死を前にして過去を回顧しながら、そのとき、どのような一言の言葉を残して行くか、ということを考えなければなりません。

この道は、友達もいないのです。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行くべき道です。再び行ってみることもできず、行って帰ってくることもできず、一度行けば永遠に帰ってくることができない道です。このような道を行くようになるとき、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着するその瞬間に、その死を乗り越えることができる希望がなければ、そこで後です。


今日まで神様のみ旨を奉じて、神様のみ旨を立ててきた数多くの人たちは、どのような人たちがいるかというと、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と乗り越えた人たちでした。そのような人たちが、天の道を立ててきました。

皆さんは、死に逢着するようになっても、それを乗り越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えてしまえば、自分は天の前に堂々と立つようになるだろうという希望と、心で憧れた本郷に向かって、喜びで走ることができなければなりません。神様の理想世界を希望する心が切実であってこそ、死に勝つことができる存在になるということです。

世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。愛する父母、愛する妻、愛するすべては、みな過ぎ去って、あとには死の前に逢着するようになります。しかし、その死までも過ぎ去ってしまうようになる勝利的な希望をもった人であってこそ、この天の前に立つことができます。 今日、地上に生きている人間たちは、苦痛の道や悲しみの道を願いません。ある喜びの場面があれば、その喜びの場面が過ぎ去るのを惜しく思い、懐かしむのが人間の心性です。

我々が生きているこの地は、悲しみと喜びがひっくり返っている世の中です。我々が楽しんでいるこのすべての喜びは、死とともに消え去る喜び、すなわち死を越えて残り得る喜びになり得ないというのです。

では、悲しみが死とともに消え去り、楽しみも死とともに消え去れば、人間が喜びを探して、もっと良いものを願い、永遠の世界に憧れるその心も、死とともに終わるでしょうか。違います。心がそのような方向に動き、心情がそのような方向に動くということは、そのような世界が実際にあるという証拠です。

人間は、霊的な存在であるゆえに、その生命は永遠です。天の前に忠誠を尽くし、天のために死の道も行き、多くの人が嫌だという道も希望を抱いて行った人がいれば、彼は普通の人たちが感じられないものを感じ、普通の人たちが分からない価値を知ったのです。そうなったので、死の道も行くことができるというのです。

皆さんの憧れることが、現実生活でぶつかるどんな逆境と困難と悲しみ、あるいは死よりも、もっと強くなれなければ、皆さんは死の前で後悔する者であり、悲しみと苦痛の前から後退する者にしかなれないということです。イエス様が死の峠を越え、永遠の世界に行かれたので、復活の世界を建設されたので、今日我々も、どうせ死の峠を越えなければならない運命に置かれているのです。

四百九十二
 
では、天の希望を抱いて生きる人は、どんな人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も喜びで乗り越えることができる人です。それは人が天の希望を抱く者です。それゆえ、皆さんは死を前にして、世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、天の前に立って自分の死の価値を誇り得る人になるべきです。天は、このような希望の息子、娘たちを探しておられます。

このような立場に立って、天の喜びを感じた人がいるならば、彼は神様が愛すまいとしても愛さざるを得ないのです。そのような立場で天に対して泣き叫ぶ群れがいるとしたら、天がその泣き叫びに答えまいとしても答えざるを得ないのです。(六―五三)


み旨のために「死なんとする人は生き、生きんとする人は死なん」というこの言葉はどういう意味でしょうか。み旨のために死ぬべき立場では、死ななければならないのです。 では、死ねばどのようになるのでしょうか。死ぬ前までは自分のものですが、死んだのちには神様のものになります。それは、我々が堕落した血統を受けたためです。それゆえ、死ぬ前までは、我々の生命が、サタン側の因縁を逃れられないのです。しかし、死んだのちには、神様と因縁が結ばれるのです。

生命と死について見るとき、どちらが強いでしょうか。死より生命がもっと強いでしょうか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。それゆえ、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬのを嫌がってはいけないのです。 サタン世界では、どうせ死ななければなりません。死ななくては、復活することができません。一つの時代が過ぎなければ、他の時代を迎えることはできないのです。

では、聖書で言う、「死」とは何を言うのでしょうか。神様が、永遠にもつことができる生命を殺せというのではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せというのです。ですから、み旨のために死のうとする人は、生きるのです。この言葉が、逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ復帰ができないのです。これは、復帰の正常的な論法です。

それゆえ、生命を差し出すことができるかというのが、も大きな問題です。先生がこの道を出発するとき、生命を差し出すことができる覚悟ができているかを考えました。 先生は、死ぬ覚悟をしました。死ぬとき、どのように死ぬかも考えました。そうしながら、死ぬ時は、どんな言葉を残して行くのかを考えました。どのようにすれば生きるかを考えたのではありません。


四百九十三
 
大韓民国を中心として、役事しなければならないために、死ぬ立場を訪ねていったのです。死ぬ立場とは、どこでしょうか。怨讐と対決する立場、すなわち怨讐を訪ねていったのです。怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国のキリスト教を中心としたみ旨の基盤が、サタン側に回ったために、それを探すためにサタンの巣窟である北韓に行ったのです。 先生が、今後の世界的な共産党と戦わなければならないために、それのために北韓を訪ねていったのです。手錠をかけて牢屋の身になるのを覚悟して、不倶戴天の敵の国を訪ねていったのです。いくら暴悪な試練が私に襲いかかってきても、私はそれに屈服しませんでした。いくら極限の飢えの立場でも、神様の威信を失いませんでした。組織的な生活圏内で、いくらつつかれる生活をしても、天の法度に背きませんでした。 先生は、すべてのことが拘束されても、その拘束される基準で、すべてを探すことができ、さらに神様の前に新しい出発の動機と、新しい生き甲斐を探してきました。そのようにして出発したのです。先生は、「ありとあらゆる重労働をする立場に入っても私は負けない、他の人はみな死んでも私は死なない」という信念をもってきたのです。

統一教会は、生きようとする所から出発したのではなく、死のうとする所から出発したのです。しかし、皆さんは統一教会のみ旨を知ってから、死を覚悟しましたか。自由党時代の特務隊長金昌龍殺害事件の首謀者である、許大領(大佐)が死刑を受けるときに、「今回のことを計画して指示した者として恨がないか」と聞くと、彼は「何の恨もない」と言いながら男らしく死んでいきました。そのような殺害事件や銃殺事件が起これば、それを自分と比較してみなさいというのです。比較してみながら、自分は果たしてどのように死ぬだろうかと考えなさいというのです。

怨讐の謀略で、国家の大反逆者として追い込まれて死ぬこともあるでしょうし、同志の妨害や、友達の妨害、あるいは愛する人の妨害など、いろいろなことによって死ぬこともあるでしょう。しかし、死ぬときには、世の中のためになる心で死ななければなりません。恨みを抱かずに死ななければならないのです。どうせ死ぬからには、恨みを抱かずに何かを植えておいて死ななければならないのです。怨讐を怨讐ではない友達として愛しながら死のうということです。そのような意味から見るとき、イエス様が十字架上で怨讐のために祈った

のは、偉大なことです。(三四―四七)


十 霊界に入るとき

一) 死が差し迫ったとき

人生の勝敗は、何十年の期間によって決定されるのではありません。それは一瞬に決定されるのです。我々の人生について見ても、皆さんが生まれるその瞬間は、長い時間ではありません。もちろん、生まれる前までの腹中の時期がありますが、その腹中の十カ月という期間は、出生する一瞬のための準備期間です。ところで、十カ月間いくらよく準備したとしても、決定的な一瞬をうまく越えられなければ、生まれるその赤ん坊は悲運の運命を迎えるようになるのです。

十カ月の期間を安全な生命体として絶えず育ててきたのは、生まれるその一瞬を飾るためです。言い換えれば、出生を見通す目的の一瞬のために、腹中時代があるのです。それゆえ、腹中時代がいくら立派だったとしても、生まれる一瞬に誤るようになれば、悲運の結果を迎えるようになります。(三一―一八五)


この地上に生まれて、運命の瞬間を迎える期の場で、過去を悔いる人がいるなら、その人の心には、過去のすべての事実が、映像として過ぎていくでしょう。これこれこういう人だということを、誰が教えてくれなくても、自ら分かるでしょう。先祖から受け継いだ生命体をもって、今まで因縁づいた環境と、残しておいた事情など、過去のすべてが一生の期の瞬間に、自分の心に映像として現れるでしょう。

四百九十四
 
その中で、「真があった、自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるなら、彼はたとえこの地に生まれて死んでも、甲斐ある一時を残す人になるでしょう。しかし、「生まれて死ぬこの一生の行路が、通行人のようにただ通り過ぎるものだった」という人もいるのです。そのような人のすべての過去の事情を回想してみるとき、そのすべての事情が、頭を振って回想したくない過去をもったなら、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜があふれ、自分のすべての問題が理想に浸ることができるなら、死の恐怖も彼には慰労の一場面とし

て飾られるでしょう。


このようなことを見るとき、過去を回想する瞬間が、恐怖の瞬間でなく、他の何かを残したなら、彼の過去も死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。そうできる過去をもった人は、必ず民族が従ってくることができる因縁をもった人であり、世界万民がついてこざるを得ない因縁を残した人だと見ることができます。

では、それはどのような事情でしょうか。ある民族に、当面した問題を解決できない悲惨で非情な時があるとき、その問題を自分が責任をもって解決するために、命を懸けてそこにぶつかった時があったなら、それはその過ぎ去った時の中で忘れられない一時であるでしょう。

生涯路程で、自分のために死の場まで行くことより、兄弟なら兄弟、親族なら親族、他人なら他人のために、自分の命をみな捧げて彼らを救ったなら、彼らを救うためにぶつかった時があったなら、そのような事実が後の運命の場で、彼の心の線上に映像として現れ得るということになるでしょう。いくら自分を中心とした幸福な時があり、数多くの群衆から歓迎されて、自分が光栄にたたえられた聖なる時があったとしても、それはその瞬間には効力を発揮できないようになっています。 善であったか、真になったか、神様の前に一人立つことができたかという問題について見るとき、真と善は自分から始まり、自分に終わるのではありません。自分から始まり人に結果を結ばせるとか、人によって始まって自分に結果をもたらすことができてこそ、善になり得るのです。我々の原理で、天地のすべての存在は与えて受ける因縁を経なければならない、というのと同じです。

過去の生活が与える生活だったなら、死の道にも恐怖がないでしょう。人のためにすべてを与えて、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人によって流し、自分の命も人によって投入し、自分の願いも人によったものなので、自分の脈拍から流れ出るすべての生命力を引き集めて、人のために投入したというなら、その過去は輝き得る過

去でしょう。

そのような過去を懐かしがりながら、民族を思うようになるとき、希望の民族はこのような民族であるべきだという結論が出てくるでしょう。彼がそのような過去を懐かしがるようになるとき、人のために犠牲になり、希望する本然の善は、こうであるべきだという決定を下すことができるのです。「私がそれのために戦ってきた過去があるために、必然的にそうすることができる未来がなければならない」という内容をもって、神様の前に行くというとき、その内容は、自分の永遠の生命の基盤になります。

四百九十五
 
聖賢が行く道と、凡人が行く道は違います。聖賢は、歴史とともに生きようとし、世界とともに生きようとし、未来とともに生きようとした人です。しかし、凡人は、自分によって生きようとし、世界も自分によってあるようにしようとした人です。

二) 霊界に入るとき

我々人間が暮らす生活を見ると、生まれてみな同じ生活をします。転がっていっていますが、これがだんだん弱くなるか、だんだん

強くなるのでしょうか?

自分を知って、ある決心をしたのに、その決心したものが十年になり、二十年になり、三十年の生涯路程を経て、五十、六十、七十、八十年、老後の生活圏に入っていけばいくほど、だんだん小さくなります。これが問題です。作用すればだんだん小さくなるようになっています。自然力学世界でなされるのと同様に、ある力があれば、その力を中心として作用すれば、小さくなるのです。

それゆえ、入力、入ってくる力、電気で言えば入ってくる力が、どのようなモーターを回しても、作用をしていくときには小さくなるのです。ここには、必ず消耗が起きます。 このように見るとき、我々は一生の間、停止していることができません。一生の間動くのです。否応なしに動くのです。動くのに、正しく動くか、間違って動くか、いろいろあります。

では、人間が行くべき、自分が転がっていくべき方向とはどこでしょうか。どの方向に行くのでしょうか。それを知らずに転がっています。岩にぶつかるか、あるいは、ある下水のたまりに落ちるかもしれない立場で転がっていく生活をするというときに、それがどれほど危険千万なことか。どれほど不幸なことか。どれほど不安定なことか。これが問題です。

霊界に入るようになれば、今日我々人間たちが、空間と時間圏内の内容をもって測定したすべてのものでは、相関関係もなすことができません。その世界は、時空を超越した世界です。(一四一―二七〇)


霊界に行くようになればどうでしょうか。心霊基準があります。一度なら一度の限界内においての心霊基準があるために、一番初にあの世に行く時は、祝福された人たちも、ある時は分かれます。なぜでしょうか。心霊の程度が違うからです。(一六四―六二)


皆さんは、天国の何になるでしょうか。大使になりますか。その大使館で使いをする僕になりますか。大使にならなければなりません。大使になるのは易しくありません。死ぬことがあれば、彼が先に死ななければなりません。

私たちは、霊界があるということを知っています。この世界よりももっと確実なのです。その世界は、どんな世界でしょうか。神様が良いと言うことができる構想で、すべてが可能な世界です。(一〇七―五六)


皆さんは、天国に行く時に、礼物として持っていくものがあるでしょうか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずっと並んでいるのに、彼らの前に、皆さんが包んでいったふろしきを開いておくことができるでしょうか。

統一教会が何の苦労をし、皆さんが何の苦労をしましたか。それだけの苦労もせずに、どうして国のため、世界のためだと言いますか。「苦労をしたにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。

四百九十六
 
まだ行くべき道が残っています。霊界に行ってふろしきを開いておいて、「これは一生の間、私が準備した贈り物なので、お受けくださいませ」と言えなければならないのです。

女たちが嫁に行くときは、一包みずつ持っていきながら、天国に行くときは、ひょいひょいと体だけ行くことができますか。(三二―七一)


皆さん自身において、自主性をもたない人は、霊界に入れません。霊界にも霊界なりの世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、「そこで絶対的に必要な存在だ」と言うことができる自主性がなくては入れない所が、天国です。

家庭を中心として見るときも、氏族を中心として見るときも、やはり「自分が絶対的に必要だ」と言うことができる、そのような自主性がなければなりません。そこで自分が絶対的に必要だという自主性があってこそ、行くことができる所が天国です。(一九―四五)


霊界では、天地というもの、地球というものは、ほこりの一点のようなものです。霊界はどれほど広大か知れません。時空を超越した無限の世界です。そして、「ある時代に、これこれこういう心情をもって、地上で生まれて暮らして行った人がいれば、ここに直接出てきてみろ 7」と言えば、瞬く間に現れます。そのように、直感的感覚が現実化する世界です。

一度に百万名の宴会をすると言っても問題です。「私がこのような理想的な愛の喜びを、みなに分けたくて、晩餐会をもとうと思いますが、女はこのような服、男はこのような服を着て現れろ 7」と言えば、すぐに現れるのです。食事も、果物も問題ありません。瞬く間に願うとおりに現れます。そして、おなかがいっぱいになれば、残ったものはどのようになるのでしょうか。

そこでは炊事場もありません。そこでは、何の心配もする必要がありません。そこには食糧を作る工場もなく、自動車を造る工場もなく、何もありません。花は、いろいろな花があります。家も、愛の心情の基準に相応する、そのような家を自分が願うとおりに、いくらでも造ることができます。(二二四―一〇五)


凡人は過去を思えば暗黒ですが、聖人は過去を思えば光明です。その光明とは何でしょうか。それは、自分のためのものではなく、希望の民族を描き出すことができるのです。それゆえに希望の天国があるなら、その天国は彼らによって出発を見なければならないのです。それが天国です。

皆さんは、見るからに険しい環境を備えたこの堕落圏内で、皆さん自身が行く姿を図表を書いてみるようになるとき、一年はこのように行き、一年はあのように行くだろう、あるいは十年はこのように行き、十年はあのように行くだろうと言って、自分なりに一生の行路を計画しながら、高低を予測するでしょう。その高低が、自分を中心として高くなった、低くなったという人は、後の運命を迎えるようになるとき、自分のために生きながら、人を犠牲にしたそのすべてが、自分をがんじが

らめにするでしょう。(三一―三〇八)


四百九十七
 
皆さんが「七十になっても私はこのように行く」ということを一度考えてみましたか。「年が八十になって死ぬ瞬間にも、私はこのように行く」ということを考えてみましたか。死ぬ場でも、「私はこのように歴史を明らかにし、今までこの時代にこのようなことをし、これからもこのようなことをすることができる私が死ぬが、お前たちが代わりにしてくれ」と言える証拠物を提示できなければなりません。

それを言葉だけで言ってはいけません。彼が死んだときに人々が彼にしがみついて、涙を流して「そうだとも、そうだとも」と、そのように言えなければなりません。(七三― 一一六)


三) 霊界の手続きに必要な証明書


皆さんは、初にどこで証明書をもらってくるのでしょうか。「私はこのようになった。

このようなことをした。これが勝利の証明書

だ」と言い得る証明書をもらうべきでしょうか。

そのような証明書を自分自身が使うことはできません。では、誰が使うのでしょうか。初めには、サタンが使います。神様は使うことができません。サタンから、その勝利の証明書をもらわなければいけないのです。イエス様は、それはよく知っていらっしゃいます。それで、三年の公生涯路程の出発のときに、四十日間サタンを呼び出して証明書をもらう戦いをされました。それが三大試練でした。 イエス様が三大試練を勝利すると、サタンは「あなたは、民族的に勝利しています。ですから、私が証明書を書かざるを得ません。そうでなければ、私の活動舞台をすべて天の側にすぐに捧げなければならないためです」と言ったのです。

それゆえ、皆さんは、まずサタンに証明書をもらい、イエス様の証明書をもらわなければなりません。その次に、神様の証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要です。(一五―一二一)


十一 死んでみてこそはっきり分かる

皆さんが、祈祷で霊界と通じるようになれば、霊界では後孫たちを天の前に近く立てるために努力しているということを知るようになるでしょう。しかしここでは、先祖の悪口でも言って、自分だけよく生きようとします。

それゆえ、死んでみてこそ分かるのです。先生の言葉が合っているかいないか、死んでみれば分かります。しかし、死んで生き返ることができればいいですが、死ねば終わりです。ですから、人々は、統一教会の文先生が恐喝をしても、とてもすてきな恐喝をする、誰もできないとてもすてきな恐喝をすると言います。しかし、死んでみなさいというのです。先生が何か言うことがなくて、このようなことを言っているのではありません。(二二―三三八)

神様の高の愛は、どこで発見するでしょうか。王宮ではありません。死んでいくあの地獄のどん底に、血を流して倒れていくその中に、神様の 高の愛を占領し得る道があります。

先生が共産地下の監獄にいるとき、言葉を話さなくても霊界から伝道しました。それで、先生のために死を覚悟して、どんなことでもできる弟子たちをもっていました。私が世の中の悪党なら、監獄を爆破して出てくることができる道が、いくらでもあったというのです。そのような立場に神様が共にするのです。

(九一―一七五)

四百九十八
 

十二 「ため」に生きれば神様の近くへ行く

霊界は三段階になっています。霊界では、誰が高い所に上がるのでしょうか。より「ため」にした人です。

自分のためにした人は、反対の世界が繰り広げられます。それも同様に、三段階です。「ふん 7 我々はお前のようなのは嫌だ 7」と反対するのです。自分のために生きた人は、全部反対し、人のために生きた人は、全部歓迎します。

地上に生きて霊界に行った人たちで、高い所に行く人たちは、全部人のためにした人たちです。世界四十カ国なら四十カ国を回りながら、自分の母と家庭を拡大したような心情で「ため」に生きた人たち、世界の人々を全部悪から救ってあげる聖人の心をもった人たちが、高い所に行くのです。

それで先生は、「私は一人の男として、歴史時代の孝行者を代表した総大将であり、愛国者の総大将であり、聖人の総大将だ。神様の息子という名前をつけたすべての人たちは失敗したが、私は勝利した息子として生まれた」と考えます。そのように言えるようにしてくれるものは、たった一つありますが、それは何でしょうか。簡単です。絶対「ため」に生きることです。与えて忘れ、「ため」にして忘れてしまって生きる人だけが、その世界を消化することができます。

皆さんが天国に行く輩か、地獄に行く輩か、はっきり知るべきです。レバレンド・ムーンが、ただ考えて言う言葉ではありません。霊界をよく知っている人です。

死を避けることができる人は一人もいません。死を避けることはできないのです。自分のために生きた人は、地獄に行くのであり、人のために生きた人は、天国に行くのです。この二つの世界が、死から分かれるのです。

(二〇三―一〇〇)


これからどんなことが起こるかというと、自分の財産を天のものとして捧げるための仕事が繰り広げられます。

「ため」に生きなければなりません。全体のために、より大きいことのために生きなさいというのです。世界のために、神様のために、人類を解放するために生きなさいというのです。自分によって、新しい血筋に転換させなければなりません。

血筋が引っ掛かっているために、今まで神様が無力な神様になりました。今は、転換時期に入ってきたので、自由天地が訪ねてくるのを知って、皆さんが善の種を植えなければなりません。自分がどのようにすべきか、よく分からなければなりません。これから、メシヤの一族、天国の国民、永遠の天国とつながり得る、永生をもった群れになるべきです。

(二〇三―一八七)

これから何の競争が起こるでしょうか。互いが「ため」にしようとすることです。なぜでしょうか。天国では「ため」にする人が高い位置に行くために、その高い人のために自分がなれば、その人に乗って飛躍できるからです。ケープ・ケネディ(現ケープ・カナベラル)に行けば、人工衛星の発射台がありますが、そこで人工衛星が発射されて空に飛んでいくのと同様に、そのようになるのです。 その人のためにすることは、神様が創造して相対を造ったのと同じであるために、その人の愛の対象圏に立つというのです。誰かについていって、「ため」にするのも、みなそのためです。



四百九十九



先生のためにするのは、先生を利用しようしてしまおうということです。先生の愛の対象になって、飛躍して、神様を占領しようというのです。

人工衛星が出てきたのは、今日信仰者たちが跳躍して、天国にどのように行き、何千里、何万里をどのように行くかということを表示するものです。

どうせ、人間は本然の故郷に帰るようになっています。世の中の故郷もあるでしょうが、それよりも本然の故郷に、永遠の故郷に帰るようになるとき、そこで歓迎され得る内容を備えられなかった人は、悲惨なのです。グループに入れないということが、どれほど途方もないことかが分かるでしょう。(二一三― 一九四)


今までは家庭がありません。しかし、今から家庭の組織が始まるのです。全部分かれていったのです。なぜでしょうか。文化背景が異なり、心情的背景が異なり、暮らす風習が全部異なるので、みな分かれたのです。

ですから、家庭とは何かというと、新しい風習と新しい文化をつくって、習慣化する所です。しかし、家庭がないから、社会があり得ません。一国の社会がありません。その次には国がなく、世界がないのです。

それゆえ、今主流を成しているのが宗教です。仏教圏とかキリスト教圏とか言って、ここにとどまるのです。他の国の人同士は共にいられませんが、宗教圏は共にとどまることができるのです。宗教圏は、一つの世界を願ってきて、一つの神を祭ってきたために、共にとどまることができるのです。しかし、すべての宗教が神様の圏に属しているのに反して、すべての国は神様の圏に属していないのです。

統一教会から、個人が生じ、家庭が生じ、氏族的メシヤ、国家的メシヤ、世界的メシヤが出てくるのです。個人が行く道が家庭につながり、家庭が行く道は氏族が行く道につな

がるのです。

では霊界は、どんな世の中なのでしょうか。真の愛を中心として、他の人のために生きる所が霊界です。自分のために生きるのではなく、全体のために生きる所です。ここの地上でも、一〇〇パーセント人のためにする人は、

「私を踏み越えて行け 7」と言うのです。いくらアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領より、その国の民のためにもっとする人がいるなら、その人が大統領を踏み越えていってもみな歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを取るようになるときは、全部怨讐になるのです。

霊界に行っても同じです。より大きなことのために生きるというときは、自然に通過するのです。より大きなことのためになれば、自然に通ずるのです。ですから、世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれるのです。韓国も同じです。すべての国が含まれるのです。

では、行くのにおいて、家庭もそのまま通り過ぎて、すべてが歓迎し得るその方向の内容とは何でしょうか。それは「ため」に行く、愛の道しかありません。

500 * 五百
 
この二つは、地上のサタン世界でも妨げられません。この二つは、サタン世界も絶対順応しなければならないのです。いくら悪徳な父母、いくら悪い者でも、真の愛をもって自分のために与えようとする人は、すべてが歓迎するのです。(二一五|一七四)


十三 審 判

皆さんに霊界の大審判の法廷に出廷しろという命令が下るだろう、ということを考えてみましたか。いつかは大審判の法廷に出廷しろという命令が下るのです。

その法廷を管理して支配するためには、判事がいなければならず、検事がいなければならず、弁護士がいなければなりません。では、その判事は誰で、検事は誰で、弁護士は誰でしょうか。判事は神様であり、検事はサタンであり、弁護士はイエス様です。(一七―一七七)


第三節 高い霊界に行くには 一 宗教人たちの標準は霊界

宗教を信じる人たちが、信じない人と違うこととは何でしょうか。彼らは一生の間、霊界を標準として信じます。宗教というものは、神様に会って生活しようとするところから始まるのです。

すべての教祖たちが、残していった経書の内容は、人間の暮らしを紹介したものではありませんでした。これは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がおられる所を中心として、我々が関係を結ぶことができる内容を教えてくれたのです。

(一八七―二八六)


二 霊界での所有権決定基準 昔、我々は、麦飯もなく、食べられずに冷たい部屋で震えていた、そのような日が多かったのです。かえって、そのような日が神様の前に近かったのです。その時は、国を心配し、世界を心配しました。すべてが大きくなって、すべての基盤が拡大されるに従って、「私」という人を、無数の人が、どのようにすれば喜ぶのかを考えたのです。

知識が多くても、権勢があっても、お金をもったとしても、そのようなものはみな流れていくのです。死ぬとき、みな置いて行くのです。もって行くべきものは、神様の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したのです。人類を愛し、神様を愛したことが後に残って、あの世の所有権決定の基準になるのです。(一二七―三八)


復帰の道には、値引きというものはありません。我々がこの世に来るときは、一人で来ましたが、行くときは一人では行けないのです。多くの人たちを連れて行かなければなりません。(一四―一〇五)


皆さんが霊界に行けば、伝道した人の数によって、皆さんの霊界の所有権が決定されます。自分は責任者だった、という看板を持っていくのではありませ。(一二五―一七)


三 人を愛すべし

霊界では、神様の愛がなければ食べられません。食べる権利がないのです。地獄は見ながらも食べることができない所であり、知りながらも行うことができない所です。

五百一
 
それゆえ、神様の愛を中心として、霊界と肉界が一つになり得る、このような価値的な中心を立てておいて、神様の愛を中心として、地上で霊肉が一つになった天国生活をした人以外には、永遠の理想的世界をもつことができないのであり、天国を所有することができません。(九一―一七三)


霊界に行って、誇るべきこととは何でしょうか。先生は霊界に行ったのですが、「お前は地上で何をしてきたか」と神様が尋ねるならば、「お金をたくさん使ってきました」と言うことが誇りではありません。どれほど人を恋しがり、愛して生きたかということが誇りです。(一八七―三一〇)


四 神様をもっと愛すべし

あの世で必要なことは、ほかでもありません。世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子、娘よりも、神様をもっと愛さなければなりません。それが原則です。

あの世に行けば、金もうけをしますか、億万年眠りますか。億万年眠るのも、金もうけも必要ありません。自分の程度によって、食べることはいつでもできます。(一二六―一四二)


五 家庭の基台を成すべし

なぜ息子、娘がいなければいけないのでしょうか。必ず愛がなければなりません。神様がいなければなりませんし、夫婦がいなければならないし、男女がいなければなりません。その次には、血が混合しなければなりません。神様の血、愛の血、縦的な血、横的な血が混合して生まれたのが後孫です。それゆえ、後孫をもたなくなれば、あの世に行っても、遊んで休むことができる場がないのです。

夫妻が八十になって、九十になるまで二人だけで、額を突き合わせて暮らしながら「幸福だ」と言いますか。おもしろく暮らすことはできません。息子の嫁がいなければならず、孫がいなければなりません。おじいさん、おばあさんは、孫を連れていって抱かせてあげれば、それ以上の幸福はありません。孫をもてなかった人は、霊界に行って天地の調和を成せず、東西南北に拍子を合わせられないのです。(一九七―三二)


仕事をしてから「ああ、大変だ」という考えをする余地がありません。「ああ、大変だ。眠れなくて疲れてだるい」という考える余地がないのです。そうすれば、霊界が開かれます。霊界が見えるのです。皆さんが目を開けて霊界を見、霊的に御飯を食べれば、一日御飯を食べなくてもおなかがすかないのです。そのようなことが起こります。体が軽く、一日中走っても疲れないのです。

そのようなことを体験すれば、世の中がおもしろいのです。横的に、息子、娘を産んでそうするために必要であって、事実上世の中にいる必要がないのです。あの世に家庭を連れて入らなければならないために、仕方なくこうしているのです。(九一―一七六)


六 心情圏の伝統を中心として暮らすべし

五百二
 
霊界で宗教が必要でしょうか。必要ではありません。そこでは長老派とか、カトリックとか言う必要はありません。神様との生活圏内に入るのです。ですから、宗教は必要ありません。 では、何が必要でしょうか。貴いものが必要ですが、その貴いものとは何でしょうか。神様の愛を受けられることが貴いのです。 今日、統一教会では、心情圏ということを言いますが、心情圏の基地とはどこでしょうか。神様を中心とした、真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛が普遍化し得る世界が、心情圏の世界です。

そのような本然の世界では、夫婦を主にするのではありません。天地、天宙を主にした夫婦の愛なのです。それゆえ、天宙をもっと重要視するのです。また、夫婦の愛をなしますが、世界を主にした夫婦の愛をなすべきです。 ですから、その世界に合格し得る愛の基盤をどこで築くか、どこで探すかということが、この上なく深刻な問題です。それゆえ、今日統一教会は、この世でそれを築こうとするのです。数多くの宗教、この世で貴いという、数多くのその何かと異なり、世の中で初めてこのようなことを始めた所が、統一教会です。ここでは何を教えてくれるのでしょうか。心情圏の世界における合格者になることを教えるのです。

では、あの世に行くようになれば、民族を愛する数多くの人、数多くの夫婦、愛国者、忠臣、烈女、聖人たちが、みないるでしょう。しかし神様の本然の心情圏の伝統を中心として生きた人は、一人もいません。(一二六― 一三九)


七 あの世にパスするチケット

今からでも、何かのことを出発させるときは、神様を中心として出発すべきです。これが原則です。霊界に行けば、そのような原則にどれほど同化して、どれほど一致するかということが、地獄から中間霊界、楽園、天国にまで、全部つながるのです。

そうかといって、世界的に有名な学者だからと言って、霊界に行けば、天国に行けるのでしょうか。行けないのです。それゆえ、宗教界は、すべてを捨てて行けと教えるのです。みな捨てて行かなければならないのです。そのような論理が成立します。

では、何が一番貴いものでしょうか。天のためにどれほど苦痛を受け、世界のためにどれほど苦痛を受け、涙を流したかということが、あの世にパスできるチケットです。

それを神様の立場から見れば、神様は、うれしい神様でしょうか。うれしい神様だと思う宗教は、頭もなく、ただ常識外れの輩です。一番悲しい方が神様なのです。その神様が、今まで涙を流し、苦痛を受けたなら、それは神様自身のためではありません。神様が造ったこの宇宙のために、堕落した人類のために、今も涙を流しているということです。なぜそうなのでしょうか。心情の神様であるためで

す。(九七―一七二)


第三章 霊 界第一節 肉身をもって体恤可能な霊界一 霊界と時

今我々が、どの段階まで来たかというと、霊界と肉界を世界的舞台でつなげ得る段階に

来たのです。

五百三
 
霊界と肉界が世界的に一つになり得る場は、静かな場ではなく、世界が揺れ動く場、天地が揺れ動く場です。世の中はできないようにし、天はしようとし、二つが粘り強く戦いをして、天が勝つことによってできるのです。それがいつかというと、ワシントン大会の時なのです。

一九七六年を起点に、サタン世界が神様に対して讒訴できなくなったのです。サタンは直接神様を讒訴できないのです。霊界に行った先祖たちを讒訴することはあっても、神様を讒訴することはできません。

そして、霊界のすべての霊人たちを動員して、地上にいるサタン勢力を追い出すのです。それで今まで、サタンがやった以上の善なることをできる基盤が形成されるのです。

「統一教会を信じろ」と教えてくれるのです。イエス様が現れて、孔子が現れて、釈迦牟尼が現れて、マホメットが現れて、自分の先祖が現れて、統一教会を信じなければ全部霊的に制裁をし、霊的に罰を与えながら追い込むのです。

霊界が今まで分かれていたのを全部収拾して、今日世界が分かれたのを全部心情的に結んでいくのです。超民族的基準を中心として、ここに世界的代表を集めて、心情的に一つになるこのような運動をするために、霊界も一つになって接触するようになれば、ここから光を発して世界的な運動が大々的に繰り広げられます。

今までは、西洋の霊界と東洋の霊界は互いに異なっていました。それを、どのようにして一つに結ぶことができたのでしょうか。一つの愛で結ぶことができました。神様の愛を中心として、東洋、西洋の人々を統一教会の合同結婚式を通じて、民族として結んできました。それで、個人的基準、家庭的基準、氏族的基準、民族的基準、国家的基準、世界的基準をみな築いておきました。天国、霊界は、永遠に我々にかかっているのです。(九一― 一六二)

二 これからの時代

近、統一教会に新しく入ってきた食口たちを見ると、霊的に先生と出会い、教えを受けて来た人たちが多いのです。そのような人たちは遠くない将来に、一国の王になることもでき、一国の大統領になることもできるのです。いつ、どのようになるか分からないのです。全世界的にそのような人たちがたくさんいるのです。

これから、アメリカのような国には、一人で歩きながらぶつぶつ話す人が絶えず増えることでしょう。

これから全霊界が、地球上に襲撃して入ってくるでしょう。そのようになれば、これを誰が総指揮しますか。これは先生の責任です。

(六七―七七)


皆さんはこれからいい加減にしては、先生の前に絶対に現れることができないない時が来ます。その時になって、先生が霊界の門をすっかり開くでしょう。門の前に来ていて、そのような者が現れれば「こいつ、何しに来た」と言いながら、門前から追い出してしまうのです。これからは専門的な面を中心として、世界を収拾する時に入るでしょう。

五百四
 
今世界には、どんな人たちがいるのでしょうか。イエス様の時と同様の人たちが、世界にいるのです。復帰時代であるからには、そうなのです。先生がまだ、そのようなことを言ってはいけないために、言わないのです。 神様はさせませんが、先生の代わりに、ありとあらゆることをする人たちが世界にはいます。空中を飛ぶ人もいるし、水の上を歩き回る人たちもいるし、千里、万里を瞬く間に行く人が、今いくらでもいるのです。間もなく先生がそのような人たちを、あのヒマラヤ山脈から、修行の世界から呼んでくる時が来るでしょう。

そのようになるのに、世界が統一されますか、されませんか。神様の全権が平面化して、再創造歴史に、理想的な愛にこたえられない一切の与件は全部破綻して、新しい世界に入るでしょう。

これが先生の見る、今後における超感覚時代の世界観です。愛だけが超感覚時代の世界観をなすことができるのです。超感覚時代で愛するようになれば、ただしがみついて離すまいとします。神経線を越えようと、それゆえ、神様の愛だけが、それを平面的に歓迎し得る世界時代に入るのです。


先生は祈る中で、そのようなことを知っています。皆さんの知らない、そのような何かがあるのです。皆さんに話をしないから、先生は何も知らない人のようですが、みな知っているのです。今がどんな時かというと、実体の体で霊界を完全に支配する時です。

先生が霊界の内容をもって、真理と体をもったために、サタンも屈服しなければならず、天使世界も完全に屈服しなければなりません。それゆえ、仏教に精通した人とか、キリスト教に精通した人たちは、全部先生の前に屈服しなければなりません。

霊通する人たちが、先生が「死ね」と言えば死ぬことができてこそ、実体完成圏をなして、地上天国を開門するのです。

「そのような世界になった」と思ったとき、仕事をする時がありますか。その時、先生の考えを知ったなら、皆さんはあきれかえるでしょう。「どうして、あのようになったか。どうして私があのようにしたか」と、そういう時が来るのです。冗談ではありません。恐喝、脅迫ではないのです。(六〇―一九四)


三 霊的体験も必要

皆さんは涙を流しながら、「私はこの顔では、そのまま帰れません。死ぬことがあっても、帰れません。死ぬよりもっと悲惨です」と、そのような祈祷をして回らなければなりません。皆さんが祈祷しながら霊的体験をたくさんすれば、復活するのです。

そう思いながら、「ああ 7 自分はアメリカ人として生まれなくて、本当に幸いだ」と思うのです。今、アメリカに来て仕事をしながら感謝するのです。人間の習慣は実に恐ろしいのです。ですから、皆さんもその場に行くには、苦労をしなければならないのです。苦労を通じなければ、行くべき道がないという結論を下すことができるのです。

皆さんが考えに先立って、いつもそのような心情で立ち上がるようになれば、神様が役事するのです。皆さんが言葉を話して教えるすべての言葉の前に、神様の心情を感じるべきです。言葉のあとに立つのではなく、言葉の前に神様の心情が先立たなければなりません。それゆえ、いつも謙遜でなければならないのです。

ですから、自分は言うことができずに、後ろに行かなければなりません。しかし、見れば神様の心情が前にあるのを感じるのです。それは何ですか。自分を絶えず引いていくのです。そのような場に行けば、多くの群衆が集まっても、みな教育することができるのです。

五百五
 
そこでは何だか分からずに、全部教えてくれます。それでも自分が言う声だから、自分の耳にも聞こえます。自分が話す声を聞けば、不思議なのです。その境地に至れば、言いながらジェスチャーをしても実に自然なのです。どんな表情をしても、それがみな自然なのです。ぎこちなくないのです。そのようなことを感じながら働いてこそ、生命の運動が繰り広げられるのです。(九六―一六八)


霊的世界を体験するということは、四次元の世界に通じるということです。また、そうするときに、何千年前に生きて死んだ先知先烈たちも、今日の自分と因縁を結んで対話することもでき、相談もするというのです。すなわち、今日、実際生活的な時間圏内で、自分が経験することができ、また肌で感じることができるのです。(四―二二五)


四 霊的体恤の過程

我々が信仰の主体である神様を敬うその立場に立っているとしても、それは曖昧です。では、それ自体をどこから探すべきでしょうか。

主体は確定していますが、自分は感じることができないのです。我々が五官で分かるように、そうだということを確定づけることができないのです。これをどこから調べることができるかという問題を考えるとき、主体から調べることはできません。神様から調べることはできないのです。これはどこまでも、自分から調べなければなりません。

自分という存在には、体と心があります。体と心があるのに、体を中心としてはこれを調べることができません。心を中心として調べなければならないのです。 今日、堕落した我々人間たちを見るとき、その心自体が千人なら千人、万人なら万人が全部同じでしょうか。その根本は同じかもしれませんが、心自体は素性に従って違うのです。

全部が同じではないのです。それは、なぜそうなのでしょうか。顔が違い、趣味が違い、我々の感じる感情が違うのと同様に、その度数を描くことができる平行線と垂直線が違うのです。その度数を合わせなければならないというのです。

そうするには、どのようにすべきでしょうか。天が主体なら、その主体の前に自分が対象的な立場に立つのです。主体となる神様は、人間に対象として感応することができる基礎を必ず与えたために、平面的な心の根本の基準の前に垂直に向かう、そのような方向がなければなりません。必ずあるということです。

我々が水平線を見るようになるなら、これは平面になっていますが、これが垂直に立つようになれば、この垂直線の基準が全部違うのです。では、そのゼロ点基準をどのように合わせるかというのです。こちらに行けば、必ず反対になるために、そのゼロ点を合わせなければなりません。皆さんが発電所に行ってみれば、メーター器がたくさんあります。メーター器にゼロ点基準のようなものがあって、それを中心としてすべての加減の調整をして、その方向というか、力というか、量の対比をつかむのと同様に、そのようなゼロ点基準がなければならないのです。


五百六
 
では、ゼロ点基準とは、どんな位置でしょうか。ありながらもないようであり、ないながらもあるような位置です。その位置があるのです。それゆえ、今日座禅をする人たちが、「無我の境地」とかという言葉を使いますが、それもやはりそのような境地なのです。そのような霊的基準に接近することができる自分にならなければなりません。そのような基準になれば、必ず自己の水平線基準が反応することができる、そのような何かがあります。 それゆえ、心も見てみると、心の門があります。心門と言います。そうでありながら、その門がいつも一面でだけ開かれているのではなく、心自体が回っているために、その門も移動するのです。それゆえ、この門を通らずには、プラスならプラスを中心として、マイナスの立場で関係を結ぶことができないのです。人にはこのような心門があるのです。 皆さんが祈祷をしてみれば、時間によって感じが違います。午前一時に祈祷するのと、三時に祈祷するのとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。神秘的な深い境地に入って祈祷してみれば、祈祷する時間によって違うのです。感じが違うのです。朝に感じるのと、真昼に感じるのと、夕方に感じるのと、夜に感じるのと、すべて違います。

そのように、我々の心の状態からも、感じるその基準が違うのです。我々の肉体的な感情が、四季の季節の変化によってその感じる感度が変わるのと同様に、心の世界もそうなのです。それゆえ、祈祷をするにも、どんな時間にうまくいくかを知るべきです。それはどういうことかというと、神様との感応の度が近いのです。うまくいくというそこに、だんだん入るようになれば、門に出会うようになるのです。神様の心の門と、人間の心の門がぴったりと合って、ある基準まで合わせて入るようになる場合には、神様が感じることを体恤する道が生じるのです。 皆さんがこのような場に入るためには、どのようにすべきでしょうか。心を磨かなければなりません。神様のみ旨を中心として広がった宗教もありますが、サタンの意を中心として広がった宗教もあります。これらが全部混ざっているために、それをより分けて行くということは、限りなく難しいのです。

このような結果と同様に、我々の心の世界も同じなのです。心も、善の心があるのと同時に、悪の心もあります。では、皆さん自身の心が「ああ 7 私は善だ」と、このように考えていますが、そのような心自体も善ではありません。堕落の結果によって成されたために、悪の心の圏、悪なるサタン圏に感染した心をもった人もいて、善の圏内の心をもった人もいます。千態万状の差で広がるのです。

それゆえ、信仰生活で一番重要なこととは何でしょうか。心の門をどのように合わせるかということが、も重要な問題です。それゆえ、皆さんが信仰生活でいつも注意すべきことは、心の門が開く時を知って、天の心の門とどのように合わせるかということです。それは、皆さんがいつも準備しなければならなりません。随時、探して合わせる生活態度が必要です。

それゆえ、いつも深度をわきまえていきながら、心の門を開くようにして、そうしながら天が向かう門とどのように一致化させるかという問題が、信仰生活でも貴いと思います。

だんだん、この相対的立場に立てば、どんな現象が起きるでしょうか。今まで感じたことのない、新しい立体的な感じが来るのです。

それが、何だか分からずに来るのです。

五百七
 
昔には、冬のような気分だけ感じたのに、秋のような気分を感じるようになり、秋のような気分だけではなく、夏のような気分も感じられ、春のような気分が感じられるのです。なぜそうなのでしょうか。この宇宙は回っています。心も回ります。それゆえ、回りながら春夏秋冬の変化を引き起こすのと同様に、我々の心の世界も、回りながらそのように変化する感じを感じるようになっています。 それが一年について見れば、春夏秋冬があり、一年を縮小したのが一日ですが、一日にも春夏秋冬があるのです。朝は春に該当し、昼は夏に該当し、夕方は秋に該当し、夜は冬に該当するのです。

このように、春夏秋冬の季節的形態が、一日の間に繰り広げられているのです。また、春に該当する朝にも、そうです。そこでも、春のようなものを感じ、夏のようなものを感じ、秋のようなものを感じ、冬のようなものを感じることができます。大きなものは大きなものを中心として単位の形態を備えていますが、小さいものも相対的なその単位の形態を備えているのです。

我々の心もそれと同様です。それゆえ、心に感じられる感じがいつも同じではないということです。季節によって自分が春だというのを知ればいいのですが、分からないのです。秋だということが分からないのです。これを多くの体験を通じて、多くの祈祷生活を通じて「あ 7 今、こんな時に処しているな」ということを、わきまえるすべを知らなければなりません。

そのような境地に入るようになれば、どんな現象が起こるのでしょうか。我々の言葉に暗示という言葉あります。それはどういう言葉でしょうか。自分が道を何気なく行くのに、ある良い家の塀にとどまっていた鳥が飛んでいくのを見たとき、鳥は飛んでいってしまうのですが、ばたばたと鳥が飛んでいくそれ自体を通じて、内的に何かを教えてくれることが繰り広げられるようになるのです。

実際の生活において、そのような形態が展開され始めるのです。暗示的条件が多くなるのです。ある人が偶然に言ったことに何かを悟らされるようになります。このような事実が、だんだん多くなるのです。


この段階を過ぎるようになれば、どんな形態が起こるでしょうか。夢のお告げのようなことを体験するようになります。夢の中で起こることですが、夢も深い眠りの中での夢ではありません。パウロも、夢うつつの間に第三の天を体験しました。


五百八
 
そのようなことを、何気なしに流して過ごすなというのです。それを総合して、どんな方向の因縁を自分につぐために現れるのかということを、科学的な面でデータを出せというのです。必ずその結果が現れます。それゆえ、皆さんが忘れることができない夢のお告げのようなことは、一〇〇パーセント的中するようになります。そんな体験があるでしょう。 夢うつつの間に、ある人なら人、物なら物が因縁づけられたので、それが事実の中で実際につながるのです。誰かが夢の中で誰かと歌っているのに、その歌が夢の中の歌ではなく、そばで誰かが歌う歌が正にその歌だった、このようなことが起こるのです。これはどういうことを言うのかというと、霊的次元において、心の状態が共鳴することができる圏内に入ることを言います。音叉というものがあります。共鳴することができる圏内に入ることを言います。このようなことを、限りなく貴く思わなければなりません。 そのようになれば、どうなるでしょうか。神様がいるなら、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れるのです。皆さんが、そんなことを感じられないのは、なぜでしょうか。心がまだ存在を確立できなかっためであり、体に引きずり回される人になったからです。その心が存在を確立して、また他の一つの主体だという、そのような人格的な次元の立場が形成されれば、それは必ず違ってきます。

祈祷をして次元が高くなれば、心と話すのです。共鳴する現象が起こるのです。これは次元の高いことですが、そのようになれば、心の中で言うことを自分が聞くのです。そのような境地で発展していくのです。初の段階では、暗示のような事実が皆さんの生活で起こります。

それゆえ、信仰者はこのような膨大な資料を収集しなければなりません。接する人がいれば、何気なく接するなというのです。彼が自分に何をもたらしてくれるのか、いつもおなかのすいた者の心情になるべきです。彼が自分に何をもたらしてくれるかと、そのように探す心がなければなりません。結局、彼自体は何でしょうか。自分がいつも主体になるとか、対象にならなければなりません。確定的な主体であり、確定的な対象の立場にいるという事実を言うのです。

それゆえ、主体となり得る存在が現れて、対象的な存在が現れれば、一遍に分かります。自分が誰か伝道する人がいれば、一遍に分かるのです。むしょうにただ心がうれしくて行くのです。それを「心波」と言います。心の波長があるのです。そんなことがあるのではないですか。皆さんを見れば、肉の商売をする人は、肉屋のにおいがして、布(生地)の商売をする人は、布のにおいがします。皆さんの体からもにおいがするのと同様に、心のにおいがするのです。その心のにおいをかぐのです。そんな形態が繰り広げられるのです。 我々の体には、触覚のようなものがあって、全部接触します。それで、見えない電波のようなものを発射して、対象を探しています。 それゆえ、信仰する人の態度は、全部自分と関係していると考えなければなりません。なぜそうすべきなのでしょうか。堕落によって、すべての関係を失ってしまったのです。自然に対する関係、本然の人間に対する関係、神様に対する関係を、全部切断してしまったのが堕落です。切断した関係の世界を、我々が再び接続させるためには、いつも自分自体が接続させることのできる作用をしなければなりません。そのような作用をしてこそ関係が開拓されるのであって、接続しようとする態度をもたなければ開拓されません。

皆さん全部が何かを探す心がなければなりません。皆さんが朝に祈祷し終えると、「あ、きょうは良いことがある」というのが分からなければなりません。「良いことがあるから、ただ良いことが現れるだろう」と、これではいけません。それを探さなければなりません。このような生活態度が、皆さんの信仰生活にならなければなりません。それゆえ、体恤と実践ということは、生命の因縁をもたらすというのです。夢うつつの中に、このような事実が繰り広げられます。

五百九
 
その段階が高くなれば、どのようなことが起こるでしょうか。啓示とか指示とか、このようなことが起こります。啓示というものを、我々は分析しなければなりません。指示というものは、直接教えてくれるものですが、啓示は違います。それゆえ、問題が起こるのです。これは、必ず解釈をしなければなりません。何かを教えてくれるには、声で聞かせてくれたりもしますが、幻想でも見せてくれます。良い春の日を迎えて、鹿が一対、小川のほとりで水を飲みながら、遠い山を眺める、このような幻想は、限りなく幸福な希望を象徴するのです。そのように、いろいろな幻想が繰り広げられるのです。

そのようなことは、偶然の事実ではありません。自分の心の畑を啓発するための、天の役事です。なぜそうすべきなのでしょうか。我々の心の畑というものが、ガラス板のように平らになっていないのです。でこぼこしているのです。形は水平のような面をもちましたが、それ自体はでこぼこなのです。でこぼこしたここに、天の感度が反射して来るようになると、光の屈折と同様に、入ってくる方向と反対の方向に反射して出ていくのです。それで、全部が違うのです。部分部分を啓発しようとするので、そのような役事をするのです。

啓示の段階を過ぎるようになれば、次は黙示の段階です。一日中霊界に入って体験をするとか、そういうものです。そのような世界にまでつながるのです。神様に対する、生活的な感情圏まで到達することができます。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなくては、偉大な天のみ旨の結果世界を、我々の生活の場、生活舞台に適用させることはできません。それゆえ、体験をもたない信仰者は、信じることができません。体恤的な信仰が高貴なために、啓発していかなければなりません。 我々食口たちは、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が電気作用と同様に入ってきます。皆さんが体験をしてみれば分かりますが、高圧電気に接したような、我々の意識より強い力が入ってきます。超自然的な、超人的な感情が訪ねて入るようになれば、我々の体が、堕落性をもっているために、必ず反発するようになります。神様の神性と反発するようになります。 それゆえ、堕落した人間の前に、どんな神の性稟が強力に入ってきても、自然的に純化され得る立場になれないのです。これが入ってくるには、プラス・マイナスのように、音波も強弱で伝播されていくのと同様に、必ずその力も一遍にすっと入ってくるのではありません。強く入ってきたり、弱く入ってきたり、こうしながら開拓して入ってくるのです。そこに震動が起こり、自分の意識がなくなり、霊的な力が強く作用する現象が起こるのです。

それが役事として現れるのです。

このような役事を絶えずするようになれば、どうなるでしょうか。この体が、肉性というものが、堕落性が純化され、自然に一〇〇パーセント受け入れることができるようになるのです。そのようになれば、そのような現象がなくても、役事以上の立場に入って、天が教えてくれることをみな受けながら、寸分も違わないのです。このような現象の過程を経て、純化される立場まで上がらなければなりません。その過程で、啓示とか指示とかいう過程を皆さんは経なければなりません。

五百十
 
皆さんがそのような体恤段階に入れば、皆さんの心が皆さんに命令するのです。誰かにこのように話をしようとするのに、言葉が話せないようにするのです。あるいは、自分が良い言葉でその人のために言わなければならないのに、しかる言葉ばかりが出てくるのです。このような現象が起こるのです。このように理解できない現象が時々起こるために、これを調整するすべを知らなければなりません。過ったなら、狂人として扱われやすいために、それを調整するすべを知らなければなりません。

このような体恤的信仰を、必ずもたなければなりません。心で感じたことを、体恤したことをもって、実験を通じた体験の立場に入るようになれば、その人は強くなるのです。誰の言葉も聞かないのです。体恤と実践、これは我々の信仰生活にも必要なことです。 そのような境地に入るには、どのようにすべきでしょうか。大概、我々人間は二つの種類に分けられます。一つは知性的な人で、真理で何かを探求して、道理に合えば認めて、道理に合わなければ否定するタイプの人です。また他の一つは、そのような道理よりは、思いで把握する人です。それを我々統一教会の術語で言えば、「知的だ」、「霊的だ」と言うのです。霊的な人は、内的な面から感じて、外的に作用しようとする人であり、知的な人は、外的な面から感じて、内的に適用しようとする人です。一つは出ていき、もう一つは入ってくるのです。この二つの種類があります。

そのような立場にあるために、知性的な人は、大体祈祷を嫌います。それを考えると、迷信のようであり、信ずることができず、自分自体が否定されるような感じがするのです。これは、知性的な人です。理論を明らかにして、何かを探そうとする人、そのような人がいるのと同時に、生まれつき「神様 7」という言葉が、とても好きな人がいます。説明する前に無条件に喜ぶのです。「お父様」と言うようになれば、御飯を食べなくてもいいというのです。そのような人がいます。

大抵霊的な運動において、革命的な運動をすることができるのは、どのような人でしょうか。知性的な人はできません。大抵信仰世界で偉大なことをする人は、知的な人ではなく、無学で愚鈍な人です。そのような人は、霊的な人です。

世の中がどうであれ、感じるままにするのです。神様が「せよ」と言ったからするのです。やってみると、それが実践する環境に伯仲する、そのようなことが起こるのです。これによって、偉大な人物として登場することができるということも起きるのです。パウロのような人も、知性的な人です。しかし、ダマスコで天の霊的な雷に一度打たれてから、気が狂ってしまったのです。ですから、外的に探求することよりも、内的に爆発的な道があるということを感じたために、全部否定して尊重視したのです。そこから、新しいキリスト教の革命の旗手になったのです。

それゆえ、理性的に問いただす人は、宗教的な心霊世界では指導者になれません。

我々人間には、二種類がありますが、自分はどんなタイプの人かということを知るべきです。大抵霊的に感じる人は、霊的には大きいのですが、真理の面では大きくありません。初めは太いのですが、細くとがれば始終如一(注:始めから終わりまで同じ調子であること)でないために、永遠に行けないのです。ある時には、必ず転がり落ちます。また、真理は大きくても、霊的な面が小さければ、永遠に行けません。それゆえ我々は、これを調整する生活をしなければなりません。

五百十一
 
祈祷と真理、心霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは何かというと、平行をつくって和する場に入れというのです。我々人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立つべきです。真理の世界の中央に立って、調整し得る人間にならなければなりません。そのような人間にならなくては、完全な立場に立つことはできないのです。(七六―一二五)


五 霊的感覚の発展方法

ある人を恋しがる心情をもっていれば、その人に接することができないように塀で妨げておいても、その塀を乗り越えるということが起こります。

先生が口をつぐんでいても、そのようなことが起こります。霊界からその間隔を埋めてくれます。私が興南の監獄にいる時も、言葉では伝道しませんでした。無言で伝道したのです。霊界が動員されて、協助してくれました。してくれなければ大変なことになるためです。

同様です。それゆえ、皆さんが地方に出ていっても、このようにしなければなりません。先生は一九六〇年代に、名が知られた所へはみな行ってみました。

きょう、道を歩いていて、「どんな人に会うだろうか」と考えなければなりません。初に会う人はどんな人か、二番目に会う人はどんな人か、三番目に会う人はどんな人かを考えて、「お父様、どんな人ですか、私はこのような人に会うのを願いますが、どんな人ですか」と祈らなければなりません。自分が考えて、祈ったその基準とぴったりと合うなら気分がいいのです。このような体験をすることによって、皆さんの霊的触覚が発達するのです。

そのようになれば、道に出ると「きょうはある人に会うだろう」という感じがするのです。人の霊は、無限的に通じるのです。「きょうはある人に会うだろう」と思うのに、実際そのような人に対するようになれば「ああっ 7」と言ってびっくりするようになります。このように、自分の思いと霊界から教えてくれた霊感が、実際の事実と一致するときが多いのです。このような体験を積んで、上がらなければなりません。(三〇―一五〇)


六 君臨(実体役事)

霊と肉は、本来真の愛を中心として一つになるようになっているのであって、偽りの愛を中心として一つになるようになっていません。それゆえ、真の愛の起源を探さずには、これが一つにならないのです。その立場を皆さんが越え、天の祝福を願って行かなければ

なりません。

寂しい立場に行くほど、なぜ天が近くにいらっしゃるのでしょうか。世の中の愛を忘れ、天の愛の圏内に入るから、天が近くに来るのです。

天が直接的に現れて、関係するのです。神様の直接主管圏内ということです。神様が現れても、皆さんは分からないために、先生が現れて代身になるのです。そのように直接主管を受ける圏内で生きなければなりません。

(九一―一八四)


皆さんは、先生とどんな因縁がありますか。祈祷の中で、あるいは夢の中で、先生を毎日見なければなりません。

五百十二
 
世界の統一教会の信者は、そのような体験をみなしなければなりません。霊界に対して知らなければならないのです。また、目を開けても、先生をみな見なければなりません。そのような人もいるでしょう。それで、これは歴史始まって以来、世界に初めて起こることです。それは、前にもなく、あとにもないことだというのです。

そのことがだんだん強くならなければなりません。アダム・エバが堕落する以前に、神様に干渉を受けたのと同様に、皆さんの生活圏を先生が干渉しながら、全部指導してあげるのです。

先生が「せよ」と言うことを、うれしい心で、浮かれて動けば、その世界に入るのです。先生は、一番難しいこと、できないようなことをさせましたが、「先生よりもっと楽しんでしよう」と言えば、その世界に一遍に入るのです。自分の生命を捧げてその場に立ち上がれば、一遍に先生が指導してあげるのです。

(九一―一七四)


我々統一教会の信者たちは、祈祷や夢のお告げの中で先生から指導を直接受けなければなりません。我々食口たちの中には、どこへ行っても、その立場で先生の指示を直接受ける人たちがたくさんいます。

イエス様の時以上に実感のわくことがたくさん起こります。我々統一教会の信者たちは、先生に直接侍って暮らすのです。それで統一教会では、イエス様の時にあったこと以上のことが時々あるというのです。そのようなことがあるために、世界が統一教会と一つになることができるのです。

今日、この死亡圏を通り過ぎようとすれば、決死的な祈祷をしなければなりません。祈祷は、一瞬だけするのではなく、二十四時間しなければなりません。このような自由な時代に、そのような体験をできずに直接侍りながら暮らせない人は、かわいそうな人です。 祝福を受けた人は、本来そのような基準と経験があって、そのような内容に全部結びつかなければなりません。本来は、先生と霊的に接ぎ木して、一つになってこそ祝福対象者として祝福を受けることができるのです。

(三一―三三一)


我々は、「神様の心情」を言います。神様の心情は、どこにあるのでしょうか。祈祷の中で声を聞いてみれば、「先生の言葉をよく聞け。先生を悲しくしてはいけない。先生を喜ばせてさしあげなさい」と言うのです。それしかありません。そのように教えてくれるのです。そして、先生に会いたくて眠らずにいると、霊界が開いたというのです。それゆえ、体恤がなくてはいけないのです。(七六

―一五二)


第二節 霊界はどのような所か一 霊界と肉界一) 霊界、肉界の中心

皆さんは、霊界について相当に気掛かりでしょう。世界には、多くの宗教がありますが、その宗教が行く道は、霊界と関係を結んで、永生という世界、永遠に生きる世界、すなわち神様と共に生きる世界を探して行くのです。

そのような世界が宗教の目的地です。

五百十三
 
しかし、今になっては、宗教はどのようになるでしょうか。だんだん脱落して、「宗教は、弱者たちが信じるものだ。我々人間に必要ないものだ。それは道義的な一つの表象として、人間たちが操作しておいたものだ」と、このように結論を下す時代に入ってきました。 宗教の中心になるキリスト教だけを見ても、そのようになりました。アメリカが全世界のキリスト教国家の代表国ですが、そのようなアメリカの家庭で育った人たちが、宗教を離れて、今まで自分勝手に暮らしています。 世界の中心であり、すべての理想の中心が神様なのに、その神様がいらっしゃる霊界を中心として理想を描いたそのようなキリスト教の中にいて、なぜ出てくるようになったのでしょうか。

第一に、永遠の霊界があることを確実に知らなかったからです。知能をもった比較の能力がある人間であるために、良い所があれば、悪いものを捨てて、そこへ行くようになっています。より次元の高い価値のある所があれば、そこに行くようになっています。それが

人間の本性です。


第二の原因は、神様を知らなかったからです。

第三の原因は、霊界の中心になり、神様の中心になる愛と関係を結べることが分からなかったからです。この三つが分からなかったのです。たとえ神様を知り、霊界を知ったとしても、愛を中心とした世界ということが分からなかったのです。

愛がある所では、上がっても良く、下がっても良く、間にいてもいいというのです。愛する夫が自分より高いといって嫌だと、愛する妻が自分より低いといって、それを憎みますか。一つになれば、勝手に低い所から高い所に上がることもでき、高い所か低い所へ下りてくることもでき、中間にいることもでき、どこでも行くことができます。制限がありません。それで世の中では、「この世界は、一つの世界であるべきだ」という言葉をたくさん言います。 霊界と肉界、霊的な存在と肉的な存在も同じです。ここは神様の愛、神様が中心になっています。我々が普通考える堕落した人間は、神様が中心になっていません。

人間は、心と体から成っていますが、それは違います。次元が違うのです。心と霊界は違うのです。霊界と肉界とは、神様の愛を中心として言うのです。したがって、霊界と肉界が一つになるためには、必ず神様が介在しなければなりません。神様の愛を介在せずには霊界はありません。神様を中心として霊界というものがつながるのです。

皆さんには良心があります。良心と霊界は、どのように違いますか。心と霊界は、どのように違うのですか。「自分の心も霊だろう」と、このように考えるかもしれませんが、混同しています。

心は霊界ではありません。堕落したために、心は霊的世界と関係を結んでいません。いわば、骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心です。「骨のない人のようなものが、堕落した人間たちの心である」と考えれば実感がわきます。骨のない人のような形態が、堕落した人間たちの心というものです。 霊人体を見るようになると、霊人体も体的な要素があり、心的な要素があります。霊人体の心のようなものが、霊的世界です。それは必ず神様と関係を結んでいます。

それゆえ、神様と関係を結ばずには、霊人体の心のようなものが生じないのです。霊と心が違うということを知るべきです。心は、神様と関係ないのです。神様が離れたのです。神様自体が関係することはできません。神様が直接主管することはできないのです。

五百十四
 
皆さんの心は、「こうだ、ああだ」と変わります。しかし、霊的世界、霊的存在は変わりません。それは、永遠に一つの目標を立てて、絶えず行くのです。それは、なぜそうなのでしょうか。神様の側に立っているためです。心は、人間内に属しています。行ったり来たりする人間内にいるのです。

皆さんは原理を習っているので分かるでしょうが、生心とは何でしょうか。生心は、心と霊と合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として、我々の良心と一つになって、理想的な自分をつくり上げることのできる動機的心です。それで、その生心がなくては、霊界と真なる愛と関係を結ぶことのできる、自体の根源を探すことができません。

生心が自分に生じれば、体も喜び、全部それについていきます。自動的にこれらが一つになるのです。今まで、人間において一番問題になることとは、体と心が互いに離れているということです。霊的な力が自分に臨んで生心的起源にさえなるようになれば、心と体が自然に一つになるのです。そのような根本から革命が起こり、根本から是正する根源を発見できない限り、我々は理想を尋ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てくるのです。

宗教は生心を植えておこうということです。生心を中心として多くの宗教があります。ありとあらゆる形態があるのです。(九一―一四〇)


二) 霊界、肉界の一体

神様は、尊厳な方です。それで、霊界と肉界は一体化を成さなければなりません。真の愛が現れなかったために、霊界、肉界が統一できなかったのであり、真の愛が現れなかったために、個人と体が分かれたのであり、真の愛が立たなかったために、宗教と政治が分かれたのです。

真の愛を中心として、全部一つになるのです。個人、家庭、社会、国家、世界、天宙が、みなつながるのです。我々の手で、そのようにしなければいけないのです。そうでなければ、本然の天上天国、地上天国を相続することはできません。

霊界と肉界の一致をどのようにするのでしょうか。真の愛で一つにするのです。(二一

六―一〇六)


二 明らかに実存する霊界

世界三十億の人類の中で、霊界を知らない人は八○パーセントになります。信じる人たちも、霊界があるか、神様がいらっしゃるか、はっきり分かりません。しかし、霊界はあります。


五百十五
 
考えてみてください。世の中の金持ちが、これから幸福の郷をつくろうとするとき、自分のすべての財産を使ってもつくりたい気持ちがあるのと同じように、天地創造の天の神様が自分のお住まいになる所をいかにつくったでしょうか。霊界はある部分を探して凝視して、千年を眺めても飽きない美の世界です。想像もできません。ああ、何やら、「世界一だ」と言っても何でもないのです。霊界の一角にもなりません。だから、この地上が欲しい所ではないのです。先生に言わせれば、この地上は先生の目的にかなわないので、帰りたいのです。(一五―一五四)


一般の人の大部分は、今も霊界を考えません。生まれたから、ただ父母に仕えて、家庭に暮らすと思って暮らします。

そのように暮らすすべての生活の中心とは何でしょうか。どのように暮らすかということです。それゆえ、一番重要なことを衣食住ととらえます。

どのように暮らすかという問題、どのように食べるかという問題、どのようにつくろって暮らすかという問題、これが中心だというのです。そこは、もちろん人間関係において、人倫道徳があって向上する、互いが発展して、互いが良くあり得る内容がありますが、民族が異なり、国家が異なり、世界すべての文化背景の違いの差によって、道徳基準であるとか、社会制度が全部変わるのです。

このように見れば、今日、歴史上に生きている人間たちが行くべき本然の基準、本来の基準と、今日、我々が暮らしている生活の標準として立てていく人倫道徳の基準が、いろいろな方向に向いているのです。これが一つに収拾され得ていません。

本然の世界に基づいて、我々が生まれて生きていくべき所とはどこでしょうか。これが確実ではないのです。それゆえ、一般の人たちは、霊界があるのか、ないのか、神様がいるのか、いないのか、分からないでいるのです。 しかし、我々統一教会の信徒たちは、霊界が確実にあるということを知っているのです。信じているのではなく、知っているのです。なぜでしょうか。多くの体験を通じて知っています。今日、統一教会がこれほど世界的な基盤を形成するまでの背後を調べてみるとき、多くの体験過程を経てきているのです。それゆえ、「霊界はない」と言うことができない立場にいる人たちが、統一教会の信徒たちです。(一四〇―一二二)

我々統一教会の信徒たちは、どんな道を行くべきでしょうか。神様が願う道に従っていかなければなりません。天意の道に従っていくのです。天意とは何でしょうか。個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会が、国家が、世界が、霊界までが行くべき天意の道があります。その専門家が、先生です。霊界は、間違いなくあります。(一二一―一四六)


神様がいて、霊界があるなら、どのようになるでしょうか。ある人は、「神様がいるとしても我々と関係がない」と思うかもしれませんが、それは考え違いをしているのです。「霊界があるとしても、私と関係がない」という言葉はまるで、「自分は家庭の一人として、国が必要なく、世界が必要ない」と言うのと同じです。

それゆえ、もっと大きな神様がいて、もっと大きな霊界があるなら、もっと大きいものと自分は、関係を結ぶことを願います。関係ができて、そして何をするのでしょうか。一つにならなければなりません。天の目的に向かっ

て行くべきなのです。(一〇四―一一九)


三 霊界は信仰の原動力(使徒パウロが見た第三の天)

五百十六
 
聖書を見れば、パウロが十四年前に見た第三の天について述べています。十四年間パウロはどのよう生きてきたのでしょうか。第三の天を見たこと、それが力になって、十四年間を生きてきました。 パウロは、それ以上のことを知ったために、パウロは第三の天のことを述べても、また行くことができたのです。(六二―四七)


使徒パウロが霊界の第三の天の世界を見て体験したことは、彼が十四年間絶えず宣教活動をし得る原動力になったのです。分かりますか。そのような体験がなければならなりません。先生もそれと同様です。(二七―一二八)


先生は、死を恐れません。何がそのようにしたのでしょうか。愛です。獄中にいくらぶち込んでも、文先生はそれも消化することができます。ですから、今日このように反対する環境を消化して屈服させなければなりません。私の手で全部屈服させておいたのです。

(二〇二―二七)


四 霊界を創造されたとき

霊界は天使世界と似たり寄ったりです。分かりますか。そして、今日の世の中は、アダム・エバのような立場にあります。ところで霊界は、アダム・エバを造る前に造られました。

霊界が神様のみ旨に反対することによってサタン世界が生じたために、霊界が神様のみ旨を歓迎してこそ、その世界が復帰されるのです。また、霊界を屈服させずには、地上世界に主が来ることはできません。それで、統一教会が今まで霊界を屈服させてきたので、霊界は統一教会に協助しなければならないのです。(二五―二三三)


五 霊界とはどこか 霊界とは、どこにあるでしょか。皆さんの体の中にあります。ですから、霊界を背負って回り、侍って回るのです。ですから逃げることができません。(一六二―一一六) 霊界はあります。霊界は、この世界のためにあるのです。この世界も、永遠の世界のためにあります。世の中に神様がどこにいて、霊界がどこにあるのでしょうか。神様がいらっしゃる所が霊界です。(一一七―三〇七)


六 霊界はどのような所か

我々の人生が七十、八十年で終えれば、別に問題がありませんが、永遠の問題を中心として生きていくから深刻です。

では、霊界があり、死後に霊界に行くようになれば、何をもって考えるのでしょうか。霊界は広大な世界です。皆さんは知りませんが、広大無辺な世界です。

この地に、民族間の差別があり、文化的な格差とか、相いれない生活像があります。もまれて暮らしながらも、自分の主張と自分の価値を残したかったことが過ぎ去るのではなく、霊界に行っても生き生きとよみがえるのです。(一八七―二八五)


五百十七
 
今日、電気とか、宇宙とかと言って大騒ぎするのは、愛の理想世界を成すための一つの内的な潤滑剤のようなものです。霊界という所は、愛の電気で充満した世界なのです。 愛の電気をもってして、できないことはありません。ここから、我々の意識構造をもって治め得る可能圏が霊界だといえます。霊界とは何でしょうか。永遠の要素を願う所です。 霊界は、すべてが愛で充満した、愛でいっぱいになった調和の世界です。ですから、愛のボタンを押せば、宇宙が作動するのです。 地上天国とは何でしょうか。すべての愛のバルブに火がつく所が地上天国です。天上天国とは何でしょうか。愛のバルブに火が完全につくことのできる所が天上天国です。

それゆえ、皆さんが愛の心さえ抱いて、愛の綱さえ引けば、みな引かれてきます。後ろに引けば後ろに行き、前に引けば前に行きます。思うがままに操縦されるのです。嫌でそうするのではなく、自動的にそうなるというのです。

それで、霊界という所は、「愛の空気で充満した所」という概念を探すことができます。愛の神様が、愛の心で、世界の人類に一度に全部食べさせ、喜ばせたくて、「御飯よ、生じよ」と言えば、生じるのです。

霊界では、愛の食べ物を食べます。互いに見るのも、愛の目で見るのです。そして神秘さが形容できない所です。聞いても絶えずもっと聞きたいし、眠りとか、疲れとかという観念はあり得ないのです。

霊界とは、愛の電気で充満した所なので、今日人間たちは、何でも愛に関係を結ぼうとします。なぜ、愛の関係を結ぼうとするのでしょうか。霊界に拍子を合わせるためです。そのようになっているために、そこに応じるしかないのが我々、存在物です。その位置を離れることができません。

皆さん、夢で先生を見るようになるのはどうしてでしょうか。それは神様の愛の波長を通じて現れるのです。そうしようとすれば、自分があってはいけません。自分があってはならないのです。自分を犠牲にするということです。真空状態をつくらなければなりません。真空状態になった次には、抵抗がない黄金になるとかしなければなりません。黄金というのは他の要素がないのです。純粋な、そのままです。黄金をなぜ宝物と言うでしょうか。黄金は抵抗力がないのです。(一一二― 一七)


第三節 霊界の内容と状況一 堕落で生じた霊界に対する無知

我々の体には、百兆に達する細胞があります。先祖たちは死んで霊界に行きましたが、我々の体の一部分には、先祖たちが愛を受けた細胞が伝授されています。

生命を中心としてつながった細胞が伝授されており、血がつながった細胞が伝授されて、生きて動くのです。

秋になれば木の葉が落ち、新しい春が来れば、新芽が出てきて、夏になれば青い園になるのと同様に、我々人間も、自分の中にある数多くの先祖たちの血縁的因縁を経て出てきたのです。今は後孫的立場にいますが、自分自身の人生は、その先祖たちを代表して生きるのです。先祖の真なる愛を中心として、先祖の生命力に従って、先祖の血筋を残すためなのです。

ですから、先祖を圧縮したのが、正におじいさん、おばあさんです。天の前に我々の氏族の代表として、我々の家庭の代表としてつながった方が、おじいさん、おばあさんです。

五百十八
 
お母さん、お父さんとは何でしょうか。お母さん、お父さんは、家庭の中心です。この世界のすべての家庭たちの母、父を代表しています。おじいさん、おばあさんが過去の時代なら、お母さん、お父さんは現在の時代です。

息子、娘とは何でしょうか。未来の永遠な神様の理想世界、天国と一体化され得る、天宙統一を完成させ得る後孫として、我々の家庭の出発存在として抱いているのが息子、娘です。

ですから、過去の世界の代表者、現在世界人類の家庭の代表者、未来の後孫を代表する代表者を抱いて、一つの所に圧縮させておいたのが家庭です。

それで、堕落しなかった家庭はそのような立場に立っているために、霊界と肉界にみな通じることができます。地上世界が、父子の関係の愛を貴く考えるのと同様に、その愛をもって生きたなら、天上世界も神様を父母として侍り、息子、娘のような立場で暮らすことになります。(二一四―二六八)


二 霊界は即時的感知可能圏

霊界では何でも一遍に分かるようになっています。あいさつをしなくても、何億年前に、何千万年前に、何百万年前に生きていたなにがしとかいう、そのような者が来るのです。

そのように早い世界です。

先生も難しい問題について、三角地帯で

「この点だ」というとき、その点がどこなのか、指が、体が分かる時があります。それゆえ、いつでも焦点を合わせて、正しい心をもって歩かなければなりません。

人に接するとき、その人を利用しようと思わず、利益を得ようと思うなというのです。そうしてはいけません。本性が一度ぺちゃんこになると、修正するのに半年から三年までかかります。それで、行動が恐ろしいのです。そのようになれば、地獄の中でもそのような地獄はありません。それを分かる人たちは、初から考えもしません。(二〇四―三〇四)


我々の根源には、まだサタンの血がうごめいています。サタンの愛が、自分の体に根を下ろしました。その愛が、自分の生命の血筋を通して、神経を通してつづられています。そこで百兆ほどにもなる細胞でできた「私」という体が生じたのです。

サタンの血とともに生存権を維持するこの悲惨なありさまを自ら嘆き、これを破壊させるための行動を一生の間、何百倍するという覚悟と決意をしなければいけません。

それなのに、この体を抱き締めて愛することができるでしょうか。おなかがすいたと、狂った犬のように口を引きずって歩けるでしょうか。このような体を中心として、情欲を満たすために、相手を訪ねていけるでしょうか。

五百十九
 
霊界に行くようになれば、あいさつは必要ありません。さっと会えば分かるようになります。何千年前の人であるということが分かります。何百年前の人だということが分かるのです。今日、「聖書の歴史は六千年だ」と言いますが、分からないことを言うなというのです。彼らは霊界を知らない人たちです。 聖書の歴史は、何百万年、何千万年です。その時代の我々の先祖を呼べば、一遍に現れるのです。さっと見れば、話さなくても既に分かるようになっています。自分のすべてが現れるようになっています。高めてあげるべき人なのか、下げてもいい人なのか分かるようになるのです。それゆえ、あいさつは必要ありません。自動的に秩序が維持されるのです。 すべての秩序は、何でなされるのでしょうか。愛でなされます。愛で位が決定されるのです。それで、神様の息子、娘にならなくては、天国に行くことはできません。

神様の愛に接するためには、垂直線に入らなければなりません。聖書に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とあります。それはどういうことでしょうか。すべての中心は、愛というものです。それで、あらゆる作用と意識する全体を合わせて、主なる神を愛することしかないというとき、そこからエレベーターに乗って垂直圏に上がっていくのです。そのような驚くべき世界です。

(二〇三―一四二)


三 霊界の中心

霊界の中心は何でしょうか。それは、一つの絶対的神を中心として構成された世界です。その絶対的神様がいるなら、その神様は、この天地創造の時の宇宙の起源であられるお方です。彼によらないものがないのです。彼に属しているために、彼に属した全体は、彼と共に感じ、彼と共に因縁をもって過ごしているのです。

例えて言うなら、我々人間は百兆ほどにもなる細胞をもっていますが、すべての細胞自体がどのような部分でも感じさえすれば、直接頭脳に連絡されるのです。天地創造の時の創造主を中心としてつながるすべての存在も、それと同じです。しかも人間として生まれて、意識しながら生きており、善でより次元の高い価値のものを追求しながら、悲哀を感じる全部が人間から始まったのではなく、人間の根源から始まったのです。それゆえ、過程を経て、根源と通じることのできる結果の世界に行っているのが人生であると、このように見るのです。(一四〇―一二三)


四 霊界の組織(階級体系)

霊界はまだ未完成です。なぜ未完成なのでしょうか。本来、霊界の階級体系は、神様と真の父母、真なる子女を中心としてつながっていなければならないのに、それができていないのです。地上もやはりできていません。 言い換えれば、堕落しなかったアダム主義であると同時に、真の父母を中心とした階級体系になるのが霊界ですが、それができていないのです。今まで、その中心の中には、仏教を中心とした釈迦牟尼クラブがあり、孔子クラブがあり、マホメット・クラブがあります。 それで、霊界では真の父母主義とアダム主義が現れるのを、イスラム教や、儒教や、仏教などが、みな願っています。ですから、統一的な方向を経なければならないために、地上にも真の父母の歴史が世界的な基準を探して上がっていくようになれば、すべての宗教の境界線はなくなり、統一運動が霊界の動きであることによって、自動的に現れるようになります。

それで、統一教会が世界主義になれば、どんなことが起こるでしょうか。霊界の霊人たちが霊界に存在しない、ということが起きます。目的が、地上で完成して、逆さまに入らなければならないために、全部再臨するようになります。全部活動するのです。

世界の至る所にいる統一教会員たちが行動することは、霊界の数千億の霊人たちの願いです。

霊界の組織体系の中心とは何でしょうか。第一は神様、第二は真の父母、第三は真の息



五百二十



子、娘、第四は真なる国です。ここで真の子女は、真の父母の直系の血統を受けた子女です。ここで国を中心として、全部分かれて国民になるのです。

天国の王宮で、一番先に暮らすべき方とは誰でしょうか。天国の王宮の席に座って、統治する方とは誰でしょうか。本来神様を中心して真の父母になったアダム・エバが、天国の王権を支配できる立場にいなければなりません。堕落しなかったなら、そのようになっただろうけれど、堕落したことによって、そのようになれなかったため、再び真の父母が出てきて移さなければなりません。

このような原則で霊界ができているのに、肉界にこのようなものが現れれば、どれほど引っ掛かりますか。神様を中心として、真の父母が現れ、真の子女が現れ、第四は真の国民を通じた真の国家が現れなければならないのです。(一六一―二二三)


五 霊界での衣食住

皆さんが、けさ御飯を食べたといって、あすの朝は食べなくてもいいですか。皆さんの生命が死ぬまで、「ああ、御飯 7 ああ、パン 7 ああ 7」と言いながら死んでいくのです。

同様に霊界では、毎日のように神様のみ言を食べなければなりません。ですから、ここで訓練をしなければなりません。あの世に行っても、「神様がどんなみ言を語られたか。あのみ言はどんな意味か」ということを知るのが願いです。

見てください。あの世にパンの工場がありますか、ないですか。コーラやジュースを作る工場がありますか、ないですか。ありません。そこに自動車を造る工場がありますか、ないですか。あの世に行って、「私は良い車に乗って回る」と言いながら、こうして回りますか。ここでは、何かベンツに乗って回り、何がどうだこうだと誇りますが、そこでは、それらはみな必要ありません。

あの世に行って何をするのでしょうか。食べるでしょうか、食べないでしょうか。それで、食べるのに何を中心として食べるでしょうか。愛を中心として食べるようになっているために、愛をもてなかった人は、行って食べようとしても、口が開きません。それが決まりです。

自分を愛する心だけあり、全体を愛する心が中心になっていなければ、口が開きません。箸で食べる物をつまんで口に持っていこうとしても、箸が他の所に行くのです。ですから霊界は、真の愛をもってこそ、すべてが可能な世界であって、真の愛のコンセプトをもたなければ、すべてが不可能な世界です。


レバレンド・ムーンが教えることは、心情の潮流です。天国の神様の宝座と神様の心情まで経て、万国が通じることができ、全体と関係を結ぶことができる心情の潮流を言うのです。

霊界ではいい家があるというとき、その家に暮らす人が、自分より級が低ければ自分の家にすることができます。それは、その家に訪ねていくと、自然と分かるようになっています。

五百二十一
 
神様の息子、娘になれば、膨大な宇宙が、全部自分のものになります。皆さんが霊界に行けば、先生に付いて回れません。それは、皆さんの心情の門が狭いからです。真の愛は、大きい門でも、小さい門でも自由に行くことができます。真の愛でなければ行けません。

(二〇七―九四)


霊界は、我々の故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は、本然の体の故郷の地であり、霊界は、本然の心の故郷の地なのです。この次に行く所が、心の世界、霊界です。それゆえ、地上で霊界に合わせて訓練をしてこそ、霊界に行っても支障がありません。(二〇七―七二)


霊界には、自動車もなく、食べ物もありません。我々は霊界で創造主であられる神様のように、すべての種類のものを真の愛を中心としてつくることができるのです。

愛を中心として、どんなものでもつくることができます。「ある工具、現れよ 7」と言えば、すぐに現れます。また、晩餐会場に、数十万、数百数名が参席したとき、どんな食べ物でも願いさえすれば、準備されて出てくるのです。金色の正装を願えば、即時にそのような正装が出てくるのです。

また霊界では、眠りません。霊界は眠りがないために、真夜中にも自分の体を通過して、すべての部分で踊りを踊ることができるのです。霊的に自分がそうするのは、永遠に楽しみが満ちるようにするためです。

空気も愛の空気、食事も愛の食べ物、服も愛の衣服を、真の御父母様が真の愛を中心として下さるのです。(二一七―二九三)


地上では、御飯を食べて暮らすのが心配です。ですから、自動車工場、肥料工場、服の工場、食べ物を作る工場など、工場が必要です。家でも食べ物のために大騒ぎです。霊界に行くようになれば、それがみなありません。自動車が必要なく、飛行機が必要ありません。瞬く間に億万里でも行くことができます。太陽の光よりも速いのが、この霊力です。神様がつくった太陽の光でも、一秒間に三億メートルを走るのです。

ところで、神様の本然的な愛の力、生命の力というものは、それより何千倍も速いというのです。誰かに会いたいと言えば、何億万里、何百万里離れているとしても、すぐに現れます。広い天国に行っていますが、自分が会いたい人、自分が愛した人に会いたいと言うようになれば、その場で相手が現れるのです。

それゆえ、今から何百万年前に生きた人も来て、あいさつするのです。何千年前と今の時が、どれほど変わったかというのです。その時、人たちは今暮らす人より、心では天をよく感じることができたのです。

ですが、文化生活の面では、反対なのです。文化生活とともに、霊的世界の啓発が共になって出てくるのです。知識に通じるようになれば、知識の測度によって理解し、すべてを分析するのにおいて鋭敏なのです。それゆえ、霊感を摂取することができる基盤が、もっと拡大されていくのです。それゆえこれからは、自然にそのような知識が多くなり、世界の流れを心配する人たちには、すぐに霊界から教えてくれるのです。

霊波を通じて、どのようになるのかが分かるのです。高の立場に行くようになれば、終わりは一つしかないのです。(二〇六―一三八)


六 霊界での知識と権力の使い道

五百二十二
 
霊界ではお金をいくらでも作ることができます。神様は知識の王です。知識とお金と権力は、一生において追求する価値的なものの一部分にしかなりません。

教授たちの知識を千年、万年誇ることができるでしょうか。持って回りながら誇れるでしょうか。一生にとどまるのです。それが自分と共にあるのは、一生だけです。お金もそうであり、知識もそうです。ですから知識を、お金を、権力を誇るなというのです。神様は、それを無価値なもののように見ます。霊界では全部無価値なものです。(二〇三―二九一)


神様を知るべきです。神様は、人格的神でなければなりません。神様が漠然としてはいけないのです。我々自身が具体的です、知情意を備えた人格的人なら、その主体であられる神様も知情意を備えた人格的神であるのです。 では、神様がもっている多くの属性の中で、一番の中心は何でしょうか。情です。愛というものです。神様も生きるのに、愛が一番必要なのです。天国では、知識で暮らすのではありません。


皆さんは霊界を知らないからそうであって、霊界に行って知るということは、一週間以内にみな終わります。心を鏡のように見ることができる世界が霊界です。

霊界は、いくら優れて、いくら立派な知識人がいるとしても、彼がもっている知識を一週間以内に凌駕し得る、直感の世界です。 心の光を通じて見るために、そこに関係している因縁の世界は、自動的に理解されるのです。それは、情の心情を通じて見てこそ、自分と相対的関係をもつとか、主体的関係をもつのであって、知識とか、神様の他の属性では駄目なのです。(二一〇―三一二) 霊界では何億万里の距離にいる世界の人でも、愛の心が強くて会いたいと言えば、さっと現れることができます。「どのように来たか?」と言えば、「あなたが呼んだから現れました」と言うのです。「どれほど遠くから来たか?」と言えば、「何億万里離れた所から来た」と言うのです。距離を超越するのです。宇宙が自分の活動基地です。

ところで、その世界にはない物質で首を絞めています。お金、知識、権力で首を絞めているのです。その世界は、そのようなものは一つもありません。この世界では、お金、知識、権力が必要ですが、その世界ではそのようなものは必要ないのです。今までサタン世界の人々が、それを願ってきたのです。

霊界は権力の真空地帯です。それは、皆さんがどこにも暮らせないとうことを意味するのです。霊界のどんなものも皆さんを歓迎せず、霊界がいくら皆さんに関心をもって一つになろうとしても、皆さんは何ももつことができないのです。反対的なもの、本質とは反対のもの、それは一つになることができないのです。霊界が関心をもてる立場とつなげられません。(二〇五―一二八)


神様も、愛のために創造しました。神様に、何を一番好むかと聞いてみれば、どのように答えるでしょうか。神様は、好むものがありません。お金も必要なく、知識も必要なく、権力も必要ありません。

五百二十三
 
我々統一教会員たちには、何が必要でしょうか。同様です。愛の中では、お金もあり、知識もあり、権力もあります。愛の権力は、万年権力です。本当の愛が分かる人は、天上世界に行って習うものがありません。 そのような人は、いつでも神様の心の中を出たり入ったりします。神様の体を通じて、東西南北を自由に行ったり来たりできます。これが中央停車場のようになっています。それは何の話か分かりますか。それがなぜ必要でしょうか。そこに入って出てくるときは、東西南北の力が集中するために、強力な力で出てきます。見知らぬ国も、その中央を通じて出てくるときは、高い神様と対等な位置に上がるのです。愛には、このような偉大な力があります。

知識とは何でしょうか。知識があることによって、知ることによって、すべて環境的与件を所有するようになります。知識の中で、高の知識である愛だけもてば、天下がみなつながります。知る人が支配者です。知ることが力だと言いました。力のある人が支配するという論理です。それゆえ、愛をもった人には、知識は必要ありません。あの世では、習わなくてもみな分かります。

先生は、そのようなことを明らかに知っているために、地上で暮らしたいという考えはありません。その膨大な世界が、愛を中心として全部つづられているのです。その愛に和する神様の心情圏を所持するようになれば、すべて終わります。創造歴史は、永遠に続くのです。そのような境地の心に和して、自分が構想したすべてのことをすべきです。決心して命令すれば、即座に成るのです。(二〇二―八六)


七 霊界での人間関係

神様は、天地を創造された方であり、今日この世の存在の起源になる、も母体であられる方です。その方は、存在価値の起源です。その方がいらっしゃることで、今日この現象世界が始まりました。

そのような絶対的な方は、ある時代に変化があったとしても、変わる方ではありません。絶対的なものは、変わることはありません。また、時間や空間に制限を受けることもありません。すべての制限を超越した立場に立って、すべての制限を主管される方です。神様を、そのような方だとばかり言うではありません。

その方は「父」です。皆さんは「天のお父様」と呼ぶべきです。その父は、皆さんを生んでくれた父です。人間が堕落をしたので、再び生むという言葉が必要なのであって、その方は本来皆さんを生んだ父です。肉身の父は、皆さんへの橋渡しを頼んだ父です。その父を霊界に行けば、「父」と言うのではなく、

「お兄さん」と呼ぶようになっています。母に対しても、「お母さん」と呼ぶようになっていないのです。

父母の根をもった人たちは、神様を何と呼びますか。全部が、キリスト教で呼ぶように、神様を「父」と呼びます。一つの家の中で、おじいさんも神様を「父」と呼び、お父さんも神様を「父」を呼びます。孫もやはり神様を「父」と呼びます。家の中の家族すべてが、神様を「父」と呼びます。

このように、神様は人間すべてに父になられる方です。それゆえ、神様は人間に父となられ、人間は互いに兄弟になるのです。先生は時々、本当にそのようになるなら、霊界に行けば実におもしろいだろうと思ったりします。

五百二十四
 
人間は互いに兄弟だと言いました。それでは、霊界で一番近い兄弟とは誰でしょうか。霊界で一番近い兄弟は、横的な兄弟ではありません。この世で父子関係と兄弟関係のうち、どちらの関係がより近いですか。兄弟の関係より父子の関係がより近いから、霊界に行っても自分の父が一番近く、次はおじいさん、その次はおじいさんのおじいさん、またその上のおじいさんになるでしょう。そのように上がっていけば、後のおじいさんとは誰でしょうか。その方が正に神様です。

それゆえ、世の中に友達がいないと寂しがることなく、一人で暮らして死んだといって悲しがることもありません。霊界に行けば、上を見ても横を見ても、近い兄弟が無尽蔵にいます。しかし、兄弟にはそのままなるのではありません。神様を父として侍ることができる特権を備えてこそ、このすべての方たちと兄弟になることができるのです。

父を兄にして、おじいさんを兄にしたとしても、気分が悪くありません。ある考えでは気分が悪いでしょう。世の中においては父と呼んだのに、霊界に来たといって「お兄さん」と呼ぶとは、お父さんはどれほど気分が悪いでしょうか。しかし、そのように呼ばなければなりません。

なぜそうであるべきなのでしょうか。それは位置でだけ本家の息子になるためです。そうであるなら、「本家の息子は一人しかいないのに、全部本家の息子になればどのようになるのか」という思いがするでしょうが、霊界では全部本家の息子になることができます。神様を中心とすれば、すべてが本家の子孫になれるのです。世の中でも、金持ちの主人が死ねば、その財産を子供に相続してやります。そのときに、本家の孫になる長男に財産を半分やって、それ以外の息子たちは残りをもらうのが通常の礼法となっています。

しかし、霊界ではそうではありません。霊界にいる霊人たちは、すべて本家の子孫にならなければならないために、神様はもっておられるすべての財産を分けてやる必要はありません。それゆえ兄弟が一つになれば、お兄さんのものになると同時に自分のものになるのです。

それゆえ、兄弟同士が一つになるのが問題です。皆さんが先祖の代数を計算してみれば、代数は互いに差が出るでしょう。ところが、本家の先祖たちが完全に一つにさえなれば、それ以後の後孫たちは宇宙を相続するのです。言い換えれば、その本家の子孫を中心として、天上世界を治めるということです。(二一― 二四九)

あの世ではおばあさん、おじいさんが、皆さんよりもっとかわいいです。愛があれば、そのような世界にとどまることができるのです。そこは統一された世界であり、とても美しい世界です。自分の先祖のおじいさんとは誰ですか。一番初のおじいさんとは誰かといえば、神様です。(二一六―一八〇) 霊界に行って見てみれば、男女が一つの大きな人のように見えるのです。人々とは何でしょうか。皆さんはすべて、一つの細胞と同じです。全宇宙がすべて男女のように見えます。そのように見えるというのです。それが合わさったのです。その間に入った人たちは、神様の細胞と同様です。一つの体になっているのです。(二〇七―九八)


八 霊界の中心は愛一) 霊界の空気は愛

五百二十五
 
霊界は、どんな組織になっているでしょうか。あの世では、空気が愛です。愛が空気になっています。体と心が、このような地上で愛の感触を受けて和することができる要素として、体恤しなければなりません。体恤圏をつくっておくようになれば、ただそのまま通じない所がないのです。木の樹液が木の芽と木の根を通じるように、通じるのです。神様が喜ぶのを自然に自分が感じるのです。東方に向かって、神様のうたげが繰り広げられるということが分かるのです。(一六二―二八七)


霊界には、愛のねじがあります。愛の機械があれば、そこに軸があります。モーターで言えば、回る軸があります。あるというのです。軸を全部解けば愛です。


回るものも愛のために回るのです。その秩序の調和というものは、心配する必要がありません。本質的な愛を中心として生きていけば、その世界はどこに行ってもみな、細胞と同じです。(一二六―二四〇)


霊界で、呼吸できる空気は、愛です。愛の道理を果たしてこそ、神様が歴史時代に願った希望の実体を完成したという格をもつようになり、天国のどこに行っても歓迎するのです。 それで皆さんの家庭は、天国に行くことができる訓練所です。修練所なのです。そこにはおじいさん、おばあさんのような人も暮らします。拡大すれば全く同じなのです。お母さん、お父さんの年齢級、自分の夫、妻の年齢級、息子、娘の年齢級を拡大したものです。家庭で修練された者を四方に拡大して、「ため」にすることができる愛の圏をもって生きる人は、天国に行くことができます。家庭は、天国に直行することができる修練所です。ケープ・ケネディ(現ケープ・カナベラル)のように、人工衛星を飛ばすことができる基地のような所です。このように、愛の原子爆弾を、愛の衛星を撃つことができる基盤が、皆さんの家庭なのです。(一四三―七二)


二) 霊界は愛中心の暮らし

あの世では、霊人たちが愛を中心として暮らします。それゆえ、愛の福をたくさん分けてあげなさいというのです。そこには涙が流れなければなりません。

人は、良いときに、悪いときにも涙が出ます。良いときにも涙が出るでしょう? 笑うのと泣くのには何パーセント差がありますか。笑うときは目を開けて笑いますが、泣くときには目を閉じて泣きます。笑うとき、あまりにも笑うと涙が出ます。顔の形も別に差がありません。目一つの差です。(二一二―一六六)


これから、芸術だけが残ります。愛に対する詩を詠むことができない人は、落第です。

(二一一―二四六)

宇宙の核、愛の核はどこにあるでしょうか。愛の核があります。前にアメリカでウプシロンという一つの素粒子を発見しましたが、「人間の能力ではその素粒子に接近できない」と言いました。それを見ると、霊界を自動的に公認すべき段階に入ってきたのです。


五百二十六
 
驚くべき事実です。科学的に証明できてこそいいのですが、そうできないのは一つの良い契機ではないかと見たのです。それゆえ、それが四次元世界の起源を備えたのです。自動的に物質の世界が限界線に来ることで、霊界が明らかになるのです。限界線があるのではないのです。霊界と我々の心の中に限界がありますか。我々の心も霊界と同じなのです。

程度の違いはありますが、同様の感覚があるために、霊物だというのです。(八三―二〇九)


我々が霊界に行くようになれば、真の愛の力でいくら遠い所にいる人でも、瞬く間に会うことができ、いくら遠い所にいる人でも、愛のため訪ねていくときは、瞬く間に故郷に帰ることができるというのです。

霊界は、無限に膨大な世界ですが、何百万里、何千万里の距離も、瞬く間に愛を中心として行き来することができる世界です。

愛は、高の速度を出すことができます。しかし、皆さんの体と心の統一的愛の基台をもてないときには、その世界と自分は関係ないのです。ですから、統一の起源が相対世界から起こるのではなく、自分から始まります。

(二一六―一九二)


九 霊界は心情の世界

霊界とはどのような所でしょうか。霊界について話せば「精神病者だ」と言うために、話をしないようにしていますが、霊界とはどんな世界でしょうか。神様の心情と同級に立つことができる心情をもてば、何でも可能な、そのような世界です。

心情の世界は、無限な幸福の世界です。しかし、そこへ行くには、千段、万段の訓練の階段を踏んで教育を受けなければなりません。無限の試練を受けていきながら、一段階、一段階、何億万年もかかって行かなければならないのです。誰でもそのような運命の歩みをすべきなのです。西洋人や東洋人、みな行かなければなりません。自分のために涙を流す人ではなく、人のために涙を流す人でなければなりません。 それゆえ、まごまごしないで、「さあ、しなさい。私は死ぬ。死んでも行く。さあ、しなさい。勝手にしなさい。この心情の中で死ぬ」と立ち向かい、「お前が死んでも、私の心情が生きている限り、殺せない。私は霊界にこの心情をもって行き、接ぎ木するだろう」と、「お前が神様の心情圏を侵犯する? サタンの心情圏を侵犯することはできるが、神様の心情圏を侵犯できないのが天理の原則ではないか」と、神様の側から言うのです。 サタンは、サタン世界の心情圏は主管しますが、天の心情圏は主管できません。

それゆえ神様の心情圏を中心として、サタン世界を同化させてきたとすれば、霊界も同化されると見るのです。そのようになれば、天国の王国になり、東西南北十二の真珠門の中のどの真珠門を通っても、妨げる者がいないのです。みな歓迎するのです。

なぜそのようになるのでしょうか。神様の心情を通じれば、どこからでも一つになることができ、どこからでも和することができるためです。(一〇六―二二九)


世の中の「主義」というものは、良心基準で意識革命の段階になるかもしれませんが、これからは宿命的に勝利することができ、終的に勝利することができるものが出てこなければなりません。それが正に「心情」です。

五百二十七
 
これから人類の心情を革命して、天道の基準を立てることのできる新しい歴史観が出てこなければなりません。この歴史観を基準に、新しい人生観と世界観を創建することができる心情的な主義が出てこなければなりません。では、その主義とはどのような主義でしょうか。それは心情的な人生観、心情的な世界観、心情的な宇宙観を中心としたものであり、統一教会は、正にこのようなことを教えてくれるのです。(一六―二五二)


十 霊界の状況

愛以上に和した神様の前に相対になることのできる人は、考えるすべてを即座に実現化することのできる人です。何千万名が宴会をするというとき、瞬く間に準備をすることができる世界が霊界です。自分が服を豪華絢爛にして、愛の対象として神様を一度楽しくしてさしあげるというときは、豪華絢爛になります。

想像するすべてのことが可能な世界です。

そのような世界が分かる人は、地上では生きる楽しみがありません。それゆえ、先生を監獄にぶち込んでも、先生にはそれが問題とはなりませんでした。しばらくの間となる世の中での暮らしは、永遠の世界で息を一息つくかつかないかの間と同様です。(二一一― 二四四)


霊界に行けば飛び回るのです。真の愛は高のスピードをもっているために、広大な二百二十億光年にもなるこの宇宙も、真の愛をもった神様は、ぴょんと一歩で飛び越えるのです。皆さんも、すべて同じです。霊界では、いくら大きい宇宙があっても、そこは自分自身の活動舞台です。(二一三―二七七)


霊界に行けば、うらやましいことはありません。愛の化身体をダイヤモンドと比較できません。黄金の塊や、真珠と比較できません。宝石が問題ではありません。愛と化した化身体は、もっと美しいのです。 あの世で芸術家に会うようになるなら、自分が芸術的なすべての素質を瞬間的に啓発して、ついていけます。万事が可能な世界です。ですから、あの世に行くようになれば、歌うところでは歌い、踊るのです。

神様は、絵を描くのも一番だというのです。神様が傑作品の絵を持ってきて、張り付けて眺めるでしょうか。傑作に行動する創造物を眺めるでしょう。どちらが好きでしょうか。行動する創造物が好きなのです。そして、その世界は愛の心に酔う高の立場にあるために、老いません。

いつも晴れた日だけであれば、退屈なのです。そこに霧もかかって、月にかさもかかって、そうしてこそ退屈ではないのです。それが美術の世界です。芸術の世界です。

地上でいつも、晴れたり雲がかかったり、ありとあらゆる変化無双の気候を見るとき、それが芸術的なのです。(二〇一―一〇一)


十一 霊界の生活

霊界の生活はどうでしょうか。食べることの心配、生きることの心配、着ることの心配は必要ありません。なぜでしょうか。自分の心霊状態どおりに、願うすべてのことが可能だからです。あの世でも食べます。あの世でも、自分をまず見れば、血筋が、脈拍がどきどきするのを感じることができます。同様です。霊的な体ですが、同じです。

五百二十八
 
自分が何かを食べたいと言えば、食べたい物が食べることができるようになって現れるのです。それがどこから来るのでしょうか。根源の世界を動員することができる、能動的自主性を行使することができる世界が霊界です。それゆえ、全体を動員することができる主体的能動圏をもったものとは何でしょうか。権力でもなく、知識でもなく、お金でもありません。愛です。

神様がいくら高い存在だといっても、「神様 7」と愛の心で呼べば、「何だ」と自分の心の中で答えます。「神様、どこにいらっしゃいますか」と言うと、「どこにいるかとはなんだ、お前の心の根本にいるだろう」と言うのです。神様が、本来根本です。心の根の根本にあります。

自分の愛に酔って、直感で感じるのを実現するため、命令すればそれがただそのまま繰り広げられるのです。そして、あの世に行くようになるなら、乙女で暮らして一人で行った人たちや、男一人で暮らして行った人たちは困ります。

そのような人たちはどこかに行っても、和合ができません。女たちの世界に行ってもそうであり、男たちの世界に行ってもそうであり、行く所がありません。(一九四―四一)


十二 霊界ですべき仕事

我々が死んだのちには、どのようになりますか。死ぬことでみな終わるのではありません。

お父さんがもっている愛を引き継いだ息子は、その家の中など、どこへ行っても歓迎されます。それが原則です。霊界にいるすべての霊人たちも、すべて歓迎します。霊界は、永遠の世界です。一生の間、愛して疲れた人は、老いて死んでも、あの世で愛の若者として生まれるのです。愛の美男子として生まれるのです。思春期の愛の歌を歌っても余りある、そのような無限で永遠な生命体として生まれるというのです。 皆さんが霊界に行って、する仕事とは何でしょうか。その国でする仕事とは何でしょうか。そこで金もうけをしますか。服が必要で、家が必要ですか。皆さんが願うものは、即座に補給されます。霊界は、自分の程度で解決することができる世です。

願うものはすべて、「現れろ」と言えば即座に現れるのです。しかし、自分のために現れろと、いくら「死ぬ」と大声で大騒ぎしても駄目です。反対に、天国の王子の立場で王に侍る中で、「すべてが必要だから現れろ」と言うようになれば、即座です。想像できるものはみな可能な世界が霊界です。(一二九

―一〇〇)


霊界に行って何をしますか。愛の歌を歌うのです。愛で言葉を話すのです。霊界では、対象がオペラ式に言葉を話せば、自分もオペラ式に答えなければなりません。踊りで言葉を話せば、踊りで答えなければなりません。ただ永遠に喜び、飽きません。一箇所で踊りを踊れば、天国が全部踊り、一箇所で歌えば、

全部歌うのです。


霊界ではいつも、すべての器官が働いています。どんなことをするのですか。永遠に寝なくても喜ぶことができる、そのようなこととは何でしょうか。愛です。そのような愛の理想だけもてばいいのです。そこで、愛を除いておけば何の話がありますか。そこでは愛をもって、本然の愛を中心として暮らすのです。 そのような世界を知るために、世の中にいくら難しいことがあっても越えていくことができ、好きだったことも断つことがことができるのです。普通の人ができないことを、無慈悲に断つことができます。我々は、それを



五百二十九



基準として測定していくのです。(一〇七― 三三一)


第四節 霊界の立場と実像一 霊界の立場

皆さんがこの時代に考えるべきことは、霊界です。今までの霊界は、天使世界と似たり寄ったりです。

我々統一教会の信者たちは、堕落しないアダム・エバと同じです。すなわち、堕落しなかったアダム・エバ圏にいるのです。これは霊界から見れば、この地上に現れた楽園と同じです。(五一―二二九)


霊界は、時間と空間を超越した世界であるために、六千年前の悲しみも、歴史時代圏内に永遠に残るのです。もし、自ら祭物を捧げたという体験で喜びを感じたなら、それが生活圏の内容であっても、一生において忘れられないのです。歳月が過ぎれば過ぎるほど、その幅と広さが大きくなってあがめられる対象になり、それが無限の根源と因縁が結ばれるのです。

これから皆さんがこのような神霊的な体験をして実行するようになれば、神様が今まで受けてこられた悲しみが一時的なものではなく、連続的につながって出てくるということが分かるでしょう。それは、間違いない事実です。(二九―二九四)


人間世界で生じるたった一つの問題とは何でしょうか。愛の光は明るくなければなりません。愛の光が明るくあるためには、内的、外的に燃えなければなりません。何で燃えるべきでしょうか。愛するための発動力で燃えるべきです。そのようなことがみな分かってみるとき、世の中の万事は、過ぎ去る一つの旅行地でのことです。(一九四―五六)


二 霊界の実像

霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人に見えます。それで、主体である神様と、大きな一人と一つになるのです。そうなれば、全霊界と肉界が、みなとろとろになります。神様が跳ねれば、地も跳ね、神様が笑えば、地も笑い、そのようになっています。

霊界に行ってみれば、一人のような組織になっているというのです。(九一―二八〇)


霊界に行けば、通じない所がありません。霊界の動きを妨げるものが何もないからです。天の本性稟の存在なのに、それを妨げるようになっていないのです。みな通じるようになっています。時空を超越しているので、何億年前にいた人が、今もいます。その人たちも、自分が願う年齢で現れるのです。それゆえ、そのような人たちにいくらでも会うことができます。


530 * 五百三十
 
ですから、説明が必要なく、弁明が必要ありません。さっと見れば、すぐ分かるようになっています。あの人が自分の下なのか、横なのか、高い位置なのか分かるのです。何億の愛の位階が分かるのです。その位階は絶対的です。その位階が高い人は、自然にその位階に合わせて、自分が立つべき位置に立っています。地上世界と違います。謀略中傷して出世する人は、逆さまになるのです。その反対になります。それで正道を見ろ、正道を見ろというのです。(一九四―一三三)

三 霊界の誇り

年が多い人たちがみ旨の道を行くには、これからどのようにすべきでしょうか。肉身が老衰すれば、生理作用でも制約をたくさん受けるようになりますが、これを何で補強すべきでしょうか。先生はこれを研究しています。霊と肉を中心として活動しなければならない時代に、絶えず弱化したとすればどうするでしょうか。先生がそれを今準備しているところです。

では、問題は何でしょか。新しい出発をしなければなりません。新しい出発をするには、毎日のように新しいものを発見しなさいというのです。新しいものを発見する人は、絶対に落伍者になりません。難しい所にやられても、絶対に失望しません。かえって楽しみがわくのです。

霊界に行けば、誇るべきこととは何でしょうか。生命をどれほど生かしてやったかということです。これが誇りです。甲なら甲、乙なら乙、あるいは氏族を超越して、数多くの民族を立てた生命と関連させて、どれほど生かしてやったかということが財産です。財産はそれしかありません。

霊界には、ない物がないので懐かしい物はありませんが、も懐かしいものがあるとするなら、真なる人です。それゆえ、真なる人を養育するために功を捧げたその功臣は、天上世界で当然、栄光の息子、娘になることができます。それゆえ、誇ることができるのは、それしかないのです。(三〇―一四七)


霊界で、皆さんの心が愛の鐘の音が鳴る場に入るようになれば、明かりがだんだん大きくなります。この光は、五色燦然としたものなのです。神様の目には、ダイヤモンドの光より、もっと美しく見えるのです。

そして、その光だけが良いのではなく、その光の中には味があるのです。それは、見るほど良いというのです。絶えず、見れば見るほど酔ってしまいます。それゆえ神様は、愛という言葉を言うのです。

それゆえ、愛の涙をどれほど流したか、愛の切なさをどれほどもったか、それが皆さんの財産なのです。(一〇三―二八)


四 統一教会と霊界

神様は、どれほど大きいでしょうか。この宇宙を創造した方です。この太陽系だけでも、とてつもなく大きいのです。

統一教会員たちは、世界の主権をもった天国の民です。それだけでなく、天国の大使です。大使は、自分の命を捧げる恨があっても、怨讐と徹底して談判するときには、天命に従って絶対譲歩しないのです。我々はサタン世界に入ってきていますが、サタンの命令を受けるのではなく、天国の命令を受けて生きる、天の国の大使です。

五百三十一
 
統一教会は、背後の霊界という膨大な基盤をもっています。アメリカの国民が、あのアフリカの一つの村で暮らして被害を受ければ、アメリカの国務省で直接問題になって、ホワイト・ハウスで直接問題になるのと同様に、我々があの田舎の悲惨な場で、もし被害を受ける立場にあるなら、天国で問題となって、統一教会で問題となって、損害賠償請求が論議されるのです。自分がこのような立場に立っているのです。皆さんがそのような立場に立っていると思ってみましたか。そのように考えてみましたか。ですから、卑屈になるなというのです。悪口を言われても堂々と受けて、堂々と行かなければなりません。(九六

―八五)


統一教会は、霊的な個人を動員することができ、先祖を動員することができる能力をもっています。今までの宗教は、霊界と肉界をつなげられなかったために、霊的な精誠を捧げて、縦的な面に拍子と波動が合ってこそ接触をしましたが、今はその放送局自体に入ってきました。振動板のような立場に立ちました。波動ではなく、波動を起こす送信機自体だというのです。

ここから何千周波数にするとか、何十周波数にするとか、短波にするとか、持っていってつければ、その波長の電波を全部出すことができます。自分が放送局をもったために、「霊界にいる我々の先祖たちが来て、私に協助してくださいませ。善の先祖よ、来て協助してくださいませ。そのような震動が必要です」と言えば、来るようになっています。個人を呼んで動かすことができ、家庭を呼んでも動かすことができ、氏族圏、民族圏、世界圏を中心としてつなげることができる基盤が、地上にできて入ってきたために、それが動いて降りてくるのです。このようになって、今まで自分の体が自分も知らずに引かれていくのです。(一六二―一〇五)


天の前に行くときは、死ぬようになるときは、うまくやったことから報告するのではありません。過ったことから報告して、うまくやったことを報告しなければいけません。世の中は「お前は何をした?」と言えば、「私はこれこれこのようにしました」と悪いことはみな隠します。しかし、霊界は違います。霊界は、悪いことから報告しなければなりません。順序がそうです。何をしたかというとき、悪いことから報告するのです。

統一教会の信者たちは、いったん地獄に入ります。入ってから弁護士を立てて、全部抜いてこなければなりません。この人は、過去にみ旨を中心として御父母様の時代にある仕事をしたと、弁護して引き出すのです。適当に暮らしてはいけません。適当にしてもいいなら、先生が監獄を何しに訪ね回り、一生の間、「あいつはたたき殺す者だ」と指さされて暮らしますか。そのように暮らさなくてはいけないのです。ちょこちょことはできません。(一九六―二八五)

我々は、すてきな人たちです。世界がうらやましがり、天地がうらやましがり、霊界のすべての聖人と賢哲たちがうらやましがる、堂々とした人生の生涯を歩んでいる者たちです。天が捨てることができず、天が褒めるだけでなく、訪ねてきて「愛する」と言える、そのような背景と内容をもって暮らす、すてきな男たちです。(一七一―二九)


五 韓国の風習と霊界

韓国民族は、長い歴史をもっている特殊な民族です。他の国を一度も侵犯したことがありません。今まで打たれてきました。強国の間で残ったことは奇跡です。天が保護してくださったために残りました。


五百三十二
 
韓国のすべての風習は、ユダヤ民族の風習と、かなり似ています。先生が霊界を知ってみると、その霊界の風習ととても似ています。赤ん坊を産むときとか、結婚するときとか、また生活態度とか、することを見ると、霊界の原理型と同じものをたくさん発見するよう

になりました。


韓国の食卓を見れば、箸が二つ置かれています。そして、その横には必ずさじがあります。食卓には、いつもそれが主になるのです。また、お膳の上に置かれた器を見ても、必ずプラス・マイナスの相対的関係、すなわち陰陽に調和させて食べ物を準備し、食べます。 そして、七数を中心とした数を合わせています。赤ん坊を産んだのちには、三日の聖別期間があり、結婚後にも三日の聖別期間があり、死んだのちにも三日の聖別期間があります。そして、伝統的なものを相当に尊重視する歴史的な伝統があるのです。(五四―二三七)


六 韓国語と霊界

天国に入るとき、「祖国語」というのが一つのタイトルになったなら、どうしますか。「祖国語を話せるか、話せないか」と聞くのです。そのような原理観です。原理原則に入って、アダム・エバの息子、娘が、アダム・エバが話していた言葉を話すようになっているのであって、他の言葉を話すようになっていません。英語は天使長の言葉なのです。堕落した天使長のものです。それは恥ずかしいことです。

それが原理観です。皆さんは霊界に行けば、皆さんの先祖たちに「先生に侍って暮らしながら、韓国語を習えなかったか」と言われながら、指さされて讒訴されるようになります。

韓国語は「真の父母」の言語です。韓国で生まれたから仕方がありません。(一二八― 二四五)

七 霊界の活動舞台

宇宙は、霊界の活動舞台です。この地上も霊界の活動舞台であると同時に、膨大なこの宇宙も、霊的な活動舞台です。

この地上に、そのような外的な世界、宇宙と関連を結ぶことができるということは、神様の摂理で見るとき、地上に暮らしている天国の民たちが、あの大宇宙に拡大されている数えきれないほどの先祖たちと、いつも連絡することができる基準になったということを、象徴的に見せてくれるのです。この外的な世界で、それを象徴的に表示することが、衛星を通じた宇宙探索です。(一九六―二一五)


八 霊界の所有

大宇宙を眺めるとき、ダイヤモンドの星のような宝石の星があるはずです。それが全部自分の所有なのです。その楽しみで暮らすのです。宇宙を愛するすべての群れが、神様の愛する群れが、大移動をしながら暮らすことができる理想世界です。そこに同伴者になり、同参者にならなければなりません。

同役の者として、犠牲を自任して立ち上がることができれば、あの世の主役、堂々とした責任者になるかもしれませんが、適当にする人たちはあの世で、脱落者であるしかありません。(一二六―一四五)


九 神様と霊界

五百三十三
 
霊界に行っても、神様は見えません。霊界に行っても、神様は絶対見えません。声は聞こえますが、皆さんの目には見えません。ですが、誰が神様の代わりに、形状的な実体として現れるのでしょうか。今まではイエス様が現れました。これから来られる主がいれば、その主が神様の形状を身代わりします。では、イエス様は何になるかというと長男、息子になるのです。イエス様はどのようになるかと言えば、息子になるのです。(一五五―三二〇)


第四章 天 国第一節 天国に対する理解一 天国の所在

聖書に「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)とあります。天国は、この世界の果てにあるのではなく、自分の心にあります。その心とは、どんな立場でしょうか。死のいかなる要素も内包している立場ではなく、それを克服して一つの生命が波及し得る立場です。

天国は、肉身の世界では探すことはできません。この世界ではありません。ですから、天国の起点というものは、心の中に描くことが実現される、ある所です。そのある所を探すことによって、天国を迎えることができるのです。

それゆえ、天国はある終末世界を経て来るのではなく、自分の心で描く一つの起点とともに来るのです。はかりを水平にすることができる一つの支持点と同じものです。はかりは、水平になるのが目的ですが、これは水平から右に傾かなければなりません。重さが左に傾いてはいけません。右に傾くことが出発です。

それで、天国は心から始まってくるのです。心のどこからでしょうか。世の中に勝った心から始まるのです。いくら環境的に天国が築かれたとしても、自分の心が悪で、それを描くことができず、そこに動ずることができない立場にいるなら、天国が来ても、その天国は役に立たないものです。それゆえ、天国を迎え得る基盤になるのは、環境ではなく、自分自身です。自分自身が問題です。天国を維持することができる支柱、支持するその支持点とはどこかというと、環境に先立って、自分の心なのです。(四六―二三)


イエス様は、従っていた弟子たちが現実を清算できずに、これから天国で幸福の基盤を備えるという出世意識をもっているのを見て、その根本を撃破してしまうために、「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われたのです。心の天国を描けない人は、天国の環境になっても、その天国を動かすことはできないのです。心で決心ができずには、完全な行動をすることはできないのです。完全な決心から、完全な行動が生じるのです。


五百三十四
 
それゆえ、自分の心が善にどれほど憧れるかが問題です。歴史的善を憧れながらその善と同行するために、いくら血のにじむような環境があったとしても、それを克服して、いくら孤独な環境の中で闘争の路程があるとしても、それを避けていくのではなく、撃破していくという心で、不変の道を開拓しなければなりません。その心に、一体となり得る体の生活環境を開拓すると決意して誓うところから天国が始まるのであって、心と体が別々に行動するところに天国があるのではありません。心と体が一体となったところから、天国に向かった前進が繰り広げられるのであって、心と体の行動が分かれるところには天国はできません。 そのような観点でイエス様は、心と体が一致し得る内容をもち、左右に傾く環境を除去しながら前進できる主体性を備えてこそ、天国を迎えるようになるという事実を教えてく

ださったのです。


天国は、他人によって来るのではありません。自分によって来るのです。我々は堕落した人間であるために、自分を否定しなければなりません。自分自ら天国を提示できなくなるときには、他人を通して提示するようになるでしょう。そのようになれば、私は天国を提示した人と一つになってこそ、天国に行くことができます。ついていかなければなりません。絶対的に歩調を合わせなければなりません。彼が東に行けば、自分も東に行かなければならないのです。彼が東に行くのに、自分は西に行く、彼がこのようにしたのに、このようにしてはいけない、という心をもってはいけません。そこに批判があってはいけないのです。(四六―二四)


天国は、自分の心にあると言いましたが、その天国とはどのような所でしょうか。神様の愛を中心とした環境圏を設定した所が天国です。では、その圏に行ってとどまる人は、どんな人でなければならないでしょうか。神様の愛の本質と和合できる人でなければなりません。そのような人以外には、行くことはできないのです。

神様の愛の本質と和合できる人とは、どんな人でしょうか。自分を中心にする人は、価値がありません。相手のために自分の生命を投入し、自分のすべての精誠を投入し、自分のすべてを投入しながら与えようとする人だけが、神様の愛の圏内に存続し得るのです。歴史上の偉人もそのようにし、聖人もそうしました。(四六―三六)


二 キリスト教と天国

教会に何百年通ったとしても、自分を中心とする心をもって通えば、天国には行けません。救いを受けられません。もしここで、文なにがしが言うことが間違いだと思うなら、死んでみなさい。そうなのか、違うのか。天国には行けません。

真の宗教とはどのような宗教かということを知るべきであり、真なる人とはどのような人かということを知るべきであり、真なる国とはどのような国かということを知るべきで

す。(七八―一一八)


霊界に行ってみれば、昔に殉教した信徒たちの中で「私がこのように殉教すれば、天国に行けるだろう」と言った人たちは、天国に行けないというのです。

反面、「天の父が私に訪ねてくるために受難の道を歩まれ、血を流されたのだ。主に恩返しをするためには、どんな道でも行く」と言いながら、「その恩返しできる立場で、私が同参できる栄光の一時を迎えたことは、どれほど有り難いか」と言いながら死んだ人は、間違いなく天国に行ったというのです。


五百三十五
 
そのような人は自分のために死んだのではなく、天地のために死んだのです。「私がこのように信じて死ねば、天国に行くだろう」と言って死んだのなら、それは自分のために死んだのです。堕落した人間は、自分を主張しては、絶対に天国に行けないのです。(四一―三五五) 聖書に「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)と言いました。ここに引っ掛かる人は、天国に入れません。二番目の戒めとは何でしょうか。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」

(同二二・三九)と言いました。神様を第一に愛し、隣人を第二に愛する人が、孝行者になるのです。(一九八―二五九)


キリスト教で言うように、イエス様を信じて天国に行けますか。イエス様御自身も、相対理想を成さなければ行けないのです。イエス様お一人で、真なる人を成すことができますか、神様も成せなかったのに。ですから、再び来なければなりません。そうであれば、雲に乗って来ていいですか。今は、現実的内容をみな目で数えることができ、測ることができるこの民族が、私についてくるようになっています。(一七六―二一〇)


今日キリスト教を信じる人たちは、「イエス様を信じれば救われて、天国に行く」と言います。天国に行くにも、「自分一人で行く」と言い、「自分の母や父を連れて天国に行く」と言う人は少ないのです。これから、宗教は個人の救いのみを主張してはいけません。神様が立てた真の宗教なら、宇宙的で、後まで残り得る宗教にならなければなりません。

人類が願う後の宗教があるなら、その宗教は「個人だけを天国に行かせるのがみ旨だ」とは言わないでしょう。天国を個人だけに紹介してはいけません。母と父にも紹介しなければなりません。そのように紹介して、族長までその内容を知るようになれば、一遍について入るようになるのです。(四一―三四一)


三 イエス様と楽園

「イエス様を信じて天国に行こう」と言いますが、誰が天国に行くというのですか。自分個人が行くのですか。今までお母さん、お父さんに仕えて、家庭が共に天国に行こうという、そのような宗教はありませんでした。今までの宗教は、個人圏を中心にしました。しかしこれからは、「家庭が共に天国に入らなければならない」と言う宗教が出てこなければなりません。家庭が一時に救われ得る宗教理念が出てきてこそ、天国の門が開かれるのです。今までの宗教は、一人で綱にぶら下がってぶらりぶらりと上がっていくような、個人の救いの宗教でした。

それゆえ、修行の世界では、独身生活を強調したのです。家庭をもっていることが怨讐なのです。イエス様も、「家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ一〇・三六)と言いました。みな上がってきては、地の主権をつかまなければならず、独身男女は祝福行事に入らなければならないのです。天国は、本来の息子、娘が結婚して、神様の愛を受けて入る所です。それが、本来人間が堕落しないで完成すべき天国です。

五百三十六
 
イエス様は、霊界に一人で行きました。そのために、天国に入れず、楽園に行ったのです。楽園は、天国に行くための待合室です。楽園は、理想的な天国ではないのです。天国は、夫婦が家族たちを連れて入るべきなのです。それゆえイエス様は、再び来て、新郎新婦を迎え、新しく編成された家庭と民族を連れて天国に入らなければならないのです。そのようにするために、神様がイエス様を楽園にとどめさせたのです。それゆえ、再び地上に来て、その原則的な内的基盤を築いて、天国に入らなければならないのです。大ざっぱな計算にはなっていません。

それで、これからはお母さん、お父さんが救われるのです。家庭が全部天国に行くことができる宗教、そのような救いの道理を教えてくれる宗教があれば、そこから国が立てられるのです。個人では、国が立てられないのです。それゆえキリスト教には、国がないのです。結婚できなかった独身男女を集めておいたのが、キリスト教なのです。カトリックの神父と修道女を皆さんは見たでしょう。 この地上に、キリスト教国家がたくさんありますが、その国家の主権者は、キリスト教指導者、すなわち教区長や牧師ではありません。厳然として違います。キリスト教は、霊的な国です。地上には国がありません。地に国がないために、今まで数多くのキリスト教徒が殺されたのです。地上に主権があったなら、キリスト教徒は国家の保護を受けることができるために、死なないというのです。しかし、国がないために、流離弧客(注:さすらいの一人旅)をして、群れを成して歩き回り、集団で殺されたのです。これから我々は、世界のキリスト教徒を合わせて、その国の主権をもって、自分の家、自分の国、自分の世界を探さなければなりません。それをキリスト教徒はしなければなりません。(四一―三四六)


今まで神様は一度も、霊と肉が完成したという条件を備えた人を抱き締めて、愛してみることができなかったのです。イエス様も愛してみることができませんでした。それゆえ、イエス様は今も楽園で祈っていらっしゃるのです。

我々は我々の霊と肉、その全体を抱こうとされる神様の愛を知り、そのような圏内で初めて神様の子女という名分を立て、万物を主管することができなければなりません。そのような世界が、神様が復帰しようとされる主管世界であり、安息の園であることを知るべきです。そうであれば、今我々は個体の問題に帰り、復帰の運命に置かれたことを知り、新しい理念を探してさまよわなければならないということです。そうすべき時が来ました。これからは、真の人生観の問題、宇宙観の問題が台頭するでしょう。(五―四九)


イエス様が、どうして天国に入れなかったのでしょうか。天国は、堕落せずに生きた者が入ることができるように、神様が人間に造ってくださったものです。人間は、本来の原則的な基準に立ってこそ、天国に入ることができます。それゆえ、イエス様御自身も堕落した人間を救い、堕落しなかった人類の父母であるアダム・エバの立場で、息子、娘を率いて入らなければならないのです。しかしイエス様は、一人で生まれて、一人で死んだので、子孫がいません。いないために、楽園に行くようになったのです。天国に入れずに、楽園にいるのです。天国に行くための待合室のような所に行っているのです。

五百三十七
 
それで、イエス様は再び来て、新婦を探さなければならないのです。本来のエデンの園で、アダム・エバが新郎新婦になってこそ天国に行くようになっています。人類始祖は堕落しましたが、その原則は残っているために、その原則どおりに花咲かせるため、イエス様は来られなければならないのです。「再び来て、地で解かなければならない」という聖書のみ言と同じです。(四一―三〇〇)


堕落がなかったなら天国は、ひとり子、ひとり娘が神様の愛を中心として神様の家庭をつくり、神様の愛で暮らしてから、引っ越していく所です。天国へは家庭が入るようになっています。個人は、天国に入れないのです。イエス様は、家庭を成せなかったことによって、天国に入れず、天国の待合室に行って待っているのです。それが楽園です。楽園は、天国に入る準備をするための待合室のような所です。

このように見るとき、天国は空いています。これを考えれば、神様の復帰摂理歴史は、悲しい歴史なのです。

神様は、アダム・エバを失ってしまいました。二人を失ってしまったことだけで終わるのではありません。アダム・エバを失ってしまったということは、アダム・エバの一族を失ってしまったことなのです。その一族が拡大して、民族になり、一つの国家を成し、一つの世界に拡大したはずですが、それらを失ってしまったのです。ですから、アダム・エバを失ってしまうことによって、天国の王権を中心とした王国を失ってしまったことになり、ひとり子、ひとり娘まで失ってしまったのです。(一四三―二五)


四 心情と天国

天国とはどのような所でしょうか。準備したものを持って誇る所であり、侍る生活をしたのを誇る所です。では、その天国とは、どのような人が行く所でしょうか。主を信じて福を受けようと、福を先立たせていく者が行く所でしょうか。違います。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした人が行く所です。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残して、喜んで逝くことができる者が行く所です。そこに復活があるのです。

生活の内幕は現れていません。どのように生活すべきかということが、今我々が侍る生活の中で、考えるべき重大な問題です。(八

―三〇四)


天国という所は、心情を通じなくては行くことができない所です。天国は、全体を主管し得る本然の国であり、本性の国です。その国は、事情をもっては所有することはできません。深く染み込む心情の因縁をもってこそ、所有することができる国です。それゆえキリスト教は究極的に、事情に通じる教会ではありません。心情に通じる教会です。地に対して摂理される天には、事情の因縁を越えて、心情をうたうことができる基盤を築こうという目的があるのです。

堕落とは何でしょうか。神様の事情を論ずることができないのではなく、心情を論ずることができないのが堕落です。堕落した人間を探してこられる神様は、失った息子、娘に対する心情はもっていても、その心情を分かち合うことができる人がいないので、その人たちを探して立てる役事をされます。それが救いの役事であり、その人たちを立てるために送られた者が、救世主です。

五百三十八
 
我々は、天国を望む前に、神様の心情を願うべきであり、また神様の心情を願う前に、私自身がどのように生きていくべきかを考えなければなりません。私自身が、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものについては、頭を下げて恋しがるのが、人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたがるのが、我々造られた人間の本然の心情です。心情に通じることができる、侍る生活をしてみることができなかった人は、天国と何らの因縁もないというのです。

侍るためには、侍ることができるようになる準備が必要です。その準備の過程を経たのちには、侍る生活が必要です。侍るための準備の過程を経て、侍る生活を経たのちにこそ行く所が天国です。心情で侍る人が行く所が天国です。侍ることができる準備と、侍る生活をたたえ、高くとどろかせる世界が天国です。我々は、このような目的の世界に向かっていくべき運命に置かれているのです。

堕落の血統を受け、生まれたその日から今日まで、全世界の人類が心情を尽くして天に侍った一日があったかといえば、なかったのです。堕落する前に、我々の先祖のアダム・エバは、創造理想を通じて育ちましたが、心情の因縁を立てて神様に侍ったことがなかったのです。

神様の恨とは何でしょうか。心情を中心として神様に侍るべき人間が、侍ることができない立場に落ちたので、心情を中心として侍られるべき神様が、侍られることができなかったのです。信じる者がいないのが恨ではなく、神様を知る者がいないのが恨ではありません。心情を通じて神様に侍り、心情を通じて神様に対し得る人がいないことが、天と地の恨なのです。(八―二九〇)


今日、数多くの宗教人たちは、「天国は自分の宗教を通じてのみ成される」と言います。それは、すべて妄想的な言葉です。数多くの宗教が、各々その教祖が教える教理を通じて天国がなされる、と言います。キリスト教だけ見ても、数十の教派に分かれています。自分の教派でなければ異端視し、サタン視する現実において、その教団が神様から公証を受けてそんな言葉を言うなら分かりませんが、ただ自分の教派を立てて、自分の教派を残すための欲からそう言うのなら、動機が純粋ではありません。そのような教団は、すべて滅びるようになります。もし統一教会がそうなら、統一教会から滅びるべきです。

このように見るとき、宗教の先決問題は、天国を成すことではありません。それが一次的な目的ではありません。天国が出てくる前に、天国を受け継ぐことができる、一つの特定の民族が必要なのです。神様は、そのような民族をつくるために選民を立てられたのです。歴史上にこのような選民思想があるという事実は、悪の世の中に善の一派を残すための主導的な思潮が歴史の背後にあることを証すのです。

悪の世界で選民が出てくるようになれば、天国は成され始めます。しかし、天国の民が出てくるには、天国の子孫が出てこなければなりません。また、民と国が出てくる前に、天国を成すことができる家庭が出てこなければならないのです。家庭が出てくるには、天が保障し得る一人の男性が出てこなければならず、一人の女性が出てこなければなりません。 そのような男性と女性だけが出てくればいいのでしょうか。違います。その男性と女性を通じて、息子、娘が出てこなければなりません。そうして、神様が永遠の息子、娘だと保証することができる、一つの家庭が出てこなければなりません。このような家庭なしに、氏族と民族を成すことができず、そのような



五百三十九



民族なしに、国家と世界を成すことができないということは、極めて当然な事実です。 神様が訪ねてこられる拠点は個人です。個人に囲いを巡らせているのです。それで、今まで宗教は、個人の救いを目的にしてきたのです。しかし、神様が探している救いの目的は、個人の救いではありません。家庭です。それゆえ、天国の家庭の基盤を探して立てる前に、天国氏族、天国民族、天国国家、天国世界などはあり得ないのです。(四七―二五〇)


天国と地獄はどこから分かれるかというと、聖書をよく知って、言葉をよく話すことで天国と地獄が決定されるのではありません。実績と心情が問題になるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線に左右されるのです。(三二―二三一)


五 肉身と地獄

アダム・エバは神様の体です。コリント人への第一の手紙第三章に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(一六節)と言われたように、この体には、神様が臨むことができるのです。その体は、今日堕落した人間たちの体ではありません。イエス様を信じて救われようとする、故障して修理工場を経てきた体に、神様が臨むというのではありません。純粋な、初愛を含んだ創造理想的人間でなければなりません。しかし、神様の愛の圏内から脱した人間なのです。

地獄とは何でしょうか。悪魔の愛の圏内を言います。悪魔は、憎悪と嫉妬とねたみと分裂と破綻だけを崇拝するのです。それで、悪魔の圏はそのようなものだけが盛んなのです。それが戦争として現れます。そのような悪魔をなくしてしまわなければなりません。

神様の胸にくぎが刺さった事情とは何でしょうか。悪魔が生じたためです。悪魔の血肉を愛で植えたという事実、悪魔の種を植えたというこの無念な事実、悪魔の家庭を見たというその事実のゆえです。神様の管理下で千年、万年愛し合いながら暮らすことができる家庭が、悪魔の家庭の顕現とともに、破壊されたのです。その代わりに、悪魔の氏族を中心とした家庭が、世界的に広がりました。今、世界には百八十余りの国があります。それも、数多くの氏族が互いに戦い、弱者が強者に吸収されたので、この程度です。これを神様のみ旨の中で一つにしなければなりません。 では、サタンはどこに根拠地を立てたのでしょうか。サタンも神様が分かります。神様は、創造本性の起源であり、悪魔は本来その起源を通じて造られたために、相対的基準に立っているのです。愛で見るとき、この起源的基準が良心です。良心は、誰に似たのでしょうか。神様に似たのです。それで、神側だと言います。体は誰に似たのでしょうか。悪魔に似たために、サタン側だと言います。 良心が、体のためにどれほど犠牲になりましたか。夜も昼も自分を管理するのに疲れたものが、良心です。それでも疲れを見せずに、体が悪い行動をしようとすれば妨げるのです。自分に一番近いもの、父母の代わり、神様の代わり、師の代わりになる存在が、良心です。心自体には教育は必要ありません。しかし、体には教育が絶対必要です。

540 * 五百四十
 
それゆえ、体がしようとするとおりにすれば、地獄と通じるのであり、心がしようとするとおりにすれば、天国と通ずるのです。天国と地獄の分岐線が自分です。三十八度線を中心として南北に分け、サタンが乗っています。それが分かるために、分けておいたのです。これを分けておかずに死ねば、個人的な三十八度線によって霊界がふさがってしまいます。家庭的三十八度線、国家的三十八度線で全部ふさがってしまいます。世界的三十八度線、宇宙的三十八度線をどのように越えますか。

皆さんが、胸の痛むほど悔しく思うべきこととは、正に自分の体が悪魔の舞踏する場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。悪魔の愛を通じて、悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今、自分の体から本然的人格を蹂躙するために、その勢力圏で自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これを清算するには、国でも清算する道がありません。自分自身がしなければなりません。 宗教というものは何でしょうか。罪の根と闘うのが、宗教の本質的闘争歴史です。しかし、自分は全部地獄に行く版図になっていながら、自分自身が悪魔の舞踏する場になっていながら、宗教の旗を掲げて社会を救うと、大騒ぎするのです。

自分を憎まなければならないのです。この体を憎むべきです。自分の体に怨讐の血が蠢動するのに、これを刀で断つこともできず、火で焼くこともできない自分であることを知るべきです。神様の保護を受けることのできない立場に立って、万物を消化し消耗する、消耗工場になっているという悲痛な事実を知るべきです。(二一四―二八一)


復帰摂理で見て、これが 後のみ旨だと思うなら、瞬間瞬間を深刻に考える自分になったかを反省してみなければなりません。世の中に巻き込まれて回る姿勢ではいけません。 一度も深刻な場に立てず、一瞬も深刻な瞬間をもてなかったなら、彼は神様の前に恥ずかしい人です。

私は、どれほど天地の公法をよく守って、天地が公認することができる立場で生きているでしょうか。死が差し迫って、今までどのように生きたかと自問したとき、生涯を通じて善に生きるという心が、六〇パーセントを越えなければ地獄行きです。

体は制限を受けても、心は制限を受けまいとする闘争の歴史をもたなければなりません。天と地、歴史と現実を、そして後孫についても、「私は解放されるのだ。だから、私の伝統を受け継げ」と言うことができなければなりません。そのような瞬間をもてなかったなら、彼は容赦なく地獄行きです。(一九―二七)


世界も混乱です。では、霊界はどうでしょうか。そのような混乱した人間の群像が霊界に行って一箇所に集まっているので、混乱せざるを得ません。どろぼうすることも習慣になれば、いつもどろぼうするようになります。ですから、地球星でどろぼうしていた者たちが天上世界に行っても、ただで得ようと願います。それで、処置に困るので、地獄という

ものができたのです。


地獄は、神様が造ったものではありません。地獄は生まれたのです。ごみ箱を作っておいて、家を建てたりはしません。家を建ててみると、ごみ箱が必要になったのです。同様です。既成教会員たちはみな、根本を知りませ

ん。(一四八―二八)

五百四十一
 

もし、偽物の包みを持っていたなら、いつ清算するでしょうか。皆さんには、そのような心がありませんか。片方の目が見えなければ、その目を抜いてしまうとか、治しておかなければなりません。分別しなければなりません。神様がいらっしゃるなら、このようなことを是正できる方法を教えてあげなければなりません。それで宗教が出てきたのです。 神様は、ねたみの心や嫉妬が多いために、地獄を造っておいたのではありません。偽物が生じて、偽物を処理する処置の倉庫として、地獄を造ったのです。誰がごみ箱を先に作って、家を建てるでしょうか。キムチを漬けようと、良い白菜を買ってきたのに、漬けてみると虫が食ったくずのようなものが出てきたので、ごみ箱に入れるようになるのです。堕落は、人間の初の先祖が犯しました。それゆえ、これを蕩減して罪を清算するためには、

「真の父母」の資格をもってこそ可能になる

のです。(二〇―一一八)

宇宙の高のおじいさんとは誰かといえば、神様です。その次に、この世界を一つにするのに、全天地を一つにするのに、その終わりの子孫とは誰かというと、未来の後孫です。これをつなげなければなりません。何でつなげるかといえば、家庭です。国ではありません。天国に行くのに、「アメリカ人だ」と言っても認めてくれません。「後進国の者だ」と言っても排斥しません。

この主流家庭の組織を中心として、神様のみ旨とともに、過去、現在、未来をつなげ得るモデル型だけを認めます。これが公式だということを知るべきです。そのようになった実を持っていって、貯蔵する倉庫が天国です。

今まで、人間の世の中に生まれた人たちには、神様が救うことができる条件が一つもなかったために、全部地獄行きでした。虫が食って、うじがわきましたが、それを豚にでも食べさせるとか、他のものに使うとか言って、仕方なく持っていって貯蔵した所が地獄です。地獄と楽園があるというのです。このように話せば、天国は空いているということを実感できます。(一三五―一一八)


霊界に行ってみれば、人々が、いろいろな段階の所にとどまっていますが、その人たちは、どのようにしてそのようになったのでしょうか。どれだけ愛の道理に従い、孝行をし、国に忠誠を尽くしたのか、世界で聖人の道理を果たしたのかという度数の差に従い、該当する立場にとどまっているのです。

人間がこの地で行くべき道は、正道です。正道には個人の正道があり、家庭の正道があり、氏族の正道があり、民族の正道があり、国家の正道があり、世界の正道があり、宇宙の正道がなければならず、神様御自身にも正道があります。このような、たった一つの道がなければならないのです。その道とは、何の道でしょうか。本然の愛の道です。(一四七―一八三)


あの世に行くようになれば、愛の理想に符合し得る、訓練された素性を備えられなかったときには、反作用が働きます。誰かが「地獄へ行け」とは言いません。それゆえ、聖書には「怨讐を愛せよ」とあります。本当の愛は、怨讐にその愛を及ぼして、一次、二次、三次、四次さえ過ぎるようになれば、怨讐は必ずなくなります。このような偉大な力をもったために、イエス様も怨讐を愛したのです。

五百四十二
 
今日、キリスト教徒たちは、怨讐とは個人の怨讐であると思っていますが、違います。無限の価値をもった、この愛の法度に背いた者です。サタンとは誰でしょうか。サタンとは、神様の前に姦夫だったという事実を知るべきです。


私があの霊界に行って、持ち上げて出して調べるというのです。このようなことを言って、「異端だ」と言う声を聞きました。「異端の魁首だ」、「キリスト教世界を滅ぼす」とか、「死ぬべきだ」とかいう、ありとあらゆる悪口を聞きました。ですが、「死ね」と悪口を言った牧師の死んでいくのを見ても、私はまだ死にませんでした。それは何によってでしょうか。天意によってです。まだすべきことが残っているからです。(一二一―一七三)


皆さん 7 自分の子供の中に、殺人強盗になるとか、国家の犯罪を犯して、死刑を受ける息子がいるとしましょう。息子が死ぬ場に行くときに、その父母がついていって、「お前は死ぬ場に行くが、死ねばいい」と言う父母がいますか。その息子にしがみついて、自分も死ぬ場に共に臨もうとするのが父母です。

子供の死が永遠に続くなら、父母がそれを眺めてじっとしているでしょうか。永遠をかけて死んでいくというなら、永遠をかけて生かしてやりたい心をもつであろうし、子供を生かすためにいかなる苦労もいとわないはずです。このように考えるとき、神様はかわいそうなお方です。

人間が死んで地獄に行くのを見るとき、神様は永遠に生かしてやりたくて、やきもきするのです。そうすべき父母の立場で責任を果たすのであって、「えい 7 みな掃いて捨ててしまおう」と言えば、父母の立場に立てはしないのです。それゆえ、地獄まで解放しなければならないという論理が成立します。 息子が、自分を生かすためにやきもきする情景を見れば、「うちのお母さん、お父さんは、私のゆえにあんなふうなのだな」と言い、千万回罪を悔い改めるようになります。そんな母がいて、父がいれば、その子供は、骨が溶け、肉がやせ細るほど悔い改めるようになるのです。父母によって、そうし得る道が生

じるのです。

サタンも、人類を救おうという神様の愛の前には、讒訴できないのです。父母の愛を通じては、悔い改める者を許せない法がありません。

それで、そのような心情を通じて、地獄までも解放しなければなりません。それが真の孝行者として行くべき道ではないでしょうか。それで統一教会では、地獄までも救おうと言うのです。なぜでしょうか。それは、神様がそのようなお方だからです。(六二―五一)


五百四十三
 
地獄という所は、一度引っ掛かれば、永遠に脱することができない所です。それなのに皆さんは、自分のお母さん、お父さん、そして親戚が、地獄に行くということを実感できません。ただ「何とかなるだろう」と言って、おしまいです。しかし、愛する父母が、本当に地獄に行くと考えてみてください。世の中の監獄にさえ入るとしても、泣き叫びながらありとあらゆることをしてでも、引き出そうとするのが人情なのに、まして天情で結ばれた息子、娘が、自分の父母と親戚、兄弟と姉妹すべてが、永遠に出てこれない監獄に行くことが分かるなら、そのようにしますか。 皆さんは、まだ何も知りません。地獄があるのか、ないのか、あるにはあるようだが、どのようなものか知らずにいるのです。確信がなく、ぼんやりとしているでしょう。しかし、死んでみれば分かるのです。死んでみれば、一遍に分かりますが、その時はもう遅いのです。

それで、今まで死んだ父母たちが霊的に現れて、伝道をたくさんします。自分たちが、統一教会に通う息子、娘に反対して死んで、霊界に行ってみると大変になったのです。それで、霊的に現れて、伝道する霊人たちがたくさんいます。そのようにしなければ、三世界で引っ掛かるからです。自分の息子、娘が統一教会に通うのを反対して、行けないようにすれば、三世界で引っ掛かるのです。


それゆえ、天上世界であらゆる精誠を捧げて、善なる先祖の名前で特使を受けて、自分の子供に現れて教えてあげるのです。誰にでも現れることができるのではありません。そのような世界に行ってこそ、統一教会がとてつもない所だということが分かるようになるのです。その時、どれほど驚くかというのです。

「統一教会は、ただこのように集まって別かれる所だ」と言うでしょうが、そうではありません。ここで線を引けば、永遠に引けるのです。この門を閉めれば、永遠に開ける者がいないし、開けば再び閉める者がいません。地上で結ばれたことは、地上で解かなければならないために、皆さん自身が結んだことは、皆さん自身が解かなければなりません。これが問題です。それゆえ、皆さんが伝道をするにおいて、これからはほかの所に行ってするなというのです。(三四―二六六)


六 地獄人も天国を願う 死に際に、「神様、私は今まで神様のみ意のままにできませんでしたが、私の心としては、天国に行こうとしました。ですから、私を蕩減条件を立てたことにしてください」と言えば、神様も公平であるために、そのような人は、天国に行けそうな場所に連れていくのです。

どんな場所に連れていくのでしょうか。行こうとしたために、天国に行こうとする場所に連れていくのです。行ったとおりに返してくださるのです。行くには行くのですが、天国に行こうとする場所に行きます。その場所は、楽園以下の場所です。地獄にいる人も天国に行こうとするのです。(五七―二六五)


七 地上天国と天上天国

個人が安息しようとするなら、家庭の安息圏をつくるべきです。言い換えれば、家庭の囲いをつくるべきなのです。家庭が安息するには、氏族的囲いをつくるべきです。囲いがなければ、いつも侵犯されます。

その次に、氏族が安息するには、民族が囲いになるべきです。その次に、民族が安息するには、国家が囲いになるべきです。そして、国家が安息するには、世界が囲いになるべきです。それゆえ私たちが、国家の囲い、世界の囲いをつくっておいて、中で安息することができる時が来ます。

この世界が安息するには、霊界と肉界を統一させて、囲いをつくらなければなりません。そうしたのちにこそ初めて、神様の愛が地上の全世界のどこにでも及ぶことができる地上の天国が完成し、天上天国が自動的に完成するのです。(六八―二〇)

五百四十四
 

我々が暮らしたい所は天国です。天国には境界線がありません。天国では二つの言葉を使いません。人種の差がありません。人はすべて神様の懐から生まれたので、人類はみな兄弟です。神様を中心として見れば、神様の息子、娘だから、みな兄弟で、地上天国を中心として見れば、すべてが民です。地上天国の民というものです。

国を形成するには、三大要因があります。国が形成されるには、第一は主権、次には民、そして国土がなければなりません。そのため世界は、神様が統治する世界になれませんでした。地球星全体が、我々の国になれずに、世界の民が、一つの国の民になれませんでした。我々は、天国についていろいろ言いますが、天国はこのような条件が備えられたのちに成立するのです。これが成されなかったために、いまだにカイン・アベルが戦いを続けるので、我々は安息することができないのです。 我々は、復帰過程で暮らしたいのではなく、天国で暮らしたいのです。それゆえ、我々が天国を築くというのは、我々が暮らす所を準備しようということです。我々の暮らす所は、天国をつくっておいてこそ生じるのです。これをつくれなければ、我々の後孫はいつも追われる民族になるでしょう。我々はあらゆる精誠を尽くして、後孫にそのような荷を残さない先祖にならなければなりません。(六六

―二八一)

天国に行こうとすれば、「罪を犯さなかった」、「神様の愛を直接受けることができる」、「イエス様を信じる必要がない」、

「救いが必要ないという息子、娘の資格を得ることができる」、これらの過程を経なければなりません。そのように生きた人が天国に行ってこそ、神様の理想の天国がなされます。 イエス様は、血族を通じてそれを成せませんでした。それゆえ、イエス様が再び来て、これを解怨成就しなければなりません。そうせずには、天国に入れません。天国を開く条件は、どこにあるのでしょうか。地にあります。それゆえイエス様は、天国の鍵を地に残して逝かれました。

イエス様と十二使徒が家庭を成せなかったために、今日統一教会で祝福家庭を通し、七十門徒、百二十門徒の家庭を再び探し立てなければならないのです。そうしてこそ、天国が開きます。(一六〇―八九)


神様がアダム・エバを創造しておいて、婚姻のうたげをしてあげようと、相続することを待たれましたが、彼らが堕落したので神様はみ旨を果たせず、四千年ぶりに堕落しない立場でイエス様とイエス様の新婦が合わさって、偽りの父母が出発することによって失った、真の父母の基準を再び探すのです。

真なる父母が産んだ息子、娘たちは、偽りの息子、娘ではなく、真なる息子、娘です。そこから真なる家庭が出てくるのです。真なる家庭が出てきて、真なる氏族が出てきて、真なる民族が出てきて、真なる国が出てきて、そうすることによって真なる世界になります。その世界では、神様を中心として、家庭で天国生活をして、氏族で天国生活をして、民族で天国生活をして、世界で天国生活をしなければなりません。それでこそこの地が、地上天国になるのです。

そのように生きて、この地上で体を脱いで永遠の天国に入れば、そこが霊界の天国です。

これが、神様の摂理の概観です。

五百四十五
 
今日、この地にサタンの血統を受けて生まれた人間は、真の息子、娘とは血統が違います。それゆえ、ローマ書第八章を見れば、養子の立場で「アバ、父よ」と呼ぶとあります。血統が異なるため、橋を架けて神様を呼べるのであって、直接には呼べないようになっているというのです。

しかし、イエス様だけは、神様の直系の血統の因縁をもって来ました。それで、「ひとり子だ」と言ったのです。(一六〇―四四)


今、再臨の一日が来れば、天国でない楽園と地獄のどん底に、新しい理想圏をつくっていかなければなりません。

地獄のどん底で、カイン・アベルを探して、新しい神様の家庭圏を形成するのです。新しい神様の氏族圏、新しい神様の民族圏、新しい神様の国家圏、新しい神様の世界圏を成して、地上にいる人たちを、全部蕩減復帰しなければなりません。カイン・アベルを蕩減復帰して、すべてを吸収、消化して、統一した世界を地上で編成せずして、天国を築こうとする神様の希望を、解怨成就する道はありません。

それでイエス様も、「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)と言いました。地で天国を成さずには、天上世界に天国が生じません。地上に天国の主権を立てなくては、霊界で善の主権を回復することができないという、とてつもない事情が内在しているのです。(一四三―三〇)


皆さんは、天国に行くという考えをしてはいけません。地上に天国を建設するという考えをすべきです。天国を建設する前に、まず皆さん自身が天国人にならなければなりません。天国人になるには、「父の心が自分の心であり、自分の心が父の心である」と自信をもって言うことができる程度に、父と心情一体をなさなければなりません。それで、地上で父の心に代わり、主と先祖たちの心に代わらなければなりません。それでこそ、歴史的なすべての問題を解決することができるので

す。(三―二九五)


八 天国に対する正しい観

風が吹き、暴風雨が吹きつける恨があっても、自分が死んで滅びても、「この信念だけは間違いない。自分が間違うことはあっても、み旨は間違いない」という確固不動の信念をもたなければなりません。朝の信仰と、夕の信仰が違う信仰姿勢をもっていながら、天国を恋しがるなら、それはあまりにも愚かなことです。

天国に接近することができる道とは、どんな道でしょうか。自分を考える立場では、天国に行くことができる道は生じません。自分が天国と距離が遠いということを発見するようになれば、自分というものを打破してしまわなければなりません。自分を攻撃する所でのみ、天国、あるいは間接的な天国でも開放され得る道が開かれます。しかし、自分を擁護する立場で、相対を自分に適用させようとする人、自分自らを主体的立場に置いて相対を引っ張っていこうという人は、天国とは関係を結べません。

五百四十六
 
明らかなことは、天国は自分から成されるのです。いくら相対的天国が完備されたとしても、その天国が呼ぶときに、答えることができる自分自身になれないでいるなら、その天国とは関係がなくなります。 天国とはどのような所でしょうか。サタンを屈服した所です。自身を屈服した所ではありません。自体だけを屈服した所ではありません。堕落した世界圏、習慣的な環境圏、あるいは常習化した所には、天国は臨むことができません。この常習化された環境を、サタンが凝り固まって支配しているために、サタンがここに寓居しているために、このサタンの環境を克服してしまってこそ、天国が来るのです。天国は、サタン世界の内容と相反する所で成されます。もし、そのようでなかったら、天国に成り得ません。天国という名前がついていても、それは環境をたぶらかすためのトリックにしかならないのです。

天国という概念は、サタンを屈服した場所で、サタンが相対することができる一切の要因を否定した場所で、否定するだけでなく清算した場所で、成立することができます。サタンの否定的与件が残っている、歴史的な遺物であるとか、生活のすべての内容を否定して清算した基盤で、天国が肯定され得るのであって、それを残しては、天国の内容を提示することはできないのです。天国は、このよ

うに高貴なものです。


絶対的基準の前に一致し得るものが天国だといいますが、我々が描く天国の概念は、あまりにも混み入っています。あまりにも邪となった立場で、天国を待ち望んでいます。このような生活環境で、絶対的な信仰基準をもって克服するところから天国が始まるのは間違いありませんが、それだけでは天国は決定され得ません。その基盤で、数千年間神様を苦労させ、数多くの人類をもてあそんだサタンを克服してこそ、天国が繰り広げられるのです。 そのまま素直に信じてだけ行く立場では天国が成され得ないということは、言うまでもありません。信じる心だけもっては、絶対に天国が成され得ません。その過程でサタンがいつも戦いを提示するために、戦いの路程を克服してこそ、天国が成されるのです。ここには主権がなければならないし、数多くの民がいなければならないのです。数多くの家庭が、国家なら国家自体を成して、一つの目的のために克服していかなければなりません。 神様の立場から互いに相いれないことなく、主体と共に、どんな時、どんな環境、どんな所でも、こたえて和動することができなければならないのです。生命を捧げる覚悟をして信じる立場では、心に臨在する天国を感じるかもしれませんが、実体的な天国は成されません。二千年の歴史を通して、数多くの殉教と受難の代価を払っても、現実の舞台で天国は成就され得ませんでした。天国は、そのように簡単に成されるものではありません。 聖書に、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)という句があります。「主」という言葉は、永生について忘れられない、絶対的な内容を備えた立場で認識することができる言葉です。主なる神を信じるところから、天国が到来するのではなく、主なる神を愛するところから、天国が来るのです。父のみ旨は愛するところから成されます。信じるところからではなく、愛するところから

成されます。

五百四十七
 
今まで我々の信仰がどれほど至らず、原則に到達するのに、どれほど遠い距離にいたかということを悟るべきです。ひょっとして、ここに初めて来た人がいるかもしれませんが、個人を中心としては、慰められ得る立場に行くことができるかもしれませんが、まともに天国は成されません。個人の心に天国が成されて、個人を中心として神様が喜ばれるといって、天国に成るでしょうか。それが、個人の天国にはなるかもしれませんが、全体の天国にはなれません。

神様が願うことは、個人の天国ではありません。個人が成立させた天国を眺めて喜ばれるのではありません。一人が喜ぶのを見て、天国がすっかりできたと言えるでしょうか。神様は、喜ぶことができる一人、イエス・キリストをこの地に送ったのは、彼を中心に万国を横的につなげて、全体の天国を模索しようとされたのです。それゆえ、メシヤをこの地に送り、犠牲にしたのです。(四六―七四)


第二節 天国に行くための準備一 天国の拠点

我々が真理に近ければ近いほど、真理に心酔するればするほど、その真理は、もっと誰もが奪っていけない中心になるでしょう。千万回混乱する地であっても、宇宙がにわかに破壊されても、中心を心にはっきりと立てた人は、

決して変わらず、動揺もしないでしょう。


しかし、心の中にそのような中心を受け入れる準備をしていなければ、いくら真の真理が現れても、それを知らず、真の生命が現れても知らず、真なる愛が現れても知ることができないでしょう。

今日のキリスト教が、真なる真理と真なる生命、そして真なる愛を探そうとするなら、終わりまで自分を捨てて、誰も奪っていけない心の中心を立てる宗教になるべきです。 今まで地球は、新しい大陸が発見され、だんだん広くなると思ったのに、むしろ日がたつほど狭くなってきています。言い換えれば、文明が発達できなかった時には、世界が広いように感じましたが、歴史が流れて文明が発達しながら、世界はだんだん狭く感じられるようになっているのです。このようなことを見るとき、真理の歴史を経てなされる理想世界は、すべてが自分と直接的な関係を結ぶようになる宇宙的な世界であることが分かります。 天国人の基準、すなわち天国の生命と、天国の愛は、私たち自体から結実されなければいけません。

真理と生命と愛は、一つの家庭のようなものであるために、真理には必ず愛と生命が伴うべきであり、愛にも生命と真理が伴うべきなのです。生命について見るときにも、同様です。そこにも愛と真理が伴うべきなのです。

真理と生命と愛は、なぜこのようにつながっているのでしょうか。一つの物事が存在するためには、必ずその物事を中心として、上下、前後、左右がなければならないのです。存在するものは、何でもこのような三数の圏を脱することができません。これが存在の基本形態です。

このように、三つが出会い、一つの統一的な形態を成していますが、力が逆順に進めば、本来とは異なった力の作用が現れるのです。 それゆえ、本来、愛と生命と真理の神様であられますが、堕落した以後の人間が、愛と生命と真理が均衡の取れた三角形態を成せなかったので、神様はみ旨を成せなかったので

す。(二―一三三)


五百四十八
 
イエス様に従う弟子たちは、イエス様がローマ帝国を一時に占領して、イスラエルの王として君臨するようになれば、自分たちは一つずつの職位をもてると思ったのです。そのようなことは、問題ではありません。まず、自分の心の中に天国の基盤を築くべきであり、その心を中心として、体が神様と一つになり得る基盤を築くべきです。これが一番大きな問題なのです。天国は、自分自身から始まるのです。それゆえ、天国の拠点は、自分の心であるのです。(四七―二七三)


天国の拠点とは、どこにあるのでしょうか。キリスト教徒の中には「イエス様を信じて天国に行く」と言う人がたくさんいます。それならば、天国の拠点はどこにあるのでしょうか。「天国はどこにあるか」と聞くペテロにイエス様は、「あなたの心の中にある」と言いましたが、その天国の拠点とはどこでしょうか。悲しむ心が天国の拠点になり、自分を主張しようとする心が天国の拠点になるのでしょうか。それは、我々が願う内容の拠点ではなく、神様が賛同することができる天国の拠点ではないのです。

天国の拠点を探す人は、この地上の誰よりも孤独な立場にぶつからなければならなりません。それは、なぜそうなのでしょうか。神様が孤独であるために、その人も孤独でなければならず、神様が克服の歴史を経てきたために、その人も克服の歴史路程を経ていかなければならないのです。

天地に悲しみがいっぱいだとして、人間がその悲しみを感じながら悔い改め、慟哭の涙を流すなら、その立場が天国の拠点になり得るでしょうか。それをもってしても、駄目なのです。新しい喜びを感じ得る時を願いながら教団に仕える反面、この世の罪悪を解決しなければならないと決意できなければなりません。そのような責任を誓う一つの方向がなくては、天の拠点はあり得ないのです。

人々の中には、自分は良心的で、社会的に人々が仰ぎ見る立場にいるために、「天国は自分から始まる」と堂々と主張する人がいますが、それはその人が、善と悪は共に出発するという認識をもったからです。しかし、善と悪は、同時に出発し得ないのです。悪が東に行けば、善は西に行くべきであり、悪が動けば、善は停止しなければならないのです。また、悪が欲望をもてば、善は欲望をもってはいけないのです。善と悪は反対です。

天国を探すための出発は、人間の世の中に対する希望をみな失ってしまったところから始まりました。それゆえ、現実生活で満足する人たちの中には、真の宗教人は存在し得ないのです。


世の中が行き違う運命にぶつかり、自分の存在を認識できない絶望に落ちるとき、習慣的な生活におぼれているのではなく、自分の生命までも否定しながら、新しい価値を探していかなければならないのです。このように進むところから、真なる善の出発ができます。


このような観点で見るとき、「自分の人格が天の拠点である」と自信をもって言える人がいるでしょうか。いないのです。また、

「私が今率いている家庭が、天の拠点である。神様がおられるなら、うちの家庭を知らないとは言えない」と自信をもって話せるという家庭も、やはりないのです。また、「我々の氏族は、これこれこのような善の功績をもっているために、神様が我々の氏族に知らぬ振りをすることはできない」と、自信をもって言える氏族がこの世界のどこにいて、そのよ



五百四十九



うな民族がどこにいるか、国家がどこにあるか、主義思想がどこにあるかというとき、呆然としてしまいます。

それで、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言うのです。では、その言葉はどういう意味でしょうか。悪の世界で、自分自身を千年以上守るために努力する人であってこそ、千年生きるという夢を見ることができるのであり、自分自身を万年以上犠牲にしても、それを有り難く考えることができる心をもってこそ、万年生き得る希望を見いだすのです。

同様に、永遠の生命、永遠の幸福、永遠の天国を叫ぶ人がいれば、彼は永遠を目標として現時点を克服しなければならず、現時点で自分を犠牲にしながら、耐えて越えていかなければなりません。このような立場に立ってこそ、永遠の拠点が生じるのです。(四七― 二四七)


二 天国に行く基準

神様を愛さずには、サタン圏内を脱することができないのです。それゆえ、自分の妻より、自分の夫より、神様をもっと愛さなければいけません。堕落した人類がサタン圏内の愛のなわ目の中から、端まで出てきましたが、まだ完全に出てこれませんでした。それゆえ、自分の父や母を神様より愛してはいけないのです。(四一―二九九)


天国に入ることができる人とは、どんな人でしょうか。まず、神様の心に合う人でなければなりません。どのくらい合わなければならないでしょうか。神様が永遠の目的を中心として、永遠の理想を描いていく方であるなら、永遠の基準で心が合うべきです。十年ぐらいは合っていたのに、また合わなくなってしまったのではいけないのです。永遠な神様に、永遠に心を合わせるべきです。そうするには、どのようにすべきでしょうか。永遠に互いに好むことができる息子になるべきです。そのような息子になるには、悲しみの対象としての姿を見せてはいけません。

その次には、神様の体に合わなければなりません。ここで体というのは、方向性をいいます。考えは四方の中心点に代わりますが、体は方向性として現れるのです。神様の心に合う息子になろうとするには、神様の体が東に行くとき、神様と共に東へ行かなければならないのです。神様は、温かいものを好むのに、イエス様が冷たいものを好めばいいでしょうか。神様は今、笑いたいし、話したいのに、イエス様が「寝たい」と言えばいいでしょうか。外的な体を中心として現れるすべてが、一致しなければならないのです。


550 * 五百五十
 
それだけでいいでしょうか。違います。神様は、和気あいあいとした雰囲気を好むのに、殺伐としていてはいけません。神様が和気あいあいとしているときは、和気あいあいとしていなければなりません。内と外が合わなければならないのです。このように、内外だけが合えば済むのでしょうか。その次には、神様のみ旨と一致することをしなければなりません。そうするには、心にないことがあり得ますか。体が嫌がることがあり得ますか。体と心が好むことをしなければならないのです。神様がいらっしゃるなら、神様が好まれることがあるのです。また、イエス様が神様の息子なら、イエス様もそのようなことを好まなければならないのです。(四七―二五七) 天国は、命を懸けなくては絶対に行くことができない所です。命を懸けない人が天国にいるか、いないか、天国に行ってみてください。信仰の本質がそのようになっているので

す。(三七―二五〇)


三 天国の始まり

天国は、どこから始まるのでしょうか。神様の悲しみを解かずには、天国に入ることができません。我々人間が、堕落して以来今まで、悲しい歴史をつづってきたために、悲しい歴史のすべての因縁を直接探さなければなりません。アダム・エバから、六千年歴史から、その因縁を探さなければならないのです。そのような悲しみの神様を教えようというものが、統一教会の原理です。


世の中の人たちは、悲しみがあれば、みな嫌だと逃げます。そのある悲しい事情よりも、もっと悲惨な神様の悲しみを教えてくれるのが、統一教会の原理です。世の中なら、悲しいことがあれば回避して逃げますが、統一教会の原理は、この悲しい所を経ていこうとするのが信条です。世の中では、悲しいことがあれば全部避けていこうとしますが、本来人間は、そうできないようになっています。 神様に対する悲しみを知れば知るほど、神様の悲惨な内容を知れば知るほど、実際においての統一教会は、強力な力が出てきます。それを解いてさしあげようとする力は、無限に爆発作用を引き起こす動機になります。これが、統一教会がもった偉大な力です。(二一―一一三)


四 天国の本質 天国とは、どんな世界でしょうか。そこは、本然の世界であるために、サタンに讒訴され得る個人や家庭や氏族は、入ることができません。天国に入ろうとすれば、個人と家庭と自分の親戚である氏族が一つにならなければなりません。言い換えれば、三代が一つにならなければなりません。アダム家庭について見るとき、アダム一代、カイン・アベル二代、カイン・アベルの息子が三代、このように三代が一つにならなければなりません。神様を中心として見るようになれば、神様が一代、アダム・エバが二代、カインとアベルが三代になります。(二一―五四)


天国は「ため」にしてあげる世界であるために、「ため」にするという観念だけ中心にもっていかなければなりません。「ため」にされるという考えだけをもてば、壊れていくのです。


天国は、神様の愛が充満した世界です。愛の本質は「ため」にされるのではなく、全体のためになるというものです。それゆえ、天国は世の中とは違います。


宗教の教えは、「ため」にして、絶対服従して、犠牲奉仕せよというものですが、世の中にはこのようなことはありません。これは、世の中の何も分からない乞食の輩がすることのようですが、天法を知らなくとも福を受けることができるようにするための、サタン世界に対する神様の暗号による作戦でした。

(四六―四二)


五百五十一
 
五 天国の枠 私たちは、本郷の地を見つけることができませんでした。本郷の地を見つけられなかったから、本郷の祖国を失ってしまいました。本郷の祖国は、地上天国をいいます。天国といえば、地上天国があり、天上天国があります。

国になるためには、三大要素が必要です。第一は、主権がなければならないし、その次には、国土がなければならず、国民がいなければなりません。しかし、神様には主管できる主権がありません。主管し得る人類がいません。ですから、祖国がないのと同じです。このようなものが、本然の人間が暮らすべき世界ではないのです。(一五五―二六)


第三節 天国に行くことができる要素と条件一 天国に行くことができる要素一) 苦労が必要

永遠に残るものがあるなら、それは公的な苦労です。公的な苦労をして霊界に行ったのに、そこで滅びたなら、先生に抗議をしてもいいです。


民族と世界、天地のために働いて霊界に行く人は、知恵深い人です。(一九―三〇)


一国の責任者が怨讐に捕まっていき、優待を受けるようになれば、責任者を失う国の人々は団結ができません。捕まっていった責任者が悲惨に死ねば死ぬほど、彼と因縁をもった人々は、鉄の石のように団結するのです。

そのため、霊界が我々と結束され得る内容は、苦労だというのです。我々が苦労すれば苦労するほど、霊界は私たちと関係ができて団結するのです。 そうしないで、ただうかうかしていれば霊界も同じです。そのような意味で、神様はサタンを通じて作戦されるのです。執拗に苦労させ、殺したりもするのです。死ぬこと自体はかわいそうですが、反作用で結合するようになります。(四九―一〇八)


天国に行こうとする人は、「悲惨に暮らせ、悲惨に死ね、悲惨に行け」と言うのです。その言葉は善い言葉ですか、悪い言葉ですか。善い言葉です。それでは、「死ぬほど出て伝道しなさい」という言葉も善い言葉です。

「人のために命を捨てろ」というのです。自分のためではなく、人のために、世界のために、天下のために命を捨てれば、大宇宙の主人として立ててくださるのです。

貴いものは、万物と人間と神様ですが、

「この世界を善なる立場で抱く」と命を懸けて犠牲になった人は、その三つを懸けて犠牲になったために、神様は、その三つ以上のものを返してあげなければならないのです。イエス様はそのような観点で、「あなたの家の家族が怨讐だ」、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言ったのです。そうしなくては天国に行けないために、これが一番幸福な教訓になるのです。一番高く、一番貴く、一番なくてはならない、絶対的な福音なのです。

五百五十二
 
それで、統一教会に来るようになれば、地上で豊かに暮らそうとしません。ひどく貧乏で、ひどく苦労して死んで、道端に倒れて犬もかみついていかない死骸になったとしても、その場には花が咲く日が来るでしょう。そこには、すべての聖なる人たちが集まって、城を築くでしょう。統一教会の群れを、国のために、世界のためにひどい苦労をさせて、孝行者、忠臣にしてみようというのが、先生の考えです。「行かない」と言うなら張り飛ばすべきです。足でけって、現在の悲惨さを、現在の困難を克服させるのが愛です。

それゆえ、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とおっしゃったのが、第二の戒めではなく、第一の戒めです。 その次に、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・三九)とおっしゃいました。あなたの隣人とは誰ですか。世界万民が隣人であり、兄弟です。世界万民のために心を尽くし、精神を尽くし、命を懸けなさいというのです。命を懸ければ、すっかり成したということです。み旨のために一度死んでみようというのです。どこで死ぬのでしょうか。自分の死ぬ所を探さなければなりません。

一つの爆弾として生まれたら、きれいに岩に落ちて爆発すべきであって、下水のたまりに落ちるなというのです。我々は撃ってしまった爆弾です。「磐石の上に落ちよう。ひどいもの同士、一度やってみよう」と言うのです。このような決心をしたために、今日統一教会の文先生が五十を越えても、まだ行くべき道が遠のかず、躊躇しません。

あすの希望を実現するために精誠を捧げながら涙を流し、努力と精誠を、熱と誠を尽くすのです。この目標に符合し得る一つの帰一点、その一点を備えるために、命をちりあくたのように捨てる覚悟をしていくのが、統一教会の先生がもった主流的な思想です。ここには、冒険が内外につながっているのです。無慈悲な決闘を展開していっているのです。 命を限りを尽くしても、死なずに生き残る基盤になるなら、これは人類歴史に手本になるであろうし、万民の幸福の基調になるでしょう。全天下がそれを和動の起点として、大運動を展開することができる軸になる立場で、神様を動かして、人類の希望を結束させ得る立場で、自分が動ずれば全体が動き、自分が静ずれば全体が静ずるようにするという宇宙史的な責任感を感じながら暮らす男なら、決して

臆病者ではないのです。(四九―三〇三)


修行の道に入っては、人は死ぬときまで死の道を行かなければなりません。死んですべき苦労を、生きて蕩減しようとするから、そのような道を行かなければならないのです。死んで億千万年苦労することを、縮小して、生きている間に蕩減してしまおうというのです。このように修行の道は、永遠に行くべき受難の路程をこの地上で苦難の道を歩んでいくことで蕩減しようというのです。(三一― 三二〇)


二) 愛が必要

天国へは、愛の軌道に乗って行くのです。このように話すと実感がわくでしょう。その愛のひもを引けば引くほど細くなるのではないのです。ゴムひもは引けば引くほど細くなりますが、愛のひもは、引けば引くほど、反対に太くなります。

ですから、み旨のために苦労の親分になることが、世界を占領し得る秘法なのです。苦労の親分が、天国の栄光を独り占めするのです。

五百五十三
 
今日、宗教を信じる人たちが「天国に行こう」と言いますが、天国にそのまま行けますか。まず、地上で天国を迎えてから、行かなければならないのです。地上で天国を迎えるためには、愛の法度を経なければなりません。

皆さんの家庭に、子女たちがたくさん生まれれば生まれるほど、神様の国をもっと愛すべき十字架が加重されるということを感じなければなりません。その家庭に息子、娘をたくさん送るのは、背負う十字架が多いということなので、国のために捧げるべき責任が多いという意味です。そのような内容を知って、責任を果たす人になるべきです。そのような家庭であってこそ、その家庭に後代を相続することができる運勢をもった息子、娘が生まれるのです。(三二―二三二)


どのように天国に行くのでしょうか。神様の愛に狂って生きるべきです。理想のアダム・エバとして、神様を愛すべきであり、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上にイエス様を愛すべきです。そうしなければ、神様の国を愛して、真の愛の相対圏を復帰することができません。これだけ復帰するようになれば、万事が思いどおりになります。

お金がないと心配せず、息子、娘がいないと憂慮せずに、十年、二十年その道を続けて行ってみれば、大きな山や険しい峰にも登れるようになります。自分には、だんだん下っていき、苦労ばかりするように感じられるのですが、だんだん高くなるのです。統一教会は、打たれながら大きくなります。一つの家の中で、十人が暮らしているとすると、公的目的のために九人の反対を受けながらも我慢する人が、その家庭の主人になるのです。すぐ天国

の主人になるのです。(一四二―二八九)


皆さんは、五色人種の息子、娘を抱いて、その孫たちを抱くことができなければなりません。それで、神様の真なる愛をもって、真なる父母として、世界人を愛する家庭の主人になったという立場に立つべきです。神様の愛を中心とした、本然の父母の因縁の中で、真の愛の家庭基準を代表し得る立場に立つことによって、初めて天国に入ることができるのです。


天国に入るには、真なる神様と真なる父母の、真の愛に一つになるべきです。その血統的関係から生まれた息子、娘と共に、この地上に生きてから行く所が天国ですが、今までそのように生きて行った人は一人もいません。それゆえ、天国は空いているのです。(一七六―二一〇)


天国に行く道は、兄弟を神様のように愛するところから開かれます。皆さんは、先生についていこうとしますが、その心で兄弟に従って共に行こうと努力しなければなりません。

天国に一番高く、早く、良く導く者は、神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すようになります。(六六―一二五)


五百五十四
 
では皆さんは、世界天国に向かって行きますか、個人天国に向かって行きますか。世界天国に向かって行くと言えるでしょう。先生も欲が深くて、世界天国に行く愛の綱をぎゅっとつかむために四十年間、迫害されながらこのことをしたのです。個人の愛の綱を残して、家庭の愛の綱、氏族の愛の綱、民族の愛の綱、国家の愛の綱、世界の愛の綱をぎゅっとつかむためにです。ぎゅっとつかんでどこに行くのでしょうか。世界の愛の綱を探した次には、福を受けて出世したから、還故郷するのです。故郷に行って、かわいそうな人たちを生かしてあげるべきではないですか。

(一四三―一四一)


三) 実績をもつべし

過去には、祈祷をして精誠を捧げても、瞬間しかその宗教の教祖と会えませんでした。会ってはみな別かれました。それで、また上がらなければなりません。しかし、今は全部宗教圏を中心として、地上に再臨することができる時が来ました。そのような時代が来たために、皆さんが過去と、現在と、未来を動かせる実績をもてなければ、天国に行けません。


過去の時代は、天使と善なる霊人たちの時代であり、現在の時代は、父母の時代です。そして、未来の時代は、神様の時代です。それゆえ、霊界を動員し、父母様を動員し、神様を動員した実績をもたない人は、天国に入れません。アダム・エバに天使が動いて協助し、神様が動いたのと同じです。そうした次に、宇宙はアダム・エバが動かさなければな

らないのです。


皆さん、神様を中心とした三世界すなわち、過去、現在、未来を支配し得る人だけが、本然の天国に入ります。そうしてこそ、本然の世界である天国に行くのです。(一六一―一九九)


天国に行くことができる条件は、自分の息子、娘よりも神様をもっと愛すべきなのです。夫より、妻よりも、主をもっと愛するべきなのです。自分の体よりも、聖霊をもっと愛するべきなのです。これが三位一体です。(一〇―一〇〇) では、天国に誰が入って暮らすのでしょうか。神様を喜ばせた息子、娘が入って暮らすべきなのです。ところで、堕落という名詞が生まれた以後、数千年の歴史を経てきながら、数多くの人類が膨張、繁殖しました。そのように繁殖した人たちの中で、神様を幸福にしてさしあげた人が、この地に生まれませんで

した。(四三―二三)


皆さんは、統一教会を信じて天国に行くのを願っているかもしれませんが、自分がこの地上で実績を積むことができなければ、たとえ天国に行くとしても、恥ずかしいのです。我々は、観念的に信仰生活をして、天国に行くという群れではありません。すべての努力と精誠を注いで、天国を建設するという群れです。これに反対したり、制止する人がいるなら、許すことができません。天国を建設するためには、自分の心身はもちろんであり、自分のすべての所有物と環境まで全部投入しなければなりません。そして、国家の運命に責任をもつべきであり、さらにアジアの運命にまでも責任をもたなければいけません。

(二二―二二六)


四) 「ため」に生きるべし

五百五十五
 
皆さんが五十年の生涯の中で、二十五年以上をこの宇宙のために、天倫に従って生きたなら、天国に行くのです。それならば、あの国に行って良い霊界にとどまることができますが、自分を中心にして生きたことが多くなったなら、残念ですが善なる本郷の世界に行くのではなく、自分だけのためにしようとする悪の本郷の地獄に行くのです。そのような事実を知り、今から皆さんは自分のために生きた過去の生活を清算して、全体のために、国のために、世界のために、天地のために、神様のために生きる余生を残すために努力しなければなりません。そうするなら、ここから地獄ではなく、天上の理想世界に行進するであろうことは間違いありません(七八―一一九)


霊界がどのようになっているかという事実については、誰にも負けない体験をし、また、霊界は私の専門的な分野です。あの霊界の秩序的起源を尋ねてみれば、どのようになっているでしょうか。「ため」に存在するようになっている世界が、天国です。その所は、我々の本郷です。

我々は良かれ悪しかれ、どうせそこに行くべき運命に置かれています。それが我々の一生の道です。我々は、そこに向かって旅人の道を行っているのです。では、ここで問題となるのは、自分のために暮らしたか、人のための生活をしたかということです。その差に従って、人のために生きたことが多いというときは、天国に行くことができるのです。その反対になるときは、地獄へ行くのです。この原則は、この場では信じられないでしょうが、死んでみれば分かるようになります。 神様は、人類を救うために、宗教を立てて摂理してこられます。それゆえ、高次的な宗教であるほど、その本郷のみ旨と本郷の原則に一致する教訓を述べざるを得ず、「犠牲になれ、奉仕せよ」という勧告をせざる得なかったのです。

このように、神様が歴史と宗教の背後から摂理しているという事実を否定することができません。このような原則について見るとき、

「ため」になろうとする宗教は発展することができますが、自分を中心にして世界に問題を起こしながら、主体的な立場に立とうとする宗教は下っていくという結論も、ここから見いだすことができるのです。(七四―五一) 天国は愛の世界であり、中心者である神様のためにある世界、神様のために生きる世界

です。(九八―三五)


二 天国に行くことができる生活一) 我々の立場

人間の創造は、神様が人間を神様の愛に同参させたことです。神様の愛から出発し、神様の愛の懐でそれを相続し、次に家庭を成して世界的な愛をつなぐ完成者になり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが、人生の道です。

堕落することによって、これが根本的に破綻しました。神様と人間との関係が隔離されてしまったのです。いくら神様の前に帰ろうとしても、帰ることができず、また、神様が我々人間の所にいくら来ようとしても、来ることができない間隔が生じました。壁が生じて、国境が生じたのです。

その壁は、神様も越えることができず、神様を父母として侍る人間も越えることができません。

五百五十六
 
この壁が、我々個人の心と体の間に入り込むようになりました。夫婦の間にも、壁が入り込むようになりました。家庭がそうであり、氏族と民族と国家と世界、全霊界の天国と地獄の間にも、このような塀が生じたのです。この塀を取り除かなくては、神様がいくら天国の栄光の宝座にいらっしゃるとしても、地上にいる我々は、包囲されたこの塀を越えることができません。 これが、この地上に生きている人間の悲劇です。この悲劇をどのように打破するか。我々人間が、神様を父母として侍って生きるべきであり、神様からすべての生活を指導されるべき立場にあるのにもかかわらず、神様がいるのか、いないのかも分からず、あるいは「決定的に神がいない」、さらには「神は死んだ。我々人間世界で神を掃いて捨てなければならない」という悲惨な歴史的な環境が、我々が生きている世界に展開されています。

(一三五―二六七)


二) 天国に行けない場合

み旨が動機になるでしょうか、自分が動機になるでしょうか。自分が動機になってはいけないのです。それなのに、いつもみ旨をあとにして、自分を動機とする時の多いのが、今日の人間たちです。み旨は受難の道を要求していますが、「私」はそれに背こうとします。相反する立場なのです。み旨は右に行けというのに、自分は左に行こうとします。

「私が統一教会に入ってきて、誰ほど苦労できなかったか」という条件を提示して、自分を弁明しようとします。

自分を弁明しようとする者は、天国に入ることができません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場になるべきです。そこには一言半句、何かを提示する内容もありません。弁明される立場です。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場ではありません。自分が一〇〇パーセント認めることのできるものだとしても、神様が見るときは一つです。自分が百と認めるものが、神様には一つなのです。それゆえ、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねていくことはできないのです。

天国はどこから始まるでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張できるものではありません。その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくることはできません。皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行くときには、絶対的な信仰が出てきません。

このような根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、一日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べてする習慣的な生活をしながらも、「私は神様に対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。そのような人たちは、天国を所有することはできません。堂々とすることができないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服してしまったのちにこそ成される天国が成就され得ますか。とんでもないことです。なぜそうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっているため

です。(四六―七九)


五百五十七
 
今までの歴史上に、神様の前に呼ばれた人たちは、全部五十代以上、六十代以上でした。年が多くて、やつれて、間もなく共同墓地に行くしかない人たち、葬送曲を歌う日が近い輩だったのです。そのような背後から、神様は今日、このようにやつれてやせた老年層を捕まえて摂理しますが、これからは壮年層を捕まえて摂理しなければならないのに、彼らを捕まえてどのように摂理を展開させるかという心配をされたのです。神様は、そのような事情を抱いて歴史路程を歩んできたのです。

老年時代が過ぎて壮年時代に、壮年時代が過ぎて青年時代に、青年時代が過ぎて少年時代に、少年時代が過ぎて幼児時代に、そのように皆さんは再び生まれなければならないのです。そうでなけば、天国に行けないのです。皆さんは、少しも汚れなく無邪気な幼子のように、かわいがられることができなければなりません。それで、イエス様はニコデモに、「新しく生まれなければならない」(ヨハネ三・七)と言いました。生まれ変わらなければ、すなわち「重生しなければいけない」と言われたのです。それで、神様は高の収拾する役事として、母の腹中から救いの役事をしようというのです。どれほどすごいことでしょうか。(二〇―九五)


三) 天国のための我々の生活

皆さんが七十年、八十年を生きると見るとき、その中で三分の二が悲しい生活だとするなら、この三分の二をどのようにすべきでしょうか。神様を中心として、うれしい生活にしなければなりません。天国化させなければならないのです。天国は与えながら生きる所です。神様も与えなければならないのです。父母は、子供に与えなければならないのです。良いものを与えてしまっても、もっと良いものがあれば、それもまた与えたいのが父母の心です。(三四―一四一)


皆さんは、今戦っています。自分の一生の間、大砲を撃っているのです。世の中に対する前に、自身の体と心が戦っているのです。これをどのように平和にするか。この戦いで体が勝つか、心が勝つか。「私は間違いなく心が勝つ」と言える人にならなければなりません。心が勝つ人は、善の側であり、体が勝つ人は、悪の側です。

では、体と心が戦っている戦場で、心が体を倒して勝つことができる秘法、または体が心をたたいて捕まえる秘訣とは何か、その戦法とは何でしょうか。これが問題です。その武器とすべての装備が、どのような方向を経て動員されるかという問題が、善になるか、悪になるかを決定づけるのです。ここにおいて重要なのは、この対立を解決し得る要因とは何かということです。悪の世界に暮らしている人間に、善が成立し得る必要要件とは何でしょうか。悪が成立する要件とは何でしょうか。これを知って、取ったり、取り除いたりしようというのです。この要件は、知ってみれば簡単です。(三六―六一)


優れているという男、優れているという女がいるときに、男が男の権利をもって「祝福を自分一人で受ける」、また、女が女の権利をもって「自分は一人で祝福を受ける」と言えますか。神様のみ旨を絶対視して、人類の希望として提示されたすべての条件を越えなければならないのです。そのままでは、できないのです。これからの地上天国ですることとは何かというと、夫婦が互いの相手から世界的な歓迎を受け、世界から尊重される妻と夫になるための道を尋ねていくのです。それが、地上天国で暮らす生活方法です。(一六二―六九)


五百五十八
 
「私」という一人は、善だけを捕まえて行くことはできません。これは世界的に善が占めるとか、悪が占めるとかになれば解決されますが、善が占めるときには生き、悪が占めるときには滅びるのです。このようにこの世界は、死ぬか、生きるかという興亡の道を走っているのです。

個人は、歴史的所産物です。家庭も歴史的所産物であり、国家と世界も歴史の所産物です。その歴史の所産物の中で、善の所産物がどれほどになるでしょうか。自分の個体について比重を計算してみるとき、善の所産物がどれほどになるでしょうか。我々が暮らしている生活環境の中で、善の所産物が何パーセントになり、個体の人格の中で、何パーセントになるかというのが問題です。

悪に接する要因をたくさんもっているか、善に接する要因をたくさんもっているかを見るようになるとき、全体が悪に接する要因として囲まれています。悪が行く道においては、教育は必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行くことができるのです。悪から始まった歴史であるために、教育を受けなくても誰でも行くことができるのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか。自らそのようになったために、今日人類道徳を中心として、良心の標準の前にわきまえて行けと教育するのです。

何を中心とした教育でしょうか。善を中心として、良心を中心として教育をしたのにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人がどれほどいるでしょうか。悪のことは習わなくても、誰でもみなすることができるのです。

誰でも、満点になることができるのです。

このような環境の中で暮らしている我々に、良心はいつも「善であれ」と勧告します。我々の心は、いつも善の人になれと、休まず自分を刺激し、自分に勧告するにもかかわらず、善の自分になったでしょうか。このような問題を考えてみるときに、きょうも嘆息であり、あすも嘆息であり、今年も嘆息であり、青春時代も嘆息であり、中年時代も嘆息であり、老年時代も嘆息なので、嘆息で一生を終えるのではないでしょうか。言い換えれば、悪のことで終わりを見るのではないかというのです。このような結論を下すしかないのです。悪から生まれたために、悪でのたくり、悪に行くのが、今までこの世の中に生まれては死んだ数多くの人間たちの生涯であり、今この地に生きている数多くの人類の行路とい

うものです。


今日、統一教会は何をする所でしょうか。悪くなれと教えてくれるものでしょうか。それなら統一教会は必要ありません。悪は教えてやる必要がないのです。悪の道は教えてやらなくても、楽に行くのです。(三六―五六)


四) 我々と天国

イエス様は死を目の前にしても、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いました。死に際にも、神様に抗議するのではなく、父のみ旨がもっと大きいように、もっと大きな犠牲も当然捧げますという姿勢でした。この立場では、もっと深く入れるために、神様ともっと近い立場に入るのです。そのような人の前には、神様も微動だにされません。そのような人を打つ人は、すぐに滅びます。神様自らが制裁をされるのです。それゆえ、「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(同六・三)と言いました。



五百五十九



ある日、「誰かに何千万ウォンをあげたから、それに対する利子をいくら持ってこなければならないのに」と言いながら、与えたものを記憶する人は、天国の主人になり得ません。与えたものを忘れなければなりません。父母が子供を育てるとき、いくらいくらを投資したから、その利子をもらうと言う、そんな父母がいますか。与えても、みな忘れるのが父母の心です。与えたものを忘れるだけでなく、もっと良いものを与えられなくてふびんに思うのが父母の愛です。その愛は永遠に続くために、父母のいない人を孤児と言い、孤児になるのを好む人はいないのです。(三六―八五)


天国とはどんな所か分かりますか。「ため」にする人たちが行く世界が天国です。自分のためにする人は、絶対行けません。そのような人は、地獄に行くのです。有名な牧師だからといって行けますか。行ってみれば分かります。我々統一教会は、怨讐まで救ってやり、共産党まで救おうとするのに、共産党は統一教会を全部首を切ってなくそうとします。これが違うのです。

ですから、どんな思想がこの世界を支配すべきでしょうか。我々は共産党よりもっと強くなければなりません。悪なる人になって強くてはいけないのです。「ため」にする愛を中心として強くなれば、世界を救っても余るのです。

今我々は、天国で暮らす人ではなく、天国に行こうとする人です。このような生活がどれほど続くでしょうか。きょう終わるのですか。十年、百年かかるでしょうか。しかし、死ねばどのようになりますか。それで接ぎ木されなければならないのです。ぷつりと切ってしまって、接ぎ木されなければならないというのです。(九一―一七三)


後に、どのような世界に行くでしょうか。地獄に行くでしょうか、天国に行くでしょうか。皆さんは行きながら、「先生 7 私を助けてください」と言う人になりますか、「先生 7 どうぞ来てください」と言う人になりますか。死ぬか生きるかなのです。皆さんは、

「結婚して豊かに暮らす」と言いますが、先生が「豊かに暮らせ」と言うのは、「変わらない夫婦になれ」ということです。変わらない夫婦になるには、変わる夫婦の世界に行って、共に修練を受けて、四方に分かれて暮らす世界に行っても、分かれてはいけません。このような修練をされた立場に立たなければなりません。(一二九―一八二)


三 四位基台と天国一) 天国は家庭が入る

先生が、今まで家庭的にだけこのことをしてきたなら、迫害を受けることがありますか。先生は、お父さん、お母さん、親戚一家、姻族の八親等まで、全部集まった場で、み言で彼らを感動させる自信があります。間違いなく、親戚や一家全体をみ旨の前に立てる自信があるのです。それが天のみ旨ではないために、そうすることができませんでした。イエス様もそうすることができなかったために、自分の親戚の前から追い出されました。

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しかし、皆さんはそのようなすべての時を過ごした立場なので、親戚を伝道することができ、父母を捕まえて涙でも流しながら、自分の切なる心情を吐露することができる時代的環境を迎えました。そのため、皆さんの立場は先生の立場よりいいのです。今は、皆さんの親や親戚たちがみ旨を受け入れまいとするなら、泣き叫んでどんな手を使っても感動させることができる時です。


お兄さんは、どうしても対話するのが少し難しいですが、弟ぐらいは、「やあ、お前、信じるのか、信じないのか」と言いながら、小突いて強制的にでも信じるようにできる自由な時が来ました。このような時を迎えているのに、皆さんが責任を果たせなくては、天の前に面目がないのです。先生もこれからは、そのような人たちに対することができません。これをしなければ、天国に行けません。天国へは、家庭を成してこそ行けるのです。(二一―六六)


統一教会は、個人では絶対救われ得ないと見ます。個人としては、天国に行けないのです。一人では行けません。原則がそうです。エデンの園のアダム・エバが二人一緒に天国に行くようになっているのであって、夫または妻だけ天国に行くようになっているでしょうか。夫婦が合わさり、家庭が合わさらずには、天国に行けないのです。それが理想であって、父は地獄に行き、母は天国に行けば何の天国ですか。天国は、夫婦が行くべきなのであり、家庭が行くべきなのであり、家庭だけでなく、家庭の一族が行くべきなのであり、国家全体が行くべきなのです。(五〇―六三)


天国は、どこから始まるのでしょうか。自身が生まれた心情的起源までも否定するところから始まるのです。それで、修行の道を行く人は、独身生活をするのです。しかし、ここには難しい問題があります。再臨主が来て、この問題を解決してあげる時までは、個人的問題に逢着するするようになるのです。


個人の救いを中心にしては、これから行くべき道がないために、人類を救うためには、家庭を救わなければなりません。このような家庭全体が救われ得る道を開いてあげるために、再臨主が再びこの地に来られるのです。今日キリスト教徒が、「イエス様を信じて天国に行く」と言っていますが、全部個人主義に陥っているのです。本来天国には、一人で行くようになっていません。アダム・エバが堕落しないで、神様の愛の圏にとどまっていたなら、彼らは天国に行くでしょうか、行けないでしょうか。そのようになったなら、地

獄はありもしません。


天国は、夫婦が息子、娘を率いて行く所です。息子、娘、孫たちと共に、その一門を率いて行く所です。さらには、国全体が行く所です。それゆえ、天国になるのです。天国は、このようにして成される所です。(四一―三〇〇)


一人で座って「ここが天国だ」と言えば、神様が考えるとき、どれほどもどかしいでしょうか。これをもって「良し」と言えますか。しかし神様が、人間世界を見るとき、宗教の世界を見るとき、どれほどもどかしいですか。

(九六―七一)


五百六十一
 
我々統一教会は、どのような水準にまでなるべきでしょうか。釈迦牟尼よりも立派な人になるべきであり、イエス様や孔子よりも立派な人になるべきです。今までの宗教の目的は、個人を救うことでした。しかし統一教会は、個人の救いよりも、家庭の救いを目的とするのです。統一教会が一般宗教と違う点は、これです。救いを目的としますが、家庭を救

い、天国に行っても自分一人で行かないのです。


統一教会の救済観は、夫は天国に行き、夫人は地獄に送ろうというのではありません。二人とも天国に行こうというのです。母、父を地獄に送るのではなく、母、父を連れて、息子、娘も連れて、天国に行こうというのです。統一教会は、自分が愛する家庭、自分が愛する氏族までそっくり連れて、天国に行くことができる道理を教える宗教であるために、他の宗教とは次元が違います。それゆえ、今までの宗教は、独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は、世界のための家庭であり、神様のための家庭です。これが統一教会の信徒が行くべき道です。

(三四―三五九)


今日、幸福とは何でしょうか。一番初に話しましたが、我々人間の本性が、より次元の高い未来の幸福の基盤のために前進するとき、現在暮らしている家庭で幸福の対象者が誰かというとき、夫には妻であり、妻には夫であり、父母には子供であり、子供には父母です。この基地から天国建設が可能なのです。

「天国はあなた個人にある」という話はされましたが、「天国はあなたの家庭にある」という言葉は言えなかったイエス様が、どれほどかわいそうであり、孤独であられたかを考えてみてください。それでも、皆さんは家庭をもち、幸福を謳歌しています。あるときは、靴を脱いで、世の中が何だかんだ、国が何だかんだと反対しても、それをけ飛ばして、漢江の橋から二人が投身自殺して流れていって、魚の餌になっても有り難いと言えば、それが幸福なのです。そうでしょう。我々にはそうすることのできる一瞬があるのに、天下を救うための求道者の主人であり、神様のひとり子であられるイエス様が、このような環境、天国基地を夢にも見ることができず、

「天国はあなたの心にある」と言いながら、心で天国を犠牲にしようと歩き回って三年も満たせずに十字架に帰られたので、その方の生涯が、どれほど孤独であり悲惨かというのです。

イエス様が願った天国が心の天国ならば、心の天国を越えて環境の天国を築くということは永遠に不可能なのです。家庭天国を越えて、社会天国を築き、国家天国を築くというのは永遠に不可能です。世界天国はいつ成されて、天上天国はいつ成し遂げられるのでしょうか。メシヤには、万民を救い、霊界を解放して、神様を解放させるべき責任があるのです。このような立場を考えるとき、どれほどあきれるでしょうか。イエス様は、十字架にくぎ打たれて死んだのは何でもないのです。そこから倒れれば、天の前に面目が立てられないのです。天国理想、理想社会の覇者として立つようになるから、面目を隠すことができ、覆ってくれるふろしきがあれば訪ねていきたかったのです。百回死んでも、その恥ずかしさを免れる道がないイエス様の心情を分かる者が、誰かいたかというのです。(一二〇―四八)


五百六十二
 
天国という所は、一人では行けません。天国という所は、必ず相対理想を決定づけてこそ入るようになっているために、堕落人間が天国に入るためには、復帰の歴史、復活の歴史、再創造の歴史を経なければなりません。皆さんに祝福をしてあげるのは、天国の門をすっかり開けておくことです。祝福は、閉じている天国の門を開けてあげることです。 その門から家庭が入るのです。息子、娘をもって入らなければならないのです。家庭は、すべての実績をもった歴史的な実にならなければなりません。神様の六千年の復帰歴史が、一次アダム、二次アダム、三次アダムの時代を経たので、家庭でも三人の息子を経て、その三人の息子にも相対を立てておかなければならないのです。それで、家庭的に入るのです。(一五二―二四〇)


二) イエス様と家庭

神様を中心として、永遠に共に暮らすことができる愛の家庭を標準として教えてくれた宗教が、キリスト教です。神様が人間に会おうとするのも、家庭をつくるためです。人間の願いがこれです。これ以上の願いはないのです。

イエス様が家庭を成そうとしましたが、そのみ旨を成せずに十字架に亡くなりました。新郎新婦の名前を残して逝かれたのです。それでイエス様は、再び来て小羊の宴をすると言いました。これは何かというと、神様が安定し得る理想的な家庭を出現させることです。それによって、イエス様は「真の父母」の立場に行くようになるのです。「真の父母」の立場から、真の子女を生んで、真の兄弟を成し、このような真の家庭を中心として、真の氏族と真の民族を成し、新しい民族と新しい国家を形成なさらなければならないのです。これをするために、イエス様は再び来なければならないという結論が出てくるのです。

(三九―三四四)

三) 四位基台と天国

うちに一緒に暮らす夫と赤ん坊たちと、うちのお母さん、お父さん、おじいさんは、天国を案内する三天使だということを知るべきです。おじいさん、妻、息子、娘なので、三天使です。対になっているから、三天使の代表者たちであることを知るべきです。それで、お母さん、お父さんは、おじいさんに習い、息子、娘に習うのです。分かりますか。夫は妻に習い、妻は夫に習うのです。これは事実です。これが家庭の伝統です。

結婚とは何でしょうか。女は男に対して知らなかったことを習うためのものであり、男は女に対して知らなかったことを習うためのものです。これを知るべきです。結婚とは、異性について習うためのプログラムです。それは、学校に入学することが、結婚であるということを知るべきです。それで、単位も百点を取らなければなりません。それでこそ夫も喜び、妻も喜ぶのです。百点を取らなければなりません。そのような話を全部細密に話せばいいのでしょうが、時間がありません。皆さんが微動だにできないように話をしたらいいでしょうが、時間がありません。


五百六十三
 
息子、娘を生むのは、また息子、娘のためにすることは、世界を愛することを習うためです。息子、娘が世界とつながって、未来とつながります。息子、娘がいなければ、未来とつながらないのです。未来と世界につながり得る教育の資料として、息子、娘を与えたことを知るべきです。その次には、先祖たち、おばあさん、おじいさんは、霊界に対する教育のためです。おじいさん、おばあさんの前に孝行をすれば……。霊界にそのシステムができているのです。霊界に対する教育を受けるためのものです。これを知るべきです。


それは何を中心としたものでしょうか。愛というタイトルのもとに、全部つながります。愛を中心として、全部がつながります。おじいさん、おばあさん、夫、妻、息子、娘が、愛を中心にして全部つながっているのです。その愛をもてば、霊界にいる千万代の先祖にも上がっては下がり、あの後孫にもこの愛だけが通じるのです。血管と同様の組織が、霊界の組織であり、この宇宙の組織だということを知るべきです。愛の圏がどれほど素晴らしいでしょう 7 驚くべきことだ 7 ライト(right:正しい)? (はいそうです)。ライトにはマイト(might:権力、力)とパワー(power:力)という意味もあるのです。すべては正義に従いたがります。皆さんはどうですか。愛の僕になり、愛の奴隷になるのが、大の幸福だという結論が出てきました。

(一三五―一二〇)


復帰といえば、四位基台復帰をいうのです。四位基台復帰をするには、父を復帰し、母を復帰し、息子、娘を復帰しなければならないのです。それゆえ、祝福された皆さんは、夫婦が完全に復帰されて、息子、娘を生んで、堕落しなかった立場に立てておかなければなりません。そうするためには、新しい伝統をほうり込まなけばなりません。そうしようとすれば、聖人より良くなければならないというのです。(五八―三五)


家庭天国を成すところで、初めて神様が理想とする地上天国が落ち着くようになるのです。これが四位基台になるべきです。「統一原理」の創造理想の完成は、四位基台完成だ

と言います。

それがなぜそうでしょうか。神様とアダム・エバを中心として、三段階を経て縦的世界と横的世界が繰り広げられると、四位基台を成そうとするからです。アダム・エバの息子、娘がいてこそ、横的な世界が繰り広げられるのです。このようになれば、縦的な世界が自然的に生じるのです。体を中心としては、体の横的基準が息子、娘であり、心の横的基準が霊界だというのです。そこで初めて神様が臨在なされることができるために、地上に天国が実現するのです。(九六―二九)


第四節 天国の門と天国入城一 人間の心門

釈迦牟尼のような方も、神秘的な境地に入って、「天上天下唯我独尊」という言葉を言いました。修道しながら精神を統一して、霊的世界に入って神様の前に完全な対象の位置に入ると「天上天下唯我独尊」という言葉が可能なのです。先生が世の中をぎゅっとつかめば、世の中がこの握りこぶしの中で溶ける気持ちがするのです。そのような境地に入るようになれば、奇跡は自動的に生じます。病気を治すのは、自然に信仰生活の付属物としてついて回るのです。

五百六十四
 
それゆえ、心門に合わせて、心田を啓発しなければならないのです。この心の畑を啓発して、方向基準を開拓するためには、必ず主体であられる神様を発見すべきです。ところで、主体であられる神様は曖昧です。曖昧な神様につながるには精神を集中させて、自分の心から出発する道以外にはないのです。心から、心を明らかにしておけば、必ず方向を知るようになるのです。自然についていくのです。皆さんもそれを感じるでしょう。東に向かって祈祷をしたのに、神秘の境地に入れば、方向が変わるのです。そのようなことが繰り広げられるのです。それゆえ、心の門があるのです。

祈祷は良くできるときもあるし、いくら斎戒沐浴をし精誠を捧げても、できないときがあります。部屋によって、また部屋の位置によっても違います。一つの中心には東西南北があるために、その位置によって違うのです。また、方向によって違うのです。山に行っても、祈祷が良くできる所もあります。また、サタンが集まっている所もあります。それは陰地です。陰地と陽地は、霊的にそのようになっているのです。何回か体験すれば、そのようなことがみな分かります。

すべての暗示や夢のお告げや、啓示や黙示が繰り広げられるのは、人間と神様との関係を結ぶために広がる、開拓的で発展的な不可避の現象であるために、これをおろそかにせず、生活に適用できるよう努力しなければなりません。

そのために皆さんは、心の門を開いて、心の畑を啓発することを今までしてきているのです。心の畑が啓発される場合には、それで終わるのではなく、それを相対的な世界に適用させることができなければならないのです。

(七六―一四三)


二 開天門とは何か一) 開天門すべき理由

なぜ、開天門があるようになったのでしょうか。アダムとエバが失敗しましたが、すべての責任を神様がもったのです。責任をもった神様が、門を開いてあげなければなりません。個人が行く門を開くべきであり、家庭が行く門を開かなければなりません。その次には、氏族が行く門を開かなければなりません。すべての門がふさがっています。民族が行く門もふさがりました。国家が行く門もふさがりました。世界が行く門もふさがりました。これをみな開いておかなければなりません。レバレンド・ムーンが、統一教会の家庭を通じて門を開こうとするのです。


神様は、もっと大きなものを探すために、小さいものを準備してくる作戦をします。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、その次に天宙、霊界までも、地獄と天国にふさがっています。これが、誰のためにそのようになりましたか。アダム・エバが真なる父母になっていたなら、これが一つの世界になったのに、堕落して偽りの父母が生じることによって、地獄と天国がふさがるようになったのです。

五百六十五
 
この歴史的な恨みの塀を、誰が克服してしまうべきでしょうか。真の御父母様が克服してしまうべきです。そのことは、国の王権をもち、宝座でするのではありません。人類が地上の地獄に暮らしていて、霊人たちが霊界の地獄で苦痛を受けているから、地上地獄の門と天上地獄の門をすべて開いて、地上の個人から国家と世界を連結させ、その次に、地上から天上世界まで通じ得るように道をつなげなければなりません。ハイウェイをつなげなければなりません。主流と通じることができる、たった一つの道としてつなげなければなりません。それで、皆さんの心と体が一つになり、一つになった基準で家庭を経て、氏族を経て、民族と国家、世界を越えて、天上世界に行ってもふさぐ塀があってはいけません。みな克服してしまうべきです。

後の問題は、ふさがっている霊的な地獄の門と天国の門を開くことです。地上地獄の門を開き、天上地獄の門を開かずしては、天国に入ることはできません。地獄に勝った人だけが天国に行くことができます。何によって勝つべきでしょうか。祈祷で勝つことができるのではありません。神様の愛をもって勝つべきです。そうせずしては、天国に入れないために、レバレンド・ムーンは神様の愛を中心として地上を経て、天上世界の地獄の門まで開いて、地上から天上まで行ける道を築いておきました。国際平和高速道路という言葉も、それで出てきました。ふさがった塀を壊してしまうのです。

イエス様が、天国の王子、ひとり子の権威をもつことができたのは、サタン世界だけを愛したのではなく、霊界まで愛したためです。

霊的世界も塀でふさがっています。これを全部、より高い神様の心情を通じて払いのけておかなければなりません。天上世界の高い宝座から、存在する塀を壊してしまい、逆さまに下りてこなければなりません。何万年の我々の先祖の塀から、その次に何千年の我々先祖の塀、何百年のこの時代の塀、今何年前に行ったすべての人たちの塀まで、全部壊し、地上のすべての塀を壊して、これを地獄までつなげることができる道を築かなければ、開天門がなされないのです。(一四〇―四三)


二) 開天門の始原

今回、先生が有り難く思うのは、お母様です。お母様は先生がダンベリーにいる間、たびたび深い次元の心情的谷を経験しただろうと思います。分別のなかったころに出会って、その時から平行線で上がってくる人生でした。そのように生きたために、基準がだんだん上がってきているのです。その前には、心情の深い谷は体験できなかったでしょう。ダンベリーによって別れてみたから、先生の貴い価値を知るようになったのです。女性が、夫に対して、その孤独な事情がどうであるかということを知ることができたのです。

それで、二月一日を期して、天上世界と地獄の門を開く式をするようになったのです。今は、駄目なのです。極と極の立場に立てておいてこれをつなげ得る立場でだけ、初めて一つの解決点が生じるのです。霊界と肉界をつなぐのです。一九八五年二月一日午前三時(アメリカ時間)ダンベリーとイースト・ガーデンで、そのような基準を立てたのです。


神様の心をもって、愛の力がつながり得ることを、皆さんがしなければいけません。ずうずうしい責任者になって、神様が救ってあげるべき立場で行こうとするのか、この垂直線から行こうとするのか。

五百六十六
 
天性に向かって行く道は、男と女が一つになって行くべきですが、どこで一つになるのでしょうか。軸で一つになるべきなのです。軸で一つになって、軸に従っていかなければなりません。上がっていくときは、軸に向かって上がっていくべきであり、下がっていくときも、軸に向かって下がっていくべきなのです。そのような道を、家庭を中心として、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏まで蕩減復帰の原則により、誰でもが行かなければならないのです。誰でも、そのような道を経なければなりません。なぜなら、堕落圏にいるためです。(一三六―四七) 先生は一生の間、怨讐を愛することをしました。個人段階からそのことをし、家庭段階でそのことをし、氏族、民族、国家、世界段階、その次に天宙段階までそのことをしました。ダンベリーになぜ入ったのでしょうか。霊界と肉界が塀でふさがっています。堕落した父母によってもつれてしまったものを解くためには、霊界と地獄に道を築いておかなければならなかったのです。


一九八五年二月一日午前三時を期して、お母さんと特別祈祷をすることによって、そのような条件を立てました。その時から、地獄のすべての塀が崩れて、誰でも努力すれば、天上世界に上がることができる道が生じました。また、霊界において自分の親戚たちの中で善の霊がいれば、地獄に来て教育をして、率いていくこともできるようになりました。霊界の救世主の役割が始まったのです。救世主の役割が霊界にはなく、この地にだけあったのに、このような道を築いてあげることによって、あの世の善の霊たちが地獄にいる悪の霊たちを教育して、善の先祖が救世主の役割をしながら、発展して上がることができる道が開かれるようになりました。(一三六― 一八七)


三) 真の父母と天国の門

統一教会の使命とは何でしょうか。統一教会は、過去の宗教とは異なり、個人的な救いだけを願う宗教ではありません。堕落しなかった本然の理想世界を願う宗教です。本然の理想世界は、完成した人間が、神様の愛の中で夫婦の因縁を結んで、息子、娘を生んで天国に行く所を言います。 お父さんが地獄へ行き、お母さんが天国に行っては、それが何の天国ですか。父母は天国に行って、子供が地獄に行けば、それが何の天国かというのです。天国は、父母と子女、氏族、民族、国家がみな入る天の国です。 人類が偽りの父母として出発したので、天国の門を開いて入るには、「真の父母」が出てこなければなりません。神様も、自ら天国の門を開くことができません。神様が自ら天国の門を開くことができるなら、そのような能力がある方が、なぜしないでしょうか。堕落は、人間がしたために、罪を犯した人間が罰を受けなければなりません。人間が天国を失ってしまったから、人間が探さなければならないのです。それで六千年もかかったのです。

では、天国を開門するためには、どのようにすべきでしょうか。僕の僕の立場にいる人を、養子として直系の息子と因縁を結ぶようにして、その直系の息子に絶対服従させなければなりません。ここにおける直系の息子とは誰かというと、堕落する前のアダムです。また、養子は誰かというと、堕落する前の天使長です。本来、養子は僕の立場なので、愛することができません。(四二―二八六)


堕落しなかったなら、霊界に行った人たちが、神様の愛と「真の父母」の愛の核につながって天国に入るでしょうが、歴史始まって以来、そのような因縁をもてなかったために、天国行きが全部保留になりました。どこで保留になったかというと、地獄で保留になり、その次には楽園で保留になっています。それゆえ、天国は空いているのです。

天国には誰が先に入るべきかというと、

五百六十七
 
「真の父母」が先に入らなければなりません。「天国は空いている」と言えば、レバレンド・ムーンを見て「ばかげた話をする」と言うでしょうが、イエス様も天国に入れませんでした。天国は一人では入れません。人間の先祖が、思春期を過ごし、神様を中心とした愛の理想をなして生き、真なる愛の種を残して父母になり、先に入るべき所が天国です。しかしまだ、神様の愛を中心として、父母としてこの地上に愛の種を残した父母がなく、そのような後孫を残した基盤が生じなかったために、天国は空いているのです。


天国に行くには、地獄を経なければなりません。天国に行くには、地獄に勝たなければなりません。地獄に勝った人が、天国に行くのです。地獄を越えて、天国に入る道端にとどまっている所が楽園です。

人類を一人の男と一人の女として見なさいというのです。四十億の人類がいるなら、

「四十億の人類の半分である二十億の人類は男であり、二十億の人類は女である。二十億個の細胞をもった男が生まれ、二十億個の細胞をもった女が生まれた。私は、これを愛する」と、このように考えなさいというのです。四十億の人類を植えて、アダムの再創造とエバの再創造の役事をするのです。

その言葉はどういう意味かというと、二十億の人類の中から、初愛をすることができる一人の男性を選び、二十億の人類の中から、初愛をもって結ばれ得る一人の女性を選び出すためのものなので、このような代表者を二十億の人類の愛の実として見るのです。それで、「二十億の人類の愛の実になる実体を、自分を生んでくれたお母さん、お父さんよりも、もっと愛し、四十億の人類を自分のお母さん、お父さんより、もっと愛する」というようになれば、神様の愛の圏を中心として、一つになった立場で、人類を愛することができるので、自分はサタン世界とは関係ない立場に立つのです。

その代表的な方が真の父という方であり、真の母という方です。「真の父母」を愛する以上の心をもって人類を愛せば、万事がOKです。天上地獄の門も開いて、地上地獄の門も開くのです。そのような人になるところは、どこでもハイウェイです。その代わりに、ガソリン代は皆さんが出さなければなりません。

本然の世界では、天国に行く道は、真の御父母様が導くのではなく、天使たちが導くのです。

真の御父母様が皆さんを導くのは、原理ではないということを知らなければなりません。真の御父母様が道を築いておいたから、真の御父母様を愛すれば、この道をついていくようになっています。今、その道についていきながら、真の御父母様を愛する立場に立って、人類を真の御父母様以上愛するようになれば、皆さんが行く道は、万事が都合よく運びます。ふさがる道がなく、小道がないのです。ですから、皆さんは地上から天国まで直行することができるのです。(拍手)

世の中を眺めれば、二人、男と女がいます。父母様の愛する心をもって、皆さんはサタン圏を超越した心情圏に入るのです。父母様の前に引っ掛かる条件があれば、皆さんはまた行かなければなりません。それで、先生が一生を経て、父母の立場で子女たちが行くべき道を、責任をもってみな築いたのです。

五百六十八
 
皆さんが父母様を愛する心で、人類を愛する立場にあるなら、皆さんは、「真の父母」と一つになって水平線に立つようになります。そうなれば、堕落した心情圏は下になるので、サタンが皆さんに触れることはできません。皆さんは、天国に直通することができるのです。そのようなことを始めるためのものが、開天門の日の宣布です。(一四〇―四五)


四) 開天門に先立つ我々の姿勢

「真の父母」が地上にハイウェイをつくっておき、天上において勝利の覇権をもたらして伝授してあげたから、伝授してあげたその立場で、体と心に神様の愛の根を張り「真の父母」と一つになることによって、サタンは皆さんを離していくことができないのです。 そうなれば、皆さんはどのようになるのでしょうか。「真の父母」と世界のために代表として、カインの息子、娘を救ってあげる蕩減復帰の役事をしたから、皆さんも「真の父母」を愛する以上の心情をもって、世界を愛したというようになれば、皆さんが地上世界や天上世界に行く道を、邪となったものが妨げることはできないのです。皆さんが地上から出発して、世界を越えて、天上世界、天国にまで直行することができるのです。しかし、そのようにできないときは、皆さんの行く道が、幾重にも重なった大きな山と険しい峰になります。これを先生が知ったために、今まで命を捧げて準備して、今日皆さんに開天門の日の記念に参席することができる特権を与えたから、どうか、そのような心情圏をなして、皆さんが無事通過することができる勝利者になることを願います。(一四〇―六二)


三 責任分担を通じた天国行き

皆さんは、今どこにいますか。自分の位置を知るべきです。皆さん自身が、どこにいるか知るべきです。サタンと神様が、人間の責任分担の遂行可否について、「これは、あなたのものであり、これは私のものである」と分けています。人間は責任分担を果たせなければ、神様のものになれません。サタンが、

「これは私のものだ」と主張します。

皆さんが、神様の愛、夫婦の理想的な愛、子女の理想的な愛を慕いながら責任分担を果たすようになっているのであって、「お金が必要で、何が必要だ、知識教育しなければならない」と、このような言葉を言いながら責任分担を果たすようになっていないのです。 天国に入ろうとすれば、門番が責任分担を尋ねるのです。「あなたの責任分担を果たしましたか」と。堕落した世界には、絶対天国に行く人はいないのです。それゆえ神様は、アダム、イエス様の時代を経て、再臨時代を迎え、三次アダムを立てて、責任分担基準を撃破するための運動をしてくるのです。

今、すべての宗教人たちが、宗教を信じるのは、全部天国に行くための責任分担を果たそうということです。責任分担についてサタンは、すべての宗教人たちを一遍に燃やして祭物として捧げても、責任分担というものを人類の前に出してやることができないと考えるのですが、神様は、この宗教人たちを犠牲にする恨があっても、責任分担を探してこなければならないと思うのです。(一四九―三二三)


四 天国と地獄は自身が選択する

信仰生活をしながら、我々は不平を言ってはいけません。不平を言える内容がありません。喜ばなければなりません。涙を流しながらも、喜んで行かなければなりません。涙を



五百六十九



流しながら、笑って行くべきなのです。このように教えてあげましたが、それをどうしますか。しなければ、できません。神様もできません。先生もできないのです。


それゆえ、天国に行き、地獄に行くのは、自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのではなく、神様が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言うところを感謝していけば、天国なのです。(九六―一二二)


天国へは、誰かが教えてあげて行くようになっていません。良心的に生きる人は、自動的に行くようになっている所が天国です。太陽の光が差せば、すべての木の芽は太陽に向かいます。草木までも、自ら方向性をもって回るのに、まして万物の霊長である人間が、自分の行くべき道を知らないはずがないのです。このような現象が起こるのです。(七五

―四二)


第五節 天国と地獄に関係した指示のみ言一 天国、地獄観設定

自分の家庭を中心に、氏族圏を復帰することは、メシヤの使命です。このような氏族的メシヤの使命を果たすことによって、天国、地獄観を設定し、「そこに行けば天国であり、ここに行けば地獄である」ということをはっきりと分別して、地獄側に行かず、他の人も行かないようにしなければなりません。氏族がそのようになった場合には、その周辺の多くの氏族、町もみな追いかけてこざるを得ないのです。

二 永生と地上生活の重要性

地上の生活と霊界の生活とは、別々ではありません。地上の生活も重要であり、霊界の生活も重要です。霊界の生活は、地上生活からつながるという、そのことです。二つとも重要ですが、今日この地に生きる人たちは、永生の概念が分かりません。この地の生活が重要だと思っているのです。これが問題なのです。我々統一教会員にも、現在の生活が永生を保障する基盤であるということを知らない人がたくさんいます。

それゆえ、「永生は今からだ」という天国観を設定した基盤上に、永遠の生命のために、自分が生きるという、その重要性をいつでも感じなさいというのです。これを知らなければ、他のことをするのです。今自分がするすべてのことで、永生の価値が決定するということです。

570 * 五百七十
 
地上世界と霊界は、互いに見つめ合って動きます。地上世界が上がれば霊界も上がり、地上世界が下がれば霊界も下がります。一方が回れば、他方も同様に回ります。それで、現世においてそれを実感して、永生にプラスさせる生活をしなければなりません。永生と現世は分かれないのです。天国と地獄を明らかにしなければ、それが分かりません。永生と地上生活の重要性を感じながら、働きなさいというのです。それは、誰も面倒を見てくれる人がいません。誰よりも自分自身が、神様をよく知っているのです。そのようになれば、皆さんが進んでいくときは天運が抱擁し、その村を離れれば、その村の人たちが、「あの人はどこに行ったか。何日間見ないけれど、どのようになったのか。朝晩に聞いたその声が懐かしい 7」と言いながら探すようになるのです。そのようにならざるを得ません。天運が共にあるために、良心をもった人は、自動的にその方向に、鉄粉が磁石にくっ付くように、すべての生命が光を向けるのと同じで、合わさるのです。

先生がいなければいけません。日本人も、韓国人も、アメリカ人も同じです。なぜそうなのでしょうか。永生の観念は、一致化させようとする主体があるべきだからです。それを、すべての地上的な標準、永遠の標準にすることができます。それは、も重要なことなのです。(二一七―八四)


第五章 メシヤと霊界


第一節 イエス様と霊界

イエス様は、洗礼ヨハネの使命を果たす路程で、十字架を背負って亡くなられました。それで、息子の使命を果たすことができませんでした。イエス様は亡くなられたのち、今までどんなことをされたかというと、天使長を探されたのです。天使長を探した次には、息子の道を行かなければならないのです。それゆえ人間は、僕として行くべき道と、養子が行くべき道を探すのです。イエス様は、直系の息子の使命を果たせなかったのです。天使長の道、僕の道、養子の道を行ったのです。

それゆえ、イエス様を信じても、せいぜい養子にしかなれないのです。この養子は、血筋が違う立場にあるカインと同じ存在です。今まで摂理歴史は、その血筋をつなげるための戦いをしてきているのです。

イエス様は、十字架で息子として死んだのではありません。イエス様が霊と肉が一つになった息子の立場で、神様に勝利をお返しする立場で祭物になっていたなら、再臨する必要はありません。完全に捧げられませんでした。半分しか捧げられませんでした。体は失ってしまい、霊だけ捧げられました。これでは、霊界の天使世界と似たり寄ったりです。 それゆえ、キリスト教を信じていく人たちは、天国に入れず、楽園級以下の霊界に行って待つのです。楽園級以下の霊界は、天使長が支配する霊界、すなわち天使長圏に該当するのです。それゆえ霊界で勝利圏を保障されるためには、地上に勝利圏をつくっておかなければなりません。それを継承させるのが、神様のみ旨であり、イエス様が生まれて死んだみ旨であるために、キリスト教は霊界の勝利圏と地上の勝利圏を一遍に探して立てて、天使長圏を継承しなければならないのです。これがキリスト教の使命です。キリスト教では、実体的完成があり得ません。霊的完成だけがあるのです。それゆえキリスト教は、霊界を主にして来たのです。

再び来られる主は、霊界の天使長圏を屈服させ得る権限をもたなければなりません。それがなくては、地上での出発を見ることができないのです。再び来られる主は、洗礼ヨハネから継承されたのと同様に、霊界で勝利したイエス様以下の霊的世界全体を継承される立場で来なければなりません。言い換えれば、イエス様が洗礼ヨハネから継承されたものと同様に……。洗礼ヨハネが、イエス様に霊的な継承はしましたが、その約束どおりには実践できなくて、分かれました。それで、これを再度なすために、キリスト教を立ててきたのです。(四七―一五七)


五百七十一
 
イエス様は、この地で十字架に亡くなったことだけでも無念なのに、死んで三日間地獄に行っていました。それが試験です。人間には、死が高の恐怖なのに、イエス様には、地獄に行くことが 高の恐怖だというのです。ではイエス様は、その地獄で恐怖の主人になったか、でなければ幸福の主人になったでしょうか。イエス様は地獄に行って、三日間、苦痛を克服するための試練がありました。

(三四―一四四)


神様は公平であられるので、メシヤは平等な思想をもって訪ねてこられるのです。メシヤは、堕落した人間を全部救うための救い主として来るために、どんな人間にも公平に対してくれます。公平な目的と、公平な時代的環境をもって来ます。それゆえメシヤと一つになる人は、メシヤの弟子になることができます。

メシヤは、人間世界の一番底の地獄から、一番栄光の立場まで行くという言葉が成立します。人類の救いのために生命を差し出して、行かない所がないという結論が出てきます。 このような原理で見ると、メシヤが雲に乗って空中に来るというのは、全く荒唐無稽なことです。真っ赤なうそです。そのように言う人は、霊界に対して何も分からない人です。先生の教えることが事実であるか否か、霊界に行ってみなさいというのです。死んでみれば分かります。メシヤは、そのような公式によって動きます。

なぜ、霊人たちが人間の世の中と接しようとするのでしょうか。これが今まで分かりませんでした。それが、なぜそうですか。地で解決しなければ完成の道を解決できないために、そうなのです。優れた人も、劣った人も、この法度にみな引っ掛かっているのです。 このように、メシヤと共に霊界を全部開いていくのです。これをなすには、地で相対的関係がなされなければならないのです。ですから、メシヤの個人時代があり、家庭時代があり、氏族時代があり、世界時代があります。これが、霊界までつながるのです。地で個人の勝利基盤、家庭の勝利基盤、氏族の勝利基盤、民族の勝利基盤、国家の勝利基盤、世界の勝利基盤まで築かなければなりません。このために、すべての霊界を地上に動員するのです。中心を探していくためには、メシヤが世の中に来て、苦労しながら行かなければなりません。苦労しながら個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を順番に復帰しなければなりません。それで今、人々が一つの目的点を、一つの世界を探して入るようになります。

(九一―二七八)


第二節 再臨主と霊界

再臨主は、第三イスラエルだけではなく、第一、第二イスラエルの先祖として来なければなりません。統一教会員は、イエス様当時の第一イスラエルが疑ったのと同じ立場を越えて、父の心情を通じて、父の腹の中にある子女のような立場に立つべきです。

五百七十二
 
再臨主は、霊界を収拾しなければなりません。霊界を収拾することによって、第一イスラエルを立てた基台の上から出発しなければなりません。霊界にいる人たちは、「真の父母」と因縁をもつことができないので、この過程を経なければなりません。霊界には十二支派型がありますが、第二イスラエルになるべきキリスト教は、支派を編成する中心を失いました。ゆえに、統一の理念を立てて、支派編成をしなければなりません。(一〇―二一八)


神様は無形なので、霊界に行っても見えません。それゆえ神様は、体をもった父にならなければならないのです。体をもった父になることによって、無形と有形が一つになるのです。それは、宇宙が一つになることを象徴します。

神様は、体をまとうために、アダム・エバを造りました。体をまとえるようにすることは、愛だけが可能なのです。愛があってこそ、神様の形状に似た体を備えるようになります。神様が、アダムとエバが神様の体を備えれば、彼らの心の中に神様がいらっしゃって、地上世界と無形世界を統治するというのです。神様の王宮を造るのです。神様の王宮は、愛の王宮だというのです。愛を中心としてのみ、霊と肉が合わさるようになるのであって、他のものをもってしては合わさることができません。(一四三―九三)


第三節 「真の父母」と霊界一 肉身の父母と「真の父母」の違い

肉身の父母と「真の父母」は、愛に対する概念が違います。肉身の父母は、肉身を中心とした愛を教えてくれて、「真の父母」は、霊的な世界を中心とした真の愛を教えてくれます。

肉身の父母だけでいいのに、「真の父母」がなぜ必要ですか。堕落したためです。今まで堕落した父母は大きなものをみな取ってしまって、自分を中心として絶えず下っていくことを教えてくれました。それで、父母の愛を中心として、このサタン世界に永遠に存在させるための一つの決定的な線が引かれました。これを断つ道はありません。

では、「真の父母」とは何でしょうか。このような基盤から、上がれば上がるほど、だんだん大きいことを教えてくれるのです。天国、永遠の国に行って拍子が合うように、呼吸に支障がないように教えるのです。肉身の父母から教育を受ける人が霊界に行けば、すべて壁のようなコーナーに行って、とどまっていなければなりません。振り返って見れば、全部自分を否定して、犠牲になるという人たちだけなので、窒息するほどなのです。

誰がこれをつくったのでしょうか。サタンがつくりました。それで、「真の父母」が来て解放してくれるのを願っています。それを解放するには、そのまま解いてはいけません。反対に解かなければなりません。(一二九― 九九)


神様に帰るには、三次元の世界である霊界の訓練までも受けなければなりません。霊界を愛し、霊界と一つになる訓練場所が、神様を愛して、「真の父母」を愛する場所です。この地上で「真の父母」として霊界と実体世界に神様をつなげる使命を果たすために、メシヤが来るようになります。メシヤの使命は、それしかないのです。

メシヤは本当に我々を愛し、その誰よりも我々のためにしているのです。

五百七十三
 
メシヤ、すなわち「真の父母」がこの地に来る前までは、霊界が全部分かれていました。世の中が一つになっていないのと同じです。このように多い塀を、「真の父母」が実体をもって全部崩していくのです。そうしてこそ通じるのです。それで「真の父母」は、肉身世界だけでなく、神様に代わって霊界を代表するのです。

初めて「真の父母」に侍り絶対愛することによって、霊界と通じる道を築くことができるのです。メシヤの前に絶対服従することによって、霊界のある霊人にも絶対服従したという条件を立て、神様の命令の前に絶対服従したという条件を立てるようになるというのです。神様の代身である「真の父母」に絶対服従すべきだというのです。それはなぜ、そうすべきなのでしょうか。天国の民と一つになり得る伝統を立てるためです。

「真の父母」になぜ侍らなければならないのでしょうか。「真の父母」が、霊界と神様を代表するためです。その次に、第一父母、第二父母、第三父母が心情的絆を結び、愛の中に結んでおく心情的勝利圏に同参できる資格を得るためです。(一〇五―一一二)


二 「真の父母」が軸である

真なる父母がどこにいて、真なる兄弟がどこにいて、真なる家庭がどこにあり、真なる社会がどこにあり、真なる国家がどこにあり、真なる世界がどこにあるのでしょうか。ここになければ、不幸の中から出て、不幸の中に行く人生ですが、これが本然の人生の道ではありません。それゆえ、真を探し、身もだえしてもがくのが我々の人生です。これは、今まで宗教や哲学を動員して、いくら解決しようとしても解決できないのです。これを人間の力で解決することはできません。(一五五

―二八二)


我々は、「真の父母」と世界を一つにしなければならないというのです。何を中心としてでしょうか。「真の父母」です。神様の心情で、霊界の軸と地上の軸が「真の父母」と一つにならなければなりません。霊界でも地上でも「真の父母」というのは、中心から抜くことはできません。

悪なる父母が生じることによって、横的な面で戦いが起こり、二つに分かれました。また、縦的な善の神と、悪の神の世界に分かれました。偽りの父母が生じ、このようになったので、ここに「真の父母」が来ることによって、これらが授け受けするのです。偽りの父母によって堕落が生じたので、これに対峙するためには「真の父母」が出てこなければなりません。真が出てこなければならないのです。(一四九―二七九)


三 「真の父母」中心

民主世界は右翼を代表し、共産世界は左翼を代表します。これらが今崩れています。アメリカも同じです。両世界には中心がありません。今必要なのは、頭翼思想と神主義です。どんな人道主義も、神様の前に立ち上がることはできません。神様だけが絶対的であり、永遠のセンターです。頭翼思想だけが、全人類の中心になり得ます。

「真の父母」は、真の霊界と肉界の中心になります。頭翼思想と神主義は真の愛を中心として見るとき、すべて同様の概念です。

(二〇五―二六三)


五百七十四
 
「真の父母」を必要とする限界線とはどこでしょうか。これには限界線がありません。世の中もそうであり、霊界もそうであり、どこでも永遠なのです。ですが、アメリカの大統領の限界線とはどこでしょうか。四年から八年後になれば、転がり落ちます。しかし、「真の父母」は転がり落ちません。限界線が違います。アメリカの大統領は、四年から八年にさえなれば、ふろしきを包まなければなりませんが、「真の父母」はそのようになっ

ていません。

この地上世界だけが真の御父母様を必要とするのではなく、霊界も同じです。どうしてでしょうか。そこには、地上で愛をもって暮らした人が行って宮殿をつくらなければならないのに、人がいないのです。愛の宮殿は神様もつくれずに、霊界の人もつくれないのです。真の御父母様がつくらなければなりません。

霊界において、愛の宮殿は「真の父母」から始まるのです。霊界に宮殿があっても、「真の父母」が行って「ここを宮殿にします」と言って宣布すれば、それを中心として全霊界が落ち着くのです。そのような責任が残っているために、霊界でも「真の父母」を絶対に必要としています。(二〇五―一五五)


四 「真の父母」と結ばれた因縁の強度

「真の父母」は、人類が探すべき真なる父母です。その「真の父母」がいることによって、真なる善が成立するのです。「真の父母」とは、どんな方でしょうか。父と共に行くことができる一つの足場になる方です。

「真の父母」は、人間と神様との間隔とくぼみを埋めるための一つの祭壇であり、死亡世界を越え得る橋だと言うことができるでしょう。 その立場は、神様と自分が共にいることができる立場であり、神様と父子の因縁を結ぶことができ、神様と一体をなし得る一つの焦点です。すなわち、堕落によって分かれた神様と、再び一つになることができ、分かれた二つの境界線が一致し得る一つの起点になります。蕩減の祭物の立場に立たれた方とは誰でしょうか。「真の父母」なのです。

我々が切迫して神様を呼ぶとき、神様が千年の事情をみな忘れて、自分と因縁を結ぶことができる立場があるなら、その立場は世の中のいかなるものとも換えられない立場です。

救いが必要な我々自身において、父と共にいることができるたった一つの因縁、神様と共にいることができず、神様と因縁を結ぶことができない人類が、自由な環境で神様と因縁を結ぶことができるよう神様が送ってくださった方が、「真の父母」です。

では、「真の父母」を自身に無条件の因縁を結んでくださった神様に、何をもって感謝しますか。皆さんは、どれほど感謝を捧げましたか。そして、皆さんが救われるようにしてくれた、その恵みに対して、歓喜で和合しながら勝利を誓わなければならない自身であるということを、どれほど考えてみましたか。無限の希望をもって、無窮の価値をもって、再出発するという考えを、どれほどしてみましたか。これが問題です。

息子、娘を探してこられた歴史的な願いが、

「真の父母」を通じてなされるということを御存じの神様が、その「真の父母」をどれほど憧れてこられたか 7 それなのに、「真の父母」を憧れる基準と、死亡世界で救いを憧れる我々の基準を比較してみるなら、我々は

「真の父母」を神様よりもっと貴重に思って、神様よりもっと貴く思って、神様よりもっと価値あるように感じるべきなのに、今までそうできませんでした。

人間が「真の父母」と共にいることができ、

五百七十五
 
「真の父母」と因縁を結ぶことができ、「真の父母」と再会することができる立場を、神様がどれほど期待なさるでしょうか。そのような立場に自分が行き、「そのような勝利の基盤を自分が築こう」と言えなければなりません。どんな困難があっても克服し、その成果を自分の生涯の価値を左右する転換点として、また、その因縁を自分の生涯の原動力にしようと、どれほど誓うかが重要です。このように見るとき、我々がどれほど偽りであり、流れていく風の便りのように落ちつ着かず、彷徨するのかを悟らなければなりません。 神様と共にいることができる自分になっているのでしょうか。そうではありません。救い主が必要なのです。救い主は、どのような方でしょうか。「真の父母」の因縁を備えた方です。このように見るとき、この「真の父母」の因縁とは、どれほど驚くべき因縁ですか。「真の父母」によって、自分の真なる一生が始まるのであり、新しい生命が因縁づけられるのです。この生命の因縁によって、新しい家庭が出発するのです。新しい社会と国家と世界が出発するのです。そして、二千年のすべての生死の道を解決する勝利の与件が備えられるという事実を、悟らなければなりません。

そこには自分がないのです。神様は、堕落した世界を救うために受難の道を歩まなければならない方ではありません。堕落した世界に対すべき神様ではありません。神様は真の愛の因縁をもって出てこられる方です。新しい希望と、新しい復帰の基盤を備えて来られる方です。そのような立場で、神様と自分の因縁が結ばれるのです。四方が一致し得る因縁が、一つの起点からつながって、死亡の世界を爆破して、新しい光明の天地の基盤をもつようになるのです。このように、父母と子供の間の因縁が実現することによって、世界は新しい出発をすることができるのです。

「真の父母」と皆さんの因縁は、どんな剣や、権力をもっても断つことができず、サタンの力でも断つことができません。なぜでしょうか。この因縁は、今日のすべての問題を突破して、人間たちを救うことができる勝利の特権をもっている因縁であり、人間たちが歴史的に願ってきた力が結集している本拠地であるためです。ある一時代的な力を結集させては、歴史的な力が結集したこの関係を断つことができないのです。このように、すべての悪を除去して、新しい因縁を備えて、勝利のための出発点に神様が歴史的な祭物として立てた方が、「真の父母」です。

神様が深刻な立場にいらっしゃるならば、自分も深刻な事情にいるべきです。父の事情が、自分の事情として感じられなければならないのです。子供の道理を果たし、神様を慰めてさしあげる人がこの地に出てこなくては、歴史的な問題を解決する道はありません。 我々は、限りなく難しい立場に立っても、神様の同情を願うのではなく、神様に同情してさしあげるべきです。そのような因縁に従ってきた歴史の結晶体が、イエス様でした。ですが、イエス様がみ旨を成せなかったために、再び来られる主が、そのみ旨を成さなければなりません。再び来られる主も、その道を行かなければなりません。「真の父母」は、歴史的な希望の集約体です。神様が、全体に代わる歴史的な実体として立てた方が、「真の父母」なのです。

「真の父母」との因縁には、霊界からではなく、地上からつながらなければなりません。

五百七十六
 
「真の父母」は、実体を備えて地上に来られるため、自分が呼べば答えてもらうことができ、自分が難しい立場にあれば、同情してもらうことができるのです。このように平面的な途上で「真の父母」に会うことができるということは、人間たちにとってどれほど幸福なことか分かりません。


神様は、今までどんな困難があっても、それを克服して、決定的な勝利を収めようとされました。ここで、自分が勝利の王者になるか、なれないかということが問題です。その心情に一体となって、「離そうとしても離すことができない自身になった」と言えなければなりません。言い換えれば、神様と共にいるという信念、「真の父母」と共にいるという信念が、生涯路程の軸にならなければなりません。それで、我々が行く方向で動揺がなく、千年、万年持ちこたえ得る自我になってこそ、地上天国と天上天国がつながるのです。すなわち、天上の主人として臨むのであり、地上の主人として臨むのです。ここで初めて、天上天国と地上天国が開かれるのです。


このような因縁は、楽な立場で結ばれるのではありません。難しい立場、それ以上ない深刻な立場、死ぬか生きるかというさなかにおいて、より一層冒険する立場で結ばれるのです。

それゆえ、聖書を見れば「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。これは、イエス様の時代錯誤的な言葉のようですが、このように行くのが復帰の道を行くにおいて、心情の世界に似ていくにおいて、正常な姿勢であり、正常な態度だと言えます。このような境地を追求していく自分であることが明らかであるなら、自分の行く道は真なる路程になるのです。(三一―七四) 皆さん、今四十を越えて五十になった人が多いけれど、「それまで何をしたでしょうか」と聞くならば、何と答えますか。十年、二十年以内に死ぬかもしれません。死を前にしたとき、み旨を知り歩んできた過程を振り返り、私が、悪魔の後孫として残った世界人類を復帰する責任を果たせないことによって、神様がまだ落ち着けず、僕のように恨めしい仮面を脱げなかったと考えるとき、霊界に行ってどのように顔を上げるでしょうか。どのようにそこへ行って、自分の姿勢を備えて回ることができ、どのように暮らしていくべきでしょうか。ただとどまっていなければならないのであり、そうでなければ、白日のもとに一〇〇パーセントがあらわになるのです。


霊界に行かないということはありません。みな行くべきです。何をもって行くでしょうか。


貧しい家の娘が、自分のみすぼらしい姿だけ見ても一族の前に頭を上げることができないのに、婚礼家具も備えられず、その兄弟の一族だけでも、百名近く世話すべき人が元気でいる中、四代の組が集まって暮らすお金持ちの息子の家に、入って暮らすことができますか。手ぶらで行って、その嘲弄をどうやって避けますか。「うちの伝統によれば、誰々はこうであり、おばさんは全部こうであり、うちの姉さんもこのようにこうこうして、皆そうなのに……」と言うようになるとき、そこで落第生のような身の上になって、顔を上げて座って御飯を食べることができますか。さじを持つことができますか。考えてみてください。

五百七十七
 
軸に入り込めないことは、我慢できないことなのです。皆さんは、何を持っていきますか。統一教会を四十年信じたならば何を持ってきました 7

霊界は、ここよりひどい所でしょうか、いい所でしょうか。皆さんが死んだとき、行く所がここよりひどい所でしょうか、いい所でしょうか。千万倍いい所です。自分が、すべてのものを正確に測定できる世界です。

霊界は、自分がどんな立場にいるかという、その悲痛さを実感できる所です。一段階上がろうとすれば、何千年、何万年もかかるのです。 皆さんは、祝福という貴いものを受けたために、門は開いていますが、入っていくことのできる礼服を着ていないのです。祝宴を行う家には、礼服を着て行くべきです。新郎の付き添いに行くのに、労働服を着て行っていいでしょうか。考えてみてください。そこに合う装いをしてその場に行ってこそ、その環境の歓迎を受けるでしょう? そうできなければ追放されるのです。「こいつ、どけ 7」と言うのです。

昔、木浦に金持ちがいましたが、木浦の北部地方の土地が、全部その人のものだというほどの金持ちでした。ところで、先生の友達がその人の一人娘と結婚して、その家の婿になりました。その時は、日本の統治下だったために、結婚式をしても今のようにモーニングコートを着て、礼服を着て新式の西洋式の結婚はできませんでした。国防服を着て、胸に花を一つ差して結婚する時です。

ところで、その人は、金持ちである上に友達も多いので、新式の結婚式をさせました。その時、先生を含めて四人が新郎の付き添いに行きました。付き添いの服を新婦の家で準備したのですが、それらをすべて自分の婿と同じ背丈に合わせました。先生と新郎は背が同じですが、新郎は先生のようには体が太っていませんでした。ぺちゃんこで板のようです。この前後が薄いのです。私は、この前後がもっと厚いのです。力士型でしょう?

ですから、会わせたワイシャツが、ボタンをかけても、へそがみな見えるのです。裂けている服を着て背筋にひどく力を入れると、あとにしびれが出てくるのです。その場で声を出すことができますか。壁のある所に行ってうつ伏せになり、しびれを解いたことを思

い出します。

全羅南道の何かをするという名前のある人は、皆が集まったその大衆の前で、何千名が集まったその場面で、付き添いがそうしているから、「ねずみの穴でもあれば入るのがたやすいのであって、そこに座ってこらえられなかった」と言うのです。


軸に入れないことが、そのように我慢できないことなのです。先生が霊界をよく知って、聖者たちだとか何とかいう、ましだという教祖たちを、みな知っているのに、お前たちに負けることができないというのです。その軸から抜けてはいけないのです。(二一二―二二四)


第四節 先生と霊界一 先生の霊的条件成立とその基盤

五百七十八
 
完全なマイナスは、完全なプラスを自動的に生じさせ、完全なプラスは、完全なマイナスを自動的に創造するのが原則です。それがこの宇宙の創造原則であり、存在の法則です。それで、この地上で原則的で完全な運動をすれば、霊界がつながるのです。歴史始まって以来、このようなことが初めて起こりました。ですから、霊界で問題となることは、この地でも問題になり、それをこの地で解決すれば、霊界でも解決します。

そうするたびに蕩減が必要です。先生は蕩減の道を、一人で責任をもって、歴史と宇宙、そして霊界と肉界の問題を解決してきたのです。ある時に、蕩減すべきことを知り、それが崩れる場合には、霊界がどのようになって、地上がどのようになるということを、はっき

り知っているのです。


聖書では、「あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ一八・一八)とあります。地で解くためには、蕩減が必要です。しかし、皆さんは蕩減の道を知りません。個人的環境での主体・対象蕩減時代、家庭的環境での主体・対象蕩減時代、氏族的環境での主体・対象蕩減時代を経て、民族的主体・対象蕩減時代、国家的主体・対象蕩減時代を経て、世界的主体・対象蕩減時代に行くべきです。これを皆さんは知りませんが、先生は知っているため、先生が言ったことがそのまま霊界に反応して現れるのです。

(一三一―二二六)


天国は、地上の一番悲惨な所で成されます。地上の一番悲惨な所とはどこですか。監獄中の監獄、そこでも一番のどん底です。

霊界と肉界の基盤を、統一教会の文先生が築きました。地獄のどん底、監獄のうちで一番悲惨な監獄から、霊界と協力しながら基盤を築いてきたのです。基盤を広げてくる過程で多くの反対を受けました。家庭でそうであり、氏族でそうであり、民族でそうであり、国家でそうであり、アジアでそうであり、世界の中心国家であるアメリカでもそうであり、全世界が反対しました。 先生は、万民に道を開いてあげなければならないために、死刑囚とも友達になり、窃盗犯と手錠を一緒にはめて回り、共に御飯を食べながら彼らを慰めてあげました。この前は、ラスベガスまで行って、刑務所に収監された人たちのために祈祷をしてきたのです。ニューヨークのニューヨーカー・ホテルを買ったのは、これからニューヨークの一番の悪の巣窟から掃除をして、新しく基盤を築こうとし

たからです。

そこに行って、交わってあげ、慰めてやらなければなりません。そうしてこそ、各界、各層、サタン世界の滅びるべき人にまでも、その道を開いてやり、道を築いてあげることができます。そうしながら、地上で道を築いてやってこそ、霊界のふさがったものが開かれ、世界が一つになり得るのです。それゆえ、超民族的に黒人も結婚させてあげ、白人も結婚させてあげ、白人にも家を買ってあげるであろうし、黒人にも家を買ってあげるでしょう。このように先生は、世界にないことをしている人です。(九六―一六〇)


先生は、霊界で勝利しました。このことを誰ができるでしょうか。広く世界にいる数多くの修行を積んだ人たちは、これから先生の所に来て、習わなければなりません。間違いなく、そのようになるのです。それゆえ、一民族の民衆が反対し、世界の人類が反対しても、問題ありません。霊界にいる数千億の人たちは、全部先生の言葉を聞くのです。(一三―五〇)


二 霊界に行く特許権
今からは、霊界にどのように橋を架けて、飛び越えさせるかということを話しましょう。



五百七十九



おもしろいでしょう? ここにいる文なにがしという人は、韓国人ですか、アメリカ人ですか。東洋人ですか、西洋人ですか。東洋の韓国人でしょう?(いいえ)。なぜ、いいえですか。そうでしょう。ですが、一つ特許権があります。皆さん、文明時代の発展の要素は、大部分特許権でつながれます。服を作る特許権、何でも全部特許権です。特許権だけもてば、どこへ行っても世渡りすることができるというのが、世の中の実状です。霊界でもそのような法があるというのです。

特許権は白人にだけ通じる、という法はありません。黒人は駄目で、アジア人は駄目だという法はないのです。どこに行っても、通じます。

霊界に行ける特許権を取るために、歴史上に苦労した宗主たちと宗教人たちがたくさんいましたが、そのような宗教人たちの中で、チャンピオンの特許権をもった人がいます。 霊界に行くことができる特許権をもった人を何で知るようになるでしょうか。ここに集まったまだらになっているこの人たちが、全部一つになって、「どこでも上がっていく」と言うから、それでいいというのです。では、神様はどうですか。先生が、「駄目だよ」と言えますか。神様が、「先生のサインがなければ行けない」と言うかもしれません。

アメリカの立派な大統領でも、ある王、ある聖者、ある宗主でも、「先生のサインが必要だ」と言うときは、全部頭を下げて先生の所に来ざるを得ないのです。

博士学位を受けるには、指導教授の下の世話もしてあげ、その教授が足でけっても、

「ああ、ありがとうございます」と言ってこそ、サインしてくれるのであって、そうでなければしてくれないのです。「私が鼻を見ても、顔を見ても、格幅を見ても、何を見ても良くできて、相撲をしても勝ち、御飯を食べてもたくさん食べ、何でも一等になり得るし、十も百もいいのに、それを一つくらい知らないといって、博士学位をくれないのですか」と言っても通じないのです。先生が、そのような霊界の特許権をもったかもしれないというのです。

先生が監獄に行き、よこしまなうわさが出て、「みな滅びてなくなる」と思ったのに、今も生きて、堂々と大きな声を出しています。アンテナをもって、全部見て、聞いて、やって、知って、大きい声をどんどん出しているのです。


神様も、先生のサインができているか、できていないかを見て、その次に決済するでしょう。先生のサインがあるかないかを見て、先生のサインがあれば、「OK」と言い、ないときは「ノー」と言われるでしょう。

言葉で言うのは易しいのであって、事実がどれほど難しいかということを、皆さん考えてみてください。先生が、もしそのような印のレッテルさえもっていれば、これからの世界、霊界は、全部先生の手中に動いているのであり、この肉界は、どうせ一つの谷を行かざるを得ないという結論が出てきます。(一

三四―一七)


580 * 五百八十
 
自然界は、真理に満ちているのです。皆さんは霊界についてよく分からないでしょうが、先生は霊界の専門家です。そこは、二十一世紀ではなく、二十二世紀、三十世紀になっても、先生がいなければ開門することができません。理論的に霊界を教示して、霊界を開門するにおいて体系的内容を明らかにしてくれた元祖が文先生だという名声が、永遠に残るでしょう。

世界的に優れているという霊通人であっても、先生の所に来て、習わなければならないのです。それゆえ、先生が統一教会の教祖になったのです。世界のキリスト教を統一するというのです。先生の言うことさえ聞いたなら、既にみな統一されたでしょう。(二〇三

―三二五)


先生がアベルの立場で長子権を復帰して、一度宣布してしまえば、それまで霊界が地上を利用していたのを中断します。むやみに霊界に対して「これから地上に協助せよ、地上に屈服せよ」と言えば、そのようになりますか。内容もないのに、「こうせよ」と言えば、そのようになりますか。これはこうで、あれはああだということを説明して、それが可能になるようにしなければなりません。それでこそ南北が統一されて、東西が一つになり、みな収拾されるのではありませんか。(二一〇―一九三)


三 霊界の統一と地上世界の統一

霊界を統一しなければ、地上を統一させることはできません。では、霊界を統一した主人がいらっしゃるなら、地上の統一は問題でしょうか。それは難しくないのです。

これから我々は、霊通する人同士主管しなければならないのです。今、霊界に通じる人たちの大将が先生です。彼らもここに来て、習わなければなりません。

彼らは一方向しか知りません。それゆえ、霊界から教えてくれるといって、それを絶対視してはいけないのです。それを原理で解読して、方向をわきまえていかなければ、霊通人たちはサタンになりやすいのです。

今は、霊界が先生を証し、先生についてきています。先生は、霊界の内容を専門的に知っているために、サタンだ何だということをよく分類して、今までここまで率いてくることができました。それで滅びないのです。 霊界には、何千億の霊人たちがいます。それに比べて世界の人類は、あまりにも少ないのです。これから我々が国家基準さえ超えるようになれば、霊界を動員することができるのです。世界人類は、問題にもなりません。そのような時が来れば、我々の時が遠くないということを知るべきです。このように見るとき、世界はこれからどのようになり、共産世界はどのようになるのか、大体の輪郭が出てきます。(五四―二三三)


あの世に行ってみると、殺人した者、殺された者、ありとあらゆる人が一箇所に集まっているので、そこでは刀を持って闘おうともするし、復讐しようともするのです。ですから、数多くの塀でふさがれています。

それゆえ、悪なる霊たちが怨讐の子供たちの所に行って、急死するように事故を起こして連れていくというようなことが起こるのです。これを解かなければなりません。これをみな解くためには、地上世界で解かなければなりません。そのためには、もっと良いものを与えなければ、解くことはできません。死ぬよりもっと良いもの、怨讐関係になったことよりもっと良いものをあげなければ解かれ

ないのです。

五百八十一
 
何をもって霊界を解放し、神様を解放するのでしょうか。このような関係は、人間の先祖がこれを結ばせて天上世界をめちゃくちゃにしたから、今日後代の後孫は、先祖たちのすべての過ちを償わなければなりません。真の孝行者の伝統を受け継いだ子供なら、父母の借りを支払わなければなりません。父母が借りたものを支払わなければならないのです。

そのような意味で、霊界の先祖のすべての塀を崩す運動をしなければなりません。そうすることによって、先祖たちがここに来て、皆さんに教えるようになるのです。これは夢のような事実です。

先生は皆さんをさっと見れば、先祖がどうで何をやったのか分かります。悪なる霊人の後孫を見ると、真っ暗になります。その先祖の顔がさっと見えたかと思ったら、ふっと消えるのです。それゆえ、悪なる霊、善なる霊を分けるのです。

霊界を結束しなければなりませんが、霊界を収拾できない人は、天下を統一できないのです。天運の根が天なのに、天を収拾できない人が、どうしてその結果をこの世の中の道理にして、世界を統一しますか。それゆえ、地上を統一する前に、霊界を統一しなければなりません。(一九一―二〇五)

皆さん、先生に夢の中で会ってみたことがありますか。みんな会わなければなりません。このような団体は世の中にありません。国もありません。なぜ、統一教会が世界的に成長しているのでしょうか。どこに宣教師として送っても、霊界を実感する生活をしなければなりません。

どんなことが起こるのでしょうか。宣教師は三カ月が過ぎれば、その国を離れて再びビザをもらわなければなりません。そうでなければ、その国にいることができません。それだけでなく、その国をたって、他の国に行くにも、自由にたつことができません。そういう時は、霊界が教えてくれます。「どこどこにある川を越えろ」とです。

その川にはわにがたくさんいます。そのような川を泳いで越えれば、わにが丸ごとのみ込んで跡形もなくなります。そのような危険な所を通って、国境を越えていくようにするために、霊界がよく教えてくれます。「何時何分から、何時何分の間に越えればいい 7」と言ってです。

そうする以外に方法がありません。そのような命令を啓示として受けながら、行き来する宣教師が多いというのです。

共産圏はすべて「神様がいない」と言って、神様の存在に反対する世界です。共産党は、どの国でもみんな宗教が入ってくると、それを撲滅します。そんな状況の中で、神様は準備しなければなりません。

そのような経験をしてみれば、神様がいないと否定する人は一人もいなくなります。そのような事実を実感する感動は、生命を越えて永遠に残るのです。そのような境地で神様を愛し、真の御父母様を慕いながら通過した経験は、永遠に残るのです。それが人生の中心になります。そうなれば、霊界との境界線、そのような壁は、瞬間的になくなるようになります。直行することができるのです。

信じるのが先ですか、知るのが先ですか。信じることは事実と遠い所にあり、知ること

は事実と一致します。


「信仰生活」と言いますが、信仰を生活化していますか。そこには、体恤圏が表面化していくのです。内面化ではなく表面化した実体圏とつながって生活しているという誇りが、どれほど大きく有り難いことか分かりません。

五百八十二
 
そのような境地もあるのです。 「霊界は間違いなくあります。神様は、間違いなくいらっしゃる 7 誰が否定しても、いらっしゃる」と実感しているという事実は、恐ろしいことです。それは神様の世界に属する心です。いくら地上で苦難を通過するとしても、その人は神の国の国民です。神様の子女です。


皆さん、いくら難しいことがあっても、自分の心が絶対変わらないという境地に入っているか自問してみてください。そこまで行かなければなりません。それが峠です。サタン世界の城壁を越えて入れば、神様の存在が実証されるでしょう。そうでないときには、城に入る橋を越えたのに宮中に入れなかったのと同じです。一度入ってみなければ、何も分かりません。城の外でいくら眺めてみても、そこに行けません。(二二四―一〇八)


四 心情と実績で異なる霊界での待遇

統一教会の先生の誇りは、神様を知っていることです。霊界で知っている以上に知っているのです。いくら多くの人がいたとしても、神様の心情を知る人を、神様は一番好まれます。


宗教人たちが涙に浸り、ひざが切れてえぐれるほど一生涯祈祷を捧げても、イエス様に出会い、導かれるかどうかというところです。それなのに、皆さんはこうして先生に会って、このような話を聞くことができるということは歴史的な事件なのです。


皆さんが先生にいかなる資格をくれてもくれなくても、先生は既にあらゆる資格をもっています。

先生は多くのことを成しました。誰の話にも耳を傾けない世界の学者たちを一つにつなぎ合わせました。また、互いに争っている宗教界もつなぎ合わせ、民族同士で争っているのをつなぎ合わせて世界的な合同結婚式をしたことは、これまでの歴史になかった事件です。


今までに先生が成してきたことは、霊界の誰が成したことにも勝ります。誰よりも多くのことを成してきました。ですから統一教会が、霊界のどん底にいるでしょうか、高の位置にいるでしょうか。 高の位置にあります。これは先生の作り話ではありません。

(一四六―三三三)


五 霊的体験の生活化

先生があらゆることを調べ、霊界の裏道まで尋ね歩いて調べてみると、天地の道理は簡単なものでした。真理は簡単なのです。二人が絶対的な力で合わさり、真空状態になったところに神様が入ってこられ、骨髄のような芯になるのです。ここに、男性の愛と女性の愛の二つのかけらがぴったりとくっつくのです。これが宇宙の核です。愛の理想的実体が合わさって愛の軸になるのです。(一七〇― 一七一)


五百八十三
 
先生は霊界に対してたくさん知っていますが、霊界の話はあまりしません。霊界を知ると、狂う人が多いのです。特に女性たちは、「あんな夫と長生きする必要なんてない。早く天国にでも行ったほうがいい。ああ早く天国に行きたい」と言うことでしょう。しかし、夫を教育して率いなければ天国に行くことはできません。(一八二―六一) 先生は、霊的体験をしても、多くは話しません。体験があるのかないのか、皆さんはよく分からないのです。それをどのようにするのでしょうか。真理で調整しなければなりません。「これは、これこれこうであるために、このようになるのである」と言いながら、中庸の道を行くのです。そうしていつも天の摂理観に方向を一致させることによって、霊界の発展をもたらすことができ、地上世界の発展をもたらすことができると見るのです。


そうするには、霊的世界がどのように動いており、真理とどのように関係を結ばれるのかを知った上で霊界と関係を結ぶことを生活化しなければなりません。神霊と真理が必ず一つにならなければならないのです。この調和が取れていなければなりません。なぜそうなのかと言うと、我々人間自体がそのようになっているからです。(七六―一三八)


六 愛を残して行くべき霊界

先生についてくる中で、霊界に行った人たちがたくさんいます。先生に従う人たちを、あのソ連の衛星国家、ソ連の重要都市に浸透させておきました。ある時は、「宣教活動をしていると死刑宣告を受けた」という報告を聞きました。そのような報告を聞く指導者の心は、深刻なものです。子供が寝込んでいたとしても、その子供を心配するようになっていません。彼らが私を尊敬するのは、世界を尊敬することなのです。彼らのために涙を流してあげるべきであり、心配をしてあげるべき立場に立っているのです。それゆえ、先生は平安な生活ができないのです。 私が越えるべき峠を越え、私が果たすべき責任を果たすためには、休もうにも休むことができず、止まろうにも止まることができません。そのように走っているうちに、このような年になったのです。しかし、心は「今からまた始めなければならない」と言うのです。

そうして霊界に行くのです。

そのように生きている生活の裏面に、何を残すのでしょうか。人類を愛したということです。他の何ものでもありません。国を愛したということ、統一教会を愛したということ、それ以外に残し得る何かがあれば、それは滅びる歴史とともに流れていってしまうでしょう。(一三六―一三五)


第五節 真の父母の家庭と霊界一 霊界の長子権成立

興進が霊界に行くことによって、地上と天に分かれた天使とアベルが、双子のように一つに結ばれるようになりました。その一つになった基盤の上に、父母が出動するのです。

これが原理観です。

興進は息子格のアベルですが、その息子は、

五百八十四
 
「真の父母」の愛の原理主管圏の蕩減条件を立てた基盤から霊界に行きました。サタン主管圏から勝利して直接主管圏を成した立場で、霊界に行ったのです。それゆえ、堕落以後、初に完成した資格を備えた息子として天上世界に行ったという条件をもっているのです。本来堕落しなかったなら、霊界に行ったすべての人たちが「真の父母」の心情圏を中心として、原理結果主管圏と直接主管圏が一つになった家庭的基盤に愛を中心とした主人や息子の資格をもつのです。これをもたずには、天上界に行けないようになっているのが原理です。

イエス様やキリスト教は、今までその立場を経ることができずに行ったために、全部中間霊界にいるのです。ところで、興進が行くことによって、神様と接ぎ木することができる中心が繰り広げられるのです。また、興進は祝福を受け、自分の相手が地上に残っているので、家庭生活をしてから死んだのと同じ立場になるのです。それで、興進の家庭を中心として、地上家庭を訪問することができる霊界基盤が設定されます。これが貴いのです。

興進の家庭基盤を設定したということが、も貴いのです。

イエス様が死んだとしても、このようなことができたなら、今日キリスト教はそのように犠牲になりません。しかし、仕方がないというのです。なぜでしょうか。「真の父母」の心情圏で結果主管圏内のサタンを除去し、直接主管圏内に愛の基盤を備えられなかったために、イエス様自身があの世に行って再臨しなければならないのです。しかし、興進は再臨する必要がないのです。

興進は霊界と肉界、二つの世界に暮らしているというのです。そうなれば、どんなことが起こるのでしょうか。霊界と地上を双子のような心情圏として見るとき、父母が長子の立場にいるのです。家系の代数で見れば、すなわち縦的に見れば、父母が先立ったのです。

興進が二代なのです。下だというのです。 ところが、霊界では反対だというのです。地上で先生と興進の出生について見るとき、先生は兄の立場にいて、興進は弟の立場にいます。先生がカインの立場にいて、興進がアベルの立場にいるのです。これが霊界に行っては、興進が長子になります。興進が兄の立場にいて、それ以外のすべての霊人たちは、弟の立場にいるのです。心情圏を中心として、そのようになるのです。神様の立場から見れば、先生は父なので長男であり、興進は小さい息子になるのです。

霊界で見れば、興進が愛の圏を中心として初に生まれた息子であり、そして霊界にいる人が弟の立場に立つのです。逆さまになるのです。それで、長子権の心情基準が興進をつかんで入るという結論が出てくるのです。これは原理講義するとき、よく説明しなければならないのです。今霊界にいる霊人たちの前に、イエス様の前にもそうであり、すべての善の聖者たちの前にもそうですが、心情圏を中心として誰が長子として先に生まれたかといえば、興進だというのです。ですから、心情圏を中心としては、興進が長子であり、他の霊人は次に生まれる次子だということです。 それゆえ興進が、長子権の福を次子圏に相続してやることができるのです。サタンは、相続してやるまいとしたのです。サタンは、相続をしてやらず、自分が強奪するのに、長子の興進は、地上に行っていた福を全部残してくれるというのです。ですから、つながります。今までサタン世界は、全部残してやるまいとするのに、興進は絶えず残してやろうとするのです。(一三一―五二)


二 霊界に立った愛の中心

五百八十五
 
興進は全世界の人を自分の生命以上に愛したという条件を残したために、皆さんにも生命以上に愛することができる因縁がつながったのです。興進は「真の父母」の代わりに行きました。それゆえ、興進を愛することは、「真の父母」を愛する条件になります。興進を愛するということは、「真の父母」を愛するということと連結されるのです。

霊界では、今までそのような中心がありませんでした。霊界とつなげ得る中心がなかったのですが、興進が行くことによって、興進を愛するすべての霊界の霊人たちには、父を愛する条件がつながるのです。これは、統一教会と連結されます。統一教会として見れば、興進は、地上で生命を捧げて戦うにおいての標準になり、霊界では愛をつなげるのにおいての、今までの歴史にない霊界の代表になったのです。

地上では、統一教会の信徒たちに生命を捧げてもみ旨を愛すべきだという手本を見せてくれました。「真の父母」を愛しなさいというのです。世界のために「真の父母」を愛していくべきなのです。ですから、興進が霊界に行くことによって、霊界が興進を愛することで、地上の「真の父母」と愛の関係が成立するというのです。

それで霊界では、興進を迎える日が、歴史始まって以来一番うれしい日になるのです。興進は愛のメシヤとして、霊界の門を開き、地上では標本的な殉教の道を開いたというのです。それで、統一教会の信徒たちは、興進を愛すべきなのです。

霊界でも興進を愛し、統一教会でも興進を愛するから、我々の「真の父母」はどのようにすべきでしょうか。天の愛を歓迎して、地上の愛を歓迎する意味で、自分の息子を祭物として捧げることを栄光として思わなければなりません。誇りとして思うことができなければならないのです。また、神様が今まで青少年のアダム・エバを息子、娘として愛せなかったのですが、霊界では愛せるようになったと考えなければなりません。 それで先生が、「私自身が青春時代に、韓国に基盤を築いて栄光の神様にすること、私一代に世界的基盤を築いてあなたを慰安してさしあげること、これらのできなかったことを、この息子によって蕩減してくださいませ」という祈祷を捧げました。

今、霊界も愛して、地上も愛するので、父母も愛しなさいという標語を立てるべきです。先生は、興進が霊界から地上世界と霊界で、愛の復活圏を成すのだと考えます。興進が死を通じて、愛を復活させるというのです。霊界をつかまえて、地上をつかまえて、愛の復活圏を宣布するでしょう。

そうするようになれば、死亡圏と決別をするのです。それゆえ、葬式の時も悲しんではいけないのです。(一三〇―二〇二)


三 地上と霊界の王権確立

五百八十六
 
興進が霊界に行く前の日、統一式を終えてから祈祷したこととは何でしょうか。「お前は地上を離れても、地上にいるのと同様に、お前の養子を選んでやり、息子の班列に同参させてやろう」と祈祷で約束したのです。そうするには、地上で祝福をしてやらなければならないのです。そうしなくては、そのことが不可能です。神様は、地上を救うためにメシヤを送りましたが、今日「真の父母」は、霊界を救うために父母様の代わりに全権大使として愛の王者を送ったということを知るべきです。なぜ、地上にそのような世界的基盤を立てるべきなのでしょうか。イエス様もその立場に行けなかったのです。神様が初めて歴史始まって以来、「自分の息子」と言い、愛することができる少年をもったという事実を知るべきです。 初めて、霊界で神様が愛し、地上で「真の父母」が愛しているというのです。それで、二つの世界がつながるのです。この世界は、堕落の愛の圏内、すなわち原理結果主管圏内にあるために、「真の父母」の愛の因縁は今までありませんでした。しかし、これが初めて出現したという、驚くべき事実を知るべきです。

では、あの世に行ってどのようになるのでしょうか。

韓国人として生まれたために、韓国の善王の実を現すということを知るべきです。霊界のそのような王権が興進の立場です。そのような立場で、韓国の善王たちを比べるとき、興進は年は幼いですが、アベルの王だというのです。霊界は、この地上のように事情が完全に分かるのです。完全に一つになるのです。

カインとアベルが一つになれば、その上に天の父母が運行することができるのです。天の父母の運行圏が生じるのです。それで、興進の王権と韓国のアベル王権が一つになることによって、韓国を中心とした主管圏が形成されます。それが一つになることによって、アベル王権の位置に立つようになるのです。 その次には、すべての国の王たちが、アベル圏に立つのです。皆さんは、地上にいるから分かりませんが、霊界では一遍に一つになるのです。それで、すべての王権、韓国を中心として百二十の国家が完全に一つになり得るのです。その王の前にアベルになり得る人たち、ユダヤ教を信じて逝ったとか、キリスト教を信じて逝った人たちにおいては、全部王権はメシヤとして侍るためのものであったために、それをあがめ尊ぶすべての宗教界のアベルの民は、次々と完全に一つになるのです。 ところで、ここに一つ問題があります。王権を立てるには、興進が一人でいてはいけません。女王権をどのように探すかということが問題になるのです。これが第一の問題です。王権を結合しようとすれば、女王権を探し、王の相対を決定してあげなければなりません。そのようになれば、この王権が霊界につながるのです。また、女王が地上にいるために、百二十カ国の王権の民を連れて、地上につなげることができる基盤がつながります。神様の愛を中心とした霊界と肉界の統一です。このように結婚させてやることによって、興進は思いどおりに地上に来て活動するようになります。

このとき、興進が一人で来るのではなく、王権を統一したすべての王が地上についてくるようになります。ですから、このような式をせざるを得ません。今出れば、反対する人はありとあらゆることを言うでしょう。興進を愛の代表として送って、「真の父母」が霊界に行ってすることを代わりにさせようというのです。

五百八十七
 
それゆえ、興進が昇華してから五十日になれば、五旬節と同じです。百二十名がマルコの屋根裏部屋で聖霊が降臨するとき火を受けて、世界的役事が繰り広げられたのと同様に、薫淑嬢が結婚することによって、どんなことが起こるかというと、百二十カ国の王たちが、この地に来て復活して、世界的役事を展開することができる運動として繰り広げられると見ます。それが五旬節を代表した今日であることを、皆さんは知るべきです。ですから、霊界にいる百二十の王権がこの地に訪ねてきて、地上と一つになるのです。このような二つの、とてつもない意味があるのです。 それで、百二十カ国のうち、どこでも「真の父母」に侍ることができる一つの国さえ生じるなら、そこから天国が開門するのです。

(一三一―一四)


第六章 我々と霊界入籍第一節 人生の結実と生霊体

我々の生の一代というものは、わずかの間です。この一代が、永遠と瞬間を上がったり下がったりするのです。この生が延長されれば、無限に延長され、反面、これを折ればも、ここから新しい天地が起こるのです。秤と同じように、上がったり下がったりするのです。

皆さんは全部、先祖たちに代わって先祖の顔を被って出てきた復活体です。その歴史は、どれほどになるでしょうか。何十万年になったと言われます。そのように長い歴史過程が、結局は自分一人をつくるために苦労してきたのです。金氏なら金氏という自分一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが生まれて死んだと考えるのです。ですから我々は、歴史的な結実体です。

このような結実体が、虫が食って穴がぽかりと空いた果実であればいいでしょうか。開いてみると、真っ黒な種が、ころころと転がって出てくるリンゴがいいですか、その種が、べたべたして付いているリンゴがいいですか。

皆さんをぽっかりと裂けば、よく熟した種が出てくるでしょうか。皆さんの二世が間違いなく、天の実になると思いますか。皆さんの心の中を裂いてみれば、よく熟した統一教会が出てくるでしょうか。

六千年の人類歴史の結実体が、熟さずに落ちる果実のように落ちていいでしょうか。

「ああ、私は落ちそうだ。風がもう少し吹けば落ちるだろう。先生、揺すらないでそっとしておかなければなりません」と言っていいですか。ここにそのような輩もいるでしょう。反面、「先生がおのでぶん殴って、自分を思いどおりに揺すっても、自分で下りる前には、絶対落ちません」という群れもいるでしょう。皆さんはどちらの輩に属しますか。(四六│ 一五五)


人の一生において、生まれる時、結婚する時、そして死ぬ時が重要だということを我々は知っています。

ある個人が生まれ、成長して、実を結ぶためには、必ず相対と因縁を結ばなければならず、その次には、後の道を行くようになっているのです。これは、一つの国も同じです。どのような国も必ず創建期があり、次には繁栄期があるのです。その次には、夕方のような期間を必ず経ていくのです。

一つの生命体として、自体内で生命が実を結ぶことのできる内容が備わっていなければなりません。そうでなければ、いくら結実の時が来たとしても、結実を見ることができないのです。

それゆえ、自分の環境を克服しなければなりません。それだけでなく、結実され得るすべての与件を受け継ぎ、その結実のための動機となる自らの力をもたなければなりません。そうしてこそ結実の過程を経て、新しい歴史過程であるとか、人類社会が必要とする一つの結実体となることができるのです。

五百八十八
 
人は生まれて、必ずそれ自体として環境を克服しなければなりません。かといって、それを克服することだけで終わるのではなく、未来に新しい生命を受け継いで、結実の内容をもち得る過程を経ていかなければなりません。この過程を経たのちには、正しく実効を現し得る一つの位置を占めなければならないのです。

例えば、穀物は種が蒔かれて、芽が出て、育って、実を結んだのちにこそ主人の手によって収められ、倉庫に蓄えられるのと同様に、必ずある目的において必要で、収められる過程を経なければならないのです。

それゆえ皆さんは、皆さん自体にそのような願いを引き継ぐことができる内的要因を準備して、内的要因を中心として外的な環境に再び適用しなければいけないという立場にあることを知らなければなりません。これは、守勢的立場ではなく、必ず攻勢的な立場で表さなければなりません。

柿の木を見ると、春に花が咲きます。柿の花は、他の花のように際立って華やかではありません。また、柿の花は葉の色と似ています。それで、ちらっと見ただけでは、花があるのかないのか、よく分かりません。また、実が結ばれても葉に包まれているときには、実があるのかないのか、よく分かりません。その葉があまりにも青々としているために、実があるのかないのか、感じられないのです。

実は、夏を過ぎて秋になれば、色が変わり始めます。これが完熟すれば、実の中まで赤くなります。そうして、葉はみな落ちても、その実だけが一際輝きながら、木についています。

統一教会員も、これと同じです。統一教会自体について見るとき、一九七〇年代が結実の時代だとするなら、葉のようなすべての要因は全部消えるべきでしょう。枝だけが残ったところに、一つの結実の価値をもった実が、全体の価値として現れる、そのような柿の木の実のような存在になり得るかということが問題です。 このような実には、宣伝する必要がありません。それ自体を見て、内外に備わったその価値を、誰もが一〇〇パーセント評価することができるのです。そうするために、その柿の木なら柿の木自体が、実として完成する時まで、どれほど苦労の過程を経たことでしょうか。

その実は完熟するまで、枝に咲いた他の多くの花の実よりもっと闘争をし、もっと努力したという事実を、我々は知るべきです。夏の間、風が吹いて雨が降り、暴風雨が吹きつける、そのような険しい環境と、栄養が足りず未熟なままで実が落ちるかもしれないといった、いくつもの環境をみな克服したのです。

その木が実をたくさんつけられずに、実を一つだけ残したとすれば、その実は、木の全体のエキスと外的な闘争力を総合した内容をもった実なのです。そのような実だけが残ったならば、その一つの実が、その木の価値に代わり得るのです。それが柿の木なら、その一つの柿の実によって秋を迎えるとき、自らの価値と威信と権威を立てることができるのではないだろうかというのです。

木に花がたくさん咲き、実もたくさん結んだでしょうが、それらが全部落ちてしまって、秋になったのに一つの実も結べず枝だけ残ったならば、その木はどれほどみすぼらしく、悲しいでしょうか。しかし、多くの実は結べなかったとしても、どんな木の実とも比較できないほど完熟した一つの実をつけたなら、その一つの実をもって、数千、数万の実の前に堂々と誇ることができるのです。

現代社会に数多くの宗教があります。キリスト教ならキリスト教の中にも、数多くの教派があります。このような現実の中で、結実の時代を迎えた統一教会自体を中心として見



五百八十九



るなら、神様が我々に、ある結実を要求しておらるのです。先ほど言ったように、一つの木に多くの実が結ばれなければなりませんが、そうできずに一つの実だけを残したとしても、その実が、その木としてはそれ以上出すことのできない完全な実なら、その木は、その実によって秋を迎えた価値と権威と威信を立てることができるのです。

これと同様に、我々統一教会も、必ず結実がなければなりません。統一教会が出発して、今まで激しい波風と試練を経ながら、一つの結実に向かって進んでいます。ここから、どんな結実になるかということが、大いなる問題であらざるを得ません。

このような立場で皆さん自らが、果たして自分は正常な春を迎えたか、正常な夏を迎えたか、そして、正常な秋を迎えて完熟した実になり得るだろうか、ということを点検してみなければならないでしょう。

実自体を見れば、そこには木の枝もあり、木の葉もあり、根もあり、また種もあるのです。その実を摘んだということは、その木自体をもったというのと同じ立場です。実には種が多いために、その実を中心として数十あるいは数百本の木をもつことができます。 一つの木の実は、その木が十年過ぎても、二十年過ぎても、その木が引き継がせてあげようという全体的な生命の要因を、相続してもらわなければなりません。それでこそ、完全な実として収められるのです。

そして、実が育つ過程に、その要因を一度でも切断してはいけません。絶えず育つように置いておかなければなりません。生命が始まったその日から、実として収められ、主人の手を経て倉庫に入って蓄えられるときまで、その要因が、どのひと時も途切れてはいけないのです。風が吹く時や、あるいはそれよりもっと暴風雨が吹きつける時や、どんな試練の過程があっても、この要因が途切れてはいけないのです。その要因は、終始一貫、連綿として、それ自体に保有されていなければならないのです。

このような観点から見るとき、皆さん自身は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこのような木になり、このような人格者になり、世界の前にこのような存在になる」という決心をして立ち上がったその日からは、秋の収穫期のために準備するすべての内的な要因が、絶えることがあってはいけません。時がたてばたつほど念を押し、そこにプラスする過程なくては、完熟した結実を見ることができないのです。

(三六│一〇)


第二節 審判と公認一 審判の種類

怨讐を愛さなくては行くことのできない道が、原理の道であるということを御存じの神様が、終わりの日に審判を通じて世界人類を滅ぼされるでしょうか。違います。神様は、人間に対しては父母の立場にいらっしゃいます。今日キリスト教で言う、いわゆる「火の審判」というものは、言葉そのままの「火の審判」ではないのです。(三一│一六七)


590 * 五百九十
 
師弟の間にも、先生が守るべき法があり、弟子が守るべき法があるのです。統一教会でも、先生が守るべき法があり、皆さんが守るべき法があるということを知るべきです。ですからみ言に対する審判は、み言を聞いている皆さんが受けるということです。み言を誤って聞けば、審判を受けるのです。

その次には、実体を成すのです。実体を成すべきなのに、実体を成すための活動ができなければ実体審判があるのです。審判には、み言の審判があり、実体の審判があり、心情の審判があります。三大審判過程を経なければならないのです。

まず、原理のみ言が審判し、その次には実体の審判をするのです。誰が審判するのでしょうか。伝道やいろいろな活動を熱心にし、すべての法度を守り、実体を成した人たちが審判するのです。一生懸命にした人たちが審判するのです。それが審判です。み言どおりにしないときは、サタンも審判するのです。他人が、実体が、讒訴するのです。皆さんは、先生が審判し、統一教会の幹部たちが審判し、み旨に従ってきた人たちが審判するのです。 皆さんは、どのように行くべきでしょうか。サタン世界で食口を経て、先生の認定を受けて、霊界を経て、神様の所へ行くのです。それが行くべき道です。法です。そのように行くのが正しい方向です。

讒訴条件があれば、これが合わさって、実体的に讒訴するのです。実体審判です。そこで、うそが通じますか。仕方なくするのは、しないのと同じです。神様と先生を思いながら、その仕事をすれば、神様の中身が、先生の中身が、その中に刻み込まれるのです。栗のいがに中身が入ったのと同じようにです。このように、心の中で神様を思い、先生を思えば、先生のみ言が、神様のみ言が、中身になるのです。

皆さんは、神様と先生と食口たちが歓迎し得る人になるべきです。それで皆さんは、むいてみたとたんに栗の実のようでなければなりません。我々は、神様のために、「真の父母」のためにそうならなければなりません。そのような仕事をするのです。霊界に行って、神様のために「真の父母」を中心として生活しようとするならば、ここで拍子が合わなければなりません。それでこそ調和するのです。

それゆえ、恐ろしい実体判断を受ける過程を経なければならないのです。これが法です。このようになる日には、心情的基盤が自動的に生じるのです。皆さんが熱心に伝道したり苦労しているのに、なぜ悪口を言われて迫害されるのでしょうか。それは、皆さんに心情がないからで、心情を探すためなのです。愛を探すためです。そのような人たちを愛することができる人になるためなのです。皆さんがこのような訓練過程を経ないことには、いくらの人になろうとしても駄目なのです。言い換えれば、サタン世界の愛以上の愛を、自分が見つけなければならないのです。そうでなければ、天国に行けないのです。愛を探し求め、天国に行こうと、そうするのです。愛を探し当てた人が、天国に行くのです。

その時の審判主は誰でしょうか。神様が審判主になり、イエス様が審判主になり、先生が審判主になるでしょう。ですから、実践をしなければなりません。これが、我々の当面の課業であり、神様の命令だという事実を知るべきです。(一〇三│二三六)


二 天国に行くパスポートを準備せよ

五百九十一
 
誰にも後の日が来ます。サタン世界で後の理想世界を立てるためには、あらゆる体験をして、そこに合格しなればいけません。 天国に行くパスポートをもたなければなりません。パスポートをもらった個人と家庭と国家がたくさん現れなければなりません。パスポートをもった国家があってこそ、神様が天地を任せることができるのです。

パスポートは、サタンを追放するのです。サタンは来れないというのです。生活の中で、サタンが関係しません。サタンの干渉を受けないようにするには分立しなければなりません。個人分立、家庭分立、氏族分立、民族分立、国家分立、世界分立、天宙分立までしなければなりません。「統一原理」でサタン分立歴史を習ったでしょう? 何をもって分立するでしょうか。蕩減の道を通じて分立しなければなりません。

学者も大統領も、例外ではありません。蕩減の道は、探して行かなければなりません。蕩減の道は、教えてもらって行く道ではありません。自分が探して行かなければなりません。これをしないと、地獄に行くのです。地獄の鎖が、皆さんの目に、鼻に、考えに、みな引っ掛かっているという事実を知るべきです。これは脅迫ではありません。堕落ということを、ひっくり返すために必要なことなのです。

白い紙に書いてある文を消すのは、どれほど大変ですか。サタンが書いた文字を消すのは、インクの字を消すよりも難しいのです。それを消すには一度死んでから生き返らなければなりません。生きているとは名ばかりで、死んでいるということを知るべきです。これが残っている限り、サタンが、「私のものだ」と言うのです。それでイエス様は、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。(一二九│一八三)


霊界には、イエス様とか孔子、釈迦のような立派な人たちがいます。聖賢たちも多く、偉人たちも多く、立派な人たちが多いのに、何をもって上がっていきますか。

またそこには、ローマの迫害時代に殉教して死んだ人が多く、公的に犠牲になった人たちがどれほど多いでしょうか。それなのに、何をもって、どのように上がっていきますか。

ここでは、アメリカの軍隊のある小隊に入るには、証明書があってこそ入ります。それなのに、霊界という高次元の立場まで踏んで上がることができますか。数千億が集まって、時間と空間を超越して眺めているのに、「あの人は歓迎する」と言われるほどになりましたか。皆さん、自信がありますか。霊界は距離がありません。彼らは、皆さんが上がっていくのを見守っているのです。それなのに、どのように上がっていきますか。

そこを通過するためには、証明書が必要です。証明書がなければ通過できません。「私は文学博士の学位をもって行く」と、そのように言って行くことができますか。それは、霊界のトイレの紙くずほどにもなりません。 私がなぜこの堕落世界で、この悪なる世界で反対するのを突き抜けて、上がっていかなければならないのでしょうか。証明書をもらうためです。この世的なことではありません。私が世の中に出ていったなら、誰もうらやましくないほど出世をしたことでしょう。そのような能力をもった人です。(一四六―三三〇)


五百九十二
 
イエス様は、天国は相続しましたが、この世は相続できませんでした。では、この世は誰が相続したのでしょうか。カインが相続しました。それゆえこの世は、カインの国です。ですから、アベルは天国を相続したのちに、この世のカインが保証する証明証をもらわなければなりません。天国に行くには、サタンの証明証をもらって行かなければならないのです。

堕落人間は、この二つの原則に引っ掛かっているのです。このような原則が解けなかったために、今までの六千年の歴史が、繰り返しの連続だったのです。ですが、今分かったのです。聖書を見ると、「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ八・三二)というみ言があります。それが分かったのなら、歯を食いしばってでも愛さなければなりません。どの程度まで愛すべきでしょうか。怨讐であるカインまで愛さなければなりません。

(三四│二七八)

人間の堕落は、神様の立ち会いのもとでなされたのではなく、サタンが主体となってなされたので、堕落圏から逃れるには、サタンを屈服させなければなりません。「サタン、こいつ 7 お前と組んで私がこのようになったから、お前を屈服させて、私は帰る」と言うべきです。それで、サタンを屈服させた証書をもらわなければ、神様の愛を受けることはできません。イエス様も三大試練で勝利しました。歴史的に勝利したというサタンのサインをもらわなければ、天国に行くことはできないのです。

どのようにしてでも、サタンのサインをもらわなければなりません。イエス様がサタンから三大試練を受けて勝利したとき、その立場でサタンが涙を流しながら、「あなたと私は永遠に違う」と認めました。(二四│三三七)


カインを屈服させるためには、終わりまでカインを愛し切らなければなりません。そのような人でなくては、カインを救うことができないのです。 皆さんが天国に行くには、サタンの証明証をもらわなければなりません。サタンの証明証とは何でしょうか。罪人が釈放されるには、まず検事を通じ、弁護士を通じてから、判事によって釈放されるのです。このような立場で見るとき、サタンは検事であり、神様は判事であり、イエス様は弁護士です。サタンが、

「お前はこれこれこのようにしただろう?」と言って、さっと罠にかけて神様に、「この人は、このようにしなければならない 7」と言えば、神様もどうすることもできないのです。すると、イエス様は弁護士の立場で、

「神様、この人の先祖はこのようなことをしました。本来、血統は悪くない人です。これこれの条件に引っ掛かったので、その条件に該当した蕩減条件を立てさせ、罪を脱がせてやらなければなりません」と言うのです。このようなことをしてきています。

それゆえ、皆さんが天国に行くには、サタンの証明書をもらわなければならないのです。サタンを愛したと認定されなければ、永久に天国に行けません。それで統一教会は、そのようなことをしようというのです。反対する人を怨讐として対すべきなのにもかかわらず、愛さなければならないとは、あきれたことです。怨讐を愛せというのです。彼らのために福を祈ってやらなければならないのです。そのようにしなければいけません。カインとアベルが一つにならなければ、復帰ができないのです。父母に帰ることができないのです。

(四八│三一六)

五百九十三
 
キリスト教は、歴史時代に数多くの人々と共に、悲惨な運命を開拓しながら、真のオリーブの木を探す歴史を経てきたのです。真のオリーブの木は、すなわち神様の息子です。その息子が来れば、その方の津液を受けて、枝をもらわなければなりません。その枝に自分を接ぎ木しなければならないのです。そのようになると、歴史時代のすべての先祖たちが蕩減条件を提示して、サタンに引っ掛かって倒れ、今まで結ばれている歴史的な条件が、その場で全部なくなるのです。

沃土、暖かいねぐらのような基盤ではなく、砂利の多い土地のような所で、接ぎ木されるというのです。

今までサタン世界にない本性を備えたので、神様の息子になり得るという証明書を、サタンからもらわなければならないためです。それは神様がしてくださるのではありません。神様が自由にしてくださるなら、六千年前にすべてしてくださったのです。

刑務所から出てくるために、判事が公認してくれるのではありません。では、誰がしてくれるのでしょうか。検事が公認してくれるのです。公判廷では、検事はサタンです。それゆえ、裁判の場で検事の公認を受けなければ出てくることができないのです。それゆえ、サタンの公認を受けなければ、神様は「お前は私の息子だ。私が生かしてやろう」と言えないのです。必ずサタンの公認を受けてこなければならないのです。皆さんは、サタンの公認を受けましたか、受けていませんか。サタンの公認を受けなければなりません。

統一教会は、何を教えてくれる教会でしょうか。サタンから公認を受ける方法を教えてくれる所です。サタンから公認を受けると言っても、霊的にだけ公認を受けたのではいけません。霊肉を合わせた実体として公認を受けなければならないのです。(一七│一二四)


天国に行くパスポートを、何もせずにもつことはできません。ただ座って、試験も受けないで、論文も書かずにもらった学位は、偽物です。統一教会にも本物と偽物がいます。正確な尺度で測ったのちにこそ、本物になるのです。(一二九│一八六)


天国へは、どんなにきれいで純粋な心をもっていたとしても行くことができません。天国に入る手続きを踏まなければなりません。登録をするには、資格証を出すべきでしょう? いくら「私は絶対的に純粋な心をもった純粋な人である」と言っても、天国に行けないのです。通過し得る形式がなければなりません。

滅びゆくこのアメリカに行ってくるためにも、ビザとか何とか、どれほどややこしいですか。天国に入るのは、アメリカに入ることよりも難しいのです。あらゆる法の手続きを踏まなければなりません。それを学ばなければならないのです。それゆえ、統一教会でなく、統一大学です。天国の大学だというのです。ですから、先生が地上で指示したすべてが、あの世に行く時において条件になるのです。「これができなくては行けません 7」と、このように言えば、先生を見て「何もしないで命令だけするのではないか」と言うでしょうが、先生はそれをみな実践して命令するのです。なぜそうなのでしょうか。「真の父母」なら、教えてあげなければならないからです。


五百九十四
 
先生は相談する相手がいないのです。アメリカの大統領にも、復帰摂理について相談できません。ここにドクター・ダーストが来ているとしても、復帰摂理路程を相談できないのです。相談するようになれば、天使長が讒訴するのです。天使長は、人間を堕落させた張本人です。それゆえ、神様と先生以外は知らないのです。

今は、統一教会が世界の峠を越えていくのです。今は、統一教会を誰かがなくすことはできず、先生を誰も監獄にほうり込むことはできないのです。皆さんが今、結婚して、生活して、息子、娘を生むことは、忙しいことではありません。皆さんは、いつ死ぬか分かりません。行く途中に、車の事故に遭って霊界に行くかもしれません。ありとあらゆることが、たくさん起きるのです。いつ、どの瞬間に行くか分かりません。

祝福された家庭が、これから霊界に行く問題を等閑視して、自分たちだけでおもしろく暮らして霊界に行くならば、統一教会の先生の前に出ることができますか。祝福を受けた家庭というものは、長成期完成級圏内にいるために、世界圏にまで上がることができていません。長成期完成級にいるために、世界を越えなければなりません。そのような過程にいるために、越えなければならないのです。 先生が、霊界に行くことができる道をみな準備したのに、皆さんがしないでじっとしていたら、どれほど悲惨でしょうか。

先生は無能力な人ではありません。性格を見ても、誰にも負けない性格です。先生は、踏まれることを嫌いますが、踏まれても生きてきたし、反対されるのが嫌ですが、反対されて生きてきたのです。そのような基盤で、統一教会に入ってきた皆さんは、どのように行くべきかということがはっきり分かる人です。早く国と世界を越えていかなければなりません。皆さんは、お嫁に行くのが忙しいですか、暮らすのが忙しいですか、霊界に行く準備をするのが忙しいですか。 自分が生きるということは、霊界に拍子を合わせるためのものです。誰もが、霊界に拍子を会わせて生きなければならないのです。我々、統一教会を信じていった人たちが霊界に行くときには、先生が教えてあげた条件が、霊界の門前にしっかりと打ち込まれていて、皆さんに質問するのです。

先生が今まで教えたことすべてが条件になって、書かれているのです。そこで答えられなければ入れないのです。中間ぐらいの霊界で待たなければなりません。そこで、先生が霊界に来るのを待たなければなりません。

「先生が霊界に早く来たらいい」と待つのに、先生が霊界に行っても、先生が行く所に皆さんがすべて入れるわけではありません。(一

四六│三三七)


「悪魔を追放しよう 7」、これが先生の標語です。人類歴史の数多くの人々を蹂躙してきた悪党、サタンのしてきたすべての行動を、公儀の裁判長である神様の前に、検事となって讒訴しようというのです。我々が検事になって、悪魔サタンを讒訴しようというのです。そうすれば、悪魔が検事に屈服するでしょうか、屈服しないでしょうか。そこには弁護士がいません。悪魔には、弁護士がいません。

しかし、人間には弁護士がいるのです。

イエス様があの世に行って、弁護士の役割をしているのです。イエス様が弁護士になって、「この人は、私の名を信じ、善なることをしました。善であろうとし、公理の法度を守った人は、悪魔も連れていけないということは、悪魔と神様と協定した条約ではないですか」と言うのです。そうすると神様も、

五百九十五
 
「そうだ」と言うのです。 イエス様の名で善なる立場に立てた人たちは、悪魔が引いていくことはできません。それで、「イエス様を信じなさい」と言うのです。よく調べもしないで、イエス様を信じさえすれば天国に行きますか。私が霊界に行って、立派な牧師たちが地獄に行ってひれ伏して、「私は文先生がこのような方だとは知らなかった 7」と言っているのをたくさん見ました。夢のような話です。皆さんの従う先生は、そのような人です。高次元の世界、五次元世界以上の理論をもっている責任者なのです。私に従おうとすれば、そのような内容を知らなければなりません。(一四九│九八)


我々には、国がなければなりません。国はありますが、我々が行く国は、ほかの国です。その国の公認された市民権を新しくもらわなくては、天国に入ることはできないのです。公認された市民権をもった人には、サタンが東西南北を通じても、過去、現在、未来を通じても、讒訴しようとしても讒訴できないのです。(一四八│二八七)


第三節 霊界入籍一 天国市民が楽しむ自由

女性が美人として生まれれば、間違いなく外的についていくのです。醜い女性は、外的に行くのではなく、内的に行くようになっているのです。外的に行けば行くほど、サタン世界に染まったサタンのぼろきれになりますが、内的に行くようになれば、神側に近づきます。内的に行くすべを知る人は、外的な側にも思いどおりに行くことができますが、外的な側に行った人は、内的な側に絶対来ることができないのです。 では、統一教会の人たちは、どのような人になるのでしょうか。内的世界にも入るすべを知り、外的世界にも出ていくすべを知り、また、出てから入ってくるすべも知り、東西南北を訪ねていくことができる人になるのが理想的です。内的世界が主体になって、外的世界を支配し得る人をつくろうというのです。

外的世界は、悪が侵犯したために、その世界に行けば地獄に行き、内的な世界に行けば、善なる霊界である天国に行くのです。この外的世界と内的世界を自由に往来することができれば、地獄にも行くことができ、天国にも行くことができるということなのです。それを知っているがゆえに、「どこに行っても歓迎され得る人になってみよう」というのが先生の主張です。それが神様の主張です。

神様は、地獄に自由に行くことができます。手続きを踏まずに行くことができます。また、天国の王宮に行くにも、手続きを踏まずに行けます。どこでも思いどおり行けるのです。

(一一六│一七七)


二 霊界に行くときもっていく贈り物

五百九十六
 
霊界の神様の前に行くときに、もっていく贈り物とは何でしょうか。お金でもなく、学士、博士の名誉でもありません。自分の愛する夫がいいとか、豊かに暮らしているとか、そのようなことではありません。そのようなものは贈り物にはならないというのです。そこには世界のため、神様のための愛をもっていかなければなりません。それが残るのです。ヨハネによる福音書第三章十六節に、「神はそのひとりごを賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。神様が世の中を愛するとあります。それで、ひとり子を与えてくださいました。ひとり子は、世の中を愛するために来た人です。

それゆえ、愛を中心として信ずれば、滅びないのです。救われるのです。主人が世界を愛するので、世界を共に愛さなければならないということなのです。今日のキリスト教は、教派の名で全部分かれていきました。世界がどうで、神様がどうでということは考えもしないのです。自分の教派と自分の国だけを愛して滅びていくこのキリスト教を眺めるとき、我々は教派を超えて、国を超えて世界を愛し、神様を愛さなければならないのです。(九八

│三二九)


いくら殺人強盗だとしても、証拠物がないときは、判事でもどうすることもできません。強盗が、「私が殺人をしたのをいつ見たか」と立ち上がれば、どうしようもないのです。しかし、証拠を突き付ければ、微動だにできません。証拠がなければ、証拠を探さなければなりません。賛美歌に「イエス、イエス、信じることは、もらった証拠が多い」という句があります。皆さんは、もらった証拠がありますか。もらったと威張って伝道に出るものの、そのようなものが証拠だと思いますか。そのような証拠をもって何をしますか。伝道して残った人もいなければ、何の関係もないということです。

皆さんは、天国に行くときに贈り物としてもって行く物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんがもって行ったふろしきを開いて見せることができるでしょうか。大した物でもないのに開いて見せることができるでしょうか。皆さんがどのような苦労をしましたか。それぐらいの苦労をしただけで、どうして国のため、世界のためだと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。霊界に行ってふろしきを解いて、「これは一生の間私が用意した贈り物ですので、お受け取りくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行く時は、荷物をしっかりと持って行きながら、天国に行く時は手ぶらで体だけ行くことができますか。

皆さんは統一教会の信徒として、神様からどんな使命をもらった者たちですか。皆さんは、神様の精兵として、神様の息子、娘として、結婚するようになれば、その家の中の家門を受け継がなければならないのです。そうするために、皆さんは暮らすようになります。独立性を育てなければならないのです。このような高潔な使命が、皆さんにあるのです。それゆえ、先生と毎日生活できず、離れていても、また、神様がいつも皆さんに直接命令しなくても、皆さんは、神様の管理圏で使命を賦与された人たちであるということを忘れてはいけません。

皆さんは、自身を絶対視しなければなりません。そうして、その絶対的な価値によってなされた成果が万民のものとして、後代の後孫のものとして、天上世界の宝物として、永遠に保障されるという決意をもたなければなりません。これが任命された者の責任です。その責任を果たせなければ、乞食よりもっとかわいそうです。乞食たちは時が来れば、もらってでも御飯を食べますが、責任を果たせない人は、時間に合わせて御飯も食べられないのです。

このような責任を完遂するのに、神様が

五百九十七
 
「十年間にせよ」と言ったなら、十年間、忠誠と精誠を尽くさなければなりません。歴史を輝かすことができる子女の道を、価値ある道として復帰してくる期間を、どのように短縮させますか。神様が計画した十年という期間を、七年に短縮させるためには、自分の汗が必要であり、自分の血が必要であり、自分の努力が必要であり、自分の苦労が必要なのです。その消耗の代価を通じて、量と質をそこに補充しなくては、国家的で世界的な版図を収拾することはできないのです。統一教会の信徒たちは、このような責任を負って行く人たちにならなければなりません。

そのような時代が来たのです。既に基礎を築いて、外部工事はみな終わり、これからは装飾をする時代です。内部装飾は、主人の手が必要なため、私がいなければいけないのです。壁などは直接関係がありませんが、直接関係してくる、必要とされるすべての与件を備えるためには、必ず段階的期間が必要です。それゆえ、準備時代、実践時代、成就時代があるのです。

自分の生涯を、時期に合わせて計画し実践していかなければなりません。準備時代には、あらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代には、あらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代には、あらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。それでこそ、内部装飾がうまくいくのです。その装飾は誰が見ても、「その精巧さにおいて、精誠を込めた度数がずば抜けてい

る」と言われなければなりません。


ですから、皆さんはみ旨の世界において、準備時代が来て「準備しなさい」という任命を受ければ、準備しなければいけないのです。その次には、実践時代が来ます。その時は、昼夜を問わず実践をしなければなりません。

その次には成就時代が来ますが、その成就時代は希望が宿る時期なのです。(三二│七一)


三 三大主体思想と入籍

心は、神様の代わりです。心は、烈祖、先祖たちを代表するのです。心は師を代表し、心は国王を代表するのです。ところで、これまでこの心を、どれほど蔑視し、ないがしろにしてきましたか。宇宙の中心として真なる父母の立場にあり、真なる師の立場にあり、真なる主人の立場にある、真の愛の主体としていらっしゃる方の代わりであるその心が、この地上で、自分一人を収拾するためにどれほど犠牲になってきましたか。

蔑まれ、引きずり回されながらも、人が悪い考えをもって明け方にどろぼうでもするようになれば、「おい、こいつ 7」と、再び忠告するのです。皆さんがそのような心を、どれほどもてあそびましたか。心は、父母の代わりであり、師の代わりであり、主人の代わりです。心の世界では、公判が必要ありません。皆さんが、皆さん自身を誰よりもよく知っています。第三者、証人は必要ないのです。

父母の前で堂々とできない自分、師の前で恥ずかしい自分、国の君主の前で恥ずかしい自分、神様の前に恥ずかしい自分です。そうであるために、「悔い改めよ」と言うのです。本郷に帰るには、悔い改めなければならないのです。

五百九十八
 
本郷では、神様を王として侍らなければなりません。神様は、宇宙の王であり、国の王であり、氏族の王であり、家庭の王です。神様は、宇宙の師であり、国の師であり、氏族の師であり、家庭の師です。神様は、宇宙の主人であり、国の主人であり、氏族の主人であり、家庭の主人です。これが三大主体思想です。ここには、「ため」にする愛、「ため」にして忘れることができる愛の本質があるがゆえに、この三大主体思想が天国を代表するのです。

自分自身が、その三大思想を全部備えるならも理想的ですが、それを全部備えられなくても、「真の父母」の立場に立てば、主は右、主人は左に立つのです。それゆえ、この三つのうち、どの一つでももてばいいのです。真なる父母になるなり、真なる師になるなり、真なる主人になるなり、いずれか一つの立場だけにでも立つようになれば、天国入籍は問題ないのです。(二〇九│一五四)


四 入籍の条件

堕落とは何かというと、み言と実体と心情の因縁が離れていったのです。ですから、皆さんがみ言を知って、み言を実践しなければなりません。み言を実践するには、父母の心情を備えて動いていかなければなりません。蕩減復帰をすることができる実体的な行動を経た者となって、初めて祝福してあげることができます。口先だけではいけません。こうして、天の一族、言い換えれば、この国の生命体になるのです。

我々の生命現象において、霊形体と生命体と生霊体があります。これらは霊界の反応的な現象なので、この世で霊形体、生命体、生霊体と同様の因縁を経るのです。生霊体になればそこに入籍して、自分の位置を見つけて入るのが復帰の路程です。ですから今からは、皆さんが入籍するのです。

もしそのようにつながって入籍される場合には、皆さんがいくら過って、いくら失敗をしたとしても、サタン世界で立てた法をもっては、処理できないようになります。アメリカ人たちを韓国の国法をもって処理することができますか。国籍が違うからできません。 そのような圏内に入れば、その圏内の法だけが適用されるようになります。ですから、サタン世界の法は、いったん越えさえすれば、いくらどのようにしても適用されないのです。サタン世界の法が適用されないのですから、結局はこの世の法をもってしてはいけないということです。ですから、地獄には行かないようになるのです。

人は一度生まれたなら、一度は死ななければならないのです。それは公式です。では、死んでからどこに行くのですか。統一教会員は、霊人体があるということを知っています。その霊人体は、育たなければならないのです。

これから、皆さんに問題となることとは何かというと、時が来れば、全体が自分の自叙伝を書かなければならないのです。統一教会に入ってきて何をしたか、その記録の内容が何かというのです。ここにおいて、どこかの会社に就職して生活したといった内容は、何の条件にもならないのです。かえって、統一教会に入って会社にいたという事実は、恥ずかしいことです。今に、そういう時が来ます。

これから、入籍が始まります。南北が統一されれば、入籍をしなければなりません。宗族的メシヤという言葉が問題なのではありません。その内容と事実が問題なのです。そのようなすべてのみ言の内容が、今後自分が永遠の道を行くための蕩減条件になるのです。あの世に行って、皆さんがその道を行くために、心で体恤しながらどれほど努力したか、努力だけでなく実績をどれほど残したかということが問題になるのです。



五百九十九



救いの道というものは、今まで生きてきた、そのままの習慣的生活を通じて得ることができるものではありません。完全に蕩減の道を行かなければならないのです。救いの摂理は、復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。それゆえ、再創造されるためには、堕落する前と同様に、本然の位置、ゼロの位置に帰らなければならないのです。

そこには、意識もなく、習慣もなく、金氏とか李氏とか、自分の姓もないのです。そのようなゼロの位置に帰らなければなりません。天の創造本然の基準から見ると、造られたすべての万物は、ゼロから出発したのです。 ところで、人間が堕落することによって、天国に行く途中、その道に反することが人間世界にあふれているのです。これを切ってしまわなければなりません。それは言葉ではできません。すべての民族が、サタンの愛を中心として、サタンの生命、サタンの血統と因縁を結んで歩んできた歴史的文化背景の中で、習慣性、あるいは風習が混在しているために、これはそのままでは除去されないのです。 聖書は、「死なんとする者は生きん」と言いました。歴史的な論理がそれで成立するのです。死のうとしてこそ生きるのです。自分の生命を投入しなければならないのです。それで、このすべてを洗濯すべきです。言い換えれば、蕩減して、復帰しなければならないのです。そのような過程が、絶対に必要なのです。

堕落世界で所有していた習慣性とか、罪悪性が残っている限り、神様と関係を結ぶことはできないのです。(二一三│九七)


皆さんが霊界に行くとき、一週間以上神様のために断食ができなければ、あの世に行って入籍ができません。なぜでしょうか。神様は、六千年の復帰歴史路程で苦労されたので、それを考えながら断食をしなければならないのです。それで、統一教会では、七日断食期間があります。それは、皆さんを苦労させようというのではなく、神様の前に肉身を打ったという条件を立てさせるためなのです。

(一七│一八三)


我々はどのように暮らすべきでしょうか。その方法は、個人は家庭、家庭は氏族、氏族は民族、民族は国家、国家は世界、世界は天地、天地は神様のために、神様の愛のために生きることです。このように生きて、死んで

いくのです。


我々は、他の人たちとは違うのです。伝統がしっかりと立っているのです。なぜそうでしょうか。伝統を立てなければ、あの世に行って入籍する所がありません。あの世がそのような組織になっているから、そこに合わせなければ、入籍することができないのです。 堕落していない本来の人として再現して、帰らなければなりません。そのような人にならなければ、入れません。これが原理観です。

(一三一│五六)


600 * 六百
 
皆さんは、天国に入籍をしなければいけません。アブラハムは、神様の近くに行くため、祭壇の上に自分と共に万物を捧げました。万物を失ったために、それを復帰の条件とし、人を失ったために、アベルの位置に立って、万物をアベルの立場に立ててカインに条件を立てさせ、神様に捧げるのです。そのようにして初めて、神様は受け入れてくださるのです。(一五│一五三) 皆さんが入籍するのに先立って、絶対的人間として生まれるためには、どのようになるべきでしょうか。これをはっきりと知らなくては、絶対的に完成品に代わり得る位置、すべてに勝ち、自分の主体性を天の前に主張することができるその位置に訪ねていくことができないのです。

我々人間は、神様を中心として生まれました。どこまでも出生の動機は、創造主です。創造主によって生まれたのです。創造主の何によってできたのでしょうか。これが問題です。創造主がダイヤモンドが好きで、ダイヤモンドを任せるために我々を造ったのか、権力が好きで、権力を相続させるために造ったのか、知識が好きで、すべて知識を伝授するために造ったのでしょうか。始まりの起源、出発の起源とは何でしょうか。これが問題です。

絶対的な神様が起源となり、彼によって内的に因縁を結んで生まれた自分を主張したとしても、これから本郷の地に帰るプログラムを正確に知らなければ、その進行上のすべては未完成として結論づけられるようになっています。

自分の出生の動機は、どこまでも我々の父母によるのです。父の生命、母の生命が、自分をつづって出生させたのに、二人の内外の人格を伝授されるにおいては、生命同士がぶつかって出てきたのではないのです。生命に先立って、このことをつなげる根元的な作動があったのですが、その作動の動機とは何かというと、愛というものです。

生命が貴いか、愛が貴いかという問題について見るとき、生命は第二の位置にあるのです。愛が第一の位置です。

入籍のために本郷の地に行くべきですが、本郷の地に帰ることは簡単ではありません。手続きを踏んで、完全に合格しなければなりません。どの窓口に行っても、どの地へ行っても、大韓民国のどこへ行っても入籍することができる窓口があります。そこへ行けば甲という人、乙という人、丙という人、ありとあらゆる男女が入り口に座っていても、その人が判を押してあげなければならないのです。

(一七七│三〇五)


五 霊界の族長になる人

神様と一つになったなら、カインを愛さなければなりません。神様の愛を受ける立場に立ったなら、心を尽くして、命を尽くして、思いを尽くして神様を愛するのと同じように、氏族と民族と国を愛さなければなりません。これが地上の第一の戒めです。天国の戒めではなく、地上天国の戒めです。天上天国の戒めは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)ということですが、地上天国の一番の戒めは、「あなたの心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くして、あなたの国とあなたの民族を愛せよ」ということです。 それゆえ、神様の愛をどのように植えつけるか、神様の権能と天国の畏敬性にどのように因縁づけるかということが問題なのです。そうするには、自分を中心として、横的に広がった舞台をもたなければなりません。そのような人が、霊界に行って、神様の威厳を永遠に相続することができる支派長や族長、祭司長になるでしょう。(三四│七〇)


六百一
 
これから神の国を中心として、入籍時代が来ます。十四万四千の群れに入ると言うでしょう? 十四万四千とは何か分かりますか。入籍時代に向かっていくには、自分の氏族圏が、天国の故郷の地と同じ立場にならなければなりません。それでこそ天国の入籍時代に、氏族的に入籍するのです。

個人の救いの時代は、過ぎるのです。一国の大統領が、統一教会に入教して宣誓すれば、その人たちも天国の眷属になり、教会が提示する礼式を経てさえいけば、みなサタン圏から脱するのです。(二一九│一〇〇)


いつか我々が考えるべき重要な問題は、自分の体と心を統一して、妻と一族を結ばなければならないということです。体が蘇生なら、夫婦は長成、氏族は完成です。それゆえ、皆さんの氏族を一つにしなければなりません。南北統一されれば、その次には、入籍が起こります。

そのような時代に、恥ずかしくないように、同参することができなければなりません。その時は、皆さんが統一教会に入ってきた以後の歴史を、みな記録しなければなりません。間違っていれば、あの世で引っ掛かります。何をしたかというすべてを、いちいち明らかにしておいて、それを踏んで越えていくとき、この事実が自分をつかむようなことがあってはいけません。讒訴条件にならないように、記録を残しておいて越えていってこそ、初めて入籍時代に入るのです。(二一三│二〇六)


第七章 我々と霊人との関係第一節 霊的現象と霊人の解怨一 善霊界と悪霊界


霊界は、二つのグループになっています。霊界は、サタン世界と神様の世界になっています。霊界のサタン世界で、善の神様の世界に早く行くことができる道さえさらけ出せば、地上は自然に解決するのです。その道は、どのように行く道でしょうか。霊界のサタン世界に行って、個人、サタン家庭、サタン氏族、サタン国を全部天側に引き継ぐ秘法さえもてば、それが可能なのです。

霊界にそのような時が来れば、地上にもそれが反映するために、すべての変遷が早くその世界に転がって越えていくというのです。

(一三四―一五)


我々が実践する新しい運動とは、何の主義でしょうか。神様がいるなら、神意による主義です。神様がいるなら、霊界があるでしょう。霊界があるなら、霊界は今まで歴史始まって以来、数多くの我々の先祖たち、今生きている数多くの人たち、これから来る数多くの人たちがみな行ってとどまる所です。

霊界にも善の霊界、悪の霊界があるでしょう。悪の人たちは、必ず悪の霊界に行かなければならないでしょう。もし神様と何かの関係を結ぶことができる人間が残り得る一つの集合体が霊界なら、その霊界も不可避的に二種類になるのです。これは悪の種類、善の種類です。

では、いったい悪の種類とは何で、善の種類とは何でしょうか。神様も悪の霊界と善の霊界が和合して、人間世界が和合できることを望むでしょう。それで各自がもった目的も達成すると同時に、各自が全体目的も達成することができる、理想的二重結果の立場を追求するだろうというのです。人間には、二重目的、個体目的と全体目的があります。

六百二
 
今まで人類歴史は、何を追求してきたのでしょうか。善とは何であり、悪とは何でしょうか。なぜこのように塗炭の苦しみの中に暮らさなければならず、壁にぶつからなければならないのでしょうか。その出発点から、行く過程、終着点の内容が異なるためです。内容を分析すれば、簡単なのです。(一二六― 八三)

霊界がどのように発展し、どのように動き、この地上と関係を結んでいくかという全般的な内容を知らずには、これをはっきりと知ることはできません。霊界というなら、善の霊界と悪の霊界、このように二つに分けることができます。その世界は、実在する世界です。地上世界の人たちには分かりませんが、そこは、確実にある世界です。

霊界でも、善の霊人たちと悪の霊人たちが闘争しているのです。霊界にも闘争があるのです。善の霊は、悪の霊を扇動しながら良い所に連れていこうとし、悪の霊は、善の霊を何としてでもいい所へ行けないように妨げる闘いを続けています。

サタンを中心として、悪の霊がつながっていますが、その悪の霊の統治圏内に、今日地球星の人間たちが暮らしているのです。それは、なぜそうなのでしょうか。今まで行った先祖たちは、善の霊も悪の霊も、全部霊界に行っているために、その善の霊も、堕落した世界と区別されたという条件をこの地上で立てて善の側に立っているのかと、神様が御覧になるとき、完全な善の立場に立っていることはできないのです。

神様の本然の理想世界、本然の人間になることができる、理想的善圏に向かっていくにおいて、善の霊たちはそこへ前進しようとし、悪の霊たちはそれを妨げようとしているのです。悪の霊界と悪の世界というものは、いつでも通じます。いつでも連絡できます。善の霊は、悪の世界で対立して、反対される立場で生き、死んだ霊なのです。それは、宗教を信じて行った霊人たちです。(一三四―九)


二 霊的現象

後に、もし宗教同士互いに戦うなら、どのようになりますか。そのような現象が起こりやすい時代にあります。そのような時代を防備するために、統一教会が生まれたのです。統一教会は、それを防ぐための防備材です。 それで、宗教戦争時代には、霊肉共に防備するのです。霊界は、地所を占領しているのです。

霊界には、霊人が何千億もいるでしょう。日本の一億は問題ではありません。それは、足の下のほこりほどにもなりません。数千億、数万億の霊人たちが、地上を占領するための攻略をしてくるのです。ノイローゼ現象がそ

の一つです。


二〇〇〇年代を越えれば、その時はみな霊的に通じるかもしれません。悪霊に通じるなり、善霊に通じるなり、霊的に通じるようになれば、「戦争をするな」と言っても、戦わざるを得ません。そうする時が来るかもしれません。それを防備しなければならないのが、

「統一原理」の使命です。

六百三
 
高いアンテナには、ピーピー音が出ます。それがノイローゼ現象です。も恐ろしいことは、悪霊だけが動員されて地上攻略をしてくることです。そうした場合に、どのようになるかが問題です。いくら人が全地球星に満ちたとしても、悪霊に攻略されてしまうのです。それで、神様はそこまで準備していらっしゃるのです。善霊たちを中心として、霊界の基台を広げてきているのです。(五五―三〇)三 霊界から来た手紙


この前、李相憲さんの奥さんの閑淑さんから、霊界から手紙が来たのです。その手紙の内容はどのようなものかというと、「霊界がどれほどいいか、祝福がこのようにとてつもないとは思いませんでした。天国の皇族圏内に入ってきているという事実が、夢のような話です。あまりにも素晴らしくて、あなたより私が先に来たのが申し訳ありません。許してください」というものでした。夫より先に死んで、霊界に行ってみると、統一教会を信じて行ったために、豪華絢爛な夢のような事実が繰り広げられたので、あなたよりも先に来たのが申し訳ないと言うのです。あまりにもいいからそうなのです。

私のような人は賢い人です。その世界がよく分かるために、そのプログラムに合わせるために、一生の間暮らすのではないですか。根源から来たので、根源に帰らなければなりません。

海に集まった水が水蒸気になって大気中に上がり、雨となって降り、川ができたのではないですか。ですから、本然に帰らなければならないのです。すべては循環運動を通じて生命が連続するのです。循環しなくなれば、全部元素に帰るのです。

神様はどんな方でしょうか。神様は、宇宙の存在世界の心のような方です。神様は宇宙の心のような方です。

皆さんは、心を見ることができますか。霊界は心のようなものが体と化した生活の世界ですが、これは時空を超越した所です。そこでは、御飯を思いどおりに食べることができます。御飯の心配をする必要がありません。水の心配をする必要がありません。飲料水の心配をする必要がありません。服の心配が必要ありません。衣食住のすべてを超越します。

そこに自動車が必要ですか。自動車工場、食品工場、服の工場、織物工場があるでしょうか。みなありません。そこでは、億千万里を瞬間的に往来するのです。何の力をもってするのでしょうか。愛の力をもってそのようにします。愛する人に会いたいとすれば、すぐに現れます。

愛の速度というものは、高に速いのです。愛の行く道は、直短距離を通じるのです。それは世の中の愛ではありません。神的な愛です。神的愛が真の愛です。真の愛の圏内に入るようになれば、直短距離を通じる高の速度で行き来することができるために、宇宙を自分の考えの圏内の舞台として活動することができるのです。先生は、そのようなことをみな知っているために、世の中の万事に対して、悲しい苦痛の谷の道を一人で行きながらも、生涯、開拓者の一線に立って経てきながらも、恨まずに来たのです。今も、死ぬ日まで直行しようと決意をしているのです。

死ぬようになれば、霊界の軌道があります。レールがあるのです。地上のレールと霊界のレールは、国境を越える線路と同じです。これは狭くてもいけないし、高くてもいけません。合わなければならないのです。そのようなことが分かるのは、宗教の中で統一教会しかありません。いくらキリスト教が何だかんだと言っても、それは分かりません。イエス様が霊界の話をしましたか。

二十世紀後半期、先端科学を誇るこの時代に、公式的な発達の論理を追求する現時代に、公式的過程を通じた宗教的理論を通じて、神様を実証することができる内容をもった所は、統一教会しかありません。(二一〇―二二五)

六百四

今は、イエス様が反対された時代ではありません。韓国全体が世界的な版図をもった歴史性を中心として、先生をたたえることができる時代が来たために、皆さんは氏族的メシヤの責任を果たさなければなりません。今、一族たちは、瞬間的に姻族の八親等まで復帰されるのです。六カ月に百二十家庭は問題でもありません。今、このような兄の立場に立

ったのです。

天地が開闢するのです。おじいさんが孫になり、お父さんが息子の立場に立つのです。孫が王になるようになれば、おじいさん、お父さんが自分の先祖たちに侍らなければならないのと同じ道理です。メシヤが王権を代表するのです。その国では、すべての聖徒たちが再臨して、キリストの名で王の役割をするのです。ですから、これは氏族的王権になるのです。そのようになれば、国家的世界の版図圏に、王権が同参ができる解放圏になるのです。

今回、李相憲先生の奥さんの閑淑さんが霊界に行って、そこから送った手紙があるのです。「霊界に来てみると、いいのです。祝福されたら、こちらに上がってくることができるのです。天の皇族が何のことか分からなかったけれど、今来てみると、本当にとてつもなくいいのです。あなたより私が先に、このようにいい所に来てごめんなさい」と言ったのです。そのような所です。

広大で永遠な世界が本郷に繰り広げられるのに、そこで活動地域を制限され、方向感覚を失ってしまい、かわいそうな行動をする男たちにしたくないから、広い大宇宙でも東西南北、四方を自由に旅行することができる、明らかな解放圏をつくるために、こうするのです。 後代を準備するためには、何かを残しておかなけれなりません。自分の後孫たちを、豊かに暮らさせるために、国に良いものを残しておかなければなりません。そうすれば、国の人たちが保護するようになります。お金や知識や権力を残しておかずに、愛国的な功績を残しておきなさい。すべての人が「滅びる」と言いましたが、先生は滅び得ない準備を鉄石のようにしたのです。ですから、滅びようとしても滅びないのです。(二一三―一四六)


四 霊人の願い

霊界に行っている人間たちは、何を願うでしょうか。霊界は、自分が置かれている基準で、すべてを補給され得る世界です。

自分が願うなら、即時的です。消化して動かすことができる主体的な能力がある人ならば、不可能がない世界です。このような話をすると、「気が狂った人だ」と言うから、私は話をしません。

もし百万人の宴会をするなら、考えると同時に百万人が広場に現れて、すべての準備が可能であるために、百万人の宴会を瞬間的にすることができるのです。今日、この地上世界がどれほど悲惨ですか。このごろの韓国社会を見れば、失業者が多いではないですか。そのような世界です。何が可能になるでしょうか。原子力の分裂作用において熱が出るのと同様に、皆さんが愛の分裂作用をすれば、瞬間的に可能になります。そういうことが、あるようではないですか。(一四一―二七八)


あの世界は、どのようになっていて、つながっていくのでしょうか。あの世界において

六百五も、現在の立場より、あすの立場が良くなるのを願うことは同じです。

地上で暮らす人間たちが生活する中で、きのうよりきょうが良いことを願い、きょうよりあすが良いことを願うのは、共通真理です。西洋人も東洋人も、昔の人も今の人も未来の人も、誰に限らず、現在生きているより、良くなることを願うのは、共通真理だというのです。これは変わりません。


霊界に行っているすべての霊人たちも、それと同じなのです。現在より良くなるべきだというのです。地上で生活した時より、良くなるのを願うのです。(一四一―二六九) 今までの六千年の歴史は、アダム一人を探してきた歴史です。アダム一人を再創造する歴史です。それゆえ皆さんは、先生についてこなければならないのです。エバはアダムが出てこなくては、創造されることができません。それゆえ、たった一人のアダム、たった一人の男性を創造するのです。

その一人を創造するためには、復帰摂理の途上に生まれては死んでいった数多くの人たちの血と肉が材料にならなければなりません。億千万の霊人たちの恨みが、ここにまとまらなければならないのです。そうして、この実体が登場する日に初めて、激しい迫害の中で血を流して死んでいった殉教者たちは、殉教したことに喜びを感じるようになるのです。


たとえ霊界にいたとしても、地上にいる実体と関係を結ぶことによって、自分たちにも解放がやってくるのです。このようになっています。それが観念的で漠然としていてはいけません。この自覚を、どのようにするかが問題です。(二九―二七一) 我々は、そばで誰かが食べていようと、休んでいようと、何をしても関係なく、その道を行くべきです。ずっと前まで、数千名が一様にみな行っているのです。休まず動きながら、精誠を捧げて身もだえしながら行くようになれば、他の人たちもその縄を巻いてくれるのです。ですから、数多くの人たちがそこから落ちるのも、感じるようになるのです。 マラソン大会をするのと同じです。走ってみれば、一等も出てくるし、二等も出てくるのです。歴史がそうです。今まで数千年間、数多くの霊人たちがその縄にしがみついてきました。その中で、一等になってあの世に行って、その巻く装置と因縁を結んで、丸ごと巻いてやるようになれば、霊界と肉界が復帰されるのです。(三二―一四五)


五 霊人の解怨

我々は、三時代の使命を完結しなければなりません。霊界に行っている霊人たちを解放し、今日この罪悪の世の中に生きている人たちを解放し、これから来る後代の人たちも、ここから解放しようというのです。このように三時代の解放圏をもって出てくるのです。 これは膨大でとてつもないことです。このような夢のような内容が、事実として現れればどうなるでしょうか。目が真ん丸くなり、口は限りなく開き、耳はぴんととがるでしょうが、頭は下がるようになるのです。(二八

―二〇一)


六百六
 
統一教会は、何をする団体でしょうか。平和をつくるための団体であり、和解をさせるための団体です。ところで、誰と和解をつけるのでしょうか。イエス様と聖霊が今まで、このことをしています。出産の使命を果たすのです。イエス様と聖霊が果たすべき使命は、息子、娘を出産することです。

聖書を見れば、「子を産むことによって救われるであろう」(テモテⅠ二・一五)とあります。女性たちは出産すれば救いを受けるとあるのに、既成教会の人たちは「女は赤ん坊を産んではいけないのだ」と言います。そうであるなら、神様が女性に赤ん坊を産む器官をなぜつくったのでしょうか。それは、女性を代表したエバに代わって再び出産しなければならないということを象徴的に言ったのです。

エバは霊と体を身にまとって本然の母の性稟を結実すべき本性的主体性をもった立場にありましたが、相対的基準に立てなかったこととによって、実体化することなく、神様がそれを再び神様のもとに収めたのです。そうして、それをイエス時代に、主体の前に対象として送ったのです。それで、それには体がないのです。イエス様は体がありますが、聖霊には体がないのです。それで聖霊を、火のような聖霊、油のような聖霊、風のような聖霊と言うのです。

ですが、母的使命を果たして、我々人間の心に入ってきて感動を与えて罪を洗う役事をするようになれば、きれいになるのです。それは、母が妊娠をして、赤ん坊を育てるのと同じです。そのようにするには、父の保護を受けなければならないように、イエス様の保護を受けて、再び生まれたという条件に立ってこそ、重生になるのです。生まれ変わるという言葉が成立するのです。

イエス様と聖霊が、今まで休んだことがありますか。休めませんでした。キリスト教が休んでみましたか。休めませんでした。神様は今まで六千年間、堕落した人間を救う摂理において、休んでみたことがありますか。休んでみることができなかったのです。みな休めませんでした。では、統一教会は休んでみましたか。統一教会の先生が休んでみましたか。今も、年が五十歳を越えても、驚いた鹿のように跳んで回るというのです。

なぜそうなのでしょうか。和解をさせ、神様を休ませ、イエス様と聖霊を休ませ、我々の先祖たちをみな楽にしてあげるためです。 神様も先祖でしょう? キリスト教で言えば、生まれて死んだ先知先烈たちが全部先祖なのです。宗教で言えば、昔から生まれて死んでいったすべての宗教指導者たちも、全部先祖なのです。そのような先祖たちを解放してあげなければなりません。先祖の恨みを解怨成就してあげなければなりません。(七五

―三八)


先生は目が覚めさえすれば、もう便所に行きながらも考えるのです。寝ても覚めても二十四時間考えるのです。それゆえ、皆さんに借りをつくる男ではありません。借りをつくる男ではないのです。どれほど劣っていれば、責任者が借りをつくるかというのです。

先生が若い人に負けてはいけないと思うのです。このごろも、船に乗って毎日のように出掛けるのです。アメリカにおいて、これから海に関心をもつ人が無限な繁栄圏をもつようになるということを知っているために、そういうことをしているのです。

六百七
 
海で死んだ霊界の霊人たちを解怨してあげるために、先生がそのことをしているのです。ある時は、台風が吹くという警報を聞いても、船に乗って出るのです。そのようにして死んだ霊たちが、多くのことを知っているためにそうするのです。私が一九七五年にケープ・コッドに行って何をしたかというと、霊人たちを解怨させてやったのです。解放運動をしたのです。それは、世の中の誰も知らないのです。


では、反対されるのに、なぜそのようなことをするのでしょうか。それは、霊界の解怨のためにするのです。(九三―九六)


六 霊界統一

肉的世界はサタンの活動舞台であり、霊的世界は神様の活動舞台になって、いつも食い違ってきました。これが復帰摂理時代に恨の与件として残っているというのは、間違いない事実です。これを食い違えさせてはいけないのです。神様を中心とした心の圏と、神様を中心として治められる体の圏を備えなければなりません。生活圏内でこれをどのように発展させるかというところから、統一基盤の基準が確立されるというのです。(四五―二一三)


この世界が統一されるためには、霊界から統一しなければなりません。皆さん、霊界が分かりますか。霊界を知らなければなりません。霊界を統一しなければなりません。霊界を統一するのは、たやすいことでしょうか。霊界の統一なくしては、地上の統一がないのです。今日、この地上の戦いが実に大変でしょう? 地上の戦いが大変です。しかし、霊界の戦いは、地上の戦いより難しいのです。このようなことを考えるとき、今日、「大変」という名詞を口を開いて言うことができません。(一五三―五六) 理想を探していく過程で、霊的なものと肉的なものが一つになるのは、何によってでしょうか。霊的な世界は霊界であり、肉的な世界は地上世界ですが、霊的世界と地上世界が一つになるためには、すり替えなければならないのです。自分のものをもってはいけないのです。全部与えてこそ、あちらが来て、またあちらから全部与えてこそ、こちらがあちらに行くのです。失ってしまった立場に行くのです。(一四七―九四)


我々がこれから霊界と肉界をつなげるには、まず世界的な信念の自覚、統一的な理念の自覚をして、世界的に打開するための受難の道を甘受していかなければなりません。こうするようになれば、霊界と肉界が自動的に一つになり、ここから統一が繰り広げられます。統一の道を行く方向が決定されるのです。

(二九―二八五)


統一教会が霊界を統一する前に、肉界を統一することができますか。できません。それが原則です。それゆえ先生は、霊界を統一するために、肉界にいる皆さんを死地に追い出すのです、無慈悲にたたいて捕まえるのです。

そのようになれば、霊界は皆さんに協助せざるを得ないのです。皆さんが悲惨な立場に入れば入るほど、それを中心として、霊界は霊界なりに団結するようになるのです。皆さんが深い立場に入るようになれば、三千万の民族の中で天国圏が繰り広げられるのです。この圏は、昔から地獄に行っている輩までも含まれるのです。(四九―一〇九)


第二節 地上人と霊人との関係一 地上人と霊人
六百八

この世界は、悪魔の世界です。悪魔の世界を訪ねてこなければならないのです。皆さんは、いつ死ぬか分からないではないですか。誰でも死ぬのです。死の峠を越えて往来することができる基盤を地に築いて行かなければ、地上天国ができないのです。地上天国ができなければ、天上天国ができないのです。皆さんが霊界に行っても、この地上に思いどおりに来ることができるようにしておかなければなりません。それでこそ地上天国に暮らし、天上天国が成されて暮らすようになるのです。

霊界に行ってから、来ることができなければいけないのです。地上に天国を成せなければ、地上に来れないのです。これは妄想ではありません。そのようになっているのです。永遠をかけて、しなければならないのです。先祖たちが、全部責任分担と蕩減条件に引っ掛かって、霊界に行っても行くべき道を行けずに、地に再び下りてきて蕩減するのと同様に、その道を皆さんは残してはいけないのです。原理のみ言が事実なら、皆さんはそこにみな引っ掛かるのです。(一四六―二二三)


宗教として行くべき道、あるいは、一般の世界が行くべき道が、互いに塀でふさがっています。不信者がどのように信仰する人と和解することができ、また信仰する人が、どのように世紀末時代に来て和合することができるでしょうか。これを解決しなくては、人類は二股に分かれて、新しい一つの世界に入れないようになっているのです。

もし二股が一つの世界に入っていくことができるというなら、その世界は二股の世界の結果をもたらすようになるのですが、それは絶対的な神様が理想とするものになり得ません。一つであるしかない神様の理想世界に、二つとも到達することができないと見るのです。それゆえ今日、多事多端な世界的事件が問題解決の焦点ではなく、体と心をどのように一つにして、目的に向かって飛躍することができる自分自身を発見するかという問題が引っ掛かっているのです。

宗教と世界統合を、自分自身から探さなければならないという観点で見るとき、統一教会は、何をする教会かという問題がここに台頭するのです。統一教会は、宗教だけのための宗教ではありません。統一教会は、この世と一致和解して、宗教的活動基盤が、社会的活動基盤に同伴することができる道を探していくべきであり、また、世の中が宗教分野の道を探していくことができ、これが一つになり得る道を模索しなければなりません。ここには、大きな塀が横たわっているのです。宗教と社会が一つになるにおいて、個人的、家庭的、民族的、国家的、世界的に、霊界まで塀で妨げているのです。

この塀をどこから壊すのでしょうか。故障はどこから生じたのでしょうか。世界の果てで生じたのではありません。個人に生じました。個人が、自分を中心として故障する結果、体と心が分かれました。体と心が分かれて、いく筋も指向する、自分なりの目的をもって行くようになる結果になったのです。ここから問題となるのは何でしょうか。目的をどのように一つに帰一させるかという問題、分かれた体と心をどのように一つにつなげるかという問題があります。

六百九
 
神様とサタンがいるとするなら、神様とサタンが働いています。神様は、今まで人間を救うための復帰摂理をしてこられ、人間を救うための求道の摂理を指導してきています。それに反してサタンは、神様の摂理に反対してきています。善側の神様は、摂理の方向において一つの理想世界を目的として、毎日毎日より分けていきながら、その目的に接近できる道を推進させていく反面、悪神のサタンは、そちらに行ってはいけないと言いながら、反対の道に妨げているのです。

一つの境界線、一つの塀を中心として、神様は「塀を越えるな、お前は右に行かなければならない」と言いながら妨げて、サタンは「お前は左に行かなければならない」と言いながら妨げているのです。それで分かれるのです。右に行くための人間の出発が実を結んだのが右翼であり、左に行けというのを世界的に展開させてきたのが左翼です。この左翼と右翼の世紀末的な歴史時代に対するようになる時が、今です。この右翼と左翼は、心と体が戦う結果を表したものです。

では、これをどのように一つにするか、これが問題です。世界が一つになり、国家が一つになり、氏族が一つになり、家庭が一つになって、個人が一つになるのでしょうか。違います。出発をどこからしなければならないかと言うと、個人からしなければなりません。ですから、この世界において、急がなければならない問題は、個人から一つにする運動をしなければならないのです。それで、宗教の中で現実がつながり、現実の中で宗教がつながって、互いが否定できない自分自身を発見しなければなりません。

ところで、ここで問題となるのは、悪神が体を支配しているのです。悪神の根は自分の体を中心としており、先生の根は自分の心を中心としているのです。それで、唯物史観と唯心史観に分かれるのです。世の中の言葉は、ただ出てくるのではありません。その時代的な時が来るに従い、罪人は罪人であることを告げなければならないようになっているのです。「私はこうだ」という事実をありのままに告げなければなりません。我々人間が、世界的舞台を中心として一つになれるかなれないかという結果的事実は、善神と悪神が世界の基準で証すのです。自分がそこに包括されており、包容されているために、それを測定できず感じられないだけであって、善神と悪神はそのような立場で、世界舞台で戦っているのです。(一四五―一五)


二 霊人たちの霊界での立場

今日地上には、四十億の人類が暮らしていますが、霊界には数千億の霊人たちが暮らしています。それゆえ、地上のこの世界と、我々が眺める主体となる霊界が、どのようにつながっているかというのが問題です。我々が貴く思う物質を中心としてつながっているのでしょうか、知識を中心としてつながっているのでしょうか、我々が地上で重要視する権力と同じ内容を中心としてつながっているのでしょうか。そうではないのです。

なぜかと言えば、あの世界は、物質世界を超越した世界だからです。あの世界は、知識の世界を超越した世界です。時空を超越している世界であるために、きのうの喜びがきょうの喜びになり得、きょうの喜びがあすの喜びになり得る世界なのです。

このように見るとき、その本質の世界は、今日人間世界に暮らしている我々が必要として、重要視する内容を中心としては動かないのです。霊界の生活のすべての価値的な中心とは何か、それが重要なのです。

六百十
 
霊界に暮らす人たちは、各個人が霊界の社会に属しています。霊界にも人間世界と同様に、霊界の家庭があり、一族がいて、一つの国があり、世界とつながっています。

今日、地上に暮らしている人は、好きでも嫌いでも、誰に限らず、死んでとどまる所が霊界です。そこには未開人から文明人まで、歴史時代に生まれて死んだ千態万象の人間の群像が集結しているのです。

今までの人類歴史が、平和を中心とした人類歴史になれず、幸福を中心とした人類歴史になれず、理想を中心とした人類歴史になれなかったなら、霊界に行っている人たちは、どのようになるのでしょうか。どのように治められるのでしょうか。ここで暮らした人が、あの世界に行って突然変わることはできません。「三つ子の魂百まで」という言葉があるでしょう? 生まれもった性格は直しにくいのです。

このように見るとき、あの世に行っている霊人体たちは、我々が今まで暮らしたのと特別に違うのでしょうか。突然変わるのでしょうか。そうすることはできないのです。ここで暮らしたその形、そのままで収穫されていくのです。

霊界に行っているすべての霊人体は、結局は地上に暮らしていた人たちの霊人体です。そのように見れば、今日この人たちが暮らしている世の中と、別に違いのない世界なのです。(一四一―二六八)


霊界は、今まで数多くの部類の歴史をもっています。ところで、この霊人たちは、思いどおりにここに来て働くことができないのです。ふさがっているのです。

それで、宗教で橋を架けなければ、特定の人以外には、再臨することができないのです。ユダヤ教の中にも派閥が生じました。霊界から下りてくるとき、その主流が直線では駄目なのです。ユダヤ教の互いに違う系統が精誠を尽くすようになれば、その主流が移って、行ったり来たりするのです。

それゆえ、霊界にいる人が下りて来るには、直線に該当する人以外には下りて来れないのです。再臨役事の協助ができないのです。そうして、一世紀もたてば、またその人も霊界に行くのです。霊界に行って、その次の時代に来るには、やはりこのような原則で下りて来るのですが、特定の霊人たち以外は下りて来れないのです。

霊界の塀は、だんだん多くなります。だんだん複雑になるのです。その次の世代が全部霊界に行くのです。それで、だんだん壁が大きくなるのです。全部壁です。今の時は、世界的時代なのです。どれほど複雑か考えてみてください。これを探してくるには、どれほど回り回って来なければならないかを考えてみてください。それゆえ、時になったなら、塀を崩さなければならないのです。霊界から下りて来る道と、入って来る道をつくっておこうというのです。このことを統一教会がするのです。(一〇二―二九)


今まで霊界に行った霊人たちは、全部分かれています。霊界では横的には通じません。縦的にはこの程度に通じます。(二一八―一二五)


三 霊人の数が地上人より多い

六百十一
 
皆さん、霊界がどれほど大きいか分かりますか。霊界にどれほど多くの人口があるか考えてみましたか。今霊通する人たちが言うのを聞けば、一人に対して三千三百二十余名の霊人たちがついて回ると計算しています。我々の側がそのようにいると考えるとき、世の中に負けるでしょうか、勝つでしょうか。 霊人たちが原子爆弾を怖がりますか。それと同様に、皆さんも銃弾を怖がらず、原子爆弾を怖がらず、国を怖がらなければ、絶対負けないのです。間違いなく勝利するのです。超越しなければなりません。皆さんは反対しますが、私は「行け」と言い、後ろについて行ったのちに、門を閉ざして主人の役をするというのです。みな過ぎれば門を閉ざしてしまうのです。そのような考えをしながら、今戦っているというのです。(八六―一九三)


四 放浪する霊たち

飢えて死ぬ人より、もっとかわいそうな輩が、神様を否定する人たちです。飢えて死ぬ人は、自分の善意の道理によって、あの世に行くようになっても級がありますが、神様がいないと言う人は、霊界を否定するために、基盤がないのです。霊界で雲のように放浪します。さすらいの霊になるのです。雲が集まって雨が降るのと同様に、集結して全部悪い影響を及ぼすのです。ですから、全部地獄に訪ねていって、地獄を煩わしくするのです。そのようなことをちゃんと知って、これらを生かしてやらなければならないために、このことをするのです。

その次には、死ぬ人が問題です。今、一日に六万名が死んでいっています。それを父母、子供、兄弟たちが見るとき、胸が絞めつけられ慟哭する出来事が繰り広げられています。ところで、「真の父母」という人が、同情せず、それに対する準備をしなかったなら、地上において在世当時、自分たちと共に生きたという条件が恨みになります。

私がそのような考えをもって、海洋事業を中心として、万民の食糧問題を解決し得る道を準備するのです。二重、三重に苦労しても、統一教会が一番近い人たちになり、助けてあげることができる道のために、世界的宣伝をして準備をするのです。ワシントン・テレビジョン・センターを造ったのも、みなそれです。募金運動をするつもりです。

人が百年生きられないのを考えるとき、五十億の人類の中に、一年に五千万が霊界に行きます。これらが地獄に行くのをどのようにしますか。サタンが蒔いておいた種を、全部天に収めるのを神様が願うのに、これが遅れれば遅れるほど、どうなりますか。今まで四十年間に、どれほど地獄に行きましたか。数十億が行ったのです。深刻なことです。あの世に行って、霊たちに会うようになれば、

「先生の在世当時に我々に対して責任を果たせなかった」と言われれば何と言いますか。心だけでもしなければなりません。心だけでも食口たちに話し、未来についても責任をもつという行動を中心として行くようになるとき、「あなたは驚くべき方です。我々を考えてくださった」と言うのです。(二一三―三五五)


五 霊人の区分は心が知ってする

六百十二
 
深刻な心情の立場で話をして、汗を流し、帰ってきて飲む水の味を、世の中の普通の人たちは知らないのです。その味は、どうだったでしょうか。コーラとか、蜜の味とは比較にもなりません。味が違うのです。毎回違います。 そのようなことも発見しなければなりません。そのようなことを感じなければ、霊感を感得することはできないのです。霊界に対するすべてに感応することができないのです。そのようなことを感じるようになれば、耳が鋭敏になって、あちらで話せば、すぐに何の話をしているか分析してしまうのです。目をつぶっていても、誰が過ぎ去るか、良い人なのか悪い人なのか突き止めるのです。霊感が来るのです。それを知らなくては、霊界の悪神なのか善神なのか見分けがつかないのです。見て分かるのではなく、心が分かるのです。心の目は、見て分かる目よりも、高次的な立場にあるのです。

皆さんはまだ行くべき道が遠いので、先生がこのような話をするのです。それを知るべきなのです。自信をもつべきではありません。それで聖書には、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ五・三)とあります。同様の道理です。みな通じる言葉です。(九六―一七〇)


六 地上人の暮らしの価値

我々は、アダム・エバに対して、今まで数千年下ってきながら、数多くの人たちが讒訴したことを知っています。今、皆さんが新しい先祖になるのです。皆さんの後代の前に讒訴され得る先祖になるか、栄光を受け得る祝福の先祖になるか、この二つの道の岐路に立ったのです。アダム・エバが公的な立場に立てなかったことによって、讒訴の条件を残しましたが、より公的な立場に立って犠牲の道を克服していたならば、今日人類の後孫の前に讒訴されなかったであろうことは、当然の道理です。 皆さんもそのような立場に立ったということを知るべきです。ですから、皆さんはいつも「三世代を代表した私だ」と考えなさいと

いうのです。

それゆえ、霊界が自分の肩にかかっているのです。皆さんの先祖が、皆さん自身にかかっているというのです。過去、現在、未来を全部このように集めて、二つを合わせて引っ張っていけば、走ってくるのです。そのような使命を果たすべきです。

ですから、霊界が自分の肩にかかり、親戚が自分の肩にかかり、親戚だけでなく国が自分の肩にかかり、これから来る後孫の前に正しい伝統を立てておかなければならないのも、自分の肩にかかっています。これをいつも考えるべきです。皆さん一人が、うまくできるかできないかによって、霊界に行った皆さんの先祖たちも解放することができ、皆さんの親戚たちも解放することができ、皆さんの後孫たちは解放の選民として決定され得るので

す。(六六―七六)


六百十三
 
神様が標準を六千年間合わせようとしましたが、今まで一つの標的にも当たらなかったのですが、今何万年目に撃ってぴたりと当たったのです。その合う時間を考えれば、一番眠気が差す時です。一番眠気が差し、一番疲労困憊する時なのです。神様がその時、居眠りしたり、疲労困憊の状態でいるでしょうか。神様御自身が撃つ時、疲労困憊して眠気が差すか差さないかという時、気を引き締めて撃ったのです。その時、撃ってから居眠りして、疲労困憊して倒れるでしょうか。神様が体面も何もなく「うわ 7」と喜ばれるのです。 霊界では、どれほどあきれるでしょうか。天使世界から見るとき、「天使が過って神様をあのようにしておいたのに」と言い、どれほどあきれるでしょうか。どうか合えと、どうか合えと願ったことが、何万年続いたのに、それがぴたりと的中すれば、霊界はどうでしょうか。

世界の人たちが、そのような素晴らしい所があるなら、入場券一枚が一万ドルするとしても、買って入るでしょうか、入らないでしょうか。そこにありとあらゆる人たちが来て、

「ああ、チケットを買って損した 7」と不平を言って出たのに、あとでその町内のある乞食がお金を借りて、物乞いしてチケットを買って入り、神様が標準を合わせるのを見たらどうでしょうか。乞食がそこで踊りを踊るでしょうか、踊らないでしょうか。

そのようになれば、神様も気分が良くて誇るでしょう。「おい、当たった、当たった 7 誰かいないか。誰かいないか」と、このように探すのではないですか。その時、神様がその乞食を見たなら、「おい、こいつ、乞食よ 7」と、そう言うでしょう。「ああ、うれしい」と言って踊りを踊られるでしょう。(一〇三―八七)


第三節 先祖たちと我々一 我々を見下ろす先祖たち

皆さんが霊界に行ったなら、先祖たちが現れるでしょうか、現れないでしょうか。「うちの孫たちが統一教会に入って、文先生に会ったって 7」というところから、天国の宮殿、皇族が始まるのです。今まで天国に宮殿がありませんでした。

「真の父母」が教えてあげたとおりに、ただ愚鈍に「しなさい」と言われるとおりにする孫と、自分の思いどおりにうさぎの子のようにするすると抜けていく孫娘とを霊界から先祖たちが見るとき、どちらを褒めるでしょうか。うさぎのようにする孫娘を褒めるでしょうか、亀のようにする孫を褒めるでしょうか。亀のようにする人を褒めるのです。

うさぎは小便をよくします。亀はよく分からないでしょう。亀が小便をするのを見たことがないので、亀はよく分かりません。うさぎは少し行っては小便をして、少し行っては小便をするのです。それはなぜですか。他のうさぎたちが来ることができないように、自分の領土を決定するために、小便をするのです。 亀のようにしなければならないのです。

「しなさい」と言えばして、夜が来ても昼が来ても、歳月が流れても、春夏秋冬を忘れてただまめに行く人は、みな歓迎します。あの世のすべての先祖たちが、皆さんの暮らしをみな見ています。隠れる所はありません。先祖たちが全部見ているのです。霊界に行くようになれば、壁もみな通じるのです。地球の固まりも、みな通じるのです。

そのような世界に行って、永遠に暮らさなければなりません。神様の愛の対象として造った人間であるために、神様が永遠であられる限り、愛の対象になる存在も永遠に必要だというのです。神様が永遠であられるように、我々も永遠なのです。愛の相対にならなくては、永生がありません。

六百十四
 
あの世では、どんな人が一番高い位置に行くのでしょうか。千年、万年、自分が何度も生まれて、神様のように人類のために生き、神様に同情し、神様を慰めることができる自分になるという人が、神様の前に一番近くに行くのです。良いものがあれば、全部人類のために使おうとする人です。おじいさん、おばあさんは、行く日が近くなれば、良いものは全部息子、娘の前に残してくれるでしょう? 自分が努力したすべての代価を譲ってくれるのと同様に、そのような心を世界人類の前に残してあげると言い、世界の前に譲ってあげると言える生活をしなければなりません。(二一三―一九六)


二 我々が先祖よりより良くあるべし

先祖が生きてきたこの家の中に、自分の曾祖母、曾祖父が暮らしたその部屋に、うちのおじいさんを産んで、うちのおばあさんを産んで、自分を産んだその部屋に、おじいさん、おばあさん、曾祖父、曾祖母が愛したその愛より、もっと大きな愛を残すことによって、天が見るとき、愛光沢で光るのです。百ボルト、千ボルト、一万ボルト、何億ボルトの光がずっと輝くのです。その輝く光がどこに行くかというと、故郷に行くのです。先祖、先祖、先祖と上がっていくのです。霊界に行くようになれば、神様を中心とした天国に行くのです。その天国が、本来我々の本然の故郷

です。我々の本来の父が神様でしょう?


アダム・エバは、神様の体です。アダム・エバは、横的な父母であり、神様は縦的な父母であるために、我々が横的なこの体を脱いでしまい、縦的に還故郷して、天国で永遠の王として侍って暮らすのです。その王とは誰でしょうか。アダム・エバが堕落しなかったら、神様の体として和して、その体を身にまとって完成して、この地上で神様の愛で直接主管圏と間接主管圏をつなげる責任分担を果たした人の王になるのです。そうすれば、神様は、そのアダムの心においでになり、アダムの霊は、神様の体になるのです。一身になるのです。永遠に神様の愛と人間の愛を共に分けて、それを呼吸するのです。

それゆえ、神様の愛を受けなければならず、その次には、先祖になったアダム・エバの愛を中心として、誰がもっと本質的な愛に近いかというのが、あの世に行って修行していく永遠の路程です。(二一三―一九〇)


三 墓参りもしなければならない

おじいさん、おばあさんが亡くなったなら、墓参りをしなければなりません。神様が墓に埋められたとして、墓参りをしなければなりません。今亡くなられるいう時になれば、慟哭して泣きなさい。おばあさん、おじいさんに侍られなかった恨を、自分一代で贖罪しなさいというのです。

自分の泣く声を聞いて、天上世界の神様が全部認める立場で、うちのおじいさんを自分を見て、「そうだ。よし」と言える伝令が来るまで、精誠を捧げなければなりません。収穫の時になれば、そのおばあさん、おじいさんをそのまま残しておいてはいけません。春夏秋冬四季の佳節全部に訪ねていって、侍ることができなければなりません。統一教会のお化けになったと思い、流れていく鬼の子だと思ったのに、王孫(注:王の血筋を引く者)が生まれたとたたえるのです。

六百十五
 
父母に侍ったこの地のある王よりも、家庭的に侍らなければなりません。皆さんの父母が王になればいいと思うでしょう? 皆さんの父母が、神様よりも、王よりももっと高ければいいというのが皆さんの心なのです。それがみな許されていたのです。「自分が王宮の道理の法を守ってでも、父母を世界のどんな王よりも幸福にする」と言うことができる王孫の資格を備えて生きなければならないのです。

そこでは、父母たちが口を開くようになれば、自分の息子を誇らざるを得ないのです。天国の先祖たちもたたえ、後孫たちもたたえるために、ここからその父母を中心として、統一圏が繰り広げられるのです。父母を中心として統一圏が繰り広げられ、おじいさんを中心として侍って統一圏が繰り広げられ、全部が統一圏が繰り広げられるようになります。孫の統一圏、父母、孝行者の統一圏、息子、娘が侍るのに、将来、万世一系の主流の統一圏がここから決定されるのです。統一の種を完全に蒔くことができる基盤になるのです。これをもつようになれば、夢を見ていくのです。(二二〇―三五〇)


今まで長子権復帰をしたので、先祖たちは全部おじいさん、お父さん、お兄さんの三代を中心として、この長子権、父母権、王権の立場に屈服して、孫を先祖として、おじいさんとして侍るのです。自分の子供をお父さんとして侍らなければならず、自分の弟をお兄さんとして侍ることができる天地開闢、一八〇度ひっくり返る道が繰り広げられることによって、地獄でもこれと同様に、天国に向かうことができる方向に転換されるのです。 それで、故郷に行って百六十家庭をしなければなりません。故郷を中心として、行ったり来たりしながら、み言を聞かせなければなりません。先祖の根である本家がいいと言えば、分家の孫が全部ついていかなければならないのです。このように百六十軒を訪ねて、一箇所に集め宴会をして、統一教会の宣誓式をするのです。「神様の王子、王女の命令に絶対服従する」と言って、先祖の墓に集まって、先祖の墓の前で即位する王のように侍らなければなりません。

「我々は『真の父母』によって、新しい血統を引き継ぐことができる先祖になることで、解放圏が繰り広げられる、祝福された氏族になります 7 この氏族は、永遠不変の神様の眷属であり、血族になります 7」と、このようになれば、サタンと完全に決別します。 それで、統一教会は、先祖たちに仕えることを許すのです。キリスト教が祭祀をするのを許しましたか。統一教会は、今その伝統を立てなければならないのです。これは、世の中の伝統ではありません。

天の父母、天の国、天の先祖に仕えるにおいて、その代を受け継いだ氏族的メシヤ圏、伝統的血族を、千年、万年侍ることができる王の領土になるのです。王に侍り、永遠の太平盛大を謳歌できるその国になるのです。その国で暮らして行ってこそ、皆さんの父母、一家、一族が天国に直行するのです。(二二

〇―二二二)


四 我々が会うことができる霊界の先祖たち

自分の家がどうだということを知るべきです。自分の家は、人間たちがこの地上で一生を生きる家の中で、代表的な家です。それだけでなく、霊界まで代表している家です。それが自分が暮らすことのできる家です。そのように暮らした人は、自然に根本の本郷の世界、故郷に自動的に行くことができるのです。おじいさん、おばあさん、誰に会っても、そこでは藤がありません。

六百十六
 
あの世に行ってみれば、数千代の先祖たちが一遍に集まっています。そこに、地獄に行った先祖たちがいます。何代は地獄へ行き、何代はどこへ行き、先祖ごとに全部級が違います。「ため」に生きた人たちが行く所が天国です。それゆえ、「家和萬事成」は自分によって成されるのです。自分が家庭のために生き、おじいさん、おばあさんに三回だけためになれば、おじいさん、おばあさんも間違ったことが分かるのです。

モーセがエジプトで奇跡を行いながら、

「ため」になろうとしたことが何回ずつですか。七回、十回、十二回以上、全部「ため」にしようとしたのです。「ため」にしようとしたのに、受けてくれなければ、天が導いてくれるのです。天が導いてくれます。自分が「ため」にしたすべての公的な基盤が、他の世界へ行って、成してくれるのです。それで、サタン世界であるこの地上で信仰する人の中に、神様のように「ため」に生きた人たちは、世の中では反対され、迫害されましたが、イスラエル民族が選民圏として選ばれて、荒野を過ぎて本郷の地に入ったのと同様に、自分の本郷の地である神の国で豊かに暮らすようになるのです。

皆さんは、頭の白くなったおばあさんによく仕えましたか。神様は、白い神様です。高い山には、白雪が積もるでしょう? 神様はきれいな方です。ですから、みな分かるのです。また、そのようなおばあさんは、自分の姑、夫の祖母によく仕えましたか。姑、夫の祖母があの世に行くとき、「私が先に行ってお前がしたように、あの世でお前の来る道をきれいに準備しよう」と、こう言えなければなりません。(二一三―一八二)


第四節 霊的新時代到来一 超感覚時代到来 今に超感覚的な時代が来ます。霊通しない人がいない時が来ます。サタン、悪魔が今襲撃していますが、善なる霊たちが襲撃する時が来るのです。そのような道を築くために、私がこうしているのです。子供に対する父母の立場を見ても、愛する立場、愛する心をもって、その子供のためにしてやれる父母がいるからいいのです。

誰が否定しても、行かざるを得ない道です。死の道は、行かざるを得ないのです。一人で行くようになるときは、どうしますか。荒涼とした霊界が繰り広げられればどこに行くでしょう。国籍がない民族はどこに行きますか。一番恐ろしい世界になります。そこにはサタンが来るだろうし、そこには天使も来るでしょう。

死んでから目をぱっと開けたなら、霊界があるのが分かるようになるでしょうし、その時、サタンが引いていこうとすれば、どのようにしますか。「おい、お前が先に立て」と言い、こうして飛びかかってくるでしょう。そのようなことが起こるのです。そのような道があると考える時、ここで眠気が来ますか。

それは必然的な道です。

先生は、死後にどのようになるか、そのようなことについて深刻です。私が霊界に行く日には、誰々が泣くだろうというのを、みなつくっておきました。孔子とか、釈迦とか、イエス様とか、彼らの秘密を私がみな知って

いるのです。

六百十七
 
イエス様に、「あなたはこうして死にませんでしたか」と言えば、「そうだとも。どうして先生はそんなことがみな分かるのですか」と、そう言うのです。そのようなことが分かるので、イエス様と友達にもなることができるのです。 皆さんやキリスト教信徒は、イエス様を

「主様 7 主様 7」と言うかもしれませんが、先生はそう言わないのです。友達の間柄なのです。このようなことを言うから「異端だ」と言われますが、誰が異端か、行ってみれば分かります。先生が霊界に行くときは、予想外に大騒動が起きるということを知っているために、こういうことをするのです。それが信じられないなら、すぐに祈ってみて、調べてみなさい。これが、統一教会の一つの脅迫のような言葉です。祈ってみて、本当か、本当でないか、大きく違っていたら、このようになりますか。そのような内容がみな準備されているために、そう言うのです。

それゆえ、その道をついていくには大変ですが、私はその道を行くのです。皆さんはどこに行きますか。準備できていますか。死ぬようになった時には、「ああ、先生、私が死んで霊界に行くからお願いします」と、その時言っては準備できないのです。その準備は、地上で

しなければなりません。(六一―三二七)


二 「天勝日」発表で新しい時代進入

イエス様を中心として見れば、イエス様は蘇生、十二弟子は長成、七十二門徒は完成です。三段階です。これができなければ、皆さんは天国に行けません。本来は、これをしておいて初めて、祝福をされるのです。そうすれば、イエス様も結婚するのです。

これから、家族が全部信じるようになるとき、おじいさん、おばあさん、息子、娘、孫、三代がこちらを受け持ち、あちらを受け持てば、三代の役割をすることができます。それが繰り広げられれば、父母を復帰することができるから、皆さんは、父母、父母、父母、数千数万代の先祖たちを一遍に、全部復帰することができるのです。霊界から地に再臨することができる時代になります。地上の組織が、霊界の組織までも編成するのです。一つになるのです。このような驚くべきことが起こります。霊界でどれほど喜ぶか、考えてみなさい。

それゆえ、宗教の勝利の時代が来たのです。霊界の勝利の時代が来たのです。(九六・二五一)


今は、皆さんが祈ってください。「先生のみ言とともに、『天勝日』である十月四日

(一九七六年)とともに、我々の善なる霊たちは、再臨して、この地上にいる悪なる後孫たちを、善なるあなたの懐を通じて天国に導いてください 7」と命令すれば、その命令が可能であり得る時代に入ってくるのです。我々は、アダム時代圏内で生きるのであり、霊人たちは天使世界圏内で生きるために、アダムのために天使が協助すべき原理原則のため、動かざるを得ないという結論がしっかりと出てくるのです。(八九―一一三)


精神的な世界が、どれほど統一圏であるか分かりません。私が「誰かに会いたい」と言うと、二十四時間待てば、その人が来るのです。それが実現されるのです。集中するようになれば、現れるのです。それは、方向性の電波を送るのと同じです。そうするとその人は、受信機のような自分の心の基礎があるために、無性に気掛かりで行きたくてそうなるのです。(七六―一四二)


三 「統一式」と霊界協助
六百十八
 

今日、父母様の御聖誕日(一九七六年陰暦一月六日)には、どのような意義があるのでしょうか。今回、先生が帰ってきて陰暦の二月一日に何をしたかというと、「統一式」というものをしたのです。「統一式」とは何かが、皆さんは分からないでしょう。

復帰の路程を歩んでいくにおいて、個人完成し、家庭完成し、氏族完成し、国家完成し、世界完成し、これが直線でつながらなければならないのです。

地上で先生が個人基準を中心として、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準を中心として歩んできましたが、霊界とつながっていないのです。霊界もつながっておらず、統一教会の家庭を中心としてもつながっていません。道は築いておきましたが、この道を中心として、霊界とつなげなければならず、地上とつなげなければなりません。それでこそ、統一の式が繰り広げられるのです。

統一の式というものは、いつ起こるのでしょうか。今キリスト教が、世界的民主主義国家を中心として発展してきたために、世界的基盤が築かれるようになる時に、初めて統一することができるのであって、その道が築かれなければ、統一の基準をつなげることができないのです。その時までは、国家的基準を中心として世界基準まで向かうだけであって、これをもって決定は下せないのです。それを固着させることはできないのです。


今まで先生がアメリカに行って築いた基盤によって、今これをつなげることができます。国家と世界がつながり得る時が来たのです。そのような世界的基準を中心として、この霊的基準が世界基盤につながり得るようになる時に、初めて霊界もつながるのです。 霊界では、大韓民国の霊人や日本の霊人など、みなつながっていないのです。各国の国の霊人たちが、自分の国にだけつながっているのであって、世界的な一つの道に集まって「どこに行け」と言っても、全体が動員するようにはなっていないのです。地上で解決してやる前には、霊界においてこのような整理はできないのです。

それゆえ、霊界を見るようになれば、日本人と韓国人とが怨讐になります。日本人たちと中国人たちとが、全部怨讐です。国家と国家の間に、どれほど怨讐の霊たちが多いでしょうか。その怨讐の霊たちが全部反対するために、それをつなげなければならないのです。

それで昨年(一九七五年)五月一日に何をしたかというと、「総解怨式」をしました。全体を解放してあげ、全体を許してやる解怨式をしたのです。サタンまでも解放することができる道を開いてあげたのです。「総解怨式」をすることによって、怨讐を怨讐として対することができず、みな許すのです。先生の立場から見るなら、サタンは怨讐ですが、サタンまで許すようになれば、神様が怨讐として考えないようになり、怨讐がいなくなるのです。

今は、統一され得る時が来ました。地上と霊界が一つになれば、どのようになるでしょうか。

六百十九
 
堕落によって霊界と地上とが分かれたのです。神様とアダム・エバが分かれたのです。アダムとエバの間に心情的決裂が起きたのです。それゆえ、地上と霊界と一つになった立場に、アダム・エバの家庭を中心として、氏族を中心として、民族を中心として、国家を中心として、世界を中心として、超民族的な構成形態が繰り広げられれば、世界的な統一圏を形成することができるという論理が形成されるのです。

そのようなことを解決してやらなければならないために、アメリカの地では、駄目なのです。アメリカの地ではできません。

韓国を中心として、個人基準を築き、家庭基準を築き、氏族基準を築き、民族基準を築き、国家基準を築いて、世界に来たために、韓国が中心国家であるために、先生が大急ぎで訪ねてくるようになったのです。

それで、「統一式」をしておいてみると、今年の先生の誕生日は、歴史的な誕生日なのです。なぜならば、統一された立場に立って、霊的世界にいる霊人たちは、「真の父母」の誕生日を一度も迎えたことがありません。一度祝おうとしても、祝う資格がないのです。また、世界にいる万民、世界にいる後孫たちが、「真の父母」の聖誕を祝い得る恵沢圏内にいることができないのです。なぜならば、霊的基準と肉的基準が結束できないでいるからです。

霊肉を中心として、そのような恵沢圏が繰り広げられ、霊界が加担することによって、その後孫を通じて復帰するでしょう? そのような原理的立場で、先祖は天使長型であり、後孫はアダム型になるのです。天使長がアダムを創造する仕事に協助したのです。霊界に行っている先祖が統一されることによって、地上にアダムを創造することに協助できる圏が繰り広げられ、後孫たちに対して干渉することができる時代圏に入るという論理が成立するのです。


今年先生が韓国に来て、誕生日を祝うこの日は、歴史的な一つの起源を備える日です。言い換えれば、霊界に行った数多くの霊人たちが、「真の父母」の聖誕を祝うことがきる同参の恵沢を受けるようになるのです。

そうすることによって、この地上にいるまだ統一教会を知らない後孫たちまでも、再創造することができるのです。天使長の協助を通じて、神様がアダムを造ったのと同様に、先祖たちを動員して、後孫のアダムのような立場にいる地上の人たちを再創造して出発することができる時代圏に移るのです。そのような論理があるために、今日全世界の万民も、父母様の聖誕を祝うことができる恵沢圏内に入るのです。(八三―一〇九)


四 「一心式」と先祖協助

先生自身が、文氏の一族で、族長になりました。先生が強制的に命令するのではありません。自分たちが進んで侍ろうとしました。そのような歴史が過ぎました。先生が、そんなことが分かりますか。会うのは、初めて会ったのです。とにかく、因縁ができて、宗氏一族たちが先生を韓国の一つの父母として登場させるようになったのです。このようなことをするためには、この式がなくてはいけません。

統一教会で言う「真の父母」の立場は、韓国の民にだけではありません。本来は人類全体の先に行った先祖たちにまでも、「真の父母」の血族として天上世界、霊界に行くべきですが、堕落によって、全部過ってしまいました。アベル的立場が地上であるために、アベルたちが長子権復帰していく道に順応することによって、天上世界を解放させることができます。

今からは地上が長子権を復帰したために、霊界は我々の動きを押してくれ得る時が来ま



六百二十



した。それで、この時間によって、確定づけて宣布する式が「一心式」です。

皆さんは、霊界の事実を知らないでしょう? このようになることによって、皆さんの善の先祖たちが、一族の会長たちを通じて協助する、万端の準備をするのです。これがXとYのように、地上に連結されます。堕落した世界は、地上が眺める立場と霊界の立場は、互いに違います。霊界がこのように行こうとすれば、地上は反対になるのです。何で経ていくのでしょうか? それが真の愛です。

(一九〇―三一四)


第五節 再臨復活と霊人協助一 過去の先人たちの霊界の位置

歴史的な悲しみの中で摂理される神様の心情を体恤しながら生きていく人は、どこにとどまっても、神様を涙なしには見つめることができないでしょう。そのような立場で神様のみ旨を知り、その方の息子、娘になるために戦うようになるとき、彼と意を共にする同志がいるなら、神様はその場に訪ねてこられて、涙を流されるでしょう。


神様の悲しみは、我々の一身にあると同時に、この国、この世界、この万物の中にあるのです。我々はこれを清算して、神様の喜びを復帰してさしあげる運動を展開しなければなりません。そのような我々において、生命の中心は神様の悲しみを体恤することです。 人間たちが知らない霊界の霊人たちを動員して、証させることができる基準が自分にあるかが問題です。霊界もそのようなことを要求しています。霊界は神様の心情を知っているために、地上にそのような人がいて訴えれば、霊人たちを動員して、天国理念の実現のための地上の仕事に協助するようになるのです。 霊界の霊人たちがこの地に来れない原因は、この地に嘆息の囲いができているためです。

(四―六〇)


皆さんが今立っている立場は、昔アダムが堕落したその立場ではありません。その峠を越えた立場です。言い換えれば、神様とアダムと直接的に対話することができる時であり、直接的に神様の目的のために、直行できる期間です。

このような観点で見るとき、三次七年路程になる前の歴史と、三次七年路程になったのちの歴史は、全く違うのです。三次七年路程を中心として、悪の勢力は下らなければならず、善の勢力は上がっていくのです。それゆえ、三次七年路程は、霊界と肉界が交差する時期にもなるというのです。

霊界を中心として見ると、悪の霊がいるのと同時に、中間の霊がいて、善の霊がいます。蘇生、長成、完成の三段階にとどまるのです。三次七年路程がつながることによって、善の霊たちが地上に連絡することができる道が生じるのです。そうするしかないのです。蘇生、長成圏がサタンの主管圏内にとどまっているために、悪の勢力の版図圏内にいる悪霊たちが主導的な役割をして、悪人たちが世界を全部料理してきました。しかし今からは、霊たちが交差し始めるのです。

六百二十一
 
交差するときは、霊界が下りて来ますが、悪霊から下りて来ます。交差する時は、中間霊界を越え、善霊界に越えていく時です。これが越えていく日には、善霊たちと善人たちは上がり、悪霊と悪人たちは下りていくのです。今までは、善悪が互いに上がったり下りたり交差しながら、ごちゃ混ぜになりながら来ましたが、今からは、善と悪が完全に分かれ得る、新しい次元の時代に入ると見るので

す。(七五―一九三)


霊界に行ってみれば、昔、新約時代に現れた立派な人、尊敬されて殉教をした人が、高い所に行くと思ったのに、一番悲惨な立場に行っているのです。死ぬときに「自分がこのように死んでこそ天国に行く」と考えて死んだ人は、天国に行けません。そのように死んだ人は、気の狂う病気にかかって、天国のために自殺したのと同様の心の姿勢になっているのです。しかし、それとは異なって、殉教はしなかったとしても、苦労をしながら、「ああ 7 私一人犠牲になって国を天国にして、数多くの人を天国に行かせた」と信じて行った人は、天国に行っているというのです。


我々は、信仰の本質を改めなければなりません。キリスト教がそのような思想をもったために、多くの波風が立ちました。この波風を打破してしまおうというのが、統一教会の思想です。たたきつぶさなくても、滅びるようになっているのです。ところで、なぜ早くたたきつぶさなければならないのでしょうか。滅びるようになれば、神様の前に全部捨てられるために、これをたたきつぶして救ってやらなければならないというのです。(六四― 一一〇)


皆さんの先祖の中には、地獄に行った人たちがたくさんいます。これを全部解放させなければなりません。この道が父母が行くべき道であるために、皆さんもこのような父母についていくべき道に置かれているのです。それゆえ皆さんは、この道を後まで行かなければならない運命にあるというのです。

それで、霊界が我々に協助するのです。個人的に協助し、家庭的に協助し、氏族的に協助し、民族的に協助し、一遍に協助して統一運勢を経ていくのです。世界さえ統一するようになれば、霊界は自動的に合わさることができるようになるのです。霊界にいる霊たちが地上に下りて来ますが、善霊よりも悪霊たちが先に下りて来ます。それゆえ、地上の人には、ノイローゼ現象が起きるのです。このような事実を知らないから、そうなるのが分からないのであって、今悪霊たちが、全部下りてきて、人間世界を侵犯しているのです。 そして、民主世界と共産世界を中心とした思想の混乱時代が来るとともに、霊界の悪霊たちが下りて来て、霊肉が混乱時期に陥るようになります。そうですが、善霊たちが下りて来るようになれば、悪霊たちの周囲に力が及んでいくのです。地上に下りて来て、悪霊たちをかき分けて、悪霊たちが占領した地を占領するようになるのです。善霊たちが、この地球星を占領するようになる時は、悪霊たちはこれ以上行く所がないから、屈服し始めるのです。

霊的サタンが地上に来て屈服するようになれば、悪霊までも復帰するのです。それで、終わりの日には、サタンまで復帰しなければならないのです。(五四―二二八)


二 霊界動員と協助

六百二十二
 
皆さんは伝道ができない時にも、伝道をしなければなりません。石を海に投げるのと同じです。それで海の水をみな埋めて、山になるまで限りなくするのです。そうすることによって、自分が心情的に育つのです。体は何も変わるものはありませんが、心情が育つのです。

夜明けに起きて、その町内のために、自分が任された責任地域のために祈って、涙ぐまなければなりません。その道は、心情的でありながら霊界と霊的な因縁を結ぶ道なのです。神様が町内を見下ろせば、全部地獄に行くしかない人間たちであるために、涙を流さざるを得ないのではないかと言って、神様に代わって自分が涙を流すのを自ら感じるのです。神様の心情で涙を流すことができる共鳴力が入るようになれば、霊界が総動員するのです。

人間として、神様の前に感動的な涙を流さなければなりません。神様が「おお 7 有り難いな 7 堕落したアダム・エバの後孫は、昔のアダム・エバよりましだな 7」と感動して、涙ぐむことができる立場に入らなくては、霊界と通じません。


「堕落したアダム・エバの後孫として、天に背いた後孫であるお前たちが、こうすることができるか」と言いながら、神様が感動的涙を流してこそ、霊界が協助するのです。そこから霊界が開かれるというのです。それ以下は、絶対に駄目なのです。絶対に駄目です。

それが原理です。(九六―二八二)


皆さんは霊界に行くのがいいですか。地上の皆さんが霊界に行くという心と、霊界の人たちが地上に再臨するという心のうち、どちらがより切なるものですか。原理的に見るとき、皆さんがより熱烈でなければなりませんか、霊界がより熱烈でなければなりませんか。霊界は天使長世界であり、ここはアダム・エバの世界、息子、娘の世界です。息子、娘がより熱烈であるべきですか、僕がより熱烈であるべきですか。

皆さんが霊界を協助するようになっていますか、霊界が皆さんを協助するようになっていますか。霊人たちが協助しようと待っていますが、なぜ待つのでしょうか。地上に天国を成すために働く所に協助するでしょうか、皆さんがよく食べて豊かに暮らすのに協助するでしょうか。地上に天国を成すために働く所に協助するのです。(一六一―二二七)


霊界が動員されなければなりません。霊界が動員されなければ、どのように天国を形成しますか。形成できません。天国は「真の父母」から始まるようになっているのであって、今までの堕落した後孫から始まるようになっ

ていません。

アダムを創造する時、天使長世界の協助を受けたのと同様に、再創造も霊界から下りてきて、全部地上に協助しなければなりません。そうでなくてはいけないようになっています。原理がそうではないですか。復活原理がそうでしょう? 復活原理がただそのまま結果として現れてこそ、真だと言うのです。(一六

二―一一五)


六百二十三
 
先生が皆さんを貧しくさせてみな苦労させるのは、皆さんが憎くてするのではなく、皆さんを生かしてあげるためにするのです。すべて皆さんを生かしてあげるためのものであることを知るべきです。皆さんを生かしてあげるために苦労をさせるということを知って、有り難く思わなければなりません。そうすれば、天の心情世界、新しい心情世界が繰り広げられるのです。そのようにするのが順序です。そのようにして、心情的結びつきをもってこそ、天の命令なら、どこでも飛んでいくのです。

「世界を率いていく機関車のような責任を果たす」と言うようになれば、霊界が協助します。そのように考えれば、霊界が間違いなく協助するのです。(九六―二七九)


皆さんが基準を立てて、統一教会と歩調を合わせていくようになれば、国家的な運勢によって動いた霊界にいる善の霊人たちや先祖たちが、皆さんのために働くでしょう。

皆さんは、外的に見るに、顔がぺちゃんこで、耳がすっと入って、薄幸に見えますが、霊界では皆さんを「福を呼ぶ」と思っています。さらに、十代の圏内にいる先祖たちは、気が気ではありません。なぜなら、復帰歴史は十代を中心として成されるためです。ところで、もし悪なる後孫が現れれば、十代圏内にいる先祖たちが、「こいつ 7 お前が我々を駄目にしたな」と言って審判します。

それゆえ、善の先祖をもった後孫がここにいれば、先祖たちが積極的に協助するのです。そのような立場に皆さんが立っているのです。そのような立場にいる皆さんが、喜んで見事に戦っていく所々で、百戦百勝の戦績を立てる時に、霊界では永遠に喜ぶのです。それゆえ、このような先祖たちは、皆さんを王様に仕えるように仕えるでしょう。

今日、我々は神様のみ旨の前に「神様の伝統を汚すものか 7 神様の威信を汚すものか 7」という心で勝利の基盤を築かなければいけません。皆さんは、どんな伝統を立てるかについて、祈らなければなりません。今は幸せな時です。(一四―二〇)


三 霊界と先祖 先生は、人々の顔を見れば、その先祖が良いか悪いか、大体分かります。ある人は、良い先祖がいて、福を受けるかと思えば、ある人は、悪い先祖がいて、ひどく苦労ばかりするのです。そのような人は、伝道しに任地に出ても、ひどく苦労ばかりします。(三七― 一四四)


自分の性格の足りないところを埋めるためには、証を聞けというのです。これを聞いて、自分のものとして吸収するのです。補強しなければならなりません。それゆえ、多くの人の体験談を聞かなければなりません。人が言ったことを批判してはいけないというのです。批判するのはサタン側になるか、天の側になるか、二つのうちの一つを決定するというこ

とを意味するのです。


批判した時は、サタン側になるか、天の側になるか、二つのうちに一つに分かれてしまうのです。それゆえに、批判することは、自分が発展するにおいてのがんなのです。サタン側になった者が、神側に行くことができず、神側になった者が、サタン側に行くことはできないのです。我々人間生活において行くところにには、直行は絶対できません。じぐざぐに行くのです。

六百二十四
 
先祖も善の先祖だけいるのではなく、悪い先祖たちも全部関係しています。自分自体が素性的に見るとき、善の先祖の素性をたくさんもっているときはこのように行きますが、悪の先祖の素性を受けた部分もあります。自分の人生においてそのような時が来ます。そういうときは、必ずこのようにするようになります。批判すれば大変なことになるのです。それゆえ、「判断するな」という言葉も、みなそのような道理から出てくる言葉です。

(日付未詳)


真の愛をもてば、神様が宴会をするその場にいつでも同参することができます。時間と空間を超越するために、霊界に数千の先祖たちがいても、一目でみな見るのです。これを管理して、超越するのは、真の愛の心をもった人だけが可能なのです。神様の相続権を受け得る特権を得ることができる道は、愛の道にだけあるのです。真の愛をもった人が、自分の体をかすめて通り過ぎても、全部喜ぶのであって、反抗しないのです。全部が歓迎するのです。あの世がそのようになっているために、ここでそのような訓練を受けなければならないのです。

先生がこのようなことを教えてあげるのは、天の世界に行くことができる人、天の世界で呼吸することができ、拍子を合わせることができる人をつくるためです。それでこそ踊りを踊る場で、踊れるのです。そうでなくては、拍子が合わないのです。先生ももう霊界に行くべきではないですか。先生の後ろには、サタンがついて来れないのです。(一四七―一一六)

神様からの真なる精神を通じて、一つにならなければなりません。人間が根本から生まれたために、根本主体から動機になって、過程的人間の肉体まで動かすことができる基準をつなげてきてこそ、完全な統合になります。そうでなくては、不完全な統合だという結論が出てきます。

自分たちが勝手に行こうとしても、霊界からブレーキをかけて教えてくれる霊的体験を通じて、すべてを収拾していく背景が確実な現実生活圏内に動いているのです。この事実は驚くべきことです。それで、皆さん一人を中心として見るとき、体は精神を中心として善の先祖たちが全部ぶらさがっているのです。善の先祖たちは、体が悪の世界に行くのを妨害して、善の世界に行くことができるように追い込むのです。(一六二―一〇四)


この地にすべてを管轄することができる真なる父母と、真なる家庭と、真なる社会と、真なる国家と、真なる世界になっていたら、この世の中がどれほど素晴らしいでしょうか。しかし、そのような世の中になれなかったのです。

世の中がなぜこのようになったのでしょうか。堕落したからです。大体見れば真になれなかった動機をもって出発し、今まで存在しているこの世界が、堕落した世の中であるために、そのようになったのです。


人がこの一生だけで終わるなら、どれほど簡単でしょう。人は永生するようになっています。永生するようになっているというのです。それは、良いことは良いのですが、大変なことになりました。人は永生するようになっています。皆さんが霊界に対する体験がないために、知らないからそうできませんが、霊界の体験がある人たちは、昔のアダムから何千年前までの先祖たちにみな会うことができるというのです。(一五九―二七七)


六百二十五
 
霊界に行くようになれば、数多くの先知先烈たちと、数多くの先祖たちと会って、討論するのです。「あなたはどこから来たか。地球星のどこか。どの国か。どこだ」と聞いて回想して言うのです。友達同士会うようになれば、自分の昔話をすべてするでしょう? 霊界に行くようになれば、皆さんの 初のおじいさん、数千数万の先祖たちに会うようになります。ところで、「こいつ、どうやって暮らした」とぞんざいな言葉を遣うとき、気分がいいですか。考えてみなさい。(一四八―三二一)


四 霊人たちの願い

我々ムーニーが、「ああ、何とかして、私の一生に御父母様を一度喜ばせてさしあげることができないか」という切なる愛の心をもつようになれば、あの世と拍子が合うのです。

霊界の人たちは、どうでしょうか。先生が何かを一つ食べるところを見たくないですか。霊人たちは皆さんより熱心です。それは事実です。皆さんは分かりませんが、霊人たちは、みな知っています。これからどのようになるということを、みな知っているのです。皆さんは、何も知りません。反対に、あの世は確実に知ってそれを理解するのです。

霊人たちはどうすれば先生のために献身して、どうすれば先生のために奉仕することができるのかをはっきりと知っているのです。五感全部は、先生から来るそのような刺激的な力を感じるのです。今までは、そのような経験をした時がありませんでした。ですが、今の時は、先生につながれば、そのようなことを感じるようになるのです。(二〇七―九八)


五 再臨復活と重生一) 再臨復活

イエス様が地上に来られることによって、それ以前の善なる先祖たちが霊形体級の霊界から生命体級の霊界に入ることができたのと同様に、皆さんの先祖たちも地上にいる皆さんを条件にして、再臨することができる特別な恵沢圏内に入ってきました。皆さんがこのようなみ旨を知って、勝利の枝になれば、一つの生命体を成すことができる立場になるために、皆さんの先祖が皆さんに協助するのです。このように、皆さんは、数千代の善なる先祖たちが再臨し得る基盤になるべきです。 イエス様当時には、霊界で条件的に生命体級の復活のための協助をした時代でしたが、今は、霊界が無条件的に生命体級の復活のための協助をする時代です。このような時代が来たために、これ以上の福はありません。もう一度言うと、霊界から協助するということ

です。(一四―二二)


世界が、先生に反対しました。私を殺そうとし、統一教会をなくそうと、どれほどそうしましたか。その中を切り抜けてきたのは、私が狂っていなかったから可能だったのです。

六百二十六
 
天地の道理に従って、高い綱を神様に結びましたが、その綱を持って引ったくろうとしても引っ掛からないのです。結局は、その戦いがそこに及ばず、教会の戦いが起こり、国の戦いが起こり、亡国の路程に脱落してしまいました。統一教会に反対していた既成教会との戦い、統一教会に反対する政党との戦い、統一教会に反対する民主世界、共産世界との戦いで、それを全部倒したのです。高い所から綱を垂らしておいたから、ここで引っ掛かっているのを切ろうとしますが、自分の力をもって切れますか。統一教会を断つことができますか。哲学でも、宗教でも、霊界を通じても、理論的に我々はやられないのです。 私がアメリカに行っている時のことです。アメリカに霊通人協会があり、そこの会長であるフォードという人がいます。その人が、アジアにレバレンド・ムーンという、これこれこういう人がいるといううわさを聞いたのです。我々の宣教師が行って宣教するときは、人を訪ねて回りません。霊界に通じる人に原理の本を手渡しながら、「この本がどんな本か調べてみてください。一週間後にまいります」と言っておいて、一週間後に行けば「ああ、先生いらっしゃいませ」とあいさつするようになっていました。(二〇八―一九五) 我々は、霊界が屈服し得る理論的体系と、実戦的基台を中心として、神様の前に祭祀も捧げなければならないのです。祭祀を捧げる式が、けさの敬礼式(一九九〇年十一月十七日、第三十一回「真の子女の日」)だったのです。

その場で先生が祈った内容は、時が至ったので、今まで天上世界と地上世界に逆さまに流れていた潮流が、今や正しく流れるべきだということです。天が長子権を復帰したために、これから生まれる次子たちと、今のすべての次子たちは、天の治める圏内にいるのです。それゆえ、長子権復帰以後の次子権時代には、悪魔の活動舞台を天法で許すことができません。

そして、霊界に行ったすべての霊たちが、今まで地上のアベル圏を利用しました。長子が次子を殺して祭物にしたのと同様に、これからは長子権がここにあるために、霊界までコントロールするのです。

今は、我々に協助することで自分たちが福を受けるようになっているのであって、反対すれば反対するほど、絶えずどん底に落ちていくのです。天運が急変して入ります。これからは家ごとに先生の写真を掛けろと大騒ぎになるでしょう。霊界で自分の先祖が忠告するのです。それで、旗を掲げて、先生の写真を掛けて、その前に毎日のようにあいさつをする人は、自分の先祖たちを復活させ得る役事が起こるのです。

自分を中心として絶対服従しろと教育するなら、先生がこのような話をする必要はありません。私はそのようなことは嫌いですが、仕方がないのです。

それゆえ、今まで数多くの雑霊界を通じる霊人たちは、「統一教会に行くな」と言いました。しかし、今からは、釈迦牟尼、イエス様、孔子、マホメットも、「統一教会に行け」と教えなければ、天法に引っ掛かるのです。なぜそうなのでしょうか。先生が言う宗教は、父母の宗教であるからです。(二〇八

―一五四)


二) 重生論に対する質問と答え

アジアで言うのは、重生論ではなく、輪廻説です。輪廻説は、仏教思想です。それは再臨現象をその一時だけ見て感じるために、そのような現象として見るのです。全体を知らないために、そうなのです。霊界にいる霊人たちは、地上の人間を通じて自分が恵沢を受けるのを願います。これが霊人たちの要求なのです。

六百二十七
 
堕落しなかった本来の人は、天使世界と宇宙を主管することができる価値的存在です。人間が堕落することによって何段階も下に落ちたために、再びその位置まで上がっていかなければなりません。上がっていくにも、一遍に上がっていくのではなく、段階を経て上がっていくのです。段階を経て、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで復帰して上がっていかなければならないのです。 本来の人間は、この世界に訪ねていくべきです。ところで、この世界に訪ねていくには、一遍に上がっていく道がないために、一段階、一段階を開拓しながら、個人から家庭に、家庭から氏族に、氏族から民族に、段階を経ていかなければならないのです。


神様の摂理について見れば、旧約時代、すなわち個人を救い得る個人的な摂理時代以前に死んだ霊人たちは、その時代に入って恵沢を受けようとするのです。それで、一段階を上がっていくためには、必ず蕩減が起こるのです。一段階を越えるためには、カイン・アベルの場合のような蕩減役事が、必ず起こるのです。

ある霊人が、この時代を経てきながら、甲という人に協助してきたとしても、一段階を越えていくためには、ただでは越えられないのです。ここには必ず蕩減期間があるのです。それは、一日、二日に成されるのではなく、七年とか、四十年、七十年、あるいは何世紀を経ていく時があるのです。

それゆえ、ここで協助した霊人は、その蕩減期間が終わらないうちは続けて上がっていくことができないので、霊界に帰るのです。その霊人は、地上にいる甲という人が基盤をすっかり築いてくれるのを願っているのに、その人がその期間内に蕩減を果たせず死ぬことになれば、その霊人は、第二次に乙という人を選んで、乙に再臨するのを待ち望みます。ですから乙に再臨する霊人は、甲に再臨していた霊人なのです。

その霊人がパウロなら、パウロが時代的に一段階一段階上がっていくためには、第一次に再臨した甲という人が、蕩減期間内に蕩減を果たせずに死ぬようになれば、第二次として乙という人に再臨して協助して上がっていくのです。必ず蕩減期間があるのです。

蕩減期間は、原理的な期間があって、短期間にはなされません。それゆえ、第二次に選んだ乙という人が蕩減できなくなれば、その次には、丙という人を選んで再臨するのです。それで、結局、丙という人にパウロが再臨したということになるのです、この時に、乙がある文字を書いておいたり、何かをするようになると、「私はパウロの霊の協助を受けて、今役事する」と言うのです。その次の時代に丙という人においても、ある文字を書くようになれば、彼もやはり、「パウロの霊の協助を受けて役事する。私がパウロだ」と言うのです。このようになるので、結局は全世界にパウロの霊が、乙に現れ、再び丙に現れたのと同じようになるのです。

このような現象が起きるために、これだけを見て輪廻だと言うのです。リーインカネーション現象のようなものとして現れるのです。全体を知らないために、そのように言うのです。それがこの時代と同様で、世界天宙時代まで起こるのです。

本来の人間は、サタンの支配を受けず、神様の直接主管圏内で暮らさなければならないのに、堕落することによって堕落圏に暮らすようになったので、それを脱するためには個人として蕩減し、家庭として蕩減しなければなりません。これを蕩減せずには、脱することができないのです。霊人は、必ずその時代ごとに再臨現象を経て現れるために、その段階、段階が輪廻、すなわち生まれ変わる現象として見えるのです。

六百二十八
 
このような観点で見るとき、皆さんも同様です。皆さんが個人的にただ信じて死ぬようになれば、家庭をもてなかったために、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準、世界基準といった段階をみな越えていかなければなりません。それゆえ、何億万年がかかるかもしれないのです。それは無限に該当します。イエス様も国の基準を越えられなかったために、国の峠を越えるために再びやって来て、国の峠を越えて初めて天国に入ることができるのです。イエス様は、今楽園にいますが、同様の道理です。

イエス様が、この中のある人に再臨して、その人を直接指導するようになれば、イエス様が臨在したその人は、「自分がイエスだ」と言うのです。それゆえ、それだけ見れば、昔のイエス様が自分として生まれ変わったと思うために、輪廻説のような現象が起こることになるのです。皆さんは、このような霊的世界をよく知らなければなりません。

人は、本来神様が直接主管なさる善主権内で暮らさなければならないのに、堕落圏内で生きているために、悪主権を脱しなくてはいけない運命にあるのです。それゆえ、このような問題があるのです。イエス様は、霊的にそれを成しました。キリスト教も霊的にそのことをしてきているのです。

このような観点で見るとき、統一教会の復活論は、霊界の事実にそのまま当てはまるのです。言い換えれば、統一教会の復活論は、霊界の公式を皆さんに教えてくれているのです。今までの数多くの宗教人たちが、そのような未知の霊界の事実を体験はしましたが、それがどのようになっているか、その事実を知らなかったのです。

皆さんは、この原理自体が理論的にそのようになっているのだとだけ考えて原理を学ばないでください。この原理自体を探すのも大変ですが、これを実践して、勝利の基盤をつくらずには、皆さんに教えてあげることはできないのです。

言い換えれば、ノア家庭の内容を知って、アブラハム家庭の内容を知って、ヤコブ家庭の内容を知って、モーセ時代の内容を知って、洗礼ヨハネの内容とイエス時代の内容を知って、それで終わるのではなく、それらのことを知って、全部蕩減して復帰した勝利の基盤を備えるのが問題です。その基盤が備わって初めて、皆さんに教えてあげるのです。

過去にサタンに負けたものを、勝った立場で復帰しておかなければ、神様のみ旨を成していくことができないのです。今まで復帰摂理を担当してきたノアとか、アブラハムとか、ヤコブとか、モーセのような人たちも、これを知らなかったのです。

しかし、この地に来られる主は、個人として失敗したのを復帰しなければならず、家庭として失敗したのを復帰しなければならず、氏族として失敗したのを復帰しなければならず、民族として失敗したのを復帰しなければならず、国家として失敗したのを復帰しなければなりません。来たるべきその世界を得る時まで、それらを全部知って、実践することができる代表者です。実践しなくては、成すことができないのです。

皆さんがメシヤに出会い、その方を信じて従えばどのようになるでしょうか。その方が、個人、家庭、氏族、民族、国家時代を中心として完成する時、皆さんがその方に会えば、皆さんは、個人、氏族、民族時代の恵沢を受けて、国家時代とともに上がっていくのです。ところで、個人時代にいる人が、メシヤを迎えて家庭時代に上がっていくためには、霊界にいる霊人たちと同様に、肉界で蕩減をしなければならないのです。また、家庭時代から



六百二十九



氏族時代に上がる時にも蕩減路程を行かなければならないために、結局、統一教会に入ってきて長くなった人であるほど、蕩減をたくさん果たしたということになります。長くなるほど、先生と近い立場にいるという結論になります。


国家時代まで上がっていくには、縦的に上がるようになります。ここで国家体制を決定して、越えていかなければならないのです。ところが、その過程において、上がっていってこれ以上上がっていけなくなったときは、落ちることもあります。なぜなら、霊界の現象は、いくら高い段階まで上がってきて役事したとしても、同様の現象が起こるのです。ここには、蕩減があるためです。蕩減とは行こうとする所に対して行けないようにすることなのです。反対になることをさせるのです。それゆえ、うっかり過ったら、落ちやすいのです。ここで失敗するようになれば、みな崩れるようになります。

イスラエルの国とユダヤ教が、イエス様を迎えるために四千年間準備してきましたが、み旨をなせずに死ぬことによって、準備した基台がすっかり崩れたのです。それゆえ、ここから上がったり下がったりする過程で、数多くの犠牲者が生まれたのです。

それは、神様の主流摂理を通じてすることですが、支流的にも世界の数多くの民族を中心として、このような適用が起こるのです。このような適用が起こることによって、世界的に蕩減が繰り広げられるのです。

一つの主流としてこのように上がっていくなら、ここに従って全世界的にあるものは別の立場で蕩減が起こるのです。このような蕩減を果たして、収拾していくのです。それゆ

え、今まで数多くの宗教が、多くの犠牲を払いつつ、復帰の路程を通過してきているのです。


霊界の霊人や、宗教家が、高の善であるこの基準をどのように越えていくか、言い換えれば、国家基準を越えて、どのように落ち着くかということが問題です。メシヤは、蕩減する方法を知っているために、もし国民がまだ蕩減できなかったとしても、彼と共に一つになれば、蕩減期間が短いのです。もし、メシヤと共に国が落ち着けば、すべての個人は、全部ここに適用されます。国家が蕩減を果たしたなら、家庭は家庭なりに世界的になり、氏族は氏族なりに、民族は民族なりに、そして国家は国家なりに世界的に上がっていくのです。このように見るとき、国家を探せば世界復帰がどれほど早いかということを、皆さんは考えなければなりません。

国を立てておいてこそ、楽園を越えることができるのです。楽園とは何かというと、天国に行くための待合室と同じです。それゆえ、アダム、ノア、アブラハム、ヤコブが、このような過程を通じて復帰してくる時に過ったことが残っているなら、それは全部蕩減しなければなりません。蕩減しなければ、横的に発展させていくことができないのです。

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このような観点から見るとき、国がどれほど重要かが分かります。国さえあれば、落ちないのです。ここでもドイツ人以外の外国人はドイツ政府の干渉を受けるのと同様です。もし、間違えるようになれば、追い出されるのです。追い出されるとき、自分の国家がなければ、どこに行くかというのです。そのときは、行く所がないのです。そのような人は、死んでしまうとしても、どこにも訴える所がないのです。 サタン世界も同じです。サタン世界において、我々は彼らの怨讐です。神様を信じる人たちは、彼らの怨讐ですから、その国で我々をどれほど憎み、いじめるでしょうか。それだけでなく、彼らが我々を追放しても、あるいは殺しても、訴える所がないのです。このように国が重要であるために、神様も国を探してこられるのです。

皆さんが国家を探していくには、個人、家庭、氏族、民族、国家まで蕩減しなければなりません。個人的な蕩減路程と、家庭的な蕩減路程、氏族、民族的な蕩減路程を行かなければなりません。そうしなくては、世界を行く道がないのです。このように国家が中心になるために、各国もこのような中心となった国家を通じなくては、この道を行くことができないのです。

もし、皆さんが国家を復帰できずに死ねば、この地上に再臨しても、せいぜい個人を後援し、家庭を後援することができるだけであって、堂々と権勢のある後援はできません。サタン世界を征服するための戦いをすることができる資格者になれないのです。 それゆえ、国が生まれてこそ、皆さんは入籍することができます。皆さんは入籍しましたか。皆さんは、統一教会には入籍しましたが、統一された神様の国には、入籍できていません。国がないのに、民になれますか。なれないのです。

それゆえ、霊界にいるすべての霊人も、その国の人にどのように協助するかということが、望みです。その国さえ存在するようになれば、再臨現象は横的に起きるのです。

横的に起こるために、自分が苦労すれば、苦労した基盤が残ります。その国を探して上がっていくときは、いくら蕩減しておいたとしても、崩れるようになればみななくなります。このどん底からどこまで上がってきたとしても、崩れてしまえばなくなるのです。これの繰り返しですが、これを横的な基準でするときは、自分の実績は横的に永遠に残るのです。

言い換えれば、復帰して上がっていくときは、蕩減してなくなる時代ですが、国を探して、横的にするときは、それが蕩減ではなく、実績と

して残る時代なのです。(五四―二二七)


六百三十一