真の家庭 True Family
はじめに
今までの人類歴史において、天道と三綱五倫という古い法度が、世の中を収拾する人倫道徳の一つの母体となってきました。しかし、終末である今、それらのものがすべて崩壊してしまい、その結果、極度の個人主義、愛の秩序を破壊するフリーセックス、同性愛のホモ・レズが乱舞する時代となりました。そして真の愛を中心として理想家庭を願ってきた天の側を完全に破壊する地上地獄の時代となったのです。
エデンの園における人間始祖の堕落によってその種が蒔かれたがゆえに、そのような現象が世界的に展開し、堕落の実を刈り取る収穫期が来たのです。堕落した偽りの父母の因縁を中心として、神様と関係のない伝統を受け継ぐことによって、この世界は混乱と混濁の世界となりました。
言い換えれば、人間始祖が自らの責任分担を完遂することができずに不倫な血縁関係を結んだために、その後の人類はサタンの子女として、忠実な僕として、サタンの主管を受けるようになったのです。
そのため、復帰摂理は、サタンの血統と生命と愛を分立し、神様の善なる血統と生命と愛を復帰してきたのです。したがって全人類は、サタンと関係のない、本然の血統と連結された神様の真の息子、娘として生まれ変わらなければなりません。 それゆえに、真の父母がこの地に来られて新しい主義を立てなければなりません。それが真の家庭主義です。真の家庭主義は、神の真の愛主義です。神の真の愛主義は、家庭を越えて国境を超越し、この平面的な世界をすべて超越します。そして互いが授け受けするにおいて、まず自分が先に授けようとする主
義なのです。
本書は、真の御父母様の真の家庭に関する愛の言葉が満ち溢れ、読む者の本心を目覚めさせるに余りあります。そして、神様が本来人間に対して願っていた真の子女の心情と真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を体恤し完成していくにおいて、適切かつ貴いみ言がこの本に盛り込まれています。ゆえに真の自由と平和と幸福に満ちた家庭を成そうと願うすべての方々の良き道しるべとなることを確信します。
本書を訓読される皆様の家庭が、日ごとに真の家庭として成長し復活する生活となることを祈願いたします。
日本語版発刊によせて
三百二十九
これまで十二冊からなる小冊子シリーズとして多くの人々に親しまれてきた『真の家庭』が、このたび一冊の本として出版されることになりました。元来このシリーズは真の家庭運動を推進するためのテキストとして、まだ統一原理を学んだことのない一般読者の方々にも、人類の真の御父母様であられる文鮮明先生の説かれる真の愛の理想が理解できるようにという意図で編纂されたものです。しかし、既に原理を学んでいる私たちが改めて読み返してみても、家庭のあるべき姿について実に多くのことを教えられ、心動かされることが少なくありません。
文鮮明先生の語られるみ言には、常に普遍的な真理の力がみなぎっていますが、このテキストはそれがも平易な言葉で表現されたものであり、まさにすべての人が読むべき「真の愛の教科書」であると言えるでしょう。これまで文鮮明先生は「四大心情圏」について数多くのみ言を語ってこられました。そして私たちが日々唱和している「家庭盟誓」の中にも、四大心情圏の完成という目標が掲げられています。それは私たちが日々の家庭生活の中で、子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛という四つの型の愛を啓発し、それらすべての愛を授け受けすることができるような心情を自らの中にはぐくんでいくことを意味しますが、そのための具体的な方法や心構えが本書の中には実に丁寧に解説されています。
今日、私たちのまわりの社会では、「家庭とは何か」という概念そのものが危機にさらされています。伝統的な父母と子からなる家庭の概念を相対化して、離婚・再婚がもたらしたステップ・ファミリー(継母、継子など、血縁のない親子関係を含む家族)、未婚・非婚の母と子の家庭、あるいはゲイやレズビアンのカップルまでも「アルタナティブ・ハウスホールド」(もう一つの生活体)として認めさせようとする動きが米国を中心として活発化し、国連にまで影響を与えようとしています。また日本においては「失楽園」や「援助交際」といった言葉に代表されるように、大人から青少年に至るまで、性倫理の崩壊は深刻な事態になっています。私たちはこのような風潮に対し、家庭は本来こうあるべきであるという標準をはっきりと示さなければなりません。
家庭は「愛の学校」です。私たちが真の愛をはぐくむ場所は、家庭をおいてほかにありません。訓読会を通してまず私たち自身がその愛の理想を学び、それを実践するとともに、より多くの人々にその理想を伝えるため、本書が活用されることを願ってやみません。
二〇〇〇年二月
第一章 創造本然の真の家庭
一 アダムとエバを通じた神様のみ旨
多くの人たちが神様のみ旨について語っています。しかし、この話は簡単なようで、いざ「神様のみ旨とは何か」という質問を受けた場合、答えるのは非常に難しいものです。
また、今日まで多くの信仰者が「神よ、み旨を成さしめ給え」と祈ってきました。そして神様のみ旨を成すために現在、私たちも信仰生活をしています。しかし神様のみ旨が何であるかもよく分からずに、神様のみ旨が成されることを祈り、またそのみ旨のために信仰生活をしているというのは、一つの矛盾だと言わざるをえません。(祝福家庭と理想天国I-二九八)
330 * 三百三十
統一教会で見る神様のみ旨、すなわちレバレンド・ムーンが知っている神様のみ旨とは何でしょうか。それは神様が宇宙をつくった創造理想、すなわち創造目的を完成することです。神様はすべての被造万物を創造するとき、必ず目的をもって創造されたので、そのような神様の創造目的を成すことが神様のみ旨です。
その目的の中心は誰でしょうか。アダムとエバでした。それゆえに私は、創造の理想を実現すること、すなわちアダムとエバを中心とした理想を実現することが、神様の創造目的だと見るのです。
では、その理想実現とは何でしょうか。それはまさに四位基台を成すことです。四位基台とは、神様を中心としてアダムとエバが、神様の愛の圏で離れようとしても離れられないように完全に一つとなり、理想的な夫婦となり、彼らが子女を繁殖することによってつくられる神様中心の家庭の基台をいいます。この四位基台が造成されれば、神様を中心としてアダムとエバが夫婦の愛で一体となり、神様の愛の圏から離れられなくなります。
(祝福家庭と理想天国I-二九八)
人間始祖を通しての神様の理想は何だったのでしょうか。神様の理想は理想的な男性と理想的な女性が結婚して理想的な家庭を完成することでした。
それでは理想的な家庭を成す中心は何でしょうか。それは男性でもなく女性でもありません。家庭とは結局、父母と子女、夫婦の結合によってつくられる一つの束で、その結ばれたものの中心は何かといえば、まさに神様の愛です。 神様の愛を中心にして夫婦が結婚し、神様の愛を中心にして家庭を完成させることが神様のみ旨であるとの結論が出ます。(祝福家庭と理想天国I-三〇一)
神様の創造目的とは何でしょうか。アダムとエバをつくったのは、ただながめるためではありません。男性と女性をつくったのは、男性は男性として、女性は女性として年老いて死んでいくためではありません。彼らが成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して、神様を中心とした人類の真の地上天国を建設するようにするためでした。神様を中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。
ここにおいて男性であるアダムは天を代表し、女性であるエバは地を代表します。それゆえ彼らは二人ですが、彼らが横的に一つになれば、天と地が統一されるのです。神様の愛を中心に二人が統一されれば、天宙は自動的に統一されるのです。(祝福家庭と理想天国I-二九九)
二 神様が絶対に必要とするもの
神様はなぜ彼造世界を創造されたのですか。神様は被造世界を通して喜びを味わおうとされたのです。神様がいくら絶対者だといっても、喜びを一人で感じることはできません。喜びは相対がいてこそ生じるからです。
神様が必要とされるのは知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。神様ご自身が絶対的で全知全能なので、そのようなものを必要とはされません。科学がどんなに発
三百三十一
達しても神様かつくられたものに追いついたり、越えたりはできません。膨大な宇宙は秩序の中で法度に従って運行しています。人間の思考と科学が及ぶことのできない膨大な宇宙を神様は創造され、運行しておられることを考えるとき、神様は絶対的な科学者でもあられます。
世の中に存在する物の中で、神様と相対となる力はありません。神様の力は全知全能であり絶対的だからです。また永遠不変で自存的なお方が神様であられます。そのような神様が願われることがあるとすれば何でしょうか。
お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、何を願っておられるのかというのです。神様が必要とするものは何であるかが問題です。
神様が絶対必要とするものが一つだけあります。それは人間に絶対的に必要なものであると同時に神様にも絶対に必要なもので、それが真の愛です。それでは神様お一人で愛を受けることができますか。神様はご自身で愛を思うままにすることができるのではないかというでしょうが、とんでもありません。神様においても必要なものは、真の愛を分かつことのできる対象者なのです。これを知らなかったのです。(祝福家庭と理想天国I-三〇四)
神様が絶対的なお方ならば、その絶対的な方がなぜ人間をつくったのかというのです。
お金のためにつくったのでもなく、知識のためにつくったのでもなく、権力のためにつくったのでもなく、人間の創造が、神様の愛を神様ご自身が感じることのできる唯一の道であるがゆえに人間をつくったのです。
この観点から見るとき、神様は父であり人間は息子・娘だということが一つの軸をなすのです。この軸が万一連結されたならば、人間と神様が愛で一体となった関係は、何が作用しても絶対に引き離すことができないのです。
神様の本然の愛と絆を結んで、その愛の味を味わった人は神様から離れていくでしょうか。蜂は春に蜜を味わいます。蜜を吸っている蜂のお尻をつかんで引っ張るとお尻が抜けても、その蜂は蜜から口を離しません。皆さんがその味を味わったらどうでしょうか。離しても離しても戻ってきて、再びそこにくっつこうとするでしょう。
この軸の愛に連結された全時空が作用する基準になっていれば、人間の家庭は、個人的に完成した男性と女性が一つになって、愛を中心とした家庭が現れるのです。さらにこの愛を軸として成された氏族、民族、国家、そして世界が現れるようになるのです。(祝福家庭と理想天国I-三〇五)
三 神様の永遠なる愛の相対者
三百三十二
神様がこの世界を創造されたのですが、私たちが神様に、何ゆえにこの世界をつくられたのかと尋ねるならば、神様は間違いなく「善くて……」と答えるでしょう。「善くて」すなわち喜びのために、喜びを得たいがために、神様はこの世界を創造されたというのです。 ところで善い状態、すなわち喜びはどのようにして得られるのかといえば、愛の形態を通して得られるのです。ですから神様は、愛の実現を通して喜びを得るためにこの世界を創造されたのです。そのような結論を私たちは得ることができます。愛の実現のためにこの世界を創造された神様であられました。
人間と万物が神様の愛を中心に一つとなり、和気あいあいとした愛の関係を築くのを見て喜ぶために、そして人間が神様の愛を中心に一つの真の夫婦の因縁を結び、一つの真の愛の家庭と氏族、民族、世界を成すのを見て喜ぶために、そして、そのような人間と愛で一つになることによって愛の喜びを味わうために、被造世界を創造された神様であられました。
まさにそれが神様の創造の理想だったのです。(祝福家庭と理想天国I-三〇二)
神様の夢はただ一つ、愛の理想を実現することでした。ところが愛の理想の実現は、神様お一人では果たせないのです。愛とか幸福、喜びなどは一つの個体を中心として成り立つようになっているのではありません。相対圏がなくては絶対に成立することができないのです。(祝福家庭と理想天国I-三〇三)
神様は絶対的な存在ですが、愛の相対となる存在がなければなりません。神様の愛の相対者はまさに人間なのです。
神様の愛の相対者として人間が、完成した愛をもって神様の前に現れるとき、神様は幸福の神様、喜びの理想を得た神様となるのです。(祝福家庭と理想天国I-三〇三) 神様には人間がなぜ必要なのでしょうか。神様の理想を実現するのに人間がなぜ必要なのかというとき、「神様の愛を完成するために必要なのだ」と言うことができます。神様の愛とは何でしょうか。それは、人間同士、永遠に見て愛し合うのはもちろんですが、神様をして人間を永遠に愛し得るようにさせるものだともいえます。人間はこのように神様の永遠の愛の相対者なのです。
アダムとエバを創造されたその日から、神様は永遠無窮に、アダムとエバをどんなに見ても、もっと見たいし、どんなに一緒にいても、もっといたいし、どんなに一緒に住んでも、もっと住みたいという対象として愛したかったのです。そのような対象をもつことが神様の創造理想です。(祝福家庭と理想天国I-三〇六)
四 アダムとエバを創造なさった目的
私たちが旧約聖書創世記第一章二十七節を見ると、神の形どおりに人間をつくり、一男一女をつくられたという聖句があります。
そこから帰納的に推理すると、神様は一人の男性と一人の女性を合わせたお方であるとの結論が出るのです。
そういう神様が一人でいてはいけないので、対象を必要としてこの世界を創造せざるを得なかったのです。そういうわけでつくられたのが、一人の男性であり一人の女性なのです。
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(祝福家庭と理想天国I-三〇七) 神様は第一に、体をもつためにアダムとエバを創造され、第二に愛を完成するためにアダムとエバを創造されたのです。このようなアダムとエバが完成し、二人が一つになることのできる愛の実体となれば、神様が臨在し、彼らは人類の完全な愛の父母となるのです。そして神様の形象的実体の父母になったアダムとエバが、実体の子女を繁殖することによって、理想世界が成就されるのです。そうなれば人間を通して霊界と地上世界が連結されるので、霊界と地上世界を連結させることをも目的として人間をつくられたのです。
そういうわけで、神様が愛を中心にしてアダムとエバに臨在されることによって、神様は人類の真の父母、実体の父母として存在されるのです。そしてアダムとエバが霊界に行けば霊界でもアダムとエバの形状をもって父母の位優に顕現することができるのです。ところがアダムとエバが堕落することによってこれが成されなかったという事実を皆さん方が理解してくださるようにお願いします。(祝福家庭と理想天国I-三〇八)
神様は見えません。その無形の神様が実体相をもつためにアダムとエバを創造されたのです。
心の中に神様を抱いているアダムとエバが完成し、結婚して子女を生めば、神様は内的な父になり、アダムは外的な父となるのです。そうなればアダムは神様に完全に似るようになります。神様に似たアダムとエバが人類の父と母になれば、その姿を通して、いつも神様がおられることが歴史を通して認知されたことでしょう。(祝福家庭と理想天国I-三〇九)
神様が男性と女性をつくられた目的は、二人が愛し合い一つになるようにするためでした。アダムはアダムのために、エバはエバのためにつくられたのではありません。アダムはエバのために、エバはアダムのためにつくられたのです。また神様ご自身の愛と喜びのために、アダムとエバをつくられたのです。神様がアダムとエバをつくられたのは知識、権力、お金のためではありません。全知全能なる神様は知識、お金、権力が必要だったのではなく、ただ愛が必要だったのです。(祝福家庭と理想天国I-三〇八)
神様がアダムとエバをつくったのは知識を与えるためでもなく、権力を与えるためでもなく、多くの財物を与えてよい生活ができるようにするためでもありません。彼らを創造した目的は愛の実体として立てるためだったのです。(祝福家庭と理想天国I-三〇八)
五 アダムとエバの初愛の時期
神様がアダムとエバを見て「取って食べるな」と言ったのは、彼らが愛することのできる時機になっていなかったからです。彼らは成長期にいたので成熟するまで待てとの戒めだったのです。(祝福家庭と理想天国I-三一〇)
三百三十四
人間は思春期に向かいながらその一時を中心に生きてきました。そのときまで待つべき理由がどこにあるのかを知らなければなりません。ただちに男性、女性が一つになり愛すればいいのに、なぜ待たなければならないのでしょうか。愛のゆえにそうせざるをえなかったのです。成熟することのできる思春期時代までの期間が必要であるため、その期間まで過程的な要件を整えなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-三一二)
それではアダムとエバが教育を受けられる姿勢とは何でしょうか。神様とアダムとエバは、父母と子女の間柄なので、その父母が行く所にはいつもついていかなければならず、主管を受けなければならないのです。にもかかわらず、二人はその立場を離れることによって本然の姿勢を離脱したのです。神様は絶対的なお方なので、絶対的にそのお方に従って服従しなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-三一一)
アダムとエバは万物の霊長として、父なる神様が定めてくれた期間、すなわち霊肉ともに成熟する時を待たなければなりませんでした。神様もアダムとエバに「生育し繁殖せよ」と言いました。それは肉体と霊人体が完全に成長した後に、夫婦となって愛し合い息子・娘を繁殖せよとのみ言なのです。アダムとエバが身体的に成熟しながら一緒に出歩くようになります。一緒に行き来していてびっくりするような場面を見れば、エバが「まあ、怖い!」と言いながらアダムの胸に抱かれたり、後ろに隠れることが起こるようになったのです。
エバがアダムの胸に抱かれれば、怖かったのが安心でき楽になるのと同時に、アダムから強力な男性的衝動を受けるのです。アダムもまた嫌な気もせず、エバから自身とは違う性的衝動感を受けたでしょう。このようなときアダムとエバのうち、性的モーションをどちらが先にかけたのですか。「怖い」とアダムの胸にかけ込んだエバが先にかけたのです。そのときから彼らには次第に愛の接線ができるようになったのです。
神様は愛で被造世界を創造されました。それゆえアダムとエバは、神様の愛を中心にして被造世界を愛の組織体としてつくり、神様に連結させなければなりませんでした。そのような任務をもったアダムとエバは、どんな姿勢をもって神様が許された愛を共有するようになるべきかを、考えていなければなりませんでした。この愛の問題は極めて重大なことで、彼らの生死を狙うものになりかねないのです。(祝福家庭と理想天国I-三一一)
愛はどこから出発するのでしょうか。個性を完成するところがらです。原理で見れば個性を完成した後に愛するようになっています。思春期を経て異性に対することのできる資格を備え、天地の調和に一致して通過することのできる責任を担えるときに初めて、愛の因縁が始まるのです。
ところがアダムとエバにおいてはそうではありませんでした。彼らの愛はどういう愛でしたか。天地のすべての万物を統一させることのできる位置での愛ではありませんでした。主体的な愛ではありませんでした。彼らの愛は主体的で必然的な愛でなければなりませんでした。ところが彼らは必然的な愛で愛することができなかったのです。(祝福家庭と理想天国I-三一七)
六 すべての存在は愛を通じてのみ完成する
三百三十五
個体完成とは、心と体が本来神様がつくられた愛の型に従って、完全に一つとなった中で成長し成熟するように、授受作用を永続させていくことを言います。愛を中心にして出発し、愛を中心に成熟し、その上に愛の芽が出、実を結んでこそ完成するのです。このように愛の基台が立つようになれば、その中に神様は愛の因縁をもって臨在されるのです。愛が成熟しなければ、実を結ぶことのできる型を造成できないのです。
すべての被造物は愛の法度によって創造され、また存在しているのです。植物を見ても花が咲けば、花の中のおしべとめしべが授受作用、すなわち循環運動をすることによって実を結ぶようになるのです。動物世界もそうだし、人間世界も愛の循環運動によって存在しているのです。このようにすべての被造物は愛の関係を経て完成するようになっています。すべての存在は愛を通してのみ完成できるといえます。
人間は神様の愛の核と一致する位置に立ったとき、体と心が一体となるようになるのであり、神様の愛の圏内に、体と心を一体化させて入っていくようになれば、成熟した人間となるのです。そのとき初めて、堕落しない本然の人間として、個人完成が始まるようになります。(祝福家庭と理想天国I-三一四)
心と体において心は天を中心とし、体は世の中を中心とするのですが、この心と体が一つになったというとき、その理念はどういう理念だといいますか。天宙主義理念だといいます。天宙主義理念が何だか分かりますか。天と地、すなわち無形世界と有形世界が一体となる立場をつくっていこうという主義が天
宙主義です。
この天宙を支配しようとすれば、支配しようとする人は心と体が一体とならなくていいですか。一体とならなくてはここで滅びます。そして神様を中心にして心と体が一体となるとき、神様は内的な神様で自分は外的な神様になるのです。ところで何を中心にして一つになるかといえば愛を中心として一つになるのです。(祝福家庭と理想天国I-三一四)
アダムは神様と一つにならなければなりません。これを結合させるのは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結合させる中心点がまさに愛という絆です。
肉体をもつ人間が神様と一体となるとき、その心情と感情は無限なる体恤境と幸福感に酔うようになります。結局、愛によって神様と人間は一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになり、神様の創造目的、理想世界の実現は愛から出発するのです。
三百三十六
アダムとエバは、十六、十七、十八歳になれば自然と思春期になり、異性に目が開くようになります。花が一面に咲くとき、人がその香りに酔うように、アダムとエバが成熟すれば異性を考えるようになります。この香りに神様も一緒に引き込まれていくのです。神様の愛とアダムとエバの体と心、この三つが一つになれば宇宙の核が生じて、すべての愛をコントロールする本軌道に入ることができるようになります。 ところがここで脱線しました。脱線しなかったならば完全に一つになったでしょう。このように一つになったなら、神様も離れられず、アダムとエバも離れられなかったはずです。そして子々孫々に連結され、氏族、民族、世界を形成したことでしょう。ここが素晴らしい世界、地上天国になるのです。(祝福家庭と理想天国I-三一二)
七 人間たちが誇ることのできる も大きな自慢の種
神様は一人の男性と一人の女性を創造されました。そして彼らが完成した状態に至った後に、彼らをして天的な結婚生活をするようにされ、一双の天的夫婦として立てようとされました。神様はアダムとエバをして、初の夫と 初の妻になるようにされ、天国建設を始めようと計画されたのです。万一それが実現されたならば、「生育し繁殖せよ」と言われた神様の祝福はそのときに成されたはずでした。
神様は彼らに神様の子女を繁殖できる力を賦与されたのです。そうなったなら、彼らの子女も罪のない完全な人間になったのです。アダムとエバはまたどのようになれたでしょうか。罪は絶対に人類に継承されなかったでしょう。そのような子女をもつことによって、アダムとエバは神様を中心とした真の父と真の母となり、人類の真の父母になったでしょう。
堕落せずに完成の位置まで上がったならば、アダムとエバは個人完成のみならず、宇宙史的な完成をしたことでしょう。また神様の愛を中心にした新しい家庭が出発したことでしょう。このように家庭から氏族、民族、国家、世界が成されたならば、神様に侍る一つの大家族社会ができたことでしょう。この大家族社会の中心は神様とアダムです。それで、その世界では神様を中心としたアダム家庭の生活や一生の路程が歴史的伝統として残ります。彼の生活方式、風俗、慣習、そして生活的な背景が歴史的伝統になるのです。それは神様の愛でつづられた伝統にならざるをえません。
神様の愛は生命の根源でありすべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れられず、離れたとしても再び戻らざるをえません。堕落したこの世界でも、父母のもとで生活していたものがその懐を離れたり、兄弟のもとを離れたら、いつも寂しく感じ、父母や兄弟を懐かしがるのを見ます。同じように、生命と理想の主体であられる神様の愛でつながっていたら、その懐を離れられないのです。離れれば寂しくなり悲しく、喜びがあるはずがないので、神様の愛の圏内で一つになるほかないのです。
三百三十七
そのような立場で人間たちに誇るものがあるとすれば、第一に神様は私の父だということであり、第二に自分たちは神様の愛を受けられる息子・娘だということであり、第三に自分たちは神様が創造した宇宙の相続者だということです。今日世の中の人たちは、金持ちの婿になっただけでもたいそう誇ります。ところが神様が私の父であられ、その父の愛を完全に受けられるならば、それ以上大きな誇りがどこにあるでしょうか。(祝福家庭と理想天国I-三一九) アダムとエバが神様を中心とする理想家庭を築いたならば、神様のみ旨は成就されたでしょうし、アダム家庭は、上は神様を父として侍り、下は人類始祖の立場で、一つの結合した愛の基点を整えられる家庭になったでしょう。
その家庭は、神様が創造したアダムとエバの理想を完成するために、愛の結合によって一体になることのできる基となったことでしょう。(祝福家庭と理想天国I-三二〇)
八 真の家庭として伝統を立てるべきだったアダム家庭
人間始祖が堕落しなかったならば、皆さんは誰の息子・娘として生まれたでしょうか。当然神様の息子・娘として生まれたのです。
堕落しなかったならば、すべての人間は神様の真正なる息子・娘になります。今日のように怨讐の前に弄ばれ、怨讐に支配される氏族ではなく、怨讐の前に讒訴される群れではありません。絶対的な権威をもった神様の息子であり、どこへ行こうと神様の全権全能を代表できる神様の息子です。その息子を中心に家庭を築くとき、その家庭は全宇宙の存在が屈服しなければならない神様の家庭となるのです。またその家庭を成した氏族が活動する場合においては、あらゆる彼造万物は彼らを擁護し、彼らに吸収されなければならないのです。ところが堕落したゆえに、人間たちは神様の息子・娘になるどころか、怨讐に弄ばれる群れになったのです。 人類の始祖が、本来神様の法度を犯さずに神様と永遠に一体となったならば、その一体となった愛の因縁の中では誰も彼らを連れていけません。すでに息子・娘として生まれ、またすでに成人したのちに彼らを見て「おい、おまえの父親は誰だ?」と言って説明して、神様が父であることを否定できる理論や学説はないのです。銃剣を突き付けてもだめなのです。(祝福家庭と理想天国I-三三〇)
もし堕落がなかったならば、エデンの園に天の初の家庭が立てられたのであり、その家庭はサタンの讒訴とは何の関係もなく、神様の主権下に繁栄したのです。(祝福家庭と理想天国I-三三〇)
アダムとエバが堕落しなかったならば、神様の完全な愛を受けたでしょう。このように神様の完全なる愛を受ける息子と娘として、彼らが神様の愛で結合したならば、神様の愛を中心とした息子・娘を生んだでしょう。
そして真なる神様の愛の中で、夫としての伝統、妻としての伝統、息子としての伝統、娘としての伝統を立てることができたでしょう。そして神様の愛を中心とする家庭の伝統が確立されたならば、神様のみ旨は成就したことでしょう。(祝福家庭と理想天国I-三三一)
三百三十八
アダムとエバは神様のみ旨どおりに完成して祝福を受け、家庭から出発した神様の国を築かなければなりませんでした。彼らの完成は、真の愛を中心として成されなければなりませんでした。神様に侍り、アダムとエバが横的な相対を成したならば、創造目的の世界が出発したでしょうし、その世界は拡大され宇宙にまで至ったことでしょう。アダムとエバが夫婦一体となり、一つになる伝統の中に一つの世界を築いたでしょう。しかし、アダムとエバは神様のみ旨に背いて堕落してしまいました。(祝福家庭と理想天国I-三三二)
第二章 家庭を中心とした愛の法度
一 家庭を中心とした神様の愛の法度
神様の愛は父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の形で現れます。この三大愛が人間において絶対的な観を超越できる永遠の実存的権限をもっています。それゆえ、この三大愛が結合するとき、人間は幸せになるのです。これが完全であれば、幸せも完全なものであり、これが欠如すれば不幸が巣くうのです。
お母さんのいない愛が幸せですか。お母さんがいない分だけ、不幸せなのです。また、お父さんがいないのに、幸せですか。お父さんのいない人はお父さんのいる人がうらやましいのです。幸せというものは、うらやましいものがあってはなりません。愛もうらやましいものがあってはなりません。
うらやましいものがあれば、幸せだとはいえないのです。お父さんがいなくとも幸せではありえず、お母さんがいなくとも幸せではありえません。男性がいくら太っ腹であり、大口をたたいても女性がいなければなりません。妻がいなければならないのです。また、夫婦同士、面白く暮らしてから、夫があの世に逝くようになれば、夫人は涙を流します。男性がいなくてもだめであり、女性がいなくてもだめなのです。
それから、夫婦同士、いくら愛し合って生活をするとしても、子女がいなければ不幸せです。息子だけが必要ですか。息子も娘も必要なのです。ところが、例えば父母に息子と娘の二人しかいないとすればどうでしょうか。息子に関していえば、彼にはお姉さんが必要であり、またお兄さんが必要です。また、娘にはお兄さんが必要であり、お姉さんが必要です。また、彼らには弟と妹が必要です。
お兄さんがいなければならないし、お姉さんがいなければならないし、弟と妹がいなければなりません。これが皆、そろっていなければ不幸せなのです。妹、弟、姉、兄、皆そろっていて完全に一つになった家庭は、神様が保護します。これが氏族と民族と国家の起源になるからです。自分を中心としてお父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、それから弟、妹、そこに自分まで合わせれば、七名です。ですから、七数が完成数だというのです。ここでの完成とは、愛を中心としていうものであることを知らなければなりません。
どうして七数が完成数でしょうか。何ゆえに、キリスト教でいう天地創造が七数を中心として完成したのでしょうか。そのような内容があるからです。三数は天の数であり、四数は地の数だといったことがあります。ここで三数は父、母、私の三数です。では、四数は何を意味するのでしょうか。兄弟姉妹たちを合わしたものが四数です。(二〇-四〇)
三百三十九
七数が完成数だということを知らなければなりません。父なる神、み子、み霊は神様を中心としたアダムとエバをいうのです。父なる神は上下、すなわち縦的な因縁をいうのであり、父母の愛は天地の身代わりなのです。皆さんを中心としてみるとき、兄と姉は東西を意味し、弟と妹は南北を意味するので、それが完成すれば、一体となるのです。これが愛の法度です。それゆえ、科学のすべての法則も数理に立脚した公式法度に摘要されないものがないのです。神様の愛の法度から由来する創造原理的な概念が出てくるのです。このような愛の法度が定着するようになるとき、平和の起源が成り立つのです(精選五-一八)
二 家庭に三代が共存すべき理由
祖父、祖母、舅、姑、小姑、孫までいっしょに暮らそうというのです。暮らす場合においては、センターを中心として蘇生、長成、完成、三代が定着するのです。
お父さんとお母さんだけを愛するのではなく、おじいさんを愛してこそ、神様を愛することになるのです。父母の上におじいさんを置いて愛してこそ、神様を愛することになるのです。
では、なぜ夫がいなくてはならないのでしょうか。なぜ父母がいなくてはならないのでしょうか。なぜ子女がいなくてはならないのでしょうか。彼らがいてこそ、神様に侍ることができるからです。
父母がいなくてはならないし、子女がいなくてはならないのが原則です。父母が必要であり、それから、夫婦が必要であり、赤ん坊が必要です。それをなぜ必要とするのでしょうか。神様と関係を結ぶためには、父母が必要であり、夫が必要であり、子供が必要だという論理が成立するのです。
ですから、父母が必要であり、夫が必要であり、子供がなぜ必要なのか、はっきり知らなければなりません。これを知らなければだめなのです。自分が下にも行かなければならないし、センターにも行かなければならないし、上にも行かなければならないし、横にも行かなければならないし、四方に行かなければなりません。いくら幼い孫だとしても、愛をもっておじいさんを好きになるなら、「ああ、うれしい!うれしい!」と応えてくれるのです。
ですから、統一教会で、本然の世界をつくるために、本然の愛を中心として、このような家庭編成を標準とすることを宗教世界を通して初めて教育したということは、驚くべきことです。(一二八-一七)
340 * 三百四十
皆さん、夫が死ねば、妻がなぜ泣くのでしょうか。子女がいなければなぜ泣くのでしょうか。寂しくて泣くのではありません。宇宙の根本原則においては東西四方を全部、備えなければならないからです。宇宙の存在の力は、相対理想を擁護する力からなっているのです。ですから、すべてが授け受けします。 南北が授け受けし、北極と南極が授け受けするのと同様に、星と星が授け受けするのです。相対がなくては存在できません。完全に一つとなった理想的な相対は、完全に授け受けする存在は、この宇宙が擁護するのです。永遠に維持できるように、それを擁護する天運が離れないのが原則なのです。全部、それを助けるのです。
子女がいなくてもだめです。今日、西欧では子女が必要ないという主義になりつつありますが、必要がないかどうか、見ていなさいというのです。霊界に行ってみなさいというのです。自分が立っている所には、必ず上があり、下があるのです。三数を通じなければならないのです。三段階を経なければならないのです。
それゆえ、すべてのものは三段階からなっています。父母に侍らなければならないし、夫婦がいなければならないし、子女がいなければならないのです。子女がいなくては、天理原則に合わないのです。これをぴったりと分けておくと、男性三段階、女性三段階ですが、これを合わせて、統一的な三数の形態を備えて、理想世界が始まるのです。すなわち、おじいさんとおばあさんがおり、お父さんとお母さんがおり、自分がいてこそ、理想的だというのです。
統一教会の家庭倫理はここから始まるのです。(七〇-七六)
三 父母はまさに愛の起源
孤児は父母と因縁を結ぶことができません。人はだれでも愛を受けたく思います。その愛の理想型は父母です。そのような父母の愛を受けたくとも受けられず、また、父母に対して愛したくとも愛することのできない人は不幸せな人だということができます。 いくら孤児よりも百倍、千倍醜い人だとしても、父母に侍り、孝行して暮らすことのできる人は、孤児たちに威張ることができるのです。「おまえに父母がいるのか。いないだろう顔が美しくて何になる。父母もいないのに」と威張るのです。また、「私は醜く、病身だが、おまえは母親もなく、父親もいないではないか」と、いいうるのです。
父母とはいったい何でしょうか。力も頭も世界的なチャンピオンである息子が、たんこぶのような存在である父母を、指一つで片づけ、勝手にやろうとすればできるはずなのに、どうして勝手にできないのでしょうか。それを知らなければなりません。力でも一番であり、頭でも一番なので、力で「こいつらめ」とやりこめることもできるし、頭を使ってもそのようにすることができるのに、そうすることができないのです。
愛の起源がどこでしょうか。愛がどこから出てくるのでしょうか。自分からでしょうか。違います。それは父母から出てくるのです。愛の起源は自分ではなく、父母にあるからです。原因を知らない結果はありえないのです。愛を中心として見るとき、主人が自分ではないことを知っているので、そのようにできないのです。ですから、父母の前に来ては、「はい、お母さん、お父さん、そうです」というのです。
父母が「おまえがいくら名高く、力が強いといっても、お母さんとお父さんの前では道理にはずれることをしてはだめだ」といえば、
三百四十一
「はい、はい、はい、お母さん、お父さん、そうです」というのです。なぜでしょうか。愛があるからです。父母は主体であり、子供は対象だからです。主体は対象のために生き、対象は主体に従わなければならないのが天理原則です。これを破綻させたなら、その家はすっかり無価値な結果をもたらすのです。いくら無知な人間であっても、天性をもって生まれているために、天理原則というものが分かるのです。ですから、いくら外的に力が強いチャンピオンだとしても、父母の前では頭を下げなければならないのです。(五〇-一三五)
人の世は力の争いが続いており、知識の争いが続いています。まだ愛の争いができる時にはなっていないのです。ですから、宗教指導者たちは末世になれば、自分の時が来ると言うのです。その末世になれば、こぶしの力や知識の力の時代はすべて過ぎ去り、愛の力だけが残るのです。そのような後の世界的な覇権時代、その時がまさしく終わりの日になるのです。
力の強いお兄さんが家に帰ってきて、大将の役ができるでしょうか。できません。いくら力の強いお兄さんでも家に帰ってくれば、大将の役ができません。リングでは世界的なチャンピオンになることができても、家に帰ってきては、大将になれないのです。また、博士の学位を数百個ももったお兄さんでも、家に帰ってきて、大将の役ができるでしょうか。できません。なぜ、できないのでしょうか。父母がいるからです。(五〇-一三五)
四 兄弟姉妹が必要な理由 兄弟がなぜ存在するのでしょうか。兄弟がなぜ必要なのかというと、男の人には妹や姉を見ながら、「うちのお母さんがこんなにして育ったんだなあ!」ということが分かり、また、女の人にはお兄さんや弟の意地悪な姿を見ながら、お父さんが育った過程が分かるようになるからです。それが兄弟愛というものです。ですから、兄弟を愛さなければなりません。
そして、父母を愛するように、兄弟を愛することを学ばなければなりません。学ばなくては、愛することができないのです。ですから、兄弟たちをお母さんとお父さんが育ったその時の姿だと思って、愛することによって、あの世に行っても、いつでもお母さんとお父さんを愛することができるのです。恥ずかしがらずに愛することのできる主人になるために兄弟が必要なのです。
では、兄弟たちが、お母さんとお父さんを愛するよりも彼ら兄弟同士がもっと愛し合うのがいいでしょうか、愛し合わないのがいいでしょうか。もっと愛し合うのがいいのです。なぜでしょうか。子女にお母さんとお父さんの育つ時の姿を見せてあげ、彼らを愛することによって、生まれてから死ぬ時までお母さんとお父さんを愛したという立場を立てるための、愛を中心として因縁づけられたそのような兄弟たちなので、そのように考えるのです。
三百四十二
それから、父母においては、子女が多ければ多いほど、お母さんが思うに、男の子たちがあのように意地悪く育つのを見ながら、「ああ、うちの夫はああして育ったんだなあ」と分かるようになるのです。ですから、子供たちを愛することは夫に会う前の夫を愛する立場になるのです。また、男性は「ああ、あの女の子を見ると、お母さんがああだったんだなあ!幼い時のお母さんを見せてくれているんだなあ」と、学ぶのです。彼らを愛することによって、今までのお母さんの全体を愛したという条件が成立するのです。
父母は「おい!男の赤ん坊だけかわいがって、女の赤ん坊はかわいがるな」とはいいません。父母は子女を同じように愛するのです。区別なく愛するのです。ですから、このように兄弟をもつのは家庭に美しい愛の円和、丸い球形を形づくるためなのです。
父母は、兄弟たちが、父母に対するのと同じように、互いに接してくれることを願います。すべての父母がそうです。ですから、兄弟を憎むことはお母さんを憎むことよりも大きな罪です。これが家庭教育において第一条です。今まで、皆さん、兄弟同士争い、仲が悪くなっているなら、行って、宴会をして、満足させてあげ、許してくれといいながら、うちのお母さんとお父さんを愛するように愛し合おうといわなければなりません。
兄弟がお母さんとお父さんの身代わりなので、残されたお母さんとお父さんに侍ろうといって、兄弟が貧しければ自分が助けてあげ、お母さんのためにしてあげたように、してあげるなら、それより美しいことがないのです。そこから天国が始まるのです。(一八四-六五)
五 おじいさんは家の神様の立場 今日のアメリカの制度は、全部、若い人たちの天国であって、おじいさんとおばあさんの天国ではありません。幼児たちの天国ではなく、おじいさんとおばあさんの天国ではなく、若い青年男女たちの天国なので、全部、滅びの地獄の穴を掘っているのです。それは本然の形態に合わないからです。(一〇七-三二八)
アメリカの家庭ではおじいさんが息子たちの家に行くとき、電話をして行きます。人間なら、どちらを好むでしょうか。皆さんはどちらを好みますか。
美しい嫁が白髪まじりのおばあさんとおじいさんに、愛らしい気持ちをもって愛する夫よりもいいものを買ってあげようとすれば、それがどれほど美しく、どれほど愛らしいかというのです。美しい嫁が、老いたおじいさんとおばあさんがしわくちゃであるにもかかわらず、何かを買うのに自分の愛する夫に買ってあげる以上の喜びで買ってあげるその場面がどれほど素晴らしいかというのです。そうなれば、おじいさんとおばあさんは隠してあったすべてのものを、愛に関するすべてのものを全部、与えるのです。
世の中で年をたくさん取ったおじいさんはだれでしょうか。神様です。ですから、そのおじいさんのために尽くす愛を自分のおじいさんから学ぶのです。このような伝統を学び、おじいさんである神様のすべての秘密の倉庫にある愛の宝物を自分がもらうことができるのです。どれほど素晴らしいかというのです。
(一〇七-三二九)
三百四十三
世の中で一番経験が豊かで、豊富な経歴をもった神様がだれかというと、おじいさんとおばあさんです。年を取っているので、あまりたくさん寝ないのです。ですから、「ああ、おじいさんはわが家を寝ずに守ってくれる神様だなあ!私たちを守ってくれるために、こんなに年を取ったんだなあ! しわを見ると、年を取ったなあ!」と、そう考えなければなりません。それが美しいのです。そのようなおじいさんとおばあさん、年を取ったおじいさんとおばあさんに仕えるなら、火事にもならないし、泥棒にも遭わないのです。
おじいさんとおばあさんが寝なくて何をするのでしょうか。祈祷をするのです。「神様、うちの子女に恵みをお与えください。恵みをお与えください」と、祈祷するのです。祈祷して、「おい、だれそれや!おまえ、きょう、出歩いたら危ないよ。言うことを聞きなさい」と、このようにすべてを教えてくれるのです。「きょうは出かけてはいけない!けんかをしてはいけない! 息子よ、どこかに行かないようにしなさい、娘よ!嫁よ!きょうは遠くに行ってはいけない」このように教えてくれるのです。
ですから、孫たちにそのようなおじいさんとおばあさんが必要でしょうか、必要ではないでしょうか。愛をもてば、おばあさんとおじいさんも小躍りし、お母さんとお父さんも小躍りし、兄弟同士も小躍りするのです。このような形態を備えて暮らす人は、宇宙が保護するのです。だれかがその人を殺そうとすれば、自動的に宇宙が防いでくれるのです。(一〇七-三二七)
父母は孫をどこか送ろうとすれば、必ずおじいさんの承諾を得なければなりません。父母の勝手にはできません。おじいさんが神様の立場になるのです。(一〇七-三二六)
六 祖父母と孫との関係
考えてごらんなさい。孫がですね、よちよちと歩き回る孫が家に入ってきて「ああ、おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った」といえば、どうですか。お母さんとお父さんも座っていて、自分の兄弟たちもたくさんいますが、入ってくるやいなや、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」というなら、それがふさわしいですか、変ですか。それはどれほど変でしょうか。言葉もぞんざいに使って。「おじいちゃん、どこ行った」
では、その言葉を考えてごらんなさい。今、八十歳を越えたおじいさんとおばあさんにこれはほんの子供が大胆にふんぞり返って、突っ立って、お父さんとお母さんも全部いるのに、お兄さんとお姉さんが自分よりも立派なのに、そこにふんぞり返って、突っ立って、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」といっても、全部、目をまん丸くして、「おい、こいつめ! この子は! 何だ」と、叱る人はいません。
三百四十四
それはなぜでしょうか。ふつうならば、ほかの所からほかの人たちが来て、そういったなら、「うちのおじいさんに向かって、おまえ、そんなことがいえるか」と、大騒ぎになるはずですが、孫がふんぞり返って、突っ立って、そのような話をすれば、喜びます。「そうか、そうか、おじいさんに会いたいの
か」となるのです。
それが何かというと、おじいさんに対して、「どこに行った」というのが、餅をくれということですか、ご飯をくれというのですか。その内容が問題です。内容が何かというと、おじいさんに会いたいということです。そうなれば、会いたがるのはいいことですか、悪いことですか。それはいいことだというのです。
天下が会いたがり、また、会いたいと同時にその次には、どうしたいのですか。じっと四方を見渡しても、お兄さんをじっと見て、お姉さんをじっと見ても、今、どこかの膝のところに行って少し座りたいのに、こちらを眺めても、あちらを眺めても、お兄さんの顔色をじっとうかがって、行って三分だけ座れば、追い払われるのが分かり切っているのです。また、お父さんもよく見ると、忙しくて疲れたお父さん・・。それは皆、経験を通して知っているのです。行って、お尻を載せて十分だけ座っていても、嫌がります。それは、皆、測定感覚が早いのです。さっと見て・・。
けれども、おじいさんは、おじいさんをよく見れば、おじいさんのように年を取った人たちは、膝に座れば、一時間座っても、じっとしており、二時間座ってもじっとしているのです。そのように座っても、家族の中で一番自分をたくさん抱いてくれるのです。抱いてくれて、「この子はどうで、この子は耳がどうで」といいながら、触ってくれるのは嫌ではありません。整えてくれ、なぜてくれ、触ってくれ、あるときは、触らないところがないくらい、すべて触ってみますが、それでも嫌ではありません。それがどれほどすてきですか。どれほど素晴らしいかというのです。それは木の一番てっぺんが、本の幹のてっぺんが根と一つになろうという、その話と通じるのです。
では、中心の根と中心の芽とが愛し合うようになれば、どのようなことが起こるでしょうか。そこにつながったすべての根とすべての枝は、愛し合うまいとしても、愛し合わざるをえなくなるのです。それを考えてみなさい。中心の芽と中心の根とが愛し合うようになれば、それが何かというと、全体を抱くことのできる因縁だというのです。このように見るとき、根の中で中心の根が家庭の中でだれですか。孫、長男の長男だというのです。それゆえ、おじいさんはいつも目を開けて長男の長男を見上げ、また見下ろすのです。これを知らなければなりません。(一三九-一五)
七 家和万事成の真なる意味
わが東洋の教訓の中で「家和万事成」という言葉がありますが、それはとてもいい言葉です。家といえば、そこはもちろん人が中心になっています。おじいさんとおばあさん、父母、子供、このようにいますが、それだけではありません。家自体は万物を縮小したものです。そこにすべて集まっているのです。
三百四十五
そのように考えるとき、わが家といえば、ふつう「そこは父母がいるところであり、妻子がいるところである」と考えるのです。しかし、わが家といえば、それだけではないというのです。おじいさんとおばあさんがいて、そのほかにも家があり、庭があり、すべてのものを縮小したものの中に環境がよく調和しています。そうしてこそ気分がいいのです。合わない環境に、うちのおじいさんとおばあさんがいれば、気分もよくないのです。
おばあさんとおじいさんが互いに向かい合いながら笑う姿は、若い夫婦がうれしくて、大声で「へへへ」と笑う姿とは比較できません。「ほっほっほっ」といいながら、しわが寄ったおじいさんとおばあさんが笑う笑みはすてきだというのです。知らないからそうなのであって、全部、和合する、互いが相応する立場で笑うそのおじいさんとおばあさんの笑みがあることによって、すべてのことが和動するというのです。おじいさんの笑いは深くて、「はっはっはっ」と笑います。手ぶりをしても、動作はのろいのですが、広く、気高く、深く、大きくするのです。
すべてのことが上・中・下の三段階で連結されてすべての調和が始まらなければなりません。それゆえ、調和というものは一線上の二点では成されません。二点を通過するものを線といいますが、二点上では調和の美がないのです。直線なのにどうして調和の美が生まれますか。ねじれ、曲がっていてこそ調和が生まれるのです。それゆえ、三点以上を経る、ここに調和が生まれるのです。ですから、おじいさんがいるかと思えば、中間にお父さんがおり、次には、その下がいます。だいたい家庭を四代として見るのです。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、それから自分の夫婦、それから子女がいます。
層々侍下(父母・祖母など世話すべき人が元気でいること)という言葉があるではないですか。層々侍下が何層になるでしょうか。いくら多くとも、もちろん四代、五代まで暮らす家庭がときどきあるでしょうが、ふつうは四代です、四代。おじいさん、お父さん、それから私たち、子女、このようになっているのです。こう見れば、私たちの統一教会の原理は三段階です、三段階。蘇生、長成、完成。
ですから、「和」する家庭、「家和万事成」といいますが、その「家和」になれば、なぜ「万事成」でしょうか。「家和」になれば、すべてのことが成されるというのですが、なぜそうでしょうか。言葉でだけでそうでしょうか。詩的で詠みたくてですか。そういうことではありません。違います。「家和」、これはおじいさんとおばあさんを中心とした四代が上に、下に、東西南北に、前後左右上下に和合して、笑顔の花が咲くことをいうのです。(一三九-一二)
第三章 家庭は天国の中心模型
一 家庭はすべての存在の中心モデル
人が空間の世界に立つようになれば、必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。それでこそ自分の存在位置が確定されるのです。皆さんが上下を正しく備えているか、左右、前後を正しく備えているかによっていろいろな姿になるのです。
三百四十六
皆さんの上下、左右、前後関係、そして家庭の問題や国の問題、世界の問題を扱う上で、公式は一つです。個人を中心として上下、左右、前後があるように家庭でも父母と子供がいなければならないし、夫と妻がいなければならないし、兄弟姉妹がいなければならないのです。同じように、国にも国の主人を中心としてすべての家庭が東西の文明、南北の文明をすべて抱き、その次に世界万民を兄弟姉妹のように抱き、結局一つの家庭モデルを実現するのです。モデルは同じです。そして私自身がそのモデルの中心です。
自分がいて次には自分の家庭がなければならないし、国と世界と天と地、そして神様まで行かなければならないのと同じ道理です。皆さんは宇宙の中心になりたい思いがあるだけでなく、皆そのようになることができます。
このように宇宙においてその核のようなものが家庭の概念です。天を父母と見れば地は子女です。東西を見れば東方は男を象徴し西方は女を象徴するので、女は結婚することによってどこでも夫の位置に従っていくのです。西方が太陽の光を浴びて光り輝く時東方と同じ価値をもつのと同じです。兄弟関係も同じです。長子である兄さんを中心として行動するとき、弟たちが協力するようになるのです。
ですから人間は親子の関係がなければならず、夫婦関係、そして兄弟関係がなければなりません。すなわち、この三つの関係が一点で結ばれなければなりません。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が違ってはいけないというのです。この中心点が違えば上下、左右、前後関係の均衡がみな崩れるというのです。それで結局上、下、左、右、前、後、そして一つの中心点まで全部で七数をなすようになるのです。 このように七数を成すというのはまさに神様を中心として完全な真の愛で一つになりこのすべてが完全に球形になって、調和と統一を成す家庭になるというのです。私たちがよくラッキー七というのもこのような観点から一理あるというのです。
真の愛が永遠に変わらない限りこの中心核も変わらず、永遠に回るようになり真の家庭の理想が成されるようになります。またすべてのものが核から連結されるのでこの中心核から一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、全部が同等です。おじいさんが願えば孫が反対せず、息子・娘もそれを願うようになり三代がみな共に願うようになるのです。おじいさん、おばあさん、夫婦、息子、娘みんな中心に合わせるようになります。
この愛を中心として見るとき、親子の関係も一つなので一体と言うし、夫婦関係も一体と言うし、兄弟関係も一体と言います。一つの体です。何を中心としてこのょうな関係を一体と言うのかといえば愛の中心である神様の真の愛を中心として言うのです。真の愛を中心として父母と子供が一つになり、夫婦も一体となり、兄弟姉妹も同じです。このようになることによってすべての価値が同等になります。(祝福家庭と理想天国I-五七)
二 家庭は宇宙の愛に接する愛の教材
三百四十七
宇宙とは何でしょうか。被造世界のすべてのものは神様が愛する息子・娘が愛の理想を求めていけるように教材としてつくっておいたものです。それですべてがみな相対的な構造です。鉱物も主体と対象の関係で作用します。原子もそうです。陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなくては存続することができません。運動をせずしては永続、存続ができないというのです。ですから宇宙は人間を中心としてその重点に到達できるように創造された世界だというのです。(一三七-五九)
宇宙とは何なのでしょうか。家庭を拡大したものです。家庭の愛を完全に成した家庭を見れば上中下(父母・夫婦・子女)がいて、左右がいて、前後がいます。これが原則です。それで上下を言うときは父母と子女のことを言うし、左右を言うときは夫と妻のことを言うし、前後を言うときは兄弟のことを言います。このような全体が何によって一つになるのでしょうか。力でもなく知識でもお金でもできません。ではどんなものでできるのでしょうか。愛です。間違いのない真理です。そうでなければ球形にならないのです。
それなら上中下は私たち家庭において何なのでしょうか。愛の教材です。宇宙の愛に接することのできる愛の教材です。そのようなことを社会に出てしなさいというのです。どのように愛さなければならないのでしょうか。イエス様も「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言いましたが、どのようにすればいいのでしょうか。漠然としています。
世の中に出ていっておじいさんに接するときは皆さんのおじいさんのように対しなさいというのです。お母さんのように対し、お父さんのように対し、息子のように対しなさいというのです。世の中に出れば、みなそのようにしなければなりません。上中下と前後左右の人が世界という展示場に展示されています。人の博覧会が世界だということを知らなければなりません。皆さんがそのような愛を持ってすべてのものを愛することができればその中に神様が共にあります。(一二八-二三)
天国とは何でしょうか。自分の家庭のように世界の人々を愛することのできるところが天国であり、そのような人が天国の民です。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、自分の妻、兄弟、子女、この四代は何でしょうか。天の国の民として愛を、宇宙の真の愛を体験するための教材としての家庭です。教材として私に教えてくれる基盤が家庭だというのです。(一二九-九八)
私たちは宇宙の愛を習わずしては生きられません。神様は教本や経典のようなものをつくって「あなたのおばあさんとおじいさんを愛しなさい。地上にいるおばあさんとおじいさんは霊界のおばあさんとおじいさんを代表して送ったのでそのおばあさんとおじいさんを愛することは全体を愛することにしてあげる」と公約するのです。
その次には「あなたかお母さんとお父さんをこの上なく愛することはこの世界の数多くのお母さんとお父さんを代表する教本のように愛するモデルにしたので全体を愛した条件にしてあげる。また男性として女性を愛したことは世界の男が世界の女を代表的にまとめて愛したこととして見てあげる」というのです。
三百四十八
またその次は「あなたの息子・娘を愛したことで全体の息子・娘をみな愛したことにしてあげる」というのです。ですから家庭はその訓練を受ける訓練所です。経典による世界の愛の訓練過程ですが、その訓練を受けた人に今からこの世に一度出て皆さんのおじいさんとおばあさんの代わりにこの世のおばあさんとおじいさんを愛することができるのかというとき「イエス」と言えば、それは世界を救うことができるのです。(一三〇-二七三)
三 愛の王国に入籍するための愛の訓練場
愛の王国を実現したいのが神様のみ意です。愛の理想世界を発展させ世界化させようとするのが神様のみ意だというとき小学校卒業から大学の学士・博士卒業までパスすることのできる実験場がどこかといえば家庭です。
家庭を拡大すれば世界です。世界をよく見てみるとおじいさんとおばあさんが住む世界、それからおじさんとおばさんが住む世界、兄さんと姉さんのような人たちが住む世界、青少年たちが住む世界、子供たちが住む世界があります。ですから老年から壮年、中年、青年、少年たちが住むここが、形が大きいだけであり数が多いだけであって家庭を拡大させたものです。(一四七-二八一)
家庭は天国に入ることのできる小単位の修練所であり、教材です。そこにはおしいさん級、お母さん級、夫婦級、兄弟級が皆あります。これをおじいさんとおばあさん、あるいはお母さんお父さんの年齢、その次には自分の年齢、息子・娘の年齢に拡大させたのが世界人類です。この人類を自分の妻のように愛し父母のように愛し、息子・娘のようにために生きることのできる家庭だけが天国を相続できるのです。これは驚くべき事実です。神様がつくられた天と地のすべての権勢を相続できる特権がここにあるのです。(一四三-二八五)
家庭は死ぬとき天の国や平和の王国に入籍する手続き権を得ることのできる愛の教科書です。家庭が愛の修練場だというのです。この家庭を拡大したものが世界です。おじいさんのような世界があり、おばあさんのような世界があり、お父さんとお母さんのような世界があり、夫のような世界があり、妻のような世界があり、息子・娘のような世界があるというのです。これを拡大すればそのまま世界になるというのです。ですから自分の家庭を愛するように、その家庭を中心として神様を愛するように全世界の人々を愛すればそれが天国にまっすぐ行く道になるのです。
したがって「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして主なるあなたの神を愛せよ」というのが第一の戒めです。第二は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というものです。神様を愛し人類を愛せばすべて終わるのです。それができなければいくら修養しても意味がありません。宗教でいくら修業を積んだとしても神様を愛することを知らず、人類を愛することを知らず、全宇宙を愛することを知らないならばすべて落第になるのです。
家庭で全体宇宙を縮小させた修練所のような公式過程の愛を体験して拡散させ、世界を
三百四十九
愛さなければなりません。そうすることのできる訓練場として引き継いだのが皆さんが育った、お父さんとお母さんが住む家庭だというのです。
ですから自分の妻を愛する以上に父母を愛し、自分の妻を愛する以上に息子・娘を愛し、自分の妻を愛する以上に人類を愛し、自分の妻を愛する以上に神様を愛するならすべてオーケーです。だからといって自分の妻を捨てろというのではありません。そのようにみんなを愛するようになればその愛を受けたすべての人々が自分の妻を愛するようになるのです。それ以上の栄光の場がどこにあるでしょうか。自分の妻を愛そうとするならば、そのようにしなさいというのです。(一四二-二四二)
四 家庭は天国の模型教科書
子女の立場にいる人はどんな運勢を受けなければならないのでしょうか。祖父母と父母の運勢を引き継がなければなりません。祖父母はなぜ必要なのでしょうか。過去を代表するからです。祖父母は過去の生きた歴史を代表します。その次に父母は現在を代表します。それから子女たちは未来を象徴します。そこには東西も入っているし、南北も入っています。そして全体の中心です。祖父母の中心、父母の中心、子女の中心、神様の中心、このすべてのものが真の愛を中心としたものです。
ですからおじいさんを愛しおじいさんを尊敬するのは過去をすべて引き継ぎ、過去の世の中を学ぶことです。お父さんからは現在を学ぶのであり、子女を愛することは未来を学んでいくことです。おじいさんとおばあさん、お母さんとお父さんを通じて何を引き継ぐのでしょうか。真の愛を引き継ぐのです。おじいさんとおばあさんは年を取っていますが二人が真の愛に一つになっており、お母さんとお父さんが一つになっているので私たちもあのようになって未来を引き継ごうというのです。ですから絶対に真の家庭にならずしては未来を引き継ぐことができないのです。
家庭のこの三つを見る時、それは宇宙を見るのと同じです。宇宙の愛は現在と未来を代表した真の家庭にあるのです。動物世界を見ても雌を愛し雄を愛しますがこれは宇宙の愛を学ぶことのできる教科書です。おばあさんがいなければ不安定です。おじいさんがいなくても不安定で、どちらがいなくても同じです。このようになればそのまま天の国へ移っていくのです。祖父母、父母、子女がそのまま天国に行くのです。真の祖父母を愛し、真の父母を愛し、真の子女、真の家庭、真の国家、真の宇宙を愛した人が天国に行くのです。その模型教科書が家庭です。(一六二-一四〇)
350 * 三百五十
家庭は天国をつくることのできる教材です。天がつくっておいた教材です。世界にいるおじいさんの年齢の人をみな自分のおじいさんのように愛すればその人は天国に行くようになっています。自分の父母のような年齢の人を自分の父母のように愛すればどこに行っても通じます。万国共通です。霊界に行っても境界線ができないのです。万国の若者を自分の子女だと思う心をもてば彼は十二の真珠門があり方向があっても天国のどこでも通じるのです。ですから家庭というのは天国と因縁を結ばせるための教材です。 それを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心とすれば神様の子女、聖子になるのです。人はみな、そのような欲望をもっています。(一三七-七八)
皆さんは五色人種の子女を抱きその孫たちを抱くことができなければなりません。ですから神様の真の愛をもって真の父母として世界人類を愛する家庭の主人になったという立場に立たなければなりません。神様の愛を中心とした本然の父母の因縁の中で真の愛の家庭基準を代表することのできる立場に立つことによって、初めて天国に入ることができるのです。(一七六-二一〇)
五 家庭は三時代の愛が結集した核心体
歴史を抱き、時代を抱き、未来を抱くことができるのが家庭です。ですから神様が今まで六千年を経ながら求めてきた後の基点は何でしょうか。家庭です。その家庭は愛が連結された、愛によってすべてが結束された家庭です。存在するすべてのものはみなこれに主管を受けるのです。根源的な愛、絶対的な愛との関係を離れることはできません。このような家庭をつくるのが神様が創造当時にアダムとエバにくださった本来の使命ではなかったのでしょうか。
神様は男性アダム、女性エバとして終わるのではなく互いに結合した新しい家庭を夢見られたのです。これが神様が男女を立てられた第一次的な出発の起源です。ですから家庭を求め、家庭圏内で神様の愛を中心としてこの世で充足感を感じることのできる境地に入って生きてこそ天国も無事に通過するのです。そうしてこそ、この世界も切り抜けられます。(三〇-八六)
愛の家庭園を形成するためには絶対的でなければなりません。父母は歴史に代わることができるものであり、夫婦は時代に代わることができるものであり、子女は未来に代わることができるものです。自分が一つの時代で一人の相対を愛することは、神様が世界に対されるのと同じことです。ここで父母と夫婦と子女が一致し、天雷を代表して私たちの愛を見習いなさいと言うことができるし、後孫たちに対して私たちに従いなさいと言うことができるし、内心や外心で主張できる心の本郷、天情が通じるそこは天地に記憶されることでしょう。(三〇-八〇)
今まで神様は何を探してこられたのでしょうか。主体を探してこられたのではありません。理想的な対象を探してこられたのです。神様に似て、ご自身がつくられた世界の内外の内容を備えているものを探してこられたのです。このような結果的な一つの基点が何でしょうか。家庭です。家庭より宇宙を代表することができるものがないのです。
三百五十一
父母と一つになることは歴史と現実が出会うことです。ここで「私」は父母を愛することで過去を愛することができるし、相対を愛することで現実を愛することができるし、子女を愛することで未来を愛することができます。ですから私は、三時代の愛を体験することができるのです。三種類の愛が結集した核心体がまさに家庭です。(三〇-八〇) では天国生活はどこからでしょうか。家庭からです。他のところから始まるのではありません。天国は家庭を立体的に拡大させただけであって、家庭園を離れたものではないというのです。ですから皆さんが自分の妻や夫を抱くときにはこれは世界の男性と女性が一つになるのだと思わなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立てることのできる場が、まさにこの家庭なのです。
皆さんはそのように生きていく道を求めなければなりません。父母を愛することは歴史と現在を連結させることであり、神様が訪ねてくることのできる道を整えることです。ですから父母を愛さなければなりません。歴史的な存在と時代的な自分を連結させること、すなわち過去と現在を一つにすることが父母を愛することです。また自分を中心として子供を愛することは、現実と未来を連結させることです。そしてこのような愛を千年万年たたえるようにしようという思想が統一思想です。(三〇-八三)
六 家庭は心情的な訓練場所
私たちは心情を離れては生きられません。自分が大統領だとしても、あるいは世界的なすべての権威をもったとしても心情的な喜びを表せるところがなければ生きられません。自分が率いる人たちや閣僚たち、あるいは追従する人たちには心情的な満足を感じることができません。それは家庭で感じなければなりません。
家庭に帰ってきて夫婦が互いを通じて喜びを感じ、また子女を通じて喜びを感じることができなければなりません。そうしてその喜びを他の人に誇ることができなければなりません。その喜びは第一次的な喜びであって二次的な喜びではありません。神様も同じです。この世界をすべて復帰したとしても家庭のない神様は喜ぶことができないのです。結局、家庭がなければならないのです。(二五-八六)
家庭では父母を中心としなければならないし、社会を代表する教育機関では先生を中心としなければなりません。父母は自分に乳を飲ませて育て、すなわち生理的な発展を助け、それで情緒的な面を助けてくれるのです。では、学校は何でしょうか。社会的な生活、将来の生活舞台を中心として訓練させるのです。家庭が情緒的な訓練場なら、学校は社会においての実験的な訓練所です。
社会で終わるのではありません。それがどこに行って帰結するのでしょうか。国に帰結します。国には国王がいます。人々がみな大統領を慕い、大統領の近くにいようとする理由は何でしょうか。家庭から社会まで、すべてのことを知ってから、それからどこに行くのかというと、もっと大きなところに行くのです。
三百五十二
大統領といえば蘇生、長成段階を越えて三つ目の段階の結実です。種が根から始まって循環作用をして分かれます。分かれてここで統合され花が咲き実を結ぶのです。ですから学校も国のための貴重な棟梁、人材を養成し国に必要な人を育てなければならないのです。学校でする勉強とは何でしょうか。訓練です。ですから学校は訓練場所、実験場です。訓練は実戦ではなく準備段階です。準備を誤ってはなりません。
家庭とは何でしょうか。心情的な訓練場所です。愛を中心として心情的に訓練する場所です。ですから情をもって兄弟のように学校で生きなければならないし、情をもって国でも兄弟のように生きなければならないのです。父母のこのような教育は学校のための教育であり、社会のための教育であり、国のための
教育になるのです。
父母は情緒的なすべてのことを子供たちに伝授してあげなければならないのです。父母が生きたのと同じように家庭ではこのように生きなければならないし、社会ではこのように生きなければならないし、国のためにはこのように生きなければならないという情緒的なパターンを築いてあげなければならないのです。(一八〇-一三〇)
皆さんが家庭のことを見るとき、家がよく、その周りの環境がいいからといっていいのではありません。反対にいくら環境が悪く、家がみすぼらしくてもそれを安息所として、そこに自分の事情と生涯と生活のすべての基準を因縁づけようとする家庭がいい家庭なのです。そこには親と子の間に、互いにために生きようとする心情があります。これが思い出の本郷であり、すべての生活の動機になるので私たちの生活において幸福を左右する基礎になるのです。(二九-一七)
七 人間の永遠の本郷は家庭 家庭、家庭はいいところです。どうしていいのでしょうか。お母さんとお父さんがいるからいいところであり、お姉さんとお兄さんがいるからいいところであり、弟妹がいるからいいところであり、親戚がいるからいいところなのです。ですから人間なら誰でも本郷の地、故郷を懐しがる郷愁の心情をもっているのです。国よりも故郷にもっと想いを馳せます。大韓民国で暮らしながらも懐しがるところが故郷です。大韓民国が好きで大韓民国に住みたく思いながら、また大韓民国で暮らしながらも懐かしいところはどこでしょうか。故郷です。故郷。故郷なのです。
故郷はどのようなところでしょうか。私の心情を四方に、立体的に全部引き上げるところです。その心情とは何でしょうか。愛で結びつけるものです。上には父母が結びつけられ、左右には夫婦の因縁が結びつけられ、下には子女、親戚が立体的な愛で堅く結びつけられているところが本郷です。人は愛を中心とした幸福の基点を高に望むので本郷を慕わざるをえないのです。
では神様の本郷はどこなのでしょうか。この地球星において神様の本郷の地はどこなのでしょうか。これは考えなければならない問題です。愛の神様ならこの地上で生きていける基点を必ず準備されたはずですがその基点はどこでしょうか。それを知るためには神様がその基点を準備するためにどのようにしてこられたのかを知らなければなりません。
三百五十三
神様の家庭を準備することのできる本郷の基点になりうるところはどこなのでしょうか。他のところではありません。神様を本当の父だと思う息子がいるところです。すなわち、神様の愛を独占することのできる息子、ひとり子がいるところです。またそのような娘がいるところです。そうしてその息子・娘が結婚して完全な家庭を築くところです。(二三-一五一)
ではその本郷の地には誰がいなければなりませんか。見たい人たちがいなければなりません。父母がいなければならないし、兄弟がいなければなりません。また会いたい方がいなければなりません。またそこにはいっしょに住みたいしいっしょに住みたいのに一瞬会うだけでいいでしょうか。ちょっとだけ会って済むでしょうか。彼らに会って彼らと共に住むにおいては永遠に永遠にいっしょに住んでも嫌になってはいけません。そのようなところを探していかなければなりません。そこが今日、宗教で目指す天国なのです。(二三-八一)
今日私たちが本郷の地を慕うのは、その本郷にはどこの誰よりも近い父母がいるし、兄弟がおり、親戚がいていつも私を導いてくれ、また私がいついかなる時に訪ねていっても私を昔のように迎えてくれ、私に困難なことがあればその大変な事情に同情し慰労してくれ私を喜んで迎えてくれるからです。もしそれがなければ本郷が懐かしく好きで訪ねていっても切実に慕っていた当時の心情はなくなりかえって嘆息の条件をもって帰ることになることを知らなければなりません。本郷の地には必ず迎えてくれる人がいなければなりません。(二三-八〇)
八 家庭は天宙主義を完結させる 最終基準
すべてのものは一つから多くのものに分かれて結局一つの大きなものに統合されます。すなわち一つからいくつかに分かれてから一つに統合されるのです。ここでまた分かれてより大きなものになるのです。そこには家庭がありますが形態は統合される前と同じです。家庭は夫婦を成したところであり、その夫婦を一つにするところです。氏族は家庭を一つにするところであり、民族は氏族を一つにするところです。民族が集まって一つの国家の前に全部入ります。ここにおいてはどこまでも家庭が中心になります。この家庭を展開させれば横的な世界になるのです。ですからどのような社会であったとしても家庭を除くことはできないのです。
家庭を復帰することができなければ世界を復帰することができません。その次にはその家庭を中心として天宙主義を成就しなければなりません。天宙は天と地を総合したものです。天と地は人間において心と体のようなものです。心と体が一つにならなければなりません。一つの主体があれば一つの相対が必要なように一人の男性には一人の女性が必要なのです。男性と女性が一つになるのが家庭です。この一つの家庭を中心にしなければ神様の愛の基盤が定まりません。
三百五十四
天宙主義というのは心と体を合わせたのち、神様の愛の本体となる家庭を築いてその理念を霊界と肉界に連結させる主義です。天宙の宙という字は家を意味する字です。家を表す宙です。ですから天宙主義という言葉を使うのです。天宙は無形世界と実体世界を合わせたものです。これが私たちとどのような関係があるのでしょうか。私たちは家庭が必要です。皆さんが家庭で一つになれなければ天宙主義とは関係がないのです。家庭が天宙主義を完結させる終基準になるのです。ここで平和の歌を歌うことができず幸福をたたえられない人はこの地上でも霊界に行っても不幸な人になるのです。(二六-一八九)
天国はどこから成されるのでしょうか。私たちの家庭から成されます。では私たちは何主義でしょうか。家庭主義です。私たちが標榜する天宙主義は天の字に家を意味する宙の字、すなわち天の家主義だというのです。このようになってこそ天宙という意味がはっきりするのです。ですから聖書六十六巻はすべて理想的な家庭を願ったみ言です。
また万民が願うものは何でしょうか。理想的な妻をみな迎えることです。また女性として生まれても願うことは理想的な夫に出会うことです。女がいくら学士博士になって世界に大言壮語するとしてもその願いは理想的な男性に出会うことです。愛することのできる理想的な男性に出会って恵まれた子女を生むことです。これが幸福の根です。統一教会の理想は他のところにあるのではありません。出発も家庭であり、結論も家庭です。(二六-一〇三)
では天宙主義とはどのような主義でしょうか。真の父母主義です。結局この二つの主義は父母の主義です。これはわが家の主義であり、わが国の主義であり、皆さん個人の主義です。人間が堕落しなかったならば世界は誰の主義になるでしょうか。アダムの主義になるのです。そのアダム主義がまさに真の父母主義です。父母主義だというのです。これ以上の他の主義はありえないのです。ですから統一教会は心情的な問題をこの本然の理想的な家庭の範囲の中で真の父母という理念を中心として天主義と結びつけなければなりません。このような理念で制度化された家庭の因縁が残っている限り統一教会は滅びません。
(祝福家庭と理想天国I-五〇二)
第四章 愛を中心とした人生行路
一 人間はなぜ生まれたのか
生命が先か、愛が先かというとき、互いに先だということができますが、果たしてどちらが先でしょうか。愛が先です。宇宙の根本は、存在起源に先立って愛の流通がなくては、存在価値が出てくることができません。(祝福家庭と理想天国I-一〇六二)
私たちの生命の起源がどこなのかを見るとき、生命が先か、愛が先かが問題です。今までこれを見分けられませんでした。生命が先ではなく、愛が先です。先どなったものの前に、次となったものは順応しなければならないので、愛のためには生命を捧げるのが当たり前なのです。このように、これは収拾しておかなければなりません。そうすれば、人生を真に生きる道はどこなのかという結論が出てきます。
三百五十五
生命が愛から生まれたので、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければならないという結論が出てきます。小宇宙ではなく大宇宙が歓迎できる愛を探して、神様が公認し、天使世界が公認し、万物が、ひいてはわが父母が公認できる大宇宙愛の中に現れ、その中で愛し、死んでいくのが人間が生まれた目的だと見るのです。
人間とは、自分が希望して生まれた存在ではありません。それなら、お父さんとお母さんの希望によって生まれたのでしょうか。そうではありません。神様の希望によって生まれたのです。神様の身代わりである父母の愛を通して生まれたのです。神様の身代わりである父母の愛を通して、新しい生命体として生まれたのが「私」です。そして、愛は全体を創造する力をもっています。宇宙の愛のすべてを受けて、全天宙の中心的な存在として生まれたのがまさに「私」です。
愛によって生まれ、愛によって育てられ、愛によって生き、また愛を残すのが人生において高の目的です。自分の家庭で、天宙の中心である愛の使命を果たすことが も価値あることです。人がなぜ生まれたかということを知らなければなりません。人は、知識や権力ゆえに生まれたのではありません。人は、愛のために生まれました。また、愛から生まれました。それでは、愛は何ゆえにそのように偉大なのでしょうか。それは生命の源泉であるからです。
皆さんは父母の愛の中から生まれたのです。お金を数えたり、知識をたたえる所から生まれたのではありません。このように愛の中で生まれたので、愛によって結実しなければならないのです。ですから、子供が必要なのです。夫婦が一つとなり、息子・娘という相対がいるとき、完全なのです。 人間自身も愛を離れては存在することができないのです。ですから、「私」の存在は、愛を元として生きていくといえます。すべての万物も、その存在の始まりが神様の愛から出発しています。万物の存在が愛を元として始まったとするなら、彼造世界の中心存在である人間は、より一層愛によって出発した存在だということを否認することはできないのです。人間は愛から出発し、愛によって円熟するため、愛の基準を離れては生きることができない存在なのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇六二)
二 愛を中心とした創造本然の人生
人間というものが存在するようになった原因は何でしょうか。人間は愛から始まったのです。それでは、人間存在の目的はどこにあると考えますか。人間という存在の目的は愛の理想を完成することです。人間が愛を原因として存在するようになったので、愛の基台を成して、拡張させ、連結して完成することが目的となるのです。
すなわち、出発が愛なので、目的も愛をもって到達しなければならないというのです。そうしながら、相対的関係にある男性と女性が愛を中心として一つになり、前後・左右・上下に連結させることができなければなりません。
三百五十六
私たちがいくら絶対的な存在を確定し、いくら絶対的な目的を確立したとしても、そこでうれしくなければ何の役にも立ちません。生きて生活するのがうれしくなければなりません。生活するのは目的のためにするのです。その目的を成就したとき、そこには存在、それ自体以上の新しい何かがあることでしょう。
それは何でしょうか。
男性なら男性、女性なら女性を中心として見るときに、彼らに何よりもも貴いものは何でしょうか。愛です。愛だけがこれと連結させることのできる幸福の要因となるのです。人が目的をいくらよく立てたとしても、その目的を主管すべき主体的な愛の権威を立てられないようになるときには、再び新しい目的を追求しなければなりません。目的の限界点が愛より上にはなり得ないのです。
皆さんは何ゆえに生きていますか。食べるためにと答える人もいるでしょうし、あるいは仕事をするために、または何の目的もない生を生きているという人もいるでしょう。人間は何のために生きるのでしょうか。愛のために生きるというなら、どれほどすてきな答えかというのです。人間は愛の結実として生まれ、愛し合いながら生き、永遠なる愛の神様の懐に帰るようになっているのが、創造本然の生なのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇六四)
愛によって生まれ、愛の中で成長し、さらに異なる次元の愛に連結されるのは、父母の愛を離れ、相対の愛を求めていくことなのです。父母の愛は蘇生的愛ということができ、夫婦の愛は長成的愛ということができます。夫婦同士がいくら愛し合っても、子女がいなければ愛の完成を見ることはできません。それゆえ、子女を願うのです。これが完成的愛です。ですから父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を経る過程が生涯の根本であり、神様の創造的愛の理想の根本の道です。(四八-二)
生命は愛から生まれます。愛から生まれ、父母から愛を受け、愛によって成長して、愛する妻に出会ってまた愛し合い、その愛の中に死んでいきますが、これが人生だというのです。ですから、悲しみと苦痛があり得ないのが本来の人生だというのです。
本来の宇宙の根本位置は、愛を中心として総合的に縦横に同時に結合することのできる基準となることによって、父母の愛と夫婦の愛、子女の愛が結合することのできる根本位置となります。その位置は全宇宙が集中する位置となり、全宇宙細胞の方向が集中する位置となります。霊界のすべての善霊たちが全部ここに集中します。
それだけでなく、この位置を誰も侵犯できないよう、保護するようになっているというのです。ですから、この位置が破壊されるなら、大変なことが起こるようになります。ですから、完全に保護されるためにはある形態が必要なのですが、その形態を統一教会の用語で四位基台というのです。(祝福家庭と理
想天国I-一〇六六)
三 人間の永遠なる生命の要素は愛
三百五十七
人間は胎児でいる時、お母さんから供給される栄養を受けただけでなく、愛を供給されたことを忘れてはならないでしょう。それと同じように、地上で暮らしている人間たちも、宇宙(自然)から物質的な栄養を供給されているだけでなく、生命の本質的要素である愛を神様から供給されているのです。
すべての植物が太陽の光を生命の要素として吸収するのと同様に、人間たちには愛が生命の要素となるのです。私たちの希望は、永遠に愛と共に欽慕しながら暮らすことのできる地上天国や天上天国が建設されることです。
人間は生まれる時、愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら成長するようになります。しかし、ある程度まで成長すると、父母の愛だけでは不足になり、兄弟間の愛と氏族の愛を中心として、横的な愛を広げ始めるのです。すなわち、天地間のすべての愛を受けながら、成熟していくのです。特に思春期に近づくと、異性間の愛を求めるようになりますが、異性間の愛によって総合的な愛の圏内に進入するようになり、初めて愛の中心を求めていくことができるようになるのです。
男性や女性が行く道は、愛ゆえにあるのであり、愛のためにあります。「私」の道は愛の道です。愛を得るために、愛を守るために、愛の環境圏を成すために行くのです。
女性が化粧をしたり、マッサージをするのも愛のためです。何かを願うのも、仕事をするのも、すべて愛のためなのです。高貴な愛を得るために苦難を勝ち抜いていくのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇六六)
私たちは生まれる時から父母の愛を受けるのであり、父母が生存している限り、少年時代、青年時代、壮年時代、どの時代を問わず愛するのです。父母の愛を受けて成長するようになれば、横的な夫婦の愛が各自に生じるようになっています。
結婚とは何でしょうか。男性は女性について知らなかったことを学ぶために、女性は男性について知らなかったことを学ぶために家庭という学校に入学するのです。すべての履修単位がAプラスになってこそ、夫も喜び、妻も喜ぶことでしょう。息子・娘を産むのは、世界を愛する方法を学ぶためなのです。息子・娘がいなければ未来と連結されません。未来の世界と連結することのできる教育の材料として息子・娘を与えたのです。
そして、先祖たちやおじいさん、おばあさんの前に孝道するのは、霊界からの教育を受けるためであることを知らなければなりません。このすべてのものが、愛を中心として連結されます。おじいさんとおばあさん、夫と妻、息子・娘が一つの愛を中心として全部連結されているのです。
この愛をもてば霊界の千万代の先祖までも上がっていき、降りてくることができ、遠い後孫までも通じることができるのです。つまり、これが霊界の組織であり、宇宙の組織だということを知らなければなりません。愛の僕となり、愛の奴隷となるのが大の幸福だということができます。(祝福家庭と理想天国I-一〇六六)
四 神様の愛はどのようなものか
三百五十八
皆さんが神様の愛を一度探ってみてください。神様の愛を何と表現することができるでしょうか。それは、さながら暖かい春の日和に、空には白い雲がふわりと浮かんでいて、地にはかげろうがぼんやりと立ちのぼり、虫が出てき、アリたちも世の中を見物しようとちょろちょろと出たり入ったりし、さらさらと流れる小川のほとりにはコウライ柳がもえいで、蛙は春の日和の新しい歌を歌い、群れになって飛んでくる蜂、蝶が喜ぶ、そのような環境と同じです。そのような環境に酔って眠り込むようですが、眠り込まず、気分がよくて永遠にいいということのできるそのような味だというのです。
神様が探される理想相対を中心として感じる気分は、蝶が飛び、蜂が飛んでくる花の園のようなものです。これは考えただけでも気分がいいですか、悪いですか。この鈍い男性たちはそれを知らないでしょう。それは気分がいいというのです。
懐かしい人に会えば、手をぎゅっと握って握手をします。握手するとき、懐かしくて「ああ、これは久しぶりだね」と言いながら手をぎゅっとつかめば、気分がいいですか、悪いですか。気分が悪いという人がいたなら「えい、こいつめ」と言って、足でけってしまいなさいというのです。
懐かしければ、手をぎゅっと握りますか、握りませんか。皆さんはそうすれば喜びますか。(喜びます)。喜びたいのであれば、どうすればうれしいのでしょうか。知ってこそうれしいのであって、分からずにどうしてうれしいのですか。そのようにうれしくてつかめば、手をほどくことができないというのです。 ここにいる女の子たち、お嫁に行って夫が自分を愛してくれれば気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。一度考えてごらんなさい。いいでしょうか、悪いでしょうか。人は率直でなければなりません。愛してくれるなら、この世の中にそれほどうらやましいことはないのです。初めから夫の横にぴったりくっついて暮らすのです。
男性が牛の前足のような手で、女性の手をぎゅっと握ってあげることはいいことです。映画を見ても、そのような映画を見たくなります。女性が男性に「まあ、あなたの手は本当にきれいね」と言えば、気分が悪いというのです。そのようになっているのです。
愛は永遠です。愛は二つでなく一つです。一つになるということです。男性と女性がカップルを成して愛し合えば、ぴったりくっついてしまうのです。そこまではいかなくても、これ以上の心情まで行くというのです。それがまさに神様の愛だというのです。そのような愛をもって暮らすなら、一つになるでしょうか、ならないでしょうか。考えてごらんなさい。
全部一つになるようになっているのです。
男女の間で愛し合うようになれば、ありとあらゆることが起こります。そうでしょう。しかし、神様を尋ねていく道を知り、神様の愛を本当に味わうなら・・その神様の愛はこの世のどのようなものとも比べられないのです。
そのような愛を味わった人がいるなら、どのような苦難も彼を占領することはできないし、どのような悲しみも彼を占領することはできないでしょう。そのような絶対的な解放
三百五十九
の圏があるのではないでしょうか。これを探すことが問題となるのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇六八)
神様の愛は大きく、三代の愛に現れます。それは父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。この三代の愛が一つに一致する中心は神様の愛です。
五 愛と喜びの相続のための神様の祝福
神様において、一番の栄光の時は、肉(体)を使うことのできる時です。その次には、愛することのできる人(夫婦)をもつ時であり、その次には、孫を愛することのできる時です。息子・娘より孫を愛することのできる時が、一層栄光の時だと見ます。
ところで、神様がアダムを造っておいて、どんなによかったかということを、どのように教えてあげたでしょうか。「やあ!私はお前を造って、こんなによかった」ということを教えてあげなければなりませんでした。それは、息子・娘を生むことによって教えてあげることができます。分かりますか。
人は幼い時、父母の愛がどういうものかを知りませんが、のちに家庭を築いて赤ん坊ができるようになれば、父母の愛がどのようなものかを知るようになるというのです。自分の父母が私を育てるときこのように愛してくれたなと、知るようになっています。
それゆえ、子女が相対を得る日が栄光の日であり、その次には、その息子が子女を得る日が栄光の日です。(祝福家庭と理想天国I-九三六)
神様の愛を知らなければなりません。父母の愛を知り、父母に侍ろうとしなければならず、夫の愛を知り、夫に侍ろうとしなければなりません。子供の愛を知り、子供に侍ろうとしなければなりません。子供に命令をするだけではなく、侍ってみようともしなければなりません。理解しようともしなければなりません。
そうしてこそ、神様の愛が理解できます。
子供がいなくては、未完成状態です。神様の愛を知ることができません。神様が子供としての人間を、どれほど愛したのか分かりません。また、夫になってみなくては妻が分からず、妻になってみなくては夫が分かりません。子供も、父母になるまでは、父母の愛がどのようなものかが分かりません。ですから、息子・娘がいなければ、真なる夫婦となれません。(祝福家庭と理想天国I-九三七)
父母が子供の結婚を願うのは、子供たちに父母の愛をすべて相続させてあげたいし、伝授してあげたいからです。父母は死んでいきながら、後孫にその実体を残しておきます。ですから、後孫が必要なのです。
愛は永遠に続くのです。愛は人間の高の願望なので、万民が両手を挙げ、相続しようとします。その愛を残しておくことによって、霊界でも堂々と神様の前に出ていくことができます。そのような愛を完遂できる所が家庭です。家庭を通して天国に行くということは、すなわち、そこにおいて愛の一休園が成され
るということです。
360 * 三百六十
人間は原理・原則に従っていかなければなりません。春になれば種をまき、夏になれば生い茂り、秋になれば実を結び、冬になれば全部整理して、新しい生命の根源を自分の内心に備えなければなりません。そうしてこそ、再び春を迎えるようになれば、またこれが植えられ得る種になるのです。
これは何の話かといえば、これから皆さんは父母となり、皆さんのような息子・娘を生まなければならないということです。皆さんの息子・娘を、皆さんのように育てなければならないというのです。
皆さんは、息子・娘がいなければなぜ寂しいですか。それはサークルラインを形成できないからです。鳥たちがひなにえさを食べさせてあげるのを見たとき、母のこの上ない愛を知るようになります。
西洋の人たちは知りませんが、東洋では大人より子供たちを好みます。大人たちに向かっては礼儀正しく敬いますが、息子・娘たちにはこの上ない愛を惜しみません。息子・娘を生み育ててみることによって、父母が子供をどれほど愛したのかを悟るようになります。
人間は誰でも、結婚をしたのちに子女を生み育ててみなければなりません。そうしてこそ、子供の愛と父母の愛を所有することができます。しかし、西洋の人々はそうではないようです。息子・娘を生み育てることを、忌避しています。息子・娘が、結婚して離婚するのに妨害になるという考えゆえに、自分の子供をもつことをはばかっています。
しかし、人間は生まれて四位基台を成せなければ、神様が人間を愛する心情を知ることができないので、天国に行けないということを知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-九三七)
六 愛の中心を求めていく人生行路
人間は愛によって生まれ、父母の愛の中で大きくなり、横的に愛を広めながら成熟するようになります。横的な愛は異性の相対に出会うと、一段階愛を完成するようになり、天地の愛を代表することのできる基準に人れば、その実を結んで子供を身ごもるようになるのです。子供は、核心的な心情の立場から生じた愛の結果として生まれるようになります。
男性と女性が心情的に愛し合って生まれた息子は、愛の核心に通じる道をつくってくれ、その中心を通過すれば、まさに神様と出会うようになるのです。人間は愛の実として子供を身ごもることによって、神様が万物を創造し、人間を創造されたときの愛を体恤するようになるのです。
また、父母の愛によって生まれて受けた愛を、子供を愛してみることによって、父母の心情を体恤するようになるのです。父母が子供に注いできた愛は物質的な愛ではなく、本質的な愛です。天地が変わっても、歴史時代が変わっても変わらないのは、父母が子供に与える愛です。父母になって子供を愛することによって、神様が人間をどのように愛してこられたのかを考えることができるようになり、体験を通して確認するのです。
三百六十一
父母になって子供を愛することによって、父母が私をどのように、どのくらい愛じてくれたのかを感じて悟るようになります。そして老いた父母に対して、さらに敬い、心から孝行の道理を立てるようにするのです。そのようにできなければ、父母としての自覚がないだけでなく、子供に対する愛も偽善だといわざるを得ないでしょう。
人間は父母になり、子供を愛してみることによって、神様が人間をどれだけ愛してこられたのかを感じて悟るべきでしょう。また、神様をいっそう心から愛すべきでしょう。子供に対する愛よりも、老いた父母をもっと愛さなければならないし、老いた父母に対する愛よりも神様をもっと愛さなければならないのが、愛の秩序であり、法度であることを知るべきでしょう。
人間は生まれる時、愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら成長するようになります。しかし、ある程度まで成長すると、父母の愛だけでは不足になり、兄弟間の愛と氏族の愛を中心として、横的な愛を広げ始めるのです。すなわち、天宙間のすべての愛を受けながら、成熟していくのです。特に思春期に近づくと、異性間の愛を求めるようになりますが、異性間の愛によって、総合的な愛の圏内に進入するようになり、初めて愛の中心を求めていくことができるようになるのです。
天地は球形の世界なので、横的な愛を授受し、回転しながら、円形を一次的に成すようになります。特に異性を相対者として選び、愛し合うとき、その結実として子供を身ごもり、父母になりますが、このとき互いが相互間で愛を授受し、回転するようになれば、横的な愛に続いて縦的な愛も実現するようになり、球形世界を成すのと同時に、愛の中心を求めるようになるのです。
愛の運動を通して生じた愛の中心は、すべての抜道世界の存在の核でもあります。地球が存在するのも、この愛の中心を中心として運動を続けているからです。そこは、愛の中心運動を継続できる無限な力が集まった所です。このような愛の球形を通じて生じた中心は、間違いなくその場に神様がいらっしゃる所でもあります。ですから、世の中に存在するすべての被造物は神様の愛によって創造された存在であり、神様の愛の中心を求めていくのです。神様は、まさに愛の溶鉱炉であられたのです。(一二六-二四三)
七 三時代を行く人生路程
人間は、お母さんのおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きてから死を迎えるようになっています。人間はこの世に生まれる前には、お母さんのおなかの中で十ヵ月を過ごします。
おなかの中にいる時、幼い胎児の自由には限界があります。抜はお母さんの栄養をへその緒で引いて育つとき、二本の手を伸ばしたり引っ込めたり、口を開けたりつぽめたりしました。二本の足でばたばたするのが精一杯です。しかし、その胎児には、お母さんのお腹の中が自由天地であり、生の全領域であることでしょう。
三百六十二
その胎児は十ヵ月目にこの世に生まれて育つようになりますが、それ以後の世界が今日私たちが生きている現在の地上世界であり、人間社会なのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇七一)
人は、なぜ生まれたのでしょうか。愛のために生まれました。それゆえ、真なる父母の愛に根を張り、お母さんとお父さんの保護と愛の懐である腹中で育ち、二十歳まで分別なしに父母から大切に育てられ、汚い物を汚い物であることを忘れて、すべてを喜んで消化させられる愛の中で成長してから愛の相対者に出会い、互いのために天理の愛に接ぎ木されなければなりません。
そのような人生路程を行きながら、神様の愛がどのようなものかということを体験すれば、神様の対象愛の実休園が完成するので、息子・娘を産んで愛するようになるのです。(一四三-二八五)
この世に生まれた人間は、胎児期のお母さんのおなかの中に比喩される宇宙での生を生きているのです。一言で言って、お母さんの懐のような宇宙で、人間百年の生涯を生きているのです。胎児がお母さんのおなかとは違う人間の世界を知らなかったように、今日地上世界で生きている人間たちは、死後の無形実体世界に対する実在が分からずにいるのです。お母さんのおなかの中では人間世界について分からなくても、実在として人間世界があったように、死後の世界もあることだろうと、ただ漠然とした心証をもっているだけなのです。
けれども分明なことは、人間の死後の世界に対する心証的な存在可否にかかわりなく、確実に存在しているということです。しかし死後の世界は、人間が感知することのできる五宮作用外にあるので、宗教を通した信仰をもって不信を克服しなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇七一)
人間には三時代があります。動物界にも水中時代があり、陸上時代があり、空中時代がありますっすべてのものが三時代を経なければならないのです。ところで、人は万物の霊長であり、すべての万物を主管できる資格を備えるためには、人にも水中時代があって、どんな存在よりも完全な生活体を備えなければなりません。次に陸上時代においても、どんな動物よりも高の資格をもった存在でなければなりません。
次に、空中時代がなければなりません。ところが、人間には翼がありません。翼がないのにどうやって飛ぶことができますか。飛び回るのは、どんな鳥よりも、どんな昆虫よりも、高く飛ぶことができて、遠くまでも飛べなければならないのです。そうであるなら、どうすればいいのでしょうか。それは実体である肉身をもってしてはできません。どうやっても飛びません。
三百六十三
そうですが、人間は万物の霊長であり、神様が霊的な存在なので、主管園や相対的な立場に立つためには、その活動舞台が神様と同じでなければなりません。今日、電気や光でいうならば、光の速度は一秒に三十万キロメートル行きます。それよりも、もっと早く作用することができるのが人間です。それが何ですか。霊人体です。(一一二-二〇二) 私たちはこの世に住んでいますが、この世の中だけにいるのではなく、霊界があります。では私たちが行くべき所、私たちが行って住むべき所がどこでしょうか。霊界です。霊界とは、愛の空気が充満した永遠の世界です。ですから一生は永遠の世界に入るための準備期間です。(一四〇-一二一)
八 地上生活は霊界の拍子を合わせるための訓練場所
私は霊界での体験をたくさんもっていますが、霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は地上で空気を吸ってガスを吐き出しますが、霊界では愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日の人間の世俗的な愛を中心として授け受けるようになってはいません。霊界で授け受ける愛は、真なる愛なのです。
皆さんが霊界に行ってみれば、その世界は次のようになっています。すなわち、父母、兄弟姉妹、夫婦、子女に対する愛を十分にもった者、すなわち家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由を享受することができるでしょう。彼は何の制限もなく、どこでも、どの方向にでも行くことができます。その反対に愛の経験のない人は心が狭く、霊界でも自分一人孤立していて、自由が全くありません。
父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係なのです。この三つの関係は、互いに異なります。ですから、地上でこの三つの互いに異なる方法で深い愛の経験をもってこそ、制限なしに縦的、横的に行くことができ、円で旋回することができます。
例えば、父母が早く亡くなることによって父母の愛を味わうことができなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったために、多少悲劇的な人であり、同じように家庭生活すなわち夫婦関係を経験できなかった者は、生の重要な部分が不足するために霊界ではとてもみすぽらしい人になります。また、兄弟姉妹がいない人は、すべての分野の欠乏で完全な生を生きられないので、霊界でみすぼらしい立場に立つようになります。
皆さんはなぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要でしょうか。そのような愛の空気が充満した所が霊界だからです。
霊界の拍子に合わせる訓練をするために、家庭をもたなければならないということを知らなければなりません。これを感じないで行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような愛の空気をかぐことのできる鼻がない人と同じだというのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇六七)
三百六十四
皆さんはお父さんとお母さんから生まれました。次にも根本的なことは、お父さんとお母さんのおなかを借りて、神様から生まれたという事実です。皆さんは宇宙の父母を通して、肉身の父母を通して、真の父母を見いださなければなりません。肉身の父母は、通過の父母です。ですから死の瞬間は、真なる父母に会いにいく歓喜の時間です。そこには、真なる父母の真なる愛があります。そこを天上天国といいます。
そこの構成要素は愛であり、そこは父母の愛で充満しています。その愛は「私」のためのものではなく、奉仕と犠牲の原則の下に、すべての法度を通ることのできる愛です。そこに合格するためには、宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活は、そのような愛のための訓練の場所です。(祝福家庭と理想天国I-一〇七二)
この地上での生活がどれほど重要でしょうか。一度しかありません。瞬間なので、一度しかありません。地上天国を永生に比喩すると、これは一点ほどのわずかな時間に過ぎません。あまりにも短い瞬間です。この瞬間の時間内に肉身生活を越えて、霊界のために準備しなければならないのです。(一〇七-九九)
第五章 創造本然の男女の愛
一 創造本然の男女の愛
神様の高の傑作品として造られた美しい男性と女性が、神様を中心として愛し合うことができるならば、それは 高の愛であり、超越的な愛であって、世俗的な愛ではありません。その愛は高に美しい愛であり、愛の中でも代表的な愛であり、永遠に輝くことのできる愛です。
男性と女性が愛し合っても、それが神様が立てようとされたみ旨と一致するか、また神様が人間に願われたその基準と一致するかが問題となります。男性と女性が愛し合うとき、神様が考えられるモデル的な愛と一致するかということです。
神様を中心として初の男性と女性が愛で一つになったならば、それは、愛を中心にした宇宙のモデルになったという結論が出るのです。神様も人間の前にそのような愛を願われたのです。男性と女性も互いに相手に対し、そのような愛を願ったのです。そのような真の愛は、宇宙の核であらざるを得ません。メートル法と同じ一つの標準型になるのです。(祝福家庭と理想天国I-三三五)
神様の愛と人間の愛は本質的に同じです。愛は一つになろうとします。男女が互いに恋しがる理由は何でしょうか。男性は女性、女性は男性を通してのみ神様を所有することができるからです。男女が愛で一つになる所に必ず、神様が臨在されるのです。(祝福家庭と理想天国I-三三六)
二性性相の母体が神様であることを考えるとき、男性と女性の尊厳なる価値をほめたたえると同時に、神様の尊い価値を一層ほめたたえることができる人にならなければなりません。
三百六十五
男性の心の中には神様が愛しておられる女性がおり、彼の相対である女性の心の中にも神様が愛しておられる男性がいて、共にたたえるようになる場合には、神様もそれを見て喜ばれるのであり、すべての万物も互いに喜ぶようになるのです。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が、天と地が共に喜ぶ価値ある内容になります。男性と女性が互いに愛し合い抱擁するそのこと自体が、宇宙が一体となる場となるのです。神様の理想の中で成される創造本然の姿はそういうものなのです。
元来男性は自分が喜ぶことのできる女性を迎えなければならず、女性もやはり自分が喜ぶことのできる男性を迎えなければなりません。そればかりか、人間の喜びというその限界を越えて、神様も喜び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。そうすれば、この世のすべての存在物がその夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。
鳥たちは彼らのために歌を歌い、蝶は喜びひらひら舞うようになるのです。神様も喜ばれ、人間も喜び、すべての万物も喜ぶようになるのです。このような立場で人間始祖が歴史を出発させていたならば、それこそ創造本然の理想世界になっていたのです。(祝福家庭と理想天国I-三三六)
二 男性と女性が生まれた理由
本来、男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか!それは女性のために生まれたということを否定することができないのです。その反対に女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を自らが確信できないところに問題が生じることを、私たちは知らなければならないのです。
これを、天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則として決められたために、その原則に従っていかなくては、善なる、真なる、幸福なる、平和な世界、あるいは愛と理想の世界へ入ることができないのです。
女性は男性と出会うために生まれ、男性は女性と出会うために生まれたでしょう。これが高の真理です。ですから、このような原則に従って祝福圏を探し出さなければなりません。 高の真理圏を離脱することは、 高の悪になるのです。(祝福家庭と理想天国I-三三八)
男性と女性は生理的に全部反対です。女性は一方的なのに比べて男性は三方四方的です。また女性は家の中に居ますが、男性はあちらこちら世の中を巡るのです。このように性格が全部反対なのです。こういう主体的な男性と相対的な女性が何を中心にして一つになるのでしょうか。愛を中心にして一つになるのです。人間と神様を一つにさせようとするのも愛なのです。
男性が生まれたのは何のためですか。学問やお金、権力のためではありません。女性のためです。女性のために男性が生まれたということです。男性の骨格が女性よりも大きいのは自分だけが稼いで生活するためではなく、子女と妻を養うためです。
三百六十六
男性がもっている器官と女性がもっている器官はそれぞれ違います。それを誰のためにもっていますか。それは自分のためにもって生まれたのではありません。男性のものは女性のために生まれ出たので、女性のものです。女性のものは、もちろん逆に、男性のものです。そのように考えてみましたか。(笑い)笑い話ではありません。 男性と女性の愛の象徴は何ですか。愛の終着地点はどこですか。男女を一つの体に成さしめる性の器官です。それは愛を中心として心と体が完全に一つになることができる通路となるのです。男性がもっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は女性のものをもっており、女性は男性のものをもっています。ですから、生まれたのは自分のために生まれたのではありません。相手のために生まれたということを、はっきりと知らなければなりません。
なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。神様は知恵の大王であられるために男女の愛の器官をそれぞれ変えてくださったのです。男性のものだといっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。
主人を差しおいて自分の思いのままに行動した人は、愛をたがえた審判を受けなければならないのです。法の中でも一番恐ろしい法の罰を受けることを知ったならば、自分の妻をさておいて、あえてとんでもない考えをすることができますか。反対に夫人たちは夫をほったらかしにして、とんでもない考えをすることができますか。(祝福家庭と理想天国I-三四〇)
三 男性と女性は互いに絶対的に必要な存在
皆さん、愛は絶対に必要なものでしょう。そうでしょう。その愛に絶対必要な要素は人間です。男性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要なのです。どれだけ必要なのでしょうか。大韓民国よりも世界よりも、さらには神様よりも必要なのです。また、女性がいなければ百年以内に人類はすべて滅亡するのです。それゆえ男性がいくら天下を統一したとふんぞり返っても、女性がいなければ百年以内にいなくなるのです。ですから女性は絶対必要なのです。(祝福家庭と理想天国I-三四〇)
「人」といえば男性と女性をいいます。一人の男性を考えてみると、女性がいなくてはならないのであり、女性を考えてみても男性がいなければなりません。その男性は自らが願って生まれたのではありませんが、その男性にとって必要なその女性も、自分が願って生まれたのではないのです。生まれてみると男性になり、女性になっていたのです。男性として生まれたとき、女性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。生まれてみて、男性一人だけだと気分が悪くないですか。また女性として生まれてみて女性だけだと気分が悪いのです。そうではないですか。
だから女性が生まれたとき男性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。私はたとえ知らずに生まれたとしても、私を生んでくださった方は知っていたというのです。私が女性として生まれたのは、私を必要とする男性がいるためなのです。同様に、私が男性としてこのように生まれたのは、私を必要とする女性がいるから、男性として生まれたのです。そうでしょう。すべて知ってみるとそのように生まれていたのです。(祝福家庭と理想天国I-三四〇)
三百六十七
男性にとって絶対に必要な存在は女性です。神様を絶対に必要とする前に女性という相対的な存在がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性が、絶対に必要な存在として女性を正しく認識できなかったからでした。同様に、女性にとって絶対的に必要な存在が男性であることを知らなかったのです。
真の愛の味を感じるためには、理想圏をもたなければなりませんが、そのためには男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対に必要なのです。真の愛を慈しむ絶対的な男性と女性は、一生懸命努力する.ことによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、神様が二人の中に臨在されるようになることを知らなければなりません。
真の愛で結ばれた夫婦が別れることは、神様も嫌いなので、絶対的男性と女性の愛は永遠なのです。神様は全知全能であられる方ですが、その絶対的な存在も、一人では何ら意味がありません。それと同様に、一人の男性がいくら美男で健康な人だといっても、女性がいなくてはその意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って生きる男性は、どこにも使い道のない陰険な存在にすぎないのです。
そのように自己陶酔に陥って生きる男性が世の中に多いということが問題であり、歴史が悲劇として流れてきた原因であるというのです。自己陶酔に陥ってしまっている世の中を改善し、変化させてきたのが、神様の摂理だったということを知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-三四一)
四 愛は相対から来るもの
愛は一人では成されないのです。愛はどこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく相対から来るのです。相対から出てくるので、「私」が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。「為に生きる」という天理が、ここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」のところに訪れるのに、それを受け入れようとするなら、それを尊く思い、敬わなければならないという「為に生きる哲学」を確立しなければならないのです。
人には愛があります。しかし愛というのは、「私」 一人では現れません。男性が一人いるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。
父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんはこれを知らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。愛は自分一人から始まるのではなく、相対から始まるのです。それゆえ、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。(祝福家庭と理想天国I-三四二)
三百六十八
愛はどこから出てくるのでしょうか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好ましければ、愛の作用もその分早くなります。相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。
愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。愛という名詞は相対的観念からいうものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても一人では愛することができないので、だめです。愛の根拠地は「私」ではありません。愛は「私」からだというのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地が自分だと考えますが、これを残らず改めなくては、歴史を変えることはできません。今まで夫人は夫人なりに自分が中心であり、夫は夫なりに自分が中心だから私のために尽くしなさいというので、破綻が生じたのです。
愛の根拠地は「私」にあるのではなく、相対にあるので、その愛を「私」が見つけるためには、その愛の前で犠牲にならなければなりません。愛は必ず犠牲を要求するのです。
また、愛は克服を必要とするのです。
このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容をもっているものは、この天地間において、ほかでは探すことができません。神様を中心とした愛の原則によってのみ見つけることができるので、神様は愛をしっかりつかんでいるのです。世の中で、慈悲という言葉も、愛がなくては出てこないのです。仁という言葉も、二人がいなくては出てこないのです。慈悲や仁という言葉も全部残らず相対的観念からいうのです。(祝福家庭と理想天国I-三四三)
五 異性間で愛の調和を成せば
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つになって調和しなければなりません。男性と女性は互いに異なっています。男性の筋肉はごつごつしていて、女性のは滑らかです。男性はひげが生えますが、女性はひげが生えません。声も違います。男女を比べてみると相対的に釣り合っています。調和がとれているのです。人間という肉的構造を見るとき、左右に相対的です。半々をぴったりとくっつけたからです。
皆さん、高いだけあるいは低いだけでよいですか。調和を成すのがよいのです。水平線を中心に下には魚が住み、上には哺乳類、鳥類などが住んでいます。女性は一月に一度ずつ生理が生じます。月を中心にして潮が満ち引きするように、女性も同じです。呼吸作用と同じです。男性と女性が調和して平行線にならなければなりません。
昇ったり降りたり回ったりする各種施設のあるディズニーランドを、人々がなぜ好むのかといえば、宇宙がそうだからです。男性だけで和動するのと、男性と女性が和動するのでは、どちらが気持ちよいですか。男性と女性が和動するほうがよいのです。宇宙がそうだからです。宇宙が陰陽の調和を成して和動するから、人間が拍子をとらなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I-三四四)
異性間にあって愛の調和を成せば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となって愛の実を結ぶようになれば、神
三百六十九
様は降りてこられ、人間は上っていくようになり、中央で出会うようになります。神様はこの円形の求心点となり、球形運動が行われるのです。求心点から四方どこでも通じることができるのです。その求心点は愛の調和が成される所であり、生命が胎動する場であり、平等主義と共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての作用と包容する力は愛なのです。(祝福家庭と理想天国I-三四五)
人間において愛は永遠なるものであり、二つではなく一つです。男性と女性の間が愛で結ばれれば、地上で夫婦が年を取るまで仲良く連れ添わなければならないし、死んでも永遠にともに生きていくようになっているのです。体は二つですが、一つとなって回転することによって、一体化するのです。
二つの体が一つになれば神様のように回るようになり、愛の四位基台をつくるようになるので、それがまさに愛の理想世界なのです。そこには偽りの愛は侵犯することができず、ただ真の愛のみが臨在するようになります。神様を中心にして、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立ったならば、神様はいつでも訪ねてこられるようになります。愛の四位基台をつくるようになれば、相手側の体を通して心までも愛するようになり、心を愛するようになれば体まで従ってくるようになっているのです。(祝福家庭と理想天国I-三四六)
六 真の愛に酔った本然の人間
この世でも神聖なものは何ですか。世の中で も神聖なものは真の愛です。真の愛は神様から出発します。神様が存在されるならそれ以外の道はありません。神様が心から願われるのは真の愛の道であり、真の愛の道を通らなくては、神様の前へ出ていくことができないということを知らなければなりません。
神様は愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいのです。人間も神様から愛の口づけを受けたなら、内部が爆発するような喜びを感じるはずです。神様の願いはここにあるのであり、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとおっしやるのではありません。(祝福家庭と理想天国I-三八一)
人間を見れば、人体は五宮をもっています。人間は誰でも五宮の認識によって、真の愛を感じ、確認するようになっています。目が真の愛に向かっているなら、その目は真の愛に染まって酔うようになっています。酔った瞳の色はどれほど美しく光るでしょうか。□が真の愛に溺れているなら、ほほえむその唇はどれほど恍惚としたものか、考えてごらんなさい。人間の五官が真の愛に酔って動く姿、神様に向かって動く五宮の調和がどれほど美しいだろうかと想像してごらんなさい。そのような美しさを通した喜びは、神様お一人では体験することができないのです。そのような美しさは相手がいてこそ体験するようになるので、神様が人間を創造された目的でもあるのです。
370 * 三百七十
真の愛に酔った瞳の手入れをしてあげたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいという美しい男性と女性がいるなら、神様はどのようにされるでしょうか。真の愛のエバがいるなら、そのエバの心情世界を一度は旅行したいという思いをもたれるはずです。美しいエバの心情世界、心情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動をもたれるはずだというのです。神様は天地を創造した以上に美しい内容を所有しているアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われることでしょう。神様は真の愛の人間に対して宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいと思われるのは確実であり、アダムとエバの真の愛の心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるでしょう。
神様が人間を造られたのち、人間の真の愛に溺れ、愛の迷子になったなら世の中はどのようになっていたでしょうか。人間の中に神様が住まわれるようになるので、神様と人間が一つになってつくりだした世界は、喜びと美しさが充満した世界であるのは確かです。(祝福家庭と理想天国I-三八二)
真の愛が完成したなら、感応の神様はその真の愛にどっぷりつかっても後悔なさらないはずです。真の愛の中でならどんなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方が神様であられます。真の愛の世界で人類が生きるとすれば、一生後悔のない幸福な生涯になることでしょう。また世の中に戦争の歴史もないでしょうし、不満や不幸のない世界になっていたでしょう。(祝福家庭と理想天国I-三八三)
七 愛はきわめて自然なところで成される
先生が幼いときにあった話ですが、ある日、鳥を一つがい捕まえて、二羽のくちばしを口づけさせる遊びをしたことがあります。二羽が互いに口づけするのを見るために、巣を作ってえさをあげながら観察したのです。その鳥たちが互いに愛し合って楽しそうに歌を歌うのを見たい子供心からそうしたのです。それはすべての自然の道理をはっきりと知るための、一つの好奇心、子供の実験のようなものでした。
今考えれば、全く意地悪な行いをよくも続けたものです。愛は自然な中に築かれることを長らくして悟ることができました。愛は自然な中、高に自由な雰囲気の中で成されるものが真実の愛なのです。先生が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経てはっきりと分かるようになったからです。(祝福家庭と理想天国I-三五三)
愛の価値を失った人を、大学で教育させて、何が変わるというのでしょうか。彼らはみんな知識を蓄えるだけで、個人主義者になり、物質主義の信仰者をつくり出すだけなのです。テンジャンチゲ(注・肉、野菜などをみそとともに煮た煮物)は土焼きの器に入れられて、もろもろの味を出すのと同様に、人格修養も、愛を基にしてこそ所期の目的を達成することができるのです。
三百七十一
世界文明は、美術的調和を整えた基盤の上で花咲かせなければなりません。焼きカルビは皿に盛らなければならないし、テンジャンクッ(注・韓国風みそ汁)は土焼きの器に入れられてこそ、もろもろの味を味わえるのと同じです。風味のよいテンジャンクッの味は、一度味わえばどこへ行っても忘れることができないのです。同じように、人間も風味のよい味に似た、そういう愛を一度味わえば変わることがないのです。
甘いだけのインスタント食品には飽きを感じるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に求めることができれば、それは真の愛だとはいえないのです。
近はインスタント食品のように愛する人たちが、至る所に広がっていますが、それが問題なのです。香水風呂に入って休浴したといっても、愛が深まることはありません。田舎に住みながら冷水に体を入れて洗い、寝床に入る夫婦の愛のほうがもっと純粋で、長くたてば深まるものだといえるのです。
夫婦がキスをするために歯をみがくとすれば、それは自然な愛ではなく、歯みかき粉のにおいのために、その人だけがもっている固有の体臭を味わうことができないのです。歯をみがいてキスをする人を見ていると、その人は愛を味わうためにキスをするのか、それとも歯みかき粉のにおいを味わうためにするのか分からないほどです。(祝福家庭と理想天国I-三五四)
皆さんが好きな、愛する人と出会えば抱擁したいし、口づけもしたいのは、自然な異性間の本能なのです。「私」が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためです。それは、相手を探し出すための人間の自然な行為です。すべての人間が相対的理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性に対するとき、ここには愛の秩序に違反する行為や事件はないのです。真の愛の秩序は、相対的な理念をもとにして男性と女性が出会うとき生まれるものです。(祝福家庭と理想天国I-三五五)
第六章 思春期の変化と真なる結婚一 結婚の意義
結婚とは幸福な宮殿の門を開けて入っていく儀式であるといえます。それゆえ、結婚は人生における重大事となるのです。愛は時空を超越し、人間にとっても偉大なものであり、結婚はそのような愛を現して確認する儀式なのです。
なぜ結婚式を「祝福を受ける」と言うのでしょうか。私たちの原理から見るとき、アダムとエバが堕落せずに完成していたなら、祝福の席に参加していたはずです。言い換えれば、アダムとエバは神様の実体対象として、神様が主体であれば彼らは対象になるのです。そして、愛の主体となられる神様から対象的な立場の愛を連結させることのできるその祝福の基台は、アダムとエバが個性を完成し、結婚することによって成されるのです。
完成とは結局、結婚のことをいうのであり、結婚とは神様の愛の顕現のことをいうのです。言うならば、結婚がなければ、今日、人間世界における愛というものが始まらなかったというのです。その愛の主人は誰でしょうか。人間ではなく神様であられることを私たちは知らなければなりません。その神様の愛が人間の中に現れるようになるとき、神様の喜び、誇りとなり、神様の愛としてこれを感じることができるのです。
三百七十二
愛というものは一人で成り立つものではなく、相対的関係において成り立つものなので、男性が愛を成就しようとすれば男性自体だけではだめなのです。女性も同じです。このようにアダムとエバが愛で一つになることによって初めて、神様の愛を受けることができるのです。このような観点から見るとき、私たち人間は神様から生まれたものであることが分かるのです。(祝福家庭と理想天国I-三五六)
天地間のすべての道理が主体と対象から成っているように、男女が結婚するのも天地間の道理なのです。男性が右側なら女性が左側になるのは宇宙間の横的な関係を築くためであり、男性が主体なら女性がその対象となるのは、神様との縦的な上下関係を築くためでもあります。ですから結婚をするのは、男性だけのためでもなく、また女性だけのためでもなく、天理の法度を合わせるためにするのです。それゆえ、男性と女性は互いに違う形を備えています。天理の法度を一致させることができるように生まれたのです。
結婚というのは、愛する二人が寂しいときは慰め合い、うれしいときは共に喜び、困難なときは助け合うことのできる相対的な位置で授け受けしながら、神様の前へ出ていく場合において、神様の愛を土台として生活するために結ばれることなのです。これがすなわち結婚生活です。
神様が男性と女性を天に造らず、地に造られたのは、平面的基準で神様の愛を横的に成すためです。すなわち、主体と対象の関係を造成し横的に一つになるとき、主体であられる神様と、二人で一つになった愛が、縦的な愛の因縁を結び得るというのです。この事実は極めて重要です。(祝福家庭と理想天国I
-三五七)
二 なぜ結婚するのか
男性は女性を探すために生まれ、女性は男性を探すために生まれました。女性と男性は二人合わせて、より次元の高い神様の愛に接するために生まれました。一人ではその愛に触れることはできません。一人で接してもそれは一方的なのです。立体的で球形的な愛に接することはできません。それゆえ、男女がより高い次元の立体的な愛の圏内にジャンプするために結婚するのです。
本然の世界にあっては、男性と女性が一つになればなるほど、その力の作用においては偉大な中心が生じ、球形になるのです。横的に連結されればされるほど、縦的な力の愛の母体が連結されて入ってくるというのです。そこにおいて心と体が一つになるのです。(祝福家庭と理想天国I-三五九)
三百七十三
結婚はなぜするのですか。天国へ行くために役に立つから、そうするのです。なぜなら、天国には結婚をしなければ行くことができないからです。それゆえ、天国へ行く資格者になるためには結婚をしなければならないのです。天国へ行く資格とは何でしょうか。神様に似ることです。どのようにして神様に似るのでしょうか。神様のみ言を実践する人になることです。神様の愛を「私」の愛にすることであり、神様が語る言葉を「私」の言葉として語ることができればいいのです。 それゆえ、「私」は神様に代わり世界に向かって、「人類よ、お前は天国に行かなければならない」と言うのです。その次には「天国に行くためには神様のように『私』が人類を愛して連れていく」、となればよいのです。そういう人は、神様の人であり、天の側の人であり、天国へ行くことのできる候補者だといって間違いないのです。このようになるときには、結婚する資格が整うというのです。さあ、結婚はなぜするといいましたか。天国に行くために、そして人類のためにです。
男性の前にいるその女性は神様の娘であり、人類の女性を代表した娘であることを男性たちは知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、神様が愛する娘として愛することができれば、夫になる資格がありますが、そうでなければだめです。女性はその反対です。「あれは『私』の夫である」と考えてはいけないというのです。「私」の夫であるという前に神様の息子であり、人類の男性を代表した男性であると考えなさい。
人類が愛する以上に愛することができ、神様が愛する以上に愛することのできる女性になればいいのです。そして「私」が男性として右足になり、女性として左足になり、人類のため、神様のための愛の足跡を家庭を通して伝えるのだと考えて結婚しなければなりません。
結婚の目的は、男性と女性の心の世界を一致させようとすることであり、男性と女性の愛の完成のためなのです。そして、結婚したということはそのような証拠を見せますと宣布したことになるのです。 結婚生活を通して愛の完成と心の完成を成したならば、家庭の理想を実現したと見ることができます。そして死ぬとき、これを成していたなら間違いなく天国へ行くというのです。(祝福家庭と理想天国I-三六〇)
三 真の結婚観
本来、心と休が完全に一つになったアダムとエバが、縦的に完全に成熟し、新郎・新婦として神様の前に喜ぶことのできる対象圏を成し、神様の祝福を受けることを通して神様の愛による家庭が形成されていたなら、それが本来エデンで堕落せずに成されていた完成圏でした。その完成圏に現れたアダムとエバになっていたなら、それはどういう立場でしょうか。祝福を受ける立場です。
恵みの中で一番貴い恵みは神様の愛です。その次は神様の創造の権限を引き継ぐことです。神様が愛を中心としてアダムとエバを創造されたように、創造的権限を賦与されるのが子女なのです。皆さんはなぜ子女を愛しますか。神様の創造の偉業を横的に実休園で引き継いだのと同じであるため、アダムとエバを造って神様が喜ばれたその喜びを代わりに感じるためです。
三百七十四
その次は、神様が天地万物を主管されたように万物を主管させるために、横的な立場にいる私たちに、神様は主管権を賦与されました。その権限をもって秩序的段階にとどまることのできる、そんな世界が理想的天国であると見るのです。それゆえ、結婚するその時には、神様の愛を相続し、再創造の権限と主管権を、完成圏に立って引き継ぐようになるのです。ですから結婚式というのは、愛の顕現をいうと同時に創造権と主管権を賦与されることなのです。(祝福家庭と理想天国I-三五六)
私たちの結婚観は宇宙の座布団を・・。宇宙の座布団、分かりまか。宇宙で一番いい絹は何ですか。洋緞(注・高級な絹織物の一種)ですか。洋緞の布団、ねんねこを敷いておいて新婚生活をすることよりも、宇宙の洋緞布団を敷いておいて、その中で愛し合う! そう考えるのです。
愛を中心として、所有権を「私」一代で決定する瞬間だというのです。「私」の当代に所有権が来るのです。その所有とは女性の所有が決定されるのです。その女性はどのような女性ですか。宇宙の半分です!これをひったくる日には、私の後ろに宇宙がぶらさがってくるのです。考えてみなさい。
また、女性はなぜ結婚をしなければならないのでしょうか。男性にくっついて、一八○ 度と一八○度が合わさって、二人で宇宙の価値と対等の作用圏をつくるために結婚するのです!このように考えるとき、統一教会の思想が素晴らしいというのです。
結婚は私のためではなく相対のためにするという信条をもたなければなりません。結婚するとき、ハンサムな人、きれいな人を得ようとするのは間違った考えです。人間は人のために生きなければならないという原則が分かったなら、結婚も相対のためにするという観念をもたなければなりません。いくら醜い人でも美人よりも愛そうという信念をもつことが原則的な結婚観です。人間として生まれて相対を神様のように愛し、人類のように愛し、この世の誰よりももっと愛することができるという観念が確立しなければ、天の国に復帰することはできません。一人の男性として一人の女性を愛することができないなら、神様と人類を愛することはできません。
結婚は誰のためにするのかといえば、人類のためにするのです。人類の共同利益のためなのです。世界を代表したものです。その男性は世界を代表した男性であり、女性は世界を代表した女性です。(祝福家庭と理想天国I-三六三)
四 思春期とはどのような時か
皆さん、思春期の時は、天下の王子になる気分なのです。すべてのことを自分を中心としてひっくり返して考える時期です。このように思春期は反駁する時代なので、自分を分かってくれなければ、いくらでも危険な道へ行く可能性があります。それゆえに今日、青少年たちの問題が世界的な問題になったのです。
思春期の時代はどんなことでも自分を中心としなければ気に入らないのです。しかし自分と関係を結んだときは、それがいくら微々たるものであっても得意になるのです。二十歳前後の女性たちをよく見ていると、訳もなく「ふふふふふ・・」と笑います。秋に葉のすべて落ちた柿の木から、熟した柿がぽとんと落ちるのを見ても、「はほほ」と笑います。
三百七十五
それは何か分からなくとも通じるというのです。すべてのものが、全部自分と関係を結んでいるので高の感情が誘発されるのです。ですから、思春期というのはすべてのものに接して因縁を結ぶことのできる転換点なのです。それはなぜでしょうか。神様の愛を中心として男性と女性を完全に百八ーセント一つにするための神様の創造本性が基盤となっているからです。
いくらきれいな娘でも思春期はただ一時しかありません。その時は一番の花の時であり、一生で一番貴い時なのです。それにもかかわらず、「私一人で生きよう」という女性がいるでしょうか。それは女性ではありません。また、男性たちの中にも格幅のよい十六歳前後の青春期に、自分一人で生きようという者がいますか。そのような時には必ず相対を探すようになるのです。誰に似てそうなのですか。神様に似て、そうなのです。
神様がそうでないのに、そのような人間ができるでしょうか。神様がそうなのです。一生のうちで一番貴い時である青春時代に、相対を探していくのは男性でも女性でも同じです。
も美しい花のような時期、花がぱっと開いた青春時代がいつかといえば、思春期の時代です。その時期がまさに十八歳から二十四歳までの七年間です。この七年間は一生に二度とない愛の花が咲く時期です。一度しかない花のようなこの時代がどれほど貴いでしょうか。
皆さん、芍薬の花を知っているでしょう。その花のつぼみに色の違う黄色の花房があるでしょう。それは何枚から成っているでしょうか。花に全部しっかりと取り巻いているのです。それを押し開くことができますか。たやすく押し開けないようにしっかりと取り巻いているのです。男性や女性もこれと同じです。皆さんの赤い愛、黄色い花のようなその愛のつぼみ、その愛のつぼみをいつ、ぱっと咲かせるのですか。
天地の調和の中で美しさがもよく現れる時がその時期です。人間として見ても 高の時です。神様の傑作品になり、 も中心の、絶頂としてきらめく期間です。大きくなりながら もきれいな花のような時代、一番美しい時代が青春時代です。
その青春期の姿は高の花のつぼみです。それを十分に愛することのできる人がいるなら、その人は神様の部屋に招待を受けることができます。そのように愛することのできる男性と女性は、神様の恵みを受けることができ、神様の部屋に招待を受けることができるというのです。それを知ったなら皆さんは、男性なら男性としてそのような準備をしなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-三六七)
五 思春期に起こる身体的変化は何のためか
三百七十六
少年期には漠然とした夢の中で健康に育つことだけを望みますが、思春期になり身体的、生理的変化が生じるようになれば、異性に対する関心が高まり、瞳は好奇心と美しさできらきら光るようになります。体もおしゃれをするため、着物の身だしなみを整えるようになるし、顔もよりきれいにするために、整えることに余念がなくなるのです。そのような時に唇を見れば彼が思春期にさしかかっているのか、そうでないのかを知ることができます。 女性たちにおいても、思春期にさしかかれば月経が始まり、身体的に多くの変化が起こるよう
になります。お尻が大きくなり、胸がふくらみ、唇は赤くなり、瞳は神秘的に輝いたりします。そのような女性の変化は、どうして、誰のために起こるのでしょうか。女性の身体的変化は、直行していた道をくるくる回るための変化なのです。くるくる回っていくことのできる運動を始めるための変化だというのです。
直行する道には何の調和もありません。直行する道は二回行ったり来たりすればすべてのものが消耗され、何も残るものがないのです。直行する道を行ったり来たりすれば環境を破壊するだけで、環境の調和は起こりません。環境の調和と保存のためには回っていかなければなりません。それゆえ、すべてが回っていくべきです。回っていく場合は、自分を中心にしては回っていくことができないので相対を中心として回っていかなければなりません。
回っていく場合は相対とぶつかってこそ、回っていくことができます。相対者とぶつかれば自動的に反作用が起こり、回る運動が始まります。これは天地の道理です。それゆえ、女性に身体的な変化が起こるのは相対者と出会い、回っていくためです。ぶつかれば回っていくための力が生じるようになります。女性が化粧をしてきれいに飾るのは、自分のためというより相対のためであるといえます。
美しく身なりを整えた女性を見ると、その女性が男性を見る目はひときわ輝きます。自分の相対を見つけるため、自らをきれいに装うのは自然の現象といえるでしょう。しゃれた男性に出会うため、理想的男性に出会うため、心を焦がしながら歩き回るようになります。
皆さんのような思春期の独身男女がともに会って話をする時は胸がはずむのです。はずむでしょう。はずみますか、はずまないですか。分からないのですか。はずみますか、はずみませんか。(はずみます)。それみなさい。興奮するでしょう。そして興奮するようになれば心のうちに変化が生じます。ところが、その心が神様を中心とせず、反対の立場に立てば悪になるのです。心は誰を中心とするのでしょうか。神様です。その神様を中心とした心と心情が、一つになることのできる所に上がれるようにするのが愛です。何の話か分かりますか。
このような立場で一つの生涯を送らなければならない人間であるために、人間は愛を中心とした理想と希望をもたなければならないのです。そして、後の場で輝くことのできるのが愛なのです。(祝福家庭と理想天国I-三五七)
六 思春期の初恋
三百七十七
思春期には愛を探して心と体が衝動を起こすようになります。父母の言葉を聞かず、自分勝手に歩き回ります。心の目と体の目が一つになって動きます。また、愛の鼻をもてば、ふだん嫌いだったにおいまで好きになります。愛の口をもてば、ふだん嫌いだった味までも好きになります。夜を徹しながらでも愛の話を間きたがります。愛する対象は、触れば触るほど、もっと触りたいというのです。このように思春期になり、愛の感情に襲われるときは、目がおかしくなり、すべてのものを良く見ようとします。
心と体が一つになり、愛の銃を撃てば、愛という弾丸が相手の心臓に打ちこまれるようになるのです。男性のそのような愛、女性のそのような愛を願う人は手を挙げてみなさい。愛は消化できないものがありません。すべてのものをおいしく食べることができ、すべてのものをみな消化することができるのです。真実の愛をもったなら、いくらぶ男であっても美男に見えるようになります。愛は驚くべきものです。ですから、良くても悪くても思春期時代に結んだ初恋は、男性でも女性でも永遠に忘れることができません。
死ぬほど好きな恋人のいる女性が、父母の反対で別の男性に嫁いだとしたら、その女性は一生の間幸福でしょうか、不幸でしょうか。その女性は、自分が初めて愛した男性がたとえ鼻がつぶれ、目が不格好だとしても、花のように良く見えるのです。父母が決めてくれた男性は外見からしても学閥からしても、千人なら千人がみないいと言える人であり、昔自分が心の中でささやき、愛した男性は至って不出来なのにもかかわらず、その初恋の男性のほうが良いというのです。初恋はすべてを占領するのです。
愛の主体は誰ですか。神様です。愛の主体が神様であるために、愛することができるのも神様お一人しかいないのです。元来、初恋は神様とするようになっていました。ところがそのようにできなかったことが堕落です。エバは誰と愛し合いましたか。(天使長と愛し合いました)。ところが喜びながら愛さなければならないのに、顔をしかめて泣きながら愛し合ったのです。
皆さん、堕落するときエバが「あかいいわ!善悪を知る木の果を取って食べると本当においしい、おいしいわ」と言ったでしょうか。エバが天使長に強姦されたとき、その心はどうだったのでしょうか。良心の呵責を受け、嫌がりながら天使長の誘惑に引かれていったのです。すべての細胞がうれしくて花が早春を望むように愛し合うべきであったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てた場で顔をしかめながら愛し合ったのです。
もし堕落しなかったなら、誰と初恋をしたのでしょうか。神様としたはずです。アダムとエバの神様を中心とした初恋には、すべてがつまっているのです。初恋を中心とした父母の愛、初恋を中心とした夫婦の愛、初恋を中心とした子女の愛、すべてに神様の愛と根がしっかりとくっついているのです。皆さんのように何千年の歴史的距離をおいて、個人復帰や家庭復帰という段階を経なければならない愛ではありません。一遍にぱっとくっつく愛です。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛がひとまとめに全部くっつく愛なのです。(祝福家庭と理想天国I-三七四)
七 結婚の適齢期-愛はいつから連結されるのか
三百七十八
全知全能の神様は、人間において華やかに花開くことのできる時を造られました。その時期が青春時代だといえます。神様は愛の青春時代を中心として、自ら幸福を培っていくように造られたのです。それゆえ、神様が存在する同一の理想的な人間世界にあって、男女が華やかな青春の時期に幸福になることができる関門として、結婚という祝福をしました。この世に存在するすべてのものは、相対的理想を経なければ存在価値がなくなるのです。ですから人間が成長したのちに祝福を受けて結婚をするのは至極自然の摂理なのです。(祝福家庭と理想天国I-二七)
愛はいつから連結されるのでしょうか。愛の力はいつから押し出してくれるのでしょうか。男女も思春期を迎え、すべての器官が百パーセント完成圏に到達するようになるとき、停止状態へ入っていくのです。すべてのものが飽和状態になります。運動というのは必ず飽和線を経ます。それで、いったん停止して、また回るようになります。そのような飽和状態に入っていって停止します。そのような飽和状態に入っていく前段階が何かといえば思春期です。思春期というのは「私」の肉体の発育において、すべての器官が完成した時期をいいます。気球でいえば空気がなくてぺちやんこの状態から、空気を入れてぱんぱんになり、破裂する直前になったということです。もう少し入れば破裂します。
その破裂するとはどういうことでしょうか。それが愛が完成して破裂するのならどれほどいいことでしょうか。同じく人間も十八歳ぐらいになればゴム風船のように張り詰めてきます。そして破裂直前の立場まで行き、そこから見事に永遠に転がっていくことができます。
霊肉が完全に一体となるときは、本然の愛が私たちの中に訪れてくるときです。堕落した世界の人間たちの場合も、思春期とは霊と肉体の細胞が和合する平行線上に立つこのとできる時期であるというのです。思春期のときの霊と肉体の細胞は、すべての門を開き喜んで迎えるのです。神様を中心とした思春期時代に人間世界を眺めるとき、喜びと幸福のみが満ちるようになるのです。
愛するようになれば幸せになり、愛に酔って感じる感情は、実に、のぞきめがねのようだといって、早く経験してみようと飛びつけば、それは大変なことだと言わざるを得ません。愛の門は時になれば開くのであり、門が開く時を待って入らなければなりません。自分が愛の主体になったと思った時、堂々と開かなければならないのです。
結婚適齢期はいつごろだと思いますか。心と体がも完成した力をもつときが結婚することのできる 適齢期であるといえます。青年期を越えればだんだんと気力が衰えていくために、いくら純情を保ったといっても相対者を求めるのが難しくなるのです。(祝福家庭と理想天国I-三六九)
それでは完成した人、すなわち完成した男性と女性が住むようになる場とはどのような場でしょうか。天の公的なみ旨を中心として神様の愛を受けることができ、心と体が完全に一つになり、神様を主体として侍ることのできる場です。このような場に住むようになるとき、完成したアダムとエバの立場に立つようになります。このような人々が家庭を築いて出発するのが歴史的な出発なのです。これが歴史的な人生行路の第一歩です。(祝福家庭と理想天国I-三七八)
三百七十九
八 心と体が一致した愛
皆さん、三点が分かりますか。三点。この三点が一つになれる点は、神様とアダムとエバが一つになれる場です。神様がアダムとエバと一つになれる場は、彼らの心と体が一致する場です。
男性は、心と体が主体と対象の関係になっていますが、心と体は縦と横の作用を継続することによって存在の力を発生させます。女性もやはり心と体が縦と横の関係をなしており、存在の力が起こってくるのです。男性でも女性でもすべて縦横の相対的関係をもっていますが、その力は愛なのです。愛だけが心と体の理想的関係を永遠に成すことができます。
貧しい農夫として田舎で草を取り、農作業をする場にいたとしても、その農夫の心と体に愛の情熱が燃えあがれば、心の五宮と肉の五官が完全に合わさって、これ以上にない喜びを味わうようになるのです。このように神様の愛が皆さんに臨むことのできる安着点を皆さんがもっているなら、時計の振り子の振動のように、神様の心が一度揺れれば皆さんの心が一度揺れ、それゆえに皆さんと神様が一緒に回っていくというのです。
一度回り始めればどんどん回っていきます。行けば行くほど加重された力、遠心力が作用して、家庭を愛しなさい、社会を愛しなさい、国家を愛しなさい、世界を愛しなさいと要求するようになるのです。 皆さん自身の心と体が一つになる中で愛の門が開かれる時が近づけば、皆さん自身の心が宇宙に共鳴して小説家や詩人になったりするのです。愛を主題として詩や小説を書くことができるのは愛を美しく幸せに結んでゆく資質を発揮するようになるからです。人間が愛の目を開けるようになれば、自分の心と体は宇宙の中で立体的な関係を結びたくなります。そして秋風に舞う落ち葉を見て自然の道理を悟りほほえむようになり、春の園に咲く花の中に美しさを見詰めたくなって、自分が一輪の花になったりするのです。
男性も女性もどうして愛を好むのでしょうか。人間の身体はおよそ一億兆にもなる細胞から構成されていますが、その細胞全体がいつ作動するかといえば愛する時なのです。人体のすべての細胞を動かすことのできる時が、まさに男女が愛し合う時であることを知らなければなりません。心と体が一つになって恋しい涙を流すようになれば、骨が鳴り騒ぎます。動物の場合においても同じです。皆さんも知っていると思いますが、雌牛が発情すると、どうなりますか。食べることさえ忘れてしまいます。
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その時、すべての神経がそのことだけを願うようになります。それと同じで、心と体が一つになった場所で愛し、互いに恋しがるようになれば、体の中で動かない細胞はありません。細胞の一切が本来の方向感覚を忘れてしまい一つに集中されます。こうして相対に出会うようになれば爆発するようになります。その爆発力はものすごい力になります。そのように愛して何をしようというのでしょうか。神様に似ようというのです。神様が喜ばれることに同参することのできる場に出ていこうとするのです。言い換えれば、神様が喜ばれることをともに感じようとするのです。(祝福家庭と理想天国I-三七八)
第七章 真なる夫婦の愛一 創造本然の夫婦関係
神様はプラスとマイナスの二性性相であられます。これをプラスに分立させたのが男性のアダムであり、マイナスに分立させたのが女性のエバです。一男と一女は、無形であられる神様の実体対象として現れた息子・娘です。男性は神様のプラス(十)の性稟を、女性は神様のマイナス(この性稟を代表した実体対象です。
創造理念は、両性の中和体としておられる神様の性相を二性に分立し、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化するものです。一人の男性と一人の女性は、おのおの神様の一性に似て現れました。したがって、彼ら一男一女の結合は、神様のプラス(+)性稟とマイナス(この性稟が一つになることです。すなわち、神様に似た中和体となるのです。それゆえ、人間の二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体です。
男性は神様のプラス(+)の性稟を代表することによって真の父の分身となり、女性は神様のマイナス(この性稟を代表することによって真の母の分身となるのです。彼らはおのおの神様の身代わりでもあります。夫婦が愛で一つになることは、天宙を抱くことと同じです。これは宇宙的な出会いです。 夫は多くの男性を代表して現れた存在なので、夫であると同時にお父さんの身代わりでありお兄さんの身代わりであって、妻は多くの女性を代表した存在なので、夫人であると同時にまたお母さんを身代わりし、同時にお姉さんを身代わりしているので、互いに愛し合い尊重しないようにしようとしても、せざるを得ないのです。
男性は神様の陽性的形状であり、女性は神様の陰性的形状です。夫婦は天下を一枚のふろしきに包んだのと同じです。ゆえに夫婦は、神様の理想的な愛の心情を感じることができます。男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つとなって調和を成し、平衡線を成さなければなりません。(祝福家庭と
理想天国I-八六八)
夫婦というのは自分一人に限った夫婦ではありません。天地を代表した夫婦だということを知らなければなりません。男性と女性の愛の完成が宇宙の完成です。この愛が壊れる日には宇宙の秩序が破壊され、縦的な世界がすべて台無しになります。男性と女性が互いに好きで抱擁すること自体が、宇宙が一体を成す場となります。神様の理想の中で成される創造本然の姿がそうなのです。
人間が男性と女性として生まれたのは愛のためです。愛は夫婦となって一つとなることにより、実を結ぶことができます。男性と女性は神様の愛が二性性相によって分立した実体なので、分立した実体が合性一体化するために、神様の愛を尋ねていかなければなりません。
三百八十一
神様の愛に出合おうとするなら、男性と女性が愛で一つとならなければなりません。男性と女性が一つにならなくては、神様の愛に出合うことはできません。神様の愛に出合うことによって、私たちは神様の同位圏にとどまるようになるのです。
同位圏とは、神様の横に立つことのできる位置をいいます。夫婦が完全に神様の愛を中心として一つとなるようになれば、その夫婦は神様の位置まで出ていくことができるということを知らなければなりません。神様の位置に上がっていくことができるだけでなく、神様がもっているすべてのものが自分の所有圏内に入ってくるようになるのです。愛の力はこのように驚くべきものです。
神様が皆さんに同参的権威を許されると同時に、皆さんは神様がもっておられる所有権限全体を伝授されるようになるのです。アダムの願いは天宙を治めることでした。アダムが愛した夫婦の価値は、世界の中心的価値を代表したものです。堕落しないで神様が立てる本然の人、すなわち本然の男性と女性を中心としたその愛はどのくらい貴い価値があるのかをはっきりと知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-九六九)
二 夫婦の愛が必要な理由
皆さんは、天国がどのような所だとお思いになりますか。天国は一言で言って、完成した人が入り、暮らす所だということができます。天国が真なる愛を備えた完成した人が入る所であるとするならば、その真の愛を備えた人とは、どのような人でしょうか。 人間は男性と女性で成り立っています。神様の理想的愛の完成が、地上でどのように成り立ち得るかを見るとき、男性と女性を離れては成り立ち得ないという結論に至るのです。完成した愛の主体性を備えた男性と女性でなくては、神様の愛が完成されません。(祝福家庭と理想天国I-九五一)
真の家庭は家庭天国を築かなければなりません。家庭天国を築くようになれば、間違いなく地上天国が築かれます。なぜ、そうでしょうか。未来の天国に対する実感を現在の立場で刺激しようとするので、不可避的に相対が必要ですが、家庭において相対からその刺激を受けることで、未来の天国理念を今日の生活感情から体得することができるからです。それを体得するために、夫婦が必要なのです。その刺激によって、夫婦は永生することができます。発展は刺激がなくてはできないのです。
夫婦の愛は、理想天国を建設することのできる刺激を与えるのです。言い換えれば、未来の喜びを現在圏内に引き込み、刺激を与えて推進力を補給させ、その場まで行くようにするのが夫婦の愛です。その愛の中には、国の愛も入っており、世界の愛も入っており、神様の愛も入っています。したがって、その愛はどこでも無事通過です。
三百八十二
結局、天国には互いに愛し合う夫婦だけが入ることができます。それゆえ、この地上でそのような思想をもって互いに愛し合う夫婦は、いつも天国生活をしているのです。イエス様は「天国はあなたの心の中にある」と言われたでしょう。けれども今日、統一教会では、「あなたの家庭に天国がある」と言うのです。
家庭で天国を築くことができないというときには、統一教会のみ旨が成されないのです。けれども、築くことができるというときには、そのみ旨が成されます。このような観点から、皆さんは原理を中心として正道の道を選んでいかなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-八七五)
今後、天国を築こうとするなら、夫婦同士が愛し合うのと同じように、結婚した男性は世界のすべての女性たちを自分の妻を愛する心で愛そうと思わなければなりません。「世界のすべての女性の中から代表的な伴侶として私は妻を選んだのです」。このように考えなさいというのです。
また女性たちは、自分の夫なら夫に対して、ただ一人の夫としてではなく、全世界の男性の中から代表として選ばれた人が夫だと考えなさいというのです。女性の皆さんがどうしなければならないかと言えば、一人の男性を愛しますが、その男性一人としてだけ愛するのではなく、世界の男性を代表した男性として愛さなければなりません。その男性はお父さんを代表し、お兄さんを代表し、夫を代表するのです。
それはどういう意味でしょうか。夫をお父さんのように思い、おじいさんのように思い、その次にはお兄さんのように思い、弟のように思わなければならないということです。このような縁を通してお父さんを愛し、おじいさんを愛し、お兄さんを好きになり、弟を好きになることのできる、そのような女性こそ相対を迎えることができるのであり、「お父さんも嫌い、お兄さんも嫌い、おじいさんも嫌い、弟も嫌い、みんな嫌い、ただ自分の夫だけ好きだ」、それは神様の公約を外れた立場です。
だから、どうしなければならないかと言えば、全世界の男性すべてをも愛することのできる心を内包し、その結実のような男性を「私」が抱いて愛するのは、全世界のすべての男性を代表して愛するのだという観念をもたなければなりません。「私」のお父さんのように、「私」のお兄さんのように、「私」の弟のように万国を超越して、国境を超越して愛し得る心をもつようになれば、その人は神様の息子だということができ、娘だということができます。これが統一教会の思想です。(祝福家庭と理想天国I-八七五)
三 理想的な夫婦の関係
真の夫とは「私が生まれたのはあなたのためですから、あなたのために生き、あなたのために死ぬでしょう」と言う人です。真の妻も同様です。このように相応しながら、自らを越えて相対のために生きる原則をもつことのできる家庭なら、この家庭こそ理想的な家庭であり、幸福の家庭であり、平和の家庭で
あらざるを得ません。
三百八十三
男性がいくら優れているとしても、男性が生まれるようになった動機は、男性自身にあるのではありません。女性のために生まれたというのです。女性がいなければ男性がこのように生まれることができますか。その反対に、女性はいくら美しい化粧をし、「私」がアメリカのある俳優だと誇っても、その女性は女性のために生まれたのではありません。
ですから男性は肩が大きく、女性はおしりが大きくて、それを合わせれば、よく合うようになっています。それゆえ真なる愛の妻、真の理想的な、幸福な妻と夫はどこに存在するのでしょうか。「私」のためにではなく、互いのために生き、またそのような心が一致するとき、理想的な夫婦が現れます。それは
間違いない事実です。
このような原則から見るとき、理想的な愛や、また幸福で善なる人をどこで探すことができるかといえば、自分のために生きようとするところでは探すことができず、人のために生きようというところに根拠を置けば探すことができるのです。夫は妻のために、妻は夫のために生命を捧げることができなければなりません。その夫婦は神様の愛の圏内に連結され、直接的な保護を受けるので、堕落はあり得ません。(祝福家庭と理想天国I-八八二)
男性が自分の妻を愛することにおいては、世の中のどの男性が自分の妻を愛するのよりも愛さなければなりません。女性も自分の夫を愛することにおいては、世の中のどの女性が自分の夫を愛するのよりも愛さなければなりません。それが真の家庭を築いた夫婦が守るべき愛の倫理なのです。
真なる父母は、子供のために生きて死にます。そこには愛が成り立っているからです。同様に、真なる愛の妻と夫、幸福な妻と夫とは、互いのために生き、愛で一つとなるときに現れ得るのであり、また、それが理想的な夫婦です。
新郎・新婦はお金や権力、名誉を中心として一つとなるのではなく、神様の本然の愛を中心として一体とならなければなりません。この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくるときに力が生じます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出るし、その妻の姿を見て夫も力が出るようになっています。
ですから、彼らはお金を稼ぐことができなければ、不安で夫婦関係が壊れたりもします。真なる夫婦は、神様を中心として愛の一体を成し、愛を中心として前進的発展を成していかなければなりません。妻は夫のために生き、夫は妻を愛する中で、一級の夫婦が神様を愛する家庭をつくり上げていかなければならないのです。
夫と妻が互いに愛し合うことにおいても、神様の身代わりとして夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛するようになれば、互いに足らない面が現れるようになって、結局は離婚する事態まで起こるようになります。
三百八十四
近、済州道の娘が嫁ぐとき、田畑を与えれば登記するのに娘自身の名前でするというでしょう。いつでも夫と別れれば自分の主張をするために、そうするのです。それは本当に理想的な夫婦でしょうか。お金を使っても、これは夫のお金、これは自分のお金、お金を持っても、つるつるしたのは自分のお金、しわが寄ったお金は男性のお金・・。それは愛ではありません。
お金の包みを広げて使っても「どうなった?」「私が使った」「そう?いい時に使ったわね・・。もっと使って・・。」これでこそいいのです。口をぶるぶる震わせ「ああ、また使ったわね・・!」これでは落第者です。ですから、いつも与えても、無限に与えることができ、いつも思いのままに、深い所でも低い所でも、夜でも昼でも授け受けることができるようになるときに、幸福なのです。
それゆえ、与えようとしても与えることができないときは不幸なのであり、受けようとしても受けることができないときも不幸なのです。(祝福家庭と理想天国I-八八二)
四 神様も酔うことのできる真の夫婦の愛
私たち個々人は心と体が相反しているので、心を中心として体を一つにし、心の中に神様が臨在できる相対的基盤を造成しなければなりません。このような男性と女性が祝福を受けて、完全な愛を授け受けながら喜びを享受するとき、神様がご覧になると、地上に咲いた花のようだというのです。
また、彼らの愛によって築かれたすべての調和的万象は、神様には香りのようなものです。このような美しい花と香りの中に神様は暮らしたくて、訪ねてこられるのです。神様の愛が訪ねてくることのできる土台が、すなわち夫婦愛の場だというのです。その場は、すべての万物と宇宙が調和する場となることでしょう。このような内容と道を教えてくれるのが統一教会であり、統一教会の原理です。(祝福家庭と理想天国I-八八九)
神様が 高に喜ばれるメロディーが何かといえば、男性と女性が互いに好き合って喜ぶ永遠なる夫婦の笑い声なのです。そのような夫婦が世の中を理解して抱くことができ、宇宙全体を受容できる心で生を営むとき、笑いは自然発生的となりまず。そのような男女の美しい姿が、神様の前に一輪の花でなくて何でしょうか。これは単純な理想でも抽象でもありません。本然の世界を語っているだけです。
夫婦同士、家の前にある山を眺めながら、あの山が生まれたのは誰のためかを尋ねてみて、全宇宙を考えながら、この宇宙が生まれたのは誰のためかを尋ねてみます。そうすれば、自分のためであると同時にあなたのために生まれたのだと答えるのです。夫婦とはまさにこのようなものです。この宇宙の存在価値を重要視することが、夫婦が一つとなる道です。夫婦は心を中心として、人格を中心として、愛を中心として話をするのです。夫婦は同じ道に行くのです。
田舎者の娘だといっても、大臣と結婚すればどうなりますか。同じ道に行くのです。その田舎者の女性が小学校も出ていないといっても、すべての人が大臣の奥様だといいながら、頭を下げなければならないのです。このように夫婦は共に行くのです。夫婦に「あなた」の愛が別にあり、「私」の愛が別にありますか。「あなた」の愛であるとともに
三百八十五
「私」の愛なのです。「お前」の愛であるとともに「私」の愛なのです。心情と血統がすべて一つになって愛するのです。 このように愛し合うことができる人は誰ですか。夫婦です。夫婦なき世の中ならば生きる味わいがありますか。愛し合う夫婦が対話する姿を見れば世の中のどんな詩や絵よりも美しいのです。また「愛し合う者同士、私たちだけ、私たち二人で」という言葉がどれくらい美しく素晴らしい言葉ですか。
良いには良いのですが、その中でも良いものは何でしょうか。相対者しかいません。私が「あなた」と呼べば、相対的に「お前」と答えるし、「やあ」と呼べば「うん」と答えるのです。
夫が愛する妻を慕わしくやさしく「お前」と呼べば、親しくやわらかく「どうしたの」と答えます。しかし、無愛想に呼べば同じように「何だよ」と答えるのです。山びこと同じで、みな相対的だというのです。
愛に酔った人々の笑いを見れば、それも相対的です。男性は笑うとき目を一層大きく開くのに、女性は笑うときそっと目を閉じます。夫の目が大きくなり、妻の目がだんだん小さくなれば、彼ら夫婦は愛に酔った幸福な夫婦だということができるでしょう。(祝福家庭と理想天国I-八八八)
五 会えば会うほどいっそう会いたいのが夫婦の愛
男性が幸福な時はいつであり、女性が幸福な時はいつだと皆さんは思いますか。二人が相対を成して愛を授け受ける時が、幸福な時だということができます。男性が女性に対するとき、こぶしを振り回したり物理的な力を動員するなら、彼ら夫婦は決して幸福であるとはいえないでしょ男性が女性に対するとき、力で胸に抱いて保護しながら愛するとき、女性は本当の幸福を感じることができるでしょう。男性と女性の間の愛において、力だけでもだめであり、心で愛するといって、それだけでいいのでもありません。
愛する心を、力をもって確認してあげたとき、女性は本当の幸福感を味わうことができるでしょうし、また、女性が男性に対して心と体で愛を返すとき、本当に幸福な夫婦となるでしょう。(祝福家庭と理想天国I-八九〇)
人はいつも刺激が必要です。幸福は刺激なしには築かれません。刺激がなければならないというのです。いつも食べるご飯も、食べるときごとにおなかがすいていてこそ、新鮮であるように、夫婦間の愛も同様に、いつも新しくなければならないというのです。
妻と夫が互いに見詰め合えば見詰め合うほど、もっと見詰めたいし、一日中共にいたくなければなりません。愛は互いに恋しがるとき価値があります。口があれば口を広げ、目があれば目をあけて愛をくださいといえば、愛をくれる人も気分が良いでしょう。ぼうっとしていると、愛が来ても逃げていくということを知らなければなりません。
三百八十六
愛する人が真剣でなく、消極的に出るとどれだけ気分が悪いでしょうか。皆さんは愛する者同士共にいることがいいですか、離れているのがいいでしょうか。近くに共にいればいるほどいいのです。なぜでしょうか。すべてのことが一遍に作用するのでいいというのです。
一番いいことが何でしょうか。食べることですか。おなかがすいた時、ご飯を見てよかったといって食べますが、そのようなことは一時的だというのです。飽きるほど食べたのに、また食べ物を上げれば嫌になります。けれども、自分が愛している人に対しては、そうではないというのです。
愛する人を「私は忘れてしまいたい。嫌い」と言う人がいますか。見ても見ても限りなく見たくなるのです。そうでしょう。見てもまた見たいし、また見てもまた見たくなるのです。だから互いが、お前が前に立ち、私が後ろに立つといいながら、車輪のように回るというのです。ここから統一が始まるのです。
愛を知った妻は、夫の胸に頭をうずめて昼寝を楽しみたいという衝動が起こったりもします。それは幸福に酔って、ふらふらになるからなのです。結婚する前には、恐ろしくて気持ち悪く見えた男性が、結婚して夫となってからは、会いたくて一日に何度も見なければだめなほど、心境の変化を引き起こすのが女性です。だから、電話をして、昼食の時間にちょっと家に立ち寄りなさいと呼び出したりもします。
愛を知った男性も、同様です。暇さえあれば、妻のひざをまくらにして、眠りたがります。だから昼食の時間やコーヒーを飲む時間はもちろん、時間があれば家に飛んできたりします。また、結婚する前には「そのようなことは女性がやることだろう、男がすることか」と言いながらしなかったことも、妻が願いさえすれば、ためらいなくしたりします。このようなことが、愛を知った男性と女性においてよく起こる変化だといえます。
神様は人間をお造りになり、祝福してくださるとき、夫婦が幸福になれるようにしてくださいました。そのような祝福の門を開いて入った夫婦は、二人でささやくのに余念がないというのです。「私はあなたに会うために、このように待ってきました。私の生命はあなたを通してその価値を花咲かせるでしょう。あなたを愛するために生まれ、また、きょうのために待ってきました」などなど、互いをたたえ合う甘い話だけだというのです。
この世に愛の蜜語ほど甘ったるいものは存在しないでしょう。夫婦が寝床に入っても、ささやく蜜語はこの世のすべての疲労と憎しみを溶かす清涼剤となるのです。(祝福家庭と理想天国I-八九四)
六 夫婦の愛の発展過程
男性と女性が神様を仲保として出会うとき、どのように愛の表現をするでしょうか。愛の発展過程を見れば、初が口であり、二番目が胸であり、三番目が生殖器です。女性が初めて男性に出会って愛し始める前に、恥ずかしさを感じて隠すのは口であるので、手で口を覆うのです。
三百八十七
愛が口付けから始まるからです。愛が次第に成熟すれば、その結実として息子・娘が生まれるようになるのです。女性において生殖器は、愛の聖所ですが、その門を開けることのできるかぎは、夫だけがもっているのです。 夫が妻の愛の聖所を開けることのできるかぎを二つやそれ以上もっているなら、その夫はサタンです。また妻の聖所が開くのは、夫がもっているかぎだけでなければならないにもかかわらず、どんなかぎでも開くならば、それもまたサタンなのです。
夫がもった愛のかぎが妻の聖所を開けて入れば、そこから世の中でも貴く価値のある息子・娘が誕生するようになるのです。その息子・娘の価値は、この世の何ものとも取り換えることのできない愛の結晶体なのです。息子・娘を通して、神様が人類の先祖であるアダムとエバを創造された心情を体得するようになるのです。だから父母は、息子・娘を見ながら「こう見てもわが愛する人、ああ見てもわが愛する人・・(パンソリ『春香伝』)」と歌い、喜ぶようになるのです。
愛で生まれた赤ん坊が、何をしても憎くなくてひたすらかわいいのは、その赤ん坊が自分の血と肉で、そして愛でつくられた分身体であるからです。小便をし、大便をし、鼻を垂らしても、ただひたすらかわいく愛らしいのです。それらの中に愛が染み込んでいるからです。(祝福家庭と理想天国I-八九四)
夫と妻の関係でも、愛の強力な力で結ばれたなら、相対が何をしようと、どのようなことをしても、うれしく、愛らしく感じなければならないのです。夫の体から出るにおいが嫌だといったり、妻の身振りが嫌だと考えたり、感じたりするのは、二人の間に完全な愛が築かれていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれたからです。
結婚後の家庭生活は、神様を真ん中に奉り、その神様がともに喜ばれる姿を見ながら、互いに愛し合うことのできる関係になってこそ、本当の喜びを感じることができます。男女が結婚して互いに愛し合うことは、本来恥ずかしがることではありません。これはも尊厳なことであり、神聖で美しいことであるにもかかわらず、神様の戒律を犯したために、愛の歴史は、罪悪によって恥ずかしい方向に流れてきました。
エデンの園で裸になって踊りを踊るのを誰が見たでしょうか。ですから人かいない所では、そのようなこともできるのです。部屋で夫婦が裸で踊るといって、それが心配することでしょうか。しかし人が見る前でそうであるなら、それは社会から非難を受けて当たり前なのです。夫婦だけでこそ、裸になって踊るのみでなく、何かをしたとしても誰が干渉するでしょうか。
ですから祝福家庭も、二人で裸になって踊りを踊りなさい。夫婦同士なのに何のかかわりがありますか。この世に男性と女性がいくら多いといっても、私たち二人しかいないという心をもたなければなりません。精誠を尽くすその女性しかいないという思いの中に、精誠を尽くすのが原理です。(祝福家庭と理
想天国I-八九一)
三百八十八
真実の幸福といえば、相対者とともに愛に酔って笑い、歌い、ささやくところで見つけることができます。愛する恋人からささやきの言葉を聞くことのできる人は、幸福な人であるといえます。耳元で愛をささやくことは、まさに夢を見るかのように幸福感を感じることができるからです。(祝福家庭と理想天国
I-三七一)
七 愛する人が死ぬとなぜ悲しいのか
夫を失えば、女性はどうして泣くのでしょうか。恋しい人を失ったので、悲しくて泣くようになるという、そのような漠然とした理由のためだけではありません。愛は四方性を備えなければなりません。
そうしながら、立体的に前後・左右と相関性を備えなければなりません。このような愛であるので、夫はその女性と左右の側で、相対として愛の四方性を成すようになるのであり、したがって、このような妻は夫がいないことによって、全宇宙が保護するその立場から、保護を受けられない立場に落ちることになるので、宇宙から受ける力が苦痛に感じられるようになるというのです。
愛する妻を見れば、なぜいいのでしょうか。一人だけでいるときは、宇宙の球形的な四方から保護され得る基準に立てなかったのに、相対がいることによって、その相対と授け受ける横的な愛の関係を結び、縦的な宇宙の力と接することのできる場をもつようになることで、宇宙の保護力によってその相対をもつ者は、無限にうれしくなるのです。
ですから、愛する妻を見れば、全精神が統一され、その妻しか見えないというのです。ですから、踊りを踊り、歌を歌うようになり、共に一団となって回るのです。 踊りを踊り、歌を歌って喜ぶ、そのようなことをなぜ、何のためにするのでしょうか。保護圏を拡大するためです。多くの人々がレバレンド・ムーンに反対しますが、そのようなレバレンド・ムーンがアメリカに行って、アメリカの若い彼らと徹夜しながら、彼らを教育して運動をさせながら、時には彼らとともに踊りを踊り、歌を歌って楽しむのは何のためですか。保護圏の拡大が私と関係があるからです。宇宙保護圏の拡大作用が私とともに始まるので、反対を受け監獄に入るようになるとしても、恐れることなく押し続けていくのです。
いくら幸福をうたい、何がどうだといっても、一人で生きるのが幸福ですか。夫婦のうち、一人が死ねば悲しくてわあわあ泣きます。一人で自分の行く道を準備できるでしょうか。なぜ片方だけだとかわいそうだといいますか。天地が喜ぶことのできるすべての重要な日々の前に、不合格者であるからです。天地法度の規律の前に外れたというのです。明らかにその法度を通してだけ、天地の運勢は回り、幸福の要件とその動機が決定されるのです。
悲しいというのも、それだけ法度から遠のいたからであり、そのような悲しみが生じるのは、天地法度とは順応しない立場にあるということです。心がうれしく、いいというのは何ですか。その人を世界で歓迎してくれる場があるということです。悲しいのは追い出される立場だからです。喜びと悲しみがそのように分かれるようになっているのです。夫婦が共に暮らして、一人が先に死ねば、泣くようになります。
三百八十九
なぜそうなのかといえば、この宇宙の公法の前に不合格の基準に該当すれば、この宇宙の公的な力がその人を押し出すようになり、またそのようになるときに、悲しみの度合いが強くなるからです。それでは喜びはどのようにして生じるのでしょうか。そのような宇宙の公法に一致する自分となれば、宇宙の力が彼を抱こうとします。
その力が大きければ大きいほど、強く抱き締めるようになり、強く抱けば抱くほど、彼はその内的な中心に入っていくようになるので、喜びが来るというのです。ですから、悲しみと喜びは、どこから生じるのでしょうか。皆さん自身から生じるのではありません。これは力の原則、すなわち宇宙の公法を中心と
して生じます。
それでは、その宇宙の公法とは何でしょうか。男性と女性が初から 後まで一致していく道であり、またこの道は、天運が行く道です。一人で行くのではなく、男性と女性が一致して、すなわち夫婦が一心となって行く道です。
皆さん、今までこのような話を聞いたことがありましたか。ですから互いに争い合い、泣きわめき、死んでやると大騒ぎをする人々は、早く除去されます。公的法度圏内で、合格品でない不合格品として見なされるのです。そうして、どこに行きますか。ごみ箱に行くというのです。心はそれを知っているので、それに対しては、即時に悲しみを感じるのです。(祝福家庭と理想天国I-九〇二)
八 死ぬときまでに永遠に成すべき夫婦の愛 夫婦が互いに愛し合うことにおいて、いつまで愛し合うのかと尋ねるとき、若いときだけ愛するというなら、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。いつまで愛することを願うでしょうか。「永遠に」とも言いますが、死ぬときまで、その次に永遠に愛することを望むというのです。永遠は未来を中心として、全体をいうのです。
死ぬときまで愛するということは、自分のすべてのものを根こそぎ与え、愛するということです。そうでしょう。「永遠に」は全体的であり、「死ぬとき」まではすべて愛するということです。そうしてこそ、相対が喜ぶのです。
この場にいる娘たちが今からお嫁に行けば、夫に間違いなく「あなた、私を愛しますか」と聞いてみることでしょう。愛するといえば、「私をすべて愛しますか、少し愛しますか」と、このように尋ねたとき、すべてを愛すると返答してこそ、気分をよくするのです。男性もそうです。仕方がありません。神様の調和がそのようになっているのです。
390 * 三百九十
人々は結婚するとき、互いに死ぬまで愛するといいます。愛するという言葉を語るとき、ただ死ぬまで愛するという言葉と、「ずーっと」十年、百年、億万年愛するという言葉の中で、どれを願いますか。ただ死ぬまで愛するという言葉を願いますか。ここにいる女性たち、返答してごらんなさい。ただ死ぬまで愛するという言葉より、ずーっと億万年愛するという言葉を語れば、もっと喜ぶことでしょう。これが十年、百年、このように長くなるほど、もっとよいのです。 夫が妻と出会い、「ずーっと」、その次に十年が過ぎても「ずーっと」、また五十歳、年を取っても「死ぬまで愛する」と言うことができるなら、その妻は、自分の年取った旦那さんがどれほどいいか分からないのです。そういうものです。おなかが出て、うんうんとうなるとしても、喜ぶのです。(祝福家庭と理想天国I-八八四)
真の妻、真の夫とはどのような人でしょうか。人はある程度成熟すれば家庭を築くようになりますが、自分の相対を永遠なる愛の相対として考え、初恋とともに日がたてばたつほど、その初恋にプラスされる愛の家庭を築かなければなりません。
その家庭的な愛が拡大され、氏族を成し、永遠に愛を拡大させていくことのできる、永遠なる愛の実体としてつながれるようになるとき、そのような夫婦は真の夫婦であり、真の妻と夫となるのです。また、そのような夫婦が神様の愛に同参できるのです。(祝福家庭と理想天国I-八八二)
妻の目には夫が高であり、一番に見えなければなりません。夫の目にも妻がそのように見えなければならないのです。初恋で結ばれた縁が 高の縁です。人が何をいおうと高です。このようなものは何億上げても買うことができないのです。
このような世界を自分が永遠にもつことができるなら、どれほど素晴らしいことでしょうか。すべての人がその程度にはならなければならないというのです。妻は夫によく従い、よく助けなければなりません。そのようなことが、文学作品や映画の一場面にだけ現れてはいけません。
現実に一生の間、そのように暮らさなければならないのです。高の歴史と 高の文化が崩れたので、先生はそのような世界を立てるために、そのように暮らすために、新しい歴史を創造してきたのです。
統一教会でいう理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。高の芸術を実体をもって展開することのできる夫婦です。 高の文学を展開することのできる夫婦です。 高の理想と世界 高の文化世界に触れる前に、高の愛で夫婦が授け受ける甘い愛が、世界高の芸術作品とならなければならないのです。それ自体が高の文学作品であり、それ自体が文学の実体とならなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I-八八四)
第八章 真なる父母の愛
一 父母の限りない愛の心
子供を産んで育ててみた親たちは分かるでしょう。愛している大切な息子・娘を通じて恵みを受けたいし、幸福も感じたいのです。また、うれしいこと、恵みを受けることがあればその息子・娘に永遠に残してあげたいでしょう。
三百九十一
そのような希望の心を抱いてその息子・娘がまっすぐに育ち万国から崇められ万世にたたえられる息子・娘になることを堕落した人間も願っています。夜も昼もその息子・娘がけがをしないかと保護し、切ない心情でもどかしがるのが父母の心です。堕落した父母の心でさえもそうだというのです。
胸に抱き、乳を飲ませて育てる母親の切ない心、子供が大便をし、おしっこを漏らしてにおいがしても愛でその環境を忘れることができるのが父母の心です。堕落した父母が子供を思う心がそうであるならば、ましてや愛の主体であられる神様が本然の心情を通じてアダムとエバを愛されたかったそのお心がどれほど切なかったでしょうか。
皆さん一度考えてみてください。皆さんが子供を抱いて育てるとき子守歌を歌ってあげ、独り言で話しかけ、立派になることを願うその心は父母ならば誰でももっていることでしょう。いくら甲斐性がなく、足りない父母でもその子供に欠陥があれば、父母の心はその胸が涙でずぶ濡れになるほど、この上ない苦痛を味わうのであり、これが解かれればその苦痛に比例して喜びが伴うのです。堕落した父母の心でもそうなのですから神様のご心情はいかばかりでしょうか。(二〇-二○九)
父母は息子が罪を犯して牢獄へ行けば「あの野郎よく行った」と言うのではなく、その子を許し、涙を流して愛そうとします。それが父母の愛です。それで父母の愛が貴いのです。もしもその息子が死刑囚になって死ぬ時刻となれば、息子の死刑執行の時をお母さんが知っていれば、慟哭するでしょう。
この世のすべての法をみな変えてしまうことがあったとしても、息子を救うことのできる道が一つでもあるならばどのような冒険でも生命を懸けてやるのです。そのような変わらない愛をもっているので、父母の愛は貴いのです。自分の体を打ち、自分の体を失ってでも自分を犠牲にしながら子供のためには死んでもかまわないというのが父母の心情です。(九一-一四八)
子供を愛する父母は子供を愛するとき、「私がお前に何日にゴム靴を買ってあげ、服を買ってあげ、お前のために血と汗を流したんだ。その価値は何千何百何十銭だ」と言って帳簿に付けますか。
父母が子供を愛するのに、この世の王宮の王子・王女以上にしてあげたいのですが、それ以上してあげたい気持ちを感じる場で、「私が精誠を尽くしてもこれだけしかできなくてすまない」と言うのです。「もっとよくしてあげたい」という気持ちを父母はもっているのです。
それで父母の愛を好むのです。皆さん、それを知らなければなりません。与えても不足を感じ、愛しても愛し足りないことがないかといってもっと愛したい心、与えてからも物足りず、やりきれない思いこのようなものがあるので、これは永遠の愛と通じ、本質に属することができるのです。それが愛の出発の伝統的な動機です。(六〇-八四)
三百九十二
父母は子供に対して自分の一番いいものを全部あげたいのです。それが父母の心です。これは誰に似てそうなのかといえば神様に似てそうなのです。それでは神様はどのようなお方でしょうか。子供となる人間が本当に現れれば彼には自分よりもっと貴いものをあげようとずるお方が神様なのです。(五六-一四七)
二 子供がより素晴らしくなることを願う父母の心
ここで中年以上の皆さんに「昔、若い時に自分の相対を探すのに自分よりできの悪い人を求めましたか、それとも自分より素晴らしい人を求めましたか。」と聞くならば、答えはみな同じことでしょう。できの悪い人ではなく、素晴らしい人です。東西洋の誰に聞いてもそのような結論を下すことでしょう。ましてや、愛する父母が子供に対する時は、その子供が父母である自分よりもできの悪いことを願う父母はいないのです。
ある美男・美女が結婚して初めて子供を産んだ時、その子の顔を見るとその父母の順に比べると何でもないようなでたらめな顔でもその父母に対して、あなたの子供はあなたよりもきれいだと褒めれば褒めるほど、その父母はとても気分がよくなるのです。
父母の心情について考える時、おばさんの顔がきれいだとしてもそのおばさんが抱いている赤ちゃんを見て通り過ぎるおじさんが「わー!この子はお母さんより何千万倍もかわいい」と言えば喜びます。それは、お母さんがその赤ちゃんよりも何千万倍もブスだという言葉です。
でもそんな言葉を言われて「何ですって?私より何千万倍もかわいいって?そんな私は何千万倍もブスだってことじやないの?」と言いながら食って掛かるお母さんはいません。ただうれしくてどうしていいか分からないのです。これが母親の心です。このような心は誰に似たのでしょうか。お母さんは結果的な存在であって、動機的な存在ではありません。
息子が父親よりもできの悪いことを願う家庭があるならばその家は滅びるのです。父親は大統領なのに息子がそれより劣るようになって、そのような形態が数代か続けばその家はだんだん滅びるのです。しまいには肩身の狭い立場になるのです。息子がお父さんに「お父さん以上にやりたいのですが、いいでしょうか。」と言えば、お父さんが「やいこの野郎!」と言うでしょうか。「そうかやってみなさい」と言うでしょうか。後者を選ぶのです。(四一-二八三)
どのような父母でも家庭の責任を任せるために自分の身代わりを立てる時は、自分よりもできない者を身代わりに立てることを願いません。なぜそうなのでしょうか。子供が自分より優れてはいけないと考える父母は絶対にいないからです。また国を中心として見る時も、やはり同じです。
国の主権者は、自分以上の主権者が現れることを願う主権者にならなければなりません。家庭においても、国家においても、誰彼を問わず、自分より素晴らしく、自分よりすべてのものを備えている後継者が現れることを願わなければなりません。これは歴史の変遷を超越する、永遠に近い要求条件です。
三百九十三
父母の愛が永遠に持続するためにはその伝統を継承した誰かがいなければなりません。明らかに子女たちが相続者です。私たちが子女たちを、そのような伝統の相続者になるように教育しなければなりません。そしてその伝統をより高い価値に向上させることのできる方法が私たちには必要です。
各世代ごとに既存の伝統の重要さを認識しなければならないし、その伝統を継承するだけでなく未来に向かって発展させなければなりません。そのような伝統は、いつも父母が自分たちよりも子女の勝ることを熱望する、そのような真の家庭からのみ出発することができます。
このような熱い望みをもった父母たちは絶えず、子女たちに注意を傾け励ましてあげることでしょう。そのような父母は子女たちが彼らよりもっと素晴らしくなれるその日を待ち望んで、子供たちにできる限り善の条件を準備してあげようと精誠を尽くすことでしょう。このような父母は子女たちの幸福のためにすべてのことを犠牲にするでしょうし、甚だしくは子女たちを父母よりもっと素晴らしくしてあげる方向に、進んで強要したりもするでしょう。
父母は子供が自分より素晴らしいとき幸福を感じます。ですから女性として生まれて自分よりもできの悪い息子・娘を産めば、天の国に入る面目を失います。お父さんとお母さんは、自分を愛する以上に自分の息子・娘を愛することができなければなりません。また子女もそのように考えるとき自動的に愛の世界が現れて、天国が築かれることでしょう。(祝福家庭と理想天国II一〇〇七)
三 父母の愛は永遠不変の愛
父母が子供を愛する愛のその起源的な動機はどこから始まったのでしょうか。男女を中心とする愛は変わる愛ですが、そこから生まれた息子・娘を中心とする愛はなぜ変わらないのでしょうか。これは、その男女を中心とする愛から来た愛ではありません。変わらない愛は横的な夫婦の因縁でできたものではなく、縦的なある流れの起源を通じて関係ができたものに違いありません。そのような縦的な主体は誰でしょうか。
そのような主体を私たちは神様といいます。その愛は夫婦が思いのままにできる愛ではありません。その愛の前に私がしたければするし、したくなければしない立場には立つことができません。それは切っても切れないものです。横的な因縁では触れることができません。ですから、父母が子供を愛するその愛は
永遠不変です。
今日、民主社会において、個人主義思想が澎湃したこの時代において、子供たちは「新時代と旧時代は次元が違う」と言いますが、子供たちはそのように変わってもその父母の心は旧時代であるとか新時代であるとか叫ぶからといって「お前がそうなら私はこうしよう」と言うようにはなっていません。父母の愛はそうではないのです。それは動物も同じです。赤ちゃんを愛するにも自分の生命を超越するのです。(四八-一五五)
三百九十四
それではそのような愛はどこから来たのでしょうか。私自身が第一のある相対的な結果の存在ならばそれは第一のある力の因縁の中から来たものです。それは、私たち人間として触れることができるものではありません。ですから「父母が子供を愛する愛を革命しよう!革命の旗手になろう!」と言う入を見ましたか。
もしある父母がこの愛を革命して人類歴史を改造してしまうといって「私は父母は父母だけれど、子供を愛さない」と主張したとしましょう。しかしその父母は、子供のへその緒が離れる瞬間、子供を愛する心が自然に湧くことでしょう。すべての生物はものの高低を問わず自分の子供を愛さざるを得なくなっ
ているのです。
愛するために生命を投入して、生命を踏み台にしてでも愛したく思う作用があるのを見る時、永遠不変という概念に近いのが父母の愛です。それは「絶対性」を求めていくにおいて「絶対」それ自体にはなれませんが、人間の前に一番近い支石にはなれます。ただ一つの土台になり得るのです。その次に、これが人間の世の中においてそれでも、歴史を見るとき永遠の土台になっているのではないかというのです。
そのような父母の愛はどこから来たのでしょうか。それはお父さんから何か勧められて習ったのでもなく、自分の相対に忠告されて習ったのでもなく、自分自身がこうだろうと思って出てきたのでもありません。自然にそうなるのです。愛というものは自然にそうなるところで成立するのです。(四八-一五六)
本質的な愛を分析してみれば愛には革命がないことを知ることができます。父母が子供を愛するのは真の愛に該当します。ですから人間始祖の時から人が子供を愛した心や数千年後の後孫である私たちが子供を愛する心は同じなのです。また数千年後に私たちの後孫たちが子供を愛する心も同じことでしょう。
愛には発展もなく終わりもないのです。革命の必要のない純粋なものが真の愛です。それでは神様の愛とはどのようなものでしょうか。神様がある存在を絶対的な基準の立場に立ててその存在性を認定し、彼を愛されるならばその愛は、それ以上革命の必要のない愛です。(一八-一二)
四 すべてを投入する父母の愛
愛は一人では成されません。生命が投入されずしては愛が成り立たないのです。親子関係の愛を見てみてもそこには生命の因縁が宿っているのです。このように生命の因縁が残っている限り、生命の因縁の中で希望をもっている限り、そこには必ず愛の因縁が残るのです。生命の因縁を離れては愛の関係を結ぶことができないのです。ですから愛には必ず生命の因縁が投入されなければなりません。また生命をどれほど投入して愛するかによって、より価値を感じるか感じないかという問題が決定されるのです。(三二-一五)
三百九十五
例えば、子供に対する父母の愛はただ単純に生活的な因縁だけを通じて愛する愛ではなく、骨から湧き出る愛なのです。忘れようにも忘れられず、切ろうにも切れない愛の心を父母はもっているのです。それで生命の余力が残っている限り父母は子供を愛するのです。子供と生命の因縁が結ばれているということを感じる時、父母からは子供を愛する心が自然に湧き出るのです。
あの子は私の息子だから愛するという意識的な心が先立って愛するのではなく、その心よりも、その因縁よりも先立った自分の生命力が子供と連結されているので愛さざるを得ないのです。このようなことを私たちは家庭生活でよく感じているのです。(三二-一五)
それでは神様はどのようなお方かという時、千年万年与えてもまた与えたいそのような心を絶えずもっていらっしゃるお方です。そのようなお方なので私たちが神様を求めるのであって、与えてから「ああ、これはいくらいくらだ」と言われる商売人の神様なら、そのような神様は必要ありません。万民はなぜ神様が好きで、ついて行かなければならないのでしょうか。
神様をなぜ愛さなければならないのかというと、神様は万民のためにすべてのものを下さり、また下さりながらも恥ずかしがり、「今はこれしかできないが、もう少し待ちなさい。何百倍何千倍もっといいものを上げるから・・」とおっしゃりながらきょう現在、下さったことで満足するのではなく与えられながらも未来にもっといいものを上げると約束され、与えることのできる心の余裕をもっていらっしゃるお方だからです。
そのような方と共にいればたとえ食べられず、貧しくても、幸福だというのです。食べられない立場に立つならば、未来の希望となる刺激が現実圏内に衝撃的に感じられるのです。何の話かといえぼかえって新しい決心ができるというのです。与えながらも恥ずかしがる立場、そのような父母をもった子供が「お母さん」と言って抱きつくようになれば、体だけ抱きつくでしょうか。どれほど有り難いですか。
その場は未来のために互いに慰労の涙を流すことのできる場です。絶望が共にあるのではなく明日の希望を現在の刺激として感じ、決意し合ってぶつかり合い、激励することのできる爆発的な場がまさしくそのような場です。
ですからそこで現れる現象は悲惨なものではありません。未来に対する刺激を引き込み現実圏内で価値をたたえることのできる場は、そのような愛の圏内においてのみ成されるのです。ですから愛の圏内に生きる人は不幸がないという結論が出ます。(三六-二九一)
父母は愛する子供に対してすべてを投入しようとします。神様と同じだというのです。それは何を物語るのでしょうか。神様は神様のために投入するのではありません。自分のために存在するのではなく、相手のために存在しようとする、相手のために生きる神様の立場に立とうということです。
神様が神様のために存在しようとすれば、それは真の愛ではありません。自分をすべて子供に投入し、その子供と共にいようとするところに愛が、生命が、希望が成されるのです。(六九-六二)
五 子供に対する父母の愛は絶対的
三百九十六
先生は幼いころ、かささぎのような鳥の巣をたくさん見ました。鳥の巣を見ようと木に登ってみると親鳥が来てつつきます。ですから、それは決死的です。一度だけではありません。追い払うとたたかれながらも飛んでいってまた来ます。これを見る時、自分の生命を越えて、愛する雛を保護しようとする動物世界の力があることを否定できません。
人も同じです。愛のために生命を投入できなければなりません。そのような人が真の人です。本当に善なる人とはどのような人でしょうか。愛を根本とし、自分の生命を投げ出して、愛する人を保護しようとする人です。そこには主体的な善があるのであり、相対的な善の論理を立てることができるのです。これは永遠不変です。(一八六-一八)
私がアメリカのダンベリー刑務所にいた時おもしろいものを見ました。坂道を平たいテニスコートにするために毎日ブルドーザーで押す作業を、長い間しました。また、雨期になると作業が中止になったりし、乾期になるまで待つのです。二、三週間ほどたってから作業をする時そこに水鳥が雛を生んでいました。そこに囚人たちが運動がてら散歩するコースがあるのですが、そこからわずか三メートル離れた所に水鳥が巣を作りました。
その水鳥の色がちょっと見ただけでは分かりません。ですから通り過ぎる人には分かりません。その保護色がどれほどよくできているでしょうか。卵から生まれ、割れるまでは人々が通りながらも分かりませんでした。うつぶせになった姿を横から見ると黒い砂利の色のような保護色だったので分からなかったのです。それから雛が孵化し、何かをくわえて食べさせ声がちゆんちゆんとして、ようやくみな分かるようになりました。
意地悪い者たちは、いろんなことをしてからかっていました。しかしその水鳥が自分の子供たちに対してどれほど保護力があるのかといえば、えさを探してくわえてくる時絶対に自分の子供の近くに飛んできません。他の所に下りて、雛がいる所まで引きずってくるのです。
なぜそうするのかといえば、雛たちを保護するために方向を変えるのです。そのように雛を育てていきます。この雛たちがだんだん大きくなって、人がそのそばに近づこうものなら親鳥がつついて大変です。雛を見るなというのです。
誰がそのように教えたのでしょうか。それが宇宙の力です。神様の愛を軸としてすべての水は平面的位置にあるので位置は低いですが、その平行線上の基準は変わらないようになっています。(二三六-二三)
蜜蜂が花を探し回って蜜の味を味わったら足を深く入れ、お尻を突き出して吸いつきます。先生は蜂についてよく知っています。蜜を吸う蜂をピンセントで引っ張ると尾が取れても花から離れません。真の愛はそのような愛です。自分の生命までも忘れて捨てられるのです。
三百九十七
計算していくらの利益になるからというものではありません。生命までも捨てて忘れていくことのできる道が真の愛の道です。父母はその道を行きます。子供を愛する父母は子供が死地に行くなら子供のために死地に立とうとします。愛の前に自分の命をうずめていこうとするのが父母の心です。その愛が真の愛です。
ある人がこの世で誇ることのできる金銀財宝を得て血と汗を流して多くの財産を築いても、子供が死ぬ運命にさらされたならその子供を生かすためには外的なものが問題ではなく、自分の生命までも投入して生かそうとします。(三四-一六一)
六 限りない父母の愛
私たちが愛というものを中心として見るとき、父母の子供に向かう愛の限界点はどこまでなのでしょうか。父母は子供が幼い時だけ愛そうとするのではなく、生涯を通じて、さらには永遠を通じて愛そうとするのです。愛することによって生きがいを感じることができ、愛することによってさらに価値を感じることのできる親子の関係が結ばれるなら、無限の力と無限の刺激と無限に新しい何かがその関係圏内から生じるというのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇一九)
お母さんの愛やお父さんの愛は人間世界においても偉大な愛の中の一つです。この世でいくら高い地位にある人も、自分の子供の前ではどうすることもできません。父母の愛は子供の前に無条件であり無限定です。父母の愛は愛の母体だからです。 ですから父母の愛を受けられずに大きくなった孤児たちは何よりも父母の愛を渇望するようになるのです。孤児たちは寝る家があり、食べものがあったとしても、彼らの胸にいつも満たされない思いと慕わしい気持ちがありますが、それが何かといえば父母の愛です。
皆さんは愛する父母の子女として生まれました。父母の愛を受けて育てられ、大きくなったことを知るようになります。年を取っても若くても父母はその子供をいつも愛するようになっているのです。もし七十歳になる息子がいたとしても昔自分が育てたその基準をもっていつも子供を見つめるのが父母の心なのです。
年を取っても心情はだんだん近くなり、息子に対する責任が大きくなるほど息子に尽くす心はもっと広くなることを私たちは、この世で子供に対する結びつきを見るとき、よく知ることができるのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇二〇)
父母は愛する子供のために骨が溶けるほど苦労しますが、疲れることを知りません。なぜですか。愛するからです。自分の骨身を削ってその代価がいくらか帳簿に付けておきますか。そうしないでしょう。かえって、すべてを与えられないことをもどかしく思うでしょう。赤ちゃんに乳を与えるのに、飲まなければどうして飲まないのかともどかしく思います。
三百九十八
乳を飲むことは、実は、ホースをつけておいて自分の血と肉を取っていくことではありませんか。ある意味ではどろぼうの中の高のどろぼうではありませんか。それでもそのお母さんは赤ちゃんが乳を飲まないのをもどかしく思うのです。どうしてそんなにも愛するのですか。愛の法度だからです。(祝福家庭と理想天国I-一〇二一)
お母さんの胸に埋もれている赤ちゃんを見るとき父母は愛を中心として愛の感触に触れ、またその赤ちゃんを抱くことによって自分の幸福よりも天地が平和の境地に入るので、いい雰囲気が芽生えることを感じるのです。
それゆえ、赤ちゃんがいくら気性が激しくても「さあさあやってみなさい」と言うことのできる雅量の心があるのです。ですから父母は、子供を無限に愛することができるというのです。ある意味ではその赤ちゃんはホースをつけて血と肉を吸う怨讐です。しかし、そのように考える人はいないのです。
それは何かといえば、お母さんとしての新しい希望の刺激、夫に対する新しい刺激、その赤ちゃんによって見つける新しいものが多いからです。そのような時には通じる何かがあります。その境地は、誰も思いのままにすることができないものです。(祝福家庭と理想天国I-一〇二一)
七 父母の愛はすべての愛の基準であり、伝統になる
何よりも父母の愛が初めなのです。その愛を動機としてその愛で円満に育った人なら愛がどのようなものかということを知っています。お父さんとお母さんを愛するので、父母の間の愛がどのようなものかを父母を通じて習うのです。それが子供には二つとない喜びになるのです。愛を体得することは、父母をもった立場でなければできないことです。
子女の間の愛はどうでなければならないでしょうか。何を基準にして愛さなければならないでしょうか。お父さんとお母さんが愛するように、兄弟姉妹たちも愛し合わなければなりません。愛は誰から習うのかというと、それは父母から習わなければなりません。息子・娘がお父さんとお母さんに対して「私のお父さんとお母さんは世界で一番素晴らしい人だ。神様のような存在だ!」と言うことができなければなりません。
夫婦間の変わらない心といちずな愛を見て、子女たちが「その愛を見本として、子女である私たちも一つになろう!」と言うとき、理想的な家庭を築くことができるのです。また子供が成長して思春期になれば、心と心情が一つになることのできる相対を求めるようになります。これは結婚を通して成すことができます。
ですから相手をこの上なく大切にして、愛と心情の基準を立てるために努力する道は男性が行くべき道であり、女性が行くべき道でもあります。ですからお母さんとお父さんも神様の心と神様の愛に一致し、子供も父母に似て、神様の心と神様の愛に一致できる家庭にならなければなりません。
父母の愛を中心として兄の立場に立った人が自分を犠牲にしつつ、父母の身代わりとして弟たちを愛するのが愛の秩序であり、伝統です。兄という立場は兄弟たちの中で一番苦
三百九十九
労をたくさんしなければならない責任ある立場です。父母の立場も同じです。子供に代わって、子供よりももっと苦労する立場が父母の立場です。父母が愛を中心として子供のためには、涙が交差する場をも甘受しようとするなら、子供たちは涙を流しながらもその父母についていきたく思うのです。
神様を中心として一つになるとき、千態万象となって回るようになるのです。ですから兄弟間で愛することも、父母が子供を愛することに倣って兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛し、一元化した家庭には家庭愛が花咲くのです。これがまた社会愛になります。これがさらに民族を愛する民族愛になります。そして、このように愛すれば世界愛になるのです。
皆さん自身が父母の愛を受けるのはなぜでしょうか。夫婦であるお父さんとお母さんが互いに支え合い、愛し合うその動機が皆さんによって成されるからです。分かりましたか。ですからその動機を中心として兄弟同士愛し合うその愛は変わらないでしょう。
それを中心として隣人を自分の体のように思って生活するとき、正しい社会環境が展開されるのです。家庭を中心として見ればその家庭が蘇生であり、社会が長成であり、国家が完成です。必ずそのような過程を経なければなりません。家庭と家庭をみな合わせなければなりません。そうすればこそ、その中で愛が広がるのです。
こうして国家の範囲でも一つに合わさるのです。ここで社会はいろいろな階層に分かれるようになっています。会社には社長という代表者がいるでしょう。そうでしょう。国家の責任者が今何人ですか。一人でしょう。一人の責任者がいます。このような姿に統一されるのであり、形だけが大きくなるのです。このように、分かれていても一つになるのが四位基台の原則です。(祝福家庭と理想天国I-九一七)
第九章 真なる子女教育
一 父母は子女をどう教育すべきか
父母は息子・娘にどのような教育をしなければならないでしょうか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければなりません。父母が一つになる姿を見せて教育しなければならないのです。天が好むお父さんとお母さんであり、またお母さんが好むお父さんであり、お父さんが好むお母さんであり、二人とも愛し合うと同時に私が好む父母であり、父母が好む私だということを教えなければなりません。
ですから初めにアダムとエバも、神様の愛を中心として神様の前に愛の教育を受けなければなりません。では、その起源はどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、アダムとエバは神様から愛の教育を受けなければなりません。
400 * 四百
そのアダムとエバの価値基準の設定はどこから成されるのでしょうか。神様の愛の教育からです。それでは愛の教育を受けるのはいつまでなのでしょうか。お父さんが知っているすべての価値基準を推し量ることのできる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければなりません。しかし、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありません。愛を受けたという話はなく、気分悪く堕落したという話から始まります。だめになったというのです。
それでは愛の神様を中心として愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバには愛の基準があったのでしょうか。もしなかったならば、神様の理想というものはあり得ません。その愛の教育基準が何なのかということが問題です。
私たちは天国に行きたく思います。しかし天国に行ってからは、そのような教育は受けられません。地上で教育を受けて生活したのちに天国に行かなければなりません。地上でその教育をしなければ大変なことになるのです。教育を受けなければ大変なことになるのというのです。その教育とは何なのでしょうか。天国は心情の世界です。教理の天国ではなく、教派の天国でもなく、心情の天国です。
神様がこの地上で民と信徒を探そうとされるのは何のためでしょうか。息子・娘をつくるためです。どのような息子・娘をつくるためでしょうか。「私の心がこうなのだ」と言いながら、その心情を吐露することのできる息子・娘をつくるためです。
それではアダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢をもつべきでしょうか。親子の関係ですから、父母が行く所にはいつもついて行かなければなりません。父母が山に登れば山について行き、谷に下りれば谷について行き、洞くつの中に入れば洞くつの中について行かなければなりません。いつも父母と共にいなければならないのです。
もし神様が息子と離れなければならないとしても、離れることができるでしょうか。神様は絶対的な方ですから絶対的に会いたく思われるのです。絶対的な方ですから、好きになるのも絶対的に好きになるのです。「あー神様、来るなら来て、来なければ来ないで、どこかにいるならいて、いないならいないで」ではいけません。絶対的でなければなりません。(五一-七一)
もし神様と内外とも一つになった立場にいれば習わないでもみな博学になるというのです。研究して知るよりも、もっとそうだというのです。天地がどうなっているのか、霊界がどうなっているのか、人生がどうなっているのか。生ま出たすべての昆虫の赤ちゃんですら食べ物を探すのに、万物の霊長は、習ってから食べ物を探したり、死ぬこと生きることを知るのではありません。神様に対すればすぐにさっと分かるようになっています。
四百一
そのように素晴らしい人にならなければならないにもかかわらずそのような人になれなかったのは堕落のためです。堕落したとしても、主体と対象の関係で本性は作用しています。作用するこのすき間には、今まで積もってきた汚いものが覆っているのでこれを取ってしまえば、だんだん作用が強くなるでしょう。完全に取ってしまったという日には、ぱっとつながるのです。そうすることのできる道を、今まで人々は追求してきました。(五六-一五三)
二 父母は子女に何を教えるのだろうか
真理の内容とは何でしょうか。真理の内容がいくらいいといっても自分の父母に代わることはできないし、真理の内容がいくらいいといっても自分の夫に代わることもできないし、また自分の妻や息子・娘たちに代わることはできません。真理中の高の真理とは何でしょうか。それは父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はないのです。
それでは真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、高の真理の中心とは何でしょうか。人々は、神様が真理と善と愛の本体であり、生命の本体だといいますが、それはどういうことですか。みな同じことです。真理が成立するには愛と生命がなければできないのです。人間が真の真理を論じることができる人になるには、自分の生命の中に、真理に対する意欲と欲望がなければなりません。
ここで欲望とは、自分の人格基準とは相対的な立場です。ですから一番の核心は何でしょうか。
生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどのようなお方なのでしょうか。私たち人間の父であると同時に、母です。ですから核心は父母なのです。(二一-一八三)
また、私たちのも貴い遺産は何でしょうか。神様の愛と真の父母の愛を子女に相続してあげることが も偉大な、この世にない相続です。神様をよく紹介しなければなりません。神様の愛がどのようなものかをよく紹介しなければなりません。それを子女が分からないので、神様の代わりに神様のように愛し、自分の父母を求める以上に神様を求める子女となるように教育する、そのような父母にならなければなりません。(九三-三三六)
私たち統一教会員は何をしようというのでしょうか。「高の愛のために死のう。神様と人類と世界のために死のう」と言うのです。
「このような作用も愛のために始まったし、このような方向も愛のために始まったし、このような目的も愛のために始まったし、男性も女性も愛のために始まったし、父母も愛のために始まったし、息子・娘も愛のために始まったし、宇宙のすべてのものも、愛の贈り物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育はありません。このように生きていった人は間違いなく、神様の前に行っても恥ずかしくないことでしょう。(九三-一九一)
祝福家庭の人たちを見ると、自分の子供である二世たちに「勉強しなさい」と言います。自分の息子・娘に勉強しなさいと言ったからといって、その息子・娘が親孝行になり忠臣になるのではありません。とんでもありません。「統一教会でお父さんとお母さんは苦労したけれど、私はそのような道は行かない!」。このようなことがあり得ます。それを消化させることのできる愛の道理を教えなければなりません。
四百二
ですから父母が息子・娘を連れて回りご飯を抜いてでも自分の町を愛し、国のために祈祷し涙を流せば、このようなことが分別のつかない時は悪いことだと思いますが、分別がつくようになる時には「うちのお父さんとお母さんが高だ」と言うようになるのです。父母が我が子のためだけに涙を流したのではなかったということが分かるようになります。
自分の子供を捨ててでも国を愛し、神様のみ旨のために生きて人類を救おうとしたという事実を分別がつけばつくほど知るようになるのです。自分勝手に生きてはいけません。皆さんが子供を案じるからといって、その子供たちがよくなるのではありません。愛の糧を食べさせて育てなければなりません。正しい愛を求めていくことのできる方向感覚を教えてあげなければなりません。
分別がつけばつくほど、年を取れば取るほど、そこで黄金を見つけるとき、一塊の金しかない山だと思っていたのに掘れば掘るほどその山自体が金の塊になり得ることを知るようになりま す。(二二九-七七)
三 父母がまず手本を示すべきである
子女を教育するためには、父母が先に実践しなければなりません。父母がお手本となって、み旨の前に忠誠を尽くさなければなりません。そうして、父母がどのような言葉を語っても子女たちが一言半句も口答えせず、父母をおそれ敬うことのできる立場に立たなければなりません。そのようにしなければ子女たちがついて行かないというのです。そのためには天の教育をしなければなりません。 教えてあげるには、父母が先にお手本にならなければなりません。子供に親孝行しなさいと教える前に先に親孝行しなければなりません。皆さん自身がまず天の法度に従って親孝行な息子・娘になってこそそこから天の伝統的親孝行の因縁が成立するのです。お父さんが家庭で親孝行するようにお前も親孝行しなければならないし、お父さんが国のために追われながらも闘争の歴史をつづってきたように、お前も忠臣にならなければならないと教えなければなりません。(三〇-一一三)
父母が子供に親孝行しなさいと教えてあげて親孝行な息子をつくるのではありません。自ら親孝行しようという心が湧き出るようにしなければなりません。ですから、そのようなことは一朝一夕にしてできるものではなく、長い期間を通じて影響を及ぼさなければなりません。ここで影響を及ぼすというのはどういうことでしょうか。お父さんがするように子供がついて来ることができるように生活を通して子供にお手本を見せてあげなければならないのです。このようなことを実践する専門家にならなければなりません。(二九-九九)
自分の子供に教える時は「お前は立派な人になりなさい」とだけ言わないで、「立派な人になるためには、このような道を経てからなりなさい」‘と言わなければなりません。お父さんはお父さんなりに責任を果たし、お兄さんはお兄さんとしての責任を果たさなければなりません。お姉さんはお姉さんとしての責任を果たさなければなりません。
四百三
言い換えれば、真の男性、真の女性の道を行くことのできる因縁をわきまえることのできる、法度からそれない皆さんになってこそ、順理的な路程を経て一国の民になることのできる道が生じるのではありませんか。(祝福家庭と理想天国I-一〇四一)
父母はどのようにしなければならないでしょうか。父母が互いに愛し合うように兄弟姉妹同士愛し合えるように教えると同時に、私が国を愛するので、お前も国をこのように愛しなさいと教えなければなりません。そのようになれば他の教育は必要がありません。祈祷する時も私がこのようにするので私の子供もこのようにするようにしてくださいと祈祷しなければなりません。
自分が先に標準になったのちにこそ、子供をそのような位置に立てることができます。自分が先にそのような位置に立てば、神様は自然にその子供もそのような方向に導いていくのです。ですからここで私たち白身を中心としてその方向を変えることができなければ、霊界に行っても責任追求を受けることになることでしょう。(祝福家庭と理想天国I-一〇四〇)
皆さんの家庭で子供たちが、うちのお父さんとお母さんは世界のどのような王宮の王や皇后よりも素晴らしいと思うようにしなければなりません。また子供たちにお父さんとお母さんの関係が天下にない近い関係だということを見せてあげなければなりません。祝福家庭の皆さんがそのような伝統を立てなければなりません。そうして「うちのお父さんとお母さんは世の中の誰よりも誇らしいお父さんとお母さんだ」と言えるように、子供たちの骨髄にその伝統を植え付けてあげなければなりません。
世の中の親たちを見れば、子供たちがその横で、「お父さん、お母さんどうして喧嘩するの!どうして喧嘩するの?」と言っても乱闘します。涙を見せない家庭で育った皆さんの子供たちがそのような世の中の姿を見て、「やっぱりうちのお父さんとお母さんは世の中で一番だ!本当に素晴らしく聖なる両親だ」ということが感じられるように、皆さんは子供たちにお手本を見せなければなりません。
父母は、子供たちが骨髄からあふれ出る心情であこがれる父母と子の紺一を立て、黙々と天の家訓・家法を立てていかなければならないのです。そのようにすることによって子供たちも後代において、自分のお父さんとお母さんのような立場に立とうとするのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇四二)
四 父母は友達の中の友達、先生の中の先生
愛というものはどこから来るのでしょうか。愛は自分から来るものではありません。愛とは相手から来るものです。相手かいなくなれば愛も来ることができません。私たち人間を中心として見れば男性の前の女性も相対的であり、また父母の前の子供も相対的です。愛というものは相手なくしては成されないのです。これを「三対象の愛」といいます。
四百四
三対象の愛を体得できない者は完全な神様の愛を体験したという立場に立つことができません。「神様がアダムとエバを創造して喜ばれたように、私も息子・娘を産んで、それくらい喜ばう」これが統一教会の原理の教えです。神様がアダムとエバを造られて、「これから世界を主管するのだ。世界の中心家庭になるのだ。早く大きくなれ、早く大きくなれ」と言いながら希望をもって保護育成する中で、喜びと満足を感じながら彼らが大きくなって結婚する日を願われたのが神様の願いです。
これと同じように、お父さんとお母さんは息子・娘をよく育てて素晴らしい相対を選び、いい夫婦の縁を結んであげなければならないというのです。いい夫婦の縁を結んであげれば、その家は栄えるのです。
神様と一つになって「神様がアダムとエバを造られて愛されたように私たちも神様のその愛を見習って息子・娘を愛さなければならない」と言ってどこにでも連れて回りたがり、いつでも抱いて歩きたがり、仕事をする時も連れて行きたがり、ご飯を食べる時も一緒に食べたがればそのようなお父さんとお母さんを息子・娘が好むのです。友達の中の友達とは誰でしょうか。近所のもじやもじや頭の若者が自分の息子・娘の友達ではありません。
友達の中の友達は誰かといえば、まさにお父さんとお母さんです。そうならなければなりません。さらには、友達よりももっと好きな父母にならなければなりません。そのように考えなければなりません。ですから父母は友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。
父母が「こらっ、お前、そのようにしたらだめだ」と言ったり、先生が「こらっ、こいつ、やらなかったらふくらはぎをたたくぞ。そのようにしたらだめだ」と言ったりしながら教育してはいけません。愛の教育をしなければなりません。「こら、お前それでいいのか。」と言えば「そうだ、ぼくがこうしたらお父さんとお母さんが悲しがるからいけないや」と言うことができるように教育しなければなりません。
ですから父母は、子供の友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。
エデンの園にいたアダムとエバに友達がいたでしょうか。アダムに友達がいたとするならば、エバしかいませんでした。その次には神様しかいません。天使長とも友達になることは願われませんでした。天使長は僕です。それなのに間違って友達になって滅びたのです。ですから父母は先生の中の先生であり、友達の中の友達であり、愛の中の愛にならなければなりません。
愛は神様から始まります。ですから結局、相対の愛も誰によるものかといえば父母によるものです。ですから父母が「おい、お前たちが愛し合うのはお前たちによるのではなく父母の恩徳によるものだ」と言う時子女たちは「うちのお父さんとお母さんが私をこのように育てて、このような相対を得てくれなかったら大変なことになるところだった」と、こうならなければいけません。
四百五
ですから恋愛結婚は落第だというのです。その愛の教育は誰から受けなければならないのでしょうか。父母からです。お父さんとお母さんが一つになって鳩のように楽しくクゥクゥクゥと愛し合うのを見てそれを見習わなければなりません。「ああ、うちのお父さんとお母さんがあのように愛し合うのを見ると、自分一人では寂しい。私もうちのお父さんとお母さんのようにクゥクゥクゥと愛することのできるそのような相対が必要だ」このようにならなければならないし、父母はそのようになるように教えなければなりません。
そのようになればその息子・娘たちがお父さんとお母さんがしてきたように繰り返すので世界は善なる世界になるのであり、人類歴史は善なる歴史になるのです。統一教会でこれをしようというのです。(五七-一一九)
五 愛の鞭
ヨハネの黙示録を見ると、「冷たいか熱いかであってほしい」、中途半端ではいけないとあります。愛の世界で中途半端な態度はいけないのです。愛の心をもてば鞭打ってもいいというのです。子供を育てるとき、愛を与えたのにその心を忘れてしまった時は冷たく対すべき時もあります。子供が間違った時、皆さんが叱ってあげなければ分別力を失います。先生がよく見えても一方では厳しいことを知らなければなりません。悪に対しては無慈悲です。しかし善に対しては何千度の溶鉱炉のように熱いのです。
近学校で先生が学生をたたいたという理由で刑務所に行ったという話を聞いたとき、「アメリカはもうだめだな」と思いました。自ら進んで「たたいてでも、善なる方向に導いてください」と言わなければなりません。韓国の諺に「憎い人にはご飯もっと上げて、かわいい人には鞭を上げなさい」という言葉があります。正しい伝統を受け継いでいくためには仕方がありません。
父母の鞭が痛いのを忘れてその愛の前に涙を流すことのできる人にならなければなりません。
人は近ければ近いほど賞金を上げるのではなく、「こら、お前どうしてそうしたんだ?」とかえって懲らしめるのです。隣り近所の子なら間違っても知らないふりをするでしょうが、自分の子供なら「ふくらはぎを出しなさい」と言ってたたきながら「お前、いいことをしたのか、悪いことをしたのか。」と言います。それはたたくことよりももっと多く思ってあげるからです。しかし思いやりよりも多くたたけば、それは罪です。自分が思ってあげるよりも、もっとたたけば怨讐になります。怨讐の中でも大きな怨讐になるというのです。
愛するとしてもこん棒を持った以上の愛をもってたたかなければ、すべて台無しになります。しかし、それ以上の愛をもってたたくなら大丈夫です。すなわち、十くらい愛して五くらい鞭打てば五くらいの愛が残っているので有り難く思うというのです。
四百六
子供が受け入れなくても子供を悔い改めさせるためには、昔愛したその愛よりももっと大きな愛をもって現れ、愛するようになればその不良のような子供でも悔い改めて帰ることができます。しかし子供に対して自分が育ててきた功労を自慢しながら子供を三回でもとがめれば、その子供はふろしきを包むのです。しかしその子供に対して骨髄が溶けるほど涙を流し、もっと大きな愛をもって愛するようになるとき、その子供は帰ってくるのです。もっと大きな愛は小さい愛をすべて消化・統合することのできる主動性があるからです。
この世でも子供がきついからといって「勉強するな」と言う父母は本当に子供を愛する父母ではないというのです。鞭打ちながらも、「寝ないで勉強しなさい」と言わなければなりません。なぜそうなのですか。今よくなろうというのではなく、未来によくなろうというのです。父母は子供の未来に大きな夢をか
けてそうするのです。
子女を生んで育てるためには真の愛で生んで育てなければなりません。そうして家庭が一つになり、家庭を中心として国を愛せば、彼を愛国者だといいます。ですから父母は子供の成長を見守りながら教育し、正しく成長しなさいと「愛の鞭」を加えたりもします。間違ったという理由で父母に叱られたりたたかれたりしたといって不満をもったり抗議してはいけません。それを教訓として密かに自重しながら反省し、奮闘努力して間違った点を直していかなければなりません。そのような人は正しく成長し神様がいらっしゃる中心に接近して行くことができるのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇二七)
六 勉強は何のためにするのか
勉強したくて学校に行く学生がどこにいますか。みな初めは仕方なく通うのです。なかでも、特に小学生たちは我が怖くて仕方なく通うのであって、勉強したくて通うのではありません。初めはみなそうだというのです。仕方なく通ってみると、あとでその味を覚えて、学ぶために通うようになるのです。そのようになると、お父さんとお母さんは驚くのです。その味を感じ、そのような刺激的な内容がそこにあるということを知れば勉強するのがおもしろくなるのです。
そのおもしろさということ自体を見れば悪いものです。しかし相対的に勉強してみると自分が思いどおりにできる範囲が広くなるので、そこに味を覚えて勉強するのです。勉強すること自体が好きな人は一人もいません。勉強することによって自分の活動できる範囲が広がるので好きになるのです。(三六-一二〇)
学校に行く学生に対して我は「一生懸命勉強しなさい」と言います。それは易しくない道です。苦痛の道です。しかしそれは未来のために準備しなさいという予告です。教授たちが壇上に立って弟子たちに一生懸命教えるのも、未来のための準備です。農夫が田畑へ行って一生懸命働くのも、未来のための準備です。この国に天国を建設するための準備です。(一四七-二○五)
四百七
皆さんは学校へ何のために行きますか。学校へ行って勉強してどこに使おうと思いますか。それは幸福のためでしょう。幸福は愛を抜いてはあり得ません。ですから学校へ行くのは愛の道を短縮させるためだといえるでしょう。人間において幸福の門が開かれる時とは、結婚の時です。 幸福の門を開くために勉強するのはとてもいい方法だといえるでしょう。しかしその勉強がお金もうけのために、権力をもつためにするのなら間違いだといえます。勉強は真の愛で愛することができるように学ぶものでなければなりません。お嬢さんたちが大学へ行って学士になろうとするその結論が何ですか。いい新郎を得ようというのです。それ以外に何もありません。そしてある男性がいくら立派になったとしても、その家庭が一つにならなかったならその男性は不幸な人です。(祝福家庭と理想天国I-三七二)
勉強するのも真の男性に出会い真の母になるためにしなければなりません。真の母になるためには、まず国のために勉強しなければならないし、夫を真の夫として侍り真の夫に侍る真の妻にならなければなりません。このような自分になれなければ真の夫に侍ることもできないし、真の息子をもつこともできないのです。女性は真の妻となって一家庭の主婦として夫と百年偕老(夫婦になって仲睦まじく共に老いること)しなければなりません。
お嫁に行くために勉強するなら大学を出た人たちはみな百年偕老しなければならないでしょう。しかし百年偕老する人が多いですか、離婚する人が多いですか。調べるまでもないことです。文字を一字も知らない者たちがもっと長く共に生きるというのです。男性や女性が生まれて長い教育期間を経て成熟した人格者になるのも、愛の理想的相対者に出会い幸福な暮らしをするためであるといえます。近の世の中では結婚相手に出会うために勉強するのではないといいますが、結局は素晴らしい相対者を得るためのものであり、相対者と美しく愛し合いながら幸福に生きれば財物もついてくるし名誉もついてくるのだといえます。(祝福家庭と理想天国I-三七三)
七 真の父母と先生の教え
父母は自分の息子・娘のために働きます。自分が食べるために仕事をする父母はいません。子供が多い父母が農村であるいは仕事場できつい仕事をする時、貧しくとも背負子を背負い畑の草取りをし、畝間や田んぼで耕したりするのは、千年万年、子供の幸福のためです。父母の額から流れる苦労の汗は自分のためのものではありません。その汗の結実が子供を愛する心とともに絡み合えば、そこには新しい創造の役事が展開されるのです。いくら畑で草取りをし仕事場で荷物を背負ってもその足取りには新しい希望が宿っているのです。(二五-九七)
わが国(韓国)に四千万の国民が住んでいますが子供を愛さない親もたくさんいます。彼らの中で誰よりも子供を愛する気持ちを、十年、二十年以上持続できる父母がいるなら、そこには親孝行の子供が出てこざるを得ません。息子と娘たちはその父母の顔を見るだけで、手を見るだけで、自分たちのために苦労したということを知るようになるのです。このように骨髄から湧き出る父母の愛を感じるとき、そこからは長い歳月の深い事情が流れてくるのです。
四百八
このように、子供を国のために貢献させることによってその父母は国家的な父母、あるいは世界的な父母になるのです。また皆さんが父母の願いを叶えてあげようとする心情に徹して勉強するようになるとき、新しい担い手になるのです。皆さんの中にそのような感情と思いをもてない人がいるとすれば、その人は勉強するといってもまともにすることはできません。
もし父母が子供に「私がお前を愛し、お前のために骨を祈り、お前のために苦労して汗を流すのは、私を思うよりは、この国をもっと愛しなさいという意味からだ」と言う愛国の志士の心情をもって教育すれば、そのような父母の下で愛の教育を受けた子供は父母が願う愛国の志士になるために努力することでしょう。彼は父母の愛を回想するたびに四千万民族のことを思うことでしょう。そして民族のために勉強するでしょうし、自分の民族が悲惨な目に遭う時は自分の父母以上に悲惨さを感じることでしょう。
しかし、そのような立場にだけ立ったからといって愛国者になるのではありません。そのような立場に立って成し遂げた土台がなければなりません。それでこそ、国民が千年万年慕うことのできる要因になるのです。そうでなければそれはすべて過ぎ去ってしまいます。このようなすべての問題を考えるなら深刻です。皆さんの学校に、どのようなことがあっても自分の弟子たちに正しい思想を引き継がせるために苦労する先生がいるならば、彼は大韓民国という国家の運命を心配しながら、皆さんの手をつかんで涙を流し、次のように勧めることでしょう。
「私のために順応しないで国に対して順応しなさい。私のために尽くすよりも国のために尽くしなさい」。このような教えを受けた弟子たちは、その先生が果たせなかった意志を果たすことでしょう。このように、先生は自分の生涯を捧げて弟子たちのために精誠を尽くし、父母は自分の価値よりも国家と世界の価値を大切に思いながら子供のために精誠を尽くせば、その先生と弟子とその父母と息子・娘たちは棟梁の器(一国を支える人材)になることでしょう。(二五-九八)
八 世界とともに生きることのできる教育
宗教は元の教えです。神様の元の教えは人類を教え、人類を愛そうというものです。それ以外にはありません。ですから真の父母は子女に対して、世界が喜び、神様が喜ぶことを教えてあげます。人倫では、父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しなさいと教えます。皆さんは誰のために父母を愛さなければならないのか、考えてみましたか。誰のために夫婦が愛し合わなければならないのか、誰のために子女を愛さなければならないのかを考えてみましたか。
愛することに責任を取ってくださる主人公を失ってしまった人間です。神様は無限の愛を語られました。後に残るものは愛だとおっしゃいました。その愛は神様の愛です。皆さんは慕うその目的を知らなければなりません。愛する目的がなければなりません。誰のために愛しますか。神様のためです。神様のために愛さなければなりません。
自分のために愛する者は死んでみてください、どこへ行くか。皆さんが子供を産んで乳を飲ませかわいいと言いますが、誰のためにかわいがりますか。それは天と地の身代わり
四百九
としてかわいがらなければなりません。この国、この世界のために、神様のためにかわいがらなければならないのです。神様の愛に従った天倫の運勢は世界を越え、天地を包容するために動いています。それなのにその縁を通じて生まれた息子・娘を自分のために愛するならば、それは許されないというのです。
子供を抱いて乳を飲ませるおばさんたち、天と地を身代わりして神様の愛する息子・娘を抱くという切実な心情で自分の息子・娘を抱かなければなりません。皆さん、恵みを受けることを願いますか。永生することを願いますか。そうするためには、公的な人にならなければなりません。子供を教育するとき、自分の息子・娘としてのみ愛してはいけないというのです。世界の人々のための祭物的な息子・娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子供を胸に抱いて乳を飲ませる時にはこの地球上の人類を代表した母の立場で、人類を代表した赤ちやんに乳を上げるという心で与えなければなりません。そして自分の子供にだけかわいいといって乳を飲ませるのではなく、他人の子供にも自分の子供だという心情で対するお母さんになってください。
そのようなお母さんの乳を飲んで育つ赤ちやんたちは必ず偉大な人物になることでしょう。すぐにはならなかったとしても、一代二代を経ていくうちに必ずその後孫の中に世界を動かすことのできる人物が生まれることでしょう。これが公式です。そのようになるのです。 素晴らしいお母さんたちは子供を胸に抱いて、世界を動かすことのできる善なる存在になるためには、どのような困難な立場でも耐えられなければならないとその子供に教えます。それはお母さんたちが、善は滅びないという天理を知っているからです。善は何によって動くのでしょうか。私のためにではありません。ご飯を食べるのも私のために食べるのではなく天宙のために食べなければなりません。
花嫁を迎えるのも自分のためではなく、み旨のために結婚しなければなりません。世界を目標にしなければなりません。経験するのも世界を中心としなければなりません。そのようにする人は格好が悪く見えても本当に味のある素晴らしい人です。七十年ないし八十年の瞬きするような人生を過ぎれば永遠に生きる道があるのに、人間はそれを知らずに生きています。永遠に生きる世界の時間圏内に入ってその世界と連結させることのできる道を知れば、その永遠は私のものになるのです。
ご飯は栗飯を食べ、服はたとえ見すぼらしい風呂敷のようなものをまとっていたとしても、世界を中心として「昔、家がこうだった時、このような人はこのように生きてこのようになった」と言うことのできる、幅広く絶え間ない話題をもっている人が住んでいる所ならば、そこにいる子供たちは優秀な人になるというのです。(祝福家庭と理想天国I-一〇四七)
第十章 復帰すべき人類の真の家庭
一 神様の救援摂理の目的
四百十
神様の一番必要なものが何かが問題です。神様を何と言いますか。神様は真の愛の王であり主人です。もしも、真の愛の王であり、新郎であられる方が神様ならば、相対者になる皇后が必要だということが絶対的原理なのです。では神様という絶対的なお方の前に真の愛の相対になれる方が誰なのかと尋ねてみると、それは真の人間です。神様の愛と一体になるアダムとエバだったのです。皆さんはお金を必要とし、知識を必要とし、権力を必要としますが、妻がいなければすべて無駄なことです。夫は妻が必要であり、子供が必要です。妻は夫が必要であり、子供が必要なのです。そのような愛の対象が暮らす場所が家庭という所です。
良心の欲望をいっぱいに満たすことのできる愛の主体である神様に侍り、その神様の愛の相対である男性と女性が一つになり、その愛の中で息子・娘をもち、幸せに暮らすことのできるその家庭で、神様の真の愛を中心とした地上天国の初出発の基地とならなければならないのです。私たち人間も、愛する対象が自分より何千万倍、無限大の価値ある存在として現れるのを願うのと同じように、神様も自分の愛する相対が無限の価値ある存在になることを願われるのです。そのような人が真の人間なのです。皆さん!そのような男性と女性が堕落しないで完成しなければならないのが、まさにアダムとエバだったという事実を知りませんでした。(祝福家庭と理想天国I-七九)
堕落によって神様は、アダム家庭の真の母と息子・娘をみな失ってしまいました。神様が所有できる真の息子・娘がいなかったのです。神様の真の愛を中心として血統的な因縁をもつことのできる神様の家庭がなかったのです。
堕落した父母によって、偽りの愛と偽りの生命と、偽りの血統の因縁を結ぶことによって、私たちの心と体の闘いが起こりました。アダムとエバが怨讐になりました。アダムの息子・娘の間に殺戮戦が起こりました。
それゆえ、神様がこのようになったことを復帰するための救援摂理は復帰摂理なので、失った真の心と体が一つになった息子・娘として絶対的に一つになる夫婦、息子・娘が絶対的に神様の真の愛を中心として完全に一つになり、神様と永遠に共に暮らすことのできる真の家庭を築き、新婦宗教格であるキリスト教と連結させ神様と結縁関係を結ぶことによって、神様の真の愛に統一される家庭、氏族、民族、国家、世界を再び編成しなければならないのが神様の救援摂理の完成なのです。(祝福家庭と理想天国I-八〇)
神様が宗教を立てた目的は何でしょうか。神様が一番愛する息子・娘、神様の骨と肉を一つにでき、そのような愛する息子・娘を中心とした愛する家庭、氏族、民族、国家を形成することが神様のみ旨だと言わざるを得ないということを皆さんは、はっきりと知らなければなりません。次に、メシヤはどのような方なのかということを、皆さんは知らなければなりません。
四百十一
永遠な神様の真の愛を根にして、初めて地上に来られ、すべての宗教が願う理想を完成する方が再臨のメシヤだということを私たちは知らなければなりません。そうして真の父母になり、失ってしまった真の愛を中心として真の生命と真の血統を全地上に理想家庭として立てようとするのが、神様の救援摂理の目的でした。(祝福家庭と理想天国I-八〇)
二 サタンの所有物になったアダム家庭
アダムとエバが堕落することによって、神様は彼らを真の人類の祖先として、人類の父母として、ご自身の息子・娘として対することができなくなってしまいました。アダムとエバは神様の前に掛け替えのない息子・娘であったにもかかわらず、神様が息子・娘として対することのできない位置に立ってしまったのです。神様はまた、アダムとエバが成人したのちには夫婦として祝福し、慰労の対象にしようとされました。ところが彼らは、息子・娘としての慰労の対象になれないのはもちろん、新郎・新婦としても慰労の対象になれませんでした。
神様も願われた所願が大きいゆえに、彼らに無限なる価値を賦与し、眺められたのですが、彼らが堕落することによって、神様は彼らから、子女として慰労してくれる心情を感じられず、新郎・新婦として、すなわち夫婦として慰労してくれる心情を感じられなかったのです。神様はアダムとエバが未来に希望ある祖先として、すべての人類の前に一つの王として、神様の前に忠孝の道理を立てる立場に立つことを願われたのです。しかしながらこのような願いをもつ神様の前に、彼らは慰労の対象となることができなかった事実を、皆さんは知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-三二七)
堕落はどこから始まったのですか。家庭で堕落したというのは何をしたのですか。善悪の実を取って食べたのですか。家庭的に堕落するというのは愛以外にありません。善悪の実を取って食べて堕落しますか。善悪の実を取って食べて原罪が生じますか。父親が善悪の実を取って食べたことが罪だというのですが、何千代何万代後孫が罪人になる善悪の実とは何なのでしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そうであり得るのは愛の問題だけです。過った愛が堕落の原因です。
不倫な淫行関係によってエバは天使長と一つになり、アダムもまた、天使長と一つになったエバと一つになることによって、アダムとエバは結局神様を中心にしたのではなく天使長を中心にした夫婦関係を結び、家庭を築くようになったので、アダムとエバの後孫であるすべての人間はサタンの血を受け継ぐよ
うになったのです。
したがって、本来のアダムとエバの息子は神様の長子、次子にならなければならなかったにもかかわらず、エバが不倫な情で天使長と関係を結んだため、神様の息子である長子と次子はサタンの所有物になってしまったのです。
四百十二
本来、創造理想の中では愛は所有を決定するようになります。愛の関係を結べば、その愛を中心に主体と対象は必ず互いの所有権をもち合うようになるのが原理です。したがって、この原理的な基準でよく見るとき、エバが天使と不倫なる愛の因縁によって堕落するようになったので、エバの後孫として生まれる人間の所有権は天使長であるサタンにあるようになったのであり、サタンはその所有権を堂々と主張できるようになったのです。
アダムとエバが堕落することによって神様の創造理想は成就されず、むしろ堕落した父母になったことによって、原罪のある子女を繁殖するようになりました。そして堕落したアダムとエバの家庭を中心にして氏族、民族、国家、世界へと発展してきたのが人類歴史なのです。それゆえに堕落以後今日まで、神様の本然のみ旨を完成した立場に立った真の父母の理想が残されてきたのです。そして真の父母を中心とした真の家庭と真の氏族、民族、国家、世界は今でも理想として残っているのです。(祝福家庭と理想天国I-三二五)
三 堕落人間の願い
人間始祖アダムとエバは、堕落することによって堕落の血統をつくってしまいました。彼らは神様が願う本然の理想世界、堕落していないその世界で神様と一体となり、神様の直系の血統を受けて息子・娘を生むべき真の父母の立場になれず、サタンと因縁を結び、死んだ子供を生んだサタンの魁首になったのです。ですから今日人類は、すべて偽りの父母に出会ったのです。ゆえに偽りの父母の血統を否定し、真の父母に出会わなければなりません。
堕落人間の願いは、神様の息子に出会うことです。カインの息子として生まれた無念さをもって嘆息し、神様の真の息子を探し、さまよっています。私たちは、神様の息子を探し出さなければなりせん。しかし、個人的な神様の息子、家庭的な神様の息子を探し出そうとするなら、人類はどれほど苦労することでしょうか。そこで神様は、国家的基準の息子圏を代表したメシヤを送られたのです。
ですから、人間たちがこのメシヤを迎える日には、個人的な神様の息子、家庭、氏族、民族、国家的な神様の息子まで探し出すことができるのです。このように、神様の国家的な息子まで探し出すことができるという喜ばしい知らせを伝えてあげるのが、メシヤの降臨だということを、皆さんは知らなければな
らないのです。
堕落の因縁をもって生まれた私たちは、サタンの讒訴条件を超越することができる、神様の息子に出会わなければならないのです。神様の息子に出会ったのちは、父母に出会わなければなりませんっ皆さんは、堕落した父母はもちましたが、堕落していない真なる父母はもつことができませんでした。それで、神様が愛することのできる真なる父母を探し出さなければなりません。次に父母の家庭を探さなければなりません。
四百十三
父母の家庭を探し出したのちに、神様の愛を探さなければならないのです。そして、神様の愛を探し出したのちには、神様に出会うのです。このように、堕落人間は、神様を中心として兄弟を探さなければならず、父を探さなければならず、母を探さなければならず、私の家、私の故郷を探さなければなりません。このような道を歩いていかなければならなかったのが、この地上の人類だったという事実を皆さんは知らなければなりません。 それで、神様の愛を受けられる父母と、神様の愛を受けられる息子・娘が、神様の愛を中心に互いに愛し合う家庭を築くようになれば、「家和萬事成(家和して万事成る)」と言うことのできる環境において、愛の歌を歌いながら、自動的に栄えることができるというのです。そうなれば、自動的に神様の愛を中心とした民族が形成されるのです。
ところが、アダムがそのような家庭を失ってしまったので、宗教を通じてそのような家庭の基準を探さなければならないのです。家庭を探し出さなければ氏族や民族、国家、世界は探し出すことができないのです。
人間の理想、願い、希望は何かというと、次のように結論づけることができるでしょう。第一に、神様を私の父として侍ることが大の希望であるというのです。第二に、神様の愛を受ける息子・娘になることであり、第三に、神様が所有しておられるものすべてを相続することです。それ以上大きな人間の願いはあり得ないのです。(祝福家庭と理想天国I-四八〇)
四 復帰の 終目的はアダム家庭を復帰すること
復帰の目標は、アダム家庭復帰にあります。神様は、アダムとエバが堕落するとすぐに救援摂理を始められました。しかし、カインがアベルを殺害し、アダム家庭を中心とした救援摂理は、ノア家庭に移されました。神様は、ノア家庭を中心として、世界のすべての人々を洪水審判で滅亡させ、サタンの侵犯条件を越えた家庭を立て、地上摂理の基盤を構築しようとされました。それが、再びアブラハム、イサク、ヤコブを経て、モーセの時代に移り、イエス様につながれ、私たちの時代まで来たのです。ですから、復帰摂理の終目的は、失ったアダム家庭を捜し立てることです。
今まで、神様は何を捜してこられたのでしょうか。主体を捜してこられたのではありません。理想的な対象を捜してこられたのです。神様を模範として、造られた世界の内外の内容を備えているものを捜してこられたのです。このような結果的な一つの基点は何でしょうか。家庭です。家庭よりも宇宙を代表できる
ものはないのです。
歴史全体が何で帰結されるのかといえば、物質と子女と父母、さらに家庭を基準として帰結されるのです。これが宇宙の根本です。父母がいなくては子女が生まれることができません。父母から生まれた子女が父母を中心として万物を主管しなければなりません。これがすべて一遍に作用されるのです。
結局、神様が六千年の間復帰摂理をされたのは、何を捜し出すためだったのでしょうか。一つの国を捜し出す前に、あるいは民族と教会を捜し出す前に、何を捜し出さなければならないのでしょうか。家庭です。つまり、ご自分の相対を捜し出し、家庭を捜し出すことでした。一つの国が形成されるためには、家庭がなくてはならないのです。ゆえに、全体の根本が何かといえば家庭です。
四百十四
人類の祖先であるアダムの家庭が破壊されたので、これを復帰しなければなりません。イエス様は堕落しなかったアダムとして来られなければなりません。ですから、イエス様は第二のアダムとして来られた方です。人類の初の祖先であるアダムは堕落した祖先となったので、神様は本然のみ旨を立てるために、堕落していない真の祖先としてイエス様を送られたのです。そういう真の祖先を中心に、アダム家庭を捜し出さなければなりません。聖書を見れば、人類始祖が堕落したとなっています。
では、その始祖が堕落する時、一人だけで堕落しましたか、二人が堕落しましたか。(二人とも堕落しました)。それが問題です。堕落したとしても、一人だけで堕落したというなら問題は簡単です。一人だけで堕落したとすれば、神様は創造の神様でいらっしゃるので、もう一度造ることができるのです。
なぜ家庭から出発するのですか。すべての事件が家庭から広がったからです。つまり、アダムとエバの家庭から始まったのです。神様を失ったのも、天使世界を追放したのも、万物世界を失い、人間の価値を失い、人間の愛を失ったのも、すべてアダム家庭で男性と女性が過って出会ったからです。
今日まで宗教団体、特にキリスト教が目標とし、信仰してきた個人の救いは、完成ではなく、第一段階の始まりにすぎない原初的な救いなのです。救いの目標は、家庭の救いを単位とするのですが、その家庭の救いの基盤というのは、世界を指導でき、世界の救いまで責任を負える家庭のことをいうのです。そのような心情圏が確立された家庭を築くことが、信仰生活の高の理想にならなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-四八四)
五 イエス様がなさるべき家庭の復帰
イエス様は、何をしに来られたのでしょうか。家庭を探しにこられました。救いの歴史は、復帰歴史です。病気になれば治さなければならないのです。イエス様は、堕落した人間を救うために来られました。では、救いとは何でしょうか。家庭を失ったので、それをもう一度探し出すことです。もう一度探し出そうとすれば、どうすべきでしょうか。失った本来の場所に帰らなければ探し出すことはできません。
では、どうして人間が家庭を探し出さなければならないのでしょうか。イエス様は、どうして家庭を探しにこなければならないのでしょうか。それは本来の家庭を失ってしまったからです。病気になったので、病気を治さなければなりません。つまり、堕落したので、復帰しなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I-四八四)
神様は、原理・原則に従って運行される方であられるということを知らなければなりません。
アダムを失ったため、サタン世界からもう一度捜してこなければなりません。アダムが過って、夫の役割を遂行できなかったため、アダムはエバを支配し、治めることのできる位置にいたにもかかわらず、エバをサタン世界に奪われました。それで、サタン世界からもう一度捜してこなければならないのです。
四百十五
ですから、エバを再び捜してくるなら、闘わないですむでしょうか。国の基盤から教会の基盤、氏族の基盤、家庭の基盤を神様は準備されました。そうしてヨセフ家庭を立てられ、ザカリヤ家庭を立てられました。それゆえ、ヨセフ家庭のイエス様と、ザカリヤ家庭の洗礼ヨハネが一つになったならば、短い期間に神様のみ旨が成されたはずです。
洗礼ヨハネがイエス様を信じたならば、どうなったでしょうか。また、洗礼ヨハネの妹を、イエス様が新婦に迎えていたならば、どうなっていたでしょうか。み旨は成就できたはずです。こう言えば、キリスト教徒たちは、すぐさま反対するでしょう?大変なことになったと大騒ぎすることでしょう。しかし、いくら反対してみても・・。皆さんが、今反対していますが、霊界に行ってみれば、レバレンド・ムーンがうそを言わなかったことが分かるはずです。
元来、アダムとエバが、実体の父母として一体となり、神様の創造理想である家庭の完成、すなわち愛の家庭理想を完成しなければなりませんでした。ところが、これができなかったので、それを完成させるために、イエス様が来られなければならなかったのです。そして、イエス様が来られ、新郎の位置で新婦を迎えなければならなかったのです。そうして、神様の愛と一つとなり、エデンの園で堕落せず完成できた本然のアダムの位置を復帰し、その愛で結ばれれば、誰も二度とは堕落させることができないのです。
神様のみ旨が何かと言えば、男性完成の基準と女性完成の基準を立てておき、アダムとエバが神様の愛を中心として、神様の家庭を築くことでした。ところが、神様の家庭は築かれましたか。神様の家庭は築かれませんでした。イエス様はこのような神様のみ旨を知っておられたし、また信じました。しかし、ユダヤ民族の不信で、イエス様のためのイスラエル民族の四千年歴史の基盤とユダヤ教が崩れ、イエス様は十字架で惨めに亡くなられました。
このような胸が詰まるイエス様の事情を今まで誰が知っていましたか。誰も知りませんでした。今日、この文という人が、このような話をしてあげるので皆さんが知るようになったのです。これが事実ならば、イエス様がどれほど喜んでおられるでしょうか。新郎になられたイエス様が、新婦になられる真の母を探し立てなければ、神様の家庭完成は不可能です。イエス様の家庭が築かれない限り、神様のみ旨は永遠に成されないのです。
神様を中心とした家庭を復帰できなければ、国も探し出せないし、世界も探し出せないので、イエス様も、この地に来て、神様が愛する家庭を築こうとされました。ですから、一人の新郎として、新婦を探し出さなければなりません。一人の男性を中心として、真の父母も現れ、真の夫婦も現れ、真の兄弟も現れることができるので、これを決定的に成すと預言したのが、小羊の婚宴の時に新郎・新婦を迎えようというのです。(祝福家庭と理想天国I-四九〇)
六 再臨主を中心とした家庭の復帰
四百十六
復帰の家庭とはどのような家庭でしょうか。歴史的な願いの実体です。神様は、今まで六千年の間、この一つの家庭を探し出すために摂理されました。この歴史的な願いの実体は、どこで築かれなければならないでしょうか。とりもなおさず、この現世の、現実社会で築かれなければなりません。未来に築かれてはなりません。これが歴史的な願いの基準であり、現世万民の願いの基準です。人類の過去、現在、未来の願いの基準です。人間として生まれ、行き来した数多くの聖人、賢哲たちも、この家庭を慕いました。
再び来られる主が、新婦を迎えることによって、初めて復帰の家庭という言葉が現れます。再び探し出さなければならない復帰の家庭、それは人類が願う家庭です。六千年の歴史の中で、信じて現れた数多くの宗教指導者たちが、数多い怨讐の執権者たちや為政者たちに犠牲にされながらも、懇切に願ったのは、主が来られ、自分たちの恨みと怨讐に報いてもらうことでした。
しかし、彼らの怨讐を討つにしても、主お一人ではできません。一人でできるのであれば、既にやったでしょう。ですから、天の家庭が現れなければなりません。天の家庭が編成され、地上に新しい足場を築くのです。そうして、心情のダイナマイトをもって、サタン世界を爆破しなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-四九四)
復帰の家庭といいますが、その復帰された家庭の中心に誰がなるのでしょうか。神様がお捜しになる真なる息子・娘によって築かれた一つの家庭が、神様の創造目的ですから、その家庭の中心は、神様の本当の息子・娘でなければなりません。では誰でしょうか。この宇宙を相続できる全権をもってこられるお方です。その方が再臨主です。その再臨主が来られて、家庭を築かなければならないのです。今日、私たちの恨みは何でしょうか。アダムとエバがエデンの園で真の父母として真の家庭を築き、歴史を出発できなかったことです。
これは人類の恨みである前に神様の恨みです。神様が人間をお造りになった目的は、そのような家庭を立て、この地上に平和の王国を創建することでした。それにもかかわらず、その家庭が壊れることによって、神様は六千年という長い歳月の間、恨みを抱き、復帰の歴史を繰り返してこられたのです。その過程で、数多くの恨みの峠を限りなく踏み越え、今までの歴史を築いてこられたのを、皆さんは知らなければなりません。そのような歴史に責任を負い、解決するために来られる方が、再臨主です。では再臨主は何をしなければならないのでしょうか。家庭を築かなければなりません。家庭を築くのも、空中でではなく、地上で築かなければなりません。そうしてこそ、そこから氏族が現れ、民族が現れ、国家が現れ、世界が現れるのです。
来られるイエス様は、必ず神様が願われる家庭を立てなければなりませんが、その家庭は真の家庭でなければなりません。今まで人類は、真の愛を追求してきました。いずれにせよ偽りの愛の形態は、家庭や社会をだめにするのです。ですから、万民が共有できる神様の愛を中心とした、人類全体が願う大の愛を中心とした、一つの真の家庭が出現しなければなりません。
四百十七
そのような家庭が現れなければ、氏族を編成することができないのであり、そのような民族が現れなければ、国家や世界を築くことはできないのです。それゆえ、神様が人類の前に提示された救いの摂理で、人間が対し得る高の基準と、神様として願われる 高の理想的基準点は、家庭にあると見るのです。(祝福家庭と理想天国I-四九四)
七 統一教会は本然の真の家庭を探すためにある
歴史時代のすべての宗教は、今まで何をしてきたのでしょうか。今まで、男性一人を再び探してきたのです。今までの宗教は、相対の因縁を許しませんでした。新しいものを許しませんでした。そのように進んでいけば滅びるようになります。けれども、一人を探してくる歴史時代において、男性を見つけ出したということのできる基準まで行くようになれば、そのあとには女性を探し出さなければなりません。ゆえに統一教会は何をする所かと言えば、家庭を探し出す教会です。
今までの宗教の目的は、個人を教うことでした。しかし統一教会は、個人の救いよりも家庭の救いを目的としているのです。救うのも家庭を救い、天国に行くのも、一人では行かないというのです。統一教会の救援観は、夫は天国に送り、妻は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというのです。また、お母さんお父さんを地獄に送るのではなく、お母さんお父さんに侍り、また息子・娘も連れて天国に行こうというのです。統一教会は、自分が愛する家庭、自分が愛する氏族までみんな連れて天国に行くことのできる道理を教えてくれる宗教なので、他の宗教とは次元が違うのです。 ですから、今までの宗教は、独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は世界のための家庭であり、神様のための家庭です。これが、統一教会の信徒たちが行くべき道であり、今後、皆さんが生活していくべき道であることをはっきりと知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-四八五)
法を超越し、制度を超越し、環境のすべての背景を超越し、自分も超越し、永遠に共にいたい因縁を結ぼうというのが父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛なのです。
これを無視した社会制度はあり得ないし、これを無視した国家は形成され得ないのです。ですから、統一教会は個人教会を願うのではなく、家庭教会を願うのです。統一教会は、個人の救いを願うのではなく、家庭の救いを成就しようというのです。統一教会はこの点が違います。
四百十八
すべての人間たちが、後にもつべき共同的な目標であり、行くべき共同的な関門は何でしょうか。国でもないし、世界でもありません。共産主義世界でもなく、民主主義世界でもありません。共産主義世界がある前に、本然の家庭がなければなりません。また、民主主義世界がある前に、民主主義世界を創建できる、本然の家庭がなければなりません。それでは、今までここに対する秩序がどこにあり、ここに対する教育がどこにあり、ここに対する目的、基準がどこにあったでしょうか。このような決定的基準が、この地上に現れなかったというのです。これが現れる前には、平和の王国、平和の理想国家、平和の国はあり得ないのです。
ですから、私たちが願うのは、このような理想的家庭、本然の家庭、生きるべき家庭、出会うべき家庭、探し出すべき家庭が、この地球上に必ず現れ、人類歴史と共に、運命を共にできる一時が来ることです。そうしてこそ、地上に対する神様の摂理が成就されるのであり、安息の福地、安息の巣が出発するというのです。(祝福家庭と理想天国I-四八八)
私たち統一食口の願いは何でしょうか。復帰の家庭になることです。私たちの願いもここにあり、アメリカの平和の起源もここにあり、天上天下の幸福の基点もここにあり、一つの摂理の基点もここにあります。天と地がひっくり返る天地開闢の基点もここにあり、すべての人生の価値の根源もここにあり、願いの出発もここにあります。すべてここです。では、復帰家庭の中心は誰でしょうか。真の祖先です。真の祖先は、真の父母です。(祝福家庭と理想天国I-四九六)
八 真の家庭主義と真の父母宗教
堕落した父母の因縁で、神様から離脱した伝統を受け、この世界がこのありさまになりました。ですから、真の父母が来られて、新しい主義を立てなければなりません。それはどのような主義でしょうか。世界主義でしょうか。天宙主義でしょうか。真の家庭主義です。真の家庭主義が現れなければ、世界主義が現れ得ません。 この真の家庭主義の代表者は、神様の真の息子でなければなりません。彼は、神様の心情的なすべてのことを相続する内情的相続者であり、外形的相続者、そして万物所有権の相続者にならなければなりません。言い換えれば、神様の心を相続できるお方であり、体を相続できるお方であり、万物を相続できるお方でなければならないのです。そのような息子であってこそ、神様の代身者になれるのです。
その息子が来られてこそ、初めて天国が築かれるようになります。真の家庭主義とは、どのような主義ですか。真の家庭主義とは、神様の愛の主義です。筒単でしょう。愛がなければ、いくら世界一だと腹を出して歩いても、その人は不幸な人です。そうですか、そうではないですか。真の家庭主義は、父母が行けば、息子・娘は父母の後を永遠についていく主義、また、兄さんが行けば、弟が永遠についていく主義、弟が行けば、兄さんが永遠についていき、兄さんの国があれば弟の国もついて行こうというのです。(祝福家庭と理想天国I-五〇一)
神様の愛の主義は、どのような主義でしょうか。国境を超越し、このすべての平面的な世界を超越し、互いに授け受ける場合において、互いがまず与えよう、受けることは後にしようとする主義です。そのような主義の世界が、今後来る理想世界です。
四百十九
理想世界は何か大きな権勢をもって「この野郎」と怒鳴りつける世界ではありません。理想世界というのは、自動的に心が動いて神様の愛に和することができる、万民兄弟主義の世界です。今後、そのような世界になるでしょう。これからは家庭救世主の宗教が現れなければなりません。それが真の父母主義です。真の父母の宗教です。
真の父母の宗教というのは、四位基台を成す真の父母の生活宗教です。そうなれば、お父さん、お母さんがその家庭の息子・娘の救世主になるのです。
皆さんが、黙示録の一番後ろを見れば、復帰歴史が出ています。ですから聖書は偉大だというのです。このような復帰の原則があったので、聖書の終章に復帰の内容を入れるようになったのです。ヨハネの黙示録第二十二章十七節を見ると、「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」と記録されていますが、花嫁、御霊が何であるか分かりますか。
花嫁は、主の妻になるのであり、御霊は霊的なものなので、ここから霊肉が合わさった母が現れなければならないのです。イエス様は人類の父として、男性なので女性の中から母を探し出し、新しい世界へと救わなければなりません。これを、キリスト教徒たちは知りません。教えてあげるといっても嫌だといい、かえって異端だというのだからあきれるでしょう。(祝福家庭と理想天国I-五〇二)
天宙主義とは何でしょうか。家庭についていえば、「私」が住んでいる家庭に、金銀財宝が天下をぎっしり埋めても余るほどあるといっても、そこに酔って生きるのではなく、それを忘れ、いつでも神様の愛に酔って生きられる、そのような家庭です。
息子のものは父母のものであり、父母のものは神様のものとして、そっくりつなぐことができなければなりません。天宙主義とは、どのような主義でしょうか。真の父母主義です。結局、この二つの主義は父母の主義です。これはわが家主義であり、わが国主義であり、皆さん個人の主義です。(祝福家庭と理想天
国I-五〇三)
第十一章 家庭は永遠の幸福の土台
一 家庭はなぜいいのか
家庭はなぜいいのですか。家庭では、愛を互いに授けて受けることが自然にできる基盤になっており、栄えることができるからです。それゆえ、人は自分の故郷がなつかしく、父母と兄弟がいる所を恋しがるのです。(三八-二三八)
家庭はいい所です。なぜいいのでしょうか。お母さんとお父さんがいていい所であり、お姉さんとお兄さんがいていい所であり、弟と妹がいていい所であり、親戚がいていい所です。ですから人間なら誰でも本郷の地、故郷に対してなつかしい郷愁の心情をもっているのです。国よりも故郷をもっと考えます。大韓民国に住みながらも懐かしい所は故郷です。(二三-一五一)
皆さん!家庭がなぜいいのですか。それは父母の愛を中心として自由運動の価値になるからです。同じように神様が自由に活動で
四百二十
きなければなりません。どんなに見た目にはみすぼらしくても、光る愛の核をもった内的な人間が成し遂げた社会になれば、神様は自由です。皆さん、そうではありませんか。どの家でもお客様として行けばお金持ちのようでしょう。なぜそうですか。それは愛の因縁がないからです。愛の因縁が四方性を備えられないので、ぎごちないのです。ですから、私たちが行くべき道は人格の道です。
一つの家庭を中心として、一番いいものは何かというとき、一番いいものは皆さん自身で決定することではないのです。それでは、家庭の上の価値は何でしょうか。父母です。皆さん一個人を見ても、皆さんにとってあらゆる権力や知識、または名誉やお金が貴重なものになるかもしれませんが、そのあらゆるものよりも、もっとも大切なものは「父母」以外にはないのです。次には、皆さんの妻や夫になるでしょうし、また次には、皆さんの子女になるでしょう。
事実、皆さんの家庭で皆さんの父母や妻、そして子女たちよりもさらに大切にしているものがありますか。ないのです。では、なぜ父母がいいのでしょうか。そして、また夫と妻、そして子女がなぜいいものになるのでしょうか。「愛」があるからです。父母の愛、これは子供にとって絶対に必要なものです。そして兄弟間の友愛などや、子女が父母に対してもつ真心も一つの家庭に絶対的に必要なのです。(二二-二九〇)
皆さん、家で一番いい人は誰ですか。父母でしょう?なぜ父母が一番いいのですか。愛を中心として、一生涯関係を結ぶことのできる も近い立場にいるからです。その次は、愛する夫と妻になるでしょう。その夫と妻の愛は、ある条件的な愛ではなく無条件的な愛、この愛は、たとえ絶対的に天が下さった永遠の愛と密接な関係ではなくとも、夫婦間の相対的関係から結ばれる愛になるならば、その愛がその家庭に幸福と和睦をもってくるも、よいものではないだろうかとみるのです。
その次は、父母に対する子供の愛、父母のための子供の愛です。絶望ではなく、あすの望みとして芽生えることのできる理想的な環境を慕いながら、肯定的な姿勢で子供が父母のために犠牲になり、愛することができるなら、その子供の愛は、その家庭の幸福のための純粋で真実な価値としての愛となるでしょう。
このように父母の真の愛と夫婦の真の愛、そして子女の真の愛が完璧に具備された家庭があるなら、その家庭は私たち人間世界の中で、も理想的な家庭だと言わざるを得ないでしょう。(祝福家庭と理想天国I-九一四)
二 家庭は永遠なる幸福の基盤
四百二十一
人間の生活で、ある人を幸せな人だというとき、何を基準として幸福といいますか。外的にある能力、権勢、権威を備えたなら、幸福な人だということができますか。そういうことはあり得ません。また、他人がうらやましいくらいお金があったとすれば幸福な人ですか。そうではありません。また世界的な知識をもっていて、世界を思うがままにできる位置にいるとして、彼が幸福な人になることができますか。決してそれだけで人が幸福なのではありません。(二三-一一)
ある人がこれくらいなら天上天下にうらやむものはないといって、幸福をうたうとしても、そのような外的なものは幸福になり得ません。幸福を見いだす条件にはなり得ますが、幸福それ自体にはなり得ないのです。それでは何が決定すれば、幸福を感じることができるでしょうか。愛する父母がいて、夫婦がいて、子女がいなければなりません。これはどこの誰も否定できません。ここにその一つだけでもなければそこに該当する比例的な悲しみを感じるでしょうし、比例的な不満がその胸の中に残されざるを得ないでしょう。(祝福家庭と理想天国I-九一三)
この地のすべての人間が、幸福の基盤は家庭だと一般的に感じています。家庭には父母がいなければなりません。世の中では父母かいない子供は孤児と呼ばれ、その孤児はかわいそうな人として扱われます。家庭には父母がいると同時に夫婦の因縁があります。父母がいないのもかわいそうなことですが、夫婦で片方がいないのもかわいそうなことです。どんなに愛おしく暮らした夫婦だといっても、愛する配偶者を失うときは、この上なく悲惨で不幸になるのです。それだけでなく、夫婦が子女を身ごもることができなければ、それもやはり不幸でないわけがありません。(三三-一一)
家庭には必ず父母がいて、妻子がいなければなりません。そうしてこそ、その家庭が幸福の土台となるのです。神様が人類を探し求めてきた目的も、神様ご自身の幸福を模索するためであることに間違いありません。それゆえ、神様ご自身が幸福の土台を探し求めるには、人間を離れた場では、そのような理想があり得ないというのです。
人間とともに関係を結んでこそ、その一致点をもたらすことができるのです。私たちが家庭で、情緒的なすべての内容を備えた立場で幸福を感じるのと同様に、神様もやはりそのような立場で幸福を感じられるのです。
幸福はどこから来るのでしょうか。鼻歌を歌いながら迎えることのできる、そのような環境はどこから来るのでしょうか。家庭から来るのです。家庭の幸福は、情緒的に問題があれば成され得ません。また心情、愛がなくても、成され得ないのです。父母の前に子女がいないときには、その父母の幸福はあり得ません。子女に父母かいなくても、子女の喜びはないのです。あるいはある男性がいれば、相対たる女性がいなくてはならないでしょう。女性も同様です。
ある夫婦がいれば、その夫婦の願いは、彼らの主体と対象の関係をおいて、より高い次元で愛を維持することです。そして、夫婦の前には必ず子女がいなければなりません。そうしてこそ一つの家庭が築かれますが、上には父母がいて、下には子女がいなければならず、また夫婦がいなければなりません。このようにして、一つの家庭は縦と横に一つとならなければならないのです。それでは、誰を中心として一つとなるのでしょうか。
四百二十二
人間だけでは不可能です。人間だけでは、より高い価値を追求することができないので、絶対的な愛の主体がいるなら、その主体を中心として、父母は一つとなることを願うでしょう。そこで、夫婦と子女がその主体を中心として愛で一体となった場が、幸福の場であり、望みの場となるでしょう。すべてのことを一つに帰結させ、より価値的で、刺激的な面で統括させなければなりませんが、それは、私たち人間の愛だけではいけないのであり、絶対的な立場でこそ可能なのです。(祝福家庭と理想天国I-九一三)
三 家庭は天国完成の基本単位
私たちの家庭と天国は、類型のようなものです。私たちの家には父母がおり、夫婦がおり、子女がおり、兄弟がいます。私たちの家は愛で一つにすることができます。ここでは統一が成され、生命が連結され、理想を実現させることができます。ですから皆さんは、夫婦の愛を尊重でき、父母の愛を尊重できてこそ、天国に行くことのできる資格者となり得ます。
祖父母は父母の前に愛を相続させてあげています。ここでどの愛を否定しても天国は成されません。自分たち夫婦同士が愛し合う以上にお母さんとお父さんを愛し、自分のお母さんとお父さんを愛する以上におじいさんとおばあさんを愛さなければならないという結論です。これがすべての天国の核心となり、理想的モットーとなるのです。(祝福家庭と理想天国I-九四六)
天国の起点は個人でもなく、国家でもありません。家庭なのです。それゆえ、イエス様は新郎・新婦の因縁を尋ね、この地上に来られるのです。個人が天国の起点ですか。家庭が天国の起点だというのです。家庭は天国完成の基本単位です。天国は一度行ってみれば帰りたくないし、十遍、百遍会っても、また会いたいその方がおられる所です。
万民共通にそこに行きたがり、その方に会いたがり、その方と共に暮らしたがるなら、世界は統一されるでしょう。しかし、それは一度に成されるのではありません。まず個人の基台が立ち、その次に家庭の基台が立ち、その次に民族、国家、世界に伸びていかなければならないのです。(祝福家庭と理想天国I-九四二)
天国はどこにあるのでしょうか。空中からどさっと落ちてくるのではなく、お父さんとお母さん、そして子供の間に授け受ける、その生活的な舞台を育て、またその中にあるすべての被造物を私たちの生活に利用し、私たちの理想の条件に利用する面白み、その面白みを一〇〇パーセント享受することのできる所が天国です。(祝福家庭と理想天国I-九四五)
皆さんの家庭は、天の国の主権を代身した立場であることを知らなければなりません。父母は主権を代身するものであり、子女は国民を代身するものであり、物質はその国の地を代身するものであるため、父母に孝を尽くすことが国に忠を尽くすことであり、父母に孝を尽くすことが聖人の道理を果たす道と通じるのです。今、家庭があらゆる醜態に満ちたものの起源となっていますが、神様は家庭が聖なる土台となることを望んでこられたのです。
四百二十三
人間たちは、必ず家庭をもたなければなりません。家庭を中心として見れば、家庭には父母がおり、子供かおり、物質があります。それでは、旧約時代、新約時代、成約時代においての縦的な歴史全体を、横的に展開させて代身することのできる実体とは何でしょうか。万物と子女と父母です。すなわち、父母と子供と彼らの所有物です。これらは家庭の一つの囲いの中で必要なものです。(祝福家庭と理想天国I-九四三)
神様の愛を中心として二人が一つとなる所でのみ、夫婦天国は成されます。一つとなったものを、その誰も引き離すことができないし、別れたり離れたりする心配がありません。皆さんはどのような愛を求めましたか。神様の愛を求めたなら、皆さんの心と体が完全に一つとなって、神様の愛が臨むことができな
ければなりません。
ですから、夫婦天国が生まれ、家庭天国を成さなければなりません。お母さんとお父さんが完全に一つとなって愛し合うようになり、その息子・娘もお母さんとお父さんのような対象を得てこそ、家庭天国が実現されるのです。父母がプラスとなり、息子・娘がマイナスとなれば、家庭天国となるのです。(祝福家庭と理想天国I-九四三)
四 愛の理想実現は家庭から
愛の理想実現はどこからしなければなりませんか。私たち統一教会からですか。国からですか。世界からですか。世界をどんなに統一したとしても、自分の家庭を統一できない人は不幸な人です。愛の理想実現は家庭からしなければなりません。家庭は幸福のすみかです。それゆえ、天国は家庭から始まるのです。この地上に天国を築こうとして来られたイエス様が「私は新郎であり、あなたがたは新婦である」と語ったのも家庭を標準としたことです。
家庭には誰がいますか。第一に父母がいて、第二には子女がいて、第三には夫婦がいて、その次には兄弟姉妹がいます。では家庭は何で絡み合っていますか。愛によって絡み合っています。ゆえに、家庭は何によって一つにできますか。愛で一つになります。愛は変わらないので、祖父母の愛が一つになり、父母の愛が一つになり、夫婦の愛が一つになれるのです。愛には統一性が介在されるので、おじいさんとおばあさんの生命が連結できるのです。そして、理想がここに連結できるのです。
祖父母は父母に相続してあげるのです。すなわち、子女に相続してあげるのです。祖父母の子女は父母であり、父母の子女は私たちです。このように、愛を中心とした所が天国です。そこであることを否定すれば天国は成されません。神様は愛の主体であられ、過去、現在、未来を統合できるお方なので、自分たち夫婦同士が愛し合う以上に、お母さんとお父さんを愛さなければならないし、自分のお母さんとお父さんを愛する以上に、おばあさんとおじいさんを愛さなければなりません。
四百二十四
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。男性は主体なので、誰かの干渉を受けることを嫌います。女性は愛するよりも、愛されることを好みます。男性は天を象徴し、女性は地を象徴するので、男性と女性が一つになることは宇宙が一つになることです。愛することによってのみ宇宙を主管できるので、愛することによってのみ宇宙の主体になれるのであり、自分の相対を宇宙よりもっと大きいと考えなければなりません。天と地、この二つの世界を連結できるのは変わらない愛です。地上で愛によって育まれた人生を生きた人は天国に行くことができます。愛を中心とした世界を霊界というのです。
神様と人間の個人個人が完全に一つになれば、自動的に男性と女性が一つになるようになり、完全な夫婦が生まれれば天地は統一されるようになっています。神様はどこにいることを願われるのかというと、愛は男性と女性の二人の中から生じるので、真の男性と真の女性が愛し合う所にいることを願われるのです。神様がおられるので、その愛が永遠であり得るし、その愛が永遠の統一を成し得るし、その愛が永遠の生命をもつことができるし、その愛が永遠の理想をもつことができます。
それゆえ、その愛をつかむ者は、すべてのものを占領できます。真の愛を中心として成された家庭の目的は、家庭だけのためではなく、天国を築くためのものです。宇宙が一つになるために、このような目的が一致するよう標準を合わせて、家庭から民族、国家、世界、天宙まで拡大していくのです。そして、世界まで行ったなら再び、帰ってこなければなりません。(四八-一〇)
五 天国は家庭単位で入る所
天国とは何でしょうか。極楽または天堂に行くといいますが、自分一人で行く所ではありません。自分の父母と兄弟が一緒に行かなければならない所が天国です。天国に行く秘訣は何でしょうか。天国は個人だけが入るのではありません。家庭的に入らなければなりません。家庭的に入らなければならないだけではなく、血族を率いて入らなければなりません。この地上で神様の前に多くの血族をもったということは、福を受けるということです。
ある家庭に息子・娘が多く、財物が豊かなら、福を受けた家庭だというでしょう。このように福を受けて、天国に入ろうとすれば、個人が一人で行くのではなく、家庭的に入らなければなりません。天の国には絶対に個人では入れません。先生が探ってみると、天国は今までキリスト教徒たちが信じている、そのような妄想的な所ではありませんでした。
本来、天国は家庭単位で行くようになっている所です。家庭が行くようになっているのです。家庭が行くのです。お父さんとお母さんと息子・娘が共に行って、神様を中心として共に暮らすことのできる所が、理想的な世界なのです。ところで、お父さんは地獄に行き、お母さんは天国に行き、兄姉は地獄に行き、弟妹は天国に行く、そのようになれば、自分は天国に行ったとしても、うれしいでしょうか。天国は家庭として行くのです。家庭が行くのです。(祝福家庭と理想天国I-九四八)
四百二十五
天国とは、人間が堕落しないでこの地上で神様の愛の懐において聖婚をして、神様が好まれる息子・娘、神様が喜び得る孫たちを迎え、神様の愛を受けてその家庭がみんな一緒に入る所です。子供が入ることができなくても、自分だけ入れば天国ですか。しかし、楽園はいくらむつまじい夫婦や父母、子供でも、別れて入る所です。家庭とは何ら関係がありません。そのような所が天堂ですか。
父母に侍り、全家族すべてが入り、神様を中心として授け受けることのできるその世界が天国です。息子が地獄で死ぬと騒いでいるのに、父母は天国で満足に生きればいいのですか。そのような所が天国ですか。
統一教会でいう天国は、一人で入る天国ではなく、家族が一緒に入る天国です。神様の創造理想を見るとき、男性と女性が別れて入る所が天国でしょうか。違います。二人で入る所が天国です。お父さんが入ればお母さんも入り、父母が入れば子供も共に行く所が天国だというのです。お父さんとお母さんが一緒に行ってこそ天国であり、お父さんは天国に行くのにお母さんが地獄に行けば、天国になるでしょうか。(祝福家庭と理想天国I-九四九)
本来、創造原則による天国は、家庭を中心として入る所です。父母が入り、子供が入り、自分の一家全体、一族が入ってこそ幸福なのであり、父母は地獄に行き、子供だけが天国に行くなら、それが何の天国でしょうか。ですから、統一教会がこれから天国に行くことのできる道を立てるためには、家庭的な基準を立てなければなりません。そうでなくては、天国に行くことはできません。家庭を中心として、サタンが讒訴できる基準から脱しなければなりません。歴史的な讒訴基準、時代的な讒訴基準から脱しなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-九五〇)
本来神様は、夫が天国に入り、妻が地獄に入るように創造なさったのではありません。創造当時の理想の主人公たち、すなわち、父母と息子と娘が、氏族を成し、民族を成し、国を成そうというものでした。それでこそ、いいのではないでしょうか。ところが、人間が堕落したために地獄が生じたのです。(祝福家庭と理想天国I-九四九)
六 愛する人が死ぬとなぜ悲しいのか
愛する人が死ぬと、なぜ悲しいのでしょうか。愛する人が死ぬと、それを即時に感じますが、それはこの宇宙に満ちている超人的な力の作用によってです。人は自分にこの力が入ってくれば入ってくるほど、神様との縦的関係を中心として、宇宙的な力を感じるようになるのです。ところで、愛する人が死ぬと、その力が自分から離れるようになります。そして、離れた結果を即時に感じるようになるのです。
これは悲痛なことです。自分が完全な合格品にならなければならないのに、それによって不合格品として決められるのです。私たちの人生は、完成を追求します。ところが、それと反対の不合格の要素をもつときは、そこに比例する要件を宇宙の力が追い出すのです。そうなれば、それが苦痛として現れるのです。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-九〇一)
四百二十六
愛する父母を失ってしまえば、言葉にできない悲痛さを感じてこそ孝子です。父母も子供を失ってしまえば、悲痛さを感じます。夫婦同士も、同様です。私たちの後孫たちも、同様です。これは千年万年変わらないのです。
皆さんの夫や妻が死ぬと悲しいでしょう。
なぜなら、宇宙の原則は父母と夫婦と子女・・。三段階が一つとなって、神様を中心として四位基台を形成するようになっています。この宇宙の原則によって、不合格者は合格圏内から追放されるので、苦痛と悲しみを感じるようになるのです。
皆さん、妻が死ねば、夫がなぜ涙を流すのでしょうか。第三目的である、息子・娘を得ることのできる道がふさがれたからです。それを成すことができなければ、倒れるしかありません。死ぬしかありません。ですから、泣くしかないのです。電気を見れば、陽(十)電気と陰(―)電気がありますが、この二つのうち一つがなくなれば、残りのものも何の作用もできないのです。人が行く道もそれと同様です。(祝福家庭と理想天国I-九〇三)
自分の息子・娘がいなければ、不幸を感じるのです。「息子・娘がいなければ、夫婦だけで仲良く過ごせばいいだろう」と考えるかもしれませんが、そうではありません。天理法度が四位基台原則になっているために、男性と女性が出会って一つとなったなら、必ず息子・娘を生んで、四基位台を成さなければなりません。これが宇宙の公法です。四位基台を成すことができなければ、合格できないのです。
また、息子だけいてもいけません。息子だけいれば、息子に対する愛の味は分かりますが、娘に対する愛の味は分からないからです。皆さん、蜜の味がどうだと、誰かが説明して分かりますか。それは、説明だけではだめなのです。説明する前に、直接口を開けて食べさせてあげてから、これが蜜の味だと教えてあげなければならないのです。
それでは、息子がいなければなぜ寂しく不幸だというのでしょうか。娘だけをもった人は、息子をもった人を見れば、この世でそれ以上望むものはないといいます。西洋の人々は、そのような面で少し鈍いです。彼らは個人主義思想を強調して、そのような感情はすべて失ってしまったのです。失ってしまったために、再び探さなければなりません。ですから、今それを再び探すために、東洋思想に帰ってくるようになるのです。
ですから、夫がいて、妻がいて、息子・娘がいる家庭にならなければならないというのです。そうして、彼らが完全に一つとなって、初めから目的地点まで天運と歩調を合わせていけば、この家庭は永生するのであって、一人では永生できないのです。たとえ永生するとしても、永遠の世界で苦労というふろしきを包んで、行き来するようになります。幸福という要件を受けることができません。(祝福家庭と理想天国I-九〇四)
七 家庭を通して人間が行くべき天道
四百二十七
人間は自分の父母を愛するかのように隣り村の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するかのように隣り村のおじいさんを愛さなければならないし、自分の息子・娘を愛するかのように隣り村の息子・娘を愛さなければなりません。そうすれば上下関係が広がり、左右が広がり、前後関係が広がるのです。それが繰り広げられ、この縦的な心情の基準が築かれ、天道が生じるのです。ですから、それを実践しようというのです。私たち統一教会はそれを実践するために理想的な家庭を建設するのです。そのようになるのです。教会という所は、その縦的な基盤を横的に四方化させることができる所です。その数が多くなるほどいいのです。
なぜ多いといいのですか。家庭時代から氏族圏を越えて、氏族圏から民族圏を越えていくからです。それゆえ、伝道をたくさんするほど天的な基盤が自分を通して繰り広げられるので、神様の前に人格的価値基準が前進するのです。それで、私たちは、この縦的中心で何をしなければなりませんか。これを横的に再現させようというのです。(七〇-一五二)
お父さんとお母さんが一つとなる日には、その家庭は発展し、子供と父母が一つとなる日には、より次元の高い家庭に発展することを知らなければなりません。それでは、家庭と親戚間において一つとなる日には、どのようになるでしょうか。そこには新しい民族の正気が起こるでしょう。それがより高い次元に向かっていこうというときには、環境的に全部結束し、国家基準まで忠臣の血族として残されるようになるということを忘れてはなりません。(祝福家庭と理想天国I-九二一)
もう先生は、遠からずおじいさんになります。皆さんも年を取ると、おばあさんやおじいさんになります。同じです。息子・娘に生まれ、結婚してお母さんやお父さんになり、おばあさんやおじいさんになっていくのが一生です。それゆえ、おばあさんやおじいさん、次にお母さんやお父さん、その次に自分たち夫婦、その次に息子・娘、これが人生の公式的路程なのに、それを愛さなければ天道にはずれるのです。これを根本的にまとめておかなければ世界を収拾する道がありません。
西洋のような所を見ると、おばあさんやおじいさんがかわいそうです。彼らは東洋の風習がどれだけうらやましいか分かりません。「ああ!東洋思想は、おばあさんやおじいさんたちに神様のように作り、七十、八十歳の老人のすべての世話を息子がするのだから、それがどれだけいいだろうか」そう思っているのです。
それゆえ、おばあさんやおじいさんを愛することが分からない人は、神様を愛することができないのです。一番、年を取ったおじいさんは誰でしょうか。そのお方は神様だというのです。おじいさんよりも、お年寄りの方が神様であり、子供よりも若い方が神様なので、すべての人を愛さなければ神様を愛することができないのです。
四百二十八
それゆえ神様が年を取っておられるとすれば、一番、年を取っておられる方ですし、未来に対する青春ならば、誰よりも青春です。その方を私が愛するために、その中にいるどんな人類も私が愛さなければならないし、歴史の時代に霊界に行った方たちも、その圏内で今、希望を求めて生きようとしているので、その方たちまでも愛すべきであり、神様に従って愛することのできる道を求めていくというのが理論的です。(七〇-一五二)
八 統一教会は家庭天国を築こうとするもの
私が今、教会をつくらないのは、すべて考えがあってのことです。教会にたくさんの人が必要なのではないからです。天国は教会から成されるのではなく、家庭から始まるのです。家庭、すなわち新郎・新婦から始まるのです。女性は男性に巡り会うために生まれ、男性は女性に巡り会うために生まれました。
赤ん坊が眠りから覚め、初めて目を開けながら呼ぶのが、「お母さん」です。赤ん坊がお母さんを呼ぶ以上に、夫は妻を呼ばなければなりません。このように呼んでみなかった人は、かわいそうな人です。また、妻も夫以上にそう呼ばなければなりません。互いがそうできる夫婦として対さなければならないのです。
琴瑟之楽(=夫婦仲がとてもよいこと)の夫婦として、互いにそのように呼び合いながら暮らさなければならないというのです。そのように千年万年暮らせば、老いても青春がうらやましくないというのです。(祝福家庭と理想天国I-九四四)
男性と女性はみ言の時代を経て、実体の時代を経たのちに初めて、相逢うひと日が成されるのです。そして、相逢うひと日が成されたのちに初めて、天国生活をすることができるのです。相逢うひと日には、彼の心が「私」の心であり、彼の心情が「私」の心情であり、彼の姿が「私」の姿であり、彼の困難が「私」の困難であり、彼の傷が「私」の傷として感じられ得る境地にまで入らなければなりません。
そのような境地に入って、彼の心情も「私」の心情となってこそ、天国家庭が成されるのです。これがこの地上で完結されてこそ、天国家庭が生まれるのです。
真の愛とは何でしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。愛は互いが犠牲になる伝統を備えなければ、長くは持続できず、壊れる定めです。父母が子供のために犠牲になるがゆえに、父母が子供を愛する因縁は壊れないのです。そして、真なる父母の愛を受けて育った息子・娘なら、自分の父母に絶対に不孝をすることができないのです。
また、夫は妻に、妻は夫に対して「あなたは私のために生きた」という立場で、互いが与え合い、一層犠牲になる立場が広がるようになるとき、その家庭には福が訪ねてくるのです。そのような家庭が、神様が訪ねてこられる福地なのです。
天国生活はどこから始まるでしょうか。家庭からです。ほかの所から始まるのではありません。天国は家庭を立体的に拡大させただけであり、家庭圏を外れたものではないのです。それゆえ、皆さんが自分の妻や夫を抱くときに、これは世界の男性と女性が一つとなるのだという考えをもたなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立てることのできる場が、まさにこの家庭です。
四百二十九
今、先生は家庭に対する規範、天国家庭としてもつべき生活に対する規範を教えてあげなければならないということを感じています。わが統一教会の組織は、家庭組織です。家庭を主とするのです。これからは、わが統一教会で礼拝を捧げるのも、説教形式ではなく、報告形式でしなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇ることのできるものでなければなりません。
ですから、家庭全体が来て、礼拝を捧げなければならないのです。そうしながら、立派な家庭を見ては倣い、劣った家庭を見たならば、うまくいくように導いてあげなければならないのです。そうして、家庭天国を建設しようというのです。家庭天国を先に成せなければ、地上天国は成されないということを、はっきりと知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-九四五)
第十二章 真の家庭を求めて
一 、自己のために生じたものは一つもない
どこに個人主義がありますか。自己において自己だけを主張する部分は一つもありません。子供が父母の愛によって母親のおなかの中で、卵子から育って生まれるとき、九九・九九九パーセントは母親の骨と血と肉です。そして○・○○一パーセントの一つの父親の精子が合わさって生まれるのです。そこには自己という概念はあり得ません。
誰でも生まれるとき、自分自身だけという概念はなかったのです。いかに立派な人であっても、自分一人で立派に生まれついたといえる人は一人もいません。骨や血や肉もすべて母親のおなかの中で譲り受けたものです。この体の重要な部分は、母親の体の延長という事実を認めなければなりません。私たちの体のあらゆる要素は、卵子と精子に含まれていたのです。例外はありません。ですから、個人主義というものが存在する根拠がないのです。
上という言葉が成り立つときは、下を認めたうえでいう言葉です。上ということだけで、個人主義が成り立つでしょうか。個人だけという概念はあり得ません。右というのは、左というものをあらかじめ前提としたうえでいう言葉です。前後について見ても、前というのは後ろを前もって認定していう言葉です。男性という言葉も、男性一人を念頭に置いていう言葉ではありません。女性を前提条件にしていう言葉なのです。これは、誰か一個人の言葉なのではなく、宇宙的な事実です。
男性はなぜ生まれたのでしょうか。男性たちは自分一人で生きていけるので、そのようなことに関心がないなどとよく言いますが、男性は女性のために生まれたのです。女性がいなければ、男性は必要ありません。絶対的に必要ないのです。結局、自分のために生まれたものは、一つもないのです。
430 * 四百三十
私たちの五官を見てください。自分の目が、自分の目を見るために生まれたのでしょうか。鼻や耳、口、手もすべて相対のために生まれました。五宮を総動員して、集中させることのできるその力が何かといえば、真の愛です。目、鼻、耳、口、手は、真の愛のために生まれた真の愛の道具です。自分のために生まれたものは一つもありません。
反面、人のものを自分のものにする人を泥棒といいます。人のものを持ってきて、自分のものとして使う人は泥棒ではないでしょうか。ですから女性のために生まれた男性の五官と体を、自分勝手に使う人は泥棒なのです。
男性と女性は、何が互いに異なるのでしょうか。生殖器を含んだ体が異なります。では、男性の生殖器は、誰にとって絶対に必要なのでしょうか。男性の生殖器は、女性のためにあるのです。人間の生殖器の一つは凹であり、一つは凸ですが、なぜそのようになったのでしょうか。二つとも、とがらせるとか、二つとも平べったくすることができるのに、なぜそのように異なって生まれたのでしょうか。すべて、相対のためです。
男性のものは、女性が絶対に願い、女性のものは、男性が絶対に願います。女性のものは、絶対に男性のものであり、男性のものは絶対に女性のものだという事実を知らなかったのです。それを占領することによって、愛を完全に知るのです。
二つが一つになるような経験を通してのみ、高の高い境地の愛を知ることができるのです。どこの誰であれ、このような事実を絶対に否定することはできません。誰でもみな、認定しなければならないのです。二つが完全に一つになるその場で、理想的な夫婦が生まれます。まさに、その場に絶対愛が存在するのです。絶対的に変わらないそのような愛の場に、神様が臨在されるのです。(祝福家庭と理想天国I-六二)
二 神様が臨在できる至聖所
神様の属性とは何ですか。神様は絶対的であり、唯一であられる方であり、永遠不変な方です。では愛の主人は誰でしょか。男性でもなく女性でもありません。そのお方が、まさに神様であります。愛を中心として愛を通してのみ、神様と人間が一つになるのです。なぜなら、神様でも人間でも愛が絶対に必要だからです。
神様が必要とする愛はどのような愛でしょうか。神様は絶対的な愛を願われます。皆さんはどうですか。私たちも同じです。神様が絶対的な愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とするのです。みな、神様に似なければならないのです。
神様の至聖所はどこでしょうか。愛が宿る堕落以前の男女の性です。ここが天の至聖所です。愛とは何でしょうか。愛とは神様が臨在できる至聖所です。愛を通して、堕落した世の中をきれいに掃除しなければなりません。堕落とは、人間が思春期を正しく送らなければならないのにその時期を正しく過ごせず、脱線したことを意味するということを既に明らかにしました。
四百三十一
人間始祖エバがまず天使長と霊的に不倫の関係を結ぶことによって堕落し、それからエバがアダムと肉的な関係を結んで肉的に堕落したのです。それゆえ、彼らの罪の血統が後世の人間たちにまで遺伝してきているのです。
サタンの痕跡が残っている所には、神様が絶対に臨在され得ないという事実を知らなければなりません。人間が神様の愛を受けるためには、死んでも再び生きなければなりません。人間社会でも、二度目に結婚した時、前の夫が忘れられない妻を、新しい夫が好きになれるはずがないではないですか。それゆえに神様も蕩減復帰を通して人間たちが罪を清算するようにさせながら、救援摂理をしてこられたのです。
愛の色はどんな色だと思いますか。夜には黒く、昼には白く、夕方ごろならば黄色だと思いますか。愛の色はどんな色だと思いますか。愛の中心の色には、平和と統一そして人類の平等思想を成就できる力があります。ですから愛の至聖所にむやみに入っていこうとすれば焼け死んでしまうのです。統一教会の愛の理念は素晴らしいと思いませんか。
今日の米国社会における愛の色は、一言で言えばおぞましい死の色です。男女間の愛を通して永遠なる創造理想の世界を築くのではなく、死のどん底に落ちています。祝福を受けるまで、男女は愛の至聖所を清潔に守らなければならないし、一度愛すれば守り続けていかなければならないのに、米国人たちは愛の至聖所を侵犯する悪党たちであり、悪女たちなのです。
結婚を祝福として受け入れない米国の男女は、愛の目が遠くて、前を見ることができない患者たちばかりです。米国社会がこのまま行けば、明日に対する希望もなく絶望が満ちているばかりです。結局は神様の審判によってではなく、人間性を失った人間たちによって自滅してしまうのが、火を見るよりも明らかなのです。(祝福家庭と理想天国I-三四七)
統一教会は六千年間秘められてきた愛の摂理を知って、神様の愛を中心にして創造理想の完成を成すために、祝福の足場を広げてきたのです。祝福を通して愛の至聖所をつくってきたのです。ここから生命が新しく生まれ出ることを知らなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-三四六)
三 男性の主人は女性であり、女性の主人は男性
主体と対象、すなわち陽性と陰性が一つになるとき、何を中心として一つになるのでしょうか。キスすることによってでしょうか。愛は概念であって実在ではありません。愛が定着することのできる実在は何でしょうか。男性が男性になり、女性が女性になるようにするものが何であるかを知らなかったというのです。それがまさしく生殖器です。
それを卑しく思う人かいますか。貴く思うとすれば、どのくらい貴く思うでしょうか。今までは、それが善くないものと考えたとしても、今からは貴く思わなければなりません。
四百三十二
未来の世界はどのような世界でしょうか。生殖器を絶対的に貴く思う世界になるなら、その世界が善い世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。冗談でいっているのではありません。神様が人間を創造なさる時、も重要視して、精魂を込めてお造りになった所とはどこでしょうか。目ですか、鼻ですか、心臓ですか。そうでなければ頭脳でしょうか。これらは全部、死んでなくなってしまうのです。実際、そうではないでしょうか。
「世界平和統一家庭連合」の目的とは何でしょうか。道徳と宗教、すべての分野を完全に超越し、生殖器が一つとなって、神様までも拍手で歓迎することのできる人が暮らす世界があるなら、どのような世の中になるでしょうか。男性と女性として生まれるのですが、彼らの生殖器の主人は誰なのでしょうか。
夫の生殖器の主人は妻であり、妻のものの主人は夫です。生殖器の主人が互いに取り替えられていることを知りませんでした。これは明快な真理です。これを否定できないというのです。千年、万年、歴史がいくら流れても、この真理は変わりません。あらゆる男性たちは、それが自分のものだと考え、またあらゆる女性たちも、それが自分たちの所有だと考えたために、世の中がこのように滅びつつあるのです。互いが主人を間違えているという話です。
すべての人々は、愛は絶対的であり、永遠なるものだといいながら、夢のようなものだけ考えていますが、その永遠の愛の主人がひっくり返っているということをはっきりと知るなら、世の中がこれほどまでにはならなかったはずです。 博士や学者は数多くいますが、これ一つ考え抜いた人かいないのです。さあ、皆さんはこの真理を否定できますか。皆さんの父母、祖父母、曾祖父母、そして人類の先祖たるお方と、さらには宇宙の根本であられる神様に尋ねても、すべてこれに同意するようになっているのです。これが鉄則です。
この真理こそ、宇宙が億万年過ぎても原理・原則として残る鉄則です。そして、神様の前に出ていけば、この鉄則によって、正しい人と間違った人の判定を受けるようになるのは当然です。アダムとエバの堕落を知ってみれば、まさにこの鉄則に背いたところに由来しているのです。
アダムとエバは、自分たちの生殖器が自分たちの所有だと錯覚したのです。問題を誤って、宇宙のどこからも公認を受けられなくなったので、追放されてしまったのです。
鉱物界や植物界や動物界の雄と雌もすべて、愛の相対のために自分の生殖器を保管しているということを、アダムとエバが知らなかったのです。
では、生殖器は何のために存在するのでしょうか。それは愛のためです。愛を探すためにそのように男性と女性として生まれたというのです。
四百三十三
すべての男女が自分たちに所属した生殖器が、実は、自分のものではなく、主人が自分の相対だということを認定するようになれば、私たちすべては頭を下げ、謙虚な姿勢で愛を受け入れるようになることでしょう。 愛は相対なしには来ないのです。相対から来るということを知らなければなりません。ために生きないところには、愛があり得ないのです。絶対に為に生きるところで、絶対愛を見いだせるということを肝に銘じてください。(祝福家庭と理想天国I-五三)
四 愛には発展も革命もない
愛には発展もなく、どんな革命もあり得ません。愛は原型そのままで完全なものであり、不変で永遠で絶対的なものです。
愛は発展もなく革命もないのです。愛が永遠で完全なことは、永久不変の真理です。ところで愛が発展すると考えて試験してみようと思えば、それは間違った考えです。愛を生活の手段として考える米国は、そのような意味から滅亡するしかないのです。
神様はそのような米国の未来を祝福してくださるはずがなく、米国自らが滅びなければ先生が愛の爆弾を爆発させてでも滅ぼすのです。はっきりしていることは、愛が生活の一つの方便や手段に利用されては絶対にだめだということです。(祝福家庭と理想天国I-三五一)
夫は妻に対して、初めて愛した姿から、どんな革命や発展も望みません。それは女性が夫に対して願う望みでもあるのです。初めて愛を出発させたその純粋な姿を保つよう願うのは、夫や妻、みんなの願いであることをはっきりと知らなければなりません。純粋な愛に、ある色が加味されることを願わなければ、革命を必要としないのです。純粋な愛、それ自体が永遠に保存されるのを願うということを知ってください。
愛する人の間になぜ離婚という問題が生じるのでしょうか。離婚した人や、離婚をしようとする人たちすべてが、初は生死をかけた愛の関係だったことを考えてみると、何かが間違っているのです。離婚をするようになった理由はいろいろありますが、結局何かが変わってしまい、二人の間が変化したことを意味するのです。彼らは愛を守り、育てることができなかったので、そのようになったのです。愛それ自体は変わりませんが、人の心は変わるのです。(祝福家庭と理想天国I-三五二)
ある男女が夫婦となれば、「お前と私」の間に不変的な統一をどのようにして築くかが重要です。そのように一つになった立場で幸福をうたうようになるとき、それは永遠なる幸福といえるのです。理想的な愛情も、やはり変化しない主体的な何かをもっている所にだけ、そのような基準が設定されるのです。
結婚するときはその男性が美男子だといって愛していたのに、一週間過ぎたのちに事故が起こり、体が不自由になった場合、離婚しようとなっては真の愛とはいえません。偽物の愛です。
四百三十四
今日、先進国家の白人たちは世界を主導して動かす高い地位にあり、黒人たちは大部分が被支配者として低い地位にあります。しかし父母が子供を愛する場合は、その濃度において白人と黒人の差はないのです。誰かが誰かの支配を受けることはないのです。またそれは、永遠に変わることがありません。
父母が子供を愛する心、妻が夫を愛する心、夫が妻を愛する心、真に愛し合う人たち同士の愛する心は、歴史がいくら変動し、発展し、革命の過程を経ていったとしても変わり得ないのです。(祝福家庭と理想天国I-三五一)
五 女性は貞節、男性は志操
皆さんは今、思いのままに愛することができるようになっていますか、なっていませんか。道で男性からふいに声をかけられて、ついて行くようになっていますか、なっていませんか。(ついて行きません)。皆さんは、ついて行くようになっているでしょう。そのような素質をもっていてはいけません。
皆さんは時が来るまで、自分の体をよく守らなければなりません。純情を化け物のような男性にゆだねてはいけません。街頭で威張りちらして、ぶらぶらして役に立たずにいる男性たちは、全部化け物たちです。自分の運命をそのような男性にゆだねますか。これは簡単な問題ではありません。一生に一度しかないので、一歩踏み違えた場合には自分の人生が狂ってくるのです。そうでしょう。これは男性にもいえるのです。
それゆえに、今までは女性に貞操を守りなさいといいましたが、これからは男性も貞節を守らなければなりません。そうしてこそ復帰されるのではないでしょうか。いくら世の中が悪く、いくら世の中がせち辛くても、皆さんは行くべき正道からはずれる行動をしてはなりません。
青春時代に純情を失ってしまったアダムとエバの恨みを踏み越えて蕩減できる貴い時期である思春期に、純情を汚してはならないのです。その純情をきれいに貴く保存して「千年、万年一人で行っても、愛が蹂躙されることは絶対にあってはならない」という志操と決意をもたなければならないのです。
ある男性たちは自分の妻がいてもきれいな女性を見れば、自分の妻だったらいいのにと思うのです。このように二つの心をもった男性を指して、泥棒の心をもった人と言います。二つの心から始まったものがサタンなので、二つの心をもった男性を指して、サタンだといっても間違いありません。そのような人々がいるならば、その人はサタンにほかなりません。(祝福家庭と理想天国I-三四九)
男性も貞節を守らなければならない時が来ています。男性が貞節を守ることができなければ、その一門がみ旨の前に重罪を犯すようになるのです。大臣だといっても、浮気をしてもいいようになってはいないのです。男性が間違えれば、その一門は滅びるのです。そのような時が来ています。統一思想を知るようになれば、そのようなことはできません。
これからは、男性も貞節を守らなければならない時代です。男性も貞節を守って歴史的な純潔の伝統を残さなければなりません。イエス様の血と肉を食べる儀式は、イエス様の純潔なる血と肉の伝統を立てるためのものです。
四百三十五
女性は貞節、男性は志操(意志)という言葉があります。この言葉はどういう言葉かといえば、み旨(愛)を成就するための貞節であり、目的を果たすための志操なのです。ですから女性は貞節というからには、一つの愛のほかは知らないでこそ成され、男性は志操というからには、一つの目的だけのために精進してこそ成されるのです。
アダムとエバを中心にして見るとき、自分が行く道を知り、志操と貞節を守らなければならなかったのに、守ることができなかったので堕落したのです。男性は神様の愛を中心として女性を愛するときに、「完全に愛した。初めから終わりまで永遠に変わらず愛した」と言うことのできる立場に立たなければなりません。また女性はそのような立場に立つために、自分の身を固く封じなければなりません。
数多くの花びらが幾重にも重なり合っている芍薬の花のように、固く埋めておかなければなりません。そして春という天地の調和に合わせ、そこに和合して新しい人生を出発しなければなりません。これを正しくしなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-三五〇)
六 堕落はフリーセックスの根であり個人主義の祖先
神様はエデンの園にアダムとエバを創造されながら、彼らに生殖器をもつことを共に許されましたが、何のためにそうされたのでしょうか。彼らが成長すれば、神様が彼らを結婚させてくださるでしょうか、させてくださらないでしょうか。問題は彼らの堕落にあります。堕落ゆえに血統が変わったのです。
それゆえ、神様は彼らをエデンの園から追い出されたのです。本来、神様の体となるべきアダムと、神様の婦人格に立つべきエバが堕落することによって、神様ご自身の体と理想を病気にかからせ、怨讐になったので、それをご覧になった神様のご心情がどれほど大変だったでしょうか。堕落は自らを埋葬する墓です。人のものを奪い取っていく行動です。言い換えれば、堕落はフリーセックスの根になり、個人主義の先祖になりました。
今日、アメリカはどのような国ですか。極度の個人主義、分に過ぎる私生活の追求、フリーセックス、このようなことを神様が好まれると思いますか。
極度の個人主義を追求すればどうなるでしょうか。彼らの言うとおりにすれば、天と地、世界、国家、社会、家庭そのうえ、おじいさんやおばあさんまでも、すべてを放り投げてしまい、父母と兄弟までも失ったまま、ジプシーやヒッピーになって好きなようにさすらいながら雨が降り、雪が降れば、行く所がないので、自殺して一生を終えようという話ではありませんか。
四百三十六
しかし、人間の本心は極度の個人主義やあきれるほどの私生活の保障を願っていません。宇宙と国家、町と村、そして父母の愛を受けながら暮らしたいのが私たちの本心の願いなのです。しかし、そうできない反対の道を行くので良心に火がついて本心との葛藤を感じるようになり、簡単に薬を飲んで自殺することがよいと判断し、自ら首を締める現象がだんだんと増えつつあるのです。「蒔いたとおりに刈り入れる」という真理がとてもよく合うのを目撃するのです。
アダムとエバがエデンの園にどのような種を蒔いたでしょうか。フリーセックスの種、すなわち、節制のない性関係の種を蒔きました。それを否定できますか。そうしたために、彼らは下半身を覆ったのです。幼子たちも父母が隠しておいた大切なお菓子を盗み食いして、見つかれば手や口を隠すのが本性の作用
ではないでしょうか。
もし、善悪の実を取って食べたなら、その取って食べた手や口を覆うべきなのに、なぜ下半身を覆ったのかというのです。堕落は淫乱によって引き起こされたということを否定することができません。
では、どこで天国と地獄が分かれるのか調べてみましょう。空中ですか。どこでしょうか。まさに皆さんの生殖器です!深刻なことです。これが天地をひっくり返しました。この事実を誰が否定できますか。レバレンド・ムーンが発表した原理の本の堕落論に、説明がなされています。疑問に思うならば神様に尋ねてごらんなさい。
皆さんとしては夢にも想像できない内容と理論をもって、体系立てておいたレバレンド・ムーンの原理の本に、誰も反対することはできないのです。生殖器を目がつぶれた盲人のように、方向を失ったまま使用すれば地獄行きであり、反対にこれを神様の絶対愛に基準を合わせて使えば、天国の高い所に行くのです。これは明白な結論です。(祝福家庭と理想天国I-四九)
ですから、絶対純潔(絶対性)は神様を中心としたものであり、フリーセックスは自分とサタンを中心としたものです。歴史的に政治家や経済人たちは、文学作品やメディアを通してフリーセックスを刺激することが多くありました。ですから、今から私たちはみな、政治家や経済人、文人、作家と言論人たちと一つになって先頭に立ち、フリーセックスを防がなければなりません。フリーセックスは、完全になくならなければなりません。(祝福家庭と理想天国I-六三)
七 絶対純潔と真の家庭運動を通した平和世界実現
今、青少年の問題が深刻な問題です。エデンの園でアダムとエバが、青少年期に日陰のもとで淫乱によって堕落して、フリーセックスの種を蒔いたので、取り入れの時期である終わりの日には、必ず世界的に青少年たちのフリーセックスの風潮が蔓延する現象が現れるのです。
終わりの日に神様はサタンが何を願うかをご存じなのです。サタンはフリーセックスを通して、ただの一人も神様の前に帰ることができないように、言い換えれば、全人類を完全にだめにしてしまい地上地獄をつくろうとするのです。
四百三十七
今日、私たちが生きているこの世界が、地上地獄となっていく世界でなくて何でしょうか。したがって、このように地上地獄になったこの世界と一八○度異なる、正反対の道を求めていけば、天国に行く道があるのです。再臨主が来られて、この世の中を救ってくださるのも、まさにこのような一八○度反対の道を教えてくれて、天国に導くということなのです。
それでは、フリーセックスの道と一八○度異なった正反対の道とはどのような道でしょうか。偽りの父母が現れて、つくっておいた道がフリーセックスの道なので、真の父母が現れて、この間違った道を正してあげなければならないのです。神様はそれに干渉なさることはできません。この地の主権や軍事力、経済力、政治力でも手をつけることのできない問題です。
偽りの父母によって引き起こされたことなので、真の父母がメスをもって手術しなければ、決して人類は救われる道がないのです。罪を犯した者がその罪を蕩減しなければならないのです。間違った結婚で家庭を築いて、血統が一八○度ねじれてしまったので、真の父母が来られて、結婚させてあげ、一八○度原状に戻すことによって、天国に行く道を開いてあげるようになるのです。
人間の堕落が愛によって起こったので、人類は真の愛を失ってしまいました。それゆえ、この真の愛をどのようにして取り戻すのかという問題が提起されます。真の愛を失ってしまったというのは、淫乱によって堕落したという意味です。
すなわち、生殖器を中心として過ったので、これを取り戻そうとすれば、その反対に正しく使わなければならないのです。そのように過った愛がエデンの園でなされ、終わりの日にその結果として現れる現象が青少年問題です。それで性の混乱時代が来るのです。
それを清算するためには、絶対純潔でなければだめなのです。このセックスの概念だけが、家庭崩壊を廃止し、青少年の倫落を防ぐことができるのです。
神様がアダムとエバに期待したものとは何だったのでしょうか。絶対純潔愛を期待したのです。絶対純潔愛が存在する所には絶対純潔夫婦が誕生するようになり、自動的にフリーセックス、ホモ、レズビアンという言葉は消えるようになるのです。このような絶対純潔愛を探す運動を世界的に広げるためにレバレンド・ムーンは一生を捧げて、受難の道を克服してきましたし、今は勝利のファンファーレを響かせ、世界に号令をかけ得る時が来たので、天の前に感謝をするのです。
世界平和に向かっていくことのできる礎石を置くのも家庭であり、世界平和への道を破壊し得るのも家庭です。人類の希望と幸福の土台が破壊された所がアダム家庭でした。したがって、きょう、このように世界平和家庭連合を創設し、皆さんの家庭も、今からはサタン世界と一八○度異なる方向に行くことのできる道を開くようになったことを、天の前に感謝せざるを得ません。この道でなくては、自由も幸福も理想もありません。
皆さんは今、絶対純潔、唯二不変、永遠の生殖器を中心として、これを基盤にして、神様を求めていかれるようお願いします。この
四百三十八
基盤が真の愛の基盤、真の生命の基盤、真の血統の基盤、真の良心の基盤にならなければならず、ここから真の家庭が、真の国家が、真の世界に連結することによって、平和世界、理想世界が形成されるでしょう。 どこに行かれても、テレビやその他、言論機関を通してレバレンド・ムーンの話を伝えてみてください。そうすれば絶対に滅びません。地獄になったこの世界を、果たしてどんな力で変えることができるでしょうか。神様の愛、すなわち絶対、唯一、不変、永遠の基準に立って、生きていかなくては不可能なのです。私たちの生殖器の本来の主人は神様であられます。(祝福家庭と理想天国I-五一)
以上 真の家庭(合本版)2000(平成 12)年 2 月
10 日 初版 発行